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平和式典の会場-平和記念公園

(1) 平和式典の会場-平和記念公園

平和式典は、「平和広場」(1947と48年)、「市民広場」(49と50年、50年は予定)、戦災供養塔前(51年)と、その会場を転々と変えていた。しかし、52年(昭和27年)以降、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前で開催されるようになった。
平和記念公園には、戦前、中島本町、天神町、材木町、元柳町が存在し、店舗や住宅約700軒が密集していた。この地域は、原爆爆心地からほぼ500メートル圏内に位置しており、原爆攻撃により壊滅した。戦後、広島市は、この場所を、公園(中島公園)とすることを計画した。広島市は、1949年4月20日、この公園を平和記念公園として建設することとし、設計図を全国に公募した。7月18日に募集を締め切ったが、応募作品は145点におよんだ。この中から選ばれたのは、丹下健三ら4人の共同作品であった。
この公園は、広島平和記念都市建設法の公布(1949年8月6日)にともない、その裏づけのもとに建設されることとなった。49年10月3日、東京で平和文化都市建設協議会の第1回会合が開催されたが、そこでは平和の理想を象徴する平和記念施設として、①記念公園(平和公園)、②記念館、③記念街路(平和緑道)が建設されることとなった。
①は、本川と元安川に抱かれた三角州の頂点に位置する中島公園(=平和広場、3万2、200坪)とその東側対岸の4、800坪(旧広島県産業奨励館敷地)と、その東北に接続する旧広島城跡を中心とする中央公園(=市民広場、22万坪)を総合した公園とされた(その後、中央公園部分は平和公園から外される)。③は、中島公園南端を基点として、東西に伸びる延長約4、000メートル、幅員100メートルの街路であった(後に「平和大通り(百メートル道路)」と呼ばれる)。また、②は、中島公園およびその東側対岸に設置するものとし、その内容としては、つぎのようなものが考えられていた。
(a)平和会館 2、500人収容の会議室及び事務室、原爆関係資料陳列室等。
(b)平和アーチ 張間120メートル、高60メートル、頂点に五つの鐘を吊す。
(c)慰霊堂 原爆犠牲者の遺骨並びに銘を納める。
(d)原爆遺跡 原爆により破壊された旧産業奨励館の建物を補強し保存する。
(大島六七男「復興の足どり」)
1951年2月21日、東京で第4回広島平和記念都市建設専門委員会が開催された。この席上、浜井広島市長は、「今夏で7回忌を迎える原爆都市の慰霊塔関係の設立を急ぎたい」との意向を述べた。しかし、建設省は、広島市の納骨堂を含む「慰霊塔」案は、墓地であり、公園法の建前から認められないと、難色を示した。そこで広島市は、遺骨の代わりに名簿を奉納することとし、8月6日までの式典に間に合うように碑を建立することを決定した(「中国新聞」51年2月22日)。しかし、碑は、51年の8月6日には間に合わず、52年3月末着工した。
碑の設計者は、丹下健三であった。コンクリート素打の工法で埴輪をデフォルメした設計で、当初案の巨大な「平和アーチ」は、正面から見た底辺4.7メートル、高さ3.67メートル、横から見た上辺8.29メートル、下辺5.26メートルのはにわ型に縮小・変更された。原爆死没者名簿を奉納するため、碑の中央に黒い御影石製の矩形の箱が配置された。そして、この箱の正面には、雑賀忠義が作成した碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(雑賀の英訳:Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil.)が、刻み込まれた。この碑は、建立当時から「原爆慰霊碑(原爆死没者慰霊碑)」と呼ばれたが、碑の正式名称は、「広島平和都市記念碑」である。工費は、300万円であった。
一方、当初の案の「平和会館」は、その後、平和記念都市建設法にもとづき広島平和記念資料館(1951年3月着工、通称「原爆資料館」)、広島平和記念館(52年3月着工)の2施設として、また、広島市公会堂(53年11月着工)が、財界の寄付により着工され、55年の2月から8月にかけて竣工した(広島市役所『市勢要覧 昭和34年度』)。
平和記念公園は、公費とは別に、民間団体の寄贈によっても次第に整備された。広島市未亡人会は、1955年8月5日、原爆死没者慰霊碑前に花台を奉納した。建立以来碑前には、粗末な竹筒で花が供えられていたが、これを見かねた同会が原爆10周年を記念して送ったものであった。57年8月3日には、原爆死没者慰霊碑の周囲に完成した「平和の池」の贈呈除幕式が行なわれた。この発端となったのは、前年秋広島で開催された第5回日本青年会議所会員大会であった。大会では、「大会の記念事業として記念施設を広島に残そう」との決定がなされ、全国の青年会議所会員が20万円を寄せた。これを受けた広島市は、「業火のうちに散っていった20数万人の霊を慰めるため、原爆慰霊碑周囲三方に幅2メートルの池を掘り碑全体を浮上らせる」ことを決め、市費を加えて池を建設した(「中国新聞」57年8月1日)。また、63年4月29日の天皇誕生日には、広島日の丸会本部(高木尊之会長)が、平和公園に国旗掲揚台を設置し、市に寄贈した。
1963年6月、核兵器禁止平和建設広島県民会議は、原爆死没者慰霊碑付近にオリンピックの聖火台のような「平和の灯」を建設することを計画した。この計画は、同年12月3日の核禁会議全国幹部会で取り上げられ、核禁会議が700万円を募金することが決定された。灯の設計は、丹下健三が担当し、64年5月27日、「平和の灯」の起工式が挙行された。灯台は、原爆死没者慰霊碑と同じくコンクリート素打の工法で、高さ3メートル、幅13メートル、両手が力強く灯を掲げる姿を表現し、灯は、平和を求める積極的な姿を示したものであった。起工式に出席した丹下は、設計者としての意図を、「安らぎを象徴するハニワ型の慰霊碑だけではもういけない。いまひとつ動的な平和の象徴が必要な時代だ」と語っている(「中国新聞」64年5月28日)。「平和の灯」点灯式は、約1万人の参列のもとに64年8月1日午後7時から開始された。点灯に用いられた火は、伊勢神宮、東西両本願寺など全国12宗派から寄せられた「宗教の火」と溶鉱炉など全国の工業地帯から届けられた「産業の火」であった。
この後も、平和公園の整備が続いたが、その中で、1985年の原爆死没者慰霊碑の改築は、最も大きなできごとであった。広島市は、84年1月、碑改築の方針を発表した。その理由として、コンクリートの石灰分が表面に吹き出して中の鉄筋の腐食が進み、碑にひびが入ることが明らかになったこと、原爆死没者名簿が32冊入っているが、あと数冊の余裕しか残っていないことの二つがあげられた。改築工事は、同年7月23日から始められ、翌85年3月26日、新慰霊碑(旧慰霊碑と同型で材質はコンクリートからみかげ石に変更)の除幕式が行なわれた。

 

平和式典の主催者

平和式典の主催者

平和式典の初期の主催者は、広島平和祭協会(1948年6月広島平和協会と改称)であった。広島平和祭協会は、会則により、事務所を広島市役所内に置き(第1条)、会長は広島市長が就任することになっていた。しかし、副会長は「広島商工会議所会頭、市会議長及委員会デ選任セラレタルモノ」の3人(第4条)とされ、また、協会独自の予算をもっており、広島市とは独立した組織であった。第2回平和祭が開催された48年度(昭和23年度)決算の場合、分担金収入は158万7,800円であり、その内訳は、広島市60万円、広島県30万円、正会員分担金 68万7,800円(289口)となっている(「昭和23年度広島平和協会事業報告」)。また、50年度予算では、収入総額250万円のうち、広島市が150万円、広島県が50万円をそれぞれ分担することになっていた(「昭和25年度広島平和協会収支予算書(案)」)。

マスコミは、毎年8月6日が近付くと平和協会の平和式典への取組を報道していたが、1952年以降、そうした報道は見られなくなった。平和式典は、52年から54年までは、広島市と平和協会で共催されたことになっている。しかし、平和協会はすでに有名無実化しており、54年に改組の動きが見られた。7月13日、原・水爆禁止広島県民運動連絡本部は、平和記念日の行事に関する第1回準備委員会を開催し、その中で、広島平和協会を解消し、「民主、婦人、PTA、労組、宗教、文化、教組など平和につながる各種団体を網らした新しい平和協会を8月6日までに結成」することを申し合わせた(「中国新聞」54年7月15日)。浜井広島市長は、この動きを了解するとともに、平和式典の市との共催を止め、当初のように平和協会のみで開催したい意向も持っていたと伝えられる(「中国新聞」54年7月25日)。しかし、これは、市議会の反対により実現しなかった。平和協会は、7月29日、委員会を開催し、これまでどおり広島市と平和協会の共催で式典を開催することと、平和式典の予算32万7,000円(広島市が20万円、県が10万円を助成)を決定した。

平和式典は、1955年からは、広島市が単独で主催するようになった。その後、60年のみ、県と共催で開催された。これは、県からの強い働きかけの結果であり、その経緯はつぎのようなものであった。
1960年1月21日、平塩五男広島県議会議長は、木野広島市議会議長に対し、8月6日に県・市合同の原爆死没者慰霊祭を開きたい旨の申し入れを行なった。そして、翌22日には、広島県・市両議会の正副議長名で、同様の声明を発表した(「中国新聞」60年1月23日)。2月17日、この慰霊祭について県・市、県・市両議会の4者代表者会議が持たれ、まず県議会側からつぎの説明がなされた。

①昨年12月の県会で、原爆15周年の県慰霊祭開催を決議している。
②できれば、県・市合同で開きたい。
③同慰霊祭には皇太子殿下[明仁親王、現天皇]をお招きするほか、岸首相、衆・参両院議長、各党党首の参列を求める。
④慰霊祭は全県民の祈りにふさわしく、8月6日の午前8時15分を中心に開きたい。

これに対し、市と市議会側は、「8月6日の平和記念式典は9年間の歴史的行事なので、8時15分は避けて開くことはできない。合同慰霊祭の趣旨には賛成だが、二つの集会の場所や時間的な問題を検討したうえで次回の会議で結論を出したい」と即答を避けた(「中国新聞」1960年2月18日)。

2回目の会合は2月26日に開かれ、4者の間で、(1)慰霊祭と平和記念式を共同主催で行なう、(2)開催時刻は原爆が投下された午前8時15分を中心に午前7時半ごろから同8時半までとし、平和記念公園(原爆死没者慰霊碑前を予定)で開く、(3)具体的な計画は四者の代表で準備委員会をつくってすすめる、との3点が確認された。3月28日には、準備委員会の構成と式典に皇太子を始め岸首相、衆参両院議長、各政党代表を招待することを決定した。5月8日の第1回準備委員会では、式典の正式名称を「原爆15周年慰霊式並びに平和記念式典」とすること、当日弔旗を掲げること、式典には政治的・思想的な団体の参加をいっさい認めず、静かに原爆犠牲者の冥福を祈る日とするなどの方針が決定された。その後、5月9日、大原知事による皇太子夫妻の参列要請、7月中旬、県議会3党(自民、社会、民社)派代表による党首参列折衝、県教委と県体協による原爆15周年平和記念総合体育大会および県内4コースからの線香リレーの具体化など、それまでの式典前にはみられなかった大規模な準備が進められた。

平和式典略年表

平和式典略年表

年月日
1945年(昭和20年)
8月 6日 午前8時15分、広島市に原子(ウラン)爆弾投下される
8月 9日 午前11時2分、長崎市に原子(プルトニウム)爆弾投下される。
8月15日 正午、「終戦詔書」放送。
9月 9日 広島県警察部、戦災行方不明者の取り扱いについて通達。空襲後、2週間たっても行方不明の者は死亡と認める。
9月19日 GHQ,プレスコードを指令。以後、「原爆報道」が激減。
11月17日 広島市、原爆による死亡者の遺骨の引き渡し事務を一旦打ち切り(収容遺骨約9,000柱のうち約3,000柱が引き取らる)。
11月30日 広島県、原子爆弾による人的被害をまとめる(軍関係を除く)。死者7万8,150人。12月 6日 広島市、保管していた氏名住所不明の原爆死亡者の遺骨約6,000柱を、市内善法寺へ移す。
1946年(昭和21年)
4月29日 広島市、戦災供養塔の建設案決定。場所・爆心地の中島慈仙寺鼻、予算75万円、広島市戦災死没者供養会をつくり建設費の寄付を募るなど。7月 -日 広島市、爆心地の慈仙寺鼻に戦災礼拝堂を建設。工費7万3,600円。
8月 5日 平和復興広島市民大会、元護国神社前で開催。7,000人参加。広島市、市内8か所 で、原子爆弾症医療無料相談所開設(~7日)。
8月 6日 広島市で、戦災死没者一周年追悼法会(広島市、各宗連盟県支部、広島市戦災死没者供養会共催)。
5月22日 広島市の戦災死没者遺骨収容大供養週間(広島市、市戦災死没者供養会、広島県仏教連合会、広島市町会連盟主催)始まる。26日まで各町内会で遺骨収容。
5月26日 広島市慈仙寺で戦災供養塔開眼法要。27日、同寺で戦災供養法会(広島市戦災死没者供養会主催)。
7月31日 広島市の引き取り手のない原爆死没者遺骨4,500柱(戦災死没者遺骨収容大供養週間中に発掘・収容した2,300柱と市が保管中の2,200柱)、市内善法寺に安置。
8月 6日 戦災供養塔納骨堂に合祀。
1947年(昭和22年)
4月17日 浜井信三、広島市長に就任。
5月 3日 日本国憲法施行。
6月20日 広島平和祭協会設立の打ち合せ会を広島商工会議所で開催。役員など決定。
7月18日 寺田広島市議会議長、GHQに陳情。GHQ,平和祭へ関心を示す。
7月22日 広島平和祭協会、募集していた「平和の歌」(重園贇雄作詩)、爆心地慈仙寺鼻広場(「平和広場」)、護国神社前広場(「市民広場」)の名称の入選作品を発表。
8月 1日 日本医療団広島県中央病院、「平和祭診断会」を開始(7日まで)。
8月 1日 広島逓信局、原爆2周年記念スタンプを捺印(~15日)。
8月 3日 マッカッサーの特使田上寛中尉、浜井広島市長にメッセージを手交。
8月 5日 広島宗教連盟、慰霊船を元安川に出して川供養を執行。
 8月 6日  平和祭式典(第1回)、広島市の平和広場で開催。平和塔を除幕。NHK広島中央放送局(FK)、平和祭式典を実況中継。
 1948年(昭和23年)
5月 -日 広島市土木課、爆心地慈仙寺鼻中島公園を文化的平和的理想記念公園とするため、設計図を公募することを計画。
6月14日 広島市平和祭協会、48年度第1回総会を開催。協会名を平和協会と改称。
8月 5日 広島平和祭協会、平和美術展覧会を袋町小学校で開催(~14日)
 8月 6日 平和祭式典(第2回)、広島市の平和広場で開催。英連邦軍総司令官ロバートソン中将、クロワード広島軍政部長、濠州国会議員団8名、森戸文部大臣などが参列。
〇 浜井広島市長、世界160都市市長宛にメッセージを送付。
〇約1,000名の花行進、慈仙寺鼻戦災供養塔前を出発、八丁堀、本通り、市庁舎前と行進。
〇 広島平和協会、NHK「世界の音楽」公開演奏会を広島児童文化会館で開催。
〇 日本宗教連盟広島県支部・広島市戦災死没者供養会、中島戦災供養塔前と似島供養塔前で慰霊祭を執行。似島での慰霊祭は初。
8月 8日 広島平和協会、広島こども会を児童文化会館で開催。
8月 9日 長崎市、文化祭式典(初)を浦上原爆基点地で開催。
 1949年(昭和24年)
5月11日 広島平和記念都市建設法と長崎国際文化都市建設法、成立。それぞれ住民投票を経て8月6日、9日公布。
8月 1日 広島市(広島平和協会)の平和祭行事始まる。原爆写真公開展覧会(1-10日 中国新聞社ホール)、浮世絵展覧会(3ー16日、福屋百貨店)、平和音楽会(6-7日、児童文化会館)、平和子供会(8日、児童文化会館)。
8月 4日 広島市、平和祭ポスターと式典招待状を全国の都道府県知事、268市長、県内全市町村に発送。
8月 5日 第3回マッカッサー元帥杯競技大会、広島中央運動庭球場、公民館で開催。
8月 5日 広島銅合金鋳造会寄贈の「平和の鐘」、市民広場の鐘楼に設置。
8月 6日 平和祭式典(第3回)、市民広場(児童文化会館前)で開催。約3,000人が参列。
8月 6日 平和婦人大会、児童文化会館で開催。1,000余名が参加。
8月 6日 浜井広島市長と仁都栗市議会議長、連名でトルーマン大統領にメッセージを送付。
 1950年(昭和25年)
3月19日 平和擁護世界大会常任委員会第3回総会、ストックホルム・アピールを採択。
5月 -日 広島戦災供養会結成。広島市内数か所に納骨してある原爆死没者無縁仏遺骨を一
堂に納骨する納骨堂建設、戦災死没者名簿の作成を計画。
6月25日 朝鮮戦争始まる。
8月 2日 広島平和協会、緊急常任委員会を開催。平和祭を中止することを決定。
8月 6日 広島市内2か所で非合法の平和集会開催される。
11月 8日 広島戦災供養会、広島市内に分散仮葬してある戦災者の遺骨を一か所に集めた新
納骨供養塔建設の請願書を広島市長に提出。
 1951年(昭和26年)
5月10日 広島市中島本町の平和塔の撤去作業開始。
5月 -日 広島市調査課、原爆死没者名簿作成のため死没者調査を実施。
8月06日 中島戦災供養塔前で慰霊祭と平和記念式典を挙行。中国新聞社、米空軍岩国基地の要請で、朝鮮動乱に50回以上出撃したパイロット20数名を慰霊祭に招待。
9月 9日 対日講和条約調印。
10月19日 広島県遺族厚生連盟、第1回戦没者合同慰霊祭を広島市児童文化会館前広場で開催。約1万5,000名が参加。
11月14 日 広島市、強制作業中の原爆犠牲者12万8,000人の靖国神社合祀と、遺族を戦争遺家 族援護の対象に入れるよう国会請願展開。広島市議会議員ら、参院遺家族等援護 小委員会で請願の主旨説明(15日には衆院)。
  1952年(昭和27年)
4月28日 対日講和条約発効。
8月 6日 広島市慰霊式並びに平和記念式典(以下、広島市平和式典と略称)。平和記念 公園で原爆死没者慰霊碑除幕、原爆死没者名簿(過去帳)奉納。約1,000名参列。
8月 9日 ひろしま川祭(第1回)(~10日)。
  1953年(昭和28年)
8月 6日 広島市平和式典。約3,000人が参列。市長らによる原爆死没者慰霊碑への「花輪奉呈」実施(初)。読売、朝日、中国各社の専用機、式典会場に花束を投下。
ひろしま川祭委員会、元安川と本川で2,000個のとうろう流しを実施(~8日)。
  1954年(昭和29年)
3月 1日 米、南太平洋マーシャル群島で水爆実験。マグロ漁船第五福龍丸、ビキニ環礁東方110キロメートルで「死の灰」を浴びる。
8月 6日 広島市平和式典。高松宮夫妻出席。2万人参列。「遺族代表」が「花輪奉呈」(初)。中国地方競翔部、「平和宣言」終了と同時に式典会場で鳩700羽を放つ。原・水爆禁止広島県民運動連絡本部、式典終了後、原爆・水爆禁止広島平和大会を平和記念広場で開催。約2万名が参加。
9月 4日 広島市、世界の主要都市市98、平和団体29、計127か所へ平和宣言を発送。モスクワ、スターリングラード、北京など共産圏へは初めての13通を含む。
  1955年(昭和30年)
4月30日 広島市長選挙。渡辺忠雄当選。
5月30日 広島平和記念館落成式。
8月 5日 広島戦災供養会、慈仙寺鼻で原爆供養塔の落成式を挙行。
8月 5日 広島平和美術展(第1回)、平和記念館で開催(~8日)。
8月 6日 広島市平和式典。5万人参列。
8月 6日 原水爆禁止世界大会(第1回)、広島市で開催(~8日)。
8月24日 広島平和記念資料館開館。
  1956年(昭和31年)
5月 1日 広島市、平和宣言への海外の反響をまとめる。発送数141通(うち共産圏16通)、返書238通(うち共産圏82通)。
8月 6日 広島市平和式典。2万人参列。
  1957年(昭和32年)
4月 1日 原子爆弾被爆者の医療等に関する法律施行。
8月 3日 原爆死没者慰霊碑周辺の「平和の池」、贈呈除幕式。
8月 6日 広島市平和式典。三笠宮夫妻出席。2万人参列。「原爆乙女」が「平和の鐘」を点打。
  1958年(昭和33年)
8月 6日 広島市平和式典。高松宮夫妻出席。3万人参列。
  1959年(昭和34年)
7月 -日 広島県宗教連盟、8月6日に各戸に弔旗を掲げ、静かに死没者の冥福を祈る運動を展開することを申し合わせる。
8月 5日 第5回原水爆禁止世界大会、広島市で開催(~7日)。
8月 6日 広島市平和式典。3万人参列。
  1960年(昭和35年)
1月21日 広島県議会議長、市議会議長に「8月6日に県・市合同の原爆死没者慰霊祭を開きたい」と申し入れる。
7月23日 広島県・市、平和式典への参列を呼びかけるポスター5,000枚とチラシ5万枚を全国各都道府県、県内市町村、団体へ送付。県内各市町村に当日8時15分にサイレン、鐘を鳴らすよう要請。
7月29日 全日自労広島分会、広島県に慰霊式がお祭り騒ぎにならないよう申し入れる。
8月 4日 線香リレー、府中市役所(東部コース)と庄原市役所(北部コース)を出発。
8月 6日 広島県・市共催、平和式典。皇太子、中山マサ厚生大臣、清瀬衆議院議長、各政党代表など参列。約4万人が参列。
8月 6日 原爆15周年記念総合体育大会、広島市内の22会場で開催 (~7日)。
  1961年(昭和36年)
8月 6日 広島市平和式典、小雨の中(初)で開催。約3万人が参列。「被爆者代表」が「献花」(初)。
  1962年(昭和37年)
8月 6日 広島市平和式典。約3万人が参列。
  1963年(昭和38年)
8月 5日 第9回原水爆禁止世界大会、広島市で開催。
8月 6日 広島市平和式典。約3万人が参列。「平和の鐘」点打の役を「被爆者」から「遺族」に代わる。
8月17日 広島県原爆被爆者援護対策協議会、広島市原爆被爆者協議会など11団体代表、県庁で原水爆禁止世界大会の批判会を開催。今後8月6日を中心とした5日間の平和公園や公共施設の平和団体への貸付は慎重にと県・市に申し入れることを決定。
8月21日 広島市遺族会、県社会福祉協議会、県婦連など12団体、県知事に、原水禁大会を公共施設から締め出すよう申し入れる。
  1964年(昭和39年)
3月23日 広島県議会、原爆記念日を祈りの日にするとの意見書を採択。
6月 5日 広島市、平和記念日を中心とした3日間は平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前広場を一般団体の集会に使わせない方針を決定。
6月13日 広島県原爆被爆者対策協議会(平塩五男会長)のよびかけで原水禁運動、被爆者、 婦人団体の代表者会議を県庁で開催。8月6日に全県民で黙祷を行なうことを申し 合わせる。
7月24日 永野広島県知事、8月6日に全県民が黙祷するよう呼びかける(初)。
8月 1日 平和の灯点灯式。
8月 6日 広島市平和式典。小雨の中、約3万5,000人が参列。
  1965年(昭和40年)
6月23日 浜井広島市長、平和式典への首相の出席を要請することを明らかにする。
8月 6日 広島市平和式典。橋本内閣官房長官が首相代理で出席。約3万人が参列。(台風 15号の影響)
  1966年(昭和41年)
8月 6日 広島市平和式典。約3万人が参列。
  1967年(昭和42年)
4月28日 広島市長選挙。山田節男当選。
8月 6日 広島市、平和式典。3万5,000人が参列。「平和の鐘」に香取正彦寄贈の鐘が初めて使用される。
  1968年(昭和43年)
5月20日 原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律公布。
5月27日 広島市平和文化推進審議会(67年12月発足)、5回目の会合を開催。平和記念式典のあり方をめぐり意見交換。
6月24日 広島市、平和式典に原水禁団体や世界連邦運動団体の代表を招待すると発表。
6月25日 広島市、平和式典の実施要綱を決定。「平和祈念式」と名称変更。式典会場に被爆者席を特設。
7月20日 広島市、原爆罹災者名簿の一般公開を広島平和記念館で実施(-8月5日)(初)。
8月 5日 広島市、第1回「平和を語る市民の集い」、「平和への夕べ」音楽会(第1回)を開催。
8月 6日 広島市、平和式典を挙行。約4万人が参列。ローマ法王パウロ6世がメッセージを寄せる。会場に被爆者席300席を特設、式の開始時に「慰霊の曲」、献花時に「礼拝の曲」を演奏(初)。
  1969年(昭和44年)
8月 6日 広島市平和式典。約4万9,000人が参列。韓国居留民団広島県本部の婦人約30人、 チョゴリ姿で平和式典に初参列。広島ベ平連、広島市の平和式典終了後、平和記念公園でフォーク反戦集会を開催。
8月 6日 8・6広島反戦集会、広島大学本部構内で開催。約300人参加。午後6時過ぎから約1,500人が平和記念公園へ向けてデモ。
  1970年(昭和45年)
6月16日 広島県被団協(森滝理事長)、広島市に平和式典のあり方の大幅修正を申し入れ。
6月18日 広島市、平和文化推進審議会を開催。平和宣言について意見聴取。
7月18日 広島市、8・6式典に一般市民代表50人の流れ献花を加える。南北朝鮮から一人ずつ参加を求める。
7月28日 広島市公衆衛生推進協議会、平和記念公園を一斉清掃(初)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万人が参列。RCC,宇宙衛星で国際中継放映。
8月 6日 原爆記録映画「ヒロシマ・原爆の記録」、一般公開。
  1971年(昭和46年)
5月11日 佐藤首相、広島市の平和式典に参列するむねを表明。
7月 5日 被爆者青年同盟代表、首相の8・6出席は許せないと広島市に申し入れ。
7月13日 原水禁国民会議、佐藤首相あての核問題についての公開質問状を竹下官房長官に手渡す。式典終了までに回答を求める。
7月 -日 長崎市、原爆犠牲者慰霊祭と平和祈念式を分離して実施することを決定。これまでは、原爆慰霊奉賛会と長崎市が合同主催で実施。
7月27日 日本被団協、佐藤首相あての「被爆者問題に関する要望書」を竹下官房長官に手渡す。
7月31日 広島県原水協と県被団協、来広予定の佐藤首相あての被爆者援護強化要望書を広
島市に託す。
8月 4日 広島県警察本部、8・6平和式典警備本部を設置。県警察始まって以来最高の2,700人の制・私服警官を配置の予定。
8月 5日 学生各派、広島駅周辺で佐藤首相来広抗議のデモ。
8月 6日 広島市平和式典。佐藤首相、船田中衆議院議長参列。雨の中、約3万人が参列。佐 藤首相、広島の式典終了後、広島平和記念資料館、原爆被爆者養護ホームを訪問。     広島県知事と広島市長、広島県庁で佐藤首相に被爆者援護対策について陳情。
 8月 7日 日本被団協、佐藤首相の広島訪問について被爆者援護策が無いとの声明を発表。
8月21日 広島地検、平和式典で佐藤首相に突進した女子学生を処分保留のまま釈放。
  1972年(昭和47年)
7月28日 広島市、平和式典の要綱を決定。衆参議長の代読は中止(初)。
8月 6日 広島市平和式典開催。約4万人が参列。長崎市の卜部助役と宮崎市議会議長が公式に参列(初)。1958年以来14年ぶりの静かな一日。
  1973年(昭和48年)
7月18日 広島県被団協、山田市長に平和式典で若者の誓いを述べさせたいと要望。
8月 6日 広島市平和式典。約4万人が参列。長崎市長、初参列。
8月 6日 埼玉県庁職員、午前9時から原爆被災者の冥福を祈って1分間の黙祷。9日にも。県庁では全国初。
8月 6日 原水爆禁止西宮市協議会の被爆者37人、広島市の平和式典に参列。(初)
8月 9日 長崎市、平和祈念式を挙行。山田広島市長、初参列。約1万1000人が参列。
8月 9日 広島市、長崎原爆被爆時刻にサイレンを鳴らす(初)。
  1974年(昭和49年)
7月 1日 広島市、平和式典に「献水」を取り入れる方針を決定。
8月 1日 山田広島市長、外国の元首・大統領など首脳に平和宣言を送るよう指示。
8月 1日 広島平和記念館で「市民の描いた原爆の絵」の公開始まる(~6日)。
8月 2日 屋良朝苗沖縄県知事の広島市平和式典への出席が決定。宮沢広島県知事の招待。
8月 5日 田中厚生大臣、広島被爆者団体連絡会議の6人と会見。現職の厚生大臣が広島で被爆者団体の要望を聞くのは初めて。
8月 6日 広島市平和式典。約4万人が参列。
  1975年(昭和50年)
2月23日 広島市長選挙。荒木武当選。
5月19日 桧垣益人広島県被団協事務局長ら6人、平和式典を被爆者、遺族本位にして欲しいと荒木広島市長に申し入れる。
8月 2日 広島市、平和式典参列者に「平和宣言」文を配布することを決定(初)。
8月 6日 広島県公安委員会と広島市、午前7時から3時間、平和公園前の平和大通り900メー トルを車両通行止めとする。(初)
8月 6日 広島市平和式典。約4万人が参列。ラロック米海軍退役少将など参列。
8月 -日 広島市の平和宣言に対する反響が届く。国外250通のうち108社は報道機関向けで初めての試み。
  1976年(昭和51年)
8月 6日 広島市平和式典。三木首相、据石和米国原爆被爆者協会副会長など、約4万人列。在米被爆者の代表としては初参加。三木首相、式典終了後15分間広島県庁で被爆者代表5人の声を聞く。
12月 1日 広島・長崎両市長、国連を訪問し、事務総長と総会議長に核兵器廃絶への措置を要請。
  1977年(昭和52年)
5月14日 広島・長崎両市長、国連事務総長と国連総会議長に平和式典への招請状を発送。31日、国連総会議長の広島・長崎平和式典への参列が決定。
7月 1日 広島平和文化センタ-、理事・評議員の合同会議を開催。平和宣言について討議。
8月 5日 アメラシンゲ国連総会議長、広島市の原爆死没者慰霊碑に参拝、広島平和記念資料館、広島原爆病院を訪問。
8月 6日 広島市平和式典。アメラシンゲ国連総会議長、韓国人原爆被害者協会の被爆者9人、など約5万人が参列。ワルトハイム国連事務総長、メッセージを寄せる。
  1978年(昭和53年)
7月18日 広島市、平和式典の実施要綱を決定。会場周辺に6台のモニターテレビを設置することを決定。
7月26日 広島県労会議と県労被爆連、県知事と市長に8月6日を祈りの日にするよう申し入れ。
8月 6日 広島市平和式典。約4万人が参列。
8月 6日 広島電鉄と広島バス、原爆投下時刻に市内を走る電車とバスを一斉に止め黙とう。1955-63年に実施し、中断していたのを復活。
  1979年(昭和54年)
2月20日 広島市、平和式典に各国駐日大使を招請することを決定。
7月16日 広島市、平和式典の内容を決定。原爆投下時刻の黙とうを中国地方全県と愛媛、香川両県に呼びかけることなどを決める。
7月17日 広島県原水禁と県労被爆連、8月6日に全県的に黙とうをし、全国へも呼びかけるよう広島県知事と広島市長に申し入れ。
8月 6日 広島市平和式典。雨の中3万人が参列。
  1980年(昭和55年)
7月14日 広島市、平和式典の内容を決定。全都道府県に黙とうを呼びかける。
8月 6日 広島市平和式典。雨の中、約3万5,000人が参列。式典が国庫補助(300万円)の対象となる(初)。
  1981年(昭和56年)
6月 -日 国際軍縮促進議員連盟、広島・長崎の平和式典に代表を出席させることを決定。
6月29日 広島・長崎両市、全国の都道府県・政令市に原爆犠牲者名簿への記載協力要請文書を発送。広島は、前年単独で依頼。
8月 5日 広島市、各国や都道府県に発送している平和宣言に、意見や提言を求める要望文を添える(初)ことを決定。
8月 6日 広島市平和式典。鈴木善幸首相、全国都道府県遺族代表が参列(初)。約4万人が 参列。
8月 6日 平和を語る青年の集いのメンバーら約150人、原爆ドーム横で原爆投下時刻にダイイン。(初)
11月25日 広島市、平和宣言に対するアンケート(前年に続き2回目)の回答を海外33か国の128人から受け取る。
  1982年(昭和57年)
6月 8日 全国市長会、理事・評議員合同会議で広島・長崎の原爆投下時刻に黙祷を実施することを決定。
7月26日 国際軍縮促進議員連盟、8月6日の広島市平和式典に代表を派遣することを決定。
8月 6日 広島市平和式典。約4万3,000人が参列。非核自治体宣言をした沖縄県北中城村など8市町村の首長、式典に参列。兵庫県被団協のメンバー(18名)、同県費補助で来広し、参列。
  1983年(昭和58年)
1月20日 広島・長崎両市長、連名で海外23か国72都市に「核兵器廃絶に向けての都市連帯」を呼びかけるメッセージを送付。
5月14日 広島・長崎両市、連名で全国の地方自治体に「原爆死没者の慰霊と平和祈念の黙とう」を呼びかける文書を発送。
7月11日 広島県被団協など4団体、広島県・市に谷川防衛庁長官の平和式典への出席を拒否する意向表明。19日、広島県原水禁、平和式典に出席予定の中曽根首相に公開質 問状を発送。この後も、広島県原水協(21日)、広島被爆者団体連絡会議(27日)、広島県労青年部など(8月2日)の抗議行動が続く。
8月 6日 広島県警、広島市の平和式典開催で2,500人の警察官を動員。過去最高。
8月 6日 広島市平和式典。中曽根康弘首相、谷川和穂防衛庁長官参列。約4万8,000人が参列。
8月 6日 京都府八幡市、「平和の鐘」の録音テープ流し、市民らに原爆投下時刻の黙とうを呼びかける。
12月28日 広島市、市内10か所に平和宣言文のパネル板を設置。
  1984年(昭和59年)
7月21日 甲府市(1982年に「核兵器廃絶平和都市」宣言)広島市の平和式典に市民代表約50人を派遣することを決定。
7月23日 原爆死没者慰霊碑の改築工事始まる。
8月 6日 広島市平和式典。約4万5,000人が参列。特別名誉市民フロイド・シュモーら参列。
10月 8日 広島市、平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑改築で、仮設慰霊碑の設置工事開始。11月27日、過去帳を仮慰霊碑に移し替え。
  1985年(昭和60年)
3月26日 広島市の平和記念公園の新原爆死没者慰霊碑、完成し、除幕式。
4月24日 米のCBSテレビ(本社ニューヨーク)、広島市の平和式典を実況中継することが決定。(米へ中継で放送されるのは初)
6月 4日 広島市の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑献花台、取り換えられ、新しく設置。
7月 3日 広島市、原爆供養塔納骨名簿を全国約890の自治体に発送。
8月 5日 第1回世界平和連帯都市市長会議、広島市で開幕(~9日)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人が参列。中曽根首相参列。在外被爆者初めて献花。
  1986年(昭和61年)
7月10日 奈良市、 8月 6・9日の原爆投下時刻に寺院の鐘をつくよう同市内の寺院に、協力を呼びかけ(初)。
7月12日 広島市、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の敷石改修工事を開始(21日まで)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万人が参列。非核都市宣言自治体連絡協議会代表100人が参 列。
8月 6日 「’86平和サミットinヒロシマ」、広島厚生年金会館で開催。
8月15日 全国戦没者追悼式 (政府主催) 、東京で開催 (約7,900人参列) 。原爆死没者遺族(約90人) 、今年初めて国費で招請され、参加。
1112 中曽根前首相の句碑、平和公園に隣接する河岸緑地に建立。
  1987年(昭和62年)
8月 -日 広島市視力障害者福祉協会、平和式典での広島市長による平和宣言を点訳し、全 国に配布。平和宣言の点訳は初。
8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人参列。中曽根首相、参列(3回目)。
8月 6日 「’87ジャーナリスト国際平和シンポジウム」、広島厚生年金会館で開催。
  1988年(昭和63年)
8月 6日 KDD、広島市平和式典などを海外に伝えようと、平和記念公園に無料サービスの国際電話(5台)を設置(午前10時-正午まで)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万人参列。「ストップ・ザ・戦争への道!ひろしま講座」など市民団体、「朝鮮人被爆者慰霊碑の平和公園内建立」などを訴えたチラシ「市民による平和宣言」を平和式典参加者らに配布。
8月 6日 「’88青年国際平和シンポジウム・イン・ヒロシマ」、広島厚生年金会館で開催。
  1989年(平成元年)
6月28日 広島市議会、広島市の8・6休日(事務休停日)存続を、国に要望する意見書を採択。同休日は、1947年制定以来、祈りと平和希求の日として定着しており、存続に配慮の要請。
7月 1日 広島国際会議場開館。
8月 5日 第2回世界平和連帯都市市長会議、広島市で開幕(~9日)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人参列)。宇野宗佑首相、参列。
  1990年(平成2年)
8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人参列。海部首相、参列。広島県・市の在外被爆者招待事業で来広中の被爆者、平和式典に参列。
8月 6日 「’90女性国際平和シンポジウム・イン・ヒロシマ」、広島国際会議場で開催。
1991年(平成3年)
2月 3日 広島市長選挙。平岡敬当選。
3月12日 地方自治体独自の休日の認定を盛り込んだ地方自治法改正案、衆院地方行政委員
会で可決。これによって、広島市の8・6休日が法的に認知される。
7月 3日 「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心にむ集会」実行委員会、8月6日の平和式典を、日本の戦争責任への反省を盛り込んだ式にするよう広島市に要望書を提出。
7月13日 広島市、「平和宣言」について市民から聴取した意見の概要を公表。「わかりやすく、平易に」・「アジアに謝罪の言葉を」など。
8月 3日 第7回世界テレビ映像祭、広島国際会議場で開催。(-4日)
 8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人参列。海部首相、昨夏に次いで2回目の参列。平岡広島市長、平和宣言の中で、アジアへの加害責任を初めて謝罪し、被爆地として世界の核被害者の救援を推進する責務を強調。演奏旅行で来日中のフィンランド のタピオラ少年少女合唱団(39人)、式典の「ひろしま平和の歌」の合唱に参加。合唱団への外国人の参加はハノーバー合唱団に次ぎ2度目。
8月 6日 国際平和シンポジウム、広島国際会議場で開催。
8月 6日 中国新聞社、広島市長が平和宣言でアジアへの謝罪を表明したことについて、平和公園で50人にアンケート調査。それによると、66%が肯定的意見。
1992年(平成4年)
1993年(平成5年)
1994年(平成6年)
1995年(平成7年)
1996年(平成8年)
1997年(平成8年)
2021(令和3)年
0806
 00:00   地球平和監視時計(広島平和記念資料館内)「広島への原爆投下からの日数 27759」、「最後の核実験からの日数 249<2010年11月の米国未臨界実験>」
  06:00  原爆ドーム周辺。
 静かな8月6日を願う広島市民の会の数十人、「8月6日は慰霊の日静かに祈ろう」と書かれたプラカードを掲げる。
 8・6ヒロシマ大行動実行委員会の100人以上、拡声器を使用して集会。

 

平和集会・シンポジウム(平和式典の関連行事)

平和集会・シンポジウム(平和式典の関連行事)

戦後の平和記念日には、被爆の翌年から毎年、さまざまな行事が、繰り広げられてきた。その中には、平和記念公園内の供養塔で執行される慰霊祭や灯ろう流しなどのように、平和式典と連携して開催された行事のほかに、独自に、あるいは対抗して開催されたものもある。1949年(昭和24年)8月6日の平和式典終了後児童文化会館で広島平和婦人連盟主催の平和婦人大会が開催されているが、これは、式典に連携して開催された初めての平和集会であった。翌50年8月6日の式典は中止された。しかし、広島平和擁護委員会などは、独自に8・6反戦平和大会(非合法)を開催した。また、51年から毎年、労組や市民団体などによる平和集会が開催されるようになった。これらの集会の開催は、式典とは独立した、あるいは、対抗的な意図をもつものであった。しかし、54年以降、式典と連携した多様な原水爆禁止大会・集会が開かれるようになった。
1967年10月、広島市は、「ヒロシマの心を根底として、世界の平和を推進する機関」とするため、市の一局として広島平和文化センタ-を発足させる(1976年4月1日に財団法人に改組)とともに、平和に関するさまざまな行事を展開するようになった。68年8月5日に平和記念館講堂で開催された「平和を語る市民の集い」は、そうした行事の一つである。式典の前夜祭行事として企画されたこの集会には、市民300人が参加した。この集会のテーマは「ヒロシマはいかに平和を訴えるべきか」であった。69年8月2日には、第2回の集会が「被爆体験の継承と平和教育」をテーマとして、また、70年7月31日には、第3回集会が開催された。
1971年以後、式典に連携した平和集会の開催は、途絶えていたが、85年からふたたび平和集会が国際的な規模で開催されるようになった。
1970年代に入ってからの国連における核軍縮への関心の高まりは、78年・82年・88年の国連軍縮特別総会開催に結実した。82年の総会で発言の機会を得た荒木広島市長は、その演説や同年の平和宣言の中で諸外国の都市が連帯して、核兵器廃絶のため共に努力することを呼びかけ、翌83年1月20日には、本島等長崎市長と連名で、「核兵器廃絶のための都市連帯」を呼びかける書簡を世界各国の都市に送付した。最初に呼びかけたのは23か国の72都市であったが、その後、184都市が追加された。86年3月末までに、58か国256都市に呼びかけがおこなわれたが、そのうち、33か国131の都市が賛同の回答を寄せた。被爆40周年の85年8月5日から9日の5日間、この呼びかけに賛同する世界各国の都市の市長が、広島・長崎に集まり第1回世界平和連帯都市市長会議(基調テーマ=核廃絶をめざして-核時代における都市の役割)を開催し、22か国67都市の市長および国内の33自治体の首長が参加した。広島市での会議は、8月5日と6日の両日開催された。これは、広島市が平和記念日に開催した初めての国際会議であった。

この年以後、広島市は、毎年平和記念日に国際会議(シンポジウム)を開催するようにな った。86年以降のシンポジウムの概要は、つぎのようなものである。

1986年 平和サミット
テーマ=国際平和を求めて
海外からの参加者=ライナス・ポーリング(米)、ドロシー・ホッジキン(英)、デズモンド・ツツ(南アフリカ)、パウル・クルッツェン(西独)、明石康(国連)、フランク・ブラッカビー(英)、ラドミール・ボグダノフ(ソ連)

1987年 ジャーナリスト国際シンポジウム
テーマ=核・平和問題とジャーナリストの役割
海外からの参加者=ヴィクトル・G・アフェナシェフ(ソ連、プラウダ)、ティグビー・C・アンダーソン(英、ザ・タイムズ)、ジャン-マリー・デュポン(仏、ル・モンド)、セイモア・トッピング(米、ニューヨーク・タイムズ)、席林生(中国、人民日報)

1988年 青年国際平和シンポジウム
テーマ=核時代における青年の役割
海外からの参加者=アン・サウスウィック、シェリル・コハシ(米、ホノルル市)、コンスタンチン・シェプトゥーキン、ラリッサ・アントノバ(ソ連、ボルゴグラード市)、ハルトムート・ゼレ、ウルリケ・アンネッテ・シュナイダー(西独、ハノーバー市)、張臨台、丁素紅(中国、重慶市)

1989年 第2回世界平和連帯都市市長会議
テーマ=核兵器廃絶をめざして-核時代における都市の役割
参加者=海外26国81都市、国内38自治体

1990年 女性国際平和シンポジウム
テーマ=世界平和を考える-国際平和と核軍縮達成のために
海外からの参加者=ハンネロア・クンツェ(西独・来賓)、エレナー・コア(米)、カトリン・フックス(西独)、スヴェトナーナ・サビツカヤ(ソ連)、マイ・ブリット・テオリン(スウェーデン)、周士琴(中国)

1991年 第7回世界テレビ映像祭国際平和シンポジウム
テーマ=地球の時代・平和の創造
海外からの参加者=パベル・スティングル(チェコスロバキア)、ハインツ・ヘミング(独)

長崎市民平和憲章

長崎市民平和憲章

私たちのまち長崎は、古くから海外文化の窓口として発展し、諸外国との交流を通じて豊かな文化をはぐくんできました

第二次世界大戦の末期、昭和20年(1945年)8月9日、長崎は原子爆弾によって大きな被害を受けました。私たちは、過去の戦争を深く反省し、原爆被爆の悲惨さと今なお続く被爆者の苦しみを忘れることなく、長崎を最後の被爆地にしなければなりません。

世界の恒久平和は、人類共通の願いです。

私たち長崎市民は、日本国憲法に掲げられた平和希求の精神に基づき、民主主義と平和で安全な市民生活を守り、世界平和実現のために努力することを誓い、長崎市制施行100周年に当たりここに長崎市民平和憲章を定めます。

1。私たちは、お互いの人権を尊重し、差別のない思いやりにあふれた明るい社会づくりに努めます。

1。私たちは、次代を担う子供たちに、戦争の恐ろしさを原爆被爆の体験とともに語り伝え、平和に関する教育の充実に努めます。

1。私たちは、国際文化都市として世界の人々との交流を深めながら、国連並びに世界の各都市と連帯して人類の繁栄と福祉の向上に努めます。

1。私たちは、核兵器をつくらず、持たず、持ちこませずの非核三原則を守り、国に対してもこの原則の厳守を求め、世界の平和・軍縮の推進に努めます。

1。私たちは、原爆被爆都市の使命として、核兵器の脅威を世界に訴え、世界の人々と力を合わせて核兵器の廃絶に努めます。

私たち長崎市民は、この憲章の理念達成のため平和施策を実践することを決意し、これを国の内外に向けて宣言します,

平成元年3月27日 長崎市議会議決

平和式典にともなう規制と警備

式典にともなう規制と警備(『平和記念式典の歩み』1992年)

朝鮮戦争下の1950年(昭和25年)から57年にかけて、広島での平和集会は、厳しく規制された。しかし、この時期の規制は、1950年の平和祭の中止に見られるように平和式典そのものにも及んでいた。占領解除後、こうした規制は、無くなった。しかし、60年以降、平和式典をスムーズに開催するための規制が現れ、次第に強められていった。

原水爆禁止日本協議会(略称:日本原水協)は、1959年12月の全国理事会で、前回に引続き、60年の第6回原水爆禁止世界大会も広島で開催したい意向を表明していた。一方、翌年に入ると、新日本協議会が、60年8月6日を中心に3日間、広島で平和大会を開催することを計画し、旧軍人団体や宗教団体に働きかけを始めた。こうした動きに対し、1月22日、広島県・市両議会の正副議長は連名で、日本原水協と新日本協議会県支部につぎのような申し入れを行なった。

今年は原爆15周年になるので、全国的規模のもとに県・市共催の大慰霊  祭を厳粛、荘重に行ない、一切の雑念を払いたい。このためかりに第6回原  水禁世界大会が8月6日を避けても広島市で開かれれば、昨年の第5回大会の  実績からみて平和行進や大会準備などによって相当の影響をこうむること  は免れない。とくに新日協の大祭や大会が同時に開かれる場合は、激突の  おそれがあり、昨年以上の混乱が予想され、誠に遺憾にたえない。よって  両者の大会や大祭の広島市開催はいずれも遠慮されたい。
(「中国新聞」60年1月23日)

その後、第6回原水爆禁止世界大会は、東京で開催されることになり、また、新日本協議会の意図した大会は、平和記念日を外し、8月15日に平和記念公園で「平和祈念慰霊国民大祭」として開催された。一方、この年の式典には皇太子の参列があることになり、広島県警察本部は、8月6日と7日の両日、広島東、西、宇品の市内3署を始め周辺各署から警察官を延べ約1,000人を動員するという警備体制を敷いた。これは、広島県警としては1947年と51年の天皇行幸につぐ大規模なものであった(「中国新聞」60年8月2日)。

1963年の第9回原水爆禁止世界大会は、日本原水協の内部対立の激化や、右翼や全学連の集結(8月3日から6日にかけて、右翼50人、全学連1,260人が広島入り)などにより、開催前から混乱が予想された。浜井広島市長は、8月1日、「大会がもめるようであれば、このさい広島で開いてほしくない」と原水協に注意を促した。また、広島県警は、右翼と全学連の警備を中心的な目的として警備本部を設置し、県内の警察官の40%にあたる1,000人前後の警察官を動員した。動員人員は、5日の1,493人を最高に、3日から7日までの5日間で延べ6,600人に及んだ。式典の前夜の平和記念公園での世界大会は、社会党、総評などがボイコットし、原水禁運動の分裂は決定的なものになった。また、大会会場を占拠した全学連主流派の学生約180人が、主催者の要請で警察官600人により排除されるという事態が起こった。広島市は、踏み荒された式典会場の後始末を徹夜で行なうとともに、当日には、原爆死没者慰霊碑前の式典列席者の席の警備のためボーイスカウト広島県連盟、広島市消防局員など150人を動員した。
大会後の8月17日、広島県原爆被爆者援護対策協議会、県社会福祉協議会、県婦連(正式名称:広島県地域婦人団体連絡協議会)、広島市原爆被爆者協議会、広島市遺族会など11団体は、世界大会の批判会を開いた。その結果、原水協に「来年からは広島で大会を開かないでほしい」との申し入れを、また、広島県知事と広島市長に「来年からは8月6日を中心とした5日間、平和記念公園や市内の公共建て物を平和団体に貸す場合は、特に慎重であってほしい」との要望を行なうことを決めた。こうした市民の要望を受けて、広島市は、翌1964年6月5日、8月5、6、7日の3日間、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前広場を一般団体の集会に使わせない方針を決定した。

1967年4月、広島市長となった山田節男は、平和記念公園の聖域化構想を打ち出し、公園内での露天営業の許可取り消し(69年2月)、メーデーを除くデモや集会の不許可、芝生内への立ち入り禁止など、平和記念公園の利用に対する規制を進めた。

1969年には、「灯ろう流し」に支障があるという理由で、広島県公安委員会が、「8・6広島反戦集会実行委員会」から出されていた8月6日午後6時からのデモ行進の申請を「コース変更」の条件付きで許可した。県公安条例に基づくデモ申請でコース変更という条件付きで許可されたのは、67年11月15日の羽田不当弾圧反対闘争(広大教養部学友会主催)のデモについで2度目のことであった。
1971年8月4日、広島県警察本部は、「8・6平和祈念式典警備本部」を広島西署に設置し、8月5日と6日には広島県警の1,800人のほか、大阪・兵庫・京都の3府県、広島以外の中国4県から応援を求め、計2,700人を動員した。また、広島市自身も坂田助役を本部長とする警備本部を設置し、職員330人が公園内の整理にあたった。これらの措置は、内閣総理大臣を初めて式典に迎えるために取られものであった。この年以後、こうした警備が恒常的に行なわれるようになった。中曽根総理大臣と谷川防衛庁長官が参列した83年には、警察官の動員数は、2,500人におよんだ。一方、広島市の警備のための職員は、86年には815人であったが、87年以降は1,200人前後となっている。

マスコミによる空からの平和式典の取材は、当初は自由になされていた。しかし、式典の進行の妨げになるという理由から、自粛されるようになった。その時期は明確ではないが、新聞に掲載された写真から判断すれば、1950年代後半からと思われる。70年には、「8月6日を静かな祈りの日に」との目的で、式典前後に、一般車両の進入禁止など平和記念公園一帯の交通規制が行なわれた。8月6日当日の規制は、その後さらに強められ、75年には、式典前後の車両通行止めが100米道路(NHK前-西平和大橋)900メートルに拡大された。

平和式典実況中継1996年8月6日

平和式典実況中継1996年8月6日(宇吹メモより)<敬称略>

前日23:30 平和式典実況中継の原稿をやっと書き上げる。気が付いたら、NHK「被爆の言葉」が終わりかけていた。大牟田と大石芳野が対談していた。
06:20 年休をとる。5時に起きて原医研へ寄りNHKへ到着。*・*と一緒に平和公園へ行き、6時半、慰霊碑への石段下西側の記者席に着席。*(東京・NHKラジオセンター)がプロデューサー格で加わる。
06:21 リハーサルの時、*から総理挨拶批判について「あなたがそう思わないなら言わなくても良いが、もし思っているのなら」
07:00 平和式典会場の上空にヘリコプター2機。朝日とまともに向き合う席ではなはだ暑い。
07 平岡市長が近くに来て立っているので何ごとかと思ったら、橋本総理を出迎えるため。二人は挨拶を交わしていたが、こうした場合何を言い合うのか。
08:07 市長の宣言朗読直後、慈仙寺鼻方面で激しい爆竹の音。終了後の*の話では、橋本来広への抗議のため数人がやったとのこと。
08:50 開式前、金沢は短い現場中継、その後、式典の進行については簡単に打ち合わす。私は準備した原稿の趣旨の半分も話せず。一般参列者としては、随分長く感じたが、今回はあっと言う間に1時間が過ぎた。
09 終了後県立体育館に寄ったが成果無し。バスセンターで新聞各紙を購入して原医研に帰る。寝不足で仕事にならず、そのまま帰宅。昼食後、3時まで寝込む。
後日 私のラジオ出演への反響。盛岡の友人=車を運転中ラジオから君の声が聞こえた。石踊=今にも倒れそうな溜息(?)が聞こえ、聞くに堪えなかった。*(NHK広島)より電話。東京のラジオセンターでは実況中継の評判が良かった。

 

広島市平和記念式典での挨拶(広島県知事)2016~2023年

広島市平和記念式典での挨拶(広島県知事)2016~2023年

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2016年
【あいさつ】
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/28heiwakinensikitentijiaisatu.html

原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠(まこと)を捧げますとともに,今日(こんにち)なお,後遺症で苦しんでおられる被爆者や,ご遺族の方々に,心からお見舞い申し上げます。
1945年8月6日朝,原子爆弾がさく裂し,爆心地から約300メートルにあるこの場所は,3千度前後に熱せられ,約90シーベルトの放射線にさらされた上,1平方メートル当り25トンの爆風圧によって吹き飛ばされました。この原爆投下の結果,同年12月までに,約14万人が亡くなりました。
人類はその後,仮に核攻撃を受けても確実に反撃して相手を壊滅させる「相互確証破壊」という論理を構築し,それを「戦略」と呼んで核兵器を製造し続け,今でも1万5395発の核兵器を積み上げています。そして,このような「戦略」を支持する人々は,これで自国や人類は安全だ,と主張しています。
核抑止力を含む核戦略の信奉者の多くは,このような数字や,戦略と呼ばれる観念に基づいた議論をしてきました。
核兵器は,しかし,このような数字や観念で語られるものなのでしょうか。人類は本当にこれで安全なのでしょうか。
熱線を受けた赤ん坊は皮が丸むけの肉の塊となり,放射線を受けた女学生は体中の毛髪が抜けて紫色の斑点を浮かべ,爆風を受けた体からは内臓や目玉が飛び出し,そして死んでいった,と被爆者は証言します。その一人ひとりに,かけがえのない思い出や輝くべき未来がありましたが,それらは全て失われました。これが数字や観念ではない,核兵器使用の現実であります。
本年5月,米国オバマ大統領に広島を訪問いただきました。原爆投下の当事国であり,また現在も最大の核兵器国の最高責任者として,訪問を決断いただいた勇気と,核兵器廃絶に向けた固い決意に,心から敬意を表します。そして,大統領は,演説の中で,原爆投下時にも,一般市民の平穏な愛情あふれるごく普通の生活があったであろうことに触れ,被爆して亡くなっていった無辜(むこ)の人々に思いを寄せてくださいました。
今,世界の政治指導者に必要なものは,このような想像力,ではないでしょうか。
安全保障の分野では,核兵器を必要とする論者を現実主義者,廃絶を目指す論者を理想主義者と言います。しかし,本当は逆ではないでしょうか。廃絶を求めるのは,核兵器使用の凄惨な現実を直視しているからであります。核抑止論等はあくまでも観念論に過ぎません。
核抑止論は核が二度と使われないことを保証するものではありません。それを保証できるのは,廃絶の他ないのです。
被爆者は複雑な思いを抱えながらも「自分達の苦しみを他のいかなる人にも経験させたくない」という強い願い,まさに被爆の現実を知る体験から,核兵器廃絶を訴え,政治指導者の被爆地訪問を呼びかけて来られました。
今,改めて,世界の,特に核兵器保有国の政治指導者に,広島及び長崎訪問を呼びかけます。そして,核兵器使用の現実を直視してください。
広島県としても,「国際平和拠点ひろしま構想」に基づき,核兵器廃絶に向けた方策の議論を深めるとともに,核兵器のない平和な世界へ力強く道を切り拓いていける,国内外の次世代の育成などに取り組んでまいります。
結びに,すべての被爆者の方々に対する責務として,将来の世代に,核兵器を廃絶し,誰もが幸せで豊かに暮らすことができる平和な世界を残すことができるよう,世界の皆様と,共(とも)に行動していくとともに,高齢化が進む国内外の被爆者援護のさらなる充実に全力を尽くすことをここに誓い,平和へのメッセージといたします。

平成28年8月6日
広島県知事 湯崎英彦

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2017年
【あいさつ】
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/29heiwakinensikitentijiaisatu.html

原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠(まこと)を捧げますとともに,今なお,後遺症で苦しんでおられる被爆者や,ご遺族の方々に,心からお見舞い申し上げます。
今年も8月6日を迎えました。あの日以来,72回目の夏です。
「原爆という言葉を聞くのもいや,話すのもいや。原爆という言葉を聞くと,熱い鉄板を押し当てられたようなあの瞬間が甦(よみがえ)ってくる」
爆心地から1.4km離れた屋外で被爆し,夏服の皮膚が露出した部分は火傷を負い,苦しみで50日間は眠れなかったという女性が書かれた手記に残されています。
「原爆の日」は,多くの被爆者にいや応なく,「熱い鉄板を押し当てられたような」記憶を呼び起こし,それを72回も繰り返して今日を迎えています。
このような思いを抱えてこられた被爆者の方々が,近年,封印してきた記憶の証言を改めて始めておられます。
それは,年を取る中で,今誰かに伝えなければ伝える機会を失ってしまうという焦りと同時に,核兵器廃絶への道筋が,72年の歳月を経ても,未だに見えてこないという歯がゆさからきているように思われます。
思い出したくもない記憶を語ることで,被爆者自身が得をすることは何一つありません。それでもなお,被爆者を突き動かしているのは,「二度と,誰にもこのような思いをさせたくない」という気持ちです。
私たちは,被爆者の訴えが示す真実を,どこまで本当に認識できているでしょうか。
辛くても伝えなければならないとは,逆に言えば,被爆者をそう駆り立てるまでに原爆の地獄というものが凄(すさ)まじかったということに他なりません。地獄。人間の生の全体的破壊。「誰にもこのような思いをさせてはならない。」究極の非人道的兵器である核兵器をめぐる政策は,このような現実に立脚しなければなりません。
「究極の状況では,核兵器の使用も排除されない」というのは,核兵器使用の現実を知らない,誤った政策です。絶対に使わない,という前提に立つことが必要です。
昨年,オバマ大統領は,ここ広島で,未来において,広島と長崎が,核時代の始まった場所ではなく,人類が道徳的に目覚めた場所として記憶されなければならない,とスピーチされました。その後,私たちはどれだけ歩みを進められたでしょうか。
先月,被爆者の苦痛に言及する核兵器禁止条約が,122か国の賛成により採択されました。一方で,核兵器国の一部は,核の近代化を図るとともにその戦力強化を叫んでおり,条約には参加するどころか反発を強めています。また,北朝鮮は核兵器開発の手を止めようともしていません。
現状では,核兵器国と非核兵器国の分断が広がると同時に核兵器の拡散は進み,「覚醒」はむしろ遠のいていないでしょうか。
安全保障環境が厳しいと言われている今こそ,いかなる核兵器使用も地獄を作り出すだけである,という現実に立ち返り,絶対に使わないことを最終的に保証する唯一の手段である「廃絶」に向けて,人類の叡智を集めるときです。

日本政府には,この地獄の現実を潜(くぐ)り抜けた唯一の国として,そのリーダーとなっていただきたい。核兵器国と非核兵器国の分断を埋め,核兵器廃絶への道のりを全ての国の力で進んでいくために必要な,具体的な提案と行動を提示することをお願い申し上げます。

私たちはオバマ大統領が指摘したように,恐怖の論理,すなわち神話に過ぎない核抑止論から脱却し,「核兵器のない平和」というあるべき現実に転回しなければなりません。

広島県としても,国際平和拠点ひろしま構想に基づき,核兵器廃絶に向けて世界の知恵を集め,世界の指導者に被爆地訪問を呼びかけるなど,できる限りの行動を取ってまいります。
結びに,すべての被爆者に対する責務として,将来の世代に核兵器を廃絶し,誰もが幸せで豊かに暮らせる平和な世界を残すことができるよう,世界の皆様と行動していくとともに,高齢化が進む国内外の被爆者援護の更なる充実に全力を尽くすことを改めてここに誓い,平和へのメッセージといたします。

平成29年8月6日
広島県知事 湯崎英彦

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2018年
【あいさつ】
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/30heiwakinensikitentijiaisatu.html

原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠(まこと)を捧げますとともに,今なお,後遺症で苦しんでおられる被爆者や,ご遺族の方々に,心からお見舞い申し上げます。
草木も生えないと言われた被爆75年をあと二年後に控え,私たちは今大きな波にさらされています。
一筋の光明は,広島と長崎で我々が潜り抜けた筆舌に尽くし難い非人道的な経験が,本当は口にしたくもない被爆者の長年にわたる証言によって多くの国に共有され,核兵器の非人道性に軸足を置いた核兵器禁止条約が国際的に合意されたことです。
他方,世界では各地で国際的緊張が高まり,核兵器国は競って核兵器の更新や能力向上,さらには「使える核兵器」の開発にまで進もうとしています。これは,未だに核兵器国を中心とする国々が,核抑止力による力の均衡を信じているからです。
では,核抑止力の本質は何か。簡単に子供に説明するとすれば,このようなものではないでしょうか。
「いいかい,うちとお隣さんは仲が悪いけど,もし何かあれば,お隣のご一家全員を家ごと吹き飛ばす爆弾が仕掛けてあって,そのボタンはいつでも押せるようになってるし,お隣さんもうちを吹き飛ばす爆弾を仕掛けてある。一家全滅はお互い,いやだろ。だからお隣さんはうちに手を出すことはしないし,うちもお隣に失礼はしない。決して大喧嘩にはならないんだ。爆弾は多分誤作動しないし,誤ってボタンを押すこともないと思う。だからお前は安心して暮らしていればいいんだよ。」
一体どれだけの大人が本気で子供たちにこのような説明をできるというのでしょうか。
良き大人がするべきは,お隣が確実に吹き飛ぶよう爆弾に工夫をこらすことではなく,爆弾はなくてもお隣と大喧嘩しないようにするにはどうすればよいか考え,それを実行することではないでしょうか。
私たちは,二度も実際に一家を吹き飛ばされ,そして今なおそのために傷ついた多くの人々を抱える唯一の国民として,核抑止のくびきを乗り越え,新たな安全保障の在り方を構築するため,世界の叡智を集めていくべきです。NPT運用検討会議も開催される二年後の被爆75年に向けて,今こそ世界に向けて立ち上がり,行動するときです。
私たちの,そして世界中の子供たちに,本当の安心をもたらしてやるために全力を尽くすことが,我々日本の大人たちの道徳的責任だと確信いたします。
結びに,広島県としても,将来の世代のために核兵器を廃絶し,誰もが幸せで豊かに暮らせる平和な世界を残すことができるよう,世界の皆様と行動していくとともに,高齢化が進む国内外の被爆者援護の更なる充実に全力を尽くすことを改めてここに誓い,平和へのメッセージといたします。

平成30年8月6日
広島県知事 湯崎英彦

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2019年
【あいさつ】
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/01heiwakinensikitentijiaisatu.html

原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠(まこと)を捧げますとともに,今なお,後遺症で苦しんでおられる被爆者や,ご遺族の方々に,心からお見舞い申し上げます。
74年前,この地は原爆によりあらゆるものも人も破壊され尽くしました。
しかし,絶望的な廃墟の中,広島市民は直後から立ち上がりました。水道や電車をすぐに復旧し,焼け残りでバラックを建てて街の再建を始めたのです。市民の懸命の努力と内外の支援により,街は不死鳥のごとく甦ります。今,繁栄する広島には,国内外の多くのお客様で賑い,街の姿は,紛争後の廃墟から立ち上がろうとしている国々から訪れる若者に,復興への希望を与えています。

しかしながら,私たちは,このような復興の光の陰にあるものを見失わないようにしなければなりません。緑豊かなこの平和公園の下に,あるいはその川の中に,一瞬にして焼き尽くされた多くの無辜の人々の骨が,無念の魂が埋まっています。かろうじて生き残っても,父母兄弟を奪われた孤児となり,あるいは街の再生のため家を追われ,傷に塩を塗るような差別にあい,放射線被ばくによる病気を抱え今なおその影におびえる,原爆のためにせずともよかった,筆舌に尽くし難い苦難を抱えてきた人が数多くいらっしゃいます。被爆者にとって,74年経とうとも,原爆による被害は過去のものではないのです。
そのように思いを巡らせるとき,とても単純な疑問が心に浮かびます。
なぜ,74年経っても癒えることのない傷を残す核兵器を特別に保有し,かつ事あらば使用するぞと他(た)を脅(おど)すことが許される国があるのか。
それは,広島と長崎で起きた,赤子も女性も若者も,区別なくすべて命を奪うような惨劇を繰り返しても良い,ということですが,それは本当に許されることなのでしょうか。
核兵器の取扱いを巡る間違いは現実として数多くあり,保有自体危険だというのが,米国国防長官経験者の証言です。近年では核システムへのサイバー攻撃も脅威です。持ったもの勝ち,というのであれば,持ちたい人を押しとどめるのは難しいのではないでしょうか。
明らかな危険を目の前にして,「これが国際社会の現実だ」というのは,「現実」という言葉の持つ賢そうな響きに隠れ,実のところは「現実逃避」しているだけなのではないでしょうか。
核兵器不使用を絶対的に保証するのは,廃絶以外にありません。しかし変化を生むにはエネルギーが必要です。ましてや,大国による核兵器保有の現実を変えるため,具体的に責任ある行動を起こすことは,大いなる勇気が必要です。
唯一,戦争被爆の惨劇をくぐり抜けた我々日本人にこそ,そのエネルギーと勇気があると信じています。それは無念にも犠牲になった人々に対する責任でもあります。核兵器を廃絶し,将来世代の誰もが幸せで心豊かに暮らせるよう,我々責任ある現世代が行動していこうではありませんか。広島県としても,被爆75年に向けて,具体的行動を進めたいと思います。
結びに,今なお苦しみが続き,高齢化も進む国内外の被爆者への援護が更に充実するよう全力を尽くすことを改めてここに誓い,平和へのメッセージといたします。

令和元年8月6日
広島県知事 湯崎英彦
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2020年
【あいさつ】
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/02heiwakinensikitentijiaisatu.html 被爆75年の今日(きょう)ここで,我々は,人々の

予想と願いを裏切る大きな二つのことを目の当たりにしています。一つは,75年は草木も生えないという予言に抗い,広島がこのように誇るべき復興を遂げているということ。もう一つは,この日までには,と願い続けてきた核兵器廃絶が,残念ながら未だ遠い現実であるということです。
本日,被爆75年を迎えるにあたり,原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠(まこと)を捧げるとともに,未だ後遺症で苦しんでおられる被爆者や,犠牲となった皆様に核兵器廃絶の報告もままならぬご遺族の方々に,改めて,心からのお見舞いを申し上げます。
我々の切なる願いに反し,昨今の核兵器廃絶を巡る情勢は,極めて厳しい状況です。改めて,核兵器国を中心とする各国に,核兵器不拡散条約の遵守,核兵器禁止条約の批准,核軍備管理・軍縮にかかる枠組みの堅持,核実験自粛堅持と包括的核実験禁止条約の早期発効,そして核兵器の永久放棄を強く求めます。
なぜ,我々広島・長崎の核兵器廃絶に対する思いはこうも長い間裏切られ続けるのでしょうか。それは,核による抑止力を信じ,依存している人々と国々があるからです。しかしながら,絶対破壊の恐怖が敵攻撃を抑止するという核抑止論は,あくまでも人々が共同で信じている「考え」であって,すなわち「虚構」に過ぎません。万有引力の法則や原子の周期表といった宇宙の真理とは全く異なるものです。それどころか,今や多くの事実がその有効性を否定しています。
一方で,核兵器の破壊力は,アインシュタインの理論どおりまさに宇宙の真理であり,ひとたび爆発すればそのエネルギーから逃れられる存在は何一つありません。したがって,そこから逃れるためには,決して爆発しないよう,つまり,物理的に廃絶するしかないのです。
幸いなことに,核抑止は人間の作った虚構であるが故に,皆が信じなくなれば意味がなくなります。つまり,人間の手で変えることができるのです。
支配者であった武士階級が明治維新で廃止されたように,かつて最も敵対した国同士が今は最も親密であるように,どのようなものでもそれが人々の「考え」である限り転換は可能であり,我々は安全保障の在り方も変えることができるはずです。
いや,我々は,核兵器の破壊力という物理的現実の前にひれ伏し,人類の長期的な存続を保障するため,「考え」を変えなければならないのです。
もちろん,凝り固まった核抑止という信心を変えることは簡単ではありません。新しい安全保障の考え方も構築が必要です。核抑止から人類が脱却するためには,ローマ教皇がこの地で示唆されたように,世界の叡知を集め,すべての国々,すべての人々が行動しなければなりません。
草木も生えないと言われた75年には残念ながら間に合いませんでした。このことについて,我々はすべての原爆犠牲者と被爆者に頭(こうべ)を垂れねばなりません。そして,改めて,被爆者がまだ存命の間,一刻でも早い時期に核兵器を廃絶することを,全ての国連加盟国が一致し,新たな目標として設定することをここに提案します。
皆さん,今こそ叡知を集めて行動しようではありませんか。後世の人々に,その無責任を非難される前に。

令和2年8月6日
広島県知事 湯崎 英彦

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2021年
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式における知事あいさつについて
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/03heiwakinensikitentijiaisatu.html

【あ い さ つ】
本日,被爆76年を迎えるにあたり,原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠を捧げます。そして,今なお,後遺症で苦しんでおられる被爆者や,ご遺族の皆様に,心からお見舞い申し上げます。
我々は,被爆者の証言,平和記念資料館に展示された原爆の記憶などから,この地で,多くの無辜の市民が,苦しみながら,水を求め,亡くなったことを知っています。これは,思い出すことすら耐えがたい当時の記憶を呼び覚まし,現実に基づいて証言を続けてきた被爆者の方々の存在があるからです。
今年1月に発効した核兵器禁止条約は,被爆者の証言が大きな原動力になったと言われています。しかし,次世代に連綿と記憶をつないできた証言者は高齢化し,私たちの想像や関心をつなぎとめ,時に世界のリーダーを突き動かす記憶の伝承が危機に瀕しています。今こそ,一刻を争う事態として,核兵器と向き合う必要があります。
一人ひとりの行動は小さなものでも,予想もできないような連帯をつくり出し,世界の時流を変える力となる例もあります。
地球環境問題では,北欧の15歳の少女が,国会前で学校ストライキを始めたことに端を発し,世界中の若者を巻き込みながら,ついには各国の大臣や国連事務総長まで動かす力となり,地球環境問題の進展に大きな影響を与えました。重要なことは,このグレタ・トゥンベリさんの第一歩のみならず,若者の一人ひとりがそれを他人事とせず,声をあげていったことです。人々の関心が呼応すると,様々な社会活動を通じ,論争も巻き起こしながら,より良い社会を共に築いていく原動力が生まれます。気候変動や教育,ジェンダー平等への関心の高まりは,一国一国のリーダーの考え方を改めさせ,SDGsとして世界の共通言語となり,大きな潮流となっています。
力がないと思われるかもしれない一人ひとりが関心を高め,小さな行動を始めることで,叡智が集まり,共感を広げ,国のリーダーの行動を促し,世界の枠組みをも変えていきます。
世界はこの一年半,新型コロナウイルス感染症と闘ってきました。このようなパンデミックは,専門家が警鐘を鳴らしていたにも関わらず,我々は十分な注意を向けていたとは言い難く,準備はできていませんでした。その結果,これまでに世界で約2億人がこの感染症にかかり,400万人を超える人々が命を落としています。
核兵器も,その運用の責任を負っていた核兵器国の大臣や軍人を含め,多くの専門家が,人類と地球全体に存亡の危機をもたらす,今,そこにある現実的危機だと警鐘を鳴らしています。我々は,核兵器についても,パンデミックと同様にその危険性を見過ごし,いずれその報いを,人類と地球の破滅という形で受けるのでしょうか。
人類存続への道を啓くためには,一人ひとりが関心を持ち,核兵器存続という愚行へ対峙するほかありません。広島からも,新たな行動を始めます。核兵器廃絶が,国連における一致した目標となるよう,働きかけを強めていきます。このパンデミックで苦しんでいる今こそ,一人ひとりが立ち上がり,力を合わせ,人類存続の危機に立ち向かっていきましょう。

令和3年8月6日
広島県知事 湯崎 英彦
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2022年
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式における知事あいさつについて
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式(令和4年)における知事あいさつについて | 広島県 (hiroshima.lg.jp)

【あ い さ つ】

本日,被爆77年を迎えるに当たり,原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠を捧げます。
そして,今なお,後遺症で苦しんでおられる被爆者や,御遺族の皆様に,心からお見舞いを申し上げます。

あの時,川土手で,真っ赤に燃え盛る空の下,中学生らしい黒い人形の様な人達がたくさんころがっていた。「お母さん」。その声もだんだん小さくなり,やがて息絶えていった。
生き延びても,孤児となった子どもは,転々と身を寄せた家に居場所もなく,廊下に風呂敷を置いて着替え場所とし,被爆者の病気はうつるなど,差別に苦しんだ。
被爆者が,人生をかけてまで核兵器の廃絶を訴え続けるのは,人間らしく死ぬことも,人間らしく生きることも許さない,この原爆の,核兵器使用の現実を心と体に刻みつけているからです。
その思いが原動力となり,今年6月,核兵器禁止条約第1回締約国会議が開催されました。被爆者の切実な思いが,世界をもう一歩前に進めた瞬間でした。

他方で,東欧では侵略戦争が勃発し,あまつさえその侵略国は,核兵器の使用も辞さないとあからさまな脅しを世界にかけるばかりか,当事者でない国の人々さえ,身を守るためには核兵器が必要だ,と言い始めています。

我々の多くが,侵略者の脅しが単なる虚勢ではなく,実際に核兵器が使用される危険として認識したのではないでしょうか。
つまり,核兵器は,現実の,今そこにある危機なのです。

ウクライナ侵略で世界が突然変わった訳ではありません。世界の長い歴史の中で,理不尽で大量の死を招く暴力は,悪により,しかし,時に正義の衣をかぶりながら,連綿と繰り返されてきました。現在の民主国家と言われる国でさえ完全に無縁とは言いにくいかもしれません。

人間の合理性には限界があるという保守的な見方をすれば,この歴史の事実を直視し,これからもこの人間の性(さが)から逃れられないことを前提としなければなりません。

しかしながら,力には力で対抗するしかない,という現実主義者は,なぜか核兵器について,肝心なところは,指導者は合理的な判断のもと「使わないだろう」というフィクションたる抑止論に依拠しています。本当は,核兵器が存在する限り,人類を滅亡させる力を使ってしまう指導者が出てきかねないという現実を直視すべきです。

今後,再度,誰かがこの人間の逃れられない性(さが)に根差す行動を取ろうとするとき,人類全体,さらには地球全体を破滅へと追いやる手段を手放しておくことこそが,現実を直視した上で求められる知恵と行動ではないでしょうか。
実際,ウクライナはいわばこの核抑止論の犠牲者です。今後繰り返されうる対立の中で,核抑止そのものが破られる前に手を打たなければなりません。

地球温暖化は200年,パンデミックは2年超かけて,人類の持続可能性に疑義を突き付けました。核兵器は,誰かがボタンを押せば,人類の持続可能性は30分かもしれません。

核兵器廃絶は,人類の持続可能性のために最も喫緊の課題であることを認識し,最後の核弾頭が解体・破壊され,この地球上から核兵器が完全になくなるまで休むことなく全力を尽くすことを改めてここに誓い,平和へのメッセージといたします。

令和4年8月6日

広島県知事 湯 崎 英 彦

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広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式(令和5年)における知事あいさつについて

【あ  い  さ  つ】

本日、被爆78年を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊(みたま)に、広島県民を代表して謹んで哀悼の誠(まこと)を捧げます。そして、今なお後遺症で苦しんでおられる被爆者や、御遺族の皆様に、心からお見舞いを申し上げます。

今、世界では、ロシアによる非道なウクライナ侵攻と核兵器による脅しが続き、北朝鮮は核及びミサイル開発を進め、一部の核保有国が核戦力の大幅な増強を図るなど、核兵器を巡る安全保障環境は厳しくなっています。日本においても、また世界においても、核戦力やその運用の強化を図るべしとの論が声高に叫ばれています。
そうした中、今年5月、ここ平和記念公園に、核兵器国3か国を含むG7首脳が集まり、資料館を訪問し、被爆者の声に耳を傾け、慰霊碑に献花して犠牲者に哀悼の誠を捧げました。
被爆の実相に触れたG7首脳は、世界が、核戦力の強化か、あるいは核軍縮と最終的な廃絶かという二つの分かれ道に直面する中で、核軍縮と廃絶の道を選び、広島ビジョンとして力強く宣言し、芳名録に個人的な決意を記しました。G7の、また、同様に招待国の首脳たちの示した決意は、極めて歴史的であり、極めて重いものがあります。

しかしながら、なお世界には、核兵器こそが平和の維持に不可欠であるという、積極的核抑止論の信奉者が存在し、首脳たちの示す目標に向けた意志にかかわらず、核軍縮の歩みを遅らせています。
私は、そのような核抑止論者に問いたい。あなたは、今この瞬間も命を落としている無辜(むこ)のウクライナの市民に対し、責任を負えるのですか。ウクライナが核兵器を放棄したから侵略を受けているのではありません。ロシアが核兵器を持っているから侵略を止められないのです。核兵器国による非核兵器国への侵略を止められないという現在の状況は、「安定・不安定パラドックス」として、核抑止論から予想されてきたことではないですか。
また、あなたは、万が一核抑止が破綻した場合、全人類の命、場合によっては地球上の全ての生命に対し、責任を負えるのですか。あなたは、世界で核戦争が起こったら、こんなことが起こるとは思わなかった、と肩をすくめるだけなのでしょうか。
核兵器は、存在する限り人類滅亡の可能性をはらんでいる、というのがまぎれもない現実です。その可能性をゼロにするためには、廃絶の他ない、というのも現実なのです。
今、核抑止論者がすべきことは、この現実を直視し、そのような責任はとりきれないことを認め、どんなに厳しい安全保障環境にあろうとも、どうしたら核軍縮を進め、最終的には核廃絶を実現できるか、そのための知恵の結集と行動に参画することです。

私たちには、次の世代に真の意味で持続可能な未来を残す責任があります。そのためには、全ての核保有国が核兵器を手放すことができるよう、従来の安全保障のあり方を見直すとともに、持続可能性の観点から、国際社会の一致した目標として核兵器廃絶を目指さなければなりません。

広島県は、日本政府をはじめ、外国政府や国連、市民社会と連携して、そのための取組を進めてまいります。

終わりに、核兵器廃絶を目指して不断の取組を続けてこられた被爆者の皆様に改めて深く敬意を表するとともに、一日も早い核兵器廃絶の実現を誓い、平和のメッセージといたします。

令和5年8月6日

広島県知事 湯崎 英彦

 

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2010年8月6日
広島市平和記念式典での挨拶(抄録)
核兵器による破壊は、人間の死や建造物の物理的な破壊を超えて、人々から暮らしていた地域の歴史や、そこに住んでいた家族の記憶などを文字通り丸ごと消し去ってしまいます。社会や生命とともに存在の記憶、あるいはこれらの手がかりすらも消し去っていく―-すなわち、核兵器は、「人間的生の全体的破壊」をもたらすのです。これは、広島大学の研究者として被爆の社会学的実態を調査していた私の父が、爆心復元のために何十、何百という被爆者を訪れてお話を聞いた結果、実感することとなった核兵器による破壊の現実です。
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