平和祭(第3回、1949年)
1949年(昭和24年)5月10日と11日、広島平和記念都市建設法案が第5回国会の衆参両院でそれぞれ満場一致で可決された。この法案は、「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的」(第1条)としたものである。この法案は、7月7日実施された住民の賛否投票の結果、7万1,852票(有権者総数の59.2%、有効投票数の91.9%)という圧倒的多数の賛成を得て成立し、8月6日に公布されることになった。
広島平和協会は、6月8日に開催した第1回役員会で第3回平和祭の行事を決定するとともに、協会の会則を変更し、第1条に「恒久平和の念願と人類文化の向上」という目的を明示することとした。広島市は、平和式典を前に、「恒久平和」(原文:Peace Forever)をモチーフとしたポスターを作成し、式典への招待状とともに全国の都道府県知事、268都市長および県内全市町村に郵送した。また、海外の161都市には、浜井市長のサイン入りのポスターを送っている。
この年の平和式典の会場は、前年とは異なり市民広場の児童文化会館前広場となった。そこには、4日、30尺(約9メートル)の鉄筋の鐘楼が完工し、5日には広島銅金鋳造会が新造した「平和の鐘」が備えつけられた。8月6日の式典は、組立式の会場で、8時15分から約1時間、つぎのような式次第で開催された。
平和の鐘
開会の辞 (伊藤平和協会副会長)
平和の歌合唱(広島放送合唱団 伴奏:広島吹奏楽団)
平和宣言 浜井会長
放鳩 (ミスヒロシマ)
進駐軍メッセージ 英連邦軍司令官ロバートソン中将(代読:ギャレット代将)、マッカーサー元帥、ウォーカー中将(代読:仁井出渉外課長)
メッセージ 幣原衆議院議長(代読:山本代議士)、松平参議院議長(代読:浅岡参議院議員)、吉田内閣総理大臣(代読:森戸代議士)
平和記念植樹(楠瀬知事、石島副会長)
平和記念樹苗伝達(仁都栗副会長)
平和記念公園・記念館設計当選者発表(仁都栗副会長)
ヒロシマ平和都市の歌合唱(広島放送合唱団女子部)
閉会の辞 (森沢常任理事代表)
(「中国新聞」1949年8月7日)
広島平和記念都市建設法公布の記念行事として開催された式典には、米英人80人、県選出国会議員ら来賓100余人、市民約3,000人が参列した。浜井市長は、平和宣言の中で同法の公布に言及するとともに、仁都栗市会議長と連名でトルーマン大統領あてに、「平和都市建設法を通じてなさんとする聖業の上に多大の関心を寄せられ、偉大なる人間愛の大使命達成の上に光栄ある御賛助を賜わらんことを懇願」するメッセージを送った(「中国新聞」1949年8月7日)。また、恒久平和の象徴として建設する平和記念公園の設計図は、145点の応募の中から、丹下健三ら4人の共同作品が当選と決定し、式典の中で公表された。このほかに、8月6日には、広島平和記念都市建設法公布記念切手が発売されている。
海外でも、この日を期して第2回世界平和デーの行事が催された。アメリカ・オークランド市のアルフレッド・パーカー(世界平和日運動の提唱者)の連絡によれば、カリフォルニア州で渡米中の谷本清の主宰で記念式典が開催され、ニュージャージー、ニューヨーク両州、サンフランシスコ市の各教会が原爆投下時刻に平和を祈る鐘を鳴らしている(「中国新聞」1949年8月27日)。また、アメリカ以外でもつぎのような動きが見られた。
フィリピン政府は、この価値ある目的に全面的に賛同すると表明し、デリーでは18ケ国大使からメッセージを受取り、ブタペスト、ハンブルグ、ミューニッヒ、バンガロール、ロンドンは大集会を催し、ベルリンは公園 で永遠の平和の火を点じ、ブルッセルでは「戦争停止」の独得の平和運動 を起こし、オーストラリア、ノールウェー、ウルグワイなどは全国的に放 送し、(中略)オーストラリアでは多くの集会や行事をしてこの日を祝賀した。
(「中国新聞」1950年4月11日)
1949年の4月初め、渡米中の谷本清は、ノーマン・カズンズとジョン・ハーシーの示唆により、広島市に対し、トルーマン大統領あての平和請願署名運動を実施するよう勧めた。谷本らは、7月中ごろまでに10万人以上の署名を入手し、8月6日に大統領に手渡す計画であった。しかし、広島市は、広島平和記念都市建設法案の住民投票との重なりを考慮し、平和祭を期して署名運動を開始することとした。「世界最初の原子爆弾戦争を体験した我等広島市民は、アメリカ大統領に対し国際連合を強化し、今後の戦争を防止し得るような強力な世界組織を作らんことを請願す」とある請願書の署名運動は、8月13日から開始された。この署名は、8月下旬までに10万7,854人分が集まり、5冊に綴ってカズンズあてに送られた(谷本清『ヒロシマの十字架を抱いて』)。
平和祭(第2回、1948年)
谷本清(広島キリスト教会連盟委員長)は、1947年(昭和42年)10月、岡山市で開催された宗教連盟中国地区大会で、広島被爆の日である8月6日に世界平和を祈る運動を提唱した。彼のこの呼びかけは、翌48年3月、UP特派員ルサフォード・ポーツ記者により「ノーモア・ヒロシマズ」のアピールとして報道された。アメリカ北部バプテスト連盟の人々は、ジョン・ハーシーの広島ルポ(1946年5月従軍記者として広島入りし、原爆が人間に及ぼした影響について6人の体験者の証言を中心にまとめあげたルポ。全誌面を提供した8月31日付『ニューヨーカー』は、発売当日に30万部を売りつくし、以後100種以上の新聞に連載、ラジオドラマとして電波に乗せられ、10数か国語に翻訳されたといわれる)とジャパン・タイムズに掲載された第1回広島平和祭の記事に刺激されていたが、谷本のニュースを受け取ると、8月6日を世界平和デーにしようと呼びかけた (谷本清「寄稿・広島で世界宗教平和会議を」、この寄稿は、48年6月18日付 「読売新聞」(西部版)に掲載予定であったが、検閲により保留後ボツとなった)。その理由は、広島が「原子時代の戦争が意味するもののシンボル」であり、8月6日以外に「全世界を通じ平和の思想と感情に、より以上の共鳴を呼び起こす日」はないから、というものであった。48年4月18日、世界26か国の発起人により世界平和デー委員会が組織された。「ノーモア・ヒロシマズ」が、この運動のスローガンであった。
広島市は、1948年6月上旬、前年の平和祭に対する意見、批判やその後の国際的反響を踏まえ、文化的色彩を強くし世界平和運動のメッカたらしめることを主眼とした平和祭の新構想を発表した。浜井市長は、この構想の意図を、「平和祭行事は従来の放任的なものから今年は企画を統一したい」、「犠牲になった広島の平和運動が物乞根性と誤解されてはならない、あくまで平和運動のメッカとして世界人類の頭から広島をわすれさせないようにするのが念願である」と説明している(「中国新聞」48年6月9日、10日)。6月14日に開催された広島平和祭協会の48年度初の総会では、協会名を広島平和協会と改称したが、その意図は、世界平和運動に主力を注ぐことにあった。具体的には、平和宣言を恒久的なものにするため森戸辰男文部大臣に依頼して中央の権威者に再検討を仰ぐ、世界の都市に平和祭の意義を述べ世界平和運動への協力を求めるメッセージを送る、画壇大家の作品を網羅した平和美術展覧会を開催する、日本交響楽団を式典に招くといった新企画が考えられた。また、平和祭当日には供養と平和の象徴として市民が造花を胸に付けることが検討された。
このうち、平和宣言の起草は天野貞祐に依頼し、浜井広島市長は、世界の160都市の市長にメッセージを送ることとなった。また、平和協会は、美術展のための第1回協議会を6月24日に開催し、南薫造と小林和作の二人を顧問に委嘱し、準備を進めた。8月4日から袋町小学校を会場として開幕した展覧会は、県内のみならず国立東京博物館、大原美術館の名画400余点が展示され、広島としては未曽有の盛観を示した。日本交響楽団の招待は実現しなかったが、JOFKの尽力でNHK世界の音楽の来演が決まった。世界の音楽管弦楽団と合唱団は、平和式典で伴奏と合唱を行なうとともに、当日の夜と7日に児童文化会館で開催された音楽会に出演した。平和と供養の造花は、産業美術家協会に試作が依頼され、7月5日、市内の学校の教師にその作製方法の講習会が実施された。市民は、平和式典にこの造花を付けて参列し、約1,000人が、式典終了後これを胸に、「ノー・モア・ヒロシマズ」、「十万の御霊に誓う 世界平和は青年で」、「世界平和は広島から」などのプラカードを掲げ、平和広場から市役所前に向けて行進した(花行進)。
8月6日の平和式典は、前年と同じく、平和広場の平和塔前で、午前8時から1時間、つぎの式次第で開催された。
開会の辞 (寺田平和協会副会長)
大木惇夫作 詩「ヒロシマを思いて」朗読
平和の鐘 浜井会長
平和宣言 浜井会長
放鳩 (ミスヒロシマ)
進駐軍メッセージ 英連邦軍司令官ロバートソン中将
メッセージ 芦田内閣総理大臣(代読:松本滝蔵)、松岡衆議院議長(代読:高津正道)、松平参議院議長(代読:岩本月洲)、森戸文部大臣、楠瀬広島県知事
平和記念植樹(伊藤副会長)
平和記念樹苗伝達(石島副会長)
平和の歌合唱(伴奏:世界の音楽管弦楽団)
閉会の辞 (寺田副会長)
(『昭和23年度広島平和協会事業報告』、「中国新聞」1948年8月7日)
第2回平和式典の基調は、ノーモア・ヒロシマズであった。平和塔の側には、「NO MORE HIROSHIMAS」の看板が建てられ、平和宣言は、「再び第2の広島が地上に現出しないよう誠心こめて祈念するものである」と、ノーモア・ヒロシマズを訴えた。また、海外では、この式典に呼応して少なくとも26か国で第1回世界平和デーの諸行事が開催された。
ロバートソン中将のメッセージは、平和宣言以上の長さであり、「渉外局」の平和式典に関する発表は、これを「記念講演」と表現し(「中国新聞」1948年8月6日)、AP電は「式典のクライマックス」(原文はhigh point)と伝えた(The New York Times 1948.8.6)。ロバートソンは、その中で「広島市が受けた懲罰は戦争遂行の途上受くべき日本全体への報復の一部と見なさねばなりません。今後諸君が平和政策を忠実に守るとすれば、世界全部がこのような悲惨事の起こるのを未然に防止できることと思います」と述べた。また、この式典には、オーストラリア国会議員団一行8人が、「オーストラリア国民の代表として民主的な国民になるだろう日本国民にどの程度の真実があるか、自分の目でみて判断したいと望んで」参列していた(ロバートソンの「メッセージ」の表現)。これらは、平和祭を見る世界の目が、原爆犠牲にもとづく広島の訴えへの同情のみでは無いことを示している。
平和祭(第1回、1947年)
1947年(昭和22年)4月、戦後初めての衆議院議員選挙や初の地方選挙が実施され、5月3日には、日本国憲法が施行された。こうした戦後の改革は、国民の平和への関心を高めた。広島では、被爆2周年目の8月6日に、前年の「統制的・追憶的」な行事ではなく「平和の息吹で原子砂漠をおおう」行事を開催しようとの声が起こった(「中国新聞」1947年6月21日)。石島治志NHK広島放送局長は、被爆市民の平和への意志を全世界に公表するために平和祭を開催することを構想し、4月17日公選初の市長に就任した浜井信三に助言するとともに、広島観光協会でも提唱した。また、広島商工会議所内でも平和祭開催の機運が高まっていた。中村藤太郎同会頭は、6月初め、浜井市長にその旨を申し入れ、市長とともに呉市にあった米軍軍政部に赴き、平和祭についての打診を行なった。これに対し、軍政部の司令官は、「膝を乗り出して賛成した」と伝えられている(浜井信三『原爆市長』)。
占領軍の後援が明らかになると、平和祭に向けて準備が進められた。6月20日には、広島市役所、広島商工会議所、広島観光協会(1951年に、広島市観光協会に発展的改組)の三者が発起人となって広島平和祭協会を設立し、会長には浜井広島市長が、また副会長には中村広島商工会議所会頭と寺田豊広島市議会議長が就任した。新設された平和祭協会は、7月3日から7日にかけて、宗教、茶道、音楽、興業、展覧会、展示会、スポーツ、報道、文化、商店といった各関係方面ごとに参集を求めて打ち合せを行ない、平和祭の諸行事を決定した。また、同協会は、平和祭で合唱される平和の歌および慈仙寺鼻広場と元護国神社前広場の名称の募集も行なっている。両者の入選作の発表は、22日におこなわれた。「平和の歌」(現在の名称:「ひろしま平和の歌」)には、豊田郡の中学校教師重園贇雄の作品が、応募作品151点の中から選ばれた。一方、広場の名称は、慈仙寺鼻広場が「平和広場」、元護国神社前広場が「市民広場」に決定した。このうち、平和祭の会場予定地である「平和広場」には、7月上旬から平和塔(高さ10メートル)と野外音楽堂の建設(木造約28坪、工費15万円)が進められた。
寺田豊市会議長(広島平和祭協会協会副会長)は、7月18日上京、GHQを訪問して、平和祭へのメッセージを要請していた。これに対し、GHQは、7月末、マッカーサー自身のメッセージが寄せられると公表した。マッカーサーが、日本の地方行事にメッセージを寄せることは、極めて異例のことであり、彼自身がこの式典に強い関心を寄せていることを伺わせるものであった。
また、広島市は、1947年7月31日、「毎年8月6日は、本市の平和記念日として市役所事務を休停する。」との条例(「広島市役所事務休停日条例」)を制定し、市役所あげて8月6日を迎えることとした。
平和祭式典は、8月6日午前8時から9時までの1時間、つぎのような式次で開催された。
開会挨拶 (野田平和祭協会事務局長)
平和塔除幕(木原前広島市長令嬢)
平和の歌演奏・合唱(広島放送管弦楽団)
平和宣言 浜井市長
平和の鐘 浜井市長
(花火・サイレン・平和への祈り)
メッセージ発表
ダグラス・マッカーサー連合軍最高司令官(代読訳文:山口秘書)、英連邦軍総司令官(代読:ライアン少佐)、米軍政部長(代読:クロワード中佐)、片山内閣総理大臣(代読:山田参 議院議員)、松岡衆議院議長(代読:藤田代議士)、松平参議 院議長(代読:山下参議院議員)、森戸文部大臣、楠瀬広島県 知事
祝電披露 全国各市長、米国ボストン市長、モントゴメリー(元広島復興顧問)
放鳩(10羽)(中村商工会議所会頭)
平和記念樹植樹(寺田市会議長)
全国199戦災都市へ送る平和記念樹苗の伝達
(石島広島放送局長から末永呉市長へ)
平和の歌合唱(市内男女中等学校生徒100余名)
閉会の辞 (野口事務局長)
(「夕刊ひろしま」1947年8月6日、「中国新聞」8月7日)
マッカーサーは、メッセージの中で、広島の教訓を、「自然の力を利用した戦争による破壊力の進展はその停止するところなく遂には人類を絶滅し、現世界の物的構成を一挙にして壊滅に帰せしむる手段となるであろうということを全人類に警告する助け」となったことに求めた(「朝日新聞」1947年8月7日)。この人類絶滅観は、浜井市長の読み上げた平和宣言の中でも言及された。
NHK広島中央放送局(JOFK)は、午前8時から30分間、式典の模様を実況放送した。それは、そのままJOAK(東京)を通じて米国に中継されたが、この放送は、日本の戦後初の国際放送であった。また、INS、CBSといった米国の放送会社やユナイト、日映、時事などのニュース映画会社も、式典の模様を取材した。
8月1日からすでに盛り沢山な行事が始まっていた。平和記念日を中心とする3日間の広島には、市民のほか、近郊からも多くの人々が押し寄せ、大変な賑わいを示した。この3日間の広島、横川、己斐の各駅の利用者の数は、平日より2万人以上増加したと報じられている(「中国新聞」1947年8月8日)。
第1回平和祭の開催は、海外で大きな反響を呼んだ。アメリカの臨時世界人民会議(Emergency World Peoples Congress)は、8月6日にアラモゴードでヒロシマ2周年の集会を開催した。この集会の中で、マッカーサーが広島に寄せたメッセージが読み上げられた(The New York Times 1947.8.7)。また、ニューヨークタイムズは、この日の社説で、「原子爆弾がなければ殺戮はもっと大きかったであろうし、この点で原子爆弾の使用は正当化される」としながらも、つぎのように述べた。
広島と長崎で行われた涙をそそる記念行事は到るところの人情ある人々の心を動かさずにはいないが、我々はこの両都市が各種記念行事を執り行う唯一の場所として永久に留まることを希望し祈らなければならない。
(「中国新聞」1947年8月9日)
ニューヨークの「世界同胞運動協会」は、つぎのような感想を述べた「広島市民への公開状」と題する書簡を広島にもたらした。
われわれは広島市民諸君が8月6日、平和祭を行われたことを聞き、ただ頭を下げるばかりである。すなわちこの日広島市民諸君が争いの観念をすて、平和を念願努力されていることをきき、われわれは罪の観念を 深め、民族としての反省を続けている。(「中国新聞」1947年9月21日)
こうした国内外の反響の中には、批判的なものもあった。アメリカの雑誌ライフは、平和祭の模様を「アメリカ南部の未開地におけるカーニバル」と表現した。また、平和祭協会には、「あのようなお祭り騒ぎをするのはもってのほかだ」、「厳粛な祭典は一つも見られなかった」といった投書が市民から寄せられた。このように、市民の間には、8月6日を「厳粛な黙祷の日にすべきだ」との主張がある一方で、「若しただ1回の平和祭に100万円の費用をかけるとしたら、その100万円を花火線香に終らせず、世界に向って何かを残し与えるような施策が必要」(長田新の論説、「中国新聞」1947年9月8日)といった意見や、「平和祭を復興に直結させたものにすべきだ」という現実論(浜井信三の話、「中国新聞」1948年6月9日)も存在した。
広島県総務部地方課『特別調査一件』(1951年7・8月(平和祭関係))
広島県総務部地方課『特別調査一件』(1951年7・8月(平和祭関係)) |
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番号 |
件名 |
発元又は宛名 |
1 |
平和擁護運動並全面講和愛国運動の概況 |
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2 |
広島平和擁護委員会の動向について |
特審調査部長宛 |
3 |
平和擁護運動について |
特審中国支局長宛 |
4 |
平和擁護委員会等の動向について |
特審調査部長宛 |
5 |
平和擁護委員会等の動向について |
特審調査部長宛 |
6 |
平和擁護委員会等の動向について |
復命書 |
7 |
平和擁護委員会等の動向について |
特審調査部長宛 |
8 |
広島平和祭に併う(共)主流派の平和講演会開催について |
特審調査部長宛 |
9 |
日共関係者の動行について |
安芸地方事務所発 |
10 |
団体動行調査について |
甲奴地方事務所発 |
11 |
平和芸能祭の状況について |
復命書 |
12 |
反戦同盟準備会について |
特審調査部長宛 |
13 |
平和祭をめぐる諸団体の動向について |
特審調査部長宛 |
14 |
全国平和会議の状況について |
特審調査部長宛 |
15 |
平和運動に関する資料送付について |
特審調査部長発 |
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広島県総務部地方課『特別調査一件』(1951年8月~12月) |
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番号 |
件名 |
発元又は宛名 |
1 |
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2 |
人形劇団クラルテ「人形劇教室」公演について |
特審調査部長宛 |
3 |
平和擁護委員会の届出について |
特審調査部長宛 |
4 |
平和擁護委員会の団体等規正令による届出の勧奨について |
平擁委会宛 |
5 |
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6 |
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7 |
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8 |
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9 |
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10 |
松本治一郎民主陣営復帰歓迎大会について |
特審調査部長宛 |
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『民政新報No.4』(民政新報社、19510910)[印刷・編集・発行人=小堺吉光] |
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『人間に光あれ 部落問題研究資料』(土岡喜代一著、民政新報社編集・発行) |
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11 |
日本社会党広島県連合会並びにこれと提携せる団体の動向について |
特審中国支局長宛 |
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第6回国民体育大会際しての行幸啓に伴う広島自由労働者組合の動向について(報告) |
特審中国支局長宛 |
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(別記1)『天皇陛下に訴える』(広島自由労働者組合) |
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(別記2)『 』(広島の一貧乏人より) |
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(別記3)『ハズカシメを忘れるな 天皇から遠ざける市役所』(広島自由労働者組合) |
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(別紙4)『大砲かめしかNo.4』(日本共産党自由労働者細胞、19511101) |
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12 |
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13 |
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14 |
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15 |
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16 |
劇団「ぶどうの会」の公演状況について |
特審調査部長宛 |
17 |
県下における日雇自由労働組合の動向について |
特審調査部長宛 |
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「(写し)抗議文 広島市長浜井信三・広島市議会議長秋田正之・市幹部40名・市議会議員あて」(広島日雇自由労働組合協議会・広島自由労働組合・広島日雇労働者労働組合・広島失業対策自由労働組合、19511220) |
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18 |
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19 |
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21 |
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22 |
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23 |
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24 |
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25 |
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26 |
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27 |
(共)外郭団体現況表送付について |
CIC宛 |
28 |
県下における愛善苑の現況について |
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『時代と記憶 メディア・朝鮮・ヒロシマ』(平岡敬、影書房、20110615 )
目次
部章 |
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1 |
メディアの世界で |
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1- |
衰弱する言論 |
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1– |
“書き屋”の弁 |
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吉川幸次郎氏 人間生活こそ文明 |
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1— |
唯一の一面コラム |
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天風録 |
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1—- |
新聞界の苦悩 |
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1—– |
「為人民服務」はどこへ |
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2 |
朝鮮半島へのまなざし |
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2-1 |
韓国の被爆者たち |
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2-2 |
私の”朝鮮体験” |
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3 |
原爆・平和をめぐって |
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3- |
原水禁運動の混乱と後遺症 |
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分裂と主導権争い 一九六一年の平和運動 |
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|
一九六二年・平和理論の課題 |
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被爆者の苦悩みつめる福島菊次郎の写真集「ピカドン』 |
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今も消えぬ原爆のせん光 二十四年目の被爆者たち |
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広島市の平和行政の展開 |
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新しい生き方を |
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痛烈な異議申し立て こうの史代『夕凪の街桜の国」(双葉社) |
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被爆五十周年の広島 |
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核兵器を禁止する国際法を |
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世界各国で「原爆展」を |
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二十一世紀におけるヒロシマの役割 |
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ヒロシマからアジアへ 平和をつくる市民運動 |
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癒しの空間 効率主義に抗して |
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調査と医療支援の一体化 NGO「ヒロ・セミ」の活動 |
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日本・カザフスタンの人々の連帯を強め核兵器廃絶の世論を |
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事前説明が不充分か?不満を訴える被害者 |
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前進する被曝者医療 第五次医療支援訪問を終えて |
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カザフの聞き取り調査に対する所感 |
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生き抜く人々 |
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カザフの高麗人 |
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広島と長崎の教訓を忘れるな |
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私と原子力光と影を見つめて |
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大胆な原子力政策の転換を ヒロシマからのメッセージ |
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「ヒロシマ再考」ノート |
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おわりに |
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『報復ではなく和解を いま、ヒロシマから世界へ』(秋葉忠利、岩波書店、20040707)
内容
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はしがき |
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三つの勝利 |
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国際平和会議「ハーグ平和アピール1999」19990513、オランダ・ハーグ市にて |
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報復ではなく和解を、敵対関係ではなく人道を |
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国連軍縮フェローズ 市長講演 20031007 広島国際会議場にて |
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女性と平和 |
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第13回日本・ヨルダン・エジプト・パレスチナ女性交流公開フォーラム 20040214 |
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平和宣言の作り方 |
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20020901 神奈川県二宮町にて |
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本書に関連する広島市の主な平和への取組み |
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平和宣言(1999年~2003年) |
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『人間の心ヒロシマの心』(秋葉忠利、三友社出版、19881223)
目次
章節=頁 |
タイトル |
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はしがき |
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Ⅰ |
広島・長崎の経験を人類の祈りの基盤に〈基調講演〉 |
大江健三郎 |
Ⅱ |
被爆体験の意味と平和運動 |
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028 |
なぜ広島でシンポジウムか〈主催者挨拶〉 |
柿木昇治 |
030 |
「ヒロシマの心」を世界の心に〈開会挨拶〉 |
荒木武 |
033 |
高い理想、そして具体的な出発〈オーガナイザー挨拶〉 |
秋葉忠利 |
035 |
何を誰にどう伝えるのか-そして何のために |
秋葉忠利 |
Ⅲ |
被爆体験の人類史的意味 |
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060 |
「被爆の証人」として生きる |
高橋昭博 |
072 |
あらたな意味をもつ被爆体験の継承 |
宇吹暁 |
079 |
あたらしい被爆者像を求めて |
舟橋喜恵 |
092 |
被爆後の年月を通して考える〈パネルディスカッション1〉 |
|
Ⅳ |
広島のメッセージを実現するために |
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116 |
教育の現場で平和を考える |
片山美代子 |
127 |
仏教徒としての被爆体験と平和の願い |
光寺重信 |
144 |
核廃絶の可能性を求めて |
安江良介 |
153 |
心理学者と平和の問題 |
ジョン・J・フューレディ |
158 |
「広島のこころ」を蘇らせるために〈パネルディスカッション2〉 |
|
193 |
平和シンポジウム趣意書 |
|
196 |
平和シンポジウム感想歌集から |
|
198 |
パネリスト紹介 |
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203 |
広島ターミナルホテルあいさつ |
|
204 |
協力者一覧 |
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205 |
フロアからの発言者プロフィル(発言順) |
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原田東岷 |
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竹内千代 |
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上神千波弥 |
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江崎寿賀子 |
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原伸幸 |
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熊田信道 |
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空フミコ |
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中川幹朗 |
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山本誠 |
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延本充弘 |
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井上敬喜 |
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ローレンス・ウィイグ |
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永井秀明 |
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あとがき |
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『 真珠と桜 「ヒロシマ」から見たアメリカの心』(秋葉忠利、朝日新聞社、19860720)
目次
章(頁) |
タイトル |
メモ |
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はしがき |
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Ⅰ |
怒涛 |
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009 |
アキバ・プロジェクト ローカル・ジャーナリストを広島へ |
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(『ヒロシマ』森下弘)あなたの目で確かに見つめなさい |
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039 |
平和の使徒 アメリカ人の原爆観 |
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(アメリカ合衆国国家)赤いロケットの焔/空中に炸裂する爆弾/それは星条旗が翻っている証(しるし) |
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058 |
卑劣な日本人 悪の原点=パール・ハーバー |
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(能『葵上』)今の恨みはありし報い 瞋恚の炎は身を焦がす 思い知らずや 思ひ知れ |
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079 |
一人ひとりの顔 記者たちの広島体験 |
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(『法句経』友松円諦)われらはここ 市の領域に近し… このことわりを知る 人々にこそ かくしていさかひは止まん |
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Ⅱ |
源流 |
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097 |
鎖を断つ プロジェクト実現まで |
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118 |
他人の痛み 私の見た平和運動 |
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136 |
道端の焼夷弾 私の戦争体験 |
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156 |
カラオケに耳を覆う 文化の壁は越えられるか |
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179 |
プラウド・オブ・ユア・サン アメリカで父になる |
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Ⅲ |
分水 |
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201 |
ビッガー・ザン・ユー カウボーイ社会アメリカ |
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225 |
医者と患者の関係 エキスパートの支配 |
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243 |
ワシントン・シンドローム 忘れられる過去 |
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265 |
死を歓迎する心 被爆者は『生ける屍』か |
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281 |
二重被爆者神話 アメリカ社会の無力感 |
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303 |
現実と想像力 平和への意志 |
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327 |
あとがき |
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平和記念式典関係資料(宇吹所蔵)
年 |
タイトル(発行者) |
形態 |
備考 |
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1971 |
8・6広島広島反戦集会の成功のために シリーズNO.1 1971.7.5(女子大反戦会議) |
紙1枚 |
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「犯罪者=佐藤の来広をヒロシマの名において許すな!」 |
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1981 |
平和記念式典の名称について(総務局) |
紙2枚 |
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1984 |
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式実施要項 |
紙3枚 |
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1984 |
昭和54年平和記念式典資料(広島市) |
冊子、C |
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1991 |
平成3年平和記念式典資料(広島市) |
冊子、C |
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1995 |
平成7年平和記念式典資料(広島市) |
冊子、C |
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1996 |
平成8年平和記念式典資料 |
綴 |
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2007 |
平成19年平和記念式典の挙行について(企画総務局)[記者発表資料 平成19年7月23日] |
冊子、C |
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『大使の平和メッセージ-21世紀を平和な時代に』(広島市市民局国際平和推進部平和推進担当編・刊、19990801 )
はじめに
本年8月6日の平和記念日に向けて、私は、126名の各国駐日大使の方々に「平和のメッセージ」の送付を要請いたしました。
これは、各国を代表している大使の皆様によりヒロシマに関心を持っていただき、世界平和都市連帯の推進など平和の取組みを進めているヒロシマに対する理解を深めていただくとともに、ヒロシマと各国の架け橋となっていただくことを期待し、要請したものです。
このたび43名の大使の方から、各国の平和の取組みや大使自身の平和への思い、ヒロシマヘの思い、21世紀への平和の誓いなどを内容とするメッセージをいただくことができました。
メッセージをお寄せいただいた大使の皆様に深く感謝申し上げます。
紛争の相次ぐ今日、民族や政治体制の異なる各国の大使に、この機会に平和に思いを馳せながらメッセージを作成していただくことは、そのこと自体有意義であり、
また、そのメッセージは多くの人々に読まれることにより一層意義を増すものと考えます。
御来場の皆様には、大使からのメッセージや広島市内の小学生20名が平和への思いを込めて書いた作文に触れていただくことにより、平和への思いをより一層強めていただければ幸いです。
私としても、今回の取組みが国境を越えた連帯の輪を広げ、来る21世紀を「核兵器のない、平和な時代」にしていくための第一歩となることを期待しております。
終わりに、重ねて大使の皆様をはじめ関係者の皆様に感謝の意を表します。
平成11 (1999)年8月1日
広島市長 秋葉忠利
各国駐日大使への平和メッセージの要請について
1趣旨
現在、核保有国による核軍縮は遅々として進まず、核兵器の廃絶への道筋を見い出すことができないまま21世紀を迎えようとしており、また、ユーゴスラビアのコソボ自治州をめぐる問題も.平和的解決に向けて事態が動きだしたが、依然として根本的な解決には克服すべき課題も多く残されている。
平和な世界の実現を求める願いは、政治、文化、宗教、民族などの違いを超えて人類共通のものであり、ヒロシマとしても、こうした願いを結集し、国境を越えた連帯の輪を広げることにより、来る21世紀を「平和の世紀」にしていくための努力を行っていきたいと考えている。そのための取り組みの一つとして、各国駐日大使特命全権大使等に平和のメッセージを寄せていただくよう依頼したものである。
2依頼先
各国駐日大使館特命全権大使、臨時代理大使 126名
3依頼日
平成11(1999)年6月11日(金)
4メッセージ送付数 43通
(地域別内訳)
●アジア州 14か国
イスラエル国、イラン・イスラム共和国、インド、インドネシア共和国、オマーン国、カンボジア王国、シリア・
アラプ共和国、シンガポール共和国、、タイ王国、トルコ共和国、パキスタン・イスラム共和国、フィリピン共和国、
ブルネイ・ダルサラー厶国、マレイシア
●大洋州 2か国
オーストラリア、フィジー共和国
●アフリカ州 6か国
ウガンダ共和国、エジプト・アラブ共和国、ギニア共和国、ザンビア共和国、ボツワナ共和国、モザンビーク共和国、
●ヨーロッパ州 11か国
アイルランド.イタリア共和国、オランダ王国、クロアチア共和国、スイス連邦、スウz一デン王国.スペイン国、
チェコ共和国、フィンランド共和国、ルーマニア.ユーゴスラビア連邦共和国、
●NIS諸国(エストニア、ラトビア、リトアニアを除く旧ソ連の新独立国) 3か国
ウズベキスタン共和国、カザフスタン共和国、べラルーシ共和国、
●北アメリカ州 3か国
コスタ・リカ共和国、ミーカ共共和国、メキシコ合衆国
●南アメリカ州 5か国
アルゼンチン共和国、エクアドル共和国、コロンビ共和国ア、ブラジル連邦共和国、ペルー共和国
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。