資料年表:麻生太郎
年月日 |
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1940 |
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0920 |
誕生 |
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2006 |
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1017 |
麻生太郎外相、衆院安全保障委員会で、日本の核保有論議についてタブー視すべきでないとの考えを示す。 |
C |
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2007 |
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0610 |
麻生太郎『とてつもない日本』(新潮新書、新潮社) |
U |
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2008 |
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1105 |
麻生太郎首相、米大統領選で当選したオバマの核軍縮への強い熱意を示したことについて、「そんな簡単ではない」との冷めた見方をしめす。 |
C |
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2009 |
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0413 |
麻生太郎首相、自民党役員会で米国と連携して核廃絶に取り組む意向を伝える親書をオバマ米大統領に送る意向を明らかにする。 |
C |
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0806 |
平成21年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式 |
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あいさつ |
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広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に当たり、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の意を捧げます。今なお、被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心よりお見舞いを申し上げます。
六十四年前の今日、原子爆弾が、この地に投下され、幾万の尊い命が一瞬にして奪われ、多くの方々が傷つきました。美しい「水の都」、広島の街も焦土と化しました。
しかし、戦後の歩みの中で、広島は、市民の皆様とともに、立ち上がり、今や「国際平和文化都市」として、大きく発展をしました。今日までの、広島の奇跡的ともいえる復興と発展に、尽力された皆さま方に心から敬意を表します。
日本は、被爆の苦しみを知る唯一の被爆国であります。広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないためにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの努力を傾けていかなければなりません。
我が国は、これまで十五年間にわたって、国連総会に核廃絶決議を提出してきました。こうした中で、昨今、米露両国は、核兵器の一層の削減を目指して交渉を進めております。G8のサミットでは、先月ラクイラにおいて、初めて、「核兵器のない世界」を宣言し、世界的な核軍縮・不拡散に関する気運の高まりを維持・強化するための力強いメッセージを表明しております。
そして本日、私は、改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立っていくことをお誓い申し上げます。
被爆により、苦しんでおられる方々には、これまで保健、医療並びに福祉にわたる総合的な援護策を講じてまいりました。特に、原爆症の認定につきましては、できる限り多くの方々を認定するとの方針で臨んでおります。昨年四月からは、新たな方針に基づいて、約四千人の方を認定いたしましたが、その後の司法判断を踏まえ、対象を拡大いたしました。
また、昨年、在外被爆者の方々の被爆者健康手帳の取得を容易にするため、改正被爆者援護法が施行されております。今後とも、多くの方々を援護できるよう、引き続き、取り組んでまいります。
結びに、犠牲となられた方々の御冥福と、被爆された方々並びに御遺族の皆様の今後の御多幸、そして広島市の一層の発展を心よりお祈り申し上げ、私のあいさつとさせていただきます。
平成二十一年八月六日
内閣総理大臣 麻生太郎 |
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広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式あいさつ |
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0809 |
長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典あいさつ |
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長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に臨み、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の意を捧げます。今なお、被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心よりお見舞いを申し上げます。
六十四年前、長崎の方々は、この地に投下された原子爆弾によって、筆舌に尽くしがたい苦しみを経験されました。七万ともいわれる尊い生命が、一瞬にして失われました。一命をとりとめた方も、いやすことのできない傷跡を残すこととなられました。今、日本の平和と繁栄を振り返る時に、尊い犠牲があったことを決して忘れることはできません。
日本は、被爆の苦しみを知る唯一の被爆国であります。広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないためにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの努力を傾けていかなければならないと存じます。
我が国は、これまで十五年間にわたって、国連総会に核廃絶決議を提出してきました。こうした中で、昨今、米露両国は、核兵器の一層の削減を目指して交渉を進めております。G8のサミットでは、先月、ラクイラにおいて、初めて、「核兵器のない世界」に言及し、世界的な核軍縮・不拡散に関する気運の高まりを維持・強化するための力強いメッセージを表明をいたしております。
そして、本日、私は、改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向け、国際社会の先頭に立っていくことを、改めてお誓い申し上げます。
被爆により、苦しんでおられる方々には、これまで保健、医療、福祉にわたる総合的な援護策を講じてまいりました。今回、原爆症の集団訴訟につきましては、原告の方々がご高齢でもあられること、また長きにわたり訴訟にたずさわってこられたことなどに鑑み、私は、新たな方針を決断しております。極めて異例な対応でありますが、一審で勝訴した原告の方々について、「国は控訴を取り下げることにより、原爆症と認定すること」を柱とする内容で、先日、合意をいたしました。原告団は、これをもって、集団訴訟を終結させることとなり、こうした合意に至ったことは、誠に喜ばしいことと考えております。
また、原爆症の認定を待っておられる方々に関しては、これまでも、できる限り多くの方々を、認定するとの方針で、臨んでまいりました。昨年四月からは、新たな方針に基づいて、約四千人の方々を認定いたしましたが、その後の司法判断を踏まえ、本年六月にさらに対象を拡大いたしております。今後とも、新たな認定基準に基づき、できる限り迅速な認定に努めてまいりたいと考えております。
また、昨年、在外被爆者の方々の被爆者健康手帳を容易に取得できるよう、改正被爆者援護法が施行されております。今後とも、多くの方々を援護できるように、引き続き、取組みを進めてまいります。
結びに、犠牲となられた方々の御冥福と、被爆された方々並びに御遺族の皆様の今後の御多幸、そして長崎市の一層の発展を心より祈念申し上げ、私のあいさつとさせていただきます。 |
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長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に臨み、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の意を捧げます。今なお、被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心よりお見舞いを申し上げます。
六十四年前、長崎の方々は、この地に投下された原子爆弾によって、筆舌に尽くしがたい苦しみを経験されました。七万ともいわれる尊い生命が、一瞬にして失われました。一命をとりとめた方も、いやすことのできない傷跡を残すこととなられました。今、日本の平和と繁栄を振り返る時に、尊い犠牲があったことを決して忘れることはできません。
日本は、被爆の苦しみを知る唯一の被爆国であります。広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないためにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの努力を傾けていかなければならないと存じます。
我が国は、これまで十五年間にわたって、国連総会に核廃絶決議を提出してきました。こうした中で、昨今、米露両国は、核兵器の一層の削減を目指して交渉を進めております。G8のサミットでは、先月、ラクイラにおいて、初めて、「核兵器のない世界」に言及し、世界的な核軍縮・不拡散に関する気運の高まりを維持・強化するための力強いメッセージを表明をいたしております。
そして、本日、私は、改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向け、国際社会の先頭に立っていくことを、改めてお誓い申し上げます。
被爆により、苦しんでおられる方々には、これまで保健、医療、福祉にわたる総合的な援護策を講じてまいりました。今回、原爆症の集団訴訟につきましては、原告の方々がご高齢でもあられること、また長きにわたり訴訟にたずさわってこられたことなどに鑑み、私は、新たな方針を決断しております。極めて異例な対応でありますが、一審で勝訴した原告の方々について、「国は控訴を取り下げることにより、原爆症と認定すること」を柱とする内容で、先日、合意をいたしました。原告団は、これをもって、集団訴訟を終結させることとなり、こうした合意に至ったことは、誠に喜ばしいことと考えております。
また、原爆症の認定を待っておられる方々に関しては、これまでも、できる限り多くの方々を、認定するとの方針で、臨んでまいりました。昨年四月からは、新たな方針に基づいて、約四千人の方々を認定いたしましたが、その後の司法判断を踏まえ、本年六月にさらに対象を拡大いたしております。今後とも、新たな認定基準に基づき、できる限り迅速な認定に努めてまいりたいと考えております。
また、昨年、在外被爆者の方々の被爆者健康手帳を容易に取得できるよう、改正被爆者援護法が施行されております。今後とも、多くの方々を援護できるように、引き続き、取組みを進めてまいります。
結びに、犠牲となられた方々の御冥福と、被爆された方々並びに御遺族の皆様の今後の御多幸、そして長崎市の一層の発展を心より祈念申し上げ、私のあいさつとさせていただきます。
平成二十一年八月九日 内閣総理大臣 麻生太郎 |
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<作業中> |
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止
『原爆献水 ヒロシマでは平和祈念と環境保全はかさなる』 (広島銘水研究会著、名水バイオ研究所、20100730)
内容
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1 はじめに 2
2 原爆献水とは 4
3 原爆献水の歴史 7
4 宇根さんと原爆献水 10
5 名水とは 12
6 水の汚れ、名水が名水でなくなるとき 14
7 「雨の日3日後名水」 16 |
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8 原爆献水採水の場所と現状 17 |
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8-1 天水の名水、牛田新町天水 17
8-2 清水谷沢水、温品八丁目清水谷 20
8-3 田方霊泉寺名水、田方斉神 22
8-4 三滝名水、三滝山三滝 24
8-5 相田湧水、安古市相田金湧山 26
8-6 荒谷山沢水、上安町荒谷山 28
8-7 毘沙門名水、緑井町権現山 30
8-8 大塚観音堂湧水、沼田町大塚 32
8-9 窓が山湧水、 沼田窓が山 34
8-10 小河内名水、安佐町大字小河内 36
8-11 福王寺加持水、可部町福王寺 38
8-12 中深川湧水、深川4丁目中深川 40
8-13 枡が谷霊泉、白木町大字秋山 42
8-14 尾崎神社井戸水、矢野町新町尾崎 44
8-15 景浦名水、阿戸町景浦山 46
8-16 屋代竜神の釜水、屋代竜神の釜 48
8-17 茶臼山名水、城山2丁目茶臼城跡 50
8-18 滝の観音名水、己斐上町滝の観音 52
8-19 桂の滝名水(公式の献水ではない、もうひとつの原爆献水) 54 |
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9 原爆献水調査と環境の変遷について 56 |
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9-1 清水谷沢水 56
9-2 相田湧水 58
9-3 天水の名水 58
9-4 屋代竜神の釜水 62
9-5 荒谷山沢水 62 |
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10 原爆献水水質全データ 65 |
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11 おわりに 106 |
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12 原爆献水に関する初期の銘水研究会の記事(初出) 108 |
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12-1 守ろう広島の名水、平和の願いとも一致 中国新聞(平成元年6月5日) 108
12-2 水は心(広島ペンクラブ会報、平成20年3月) 110
12-3 原爆献水(1) (ぴーぷる、昭和63年9月号) 111
12-4 原爆献水(2) (広島中国銘水紀行、平成元年6月号) 113
12-5 原爆献水(3) (ぴーぷる、昭和62年8月号) 115 |
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13 参考文献 117 |
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止
『無援の海峡 ヒロシマの声、被爆朝鮮人の声 論創ノンフィクション 054』(論創社、20240/06)
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Ⅰ |
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復権への連帯——韓国の被爆者調査をめぐって 8
二重の痛苦にあえぐ在韓被爆者たち——日本人に責任はないのか 24
〈資料〉韓国原爆被害実態調査報告書(韓国教会女性連合会) 35
仮面の裏側 47
記憶と事実 53
被爆朝鮮人が日本人に問うているもの 56 |
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II |
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黙殺との戦い——被爆朝鮮人・孫振斗さんの訴え 60
圧殺される声 74
孫さんからの手紙 83
権利としての原爆手帳——辛さんへの手帳交付の問題点 85
自主性のない被爆者行政 89
支援運動の中で 91
地底からの告発——被爆朝鮮人の提起するもの 93
被爆朝鮮人とわたし 106
国家と被爆者——孫振斗さん勝訴の意味 131 |
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III |
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原爆裁判 140
桑原訴訟 216
「認定」とはなにか 230 |
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被爆朝鮮人・韓国人に関する参考資料目録 233 |
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追記を兼ねたあとがき 259 |
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復刊に寄せて 267 |
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止
『希望のヒロシマ-市長はうったえる』(平岡敬、岩波新書、19960722)<作業中>
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001 |
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はじめに |
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I |
アメリカの原爆展 1 |
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1 日米原爆観のギャップ 2
2 アメリカでヒロシマをうったえる 19
〔希望の広島-核兵器のない世界へ-(アメリカン大学(ワシントDC)、1995年7月9日)〕 25 |
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II |
戦争責任とヒロシマ 47 |
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1 アジアとヒロシマ 48
〔<那覇・広島・長崎ピース・トライアングル・サミット>アピール(要旨)(那覇市民会館、1995年6月24日)〕 69 |
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2 50年目の「平和宣言」 70
〔平和宣言(広島市平和記念公園、1995年8月6日)〕 73 |
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III |
核兵器廃絶に向けて 83 |
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1 核保有国のエゴイズム 84
2 核兵器は国際法に違反する 101
〔国際司法裁判所における広島市長の口頭陳述(国際司法裁判所(ハーグ市)、1995年11月7日)〕 114 |
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IV |
ジャーナリズムを問う 135 |
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1 ヒロシマ記者として 136
2 人間の立場にたつジャーナリズム 152
〔核廃絶とジャーナリストの役割(広島国際会議場、1995年7月18日)〕 163 |
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V |
希望の未来のために 179 |
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1 いかに体験を伝達するか 180
2 ヒロシマの世界化と継承 191
3 未来への意思 206 |
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あとがき 219 |
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著書:「偏見と差別」(未来社)、「無援の海峡」(影書房) |
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止
資料年表:平岡敬(ひらおか・たかし)
年月日 |
事項 |
メモ |
1927 |
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大阪市生まれ |
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1952 |
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早稲田大学文学部卒業 |
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1966 |
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0401 |
『世界 第245号』(岩波書店) |
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平岡敬「韓国の原爆被災者を訪ねて」 229 |
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0801 |
『放送RCC 第59号 Vol. 6 No.7-8』(ラジオ中国) |
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文沢隆一・原田東岷・平岡敬「忘れられた被爆者」18 |
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1967 |
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0401 |
『世界 第257号』(岩波書店) |
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原爆被害者・二十二年後の要求
平岡敬「戦後は終わったか-被爆者の生活と感情」178 |
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1208 |
『社会福祉ひろしま(号外)』(広島県社会福祉協議会) |
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原爆被爆者と社会福祉
平岡敬「被爆者の生活と感情」 7 |
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1968 |
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0301 |
『世界 第268号』(岩波書店) |
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平岡敬「青年と広島-「市民対話のつどい」から-」 198 |
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0801 |
『未来 No.23』(未来社) |
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小特集=ヒロシマ・一九六八年
平岡敬「告発する被爆朝鮮人」 2 |
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1969 |
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0325 |
『アンチヒューマン (ドキュメント日本人 8)』(谷川健一 [ほか] 責任編集、学藝書林) |
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平岡敬「被爆朝鮮人の怒りと悲しみ」 48 |
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0801 |
『未来 No.35』(未来社) |
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平岡敬「ヒロシマからの報告②終わりと始まり」 6 |
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1970 |
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0801 |
『未来 No.47』(未来社) |
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特集=二五年目のヒロシマ①
平岡敬「被爆者の「目」」 19 |
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1031 |
『見捨てられた在韓被爆者 日・韓両政府は彼らを見殺しにするのか』(竹中労 編著、日新報道) |
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被爆朝鮮人の怒りと悲しみ(平岡敬)/97 |
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1971 |
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0120 |
『辺境 第3号』(辺境社) |
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辺境レポート
苦いスチェビ 平岡敬…143 |
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1972 |
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0401 |
『広島通信 No.32』(「広島通信」の会) |
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平岡敬「被爆朝鮮人救援の動き」 |
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0806 |
『偏見と差別 ヒロシマそして被爆朝鮮人』(平岡敬著、未来社) |
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1973 |
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0830 |
『廣島高等学校創立五十年記念誌』(廣島高等学校創立五十年記念事業準備委員会記念誌部編、廣島高等学校同窓会) |
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平岡敬「イキ違いの記者」…439 |
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1974 |
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0801 |
『世界 第345号』(岩波書店) |
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平岡敬「黙殺との戦い-被爆朝鮮人・孫振斗さんの訴え-」 235 |
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<以下作業中> |
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止
年表:灯ろう流し
年 月日 |
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1947 |
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0714 |
広島市内の日蓮門下寺院8ケ寺の僧侶13人と広島立正婦人協会員1、000人が中 島本町慈仙寺鼻の供養塔で臨川大施我鬼法要を執行。供養塔での読経終了後、3隻 の発動機船に分乗し、本川の三篠橋から播磨橋の間を往復、原爆犠牲者の戒名・ 俗名などをしたためた経木を川に流して、水供養をおこなう。48年7月31日、51年 7月11日にも執行。 |
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47年8月5日、広島県宗教連盟が、慈仙寺鼻河畔から慰霊船を元安川に出して、川供養。 |
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1948 |
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0806 |
広島市的場大通商店街が的場町太陽館前広場に「法界万霊戦死者供養塔」を 建て、法要を執行、午後7時から猿こう川で川施我鬼を催し、とうろう流し。 |
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1950 |
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0806 |
中国商店街連合会、とうろう流し。以後毎年実施(「中国新聞」56年8月5日) |
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1952 |
ひろしま川祭委員会 |
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広島市・市教委・市観光協会・広島商工会議所・FK・国際文化協会・中国新聞社が、「原爆犠牲者の霊を慰めるとともに大衆への慰安をも併せ行い、春の広島まつりとともに広島の二大年中行事」にしようと結成(「中国新聞」1952年7月23日) |
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第1回52年8月9-10日。
9日、供養塔前と本川橋側水上で花火大会
相生橋河畔で9日夜の満潮時に2、000燈のとうろう流し
10日、原爆ドーム前元安川で水上音楽会 |
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0806 |
午後9時から、本川青年団が今年も相生橋下でとうろう400個を流す。 |
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1953 |
ひろしま川祭委員会 |
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第2回53年8月8日。
6-8日夜の満潮時に元安川と本川で2、000燈のとうろう流し
8日、水上音楽会と花火 |
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1954 |
ひろしま川祭委員会 |
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第3回54年8月7-8日。7つの川で午後7時半からとうろう流し。2万個。
中部地区=6-8日、大仏殿前元安川河畔、2、000灯
横川地区=7-8日、横川橋下、700灯
己斐地区=6-7日、己斐橋、1、000灯
十日市地区=6日、本川小学校横河畔、300灯
鷹野橋地区=6日、明治橋下、700灯
駅前地区=6-7日、駅前橋下北側、800灯
段原地区=7日、大正橋下、300灯
6日、5、000個のとうろう
8日、平和記念公園で慰霊花火大会 |
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0806 |
午後8時から、世界平和広島仏舎利塔建設会・広島大仏奉賛会が元安川原爆ドー ム前で5000個のとうろう流し。 |
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0806 |
本願寺広島別院、水上法要と流灯会を行う。56年も。 |
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1955 |
ひろしま川祭委員会 |
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第4回55年8月6-7日。7つの川で午後8時からとうろう流し。1万個。
6日、8、000個のとうろう
7日、平和記念公園で慰霊花火大会 |
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1956 |
ひろしま川祭委員会 |
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第5回56年8月6-7日。7つの川(10か所)で午後8時からとうろう流し。1万2,000個。
6日、10、000個のとうろう
7日、平和記念公園で慰霊花火大会 |
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1957 |
ひろしま川祭委員会 |
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第6回57年8月6-7日。7つの川で午後8時からとうろう流し。
6日、15、000個のとうろう
相生橋・広島駅前橋・荒神橋・稲荷橋・大正橋西詰・京橋・明治橋・横川橋・己 斐橋・本川小学校裏
7日、平和記念公園で慰霊花火大会 |
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1959 |
ひろしま川祭委員会 |
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第9回60年8月6-7日。7つの川(11か所)で午後9時40分満潮時からとうろう流し。
6日、1万個のとうろう
広島駅前橋・稲荷橋・大正橋・京橋・元安橋・本川小学校・横川橋・観音橋・明 治橋・己斐橋・県貯木場(吉島)
7日、平和記念公園・市公会堂南側で慰霊花火大会 |
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1960 |
ひろしま川祭委員会 |
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第10回61年8月6-7日。
6日、6つの川でとうろう流し。 |
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0806 |
広島県宗教連盟が、初めて本川で2、000個のとうろう流し |
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1962 |
ひろしま川祭委員会 |
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第11回62年8月6-7日。
6日、6つの川(11か所)で1万個のとうろう流し。
7日、平和記念公園・市公会堂南側で原爆死没者慰霊花火大会
11-12日、市民球場で盆おどり大会 |
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1963 |
ひろしま川祭委員会 |
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第12回63年8月6-7日。
6日、6つの川(11か所)で1万2、000個のとうろう流し。
7日、平和記念公園・市公会堂南側で原爆死没者慰霊花火大会 |
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1964 |
ひろしま川祭委員会 |
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第13回64年8月6日。
6日、川(10か所)で1万1、000個のとうろう流し。 |
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1965 |
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0807 |
広島市・中国新聞社など共催とうろう流し
(雨のため6日の予定を延期)市内10か所。約1万1、000個 |
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0814 |
広島広島悲願の会とうろう流し
(雨のため6日の予定を延期)元安川と本川。約1万個
太田川夏祭=盆踊大会と花火大会 |
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1973 |
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0806 |
5か所、広島祭委員会は12,000個を用意。後始末が大変なため、この年は本川など3 つの川で姿を消す。 |
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1976 |
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0806 |
とうろう流し。花火大会。市政と市民では初紹介。 |
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環境問題で流す数を制限され、昨年より5,000個少ない1万個を用意 |
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止
とうろう流し(8月6日、とうろう流し実行委員会主催)
実施状況 場所:原爆ドーム対岸 元安川浸水テラス
年 |
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1973 |
とうろう流し。約1万2000個。 |
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2005 |
とうろう流し。 |
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2009 |
とうろう流し。約9000個。 |
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2010 |
とうろう流し。約1万個。 |
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2012 |
とうろう流し。約1万個。 |
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2013 |
とうろう流し。約1万個。 |
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2014 |
とうろう流し。約9000個。 |
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2015 |
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市民約70人、「広島 愛の川」合唱(初回) |
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2016 |
ピースメッセージとうろう流し |
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2017 |
とうろう流し。約1万個。 |
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2018 |
ピースメッセージとうろう流し |
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2019 |
原爆ドーム前の元安川などで「とうろう流し」。約7000個の灯籠。 |
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2020 |
新型コロナウイルス感染拡大のため「とうろう流し」中止。。「流灯式」=実行委員会メンバ―灯籠17個を川に浮かべる。 |
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2021 |
新型コロナウイルス感染拡大のため「とうろう流し」中止。「流灯式」=実行委員会メンバ―灯籠12個を川に浮かべる。 |
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止
広島県原爆被害者団体協議会陳情書(市長宛、1970年6月16日)
昭和四十五年六月十六日
広島市長
山田 節男 殿
広島市大手町四丁目五番六号
広島県原爆被害者団体協議会
理事長 滝滝 市郎
事務局長 檜垣 益人
陳情書
人類史上空前の原爆悲劇からはやくも四半世紀の歳月をけみし、被爆二十五周年の八月六日を迎えようとしています。
毎年の八・六式典についての市民の声、特には生存被爆者や遺家族のつぶやきに耳を傾けて下さいまして、今年の被爆二十五周年の式典に於てこそは、被爆生存者や遺家族が生きてゆく勇気と希望を与えられ、被爆死没者の犠牲が人類の救いとして決してむだとならぬために、少くとも次の事項につき改善乃至新企画をして下さいますよう要請いたします。
一、平和宣言の内容には、原爆死没者の犠牲が少くともこの二十五年間の原爆不使用の大きな因であり、日本の平和と繁栄もこの犠牲の上になりたっていることも、更めて確認され、戦争なきひとつの世界へ向かっての大いなる警鐘と不動の礎石として、決してむだにしないことを誓うという内容がもりこまれること。
一、右と関連して広島市当局自ら原爆死没者遺家族の援護に尽すとともに、政府・国会に対しては、原爆遺家族援護や原爆傷害者に対する補償的援護施策が行なわれるよう、先頭に立って促進することを誓う旨をもりこむこと。
但し、この頂は平和宣言の内容としてでなくても、市長の別の八・六声明としてでも行われたいこと。
一、平和式典の祝辞の代読はこれを止め、出席本人が読むもののみに限られたいこと。形式的代読の空しさは多年の市民のつぶやきであり、今年こそは勇断をもって、このつぶやきを聞きいれていただきたいこと。
一、平和宣言が市長によって読みあげられるだけに止らず、これに応えて市民代表が決意表明を行なうように企画されたいこと。(この場合、市民代表は青年又は被爆者が望ましい。)
このための時間は代読廃止等によってセイブされる時間が充てられるならば式典に一層真実がこもって来るものと思われます。
一、会場の被爆者席には市内在住の認定被爆者だけが招待されるのでなく、被爆者並びに遺家族なら誰でも先着順に坐れるように改善されたいこと。
一、平和の歌は会場の全員が合唱できるようにあらかじめ普及・練習の方途を講ぜられたいこと。
一、尚、八月六日~九日を国際停戦デーとすることの提唱。八月六日八時十五分の一分間黙祷が全国的・全世界的に行なわれることの提唱、これと関連して八時十五分を中心とする式典がテレビ宇宙中継されるようにとの要望などは、私たちの団体も深く賛意を表し、その実現を強く望むものであります。
右、被爆二十五周年にふさわしい画期的意義ある式典となりますよう切に陳情申し上げるものであります。
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。