平和祭(第2回、1948年)
谷本清(広島キリスト教会連盟委員長)は、1947年(昭和42年)10月、岡山市で開催された宗教連盟中国地区大会で、広島被爆の日である8月6日に世界平和を祈る運動を提唱した。彼のこの呼びかけは、翌48年3月、UP特派員ルサフォード・ポーツ記者により「ノーモア・ヒロシマズ」のアピールとして報道された。アメリカ北部バプテスト連盟の人々は、ジョン・ハーシーの広島ルポ(1946年5月従軍記者として広島入りし、原爆が人間に及ぼした影響について6人の体験者の証言を中心にまとめあげたルポ。全誌面を提供した8月31日付『ニューヨーカー』は、発売当日に30万部を売りつくし、以後100種以上の新聞に連載、ラジオドラマとして電波に乗せられ、10数か国語に翻訳されたといわれる)とジャパン・タイムズに掲載された第1回広島平和祭の記事に刺激されていたが、谷本のニュースを受け取ると、8月6日を世界平和デーにしようと呼びかけた (谷本清「寄稿・広島で世界宗教平和会議を」、この寄稿は、48年6月18日付 「読売新聞」(西部版)に掲載予定であったが、検閲により保留後ボツとなった)。その理由は、広島が「原子時代の戦争が意味するもののシンボル」であり、8月6日以外に「全世界を通じ平和の思想と感情に、より以上の共鳴を呼び起こす日」はないから、というものであった。48年4月18日、世界26か国の発起人により世界平和デー委員会が組織された。「ノーモア・ヒロシマズ」が、この運動のスローガンであった。
広島市は、1948年6月上旬、前年の平和祭に対する意見、批判やその後の国際的反響を踏まえ、文化的色彩を強くし世界平和運動のメッカたらしめることを主眼とした平和祭の新構想を発表した。浜井市長は、この構想の意図を、「平和祭行事は従来の放任的なものから今年は企画を統一したい」、「犠牲になった広島の平和運動が物乞根性と誤解されてはならない、あくまで平和運動のメッカとして世界人類の頭から広島をわすれさせないようにするのが念願である」と説明している(「中国新聞」48年6月9日、10日)。6月14日に開催された広島平和祭協会の48年度初の総会では、協会名を広島平和協会と改称したが、その意図は、世界平和運動に主力を注ぐことにあった。具体的には、平和宣言を恒久的なものにするため森戸辰男文部大臣に依頼して中央の権威者に再検討を仰ぐ、世界の都市に平和祭の意義を述べ世界平和運動への協力を求めるメッセージを送る、画壇大家の作品を網羅した平和美術展覧会を開催する、日本交響楽団を式典に招くといった新企画が考えられた。また、平和祭当日には供養と平和の象徴として市民が造花を胸に付けることが検討された。
このうち、平和宣言の起草は天野貞祐に依頼し、浜井広島市長は、世界の160都市の市長にメッセージを送ることとなった。また、平和協会は、美術展のための第1回協議会を6月24日に開催し、南薫造と小林和作の二人を顧問に委嘱し、準備を進めた。8月4日から袋町小学校を会場として開幕した展覧会は、県内のみならず国立東京博物館、大原美術館の名画400余点が展示され、広島としては未曽有の盛観を示した。日本交響楽団の招待は実現しなかったが、JOFKの尽力でNHK世界の音楽の来演が決まった。世界の音楽管弦楽団と合唱団は、平和式典で伴奏と合唱を行なうとともに、当日の夜と7日に児童文化会館で開催された音楽会に出演した。平和と供養の造花は、産業美術家協会に試作が依頼され、7月5日、市内の学校の教師にその作製方法の講習会が実施された。市民は、平和式典にこの造花を付けて参列し、約1,000人が、式典終了後これを胸に、「ノー・モア・ヒロシマズ」、「十万の御霊に誓う 世界平和は青年で」、「世界平和は広島から」などのプラカードを掲げ、平和広場から市役所前に向けて行進した(花行進)。
8月6日の平和式典は、前年と同じく、平和広場の平和塔前で、午前8時から1時間、つぎの式次第で開催された。
開会の辞 (寺田平和協会副会長)
大木惇夫作 詩「ヒロシマを思いて」朗読
平和の鐘 浜井会長
平和宣言 浜井会長
放鳩 (ミスヒロシマ)
進駐軍メッセージ 英連邦軍司令官ロバートソン中将
メッセージ 芦田内閣総理大臣(代読:松本滝蔵)、松岡衆議院議長(代読:高津正道)、松平参議院議長(代読:岩本月洲)、森戸文部大臣、楠瀬広島県知事
平和記念植樹(伊藤副会長)
平和記念樹苗伝達(石島副会長)
平和の歌合唱(伴奏:世界の音楽管弦楽団)
閉会の辞 (寺田副会長)
(『昭和23年度広島平和協会事業報告』、「中国新聞」1948年8月7日)
第2回平和式典の基調は、ノーモア・ヒロシマズであった。平和塔の側には、「NO MORE HIROSHIMAS」の看板が建てられ、平和宣言は、「再び第2の広島が地上に現出しないよう誠心こめて祈念するものである」と、ノーモア・ヒロシマズを訴えた。また、海外では、この式典に呼応して少なくとも26か国で第1回世界平和デーの諸行事が開催された。
ロバートソン中将のメッセージは、平和宣言以上の長さであり、「渉外局」の平和式典に関する発表は、これを「記念講演」と表現し(「中国新聞」1948年8月6日)、AP電は「式典のクライマックス」(原文はhigh point)と伝えた(The New York Times 1948.8.6)。ロバートソンは、その中で「広島市が受けた懲罰は戦争遂行の途上受くべき日本全体への報復の一部と見なさねばなりません。今後諸君が平和政策を忠実に守るとすれば、世界全部がこのような悲惨事の起こるのを未然に防止できることと思います」と述べた。また、この式典には、オーストラリア国会議員団一行8人が、「オーストラリア国民の代表として民主的な国民になるだろう日本国民にどの程度の真実があるか、自分の目でみて判断したいと望んで」参列していた(ロバートソンの「メッセージ」の表現)。これらは、平和祭を見る世界の目が、原爆犠牲にもとづく広島の訴えへの同情のみでは無いことを示している。
平和祭(第1回、1947年)
1947年(昭和22年)4月、戦後初めての衆議院議員選挙や初の地方選挙が実施され、5月3日には、日本国憲法が施行された。こうした戦後の改革は、国民の平和への関心を高めた。広島では、被爆2周年目の8月6日に、前年の「統制的・追憶的」な行事ではなく「平和の息吹で原子砂漠をおおう」行事を開催しようとの声が起こった(「中国新聞」1947年6月21日)。石島治志NHK広島放送局長は、被爆市民の平和への意志を全世界に公表するために平和祭を開催することを構想し、4月17日公選初の市長に就任した浜井信三に助言するとともに、広島観光協会でも提唱した。また、広島商工会議所内でも平和祭開催の機運が高まっていた。中村藤太郎同会頭は、6月初め、浜井市長にその旨を申し入れ、市長とともに呉市にあった米軍軍政部に赴き、平和祭についての打診を行なった。これに対し、軍政部の司令官は、「膝を乗り出して賛成した」と伝えられている(浜井信三『原爆市長』)。
占領軍の後援が明らかになると、平和祭に向けて準備が進められた。6月20日には、広島市役所、広島商工会議所、広島観光協会(1951年に、広島市観光協会に発展的改組)の三者が発起人となって広島平和祭協会を設立し、会長には浜井広島市長が、また副会長には中村広島商工会議所会頭と寺田豊広島市議会議長が就任した。新設された平和祭協会は、7月3日から7日にかけて、宗教、茶道、音楽、興業、展覧会、展示会、スポーツ、報道、文化、商店といった各関係方面ごとに参集を求めて打ち合せを行ない、平和祭の諸行事を決定した。また、同協会は、平和祭で合唱される平和の歌および慈仙寺鼻広場と元護国神社前広場の名称の募集も行なっている。両者の入選作の発表は、22日におこなわれた。「平和の歌」(現在の名称:「ひろしま平和の歌」)には、豊田郡の中学校教師重園贇雄の作品が、応募作品151点の中から選ばれた。一方、広場の名称は、慈仙寺鼻広場が「平和広場」、元護国神社前広場が「市民広場」に決定した。このうち、平和祭の会場予定地である「平和広場」には、7月上旬から平和塔(高さ10メートル)と野外音楽堂の建設(木造約28坪、工費15万円)が進められた。
寺田豊市会議長(広島平和祭協会協会副会長)は、7月18日上京、GHQを訪問して、平和祭へのメッセージを要請していた。これに対し、GHQは、7月末、マッカーサー自身のメッセージが寄せられると公表した。マッカーサーが、日本の地方行事にメッセージを寄せることは、極めて異例のことであり、彼自身がこの式典に強い関心を寄せていることを伺わせるものであった。
また、広島市は、1947年7月31日、「毎年8月6日は、本市の平和記念日として市役所事務を休停する。」との条例(「広島市役所事務休停日条例」)を制定し、市役所あげて8月6日を迎えることとした。
平和祭式典は、8月6日午前8時から9時までの1時間、つぎのような式次で開催された。
開会挨拶 (野田平和祭協会事務局長)
平和塔除幕(木原前広島市長令嬢)
平和の歌演奏・合唱(広島放送管弦楽団)
平和宣言 浜井市長
平和の鐘 浜井市長
(花火・サイレン・平和への祈り)
メッセージ発表
ダグラス・マッカーサー連合軍最高司令官(代読訳文:山口秘書)、英連邦軍総司令官(代読:ライアン少佐)、米軍政部長(代読:クロワード中佐)、片山内閣総理大臣(代読:山田参 議院議員)、松岡衆議院議長(代読:藤田代議士)、松平参議 院議長(代読:山下参議院議員)、森戸文部大臣、楠瀬広島県 知事
祝電披露 全国各市長、米国ボストン市長、モントゴメリー(元広島復興顧問)
放鳩(10羽)(中村商工会議所会頭)
平和記念樹植樹(寺田市会議長)
全国199戦災都市へ送る平和記念樹苗の伝達
(石島広島放送局長から末永呉市長へ)
平和の歌合唱(市内男女中等学校生徒100余名)
閉会の辞 (野口事務局長)
(「夕刊ひろしま」1947年8月6日、「中国新聞」8月7日)
マッカーサーは、メッセージの中で、広島の教訓を、「自然の力を利用した戦争による破壊力の進展はその停止するところなく遂には人類を絶滅し、現世界の物的構成を一挙にして壊滅に帰せしむる手段となるであろうということを全人類に警告する助け」となったことに求めた(「朝日新聞」1947年8月7日)。この人類絶滅観は、浜井市長の読み上げた平和宣言の中でも言及された。
NHK広島中央放送局(JOFK)は、午前8時から30分間、式典の模様を実況放送した。それは、そのままJOAK(東京)を通じて米国に中継されたが、この放送は、日本の戦後初の国際放送であった。また、INS、CBSといった米国の放送会社やユナイト、日映、時事などのニュース映画会社も、式典の模様を取材した。
8月1日からすでに盛り沢山な行事が始まっていた。平和記念日を中心とする3日間の広島には、市民のほか、近郊からも多くの人々が押し寄せ、大変な賑わいを示した。この3日間の広島、横川、己斐の各駅の利用者の数は、平日より2万人以上増加したと報じられている(「中国新聞」1947年8月8日)。
第1回平和祭の開催は、海外で大きな反響を呼んだ。アメリカの臨時世界人民会議(Emergency World Peoples Congress)は、8月6日にアラモゴードでヒロシマ2周年の集会を開催した。この集会の中で、マッカーサーが広島に寄せたメッセージが読み上げられた(The New York Times 1947.8.7)。また、ニューヨークタイムズは、この日の社説で、「原子爆弾がなければ殺戮はもっと大きかったであろうし、この点で原子爆弾の使用は正当化される」としながらも、つぎのように述べた。
広島と長崎で行われた涙をそそる記念行事は到るところの人情ある人々の心を動かさずにはいないが、我々はこの両都市が各種記念行事を執り行う唯一の場所として永久に留まることを希望し祈らなければならない。
(「中国新聞」1947年8月9日)
ニューヨークの「世界同胞運動協会」は、つぎのような感想を述べた「広島市民への公開状」と題する書簡を広島にもたらした。
われわれは広島市民諸君が8月6日、平和祭を行われたことを聞き、ただ頭を下げるばかりである。すなわちこの日広島市民諸君が争いの観念をすて、平和を念願努力されていることをきき、われわれは罪の観念を 深め、民族としての反省を続けている。(「中国新聞」1947年9月21日)
こうした国内外の反響の中には、批判的なものもあった。アメリカの雑誌ライフは、平和祭の模様を「アメリカ南部の未開地におけるカーニバル」と表現した。また、平和祭協会には、「あのようなお祭り騒ぎをするのはもってのほかだ」、「厳粛な祭典は一つも見られなかった」といった投書が市民から寄せられた。このように、市民の間には、8月6日を「厳粛な黙祷の日にすべきだ」との主張がある一方で、「若しただ1回の平和祭に100万円の費用をかけるとしたら、その100万円を花火線香に終らせず、世界に向って何かを残し与えるような施策が必要」(長田新の論説、「中国新聞」1947年9月8日)といった意見や、「平和祭を復興に直結させたものにすべきだ」という現実論(浜井信三の話、「中国新聞」1948年6月9日)も存在した。
『ヒロシマ HIROSHIMA 』(広島平和文化センター編・刊、19750718)
目次
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<表紙説明>原爆慰霊碑 |
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碑文は、広島大学教授雑賀忠義氏の筆によるもので、碑文の意味は、世界恒久平和を希求するヒロシマの心であり、人類としてあの過ちを再び繰り返してはならない、という反省と平和への誓いが込められている。 |
1 |
まえがき |
荒木武(広島市長) |
2 |
原爆被災の記録<写真> |
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爆心地上空から |
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市中心部を上空から |
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御幸橋の上で |
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御幸橋の上で |
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専売局電停角 |
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焼け野原 |
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原爆ドーム |
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萬代橋の人影と荷車の影 |
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元安橋 |
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日赤広島支部ビル |
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本通りの時計台 |
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旧護国神社の石灯ろう |
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横河駅前付近 |
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自動車の残がい |
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丸焼けの市内電車 |
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皆実町のガスタンク |
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ダイダイ |
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明治橋のヤツデ |
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被爆者の伝言板 |
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第2陸軍病院 |
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大芝国民学校救護所 |
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救援トラックの上で |
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広島逓信病院 |
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広島赤十字病院 |
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目の治療 |
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広島赤十字病院の治療 |
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脱毛した婦人 |
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死亡前の被爆兵士 |
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焼きついた着物の柄 |
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帽子の跡 |
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心外景 |
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頸部 |
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竹 |
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平瓦 |
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人骨と瓦礫 |
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3 |
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式 |
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『グラフひろしま』(広島市役所秘書室広報課)
目次(抄)
NO. |
発行年月日 |
記事 |
01 |
19731001 |
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56 |
19930331 |
ひろしま昭和ヘソ時代 みんなが残した路地裏グラフィティ<1952~1962> |
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61 |
19951201 |
変わらない約束 被爆50周年記念号 |
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今後、すべての色の花が、おだやかな風に吹かれますように。~ダグラス・グラハム~ 1
天地いっぱい、緑のゆりかご 2
未来の記憶の中へ 4
忘れかけの街で 6
風化しないように、子どもたちヘヒロシマを託す 7
風景の途上にて 8
故郷のうたを聴きながら 10
八月六日午前四時。いとおしい夜明け 12
Hiroshima:8:15a.m.August6,1995 平和宣言(全文) 14
Midnight-8:00p.m.August6,1995 回復する時間 16
遠い先のまだまだ先へ。8:00p.m.August6,1995 18
まなざしがくれたもの。●8.6ヒロシマ発のメッセージ● 20
あしたの夢を掘る。 22
百万人の大ピース。1995.8.2ピース・ワールド・イン広島’95 24
ボクら平和と隣組。1995.8.1~2こども平和のつどい 26
21世紀と話をしよう。 28
広島市被爆50周年記念事業 30
変わらない約束「ヒロシマ」 32 |
63 |
199610 |
ボランティア特集 |
64 |
199612 |
特集・ひろしま国体 おりづる大会ひろしま |
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71 |
19991001 |
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『世界写真家平和シンポジウム・写真展報告書 核の半世紀―目撃者は語る』(広島平和文化センター、19941216)
目次
頁 |
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発刊に当たって |
平岡敬(広島市長、財団法人広島平和文化センター会長) |
001 |
出席者のプロフィール |
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003 |
全体スケジュール |
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004 |
写真展の概要 |
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005 |
原爆被害概況説明の概要 |
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007 |
宇吹暁 |
原爆の社会的影響 |
011 |
練石和男 |
医学的影響「原爆放射線の健康影響」 |
013 |
山岡ミチコ |
被爆者の証言「米国で27回の手術を受ける」 |
018 |
高橋昭博 |
被爆者の証言「私の被爆体験とヒロシマの心」 |
022 |
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世界写真家平和シンポジウムの概要 |
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1 日時 |
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2 会場 |
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3 テーマ |
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4 内容 |
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5 主催 |
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6 協力 |
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7 後援 |
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8 参考 |
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023 |
平岡敬 |
開会あいさつ |
024 |
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シンポジウムの発言内容 |
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勝部領樹 |
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025 |
ジョー・オダネル |
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028 |
ユーリ・イワノビッチ・クイディン |
|
30 |
勝部 |
|
30 |
キャロル・ギャラガー |
|
32 |
勝部 |
|
33 |
ロバート・デルトレダシー |
|
35 |
勝部 |
|
35 |
アンドレアス・ロベ |
|
37 |
勝部 |
|
37 |
大石芳野 |
|
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53 |
プロフィール |
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098 |
写真展における展示写真 |
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109 |
新聞記事[原文] |
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ひろしま復興・平和構築研究事業成果発表会
【日時】2014年10月11日(土)13:30~16:40
【会場】広島県情報プラザ 地下2階 多目的ホール
【主催】国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会
プログラム
1 開会あいさつ
2 発表
≪第1部≫ 13:35~15:00 |
講師 |
内 容 |
安藤福平(元広島県立文書館副館長) |
第1章「近代化の中の広島」
第2章「戦争と広島,原爆投下の衝撃」~新史料紹介:高野源進書簡と船舶司令部作命綴~ |
石丸紀興(㈱広島諸事・地域再生研究所代表 ) |
第3章「復興計画」
第4章「広島平和記念都市建設法」
第5章「再開発をめぐる諸問題」~広島の都市復興は何を語るか~ |
伊藤敏安(広島大学地域経済システム研究センター長[教授]) |
第6章「産業経済の再建」~なぜ予想より順調であつたか~ |
千田武志(元広島国際大学教授,呉市参与(呉市史編さん担当)) |
第7章「保健・医療の充実と被爆者支援」 |
≪第2部≫ 15:10~16:40 |
講師 |
内容 |
宇吹暁(元広島女学院大学教授) |
第9章I「平和行政」,Ⅱ「平和運動」~平和記念式典の歩みを中心に~ |
卜部匡司(広島市立大学国際学部准教授) |
第9章Ⅲ「平和教育」~ヒロシマの復興と戦後の教育~ |
川野徳幸(広島大学平和科学研究センター教授) |
第9章Ⅳ「原爆体験と原爆被爆者の平和観」~原爆体験と被爆者のメッセージ~ |
水本和実(広島市立大学広島平和研究所副所長[教授1) |
まとめ 「広島の復興が持つ意味,広島の復興経験をどう生かすか」 |
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質疑応答
≪休 憩≫ 15:00~15:10
≪第2部≫ 15:10~16:40
講師 内 容
宇吹暁氏 元広島女学院大学教授 第9章I「平和行政」,Ⅱ「平和運動」 ~平和記念式典の歩みを中心に~
卜部 匡司氏 広島市立大学国際学部准教授 第9章Ⅲ「平和教育」 ~ヒロシマの復興と戦後の教育~
川野 徳幸氏 広島大学平和科学研究センター教授 第9章Ⅳ「原爆体験と原爆被爆者の平和観」 ~原爆体験と被爆者のメッセージ~
水本 和実氏 広島市立大学広島平和研究所副所長[教授1 まとめ 「広島の復興が持つ意味, 広島の復興経験をどう生かすか」
質疑応答
3 閉
『広島の復興経験を生かすために―廃墟からの再生- ひろしま復興・平和構築研究事業報告書 』(国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会(広島県・広島市)、20140331 )
目次
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タイトル |
著者 |
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発刊にあたって |
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湯崎英彦(広島県知事)・松井一実 (広島市長) |
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執筆者等一覧 |
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プロローグ:「広島の復興」が持つ意味 |
水本和実 |
Ⅰ |
なぜいま広島の復興が注目されるのか |
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Ⅱ |
広島の復興とは |
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Ⅲ |
本書の構成 |
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Ⅳ |
おわりに |
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Ⅰ部 |
戦争と破壊 |
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第1章 |
近代化の中の広島 |
安藤福平 |
Ⅰ |
城下町から近代都市へ |
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Ⅱ |
地方拠点都市へ |
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コラム |
広島のシンボル、原爆ドーム |
|
|
菊楽忍・永井均 |
第2章 |
戦争と広島、原爆投下の衝撃 |
安藤福平 |
Ⅰ |
軍都広島の歩み |
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Ⅱ |
原爆投下 |
|
コラム |
高野源信書簡 原爆投下前後の広島県知事の思い |
安藤福平 |
Ⅱ部 |
都市の復興 |
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第3章 |
復興計画 |
石丸紀興 |
Ⅰ |
政府の戦災復興計画 |
|
Ⅱ |
広島復興建設計画 |
|
Ⅲ |
まとめにかえて |
|
コラム |
差し伸べられた手―海外からの復興支援 |
永井均 |
第4章 |
広島平和記念都市建設法 |
石丸紀興 |
Ⅰ |
広島平和記念都市建設法の制定過程とその内容 |
|
Ⅱ |
広島平和記念都市建設法制定による平和記念都市建設計画への展開 |
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Ⅲ |
平和記念都市建設計画の事業化と効果 |
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Ⅳ |
まとめにかえて |
|
コラム |
広島平和記念資料館の使命 |
|
|
大瀬戸正司・永井均 |
第5章 |
再開発をめぐる諸問題 |
石丸紀興 |
Ⅰ |
不法建築の系譜 |
|
Ⅱ |
河岸での不法建築の発生と河岸緑地の形成 |
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Ⅲ |
基町と住宅建設 |
|
Ⅳ |
基町再開発への道 |
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コラム |
基町、激変の都市空間を探訪する |
|
|
高野和彦・永井均 |
Ⅲ部 |
復興する広島と市民の暮らし |
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第6章 |
産業経済の再建 |
伊藤敏安 |
Ⅰ |
戦時中から終戦直後 |
|
Ⅱ |
高度経済成長期 |
|
コラム |
爆心地で路面電車が動き出す |
加藤一孝 |
第7章 |
保健・医療の充実と被爆者支援 |
千田武志 |
Ⅰ |
昭和20年代の保健・医療の状況 |
|
Ⅱ |
戦後広島の保健・医療の推移 |
|
Ⅲ |
公的医療機関の動向 |
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Ⅳ |
被爆者医療の実態と展開 |
|
コラム |
医師たちの奮闘―未曾有の惨劇に立ち向かう |
永井均 |
第8章 |
メディアと復興 |
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Ⅰ |
『中国新聞』の戦前と原爆被災 |
小池聖一 |
Ⅱ |
原爆報道 |
西本雅実 |
Ⅲ |
市民生活の再建と変遷 |
西本雅実 |
コラム |
広島カープ―市民の球団、復興の道標 |
永井均 |
Ⅳ部 |
新しいアイデンティティーを求めて |
|
第9章 |
平和を模索する都市 |
|
Ⅰ |
平和行政 |
宇吹暁 |
Ⅱ |
平和運動 |
宇吹暁 |
Ⅲ |
平和教育 |
卜部匡司 |
Ⅳ |
原爆体験と原爆被爆者の平和観 |
川野徳幸 |
コラム |
広島市長の平和宣言 |
水本和実 |
エピローグ 広島の復興経験をどう生かすか~未完の試みからのささやかな提言~ |
水本和実 |
Ⅰ |
広島の復興をたどってみて |
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Ⅱ |
おわりに 広島の復興をどう生かすか |
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執筆者等プロフィール |
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『広島の復興経験を生かすために―廃墟からの再生- 第2巻 ひろしま復興・平和構築研究事業報告書 』(国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会(広島県・広島市)、20160331 )
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育現場の復興と、学校が地域の復興に果たした役割 ある爆心地の学校を中心に |
卜部匡司 |
原爆による医療の崩壊と戦後の再生 |
千田武志 |
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『広島の復興経験を生かすために―廃墟からの再生- 第3巻 ひろしま復興・平和構築研究事業報告書 』(国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会(広島県・広島市)、20170331 )
原爆被災と行政 |
安藤福平 |
「原爆孤児」―語られざる軌跡 |
西本雅実 |
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『広島の復興経験を生かすために―廃墟からの再生- 第4巻 ひろしま復興・平和構築研究事業報告書 』(国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会(広島県・広島市)、20180331 )
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被爆体験継承の課題:何を継承するのか |
川野徳幸 |
「広島の家」―国や人権を超えて寄せられた支援 |
落葉裕信 |
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広島県総務部地方課『特別調査一件』(1951年7・8月(平和祭関係))
広島県総務部地方課『特別調査一件』(1951年7・8月(平和祭関係)) |
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番号 |
件名 |
発元又は宛名 |
1 |
平和擁護運動並全面講和愛国運動の概況 |
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2 |
広島平和擁護委員会の動向について |
特審調査部長宛 |
3 |
平和擁護運動について |
特審中国支局長宛 |
4 |
平和擁護委員会等の動向について |
特審調査部長宛 |
5 |
平和擁護委員会等の動向について |
特審調査部長宛 |
6 |
平和擁護委員会等の動向について |
復命書 |
7 |
平和擁護委員会等の動向について |
特審調査部長宛 |
8 |
広島平和祭に併う(共)主流派の平和講演会開催について |
特審調査部長宛 |
9 |
日共関係者の動行について |
安芸地方事務所発 |
10 |
団体動行調査について |
甲奴地方事務所発 |
11 |
平和芸能祭の状況について |
復命書 |
12 |
反戦同盟準備会について |
特審調査部長宛 |
13 |
平和祭をめぐる諸団体の動向について |
特審調査部長宛 |
14 |
全国平和会議の状況について |
特審調査部長宛 |
15 |
平和運動に関する資料送付について |
特審調査部長発 |
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広島県総務部地方課『特別調査一件』(1951年8月~12月) |
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番号 |
件名 |
発元又は宛名 |
1 |
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2 |
人形劇団クラルテ「人形劇教室」公演について |
特審調査部長宛 |
3 |
平和擁護委員会の届出について |
特審調査部長宛 |
4 |
平和擁護委員会の団体等規正令による届出の勧奨について |
平擁委会宛 |
5 |
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6 |
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7 |
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8 |
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9 |
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10 |
松本治一郎民主陣営復帰歓迎大会について |
特審調査部長宛 |
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『民政新報No.4』(民政新報社、19510910)[印刷・編集・発行人=小堺吉光] |
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『人間に光あれ 部落問題研究資料』(土岡喜代一著、民政新報社編集・発行) |
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11 |
日本社会党広島県連合会並びにこれと提携せる団体の動向について |
特審中国支局長宛 |
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第6回国民体育大会際しての行幸啓に伴う広島自由労働者組合の動向について(報告) |
特審中国支局長宛 |
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(別記1)『天皇陛下に訴える』(広島自由労働者組合) |
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(別記2)『 』(広島の一貧乏人より) |
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(別記3)『ハズカシメを忘れるな 天皇から遠ざける市役所』(広島自由労働者組合) |
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(別紙4)『大砲かめしかNo.4』(日本共産党自由労働者細胞、19511101) |
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12 |
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13 |
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14 |
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15 |
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16 |
劇団「ぶどうの会」の公演状況について |
特審調査部長宛 |
17 |
県下における日雇自由労働組合の動向について |
特審調査部長宛 |
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「(写し)抗議文 広島市長浜井信三・広島市議会議長秋田正之・市幹部40名・市議会議員あて」(広島日雇自由労働組合協議会・広島自由労働組合・広島日雇労働者労働組合・広島失業対策自由労働組合、19511220) |
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18 |
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19 |
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20 |
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21 |
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22 |
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23 |
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24 |
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25 |
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26 |
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27 |
(共)外郭団体現況表送付について |
CIC宛 |
28 |
県下における愛善苑の現況について |
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『ひろしま修学旅行ガイド 世界平和に貢献する水と緑と文化のまち 』(広島市観光課・広島市観光協会編 刊、19830731)
目次
頁 |
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はじめに 荒木武(広島市長) |
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1 |
君はいくつの広島を見るだろうか |
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6 |
広島のルーツたどってみよう |
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14 |
広島のあゆみ |
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16 |
頭の中に広島のデータを入れておこう |
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17 |
ひろしまナンバーワン |
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18 |
ピックアップひろしまシティ |
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18 |
中・四国圏をリードする90万人都市「広島」 |
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20 |
広島の母なる川・太田川 |
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22 |
世界に開かれた広島 |
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24 |
動く路面電車の博物館 |
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26 |
広島の都心には大きな公園が2つもある |
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28 |
スポーツ王国・広島の代表は赤ヘルカープ |
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30 |
海に向かって発展する広島 |
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ふるさと広島 |
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23 砂原美智子 25 若杉 慧 27 新藤兼人 31 原田真二 |
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32 |
自分の足で気軽に見てまわろう |
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32 |
文化の道コース |
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37 |
平和の道コース |
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40 |
歴史の道コース |
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43 |
水の都散策コース |
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46 |
橋のコース |
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49 |
グループで楽しむコース(サイクリングコース) |
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52 |
瀬戸の小島めぐりコース |
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55 |
東洋工業と黄金山のコース |
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58 |
西部流通センターコース |
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61 |
足をのばそう市内観光 番外編 |
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64 |
スケジュールに取り入れたい産業施設見学 |
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65 |
君に語りかけるヒロシマ |
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66 |
あの日時計は8時15分で止まった |
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67 |
原子爆弾の破壊力 |
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68 |
多くの児童・学徒たちも原子雲の下にいた |
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69 |
被害者の一人としてヒロシマを語る |
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72 |
年間130万人が訪れる 広島平和記念資料館 |
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73 |
いつまでも記憶の中にとどめておきたい |
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77 |
平和について学び語りあおう 広島平和記念館 |
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80 |
ヒロシマを世界へアピール |
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82 |
平和記念公園はヒロシマの原点 |
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86 |
私が見たヒロシマ |
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87 |
もっと広くヒロシマを見つめよう |
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88 |
フリータイムひろしま |
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90 |
ひろしまの四季 |
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96 |
ひろしま味覚事典 |
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99 |
広島地酒の話 |
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100 |
広島伝統工芸事典 |
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101 |
広島流お好み焼き物語 |
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103 |
広島のむかし話 |
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105 |
ひろしまのことば・広島市の読みにくい地名 |
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106 |
広島の周辺みてある記 |
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107 |
三段峡・湯来温泉 |
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108 |
宮島 |
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110 |
岩国 |
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111 |
呉・江田島 |
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112 |
交通メモ |
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114 |
広島駅ガイド・バス路線ガイド |
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116 |
お問合せコーナー |
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『被爆(戦後)50周年 被爆(戦争)体験談児童生徒の平和作文集』(府中町・府中町教育委員会編 刊、19960101)
目次
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はじめに |
林原亘(府中町長) |
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被爆(戦争)体験談 |
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八月六日(池本四郎)
私の見た光景(江種祐司)
被爆体験(岡村守三)
私史断片(梶川進)
敗戦直前の頃(片桐隆三)
私の青春は終始、戦争の地獄だった(栗栖徳政)
私の原爆体験記(滝山政輝)
原爆の追憶(多羅尾義男)
一生懸命働いた(中山アヤ子)
戦争と母(二井貴衣)
私の戦争体験(橋本正紀)
平和への願い(橋本ツネ子)
私の青春時代(溝本燁子)
あの思いを胸に今…(山手博)
私の原爆記(山室安江)
府中小学校講堂での被爆者看護の日々(吉田美江子) |
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平和作文(中学生の部) |
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平和作文(小学生の部) |
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資料 |
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01 |
「日本非核宣言自治体協議会」結成の経過 |
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02 |
日本非核宣言自治体協議会会則 |
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03 |
年度別協議会会員自治体数及び非核宣言自治体数 |
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04 |
1995年都道府県市区町村別内訳 |
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05 |
内、1995年広島県市町村別内訳 |
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06 |
広島県内非核宣言自治体一覧表 |
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07 |
核兵器廃絶・平和宣言を呼びかける共同声明 |
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08 |
非核町宣言(府中町・府中町議会) |
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09 |
抗議文(府中町) |
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10 |
抗議決議(府中町議会) |
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11 |
府中町被爆者健康手帳保持者数 |
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ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。