宣言の主体、対象、形式(平和宣言)

平和宣言

(1) 宣言の主体、対象、形式

平和式典の中で、平和宣言を読み上げたのは、浜井信三(1947-54年、59-66年)、渡辺忠雄(55-58年)、山田節男(67-74年)、荒木武(75-90年)、平岡敬(91年)の5人の広島市長であった。歴代市長のうち、浜井、渡辺、荒木の3市長は、原爆の直接体験者であった。
平和宣言は、1950年(昭和25年)には、式典の中止により読み上げられることはなかった。また、翌51年には、宣言は発表されず、そのかわり、市長のあいさつがなされた。
宣言の主体は、慣例として、市長個人ではなく、「広島市民の代表としての広島市長」あるいは「被爆体験を持つ広島市民の代表としての広島市長」であった。例えば、「われら広島市民」(1947年)、「原爆を体験したわれわれ」(55年)という表現が用いられている。ところが、91年の宣言は、「平和への不断の努力を市民の皆様とともにお誓いする」と結ばれている。英文では、この主語は、「We」ではなく、「I」であり、市長個人が主体として宣言に登場した初めての例であった。なお、54年までは、宣言主体の肩書に、「広島市長」の他に、「広島平和祭協会長」(47年)、あるいは「広島平和協会長」(48年、54年)が付されている。
1947年と48年の宣言は、最後をそれぞれ、「ここに平和塔の下、われらはかくの如く平和を宣言する」、「戦災3周年の歴史的記念日に当り、我等はかくの如く誓い平和を中外に宣言する」と結んだ。当初の宣言は、このように自らの誓いを内外に明らかにするということを目的としていた。ところが、51年以降、宣言の対象が、具体的に文面に表現されるようになった。51年には、「犠牲者の霊を慰めるとともに・・・平和都市建設の礎とならんことを誓うものである」と結んでおり、慰めの対象として「犠牲者の霊」が現れた。また、翌52年には「・・・尊い精霊たちの前に誓うものである」と結び、「精霊」が宣言の対象の一つとして明確に表現された。さらに、54年には、宣言の対象として「全世界に訴える」という表現が使用された。これ以後、宣言の中には、この三つの要素(「誓い」、「慰霊」、「世界への訴え」)が、常に盛り込まれるようになった。
宣言の長さは、読み上げる市長により大きく変化している。字数で見ると、1947年の最初の宣言は、約830字であった。これは、47年から66年までの浜井、渡辺両市長の宣言の中では、最も長いものであった。最も短いのは、54年の320字であり、最初のものと比べて半分以下となっている。しかし、67年から74年の山田市長の時期には、字数はほぼ800字代で定着した。75年以降の荒木市長の時期には、字数は更に増え、88年から90年の3年間は、1,500字前後にまでなっている。最も短い54年のものと比較すると、5倍近くなったことになる。
このほか、元号で表記されていた宣言の日付に1991年に初めて西暦が併記されたことも、宣言の形式に現れた変化の一つである。

式次第

平和式典の式次第
(1) 式次第
式次第の要素の中には、最初から一貫して存在するもの、当初には存在していたのに消えたものや、ある年のみに存在したもの、新たに加わったものがある。表2は、1947年(昭和22年)・52年・91年の式典の式次第を比較したものである。これにより、「平和の歌合唱」、「平和宣言」、「平和の鐘・黙とう(47年では平和の祈り)」、「放鳩」、「メッセージ(91年ではあいさつ)」といった要素が、順序は異なるものの、共通に存在しているがわかる。このうち「放鳩」以外は、最初から一貫して式次第に存在しているものである。
「放鳩」は、1947年の第1回平和祭から存在した。この年には、「平和のシンボル白鳩10羽が中村商工会議所会頭によって手放された」と報じられている(「中国新聞」47年8月7日)。48年には、ミスヒロシマの手によって鳩が放たれた。また、49年の鳩10羽は、くす玉に入れられており、前年同様、ミスヒロシマがくす玉を開いて、鳩を放している。当時、広島には鳩は居らず、その入手には、苦労をした模様で、放鳩に使用されたのは白鳩ではなく黒い鳩であったとか、鳩は九州の新聞社から借用したといったエピソードが伝えられている。「放鳩」は、51年から53年の式次第では消えたが、54年に再び現れた。放たれた鳩の数は、54年から59年にかけては500羽から700羽、60年から66年には1、000羽、67年と68年には1、400羽、69年以降は1、500羽と報じられている。
1947年の式次第にある「平和記念樹植樹」は、これ以後3回存在して姿を消した。「祝電披露」という表現は、51年以降は、用いられていない。単年のものとしては、「平和塔除幕」(47年)以外に、「詩・ヒロシマを思いて(大木惇夫作)」朗読、「くす玉開き」、「平和記念館設計当選者発表」(49年)、「慰霊祭」(51年)、「原爆死没者慰霊碑除幕」(52年)、「皇太子殿下追悼の言葉」(60年)、「扇ひろ子の原爆の子の像の歌」(64年)、「原爆死没者名簿引渡し」(90年)などがある。
「献花」は、1951年に現れているが、翌52年には存在せず、53年から「花輪奉呈」との名称で現れた。その後、68年に「献花」と改称され現在に至っている。また、70年以降は、「献花」に引き続いて「流れ献花」が設定された。「式辞」は、52年に現れ、現在に至っている。広島市議会議長が述べるのが通例であるが、広島県との共催で開催された60年の式典のみ、県知事が述べた。また、52年には、原爆死没者慰霊碑への「原爆死没者名簿奉納」が始まった。
開式の前であり、正確には式次第の要素とは言えないが、「献水」の行事が1974年から取り入れられた。これは、前年の長崎の式典に参列した山田広島市長が、長崎で採用されていたこの行事に感銘し、広島でも実施することとしたものである(「中国新聞」1974年7月2日)。広島市は、同年7月29日に献水の要領を決定したが、それによると、平和記念日当日早朝、市内の清流から水を集め、木曽さわら杉を使った水桶二つに入れ、式典直前に原爆死没者慰霊碑前に供え、式典後「平和の池」に注ぐことになっている(「毎日新聞」1974年7月30日)。清水を採る場所は、発足時は10か所であったが、91年には東区牛田新町浄水場、牛田新町天水、温品町清水谷、西区田方斉神、三滝町三滝、己斐上町滝の観音、安佐南区上安町荒谷山、緑井町権現山、沼田町大塚、安佐北区安佐町小河内、可部町福王寺、高陽町中深川、白木町秋山、安芸区矢野町尾崎、阿戸町景浦山、佐伯区五日市町屋代の16か所となっている。
1952年と91年の式次第は、「原爆死没者名簿奉納」→「式辞」→「献花(52年では欠)」→「黙とう・平和の鐘」→「平和宣言」→「放鳩」→「あいさつ」→「ひろしま平和の歌」である。ここでは、8時15分の「黙とう・平和の鐘」を、慰霊式と平和記(祈)念式の変わり目と理解することができる。ところが、54年から67年までは、「平和宣言」が「黙とう」より前に設定されており、式次第の上では、慰霊式と平和記念式の区別があいまいとなっていた。68年には、これがはっきり区別されるように変更された。しかし、この年からの式次第では、「ひろしま平和の歌」→「あいさつ」となっており、91年と完全に同じでない。現在の形式が定着するのは、1971年以降のことである。
平和式典の開催時間は、当初は(1947ー52年)、1時間が普通であった。ただ、慰霊祭が式次第に組み込まれた51年の式典は、8時半から11時(夏時間で、実際は7時半から10時)までの2時間半開催され、式典時間の中では最も長時間である。ところが、53年からは30分間が普通となり、70年以降は、40分間から50分の間で実施された。開始時刻は、49年以外はすべて原爆被爆時刻の午前8時15分を挟んで設定され、その時刻に「平和の鐘・黙とう」が行なわれた。49年の式典では、午前8時15分が開始時刻であり、「平和の鐘」から始められた。

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慰霊と平和(平和式典の原型)

慰霊と平和(平和式典の原型)

1947年(昭和22年)に始まった平和式典は、50年の中断はあったが、その後毎年開催された。初期の式典の名称は、広島市の文書や報道では、さまざまに表現されている。たとえば広島市の『市勢要覧』は、48年のものを「第2回平和祭」と呼んでおり、これによれば翌年のものは第3回に当たるはずであるが、「第4回平和祭」と表現している。こうした混乱は、46年の平和復興祭を平和式典の最初と考えるか、あるいは「第何回」という表現を「被爆何周年」の意味で使用したために起こったものである。91年の式典は、47年を第1回とすれば、44回目に当たるものであった。
式典の式次を、平和祭とそれ以後で比較すると、多くの共通点がある(後出「平和式典の式次第」参照)。しかし、式典の性格は、平和祭とそれ以後では大きく異なっている。平和祭の式典は、主催者により「平和運動」と意義づけられ、平和祭の諸行事の中で、広島市戦災死没者慰霊祭と並ぶ中心行事と位置づけられていた(『原爆市長』)。したがって、平和祭の式次には、慰霊の要素はみられず、平和宣言の中にも慰霊の言葉は含まれていない。ところが、1951年以降は、名称、式次、平和宣言それぞれに慰霊の要素が見られるようになった。特に、51年には、式次に「賛美歌合唱、献花、焼香、玉串礼拝」が加えられた一方で、平和宣言のかわりに市長の挨拶があったにとどまり、式典の雰囲気は慰霊祭に近いものであった。
1952年には、平和記念公園の中に原爆死没者慰霊碑(正式名称は広島平和都市記念碑)が建立され、式典をこの碑前で開催し、式典の中でこの慰霊碑に名簿を奉納するという形式が始まった。また、この年に復活した平和宣言には、「尊い精霊たちの前に誓う」という式典と原爆死没者との関係を示す言葉が盛り込まれた。これ以後、「慰霊」と「平和」という二つの性格を有する式典が開催されるようになった。

平和式典の会場-平和記念公園(市民の奉仕活動)

平和式典の会場-平和記念公園(市民の奉仕活動)

(3) 市民の奉仕活動

式典に備えての会場の清掃は、広島市の重要な業務であった。早い時期から市の幹部が先頭に立って実施することが慣例となっている。1965年(昭和40年)には7月31日に浜井広島市長始め市職員200人が、また、翌66年には8月1日に市職員500人からなる広島市都市美化推進本部(本部長:加藤政夫助役)が清掃を行なった。70年からは、7月5日にスタートした広島市の「シティ・クリーニング作戦」の一つとして清掃が行なわれるようになった。7月28日、山田広島市長を始め、市内38学区から約400人が集まって平和記念公園を清掃している。この時母体となったのは、広島市公衆衛生推進協議会(61年7月17日結成)で、これ以後、同協議会のメンバーと広島市の幹部職員とによる一斉清掃がなされるようになった。
平和記念日前に平和記念公園を清掃する人々の中には、さまざまな市民グループの姿も見られた。1953年8月5日には、戦災供養塔周辺を清掃する天理教信者など市民170人の姿があった。平和の灯奉賛会の人々は、64年に点灯して後、平和記念日前と年末に「平和の池」の清掃を実施している。また、69年からは、神崎小学校学区子供会が保護者とともに清掃奉仕活動を行なうようになった。このほかに、ローターアクトクラブ、金光教信者、安佐地区身体障害者連合会、共同石油広島支店社員、出光興産社員、西古谷子供会、老人クラブ、被爆者や遺族のグループなどが、一斉清掃に加わったり、独自に清掃作業を行なったことが、新聞報道により確認できる。
式典当日にも、多くの市民の協力が見られる。ボーイスカウト広島県連盟広島地区のメンバーは、、1968年に参道両側に花垣が設置されるまでは、式場中央に設けられる参道の警備に協力した。また、それ以後も、参列者が原爆死没者慰霊碑に供えるための花の手渡し(70年以降)や平和宣言パンフレットの配布(75年以降)を担当している。91年の式典では、400人のボーイスカウトが、式典会場での奉仕作業に参加した。広島茶業協同組合は、65年から会場での茶の接待を開始し、91年には、30人が1万杯の湯茶を提供した。また、広島市青年連合会も、68年以降、おしぼりの接待を行なっている。
広島花木地方卸売市場の株式会社「花満」は、「流れ献花」で使用される花100束を、この式次が1970年に採用されてから寄贈し続けている。また、同年には、市民一人一人が花一輪ずつを持参し、原爆死没者慰霊碑に供えようという「花一輪運動」が始まったが、広島県生花商組合は、花を持参しなかった参列者のために大量の花を寄贈している。91年には、キク、グラジオラス、ケイト、ユリ、バラなど17種類の花約2万本を寄贈した。
1954年から毎年、式典の中で大量の放鳩が行なわれている。この時使用される鳩は、各種の競翔団体から借り受けているが、91年には、広島中央競翔連合会、広島平和競翔連合会、山陽競翔連合会、日本伝書鳩協会(広島支部・広島北支部・呉支部)の提供によるものであった。

平和式典の会場-平和記念公園(設営)

平和式典の会場-平和記念公園(設営)

(2)
平和記念公園で初めて開催された1952年(昭和27年)の場合、式典会場には、わずかの椅子しか準備されておらず、大部分の人々は、座り込むか、立ったまま参列していた。64年以降、来賓や主催者以外の参列者への椅子席が設けられるようになった。64年に、遺族や老齢者のための椅子席が設けられ、その後、一般席(66年)、特別被爆者席(68年)、障害者席(81年)が設置された。椅子席の数は、新聞報道によれば、68年以後、約1万人分が設営されるようになっている。91年の場合、椅子席の合計は、1万2,945席で、その内訳は、特別来賓・主催者用480席、被爆者・遺族用3,000席、都道府県遺族代表用84席、認定被爆者用456席、身体障害者用54席、流れ献花者用96席、一般用8,775席であった。これらの椅子は、市内小中学校28校から借り集められた。
1991年の設営では、原爆死没者慰霊碑から広島平和記念資料館の間の広場のほぼ全面に椅子席が設けられた。しかし、それでも多くの参列者は、立ったまま参列しなければならなかった。この年の参列者は5万5,000人と発表されており、この年には、4万人以上が、式場周辺で立ったままの参列していたことになる。78年から、こうした参列者のために、式典モニターテレビが設置されるようになった。当初は、6台であったが、その後増設され、91年には16台が設置された。
このほか、合唱団・吹奏楽団用の山台の設置(1969年)、式台・鐘つき台の設置(70年)、献花台の設置(76年)などの改良が加えられた。また、70年に式典表示パネル「25周年広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が原爆資料館壁面に掲示され、75年からは、毎年掲示されるようになっている。

 

平和式典の会場-平和記念公園

(1) 平和式典の会場-平和記念公園

平和式典は、「平和広場」(1947と48年)、「市民広場」(49と50年、50年は予定)、戦災供養塔前(51年)と、その会場を転々と変えていた。しかし、52年(昭和27年)以降、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前で開催されるようになった。
平和記念公園には、戦前、中島本町、天神町、材木町、元柳町が存在し、店舗や住宅約700軒が密集していた。この地域は、原爆爆心地からほぼ500メートル圏内に位置しており、原爆攻撃により壊滅した。戦後、広島市は、この場所を、公園(中島公園)とすることを計画した。広島市は、1949年4月20日、この公園を平和記念公園として建設することとし、設計図を全国に公募した。7月18日に募集を締め切ったが、応募作品は145点におよんだ。この中から選ばれたのは、丹下健三ら4人の共同作品であった。
この公園は、広島平和記念都市建設法の公布(1949年8月6日)にともない、その裏づけのもとに建設されることとなった。49年10月3日、東京で平和文化都市建設協議会の第1回会合が開催されたが、そこでは平和の理想を象徴する平和記念施設として、①記念公園(平和公園)、②記念館、③記念街路(平和緑道)が建設されることとなった。
①は、本川と元安川に抱かれた三角州の頂点に位置する中島公園(=平和広場、3万2、200坪)とその東側対岸の4、800坪(旧広島県産業奨励館敷地)と、その東北に接続する旧広島城跡を中心とする中央公園(=市民広場、22万坪)を総合した公園とされた(その後、中央公園部分は平和公園から外される)。③は、中島公園南端を基点として、東西に伸びる延長約4、000メートル、幅員100メートルの街路であった(後に「平和大通り(百メートル道路)」と呼ばれる)。また、②は、中島公園およびその東側対岸に設置するものとし、その内容としては、つぎのようなものが考えられていた。
(a)平和会館 2、500人収容の会議室及び事務室、原爆関係資料陳列室等。
(b)平和アーチ 張間120メートル、高60メートル、頂点に五つの鐘を吊す。
(c)慰霊堂 原爆犠牲者の遺骨並びに銘を納める。
(d)原爆遺跡 原爆により破壊された旧産業奨励館の建物を補強し保存する。
(大島六七男「復興の足どり」)
1951年2月21日、東京で第4回広島平和記念都市建設専門委員会が開催された。この席上、浜井広島市長は、「今夏で7回忌を迎える原爆都市の慰霊塔関係の設立を急ぎたい」との意向を述べた。しかし、建設省は、広島市の納骨堂を含む「慰霊塔」案は、墓地であり、公園法の建前から認められないと、難色を示した。そこで広島市は、遺骨の代わりに名簿を奉納することとし、8月6日までの式典に間に合うように碑を建立することを決定した(「中国新聞」51年2月22日)。しかし、碑は、51年の8月6日には間に合わず、52年3月末着工した。
碑の設計者は、丹下健三であった。コンクリート素打の工法で埴輪をデフォルメした設計で、当初案の巨大な「平和アーチ」は、正面から見た底辺4.7メートル、高さ3.67メートル、横から見た上辺8.29メートル、下辺5.26メートルのはにわ型に縮小・変更された。原爆死没者名簿を奉納するため、碑の中央に黒い御影石製の矩形の箱が配置された。そして、この箱の正面には、雑賀忠義が作成した碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(雑賀の英訳:Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil.)が、刻み込まれた。この碑は、建立当時から「原爆慰霊碑(原爆死没者慰霊碑)」と呼ばれたが、碑の正式名称は、「広島平和都市記念碑」である。工費は、300万円であった。
一方、当初の案の「平和会館」は、その後、平和記念都市建設法にもとづき広島平和記念資料館(1951年3月着工、通称「原爆資料館」)、広島平和記念館(52年3月着工)の2施設として、また、広島市公会堂(53年11月着工)が、財界の寄付により着工され、55年の2月から8月にかけて竣工した(広島市役所『市勢要覧 昭和34年度』)。
平和記念公園は、公費とは別に、民間団体の寄贈によっても次第に整備された。広島市未亡人会は、1955年8月5日、原爆死没者慰霊碑前に花台を奉納した。建立以来碑前には、粗末な竹筒で花が供えられていたが、これを見かねた同会が原爆10周年を記念して送ったものであった。57年8月3日には、原爆死没者慰霊碑の周囲に完成した「平和の池」の贈呈除幕式が行なわれた。この発端となったのは、前年秋広島で開催された第5回日本青年会議所会員大会であった。大会では、「大会の記念事業として記念施設を広島に残そう」との決定がなされ、全国の青年会議所会員が20万円を寄せた。これを受けた広島市は、「業火のうちに散っていった20数万人の霊を慰めるため、原爆慰霊碑周囲三方に幅2メートルの池を掘り碑全体を浮上らせる」ことを決め、市費を加えて池を建設した(「中国新聞」57年8月1日)。また、63年4月29日の天皇誕生日には、広島日の丸会本部(高木尊之会長)が、平和公園に国旗掲揚台を設置し、市に寄贈した。
1963年6月、核兵器禁止平和建設広島県民会議は、原爆死没者慰霊碑付近にオリンピックの聖火台のような「平和の灯」を建設することを計画した。この計画は、同年12月3日の核禁会議全国幹部会で取り上げられ、核禁会議が700万円を募金することが決定された。灯の設計は、丹下健三が担当し、64年5月27日、「平和の灯」の起工式が挙行された。灯台は、原爆死没者慰霊碑と同じくコンクリート素打の工法で、高さ3メートル、幅13メートル、両手が力強く灯を掲げる姿を表現し、灯は、平和を求める積極的な姿を示したものであった。起工式に出席した丹下は、設計者としての意図を、「安らぎを象徴するハニワ型の慰霊碑だけではもういけない。いまひとつ動的な平和の象徴が必要な時代だ」と語っている(「中国新聞」64年5月28日)。「平和の灯」点灯式は、約1万人の参列のもとに64年8月1日午後7時から開始された。点灯に用いられた火は、伊勢神宮、東西両本願寺など全国12宗派から寄せられた「宗教の火」と溶鉱炉など全国の工業地帯から届けられた「産業の火」であった。
この後も、平和公園の整備が続いたが、その中で、1985年の原爆死没者慰霊碑の改築は、最も大きなできごとであった。広島市は、84年1月、碑改築の方針を発表した。その理由として、コンクリートの石灰分が表面に吹き出して中の鉄筋の腐食が進み、碑にひびが入ることが明らかになったこと、原爆死没者名簿が32冊入っているが、あと数冊の余裕しか残っていないことの二つがあげられた。改築工事は、同年7月23日から始められ、翌85年3月26日、新慰霊碑(旧慰霊碑と同型で材質はコンクリートからみかげ石に変更)の除幕式が行なわれた。

 

平和式典の主催者

平和式典の主催者

平和式典の初期の主催者は、広島平和祭協会(1948年6月広島平和協会と改称)であった。広島平和祭協会は、会則により、事務所を広島市役所内に置き(第1条)、会長は広島市長が就任することになっていた。しかし、副会長は「広島商工会議所会頭、市会議長及委員会デ選任セラレタルモノ」の3人(第4条)とされ、また、協会独自の予算をもっており、広島市とは独立した組織であった。第2回平和祭が開催された48年度(昭和23年度)決算の場合、分担金収入は158万7,800円であり、その内訳は、広島市60万円、広島県30万円、正会員分担金 68万7,800円(289口)となっている(「昭和23年度広島平和協会事業報告」)。また、50年度予算では、収入総額250万円のうち、広島市が150万円、広島県が50万円をそれぞれ分担することになっていた(「昭和25年度広島平和協会収支予算書(案)」)。

マスコミは、毎年8月6日が近付くと平和協会の平和式典への取組を報道していたが、1952年以降、そうした報道は見られなくなった。平和式典は、52年から54年までは、広島市と平和協会で共催されたことになっている。しかし、平和協会はすでに有名無実化しており、54年に改組の動きが見られた。7月13日、原・水爆禁止広島県民運動連絡本部は、平和記念日の行事に関する第1回準備委員会を開催し、その中で、広島平和協会を解消し、「民主、婦人、PTA、労組、宗教、文化、教組など平和につながる各種団体を網らした新しい平和協会を8月6日までに結成」することを申し合わせた(「中国新聞」54年7月15日)。浜井広島市長は、この動きを了解するとともに、平和式典の市との共催を止め、当初のように平和協会のみで開催したい意向も持っていたと伝えられる(「中国新聞」54年7月25日)。しかし、これは、市議会の反対により実現しなかった。平和協会は、7月29日、委員会を開催し、これまでどおり広島市と平和協会の共催で式典を開催することと、平和式典の予算32万7,000円(広島市が20万円、県が10万円を助成)を決定した。

平和式典は、1955年からは、広島市が単独で主催するようになった。その後、60年のみ、県と共催で開催された。これは、県からの強い働きかけの結果であり、その経緯はつぎのようなものであった。
1960年1月21日、平塩五男広島県議会議長は、木野広島市議会議長に対し、8月6日に県・市合同の原爆死没者慰霊祭を開きたい旨の申し入れを行なった。そして、翌22日には、広島県・市両議会の正副議長名で、同様の声明を発表した(「中国新聞」60年1月23日)。2月17日、この慰霊祭について県・市、県・市両議会の4者代表者会議が持たれ、まず県議会側からつぎの説明がなされた。

①昨年12月の県会で、原爆15周年の県慰霊祭開催を決議している。
②できれば、県・市合同で開きたい。
③同慰霊祭には皇太子殿下[明仁親王、現天皇]をお招きするほか、岸首相、衆・参両院議長、各党党首の参列を求める。
④慰霊祭は全県民の祈りにふさわしく、8月6日の午前8時15分を中心に開きたい。

これに対し、市と市議会側は、「8月6日の平和記念式典は9年間の歴史的行事なので、8時15分は避けて開くことはできない。合同慰霊祭の趣旨には賛成だが、二つの集会の場所や時間的な問題を検討したうえで次回の会議で結論を出したい」と即答を避けた(「中国新聞」1960年2月18日)。

2回目の会合は2月26日に開かれ、4者の間で、(1)慰霊祭と平和記念式を共同主催で行なう、(2)開催時刻は原爆が投下された午前8時15分を中心に午前7時半ごろから同8時半までとし、平和記念公園(原爆死没者慰霊碑前を予定)で開く、(3)具体的な計画は四者の代表で準備委員会をつくってすすめる、との3点が確認された。3月28日には、準備委員会の構成と式典に皇太子を始め岸首相、衆参両院議長、各政党代表を招待することを決定した。5月8日の第1回準備委員会では、式典の正式名称を「原爆15周年慰霊式並びに平和記念式典」とすること、当日弔旗を掲げること、式典には政治的・思想的な団体の参加をいっさい認めず、静かに原爆犠牲者の冥福を祈る日とするなどの方針が決定された。その後、5月9日、大原知事による皇太子夫妻の参列要請、7月中旬、県議会3党(自民、社会、民社)派代表による党首参列折衝、県教委と県体協による原爆15周年平和記念総合体育大会および県内4コースからの線香リレーの具体化など、それまでの式典前にはみられなかった大規模な準備が進められた。

平和式典略年表

平和式典略年表

年月日
1945年(昭和20年)
8月 6日 午前8時15分、広島市に原子(ウラン)爆弾投下される
8月 9日 午前11時2分、長崎市に原子(プルトニウム)爆弾投下される。
8月15日 正午、「終戦詔書」放送。
9月 9日 広島県警察部、戦災行方不明者の取り扱いについて通達。空襲後、2週間たっても行方不明の者は死亡と認める。
9月19日 GHQ,プレスコードを指令。以後、「原爆報道」が激減。
11月17日 広島市、原爆による死亡者の遺骨の引き渡し事務を一旦打ち切り(収容遺骨約9,000柱のうち約3,000柱が引き取らる)。
11月30日 広島県、原子爆弾による人的被害をまとめる(軍関係を除く)。死者7万8,150人。12月 6日 広島市、保管していた氏名住所不明の原爆死亡者の遺骨約6,000柱を、市内善法寺へ移す。
1946年(昭和21年)
4月29日 広島市、戦災供養塔の建設案決定。場所・爆心地の中島慈仙寺鼻、予算75万円、広島市戦災死没者供養会をつくり建設費の寄付を募るなど。7月 -日 広島市、爆心地の慈仙寺鼻に戦災礼拝堂を建設。工費7万3,600円。
8月 5日 平和復興広島市民大会、元護国神社前で開催。7,000人参加。広島市、市内8か所 で、原子爆弾症医療無料相談所開設(~7日)。
8月 6日 広島市で、戦災死没者一周年追悼法会(広島市、各宗連盟県支部、広島市戦災死没者供養会共催)。
5月22日 広島市の戦災死没者遺骨収容大供養週間(広島市、市戦災死没者供養会、広島県仏教連合会、広島市町会連盟主催)始まる。26日まで各町内会で遺骨収容。
5月26日 広島市慈仙寺で戦災供養塔開眼法要。27日、同寺で戦災供養法会(広島市戦災死没者供養会主催)。
7月31日 広島市の引き取り手のない原爆死没者遺骨4,500柱(戦災死没者遺骨収容大供養週間中に発掘・収容した2,300柱と市が保管中の2,200柱)、市内善法寺に安置。
8月 6日 戦災供養塔納骨堂に合祀。
1947年(昭和22年)
4月17日 浜井信三、広島市長に就任。
5月 3日 日本国憲法施行。
6月20日 広島平和祭協会設立の打ち合せ会を広島商工会議所で開催。役員など決定。
7月18日 寺田広島市議会議長、GHQに陳情。GHQ,平和祭へ関心を示す。
7月22日 広島平和祭協会、募集していた「平和の歌」(重園贇雄作詩)、爆心地慈仙寺鼻広場(「平和広場」)、護国神社前広場(「市民広場」)の名称の入選作品を発表。
8月 1日 日本医療団広島県中央病院、「平和祭診断会」を開始(7日まで)。
8月 1日 広島逓信局、原爆2周年記念スタンプを捺印(~15日)。
8月 3日 マッカッサーの特使田上寛中尉、浜井広島市長にメッセージを手交。
8月 5日 広島宗教連盟、慰霊船を元安川に出して川供養を執行。
 8月 6日  平和祭式典(第1回)、広島市の平和広場で開催。平和塔を除幕。NHK広島中央放送局(FK)、平和祭式典を実況中継。
 1948年(昭和23年)
5月 -日 広島市土木課、爆心地慈仙寺鼻中島公園を文化的平和的理想記念公園とするため、設計図を公募することを計画。
6月14日 広島市平和祭協会、48年度第1回総会を開催。協会名を平和協会と改称。
8月 5日 広島平和祭協会、平和美術展覧会を袋町小学校で開催(~14日)
 8月 6日 平和祭式典(第2回)、広島市の平和広場で開催。英連邦軍総司令官ロバートソン中将、クロワード広島軍政部長、濠州国会議員団8名、森戸文部大臣などが参列。
〇 浜井広島市長、世界160都市市長宛にメッセージを送付。
〇約1,000名の花行進、慈仙寺鼻戦災供養塔前を出発、八丁堀、本通り、市庁舎前と行進。
〇 広島平和協会、NHK「世界の音楽」公開演奏会を広島児童文化会館で開催。
〇 日本宗教連盟広島県支部・広島市戦災死没者供養会、中島戦災供養塔前と似島供養塔前で慰霊祭を執行。似島での慰霊祭は初。
8月 8日 広島平和協会、広島こども会を児童文化会館で開催。
8月 9日 長崎市、文化祭式典(初)を浦上原爆基点地で開催。
 1949年(昭和24年)
5月11日 広島平和記念都市建設法と長崎国際文化都市建設法、成立。それぞれ住民投票を経て8月6日、9日公布。
8月 1日 広島市(広島平和協会)の平和祭行事始まる。原爆写真公開展覧会(1-10日 中国新聞社ホール)、浮世絵展覧会(3ー16日、福屋百貨店)、平和音楽会(6-7日、児童文化会館)、平和子供会(8日、児童文化会館)。
8月 4日 広島市、平和祭ポスターと式典招待状を全国の都道府県知事、268市長、県内全市町村に発送。
8月 5日 第3回マッカッサー元帥杯競技大会、広島中央運動庭球場、公民館で開催。
8月 5日 広島銅合金鋳造会寄贈の「平和の鐘」、市民広場の鐘楼に設置。
8月 6日 平和祭式典(第3回)、市民広場(児童文化会館前)で開催。約3,000人が参列。
8月 6日 平和婦人大会、児童文化会館で開催。1,000余名が参加。
8月 6日 浜井広島市長と仁都栗市議会議長、連名でトルーマン大統領にメッセージを送付。
 1950年(昭和25年)
3月19日 平和擁護世界大会常任委員会第3回総会、ストックホルム・アピールを採択。
5月 -日 広島戦災供養会結成。広島市内数か所に納骨してある原爆死没者無縁仏遺骨を一
堂に納骨する納骨堂建設、戦災死没者名簿の作成を計画。
6月25日 朝鮮戦争始まる。
8月 2日 広島平和協会、緊急常任委員会を開催。平和祭を中止することを決定。
8月 6日 広島市内2か所で非合法の平和集会開催される。
11月 8日 広島戦災供養会、広島市内に分散仮葬してある戦災者の遺骨を一か所に集めた新
納骨供養塔建設の請願書を広島市長に提出。
 1951年(昭和26年)
5月10日 広島市中島本町の平和塔の撤去作業開始。
5月 -日 広島市調査課、原爆死没者名簿作成のため死没者調査を実施。
8月06日 中島戦災供養塔前で慰霊祭と平和記念式典を挙行。中国新聞社、米空軍岩国基地の要請で、朝鮮動乱に50回以上出撃したパイロット20数名を慰霊祭に招待。
9月 9日 対日講和条約調印。
10月19日 広島県遺族厚生連盟、第1回戦没者合同慰霊祭を広島市児童文化会館前広場で開催。約1万5,000名が参加。
11月14 日 広島市、強制作業中の原爆犠牲者12万8,000人の靖国神社合祀と、遺族を戦争遺家 族援護の対象に入れるよう国会請願展開。広島市議会議員ら、参院遺家族等援護 小委員会で請願の主旨説明(15日には衆院)。
  1952年(昭和27年)
4月28日 対日講和条約発効。
8月 6日 広島市慰霊式並びに平和記念式典(以下、広島市平和式典と略称)。平和記念 公園で原爆死没者慰霊碑除幕、原爆死没者名簿(過去帳)奉納。約1,000名参列。
8月 9日 ひろしま川祭(第1回)(~10日)。
  1953年(昭和28年)
8月 6日 広島市平和式典。約3,000人が参列。市長らによる原爆死没者慰霊碑への「花輪奉呈」実施(初)。読売、朝日、中国各社の専用機、式典会場に花束を投下。
ひろしま川祭委員会、元安川と本川で2,000個のとうろう流しを実施(~8日)。
  1954年(昭和29年)
3月 1日 米、南太平洋マーシャル群島で水爆実験。マグロ漁船第五福龍丸、ビキニ環礁東方110キロメートルで「死の灰」を浴びる。
8月 6日 広島市平和式典。高松宮夫妻出席。2万人参列。「遺族代表」が「花輪奉呈」(初)。中国地方競翔部、「平和宣言」終了と同時に式典会場で鳩700羽を放つ。原・水爆禁止広島県民運動連絡本部、式典終了後、原爆・水爆禁止広島平和大会を平和記念広場で開催。約2万名が参加。
9月 4日 広島市、世界の主要都市市98、平和団体29、計127か所へ平和宣言を発送。モスクワ、スターリングラード、北京など共産圏へは初めての13通を含む。
  1955年(昭和30年)
4月30日 広島市長選挙。渡辺忠雄当選。
5月30日 広島平和記念館落成式。
8月 5日 広島戦災供養会、慈仙寺鼻で原爆供養塔の落成式を挙行。
8月 5日 広島平和美術展(第1回)、平和記念館で開催(~8日)。
8月 6日 広島市平和式典。5万人参列。
8月 6日 原水爆禁止世界大会(第1回)、広島市で開催(~8日)。
8月24日 広島平和記念資料館開館。
  1956年(昭和31年)
5月 1日 広島市、平和宣言への海外の反響をまとめる。発送数141通(うち共産圏16通)、返書238通(うち共産圏82通)。
8月 6日 広島市平和式典。2万人参列。
  1957年(昭和32年)
4月 1日 原子爆弾被爆者の医療等に関する法律施行。
8月 3日 原爆死没者慰霊碑周辺の「平和の池」、贈呈除幕式。
8月 6日 広島市平和式典。三笠宮夫妻出席。2万人参列。「原爆乙女」が「平和の鐘」を点打。
  1958年(昭和33年)
8月 6日 広島市平和式典。高松宮夫妻出席。3万人参列。
  1959年(昭和34年)
7月 -日 広島県宗教連盟、8月6日に各戸に弔旗を掲げ、静かに死没者の冥福を祈る運動を展開することを申し合わせる。
8月 5日 第5回原水爆禁止世界大会、広島市で開催(~7日)。
8月 6日 広島市平和式典。3万人参列。
  1960年(昭和35年)
1月21日 広島県議会議長、市議会議長に「8月6日に県・市合同の原爆死没者慰霊祭を開きたい」と申し入れる。
7月23日 広島県・市、平和式典への参列を呼びかけるポスター5,000枚とチラシ5万枚を全国各都道府県、県内市町村、団体へ送付。県内各市町村に当日8時15分にサイレン、鐘を鳴らすよう要請。
7月29日 全日自労広島分会、広島県に慰霊式がお祭り騒ぎにならないよう申し入れる。
8月 4日 線香リレー、府中市役所(東部コース)と庄原市役所(北部コース)を出発。
8月 6日 広島県・市共催、平和式典。皇太子、中山マサ厚生大臣、清瀬衆議院議長、各政党代表など参列。約4万人が参列。
8月 6日 原爆15周年記念総合体育大会、広島市内の22会場で開催 (~7日)。
  1961年(昭和36年)
8月 6日 広島市平和式典、小雨の中(初)で開催。約3万人が参列。「被爆者代表」が「献花」(初)。
  1962年(昭和37年)
8月 6日 広島市平和式典。約3万人が参列。
  1963年(昭和38年)
8月 5日 第9回原水爆禁止世界大会、広島市で開催。
8月 6日 広島市平和式典。約3万人が参列。「平和の鐘」点打の役を「被爆者」から「遺族」に代わる。
8月17日 広島県原爆被爆者援護対策協議会、広島市原爆被爆者協議会など11団体代表、県庁で原水爆禁止世界大会の批判会を開催。今後8月6日を中心とした5日間の平和公園や公共施設の平和団体への貸付は慎重にと県・市に申し入れることを決定。
8月21日 広島市遺族会、県社会福祉協議会、県婦連など12団体、県知事に、原水禁大会を公共施設から締め出すよう申し入れる。
  1964年(昭和39年)
3月23日 広島県議会、原爆記念日を祈りの日にするとの意見書を採択。
6月 5日 広島市、平和記念日を中心とした3日間は平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前広場を一般団体の集会に使わせない方針を決定。
6月13日 広島県原爆被爆者対策協議会(平塩五男会長)のよびかけで原水禁運動、被爆者、 婦人団体の代表者会議を県庁で開催。8月6日に全県民で黙祷を行なうことを申し 合わせる。
7月24日 永野広島県知事、8月6日に全県民が黙祷するよう呼びかける(初)。
8月 1日 平和の灯点灯式。
8月 6日 広島市平和式典。小雨の中、約3万5,000人が参列。
  1965年(昭和40年)
6月23日 浜井広島市長、平和式典への首相の出席を要請することを明らかにする。
8月 6日 広島市平和式典。橋本内閣官房長官が首相代理で出席。約3万人が参列。(台風 15号の影響)
  1966年(昭和41年)
8月 6日 広島市平和式典。約3万人が参列。
  1967年(昭和42年)
4月28日 広島市長選挙。山田節男当選。
8月 6日 広島市、平和式典。3万5,000人が参列。「平和の鐘」に香取正彦寄贈の鐘が初めて使用される。
  1968年(昭和43年)
5月20日 原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律公布。
5月27日 広島市平和文化推進審議会(67年12月発足)、5回目の会合を開催。平和記念式典のあり方をめぐり意見交換。
6月24日 広島市、平和式典に原水禁団体や世界連邦運動団体の代表を招待すると発表。
6月25日 広島市、平和式典の実施要綱を決定。「平和祈念式」と名称変更。式典会場に被爆者席を特設。
7月20日 広島市、原爆罹災者名簿の一般公開を広島平和記念館で実施(-8月5日)(初)。
8月 5日 広島市、第1回「平和を語る市民の集い」、「平和への夕べ」音楽会(第1回)を開催。
8月 6日 広島市、平和式典を挙行。約4万人が参列。ローマ法王パウロ6世がメッセージを寄せる。会場に被爆者席300席を特設、式の開始時に「慰霊の曲」、献花時に「礼拝の曲」を演奏(初)。
  1969年(昭和44年)
8月 6日 広島市平和式典。約4万9,000人が参列。韓国居留民団広島県本部の婦人約30人、 チョゴリ姿で平和式典に初参列。広島ベ平連、広島市の平和式典終了後、平和記念公園でフォーク反戦集会を開催。
8月 6日 8・6広島反戦集会、広島大学本部構内で開催。約300人参加。午後6時過ぎから約1,500人が平和記念公園へ向けてデモ。
  1970年(昭和45年)
6月16日 広島県被団協(森滝理事長)、広島市に平和式典のあり方の大幅修正を申し入れ。
6月18日 広島市、平和文化推進審議会を開催。平和宣言について意見聴取。
7月18日 広島市、8・6式典に一般市民代表50人の流れ献花を加える。南北朝鮮から一人ずつ参加を求める。
7月28日 広島市公衆衛生推進協議会、平和記念公園を一斉清掃(初)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万人が参列。RCC,宇宙衛星で国際中継放映。
8月 6日 原爆記録映画「ヒロシマ・原爆の記録」、一般公開。
  1971年(昭和46年)
5月11日 佐藤首相、広島市の平和式典に参列するむねを表明。
7月 5日 被爆者青年同盟代表、首相の8・6出席は許せないと広島市に申し入れ。
7月13日 原水禁国民会議、佐藤首相あての核問題についての公開質問状を竹下官房長官に手渡す。式典終了までに回答を求める。
7月 -日 長崎市、原爆犠牲者慰霊祭と平和祈念式を分離して実施することを決定。これまでは、原爆慰霊奉賛会と長崎市が合同主催で実施。
7月27日 日本被団協、佐藤首相あての「被爆者問題に関する要望書」を竹下官房長官に手渡す。
7月31日 広島県原水協と県被団協、来広予定の佐藤首相あての被爆者援護強化要望書を広
島市に託す。
8月 4日 広島県警察本部、8・6平和式典警備本部を設置。県警察始まって以来最高の2,700人の制・私服警官を配置の予定。
8月 5日 学生各派、広島駅周辺で佐藤首相来広抗議のデモ。
8月 6日 広島市平和式典。佐藤首相、船田中衆議院議長参列。雨の中、約3万人が参列。佐 藤首相、広島の式典終了後、広島平和記念資料館、原爆被爆者養護ホームを訪問。     広島県知事と広島市長、広島県庁で佐藤首相に被爆者援護対策について陳情。
 8月 7日 日本被団協、佐藤首相の広島訪問について被爆者援護策が無いとの声明を発表。
8月21日 広島地検、平和式典で佐藤首相に突進した女子学生を処分保留のまま釈放。
  1972年(昭和47年)
7月28日 広島市、平和式典の要綱を決定。衆参議長の代読は中止(初)。
8月 6日 広島市平和式典開催。約4万人が参列。長崎市の卜部助役と宮崎市議会議長が公式に参列(初)。1958年以来14年ぶりの静かな一日。
  1973年(昭和48年)
7月18日 広島県被団協、山田市長に平和式典で若者の誓いを述べさせたいと要望。
8月 6日 広島市平和式典。約4万人が参列。長崎市長、初参列。
8月 6日 埼玉県庁職員、午前9時から原爆被災者の冥福を祈って1分間の黙祷。9日にも。県庁では全国初。
8月 6日 原水爆禁止西宮市協議会の被爆者37人、広島市の平和式典に参列。(初)
8月 9日 長崎市、平和祈念式を挙行。山田広島市長、初参列。約1万1000人が参列。
8月 9日 広島市、長崎原爆被爆時刻にサイレンを鳴らす(初)。
  1974年(昭和49年)
7月 1日 広島市、平和式典に「献水」を取り入れる方針を決定。
8月 1日 山田広島市長、外国の元首・大統領など首脳に平和宣言を送るよう指示。
8月 1日 広島平和記念館で「市民の描いた原爆の絵」の公開始まる(~6日)。
8月 2日 屋良朝苗沖縄県知事の広島市平和式典への出席が決定。宮沢広島県知事の招待。
8月 5日 田中厚生大臣、広島被爆者団体連絡会議の6人と会見。現職の厚生大臣が広島で被爆者団体の要望を聞くのは初めて。
8月 6日 広島市平和式典。約4万人が参列。
  1975年(昭和50年)
2月23日 広島市長選挙。荒木武当選。
5月19日 桧垣益人広島県被団協事務局長ら6人、平和式典を被爆者、遺族本位にして欲しいと荒木広島市長に申し入れる。
8月 2日 広島市、平和式典参列者に「平和宣言」文を配布することを決定(初)。
8月 6日 広島県公安委員会と広島市、午前7時から3時間、平和公園前の平和大通り900メー トルを車両通行止めとする。(初)
8月 6日 広島市平和式典。約4万人が参列。ラロック米海軍退役少将など参列。
8月 -日 広島市の平和宣言に対する反響が届く。国外250通のうち108社は報道機関向けで初めての試み。
  1976年(昭和51年)
8月 6日 広島市平和式典。三木首相、据石和米国原爆被爆者協会副会長など、約4万人列。在米被爆者の代表としては初参加。三木首相、式典終了後15分間広島県庁で被爆者代表5人の声を聞く。
12月 1日 広島・長崎両市長、国連を訪問し、事務総長と総会議長に核兵器廃絶への措置を要請。
  1977年(昭和52年)
5月14日 広島・長崎両市長、国連事務総長と国連総会議長に平和式典への招請状を発送。31日、国連総会議長の広島・長崎平和式典への参列が決定。
7月 1日 広島平和文化センタ-、理事・評議員の合同会議を開催。平和宣言について討議。
8月 5日 アメラシンゲ国連総会議長、広島市の原爆死没者慰霊碑に参拝、広島平和記念資料館、広島原爆病院を訪問。
8月 6日 広島市平和式典。アメラシンゲ国連総会議長、韓国人原爆被害者協会の被爆者9人、など約5万人が参列。ワルトハイム国連事務総長、メッセージを寄せる。
  1978年(昭和53年)
7月18日 広島市、平和式典の実施要綱を決定。会場周辺に6台のモニターテレビを設置することを決定。
7月26日 広島県労会議と県労被爆連、県知事と市長に8月6日を祈りの日にするよう申し入れ。
8月 6日 広島市平和式典。約4万人が参列。
8月 6日 広島電鉄と広島バス、原爆投下時刻に市内を走る電車とバスを一斉に止め黙とう。1955-63年に実施し、中断していたのを復活。
  1979年(昭和54年)
2月20日 広島市、平和式典に各国駐日大使を招請することを決定。
7月16日 広島市、平和式典の内容を決定。原爆投下時刻の黙とうを中国地方全県と愛媛、香川両県に呼びかけることなどを決める。
7月17日 広島県原水禁と県労被爆連、8月6日に全県的に黙とうをし、全国へも呼びかけるよう広島県知事と広島市長に申し入れ。
8月 6日 広島市平和式典。雨の中3万人が参列。
  1980年(昭和55年)
7月14日 広島市、平和式典の内容を決定。全都道府県に黙とうを呼びかける。
8月 6日 広島市平和式典。雨の中、約3万5,000人が参列。式典が国庫補助(300万円)の対象となる(初)。
  1981年(昭和56年)
6月 -日 国際軍縮促進議員連盟、広島・長崎の平和式典に代表を出席させることを決定。
6月29日 広島・長崎両市、全国の都道府県・政令市に原爆犠牲者名簿への記載協力要請文書を発送。広島は、前年単独で依頼。
8月 5日 広島市、各国や都道府県に発送している平和宣言に、意見や提言を求める要望文を添える(初)ことを決定。
8月 6日 広島市平和式典。鈴木善幸首相、全国都道府県遺族代表が参列(初)。約4万人が 参列。
8月 6日 平和を語る青年の集いのメンバーら約150人、原爆ドーム横で原爆投下時刻にダイイン。(初)
11月25日 広島市、平和宣言に対するアンケート(前年に続き2回目)の回答を海外33か国の128人から受け取る。
  1982年(昭和57年)
6月 8日 全国市長会、理事・評議員合同会議で広島・長崎の原爆投下時刻に黙祷を実施することを決定。
7月26日 国際軍縮促進議員連盟、8月6日の広島市平和式典に代表を派遣することを決定。
8月 6日 広島市平和式典。約4万3,000人が参列。非核自治体宣言をした沖縄県北中城村など8市町村の首長、式典に参列。兵庫県被団協のメンバー(18名)、同県費補助で来広し、参列。
  1983年(昭和58年)
1月20日 広島・長崎両市長、連名で海外23か国72都市に「核兵器廃絶に向けての都市連帯」を呼びかけるメッセージを送付。
5月14日 広島・長崎両市、連名で全国の地方自治体に「原爆死没者の慰霊と平和祈念の黙とう」を呼びかける文書を発送。
7月11日 広島県被団協など4団体、広島県・市に谷川防衛庁長官の平和式典への出席を拒否する意向表明。19日、広島県原水禁、平和式典に出席予定の中曽根首相に公開質 問状を発送。この後も、広島県原水協(21日)、広島被爆者団体連絡会議(27日)、広島県労青年部など(8月2日)の抗議行動が続く。
8月 6日 広島県警、広島市の平和式典開催で2,500人の警察官を動員。過去最高。
8月 6日 広島市平和式典。中曽根康弘首相、谷川和穂防衛庁長官参列。約4万8,000人が参列。
8月 6日 京都府八幡市、「平和の鐘」の録音テープ流し、市民らに原爆投下時刻の黙とうを呼びかける。
12月28日 広島市、市内10か所に平和宣言文のパネル板を設置。
  1984年(昭和59年)
7月21日 甲府市(1982年に「核兵器廃絶平和都市」宣言)広島市の平和式典に市民代表約50人を派遣することを決定。
7月23日 原爆死没者慰霊碑の改築工事始まる。
8月 6日 広島市平和式典。約4万5,000人が参列。特別名誉市民フロイド・シュモーら参列。
10月 8日 広島市、平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑改築で、仮設慰霊碑の設置工事開始。11月27日、過去帳を仮慰霊碑に移し替え。
  1985年(昭和60年)
3月26日 広島市の平和記念公園の新原爆死没者慰霊碑、完成し、除幕式。
4月24日 米のCBSテレビ(本社ニューヨーク)、広島市の平和式典を実況中継することが決定。(米へ中継で放送されるのは初)
6月 4日 広島市の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑献花台、取り換えられ、新しく設置。
7月 3日 広島市、原爆供養塔納骨名簿を全国約890の自治体に発送。
8月 5日 第1回世界平和連帯都市市長会議、広島市で開幕(~9日)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人が参列。中曽根首相参列。在外被爆者初めて献花。
  1986年(昭和61年)
7月10日 奈良市、 8月 6・9日の原爆投下時刻に寺院の鐘をつくよう同市内の寺院に、協力を呼びかけ(初)。
7月12日 広島市、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の敷石改修工事を開始(21日まで)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万人が参列。非核都市宣言自治体連絡協議会代表100人が参 列。
8月 6日 「’86平和サミットinヒロシマ」、広島厚生年金会館で開催。
8月15日 全国戦没者追悼式 (政府主催) 、東京で開催 (約7,900人参列) 。原爆死没者遺族(約90人) 、今年初めて国費で招請され、参加。
1112 中曽根前首相の句碑、平和公園に隣接する河岸緑地に建立。
  1987年(昭和62年)
8月 -日 広島市視力障害者福祉協会、平和式典での広島市長による平和宣言を点訳し、全 国に配布。平和宣言の点訳は初。
8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人参列。中曽根首相、参列(3回目)。
8月 6日 「’87ジャーナリスト国際平和シンポジウム」、広島厚生年金会館で開催。
  1988年(昭和63年)
8月 6日 KDD、広島市平和式典などを海外に伝えようと、平和記念公園に無料サービスの国際電話(5台)を設置(午前10時-正午まで)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万人参列。「ストップ・ザ・戦争への道!ひろしま講座」など市民団体、「朝鮮人被爆者慰霊碑の平和公園内建立」などを訴えたチラシ「市民による平和宣言」を平和式典参加者らに配布。
8月 6日 「’88青年国際平和シンポジウム・イン・ヒロシマ」、広島厚生年金会館で開催。
  1989年(平成元年)
6月28日 広島市議会、広島市の8・6休日(事務休停日)存続を、国に要望する意見書を採択。同休日は、1947年制定以来、祈りと平和希求の日として定着しており、存続に配慮の要請。
7月 1日 広島国際会議場開館。
8月 5日 第2回世界平和連帯都市市長会議、広島市で開幕(~9日)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人参列)。宇野宗佑首相、参列。
  1990年(平成2年)
8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人参列。海部首相、参列。広島県・市の在外被爆者招待事業で来広中の被爆者、平和式典に参列。
8月 6日 「’90女性国際平和シンポジウム・イン・ヒロシマ」、広島国際会議場で開催。
1991年(平成3年)
2月 3日 広島市長選挙。平岡敬当選。
3月12日 地方自治体独自の休日の認定を盛り込んだ地方自治法改正案、衆院地方行政委員
会で可決。これによって、広島市の8・6休日が法的に認知される。
7月 3日 「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心にむ集会」実行委員会、8月6日の平和式典を、日本の戦争責任への反省を盛り込んだ式にするよう広島市に要望書を提出。
7月13日 広島市、「平和宣言」について市民から聴取した意見の概要を公表。「わかりやすく、平易に」・「アジアに謝罪の言葉を」など。
8月 3日 第7回世界テレビ映像祭、広島国際会議場で開催。(-4日)
 8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人参列。海部首相、昨夏に次いで2回目の参列。平岡広島市長、平和宣言の中で、アジアへの加害責任を初めて謝罪し、被爆地として世界の核被害者の救援を推進する責務を強調。演奏旅行で来日中のフィンランド のタピオラ少年少女合唱団(39人)、式典の「ひろしま平和の歌」の合唱に参加。合唱団への外国人の参加はハノーバー合唱団に次ぎ2度目。
8月 6日 国際平和シンポジウム、広島国際会議場で開催。
8月 6日 中国新聞社、広島市長が平和宣言でアジアへの謝罪を表明したことについて、平和公園で50人にアンケート調査。それによると、66%が肯定的意見。
1992年(平成4年)
1993年(平成5年)
1994年(平成6年)
1995年(平成7年)
1996年(平成8年)
1997年(平成8年)
2021(令和3)年
0806
 00:00   地球平和監視時計(広島平和記念資料館内)「広島への原爆投下からの日数 27759」、「最後の核実験からの日数 249<2010年11月の米国未臨界実験>」
  06:00  原爆ドーム周辺。
 静かな8月6日を願う広島市民の会の数十人、「8月6日は慰霊の日静かに祈ろう」と書かれたプラカードを掲げる。
 8・6ヒロシマ大行動実行委員会の100人以上、拡声器を使用して集会。

 

平和集会・シンポジウム(平和式典の関連行事)

平和集会・シンポジウム(平和式典の関連行事)

戦後の平和記念日には、被爆の翌年から毎年、さまざまな行事が、繰り広げられてきた。その中には、平和記念公園内の供養塔で執行される慰霊祭や灯ろう流しなどのように、平和式典と連携して開催された行事のほかに、独自に、あるいは対抗して開催されたものもある。1949年(昭和24年)8月6日の平和式典終了後児童文化会館で広島平和婦人連盟主催の平和婦人大会が開催されているが、これは、式典に連携して開催された初めての平和集会であった。翌50年8月6日の式典は中止された。しかし、広島平和擁護委員会などは、独自に8・6反戦平和大会(非合法)を開催した。また、51年から毎年、労組や市民団体などによる平和集会が開催されるようになった。これらの集会の開催は、式典とは独立した、あるいは、対抗的な意図をもつものであった。しかし、54年以降、式典と連携した多様な原水爆禁止大会・集会が開かれるようになった。
1967年10月、広島市は、「ヒロシマの心を根底として、世界の平和を推進する機関」とするため、市の一局として広島平和文化センタ-を発足させる(1976年4月1日に財団法人に改組)とともに、平和に関するさまざまな行事を展開するようになった。68年8月5日に平和記念館講堂で開催された「平和を語る市民の集い」は、そうした行事の一つである。式典の前夜祭行事として企画されたこの集会には、市民300人が参加した。この集会のテーマは「ヒロシマはいかに平和を訴えるべきか」であった。69年8月2日には、第2回の集会が「被爆体験の継承と平和教育」をテーマとして、また、70年7月31日には、第3回集会が開催された。
1971年以後、式典に連携した平和集会の開催は、途絶えていたが、85年からふたたび平和集会が国際的な規模で開催されるようになった。
1970年代に入ってからの国連における核軍縮への関心の高まりは、78年・82年・88年の国連軍縮特別総会開催に結実した。82年の総会で発言の機会を得た荒木広島市長は、その演説や同年の平和宣言の中で諸外国の都市が連帯して、核兵器廃絶のため共に努力することを呼びかけ、翌83年1月20日には、本島等長崎市長と連名で、「核兵器廃絶のための都市連帯」を呼びかける書簡を世界各国の都市に送付した。最初に呼びかけたのは23か国の72都市であったが、その後、184都市が追加された。86年3月末までに、58か国256都市に呼びかけがおこなわれたが、そのうち、33か国131の都市が賛同の回答を寄せた。被爆40周年の85年8月5日から9日の5日間、この呼びかけに賛同する世界各国の都市の市長が、広島・長崎に集まり第1回世界平和連帯都市市長会議(基調テーマ=核廃絶をめざして-核時代における都市の役割)を開催し、22か国67都市の市長および国内の33自治体の首長が参加した。広島市での会議は、8月5日と6日の両日開催された。これは、広島市が平和記念日に開催した初めての国際会議であった。

この年以後、広島市は、毎年平和記念日に国際会議(シンポジウム)を開催するようにな った。86年以降のシンポジウムの概要は、つぎのようなものである。

1986年 平和サミット
テーマ=国際平和を求めて
海外からの参加者=ライナス・ポーリング(米)、ドロシー・ホッジキン(英)、デズモンド・ツツ(南アフリカ)、パウル・クルッツェン(西独)、明石康(国連)、フランク・ブラッカビー(英)、ラドミール・ボグダノフ(ソ連)

1987年 ジャーナリスト国際シンポジウム
テーマ=核・平和問題とジャーナリストの役割
海外からの参加者=ヴィクトル・G・アフェナシェフ(ソ連、プラウダ)、ティグビー・C・アンダーソン(英、ザ・タイムズ)、ジャン-マリー・デュポン(仏、ル・モンド)、セイモア・トッピング(米、ニューヨーク・タイムズ)、席林生(中国、人民日報)

1988年 青年国際平和シンポジウム
テーマ=核時代における青年の役割
海外からの参加者=アン・サウスウィック、シェリル・コハシ(米、ホノルル市)、コンスタンチン・シェプトゥーキン、ラリッサ・アントノバ(ソ連、ボルゴグラード市)、ハルトムート・ゼレ、ウルリケ・アンネッテ・シュナイダー(西独、ハノーバー市)、張臨台、丁素紅(中国、重慶市)

1989年 第2回世界平和連帯都市市長会議
テーマ=核兵器廃絶をめざして-核時代における都市の役割
参加者=海外26国81都市、国内38自治体

1990年 女性国際平和シンポジウム
テーマ=世界平和を考える-国際平和と核軍縮達成のために
海外からの参加者=ハンネロア・クンツェ(西独・来賓)、エレナー・コア(米)、カトリン・フックス(西独)、スヴェトナーナ・サビツカヤ(ソ連)、マイ・ブリット・テオリン(スウェーデン)、周士琴(中国)

1991年 第7回世界テレビ映像祭国際平和シンポジウム
テーマ=地球の時代・平和の創造
海外からの参加者=パベル・スティングル(チェコスロバキア)、ハインツ・ヘミング(独)

平和式典にともなう規制と警備

式典にともなう規制と警備(『平和記念式典の歩み』1992年)

朝鮮戦争下の1950年(昭和25年)から57年にかけて、広島での平和集会は、厳しく規制された。しかし、この時期の規制は、1950年の平和祭の中止に見られるように平和式典そのものにも及んでいた。占領解除後、こうした規制は、無くなった。しかし、60年以降、平和式典をスムーズに開催するための規制が現れ、次第に強められていった。

原水爆禁止日本協議会(略称:日本原水協)は、1959年12月の全国理事会で、前回に引続き、60年の第6回原水爆禁止世界大会も広島で開催したい意向を表明していた。一方、翌年に入ると、新日本協議会が、60年8月6日を中心に3日間、広島で平和大会を開催することを計画し、旧軍人団体や宗教団体に働きかけを始めた。こうした動きに対し、1月22日、広島県・市両議会の正副議長は連名で、日本原水協と新日本協議会県支部につぎのような申し入れを行なった。

今年は原爆15周年になるので、全国的規模のもとに県・市共催の大慰霊  祭を厳粛、荘重に行ない、一切の雑念を払いたい。このためかりに第6回原  水禁世界大会が8月6日を避けても広島市で開かれれば、昨年の第5回大会の  実績からみて平和行進や大会準備などによって相当の影響をこうむること  は免れない。とくに新日協の大祭や大会が同時に開かれる場合は、激突の  おそれがあり、昨年以上の混乱が予想され、誠に遺憾にたえない。よって  両者の大会や大祭の広島市開催はいずれも遠慮されたい。
(「中国新聞」60年1月23日)

その後、第6回原水爆禁止世界大会は、東京で開催されることになり、また、新日本協議会の意図した大会は、平和記念日を外し、8月15日に平和記念公園で「平和祈念慰霊国民大祭」として開催された。一方、この年の式典には皇太子の参列があることになり、広島県警察本部は、8月6日と7日の両日、広島東、西、宇品の市内3署を始め周辺各署から警察官を延べ約1,000人を動員するという警備体制を敷いた。これは、広島県警としては1947年と51年の天皇行幸につぐ大規模なものであった(「中国新聞」60年8月2日)。

1963年の第9回原水爆禁止世界大会は、日本原水協の内部対立の激化や、右翼や全学連の集結(8月3日から6日にかけて、右翼50人、全学連1,260人が広島入り)などにより、開催前から混乱が予想された。浜井広島市長は、8月1日、「大会がもめるようであれば、このさい広島で開いてほしくない」と原水協に注意を促した。また、広島県警は、右翼と全学連の警備を中心的な目的として警備本部を設置し、県内の警察官の40%にあたる1,000人前後の警察官を動員した。動員人員は、5日の1,493人を最高に、3日から7日までの5日間で延べ6,600人に及んだ。式典の前夜の平和記念公園での世界大会は、社会党、総評などがボイコットし、原水禁運動の分裂は決定的なものになった。また、大会会場を占拠した全学連主流派の学生約180人が、主催者の要請で警察官600人により排除されるという事態が起こった。広島市は、踏み荒された式典会場の後始末を徹夜で行なうとともに、当日には、原爆死没者慰霊碑前の式典列席者の席の警備のためボーイスカウト広島県連盟、広島市消防局員など150人を動員した。
大会後の8月17日、広島県原爆被爆者援護対策協議会、県社会福祉協議会、県婦連(正式名称:広島県地域婦人団体連絡協議会)、広島市原爆被爆者協議会、広島市遺族会など11団体は、世界大会の批判会を開いた。その結果、原水協に「来年からは広島で大会を開かないでほしい」との申し入れを、また、広島県知事と広島市長に「来年からは8月6日を中心とした5日間、平和記念公園や市内の公共建て物を平和団体に貸す場合は、特に慎重であってほしい」との要望を行なうことを決めた。こうした市民の要望を受けて、広島市は、翌1964年6月5日、8月5、6、7日の3日間、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前広場を一般団体の集会に使わせない方針を決定した。

1967年4月、広島市長となった山田節男は、平和記念公園の聖域化構想を打ち出し、公園内での露天営業の許可取り消し(69年2月)、メーデーを除くデモや集会の不許可、芝生内への立ち入り禁止など、平和記念公園の利用に対する規制を進めた。

1969年には、「灯ろう流し」に支障があるという理由で、広島県公安委員会が、「8・6広島反戦集会実行委員会」から出されていた8月6日午後6時からのデモ行進の申請を「コース変更」の条件付きで許可した。県公安条例に基づくデモ申請でコース変更という条件付きで許可されたのは、67年11月15日の羽田不当弾圧反対闘争(広大教養部学友会主催)のデモについで2度目のことであった。
1971年8月4日、広島県警察本部は、「8・6平和祈念式典警備本部」を広島西署に設置し、8月5日と6日には広島県警の1,800人のほか、大阪・兵庫・京都の3府県、広島以外の中国4県から応援を求め、計2,700人を動員した。また、広島市自身も坂田助役を本部長とする警備本部を設置し、職員330人が公園内の整理にあたった。これらの措置は、内閣総理大臣を初めて式典に迎えるために取られものであった。この年以後、こうした警備が恒常的に行なわれるようになった。中曽根総理大臣と谷川防衛庁長官が参列した83年には、警察官の動員数は、2,500人におよんだ。一方、広島市の警備のための職員は、86年には815人であったが、87年以降は1,200人前後となっている。

マスコミによる空からの平和式典の取材は、当初は自由になされていた。しかし、式典の進行の妨げになるという理由から、自粛されるようになった。その時期は明確ではないが、新聞に掲載された写真から判断すれば、1950年代後半からと思われる。70年には、「8月6日を静かな祈りの日に」との目的で、式典前後に、一般車両の進入禁止など平和記念公園一帯の交通規制が行なわれた。8月6日当日の規制は、その後さらに強められ、75年には、式典前後の車両通行止めが100米道路(NHK前-西平和大橋)900メートルに拡大された。

1952年式典(平和式典の原型)

1952年式典(平和式典の原型)

1951年(昭和26年)9月9日、サンフランシスコで対日講和条約が調印され、翌52年4月28日発効した。これにより、占領下においてタブーとなっていたさまざまな動きが一気に噴き出すこととなった。51年10月19日、戦後初の広島県戦没者合同慰霊祭が広島県遺族厚生連盟により行われ、翌52年5月2日には、広島県主催の戦没者追悼式が開催された。東京の出版社は、51年10月『原爆の子-広島の少年少女のうったえ』(長田新編、岩波書店)、52年4月『原爆の図』(丸木位里・赤松俊子、青木文庫)、6月『原爆詩集』(峠三吉、青木文庫)、8月『原爆第一号 ヒロシマの写真記録』(海野彪、田島賢裕、朝日出版社)、『広島-戦争と都市』(岩波写真文庫)、9月『詩集原子雲の下より』(峠三吉編、青木文庫)など、原爆被害の実態を取り上げた書物をつぎつぎに出版した。また『アサヒグラフ』(52年8月6日号、「原爆被害の初公開」)、『改造』(52年11月増刊号、「この原爆禍」)といった雑誌が、原爆特集を行なった。
独立後初の平和式典は、平和記念公園内に新設された原爆死没者慰霊碑前広場で午前8時から1時間、つぎの式次で開催された。
開式の辞 (坂田助役)
慰霊碑除幕(戦災孤児5名)
広島市原爆死没者過去帳奉納(浜井市長)
焼香   (戦災孤児2名)
式辞 (永田市会議長)
平和の鐘、黙とう(午前8時15分)
平和宣言 (浜井市長)
放鳩
メッセージ朗読 吉田首相(代読:河野副知事)、岩本衆院副議長(代読:佐竹代議士)、三木参院副議長、英連邦軍呉基地司令官パットン代将、大原広島県知事(代読:河野副知事)、山中県会副議長
平和の歌合唱 (NHK広島放送局合唱団)
閉式の辞
式典には、前年同様、空からの参加が見られた。岩国基地駐留英連邦軍機が、山口県岩国渉外局長、毎日新聞記者ら6名を同乗させて式場上空を旋回し、三色の花輪をパラシュートに付けて投下、朝日新聞本社機「さちかぜ」も花束と同社村山会長のメッセージを投下した。また、NHKは、飛行機と地上を結ぶ二元放送による式典の実況放送を行ない、その途中で花束を投下した。

慰霊式(1951年)

慰霊式・平和記念式典(1951年)

1951年(昭和26年)5月10日、第1回と第2回平和祭の式典会場となった平和広場の平和塔の除去作業が始まった。直接の理由は、「都市美観上と同地が記念公園となるため」(「中国新聞」1951年5月12日)であったが、平和祭の終幕を象徴するできごとであった。
1951年7月25日、浜井広島市長は、各国主要都市200、国内各市300へメッセージを送付し、そこで原爆6周年の平和式典を開催することを明らかにしている。しかし、この年の平和祭の準備は、スムーズには進んでいなかった。平和祭分担金45万円の追加予算案が可決したのは8月4日の定例広島市会においてであった。
8月3日、広島市警と同公安委員会は、平和祭典委員会、平和擁護委員会などが許可申請を出していた市民広場と荒神小学校での平和大会を禁止するとともに、市民に向けてつぎのような声明を発表した。
平和祭は認めるが、これは同日を市民の厳粛な祈りとする建前であって、平和運動の美名にかくれて反占領軍的あるいは反日本的行動は断じて許されぬ。市民はこのことを十分了解されて、不用意にこの種集会などに参加して政令第325号違反あるいは公安条例など違反に問われることのないよう注意していただきたい。(「中国新聞」1951年8月4日)
この年の式典は、8月6日7時30分から10時まで戦災供養塔前広場で開催された。その式次第はつぎのようなものであり、平和祭というより広島平和協会主催の慰霊祭と言ってもよいようなものであった。
開会の辞  (吉田平和協会事務局長)
慰霊祭   修祓(教派神道)、献花祈祷(キリスト教)、□[判読不能]辞(神社庁)、敬白文奏上、読経回向(仏教)、玉串奉献(教派神道)、賛美歌
献花(浜井平和協会会長)、焼香(藤田供養会長)、玉串拝礼(森保、長岡遺族代表)
黙とう(サイレン)
記念式典
あいさつ  浜井市長
メッセージ 吉田首相、林衆議院議長、佐藤参議院議長、大原広島県知事
平和の歌
閉会の辞
中国新聞社と広島県・市は、アメリカ空軍岩国基地の要請により、朝鮮戦争に50回以上出撃したパイロット20数名を式典に招待していた。また、岩国基地所属の飛行機から花輪が投下され、霊前に供えられた。
この年は、原爆死没者の7回忌に当り、さまざまな団体によって8月6日に向けて多くの慰霊祭が開催された。

幻の平和祭(第4回、1950年)

幻の平和祭(第4回、1950年)

1949年(昭和24年)、原爆をめぐる国際情勢は大きく変化した。4月、トルーマン大統領は、ワシントンで開かれた民主党全国委員会主催の会合で、「世界の福祉と民主主義諸国民の福祉が危険にひんする場合には、私は再び原子兵器の使用を決定することをためらわないであろう」と言明した。社会主義の陣営では、9月にソ連が原爆保有を発表して欧米諸国に大きな衝撃を与えた。
こうした中で、広島への関心が、さまざまな形で現れるようになった。世界平和デー運動(=ノーモア・ヒロシマズ運動)のほかにも、世界連邦運動、ユネスコ運動、MRA(道徳復興)運動など国際的に展開されていた平和運動も、広島との交流を求めてきた。広島市長にトルーマン大統領あての平和請願署名運動を勧めたカズンズやハーシーは、世界連邦主義者同盟の有力メンバーであった。49年9月、スイスのコー市で開催されたMRA世界大会では、浜井広島市長、仁都栗市議会議長、楠瀬広島県知事のメッセージ(山田節男参議院議員が持参)に応えて、大会開催中の9月13日に「ヒロシマ・デー」が設定された。49年11月18日に広島ユネスコ協力会が発足し、50年8月6日に第5回ユネスコ全国大会を広島で開催することとなった(「中国新聞」1950年3月9日)。
1949年4月、パリとプラハで平和擁護世界大会(第1回)が開催された。これを契機に世界的に展開されるようになった平和擁護運動の中でも、広島への関心が高まった。原子兵器禁止を呼びかけたストックホルム・アピール(50年3月19日に平和擁護世界大会常任委員会第3回総会が採択)支持署名運動は、被爆体験を全面に掲げて展開された。4月下旬、東京で開催された青年祖国戦線結成大会に参加した広島・長崎の代表は、世界民青連に対し連名で、「原爆の廃墟の中から全世界の青年諸君に訴たう」と題する呼びかけを送付した。これは、世界民青連からの「原爆最初の犠牲者である広島の青年諸君から全世界の平和愛好者に原爆・水爆中止のための署名運動をよびかけるよう努力していただきたい」との要請に応えたものであった。広島・長崎の青年の呼びかけは、5月12日と13日の両日、モスクワ放送で放送された。5月中ごろに広島市内中心部に設けられた署名場には、「原爆の日の惨状」を写した数枚の写真が展示された。さらに、6月9日には、共産党中国地方委員会が、その機関紙『平和戦線』に広島の被爆直後の写真6葉を掲載し、ストックホルム・アピールへの支持を訴えている。また、丸木位里と赤松俊子の「原爆の図」展が、この署名運動と結合して全国各地で開催された。
広島市は、1950年6月初め、第4回平和祭の計画案を作成した。前年、自らの平和への意欲を広島平和記念都市建設法という国民的意志に結実させた広島市にとって、6月25日の朝鮮戦争の勃発による国際情勢の暗転は、平和運動の重要性をますます強く確信させるものであった。浜井広島市長は、6月13日、スイスのコー市で開催されるMRA世界大会出席と欧米視察を目的とする2か月余の外遊のため楠瀬広島県知事らと羽田を出発したが、市長不在中平和祭準備を指揮していた奥田助役は、「全世界の平和愛好者と手を取り合って、平和祭を守ることは、これ迄に達成された諸種の平和運動に更に拍車をかけ、ひいては目下世界各所で脅威を承けつつある平和を護持し、強化するに貢献するもの」と述べ、「この好機」にメッセージをよせることを連合軍総司令官と英連邦軍司令官に要請した(奥田達郎「平和式典にメッセージ懇請について」1950年7月17日)。また、7月下旬には、国内の各界約1,300か所と海外179都市長あてにポスター(原画:小磯良平)、パンフレット、メッセージなどを発送した(奥田達郎 「第五回平和祭式典発送伺」1950年7月25日)。また、「NO MORE HIROSHIMAS」を題字に掲げた8月1日付の「市政広報」創刊号に、つぎのような記事を掲載し、市民に平和祭への参加を呼びかけた。
近づく平和祭 行事決る 9時15分 祈りに
めぐり来る5度目の8月6日の平和祭を間近にひかへて広島平和協会では、この日を敬虔な反省と祈りの一日にしようと、華美に流れることをさけ極めて質素に執り行ふこととし、次の通り行事を決定、準備を進めている。なお、9時15分[夏時間で実際は、8時15分]を期し、一斉にサイレンを吹  鳴、祈りを捧げるよう呼びかけている。
△6日午前8時15分市民広場で平和式典を挙行、その内容は平和宣言に引きつづき放鳩、長崎市長からの広島の日に寄せる言葉、進駐軍のメッセージなどがあり、平和記念として楠を植える。
△当日の午後5時からと翌日の午後1時と午後5時から広島児童文化会館で平和記念音楽会(日本シンホネットオーケストラ)を開催
△8日午前10時および午後1時から児童文化会館で広島児童劇団の出演による平和子供会を催す。
△これらの行事のほか6日を中心として記念スタンプの発行や平和祭記録映画の作成及び
△長崎市との交歓会を開催する
しかし、8月2日午後4時から開かれた広島平和協会常任委員会は、突然4日後に迫っていた平和祭の中止を決定した。これは、「[中国地方]民事部ならびに国警本部県管区本部長、市警本部長との交渉」(同委員会の記録)の結果なされた決定であった。広島市民には、同日、平和祭中止を知らせるととともに、6日を「反省と祈りの日」として過ごすよう求めた奥田平和協会長代理の談話が発表された。また、前日の5日早朝には、広島市警察本部が、広島市平和擁護委員会や広島青年祖国戦線準備会が開催を予定していた平和集会を「反占領軍的」、「反日本的」集会と断じ、市民が参加することの無いよう求めたビラを市内に配布した。8月6日の行事は、市民広場で開催予定の平和式典のみならずその協賛行事も中止となった。ただ、午前8時15分には、平和塔の鐘が鳴らされ、それを合図に市内にサイレンが響き、市民が一斉に黙とうを行なった。また、慈仙寺鼻広場の供養塔前では、広島戦災死没者供養会主催の慰霊祭が例年のごとく執行された。

平和祭(第3回、1949年)

平和祭(第3回、1949年)

1949年(昭和24年)5月10日と11日、広島平和記念都市建設法案が第5回国会の衆参両院でそれぞれ満場一致で可決された。この法案は、「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的」(第1条)としたものである。この法案は、7月7日実施された住民の賛否投票の結果、7万1,852票(有権者総数の59.2%、有効投票数の91.9%)という圧倒的多数の賛成を得て成立し、8月6日に公布されることになった。
広島平和協会は、6月8日に開催した第1回役員会で第3回平和祭の行事を決定するとともに、協会の会則を変更し、第1条に「恒久平和の念願と人類文化の向上」という目的を明示することとした。広島市は、平和式典を前に、「恒久平和」(原文:Peace Forever)をモチーフとしたポスターを作成し、式典への招待状とともに全国の都道府県知事、268都市長および県内全市町村に郵送した。また、海外の161都市には、浜井市長のサイン入りのポスターを送っている。
この年の平和式典の会場は、前年とは異なり市民広場の児童文化会館前広場となった。そこには、4日、30尺(約9メートル)の鉄筋の鐘楼が完工し、5日には広島銅金鋳造会が新造した「平和の鐘」が備えつけられた。8月6日の式典は、組立式の会場で、8時15分から約1時間、つぎのような式次第で開催された。
平和の鐘
開会の辞  (伊藤平和協会副会長)
平和の歌合唱(広島放送合唱団 伴奏:広島吹奏楽団)
平和宣言  浜井会長
放鳩    (ミスヒロシマ)
進駐軍メッセージ 英連邦軍司令官ロバートソン中将(代読:ギャレット代将)、マッカーサー元帥、ウォーカー中将(代読:仁井出渉外課長)
メッセージ 幣原衆議院議長(代読:山本代議士)、松平参議院議長(代読:浅岡参議院議員)、吉田内閣総理大臣(代読:森戸代議士)
平和記念植樹(楠瀬知事、石島副会長)
平和記念樹苗伝達(仁都栗副会長)
平和記念公園・記念館設計当選者発表(仁都栗副会長)
ヒロシマ平和都市の歌合唱(広島放送合唱団女子部)
閉会の辞  (森沢常任理事代表)
(「中国新聞」1949年8月7日)
広島平和記念都市建設法公布の記念行事として開催された式典には、米英人80人、県選出国会議員ら来賓100余人、市民約3,000人が参列した。浜井市長は、平和宣言の中で同法の公布に言及するとともに、仁都栗市会議長と連名でトルーマン大統領あてに、「平和都市建設法を通じてなさんとする聖業の上に多大の関心を寄せられ、偉大なる人間愛の大使命達成の上に光栄ある御賛助を賜わらんことを懇願」するメッセージを送った(「中国新聞」1949年8月7日)。また、恒久平和の象徴として建設する平和記念公園の設計図は、145点の応募の中から、丹下健三ら4人の共同作品が当選と決定し、式典の中で公表された。このほかに、8月6日には、広島平和記念都市建設法公布記念切手が発売されている。
海外でも、この日を期して第2回世界平和デーの行事が催された。アメリカ・オークランド市のアルフレッド・パーカー(世界平和日運動の提唱者)の連絡によれば、カリフォルニア州で渡米中の谷本清の主宰で記念式典が開催され、ニュージャージー、ニューヨーク両州、サンフランシスコ市の各教会が原爆投下時刻に平和を祈る鐘を鳴らしている(「中国新聞」1949年8月27日)。また、アメリカ以外でもつぎのような動きが見られた。
フィリピン政府は、この価値ある目的に全面的に賛同すると表明し、デリーでは18ケ国大使からメッセージを受取り、ブタペスト、ハンブルグ、ミューニッヒ、バンガロール、ロンドンは大集会を催し、ベルリンは公園  で永遠の平和の火を点じ、ブルッセルでは「戦争停止」の独得の平和運動  を起こし、オーストラリア、ノールウェー、ウルグワイなどは全国的に放  送し、(中略)オーストラリアでは多くの集会や行事をしてこの日を祝賀した。
(「中国新聞」1950年4月11日)
1949年の4月初め、渡米中の谷本清は、ノーマン・カズンズとジョン・ハーシーの示唆により、広島市に対し、トルーマン大統領あての平和請願署名運動を実施するよう勧めた。谷本らは、7月中ごろまでに10万人以上の署名を入手し、8月6日に大統領に手渡す計画であった。しかし、広島市は、広島平和記念都市建設法案の住民投票との重なりを考慮し、平和祭を期して署名運動を開始することとした。「世界最初の原子爆弾戦争を体験した我等広島市民は、アメリカ大統領に対し国際連合を強化し、今後の戦争を防止し得るような強力な世界組織を作らんことを請願す」とある請願書の署名運動は、8月13日から開始された。この署名は、8月下旬までに10万7,854人分が集まり、5冊に綴ってカズンズあてに送られた(谷本清『ヒロシマの十字架を抱いて』)。

平和祭(第2回、1948年)

平和祭(第2回、1948年)

谷本清(広島キリスト教会連盟委員長)は、1947年(昭和42年)10月、岡山市で開催された宗教連盟中国地区大会で、広島被爆の日である8月6日に世界平和を祈る運動を提唱した。彼のこの呼びかけは、翌48年3月、UP特派員ルサフォード・ポーツ記者により「ノーモア・ヒロシマズ」のアピールとして報道された。アメリカ北部バプテスト連盟の人々は、ジョン・ハーシーの広島ルポ(1946年5月従軍記者として広島入りし、原爆が人間に及ぼした影響について6人の体験者の証言を中心にまとめあげたルポ。全誌面を提供した8月31日付『ニューヨーカー』は、発売当日に30万部を売りつくし、以後100種以上の新聞に連載、ラジオドラマとして電波に乗せられ、10数か国語に翻訳されたといわれる)とジャパン・タイムズに掲載された第1回広島平和祭の記事に刺激されていたが、谷本のニュースを受け取ると、8月6日を世界平和デーにしようと呼びかけた (谷本清「寄稿・広島で世界宗教平和会議を」、この寄稿は、48年6月18日付 「読売新聞」(西部版)に掲載予定であったが、検閲により保留後ボツとなった)。その理由は、広島が「原子時代の戦争が意味するもののシンボル」であり、8月6日以外に「全世界を通じ平和の思想と感情に、より以上の共鳴を呼び起こす日」はないから、というものであった。48年4月18日、世界26か国の発起人により世界平和デー委員会が組織された。「ノーモア・ヒロシマズ」が、この運動のスローガンであった。
広島市は、1948年6月上旬、前年の平和祭に対する意見、批判やその後の国際的反響を踏まえ、文化的色彩を強くし世界平和運動のメッカたらしめることを主眼とした平和祭の新構想を発表した。浜井市長は、この構想の意図を、「平和祭行事は従来の放任的なものから今年は企画を統一したい」、「犠牲になった広島の平和運動が物乞根性と誤解されてはならない、あくまで平和運動のメッカとして世界人類の頭から広島をわすれさせないようにするのが念願である」と説明している(「中国新聞」48年6月9日、10日)。6月14日に開催された広島平和祭協会の48年度初の総会では、協会名を広島平和協会と改称したが、その意図は、世界平和運動に主力を注ぐことにあった。具体的には、平和宣言を恒久的なものにするため森戸辰男文部大臣に依頼して中央の権威者に再検討を仰ぐ、世界の都市に平和祭の意義を述べ世界平和運動への協力を求めるメッセージを送る、画壇大家の作品を網羅した平和美術展覧会を開催する、日本交響楽団を式典に招くといった新企画が考えられた。また、平和祭当日には供養と平和の象徴として市民が造花を胸に付けることが検討された。
このうち、平和宣言の起草は天野貞祐に依頼し、浜井広島市長は、世界の160都市の市長にメッセージを送ることとなった。また、平和協会は、美術展のための第1回協議会を6月24日に開催し、南薫造と小林和作の二人を顧問に委嘱し、準備を進めた。8月4日から袋町小学校を会場として開幕した展覧会は、県内のみならず国立東京博物館、大原美術館の名画400余点が展示され、広島としては未曽有の盛観を示した。日本交響楽団の招待は実現しなかったが、JOFKの尽力でNHK世界の音楽の来演が決まった。世界の音楽管弦楽団と合唱団は、平和式典で伴奏と合唱を行なうとともに、当日の夜と7日に児童文化会館で開催された音楽会に出演した。平和と供養の造花は、産業美術家協会に試作が依頼され、7月5日、市内の学校の教師にその作製方法の講習会が実施された。市民は、平和式典にこの造花を付けて参列し、約1,000人が、式典終了後これを胸に、「ノー・モア・ヒロシマズ」、「十万の御霊に誓う 世界平和は青年で」、「世界平和は広島から」などのプラカードを掲げ、平和広場から市役所前に向けて行進した(花行進)。
8月6日の平和式典は、前年と同じく、平和広場の平和塔前で、午前8時から1時間、つぎの式次第で開催された。
開会の辞  (寺田平和協会副会長)
大木惇夫作 詩「ヒロシマを思いて」朗読
平和の鐘  浜井会長
平和宣言  浜井会長
放鳩    (ミスヒロシマ)
進駐軍メッセージ 英連邦軍司令官ロバートソン中将
メッセージ 芦田内閣総理大臣(代読:松本滝蔵)、松岡衆議院議長(代読:高津正道)、松平参議院議長(代読:岩本月洲)、森戸文部大臣、楠瀬広島県知事
平和記念植樹(伊藤副会長)
平和記念樹苗伝達(石島副会長)
平和の歌合唱(伴奏:世界の音楽管弦楽団)
閉会の辞  (寺田副会長)
(『昭和23年度広島平和協会事業報告』、「中国新聞」1948年8月7日)
第2回平和式典の基調は、ノーモア・ヒロシマズであった。平和塔の側には、「NO MORE HIROSHIMAS」の看板が建てられ、平和宣言は、「再び第2の広島が地上に現出しないよう誠心こめて祈念するものである」と、ノーモア・ヒロシマズを訴えた。また、海外では、この式典に呼応して少なくとも26か国で第1回世界平和デーの諸行事が開催された。
ロバートソン中将のメッセージは、平和宣言以上の長さであり、「渉外局」の平和式典に関する発表は、これを「記念講演」と表現し(「中国新聞」1948年8月6日)、AP電は「式典のクライマックス」(原文はhigh point)と伝えた(The New York Times 1948.8.6)。ロバートソンは、その中で「広島市が受けた懲罰は戦争遂行の途上受くべき日本全体への報復の一部と見なさねばなりません。今後諸君が平和政策を忠実に守るとすれば、世界全部がこのような悲惨事の起こるのを未然に防止できることと思います」と述べた。また、この式典には、オーストラリア国会議員団一行8人が、「オーストラリア国民の代表として民主的な国民になるだろう日本国民にどの程度の真実があるか、自分の目でみて判断したいと望んで」参列していた(ロバートソンの「メッセージ」の表現)。これらは、平和祭を見る世界の目が、原爆犠牲にもとづく広島の訴えへの同情のみでは無いことを示している。

平和祭(第1回、1947年)

平和祭(第1回、1947年)

1947年(昭和22年)4月、戦後初めての衆議院議員選挙や初の地方選挙が実施され、5月3日には、日本国憲法が施行された。こうした戦後の改革は、国民の平和への関心を高めた。広島では、被爆2周年目の8月6日に、前年の「統制的・追憶的」な行事ではなく「平和の息吹で原子砂漠をおおう」行事を開催しようとの声が起こった(「中国新聞」1947年6月21日)。石島治志NHK広島放送局長は、被爆市民の平和への意志を全世界に公表するために平和祭を開催することを構想し、4月17日公選初の市長に就任した浜井信三に助言するとともに、広島観光協会でも提唱した。また、広島商工会議所内でも平和祭開催の機運が高まっていた。中村藤太郎同会頭は、6月初め、浜井市長にその旨を申し入れ、市長とともに呉市にあった米軍軍政部に赴き、平和祭についての打診を行なった。これに対し、軍政部の司令官は、「膝を乗り出して賛成した」と伝えられている(浜井信三『原爆市長』)。
占領軍の後援が明らかになると、平和祭に向けて準備が進められた。6月20日には、広島市役所、広島商工会議所、広島観光協会(1951年に、広島市観光協会に発展的改組)の三者が発起人となって広島平和祭協会を設立し、会長には浜井広島市長が、また副会長には中村広島商工会議所会頭と寺田豊広島市議会議長が就任した。新設された平和祭協会は、7月3日から7日にかけて、宗教、茶道、音楽、興業、展覧会、展示会、スポーツ、報道、文化、商店といった各関係方面ごとに参集を求めて打ち合せを行ない、平和祭の諸行事を決定した。また、同協会は、平和祭で合唱される平和の歌および慈仙寺鼻広場と元護国神社前広場の名称の募集も行なっている。両者の入選作の発表は、22日におこなわれた。「平和の歌」(現在の名称:「ひろしま平和の歌」)には、豊田郡の中学校教師重園贇雄の作品が、応募作品151点の中から選ばれた。一方、広場の名称は、慈仙寺鼻広場が「平和広場」、元護国神社前広場が「市民広場」に決定した。このうち、平和祭の会場予定地である「平和広場」には、7月上旬から平和塔(高さ10メートル)と野外音楽堂の建設(木造約28坪、工費15万円)が進められた。
寺田豊市会議長(広島平和祭協会協会副会長)は、7月18日上京、GHQを訪問して、平和祭へのメッセージを要請していた。これに対し、GHQは、7月末、マッカーサー自身のメッセージが寄せられると公表した。マッカーサーが、日本の地方行事にメッセージを寄せることは、極めて異例のことであり、彼自身がこの式典に強い関心を寄せていることを伺わせるものであった。
また、広島市は、1947年7月31日、「毎年8月6日は、本市の平和記念日として市役所事務を休停する。」との条例(「広島市役所事務休停日条例」)を制定し、市役所あげて8月6日を迎えることとした。
平和祭式典は、8月6日午前8時から9時までの1時間、つぎのような式次で開催された。
開会挨拶 (野田平和祭協会事務局長)
平和塔除幕(木原前広島市長令嬢)
平和の歌演奏・合唱(広島放送管弦楽団)
平和宣言 浜井市長
平和の鐘 浜井市長
(花火・サイレン・平和への祈り)
メッセージ発表
ダグラス・マッカーサー連合軍最高司令官(代読訳文:山口秘書)、英連邦軍総司令官(代読:ライアン少佐)、米軍政部長(代読:クロワード中佐)、片山内閣総理大臣(代読:山田参       議院議員)、松岡衆議院議長(代読:藤田代議士)、松平参議       院議長(代読:山下参議院議員)、森戸文部大臣、楠瀬広島県       知事
祝電披露 全国各市長、米国ボストン市長、モントゴメリー(元広島復興顧問)
放鳩(10羽)(中村商工会議所会頭)
平和記念樹植樹(寺田市会議長)
全国199戦災都市へ送る平和記念樹苗の伝達
(石島広島放送局長から末永呉市長へ)
平和の歌合唱(市内男女中等学校生徒100余名)
閉会の辞 (野口事務局長)
(「夕刊ひろしま」1947年8月6日、「中国新聞」8月7日)
マッカーサーは、メッセージの中で、広島の教訓を、「自然の力を利用した戦争による破壊力の進展はその停止するところなく遂には人類を絶滅し、現世界の物的構成を一挙にして壊滅に帰せしむる手段となるであろうということを全人類に警告する助け」となったことに求めた(「朝日新聞」1947年8月7日)。この人類絶滅観は、浜井市長の読み上げた平和宣言の中でも言及された。
NHK広島中央放送局(JOFK)は、午前8時から30分間、式典の模様を実況放送した。それは、そのままJOAK(東京)を通じて米国に中継されたが、この放送は、日本の戦後初の国際放送であった。また、INS、CBSといった米国の放送会社やユナイト、日映、時事などのニュース映画会社も、式典の模様を取材した。
8月1日からすでに盛り沢山な行事が始まっていた。平和記念日を中心とする3日間の広島には、市民のほか、近郊からも多くの人々が押し寄せ、大変な賑わいを示した。この3日間の広島、横川、己斐の各駅の利用者の数は、平日より2万人以上増加したと報じられている(「中国新聞」1947年8月8日)。
第1回平和祭の開催は、海外で大きな反響を呼んだ。アメリカの臨時世界人民会議(Emergency World Peoples Congress)は、8月6日にアラモゴードでヒロシマ2周年の集会を開催した。この集会の中で、マッカーサーが広島に寄せたメッセージが読み上げられた(The New York Times 1947.8.7)。また、ニューヨークタイムズは、この日の社説で、「原子爆弾がなければ殺戮はもっと大きかったであろうし、この点で原子爆弾の使用は正当化される」としながらも、つぎのように述べた。
広島と長崎で行われた涙をそそる記念行事は到るところの人情ある人々の心を動かさずにはいないが、我々はこの両都市が各種記念行事を執り行う唯一の場所として永久に留まることを希望し祈らなければならない。
(「中国新聞」1947年8月9日)
ニューヨークの「世界同胞運動協会」は、つぎのような感想を述べた「広島市民への公開状」と題する書簡を広島にもたらした。
われわれは広島市民諸君が8月6日、平和祭を行われたことを聞き、ただ頭を下げるばかりである。すなわちこの日広島市民諸君が争いの観念をすて、平和を念願努力されていることをきき、われわれは罪の観念を   深め、民族としての反省を続けている。(「中国新聞」1947年9月21日)
こうした国内外の反響の中には、批判的なものもあった。アメリカの雑誌ライフは、平和祭の模様を「アメリカ南部の未開地におけるカーニバル」と表現した。また、平和祭協会には、「あのようなお祭り騒ぎをするのはもってのほかだ」、「厳粛な祭典は一つも見られなかった」といった投書が市民から寄せられた。このように、市民の間には、8月6日を「厳粛な黙祷の日にすべきだ」との主張がある一方で、「若しただ1回の平和祭に100万円の費用をかけるとしたら、その100万円を花火線香に終らせず、世界に向って何かを残し与えるような施策が必要」(長田新の論説、「中国新聞」1947年9月8日)といった意見や、「平和祭を復興に直結させたものにすべきだ」という現実論(浜井信三の話、「中国新聞」1948年6月9日)も存在した。

平和式典出席者概要(1991年~)

平和式典出席者概要(1991年~)

広島市長 長崎市長 総理大臣
1991(平成3) 平岡 敬 本 島 等 海部俊樹(総理大臣)<挨拶原文>
挨拶:衆議院議長、参議院議長、広島県知事、広島県議会議長。長崎式典:下条厚相
1992(平成4) 平岡 敬 本 島 等 山下徳夫(厚生大臣)<挨拶原文>
挨拶:衆議院議長、広島県知事、広島県議会議長。長崎式典:宮沢喜一総理大臣
1993(平成5) 平岡 敬 本 島 等 <挨拶原文>[閣僚の出席なし]文田久雄総理府次長
ストヤン・ガーネフ国連総会議長。長崎式典:古川貞二郎厚生省事務次官。**8月9日細川内閣発足。
1994(平成6) 平岡 敬 本 島 等 <挨拶原文>村山富市(総理大臣)
井出厚相。長崎式典:村山富市
1995(平成7) 平岡 敬 伊藤一長 <挨拶原文>村山富市(総理大臣)
井出厚相。長崎式典:村山富市。草場良八最高裁判所長官。三権の長全員が参列(初)。長崎式典:村山富市。三権の長全員が参列(初)
1996(平成8) 平岡 敬 伊藤一長 橋本龍太郎(総理大臣)
菅直人厚相。長崎式典:橋本龍太郎。土井たか子(議長)
1997(平成9) 平岡 敬 伊藤一長 橋本龍太郎(総理大臣)
第4回世界平和連帯都市市長会議。長崎式典:小泉純一郎厚相
1998(平成10) 平岡 敬 伊藤一長 小渕恵三(総理大臣)
宮下創平厚相。あいさつ:衆議院副議長、参議院議長、広島県知事、広島県議会議長。長崎式典:小渕恵三。宮下創平厚相
1999(平成11) 秋葉忠利 伊藤一長 小渕恵三(総理大臣)
宮下創平厚相。長崎式典:宮下創平厚相。伊藤宗一郎(衆議院議長)
2000(平成12) 秋葉忠利 伊藤一長 森喜朗(総理大臣)
あいさつ:衆議院議長、参議院議長、広島県知事、広島県議会議長。長崎式典:森喜朗。渡部恒三衆議院副議長、菅野久光参院副議長。
2001(平成13) 秋葉忠利 伊藤一長 小泉純一郎(総理大臣)
第5回世界平和連帯都市市長会議。あいさつ:広島県知事、アナン国連事務総長メッセージ。長崎式典:小泉純一郎。坂口力厚労相。衆参両院議長が代理も含め欠席するのは1989年以来。今年から両議長の来賓あいさつを取りやめ、献花だけをしてもらうことに決めていた。
2002(平成14) 秋葉忠利 伊藤一長 小泉純一郎(総理大臣)
あいさつ:広島県知事、国連事務総長。長崎式典:小泉純一郎(今年は被爆者団体からの要望聴取や慰問はせず、帰京)、坂口厚生労働大臣。倉田寛之参院議長、約五千五百人。
2003(平成15) 秋葉忠利 伊藤一長 小泉純一郎(総理大臣)
長崎式典:小泉純一郎、(被爆者団体からの要望聴取や慰問はせず)。倉田寛之参院議長、坂口力厚労相
2004(平成16) 秋葉忠利 伊藤一長 小泉純一郎(総理大臣)
あいさつ:広島県知事、国連事務総長。長崎式典:小泉純一郎、扇千景参院議長、坂口力厚労相。約五千四百人。
2005(平成17) 秋葉忠利 伊藤一長 小泉純一郎(総理大臣)
あいさつ:衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官、国連事務総長、広島県知事、広島県議会議長。長崎式典:小泉純一郎、尾辻厚労相。町田顕最高裁判所長官。長崎市は今年、核保有五カ国を含む計十一カ国に参列を求める招請状を送付。ガルージン代理大使とウクライナのユーリー・コステンコ駐日特命全権大使だけが参列
2006(平成18) 秋葉忠利 伊藤一長 小泉純一郎(総理大臣)
あいさつ:広島県知事、国連事務総長。長崎式典:小泉純一郎、川崎二郎厚生労働大臣。河野洋平(議長)、角田(副議長)。核保有国のロシアを含む七カ国の駐日大使ら約四千八百人が参列。
2007(平成19) 秋葉忠利 田上富久 安倍晋三(総理大臣)
あいさつ:広島県知事、潘基文国連事務総長(代読)。長崎式典:安倍晋三、柳沢伯夫厚生労働大臣。横路(副議長)、江田五月(議長)。核保有国ロシアを含む十五カ国の政府代表らが参列。
2008(平成20) 秋葉忠利 田上富久 福田康夫(総理大臣)
あいさつ:広島県知事、国連事務総長(代読)。舛添要一厚労相。55カ国の大使や参事官。長崎式典:福田康夫、舛添要一厚労相。河野洋平(議長)、山東(副議長)。核保有国のロシア、今回が初めてのスペインなど八カ国の駐日大使ら・
2009(平成21) 秋葉忠利 田上富久 麻生太郎(総理大臣)
あいさつ:広島県知事、国連総会議長。国連事務総長。舛添要一厚労相。59カ国の代表。長崎式典:麻生太郎。舛添要一厚労相。江田五月(議長)。保有国のロシアを含め過去最多となる海外29カ国の代表。約5800人(市発表)。ミゲル・デスコト・ブロックマン国連議長。国際連合総会議長潘基文(バンキムン)国連事務総長(代読)、
2010(平成22) 秋葉忠利 田上富久 菅直人(総理大臣)
あいさつ:広島県知事、国連事務総長。長妻厚生労働大臣。潘基文(バンキムン)国連事務総長、米・英・仏(初)など74カ国の代表。長崎式典:菅直人、外務大臣。厚生労働大臣。デスコト国連議長。西岡(議長)江田五月(議長) 。核保有国の英、仏、ロシア、パキスタン、実質的核保有国のイスラエルなど32カ国。約5600人。
2011(平成23) 松井一實 田上富久 菅直人(総理大臣)
あいさつ:広島県知事、国連事務総長。細川律夫厚生労働大臣。長崎式典: 菅直人、外務大臣。厚生労働大臣。44カ国の政府代表
2012(平成24) 松井一實 田上富久 野田佳彦(総理大臣)
あいさつ:広島県知事、国連事務総長。中野外務大臣政務官。小宮山厚生労働大臣。国連事務総長代理;アンゲラ・ケイン国連軍縮担当上級代表。米・英・仏(初)など71カ国の代表。長崎式典:野田佳彦。外務大臣政務官。厚生労働大臣。42カ国の代表。
2013(平成25) 松井一實 田上富久 安倍晋三(総理大臣)
あいさつ:広島県知事、国連総会議長。国連事務総長。外務大臣 厚生労働大臣。ブーク・イェレミッチ国際連合総会議長。潘基文国際連合事務総長(代読)、
2014(平成26) 松井一實 田上富久 安倍晋三(総理大臣)
2015(平成27) 松井一實 田上富久 安倍晋三(総理大臣)
2016(平成28) 松井一實 田上富久 安倍晋三(総理大臣)
2017(平成29) 松井一實 田上富久 安倍晋三(総理大臣)
2018(平成30)    

 

おわりに

おわりに

広島市主催の式典関連行事は、1991年(平成3年)には、49件(公民館29件、広島平和文化センタ-9件、映像文化ライブラリイー4件、保険年金課3件など)存在する。その中には、美術展、音楽会など、平和式典とともに今日まで開催されている文化行事がある。また、平和記念日前後に広島市以外のさまざまな機関や団体によって開催される行事は、慰霊行事を中心に年を経るごとに増加している。これらの諸行事は、平和式典に新たな意味を与えるとともに、平和記念日の広島の雰囲気を大きく変えてきた。式典の将来を考えるとき、式典は、これらの動きとともに振り返られなければならないと考えている。しかし、この小冊子では、触れることができなかった。今後の課題としたい。
資料収集ならびに執筆にあたり、(財)広島平和文化センタ-の宇野正三事業部主幹を始め、広島市総務局総務課、広報課、保険年金課、原爆被害者対策部、公文書館、広島市観光協会、広島県立文書館、中国新聞社など、関係機関の多くの方々にお世話になった。末尾ながら記して厚くお礼申し上げる。

目次

目次

まえがき
第1章 平和祭
1 原爆被爆
2 原爆死者の慰霊
3 平和復興祭
4 第1回平和祭
5 第2回平和祭
6 第3回平和祭
7 平和祭の挫折
(1) 第4回平和祭の中止
(2) 慰霊式・平和記念式典の開催
第2章 平和式典の変遷
1 平和式典の原型
(1) 1952年の式典
(2) 慰霊と平和
2 平和式典の主催者
3 平和式典の準備
(1) 平和式典の会場-平和記念公園
(2) 設営
(3) 市民の奉仕活動
(4) 式典にともなう規制と警備
4 平和式典の式次第
(1) 式次第
(2) 原爆死没者名簿の奉納
(3) 献花
(4) 平和の鐘と黙とう
(5) 演奏と合唱
5 平和宣言
(1) 宣言の主体、対象、形式
(2) 原爆被害観
(3) 原水爆禁止
(4) 国連への期待
(5) 国際動向への憂慮
(6) 被爆者援護対策への要望
(7) 世論への期待
(8) 被爆体験の継承
(9) ヒロシマの動向と決意
(10) 宣言内容の変遷
(11) 平和宣言の普及
6 平和式典の参列者
(1) 参列者数
(2) 黙とうのひろがり
(3) 日本政府の関心
(4) マスコミの関心
(5) 海外での関心
8 平和式典の関連行事
(1) 原爆供養塔合同慰霊祭
(2) 原爆罹災者名簿の公開
(3) とうろう流し
(4) 平和集会・シンポジウム
おわりに
平和式典略年表
索引

 

まえがき(新版のために)

まえがき(新版のために)
『平和記念式典の歩み』(1992年3月刊)は、すでに絶版。将来、新版(デジタル版)が製作されることを期待して、旧版のテキストデータに新たな情報を加える予定。

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まえがき
毎年、8月6日前後の広島では、原爆被害に関連したさまざまな行事が催されている。広島市が主催する平和記念式典は、こうした行事の中で、最も大規模なものであるとともに、最も長い歴史を持つ行事の一つである。1991年(平成3年)8月6日午前8時から広島市の平和記念公園において挙行された式典には、海部俊樹内閣総理大臣を始め約5万5,000人が参列し、式典の模様は、テレビにより全国に放映された。
この式典が始まったのは1947年(昭和22年)のことである。平和式典の正式名称は、大まかには平和祭→慰霊式並びに平和記念式(1951年)→広島市原爆死没者慰霊式並びに平和記念式(53年)→広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式(68年)と変わり、現在に至っている。
この式典は、当初は、一地方の平和行事にすぎなかったが、その後、次第に性格を変え、広島の原爆犠牲者を追悼する国民的な行事に成長した。30分から1時間の時間で開催される式典は、毎年同じ形式の繰り返しのように見える。しかし、その式次や平和宣言などを各要素ごとに追ってみると、その時々の原爆被害をめぐる動向を反映して、ある時はダイナミックな、また、年毎でも微妙な変化をしてきていることが明らかになる。その変化は、原爆被害が置かれていた状況や、原水爆禁止運動、平和思想の戦後の歴史を振り返る際の一つの重要な指標になりうるものである。この小冊子では、平和式典の変容を、式典の持つさまざまな要素ごとに、できるだけ詳しく明らかにしようとした。
広島市は、平和式典の総称を1965年に「平和記念式典」とし、68年からは「平和祈念式典」として使用してきた。ところが、75年、広島市は、正式名称には「祈念」を残したまま、総称として「平和記念式典」を使用することとした。「祈念」は、「原爆犠牲者の霊を慰めるための祈り、平和実現のための祈り」を強調した表現であるのに対し、「記念」は、「恒久平和への市民の誓いを将来に伝え残すという継承の意志」を強調した表現であるとし、「記念」の表現が、式典の趣旨に「適切」であるというのが総称変更の理由である(総務局「平和記念式典の名称について」81年10月9日)。しかし、ここでは、さまざまな名称の統一的な表現として「平和式典」あるいは「式典」を用いている。また、広島市は、原爆が投下された8月6日を条例により「平和記念日」と定めているので本書では引用の場合を除いて、「原爆記念日」という名称は使用しないこととする。
平和式典に関する公文書は、1963年以前のものは断片的にしか残されていない。しかし、平和式典の模様は、初期のものから現在に至るまで、マスコミにより詳細に報道されている。記述に際し、資料の多くのは、新聞報道を利用した。その中でも、ベースにしたのは、「中国新聞」(戦後~70年ごろ)、「広島大学原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センタ-新聞切抜き」である。これらについては、煩雑をさけるため、出典の明記を最小限にとどめている。また、読み易くするため、資料の引用にあたって、漢数字を算用数字に直し、旧字を新字に改めたほか、難読の漢字には読みがなを付した。
1992年1月
著   者