核実験停止協定締結要請に関する決議(1962年12月22日)
アメリカとソ連は、現在なお核実験を続けています。核実験は、現在将来にわたって人類の生命と健康に害を与えます。
広島県議会は、従来しばしば決議要請してまいりましたがすぺての国の核実験をやめさせるために何度でもくりかえし反対し、一刻も早く停止協定を結ばせなければなりません。
ここに広島県民を代表して、すべての核保有国は来年一月一日を期して核実験停止協定を締結されるよう要請します。
右決議する
昭和三十七年十二月二十二日
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。
核実験停止協定締結要請に関する決議(1962年12月22日)
アメリカとソ連は、現在なお核実験を続けています。核実験は、現在将来にわたって人類の生命と健康に害を与えます。
広島県議会は、従来しばしば決議要請してまいりましたがすぺての国の核実験をやめさせるために何度でもくりかえし反対し、一刻も早く停止協定を結ばせなければなりません。
ここに広島県民を代表して、すべての核保有国は来年一月一日を期して核実験停止協定を締結されるよう要請します。
右決議する
昭和三十七年十二月二十二日
『時代と記憶 メディア・朝鮮・ヒロシマ』(平岡敬、影書房、20110615 )
目次
| 部章 | ||
| 1 | メディアの世界で | |
| 1- | 衰弱する言論 | |
| 1– | “書き屋”の弁 | |
| 吉川幸次郎氏 人間生活こそ文明 | ||
| 1— | 唯一の一面コラム | |
| 天風録 | ||
| 1—- | 新聞界の苦悩 | |
| 1—– | 「為人民服務」はどこへ | |
| 2 | 朝鮮半島へのまなざし | |
| 2-1 | 韓国の被爆者たち | |
| 2-2 | 私の”朝鮮体験” | |
| 3 | 原爆・平和をめぐって | |
| 3- | 原水禁運動の混乱と後遺症 | |
| 分裂と主導権争い 一九六一年の平和運動 | ||
| 一九六二年・平和理論の課題 | ||
| 被爆者の苦悩みつめる福島菊次郎の写真集「ピカドン』 | ||
| 今も消えぬ原爆のせん光 二十四年目の被爆者たち | ||
| 広島市の平和行政の展開 | ||
| 新しい生き方を | ||
| 痛烈な異議申し立て こうの史代『夕凪の街桜の国」(双葉社) | ||
| 被爆五十周年の広島 | ||
| 核兵器を禁止する国際法を | ||
| 世界各国で「原爆展」を | ||
| 二十一世紀におけるヒロシマの役割 | ||
| ヒロシマからアジアへ 平和をつくる市民運動 | ||
| 癒しの空間 効率主義に抗して | ||
| 調査と医療支援の一体化 NGO「ヒロ・セミ」の活動 | ||
| 日本・カザフスタンの人々の連帯を強め核兵器廃絶の世論を | ||
| 事前説明が不充分か?不満を訴える被害者 | ||
| 前進する被曝者医療 第五次医療支援訪問を終えて | ||
| カザフの聞き取り調査に対する所感 | ||
| 生き抜く人々 | ||
| カザフの高麗人 | ||
| 広島と長崎の教訓を忘れるな | ||
| 私と原子力光と影を見つめて | ||
| 大胆な原子力政策の転換を ヒロシマからのメッセージ | ||
| 「ヒロシマ再考」ノート | ||
| おわりに |
『報復ではなく和解を いま、ヒロシマから世界へ』(秋葉忠利、岩波書店、20040707)
内容
| はしがき | ||
| 三つの勝利 | ||
| 国際平和会議「ハーグ平和アピール1999」19990513、オランダ・ハーグ市にて | ||
| 報復ではなく和解を、敵対関係ではなく人道を | ||
| 国連軍縮フェローズ 市長講演 20031007 広島国際会議場にて | ||
| 女性と平和 | ||
| 第13回日本・ヨルダン・エジプト・パレスチナ女性交流公開フォーラム 20040214 | ||
| 平和宣言の作り方 | ||
| 20020901 神奈川県二宮町にて | ||
| 本書に関連する広島市の主な平和への取組み | ||
| 平和宣言(1999年~2003年) | ||
『人間の心ヒロシマの心』(秋葉忠利、三友社出版、19881223)
目次
| 章節=頁 | タイトル | |
| はしがき | ||
| Ⅰ | 広島・長崎の経験を人類の祈りの基盤に〈基調講演〉 | 大江健三郎 |
| Ⅱ | 被爆体験の意味と平和運動 | |
| 028 | なぜ広島でシンポジウムか〈主催者挨拶〉 | 柿木昇治 |
| 030 | 「ヒロシマの心」を世界の心に〈開会挨拶〉 | 荒木武 |
| 033 | 高い理想、そして具体的な出発〈オーガナイザー挨拶〉 | 秋葉忠利 |
| 035 | 何を誰にどう伝えるのか-そして何のために | 秋葉忠利 |
| Ⅲ | 被爆体験の人類史的意味 | |
| 060 | 「被爆の証人」として生きる | 高橋昭博 |
| 072 | あらたな意味をもつ被爆体験の継承 | 宇吹暁 |
| 079 | あたらしい被爆者像を求めて | 舟橋喜恵 |
| 092 | 被爆後の年月を通して考える〈パネルディスカッション1〉 | |
| Ⅳ | 広島のメッセージを実現するために | |
| 116 | 教育の現場で平和を考える | 片山美代子 |
| 127 | 仏教徒としての被爆体験と平和の願い | 光寺重信 |
| 144 | 核廃絶の可能性を求めて | 安江良介 |
| 153 | 心理学者と平和の問題 | ジョン・J・フューレディ |
| 158 | 「広島のこころ」を蘇らせるために〈パネルディスカッション2〉 | |
| 193 | 平和シンポジウム趣意書 | |
| 196 | 平和シンポジウム感想歌集から | |
| 198 | パネリスト紹介 | |
| 203 | 広島ターミナルホテルあいさつ | |
| 204 | 協力者一覧 | |
| 205 | フロアからの発言者プロフィル(発言順) | |
| 原田東岷 | ||
| 竹内千代 | ||
| 上神千波弥 | ||
| 江崎寿賀子 | ||
| 原伸幸 | ||
| 熊田信道 | ||
| 空フミコ | ||
| 中川幹朗 | ||
| 山本誠 | ||
| 延本充弘 | ||
| 井上敬喜 | ||
| ローレンス・ウィイグ | ||
| 永井秀明 | ||
| あとがき |
『 真珠と桜 「ヒロシマ」から見たアメリカの心』(秋葉忠利、朝日新聞社、19860720)
目次
| 章(頁) | タイトル | メモ |
| はしがき | ||
| Ⅰ | 怒涛 | |
| 009 | アキバ・プロジェクト ローカル・ジャーナリストを広島へ | |
| (『ヒロシマ』森下弘)あなたの目で確かに見つめなさい | ||
| 039 | 平和の使徒 アメリカ人の原爆観 | |
| (アメリカ合衆国国家)赤いロケットの焔/空中に炸裂する爆弾/それは星条旗が翻っている証(しるし) | ||
| 058 | 卑劣な日本人 悪の原点=パール・ハーバー | |
| (能『葵上』)今の恨みはありし報い 瞋恚の炎は身を焦がす 思い知らずや 思ひ知れ | ||
| 079 | 一人ひとりの顔 記者たちの広島体験 | |
| (『法句経』友松円諦)われらはここ 市の領域に近し… このことわりを知る 人々にこそ かくしていさかひは止まん | ||
| Ⅱ | 源流 | |
| 097 | 鎖を断つ プロジェクト実現まで | |
| 118 | 他人の痛み 私の見た平和運動 | |
| 136 | 道端の焼夷弾 私の戦争体験 | |
| 156 | カラオケに耳を覆う 文化の壁は越えられるか | |
| 179 | プラウド・オブ・ユア・サン アメリカで父になる | |
| Ⅲ | 分水 | |
| 201 | ビッガー・ザン・ユー カウボーイ社会アメリカ | |
| 225 | 医者と患者の関係 エキスパートの支配 | |
| 243 | ワシントン・シンドローム 忘れられる過去 | |
| 265 | 死を歓迎する心 被爆者は『生ける屍』か | |
| 281 | 二重被爆者神話 アメリカ社会の無力感 | |
| 303 | 現実と想像力 平和への意志 | |
| 327 | あとがき |
平和記念施設あり方懇談会
平和記念施設保存・整備方針の策定
1 目 的
ヒロシマの記憶が世界的に薄れつつあり、核兵器の使用さえ危惧されている状況の中、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を目指す被爆地ヒロシマの役割は益々重要なものとなっている。
これまでのヒロシマの取組みにおいて、原爆ドームをはじめとする平和記念施設は重要な役割を果たしてきており、その保存・整備については個別に検討がなされてきたが、被爆60周年となる平成17年に向け、長期的な観点から改めてその全体の保存・整備のあり方を整理する。
2 保存・整備方針策定の対象
ヒロシマの記憶が世界的に薄れつつあり、核兵器の使用さえ危惧されている状況の中、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を目指す被爆地ヒロシマの役割は益々重要なものとなっている。
これまでのヒロシマの取組みにおいて、原爆ドームをはじめとする平和記念施設は重要な役割を果たしてきており、その保存・整備については個別に検討がなされてきたが、被爆60周年となる平成17年に向け、長期的な観点から改めてその全体の保存・整備のあり方を整理する。
1 目 的
ヒロシマの記憶が世界的に薄れつつあり、核兵器の使用さえ危惧されている状況の中、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を目指す被爆地ヒロシマの役割は益々重要なものとなっている。
これまでのヒロシマの取組みにおいて、原爆ドームをはじめとする平和記念施設は重要な役割を果たしてきており、その保存・整備については個別に検討がなされてきたが、被爆60周年となる平成17年に向け、長期的な観点から改めてその全体の保存・整備のあり方を整理する。
2 保存・整備方針策定の対象
方針策定の対象は、ヒロシマのシンボルである平和記念公園を中心とした空間(おおむねバッファーゾーンと同じ。)及びそこに所在する原爆ドーム、平和記念資料館、平和記念公園及び平和記念公園に接する平和大通りの一部を対象とする。
(1)原爆ドームは、核兵器が人類に何をもたらすのかを、最も象徴的に体現し、人間の理性と良心に訴えることのできる遺産であり、これを将来にわたって保存していくことの意義を改めて整理するとともに、将来の世代に理想的な姿で引き継いでいくための保存のあり方を整理する。
(2)平和記念公園及びそれに接する平和大通りの一部については、「平和大通り新世紀リニューアル事業」の基本方針を踏まえ、平和記念公園とその周辺エリアの利活用や平和の発信機能の強化を図るため、その空間のあり方や活用のあり方を整理する。
(3)平和記念資料館は、施設の老朽化への対応や将来を見据えた展示更新ための計画を策定することとしており、保存・整備方針においては、それに併せて平和記念資料館が今後その役割を果たしていくために必要な取組みについて整理を行う。
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| 太線:緩衝地帯(バッファーゾーン)の区域 |
3 策定スケジュール
【平成15年度】
有識者等からの意見聴取、市民等からの意見募集
【平成16年度】
「平和記念施設あり方懇談会」の開催
平和記念施設保存・整備に係る資料の所在調査・整理
【平成17年度】
「平和記念施設あり方懇談会」の開催
「保存・整備方針」の素案に対する市民意見募集
「保存・整備方針」の策定・公表
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平和記念施設あり方懇談会 |
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平和記念施設の保存・整備に係る有識者アンケート及び市民意見(報告) |
| 市民局 国際平和推進部 平和推進担当 |
東京会議委員
飯田喜四郎 博物館明治村館長、名古屋大学名誉教授
猪口 邦子 上智大学教授
岩垂 弘 平和・協同ジャーナリスト基金代表運営委員
大石 芳野 フォト・ジャーナリスト
加藤 尚武 前鳥取環境大学学長
平山 郁夫 東京芸術大学長
山折 哲雄 前国際日本文化研究センター所長
山崎 朋子 ノンフィクション作家
横山 禎徳 一橋大学大学院客員教授
第1回平和記念施設あり方懇談会(東京会議)会議要旨
≪平山委員≫
これは根幹に関わることだが、日本の遺跡の保存の仕方は、例えば奈良でも、あるいは海外でお釈迦さんの生まれた土地ルンビニに行っても、皆、公園化している。奈良でも石舞台の所に花や芝生を植えて道を造って、これでは遺跡ではない、破壊である。ドームを見ても芝生があって最後に瓦礫がある。なぜ瓦礫を残さないのか。当時はこんな綺麗ではない。阿鼻叫喚、地獄があった訳だが、それを知らない今の世代の人が見たらどう思うだろうか。過去の論議の資料で以前の市長が「火事になってもこの程度は壊れる」と言ったという記録があったが、まさしくそうである。この遺跡をどう扱うかは、アウシュビッツや色々な施設と比べてみても、姿勢が問われると思う。日本人は優しいところがあるから、平和的にやろうということならまた違ってくる。何を残していくのか、その精神とメッセージをどう伝えるのか。ただし構造的、物理的に限界があり、現状維持ではすぐ壊れるので、可能な限りガッチリと修理し、耐震構造にしても同じだが、それをどう景観と結びつけるか。その辺を根本的に討論したらどうか。
≪平山委員≫
今から見ると核の破壊力は飛躍的なものになっているが、古典的な広島型原爆がどれくらいの破壊力があったのか。半径2キロ四方が全滅した訳だが、通常B29が登載する爆弾の量は約5トンだったと言われている。TNT火薬1万トンあるいは1万2~3千トン、B29で一度に爆撃させたとすると、1万トンで2000機くらいになる。戦争中、兵器廠にいて1トン爆弾を近くに落とされて吹き飛ばされたことがあるが、砂地で直径約10メートル近い、深さが6~7メートルくらいのクレーターが開いた。それを考えるとものすごい破壊力があったことになる。今はそれの何十倍になっている。私の友達も即死を免れたが、放射能障害により1学年で50人位がガンで死んでいる。二世がいて、生まれてきた子どもも幼児ガンとかで死んでいる。二十歳前にも死んでいる。亡くなられた方が、14万人、15万人と言うが、これらをどうカウントするかである。もし被爆しなければ、そういう胃ガンとかは無かった。核の影響と言うのは観念的には70年、プルトニウムは200年、チェルノブイリでは草を食べたヤギや牛の乳からも影響があると言われている。それだけ怖いものである。それをよく知っているのはアメリカ、ロシアの核保有国である。私もウズベキスタンやあの辺りで講演などをしており、原爆や核実験は相当影響があると相談に来た人たちがいるが、政府は認めていなかった。恐らくアメリカもそうだったと思う。でも、怖さは一番知っている。だから、核拡散を恐れたり、大量破壊兵器を持たせないということは当事者として分かっていると思う。そういう怖さをヒロシマということではなく、これは猪口先生の軍縮でもそうだが、敵も味方もなく皆に知らせないといけない。落とせば両方が死に絶える。日本の世界文化遺産、例えば法隆寺にしても、塀の何メートルという近いところに土産物屋が並んでいるが、これは何とかならないかと思う。バッファーゾーンというのはやはり雰囲気というものがあるから、自粛するなりして、文化遺産の精神性のある根幹、哲学を知らせないといけない。広島の原爆ドームも柵をして緑で囲み公園にしているが、ぜんぜんイメージが違ってくる。これを限定された範囲でも芝生をどけて、時間は60年が経っているが、一瞬にしてこうなったということが再現されることは、大切なことである。昭和19年に大東亜戦争美術展があって、勧業博覧会があった。そういう建物だった。猪口先生が言われたように、戦争経験のない世代は、怖いんだと言っても見ただけでは分からないと思うから、どうやって戦争の怖さを知らせるか。そのためには、物として破壊をリアルに伝え、肉声で体験を教え、文書で記録し、流布していく。両面で行かないと確かにダメだと思う。是非そうしていただきたい。
どうドーム周辺を残していくか。建物は、がっちり耐震強化し、少々鉄を入れて補強しても、外観は変わらない。それよりも建物周辺の整備を行って、爆発した瞬間の凄まじさを再現する方が説得力がある。
≪平山委員≫
私も兵器廠で被爆し、市内の惨状をたくさん見た。目の前は燃えており、子どもが死んでいるのを親は知らないでいたり、ガラスがいっぱい刺さって血だらけになっているのに痛いと言わない。ヤカンだけ持ったり、枕だけ持ったり、8時15分だから寝巻きのままの状態、何がなんだか訳が分からない。静かになったと思うと、虚脱状態とパニックになって、身内がどうなっているかも分からない状態である。「痛い」とか泣き声を上げるのは相当経ってからである。ほとんど記憶がないと思う。いきなり、寝ていて、家が全壊して、潰されて、「助けてくれ」と言われても助けられない。そこに火が入ってくる。遊んでいたのが飛ばされたり、電車で丸焼けになったり、そういう状況の中で生き残っているから分からない。怖いということだけが記憶に残って、説明できない。肉親がいなくなった、どこに行ったか分からない。私は実家を離れて一人でいて自分さえ助かれば大丈夫だったので、どんなになっているかを半分は見ながら歩いていたが、そういう時に垣間見たことは、麻痺して感じなくなっていた。そういう状況だから説明がつかないことが多いと思う。言わないのではなくて言えない、分からない状態であったためである。
≪飯田委員≫
何を保存するかということについては、資料4の保存工事説明板、世界遺産説明板の文面があるが、これをまとめれば十分である。こういう理由で保存するということでいいと思う。
技術上の問題ついては、色々難しい問題がある。ギリシャ、ローマの遺跡であれば、まさに遺跡そのものであるが、原爆ドームは土を盛って芝をはってしまった。私が一番最初に行った時に「これはおかしいな」と思った。それで聞いたところが、公園として整備するために芝をはって盛り土をしているとのことだった。そのために壁が土の中に埋まっており、雨が降ったら全部これが上にあがってきて、大変まずいことになっている。ユネスコのセンターが東南アジアの研修生を呼んだとき、研修生は皆な同じ指摘をした。あそこに少なくとも60センチくらい盛り土があり、それを取ると先程(資料(パワーポイント)の周辺の瓦礫の画面)のような遺跡が出てくる。遺跡として見せるべきだ。あの様に綺麗にすべきではない。
≪猪口委員≫
まず、「なぜ残すのか。何のために残すのか」ということだが、教育の現場でいつも感じるのは、人の能力は非常に乏しく、自分の経験的な世界を越えて想像する力がとても弱いということ。教育は自分の経験的世界を越えて、人が物を考えられるように手助けする、そういうことを努力している。物事を抽象的に捉えるということもそうだし、経験をしたことがないことに対して思いを馳せるように教育は努力する。しかし、人間の能力は実際にそういう面で乏しいので、自分が経験していない悲劇について想像することを助けることが必要である。
まず、最も重要な存在は、被害の経験者である。だから被爆体験者はそのことを訴え続けていただかなければならない。国際社会では色々な軍縮の分野があるが、例えば、対人地雷の分野では、”raise the voice”という運動がある。「声を上げる」ということだが、実際に武器による被害の犠牲者となってしまう場合には、”raise the voice”をするような立場に立たない。対人地雷の被害に遭った子どもや親は、それを世界に訴えなければならないのだけれど、そういう余裕がないし、生きることだけがあまりにも大変で、訴える力がない。例えば欧米のNGOが、アフリカの内戦の被害者の被害・悲劇を代弁することをやるが、まったく不十分である。被害者そのものが訴えて、”raise the voice”をしてもらわなければならないのであって、それに代わるインパクトはあり得ない。人の乏しい能力は、実際に被害者が乏しい言葉であっても”raise the voice”することによって、思わぬほど深く発達するし、想像できるようになる。突然その問題に対してオーナーシップを自分として抱けるようになる。遺跡もそのようなものだと思う。乏しい人の能力を助けてくれるようになる。「二度とこの悲劇が起こらないように」というのが私達の願いだから、誰もその悲劇を経験することはないけれども、それを確実にするためには、全員がその悲劇をイマジンできなければダメである。ところが能力が弱いので、それを助けるものとして、永遠に原爆ドームは保存されなければならない。被害者は残念ながら亡くなってしまう。”モータル”になる。存在として”モータル”だけれども、無機物である建物は、人間の英知によって永久に保存する必要がある。被害者を超えて、永久に乏しい人間の想像する力、つまり核兵器の被害・悲劇はどういうものかという、もはや誰も経験しないことについて全員が想像できることを助ける最後のものとして原爆ドームは残る必要がある。これが理論的に「なぜ原爆ドームは永遠に残さなければならないか」ということの説明である。つまりヒロシマからの”raise the voice”という運動の一環であり、まず被爆者にやっていただかなくてはならないけれども、原爆ドームが全ての被爆者と私達と命を超えて、続く世代の更に乏しい能力を助けてくれると思う。例えばアテネに神殿があり骨格だけ残っているが、非常に深く古代の文明について訴えるものがある。いくつか永遠に骨格だけでも残るというものの保存の仕方を参考にすると良いのではないか。先ほど飯田委員が言われたように、外観はそういう意味で重要である。
産業奨励館として”イマジンハウス”というものを造る運動は、場合によってはとても興味深く重要な、新たな考え方に繋がるかもしれない。近距離に、元々あったものと破壊されたものとが、二つ残るという遺跡の保存の仕方は、今までなかったかもしれない。また、”イマジンハウス”を造る時に世界中の人が、乏しい能力だけれど、自分がたとえ1セントでも寄附するということでオーナーシップのプロセスに参加し、関係者となっていくプロセスとして、それを造ることができるのであれば、新しいメッセージの発信の仕方になる。
これは一般的なことだが、広島は見事に復活した。美しい公園と街も復活して、広島を訪れる私の軍縮仲間なども広島が復活していることに感激する。私はこのことについて二つのメッセージが必要だと思う。一つは「人間はどんな悲劇をも超える力がある」ということ、広島はその証人である。これを訴える記念施設のあり方を考えて欲しい。究極の破壊を受けてもここまで復活しメジャーな都市として再生しているということ。二つ目のメッセージは、必ず私が軍縮仲間の友人に言うことだが、「今あなたが見ている広島は決して同じものではない」ということ。失われたものは永遠に失われていて、同じものを復活することは人間には絶対にできないことである。この二つのメッセージが重要である。
≪横山委員≫
先程、猪口委員が言われたような問題があると思う。私は当時2歳11か月で62歳になるが、ということは10年後20年後になると実際のビジュアルのイメージや直接平山委員からお聞きしたような話がなくなってしまうような時代がすぐ来る。私は思い入れを持って原爆ドームを見るが、私が外国人だったらどのように見えるのだろうかと思う。例えばドレスデンの絨毯爆撃があったが、そこにいた私と同じくらいの年のドイツ人と話をしていて、どうしていたか聞いたら、「疎開はせずにドレスデンにいて、一家はみんな頭を真ん中にして放射状に寝ていた。死ぬ時は一緒だということで、そうやって寝ていた。」と言っていた。結局、原爆であろうとなかろうと、戦争の被害というものは悲惨であることは変わらない。それが、原爆だからというのを我々が思うように彼らはドームを見て感じるのかということだ。ドームのような破壊された建物は、当然ドレスデンにもあったはずである。その思い入れがどこまで広がって通じるだろうかという気がする。10年後、20年後には、もっと思い入れをもって見る人が少なくなってしまう。イマジネーションが少ないですから。我々と違う人たち、特に外国人が見た時、どんなインパクトがあるのかということには多少疑問がある。ドームだけではなくて資料館も含めて一体で分かってもらうように誘導すべきだし、そういうふうに見てもらうよう組み立てるべきだ。今は建築的には、ハードウエアとしては出来ている。シンボリックに軸も決まり、そうなっているからいかにも一体的に見えるが、歩き回る時に、人はそのように一体として捉えているかどうか。それがないとドームだけでは、少なくとも我々と違う人たちにはインパクトがない。
日本人の若者達でも同じことだ。ここで一番のテーマは、戦争の悲惨さだが、特に今問題なのは、戦争が攻撃側にリアリティがなくなっていることである。非常に極端な話が、オースト・スコット・ガードという作家の『エンターズ・デイ』というSF小説に書かれている。異星人が攻めてくるので地球防衛軍を作るが、その防衛軍は6歳以下の子どもである。テレビゲームのように毎日演習を行う。6歳の隊長が飽きてきて、「やめたい、本当の戦争はいつなんだ。」というと、「1週間前に終わったよ。」いう話である。要するにそれくらいリアリティがないということである。それで彼はショックを受けて、異星人と言えども、テレビゲームのようなリアリティのない世界で勝ったということを非常に悩む。そういう傾向が戦争にはあって、攻撃側が感情移入できない。日本は特に原爆とか核兵器に対しては、あまり積極的になれないところがあるけれど、今、別の形で起こっているピンポイント攻撃、85%の命中精度しかないが、日本だったらもっと命中精度の高いものを作れる技術とコンポーネントを全部持っている。実際に潜在的技術力から言うと、今のような極めてリアリティの低い戦争を仕掛けることができる能力を持っているし、持ちつつある。
そういうものと我々が語っているリアリティとの乖離が埋められるか。若者や外国人やイマジネーションのない人たちとの乖離が埋められるようなパッケージとして、提示すべきであって、ドームがどうだという議論をやっていると、ちょっとそこがずれてしまうという気がする。ハードウエアだけではなくて、目に見えない組み立ても含めて、リアリティをつなぐというところをやっていくべきだ。私は建築家なのだが、皆さんの言われるドームの機能に関しては、やはり建築の専門家を入れて議論すべきである。覆いをかけるとまったく変わってしまうというと、そんなことはなく、建築的にはどのようにでも組み立てることができる。単純に予算だけの問題である。
例えば、これはどれだけ周知の事実か知らないが、東京駅の復元計画がある。今は2階建てだが、本当は3階建てである。元のオリジナルの東京駅に復元するという計画があって、お金を出すのはたぶんJR東日本だと思うが、予算は500億円くらいである。私の建築の師匠の前川國男さんは「東京駅なんて残す価値のない建物だ」といつも言っていたが、それに対して500億円かけて、原形復旧する。それくらいのお金があれば、原爆ドームに、綺麗なほとんど目立たないようなデザインで完全なガラスの覆いをかけることは、建築家ならできる。しかもそれがあれば、パラドックスだけれど、そういうふうな覆いをかけてしまえば、あの芝生なんか外してしまえば良い。それで、実際のどうだったかということを見せることができる。構造的に計算できないと言われたが、どれだけ鉄骨・鉄の部分が劣化しているかということは、分かりようがない。いろんな形で固めていくと、沖ノ鳥島のようになってしまう。その方がみすぼらしいではないか。それだったら、綺麗な覆いをガラスでかけてしまえば、中は、地震の問題では別の補強をしなければならないが、酸性雨とかでもろくなっていく部分は完全に改善する。だから、どれだけの予算が出せるかということが、一種の踏絵であって、東京駅の復元に500億円出して、ここは予算がありませんというのは、やはり日本の建築の問題である。核兵器廃絶と言っているけれど、それはリップサービスであって本気ではない。これに100億か200億位の予算があれば、極めて皆さんが納得される立派な覆いをかけることができると思う。
≪平山委員≫
形あるのものは滅する。物理的に耐用期間というものがあり、限界がある。さらに保存せよという場合は、こういう方法もあるということを、広島に限らず根本的な条件として、出して認められれば、助かるところがあるかもしれない。
≪横山委員≫
アブ・シンベル神殿はユネスコの世界遺産だと思うが、コンクリートで固めてある。細分化して全部上げて、コンクリートのボックスの中で吊るしている。裏も見せるようになっている。そこまでやっている。ガラスで囲うこととそんなに差はない。
≪平山委員≫
アブ・シンベル神殿は水没するということがある。水没するのならば、切り取って移転するという方法を選んだ。崩れる年限になるならこうして保存するという精神が認められれば世界遺産でも認められる可能性がある。
≪飯田委員≫
あれは強引に切り取ったものである。他の案も出ていたが、排水しきれないということでああいう強引な形になった。今見ても鋭いカットした跡がある。ひどいやり方である。
1 日時 平成16年(2004年)10月18日(月)13:30~16:00
≪山折委員≫
やはり広島の究極の面は鎮魂の場である。日本の歴史1500年を考えた場合、一番新しい鎮魂の場である。日本の歴史1500年の中で鎮魂の場はどういうものであったかという観点からすると、現在の広島のあり方は私には曖昧な空間に見えて仕方ない。本当に鎮魂の場として設定されているだろうか。具体的に言うと、原爆ドームと、平和記念資料館、追悼平和祈念館の関係がフラットにしか見えない。鎮魂の場であれば、どこかに奥の院がある。そうすると原爆ドームが奥の院で、資料館、祈念館がそこに至るまでの参道的な役割を持つということになる。そういう聖地空間としての機能が、必ずしも一体となっていない。奥の深さ、広がりを訪れる者に対比させるような形になっていない。むしろアプローチ、参道的な役割を果たしている所が中心的な空間であるという意識が非常に強い。それはそれで今日の時代的な要請で良いが、鎮魂の場としては、普遍的な存在をもう少し強調した整理の仕方にした方が良いのではないかと思う。
具体的にどのようにしたら良いかということだが、最初に思い浮かぶのは高野山の奥の院に至るアプローチは実に変化に富んでいる。宿泊の施設があり、盛り場があり、観光も出来る、山登りも出来る。もう一つは、伊勢神宮である。五十鈴川を渡り、次第次第に奥の内宮に近づいていく。その緊張感が、参内する時の普遍的な感覚を実にうまく演出している。もう一つは浅草タイプである。これこそ盛り場を中心として、先ほど屋台の話があったが、とにかく猥雑で様々な娯楽的な施設が集中している。しかし、やはり最後に観音様にお参りして、ホッとする。伝統的な文脈で言うと、浅草タイプ、伊勢神宮タイプ、高野山タイプの三つくらいあるが、その三者に共通しているのは、奥の院がしっかりしているということである。
そういう点では原爆ドームしか奥の院的役割を果たせるものはない。そういう工夫をもしもする とすれば、困難な面が出てくると思う。鎮魂の場というのは宗教的な祈りの場であるわけだから、奥の院は、当然、宗教的な象徴の意味がある。それが今日の広島市において出来るのかどうか、実際、我々がそういうことを指導的にやっていくことが出来るかどうか。多くの人々を今後集めるためには、どうしても宗教的な機能ということを考え直さなければいけないのではないか。鎮魂は非宗教的な行為であるという人が増えているが、その線を守っている限りにおいては広島は必ずしも普遍化・大衆化しない。これは言うは易しで乗り越えるのは困難な仕事であろうと思う。
≪山折委員≫
原爆ドームと厳島神社は一緒に世界遺産になっている。そういう所を巡礼するコース、連携・協力関係を作って、人の流れを作るということもある。
関連して、イスラエルのエルサレムにユダヤ教の聖地である”嘆きの壁”がある。あれは風化に任せており、特別の補修をしているようには見えないが、信仰の壁として生き続けている。その目と鼻の先に黄金のドームがある。イスラム教の聖地である。本当の聖地は中に囲われている岩であり、黄金のドームは鞘堂であるが、鞘堂をイスラムの聖地としている。時間が経てば変化していく可能性はあるが、問題は、ユダヤ教徒は”嘆きの壁”に行って帰ってくる。決して黄金のドームに行かない。イスラム教徒はドームにだけ行って岩にだけお参りする。お互いには巡礼しない。それは相互に不幸なことである。お互いの聖地を巡礼し始めると良いが、絶望的である。巡礼行動は往復運動であるが、多神教の世界では円運動になる。その特徴を生かしていけば、もう少し何か出来るかもしれない。
アウシュビッツは誰でも知っているが、次世代ではそれでも必ず忘れられていく。それに対する歯止めの教育的な措置として、石畳の街路に50m・100m置きくらいに一つの石を地上に盛り上がらせるように造っている。通る人は必ずそれに蹴躓き、蹴躓かせて思い出させる。その石を見ると犠牲者の名前が書いてあり、凄いな、ここまでやらないといけないのかと思った。良い悪いは別にしてアウシュビッツでさえも人の意識から忘れられていくということがある。
先ほど横山委員が言われたが、日本は平和愛好文化国家だったという歴史を教えることは一番根本的な問題である。日本の教育現場ではそれを教えていない。日本の歴史の中で長期に渡って平和を築いていた時期が二度もある。平安時代の350年と江戸時代250年である。なぜ実現可能だったかということに対し、正面きって研究はされていないが、これは驚くべきことだった。平安時代は貴族政権、江戸時代は封建武士政権、それでずっときている。なぜ、これだけの周期の平和が続いたか。それは、恐らく思想心、宗教心が作用している。こんな事例はヨーロッパの歴史にも中国の歴史にも無い。奇跡のような事実である。なぜそういうことが可能だったかという理由は、政治・経済・軍事などたくさんある。平和を担保する一番重要な要因は、宗教と国家の関係、調和のとれた関係である。神仏共存のシステムは平安時代に出来たが、今の社会の安定つながっていると思う。これも戦後の日本の経済は完全にネグレクトしている。この辺を根本的に反省しないと日本の歴史のポジティブな意味を受け継ぐことは出来ない。
≪横山委員≫
巡礼というのは宗教だけなのかというと、サンチアゴ・デ・コンスポテラというキリスト教の巡礼地がスペインにあり、昔からヨーロッパ中から巡礼に行く。何がある訳でもなく、建築的にも大した教会でもない。ソフトウェアとしてそこに行くような求心的なもの、日本であれば江戸時代の伊勢参りのようなものに出来ないのかということである。何か凄いものや宗教がなくては出来ないかと言うと、巡礼先が一つのテーマなのである。”嘆きの壁”の話があったが、スペインでは建築的にユダヤ教とキリスト教とイスラム教が層状に融合した建物もある。別にお互いに嫌いあった訳でもない時期があり、建築に残っている。神仏集合というのは、日本だけではなくイベリア半島にもあったのかも知れない。
今、科学の進歩からは、ステムセル(幹細胞)の問題、遺伝子、核や環境の話もそうだが、宗教を超えた人間観が要求されている。人間論というのはギリシャ哲学の頃からあるが、キリスト教が歪めてしまって、進化論を認めたのは1952年である。その時は、認めたという訳ではなく、宗教と科学を別にするという約束であった。その後、産業革命と機械論的人間論、進化論があって、ソフトウェア、ニューロン、通信システムのような人間観、遺伝子の人間観、要するに利己的な遺伝子のキャリアに過ぎないというような人間観など、それを超えたものが求められていて、日本から出てきて全くおかしくない時期にある。そういう人間観が日本から出てきて、リーダーにならなくてはいけないのにぐずぐずしている。それを広島から発信できれば、そこに物理的に何があるということではなく、サンチアゴ・デ・コンスポテラのように何がある訳ではなくても、巡礼地になり得る。広島あたりでやってみてはどうか。
第3回平和記念施設あり方懇談会(東京会議)会議要旨
1 日時 平成17年(2005年)1月27日(木)13:30~16:00
≪飯田委員≫
私は少しニュアンスが違う。確かにあの時撤回されたが、現在のままの状況でも数世代もつからというだけの理由であった。私としては第1回の時に覆いを掛けている事例についてお話があったので、その事例を見に行ったが話にならない。たくさん鉄骨を入れてなるべく大きなガラスをかけるというやり方であった。数世代経ってそういうものが必要になった時も、そういうやり方には賛成できない。例えばアテネのパルテノンも大気汚染でやられており、ブロンズもやられるのでチタン合金で保存の手を入れ、一般の人を立ち寄らせず手も触れさせないという状況である。あの辺の一番の汚染は大気汚染、自動車の排気ガスである。これから守ろうと思えばまさに覆いを掛けなければならない。でも大気汚染を防ぐ物を付けるという声は実際出ていない。やはり今のままで何とかしたいということである。だから今回の場合も覆いは絶対にやるべきではなくて、もし覆いをするのであれば横山委員が言われた銀行の例ような覆いでは駄目である。直径が1km位のドーム型の覆いを建てれば環境を保つことはできるが、まだそれに行く段階ではないと思う。球場なんかは全部空気のドームで覆っており、もちろん技術的には可能だが、まだその前にやるべきことがある。
≪飯田委員≫
理念が決まらないと、何年というのは出てこない。私は昔昭和の宮殿を造るときに関係したが、二重橋の鉄橋を造りかえるときに強く言われたのが、東京中の鉄橋が落ちてもこれは落とすなというような設計条件が出された。私どもは当然無視する。人が全部いなくなって、そこだけ残っても意味がない。広島についても同じであろう思う。広島市に震度7の地震が来たら残るところは非常に少ない。そういう状況でドームが耐えることは意味がない。理念をはっきりさせることによって決まってくるから、それによって何年ということを言ってもらえると良い。技術委員会は広島の地盤の状況から言って、どの程度の頻度でどれだけの震度の地震が起こることも分かる。それから一般の人が入らない建物であるから、安全率を下げることが出来る。そうであれば余り過度なことはしなくても良いということが出てくる。
現在、ドームの下の所に60センチ位盛土をして芝生が貼ってある。それをどうするかという問題である。ヨーロッパの遺跡に行ってみて庭園的なことをやっているのはイギリスが非常に多い。ローマの遺跡になると庭園的に造られたものは非常に少ない。ローマの中なら一部にはある。しかしローマの遺跡で一番残っているのは北アフリカの沿岸だが、そこは遺跡そのものである。瓦礫を出すか出さないかということをここで決めて頂ければありがたい。
また、あのように土が盛ってあると、煉瓦造りの建物なので下から湿気が登ってくる。普通の建物と違って水が上がって来ないように防水床をやっている。あの時代の建物は皆ていねいな仕事をしている。これで水が切れていたがそこに土を盛ってしまった。雨が降ると水が行く所がないので、壁体に上がって来る。上がって来るだけならいいが上がってきて蒸発すると、非常に濃い酸になり煉瓦を傷めてしまう。そういうことからも盛土の撤去を決めて頂くことはありがたい。
≪飯田委員≫
まず、役割については整理されているとおりだと思う。福井座長は観光について控えめに言われたが、観光であっても良いと思う。
平和公園とその周辺についてだが、記念碑とか慰霊碑はたくさんあるが、説明板の所が混んでいて面白くない、うんざりするということがある。解り易く、楽しいと言えば語弊があるが、そういうものにして欲しい。
中島地区の街並みの復元の話が出ていたが、あそこだけが無くなった訳ではなく、あそこだけ復元することは問題である。街並みとして復元するには相当広いスペースが要るので、大型の模型で示してそれをどこかに設置してはどうか。
それから「平和記念公園らしいサウンドスケープの整備」というのがある。遊歩道を歩くと鳥の声が聞こえてくるという装置があるが、あれは非常にいやらしい。平生は拡声器を兼ね、バック・グランド・ミュージックを流していて、限られた範囲だけならいいが音量の調整が難しく遠くまで聞こえてうるさいということになるのでサウンドスケープは難しい。特にヨーロッパのお客さんからはそういうことを強く言われる。音楽を流すのは良いがよほど気を付けてやる必要がある。
「民有地を含む空間のあり方」については、広告の規制など非常に良くやっておられる。日本の文化財行政の一番の欠陥は、周辺を保護しないことである。パリにはたくさんの文化財があるが、一つの文化財の周囲500メートル以内は、新築・改築全部が許可制である。それではじめて景観が保たれている。建物に対して500メートルといっても、建物に対して一緒に見える場合には規制を受けるという形になっている。日本の場合は周辺の環境を保護するということが全くない。平和記念公園の場合は市の方が苦労して広告を取って頂いていて良いが、平和記念公園で一つに気になるのは、慰霊碑のところから原爆ドームを見ると、やはり商工会議所の醜い建物が耐えられないということである。例えばパリなら都市計画の中で建物に高さの制限があるので、ユネスコの本部を造る時には、地下4階建てにして高さを制限している。原爆ドームのシルエットは非常に大切だから、ドームの後だけは樹を植えるとか建物に蔦をはわせるとかではなく、高さの制限をして頂きたい。広島だけではなく日本全体に文化財の周辺環境に対する配慮が全くない。商工会議所は築後40年ほど経過しており、100年200年持つものではないので必ず建て替えの時期が来る。難しいとは思うが、都市計画の中でドームの後ろにあのような建物がないようにしていただきたい。どの位の高さ、どの程度の距離まで規制するかを検討して頂き、何とか平和記念公園のビスタを守って頂きたい。
ドーム周辺の緑の中で1本だけ非常にドームに近いものがある。大きく育っているので、根が建物の下に入ったら建物を壊してしまうので、あれだけは伐採して頂きたい。
平和記念施設あり方懇談会設置要綱
(設置)
第1条 被爆60周年となる平成17年に向け、長期的な観点から平和記念施設の保存・整備のあり方を整理するための平和記念施設保存・整備方針を策定するにあたり、有識者等から指導・助言をいただくことを目的として、「平和記念施設あり方懇談会(以下「懇談会」という。)」を設置する。
(平和記念施設)
第2条 方針策定の対象となる平和記念施設は、ヒロシマのシンボルである平和記念公園を中心とした空間(おおむね「原爆ドーム及び平和記念公園周辺建物等美観形成要綱」の対象地域内(バッファーゾーン)と同じ。)及びそこに所在する原爆ドーム、平和記念資料館、平和記念公園及び平和記念公園に接する平和大通りの一部をいう。
(所掌)
第3条 懇談会の所掌は、次のとおりとする。
(1)平和記念施設保存・整備方針案の策定についての指導・助言に関すること。
(2)その他平和記念施設のあり方に関すること。
(委員)
第4条 懇談会の委員は、15人以内とする。
2 委員は、平和記念施設について優れた識見を有するものから市長が依頼する。
(任期)
第5条 委員の任期は、平成17年12月31日までとし、補欠の委員の任期は、前任者の残任期間とする。
(座長)
第6条 懇談会に座長1名を置き、委員の互選により選出する。
2 座長は、会務を総括する。
3 座長に事故があるときは、座長があらかじめ指定する委員がその職務を代理する。
(会議)
第7条 懇談会は、座長が招集し、座長が議長となる。
2 座長は、必要があるときは、懇談会に関係者の出席を求め、その意見又は説明を聴くことができる。
(庶務)
第8条 懇談会の庶務は、市民局国際平和推進部平和推進担当において処理する。
(その他)
第9条 この要綱に定めるもののほか、懇談会に関し必要な事項は、座長が定める。
附則
この要綱は、平成16年7月16日から施行し、平成17年8月31日限り、その効力を失う。
附則
この要綱は、平成17年8月30日から施行し、平成17年12月31日限り、その効力を失う。
平和記念式典関係資料(宇吹所蔵)
| 年 | タイトル(発行者) | 形態 | 備考 |
| 1971 | 8・6広島広島反戦集会の成功のために シリーズNO.1 1971.7.5(女子大反戦会議) | 紙1枚 | |
| 「犯罪者=佐藤の来広をヒロシマの名において許すな!」 | |||
| 1981 | 平和記念式典の名称について(総務局) | 紙2枚 | |
| 1984 | 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式実施要項 | 紙3枚 | |
| 1984 | 昭和54年平和記念式典資料(広島市) | 冊子、C | |
| 1991 | 平成3年平和記念式典資料(広島市) | 冊子、C | |
| 1995 | 平成7年平和記念式典資料(広島市) | 冊子、C | |
| 1996 | 平成8年平和記念式典資料 | 綴 | |
| 2007 | 平成19年平和記念式典の挙行について(企画総務局)[記者発表資料 平成19年7月23日] | 冊子、C | |
広島市のHP(2019年12月25日閲覧)にみる平和行政の枠組みhttp://www.city.hiroshima.lg.jp/www/genre/1001000002088/index.html
| 原爆・平和 | |
| 画像 | 原爆ドーム、平和記念資料館、原爆の子の像、平和記念式典 |
| トピックス | 令和元年度 平和関連行事一覧表 平和宣言【令和元年(2019年)】 広島逓信病院旧外来棟の見学のご案内 |
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| 被爆体験や平和への思いの共有 | 被爆体験の継承・伝承 折り鶴と「原爆の子の像」 折り鶴に託された思いを昇華させるための取組 被爆建物等の保存・継承 平和記念施設保存・整備方針 広島平和記念資料館 原爆ドーム ひろしま平和の歌 |
| 平和学習 | 広島での平和学習(修学旅行等) 平和教育 平和記念公園めぐり ポケット版ヒロシマ平和情報 被爆体験(手記、証言、原爆の絵など) |
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| 市政全般 |
平和関係施設調査研究委員会(1984年5月11日設置)宇吹所蔵資料
| No. | 年月日 | 資料名 | 形態 |
| 19840511 | 平和関係施設調査研究委員会<設置> | ||
| 0 | 1989∼ | 平和関係施設調査研究委員会ワーキンググループ | File |
| 0-1 | 19891102 | 平和関係施設調査研究委員会・ワーキンググループ合同会議 | |
| 平和関係施設調査研究委員会・ワーキンググループ合同会議資料 | 綴 | ||
| 資料1 | 平和関係施設調査研究委員会・ワーキンググループ研究員名簿 | ||
| 資料2 | 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の設置について-これまでの経緯 | ||
| 資料3 | 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の広島設置に関する要望・提言の状況 | ||
| 資料4 | 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の設置年次計画 | ||
| 資料5 | 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の設置元年度事業計画 | ||
| 資料6 | 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の設置元年度事業実施スケジュール | ||
| 資料7 | 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の広島設置について-基本構想のたたき台 | ||
| 資料8 | 平和と軍縮に関する国際的な研究機関必要人員数、延床面積 | ||
| 資料9 | 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の組織図(案) | ||
| 0-2 | 198912 | 「平和と軍縮に関する国際的な研究機関」の設置について-基本構想のたたき台(第1次改定分)(平和関係施設調査研究委員会・財団法人広島平和文化センター) | 綴 |
| 0-3 | 199005 | 「平和と軍縮に関する国際的な研究機関」設置基本構想(案)(平和関係施設調査研究委員会・財団法人広島平和文化センター) | 綴 |
| 0-4 | 199005 | 「平和と軍縮に関する国際的な研究機関」設置基本構想(案)(平和関係施設調査研究委員会・財団法人広島平和文化センター) | 綴 |
| 0-5 | 199006 | 「平和と軍縮に関する国際的な研究機関」設置基本構想(平和関係施設調査研究委員会・財団法人広島平和文化センター) | 綴 |
| 1 | 19870331 | 国立平和研究所広島設置の構想(案) | 冊子 |
| 2 | 19910107~ | 平和に関する国際的な研究機関(三菱総合研究所) | File |
| 2-1 | 19910107 | 「平和に関する国際的な研究機関」基本計画検討懇談会開催のお知らせ(三菱総合研究所⇒宇吹暁) | 紙 |
| 2-2 | 19910118 | 第1回基本計画検討懇談会(広島部会資料) | 綴 |
| 2-3 | 「平和に関する国際的な研究機関」設立当初の研究対象の具体例 | 綴 | |
| 2-4 | [ご参考]「「平和に関する国際的な研究機関」設置基本計画策定調査 中間報告用資料(株式会社三菱総合研究所 1990年12月」 | 綴 | |
| 3 | 19910304 | 「平和に関する国際的な研究機関」基本計画検討懇談会開催のお知らせ(三菱総合研究所⇒宇吹暁) | 紙 |
| 3-1 | 19910315 | 第2回基本計画検討懇談会(広島部会資料) | 綴 |
| 3-2 | [ご参考]「「平和に関する国際的な研究機関」設置基本計画策定調査報告用資料(株式会社三菱総合研究所 1991年3月」 | 綴 | |
| 4 | 19910331 | 「平和に関する国際的な研究機関」設置基本計画策定調査報告書(株式会社三菱総合研究所) | 冊子 |
| 5 | 19910331 | 同上 <要約版> | 冊子 |
| 6 | 19910331 | 「平和に関する国際的な研究機関」の設置について(市長室) | File |
広島平和文化センター刊行物一覧(宇吹所蔵)
| 発行年月日 | 書名 | 備考 |
| 19770331 | 平和の推進(昭和51年版) | |
| 1983(昭和58年版)、 1988(昭和63年版)~1997年版(平成8年度事業) |
||
| 19771220 | ヒロシマ・原爆・平和 | 平和教育冊子No.1 |
| 広島平和文化センター編刊・渓水社(発行所) | ||
| 19780720 | ヒロシマ読本 | 小堺吉光著 |
| 19790320 | 平和 国家・核・教育 | 平和教育冊子No.2 |
| 19821120 | 国際連合の話 | 桑原輝路著 平和冊子No.4 |
| 19840331 | 軍備と軍縮の歴史 | 山田浩著 平和冊子No.5 |
| 19851025 | 平和事典 | 勁草書房(発行所) |
| 19880331 | 原爆被爆者は訴える 被爆証言集 | 平和冊子No.6 |
| 煙石二三枝 犠牲者の遺骨の前で読経 川本義隆 人間らしく生きる世界を 小松キクエ 未だ骨もないわが娘を思う 小松清興 アウシュビッツとヒロシマがだぶる 笹村弘志 運動場に蚊帳を吊って子どもの世話を 高橋昭博 「ヒロシマ」で生きることの意味を問う 寺前妙子 苦悩を越えて強く生きよう 松重美人 生き地獄にシャッターが切れず 松原美代子 讃美歌で心の安らぎを 山岡ミチコ 米国で27回の手術を受ける 山根力男 課員全員が死亡する上原敏子 外国人の原爆被害について |
||
| 19910930 | 平和研究入門 | 松尾雅著 平和冊子No.7 |
| 19920325 | 平和記念式典の歩み | 宇吹暁著 平和冊子No.8 |
| 19930331 | 平和学を創る 構想・歴史・課題 | 岡本三夫著 平和図書No.9 |
| 19940331 | ソ連・ロシアと世界平和 | 岩田賢司著 平和図書No.10 |
| 19950331 | 東欧の歴史と民族問題 | 林忠行著 平和図書No.11 |
| 19960331 | 開発と貧困-豊かさの中の貧しさと、貧しさの中の豊かさと | 竹内常善著 平和図書No.12 |
| 19970331 | 軍縮への道 1995年版・国連軍縮年鑑 | 国際連合著 石栗勉訳 |
| 19970331 | (財)広島平和文化センター20年誌―センターの歩み | |
| 19980331 | 冷戦後の世界と米中関係 | 中逵啓示著 平和図書No.13 |
| 19980331 | 国際社会と人権 | 水上千之著 平和図書No.14 |
| 19990331 | 哲学の21世紀-ヒロシマからの第一歩 | 嘉指信雄著 平和図書No.15 |
| 19990331 | 平和と交流 | 1998年版(平成9年度事業) |
| ~ 2006年版(平成17年度事業) | ||
ひろしま平和の歩み(広島平和文化センター編・刊、19680801) 目次
| 執筆者 | ||
| 序 | 山田節男(広島市長) | |
| まえがき | 「平和の歩み」編集委員会 | |
| 改訂版19730806発行。以下の目次・情報は改訂版 | ||
| 資料提供のための座談会出席者=伊藤正子、大原三八雄、河本一郎、金井利博、桑原英昭、谷本清、升川貴志栄。その他の協力者=浜崎左髪子、増田勉、浜野千穂子。 | ||
| 1 | 原爆被災救援の活動 | 庄野直美 |
| 被爆直後の応急措置 隣接の各地から 救援隊 一〇日後でも死体散乱 救援者も放射能の犠牲に すばやかった科学者の活動 内外からの救援金 ケロイドの治療 広島原対協の発足 原対協の事業の内容 市が被爆者調査の試み 医師の治療活動の開始 全国的な救援活動 生活救護への道開く 被爆者による救済活動 原爆被害者の会 大きな運動の流れの中へ 広島県原爆被害者団体協議会 日本原水爆被害者団体協議会 統一を貫く日本被団協 医療法は一三回改正 被爆者特別措置法の制定 |
||
| 2 | 原爆孤児・孤老の救済活動 | 今堀誠二 |
| 投げ出された孤児・孤老 涙の記憶しかない兄弟たち あらゆる悲境に耐える 広島子どもを守る会 新しいおかあさんができた 石井好子やダークダックスも 家族四人が全滅した子 浮浪者となった少年 一〇歳の少女の受難 学童疎開から帰ってみると 連帯のいとぐちをつかむ あゆみグループの誕生 中野教授夫妻が親がわり 被爆の体験を訴えて歩く 諸外国からも激励の人々 さまざまの困難にぶつかる 日常の中から平和をめざす 全市民の支援の中で |
||
| 3 | 平和祭のあゆみ | 今堀誠二 |
| 二二年に第一回の平和祭 慈仙寺鼻で平和宣言 マッカーサーもメッセージ 全世界に反響を呼ぶ 爆音にかき消された第二回平和祭 占領軍の禁止命令 過去帳の奉納始まる ビキニ被災で盛りあがる 三〇年から全国に式典中継 |
||
| 4 | 平和記念施設の歴史 | 今堀誠二 |
| 広島市民と七つの川 永久平和めざす丹下構想 平和大学 平和図書館の夢も 平和都市建設法が実現 迷える霊の供養塔 ハニワの家を型どった慰霊碑 ヒロシマの焦点原爆資料館 狭くなってきた記念館・公会堂 新生広島の百メートル道路 国民運動でドームを保存 |
||
| 5 | 外国人による活動 | 庄野直美 |
| ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」 平和請願一〇万人運動 原爆孤児精神養子運動 ヒロシマ・ピースセンターの活動 原爆乙女をアメリカで治療 シュモー・ハウスを一九戸建設 ドイツから平和の鐘 仏人モーリス氏の「広島憩いの家」 ヨット「フェニックス号」と広島 ベトナム人への支援も レイノルズ夫人と世界平和巡礼 ウ・タント総長に白書を要望 ワールド・フレンドシップ・センター |
||
| 6 | 世界連帯の活動 | 小谷鶴次 |
| 戦争そのものの絶滅を 国連加盟への市民運動 二六年に国連協会県本部 加盟後の普及活動 アウシュヴィッツとの連帯へ 七万キロを平和行進 三八年にアウシュヴィッツ委 世界連邦運動の展開 二四年に連邦運動スタート 二七年に世界連邦アジア会談 市民の意志で「広島宣言」 海外にも大きな反響 一〇万人署名をもとに平和都市宣言 戦争放棄の精神を決議 「世界連邦」の県宣言 西日本大会ではドーム保存支持 サーバス友の会 市民代表の欧州訪問 |
||
| 7 | 文化・報道関係の活動 | 小谷鶴治・今堀誠二・庄野直美 |
| 「中国文化」で原爆特集 栗原貞子の「生ましめん哉」 壊滅した中国新聞の再刊 正田篠枝の「さんげ」 原民喜・大田洋子の作品 押収された「ピカドン」 峠三吉の反戦運動 若い画家たちと平和美術展 ガリ版刷りの「原爆詩集」 映画「原爆の子」作成 日本ペンクラブも平和宣言 続々と被爆体験記 若い作家らの活躍 「広島の詩」が海外に反響 平和の原点を考える さらに体験の発掘へ |
||
| 8 | 原爆被災・平和問題に関する研究活動 | 小谷鶴治・今堀誠二・庄野直美 |
| 直後の医学者の活動 専門家による療養方針 プレスコードで資料手放す 悪条件下でも研究続く ABCCの調査活動 講和とともに発表の活発化 広島の科学者の自主研究 市の機関も研究を助成 三六年に広島原爆医療史 自然科学の原爆白書 広大原医研が活動開始 社会科学の研究活動 国際平和の諸研究から 広島大学に平和問題研 学生グループの活動 二八年に「広島大学人の会」 被爆者の心理・生活の調査 「談話会」の発足と活動 |
||
| 9 | 民間団体の初期における諸活動 | 今堀誠二 |
| 二四年に平和擁護の第一声 ストックホルムアピールの反響 文化団体も活躍 朝鮮戦争下も続く 原爆被害者団体の結成 宗教団体も独自の活動 努力の積み重ねに期待 |
||
| 10 | 市民による特殊な平和活動 | 庄野直美 |
| 原爆体験記を発刊 原爆の子友の会の活躍 原爆の子の像 これはぼくらの叫びです 折鶴の会が発足 現在も活動 原水禁広島母の会 会誌「ひろしまの河」発行 運動の分裂が与えた影響 談話会の発足 原爆白書運動の胎動 政府による白書製作を提言 平和七人委も強く要望 日本学術会議も起つ 白書をすすめる市民の会 胎内被爆者を守る「きのこ会」 ベトナム戦傷孤児の救援 さまざまの市民運動 |
||
| 11 | 原水爆禁止三団体をめぐる動き | 庄野直美 |
| ビキニ被災事件 反核の叫び全国に広がる 広島の婦人の動き 国家保障を求める決議 東京杉並の婦人たち 下から支えられた運動 重さ一二五キロの署名簿 原水禁広島県協議会 原水禁世界大会の発想 中央と広島の運動の相違点 広島は原体験から出発 第一回原水禁世界大会 場外にあふれる参加者 歴史的な広島アピール 右翼団体の妨害も 広く具体的な運動へ 被爆者援護の方向へ 平和行進も始まる 安保問題で離脱騒ぎ 第一回目の分裂起きる 第二回目の分裂起きる 広島県民の使命訴える 被爆者援護の請願続く 第九回大会は県原水協が運営 超党派の市民運動も進む |
||
| ―平和の歩み― 年表 | ||
| 執筆者: 小谷鶴次、今堀誠二、庄野直美 | ||
世界平和連帯都市市長会議 1982年6月24日発足
2001年8月5日、「世界平和連帯都市市長会議」から「平和市長会議」に、2013年8月6日に「平和首長会議」に名称変更。
平和問題調査会=広島市長の諮問機関。1981年5月14日設置。
| 回 | 開催年月日 | 議題など |
| 01 | 19810514 | ①委員長の選出②会の名称、構成メンバー、事務局の決定③昭和56年会議開催計画等について説明④基本的問題と事業計画一軍縮シンポジウムの開催/市民講座・特別講演会の開催/国際的平和研究機関の誘致 |
| 02 | 19810724 | パルメ委員会の東京招致及び広島ワークショップについて |
| 03 | 19810907 | ①パルメ委員会及びワークショップの開催について一東京、広島での準備状況 |
| 04 | 19811130 | ①パルメ委員会を迎え、ジャパンワークショップ東京、広島セッション開催の事前検討について |
| 05 | 19820128 | ①パルメ委員会ジャパンワークショップの結果報告並びに今後の対策について |
| 06 | 19820223 | ①第2回国連軍縮特別総会への対応策について―ワーキンダ・グループの検討結果報告 |
| 07 | 19820517 | ①第2回国連軍縮特別総会に対する広島・長崎両市の対応について |
| 08 | 19820702 | ①第2回国連軍縮特別総会の報告②パルメ委員会最終報告書に基づいた平和、安全保障と軍縮に関する東京セミナーについて |
| 09 | 19821001 | ①平和と安全保障と軍縮に関する東京セミナーの開催について一パルメ委員会報告を受けて |
| 10 | 19840217 | ①国連大学主催東京セミナーについて②広島市が行う平和推進活動について |
| 11 | 19820218 | ①第1回世界平和連帯都市市長会議(広島市・長崎市主催)について②東京セミナーについて |
| 12 | 19870319 | ①第1回世界平和連帯都市市長会議の報告②昭和61年は国際平和年に当たり、この取組みとして、国際平和サミット、平和シンポジウム等の実施計画を説明。 |
| 13 | 19880318 | ①国際平和年事業の報告②被爆42周年への取組み③世界平和都市連帯推進事業④国連大学・国連大学協力関係プロジェクト |
| 14 | 19880216 | ①国連大学学長及び各委員紹介②昭和62年度実施事業報告③昭和63年度平和推進事業説明④6か国首脳会議帰国報告⑤第3回国連軍縮特別総会(広島・長崎両市長出席)へ向けての提言 |
| 15 | 19890217 | ①昭和63年度実施事業②平成元年度実施事業③第3回国連軍縮特別総会への出席④国連軍縮広島講演会の開催⑤第9回核戦争防止国際医師会議世界大会の開催⑥第2回世界平和連帯都市市長会議⑦平和・軍縮研究機関の設置構想案 |
| 16 | 19900222 | ①平成元年度主要平和関連事業実施状況②平成2年度主要平和関連事業計画案の概要③「平和に関する国際的な研究機関」の設置について |
| 17 | 19911112 | ①広島市の平和の取組み②新委員を含む委員の自己紹介及び意見交換。 |
| 18 | 19921204 | ①広島市の平和の取組み概要②国連軍縮広島会議の報告③第3回世界平和連帯都市市長会議の検討④アジアにおける広島の役割⑤被爆50周年記念事業 |
| 19 | 19931202 | ①「広島市の平和行政」について①原爆ドームの「世界遺産一覧表」への登録について③「第3回世界平和連帯都市市長会議」の報告④広島市の平和の取組み概要 |
| 20 | 19941219 | ①被爆50周年を迎えての広島市の平和への取組み①米国スミソニアン協会・国立航空宇宙博物館における特別展③国際司法裁判所における核兵器使用の違法性の審理①原爆ドームの「世界遺産一覧表」への登録⑤|世界平和連帯都市市長会議アジア太平洋地域会議⑤広島市の平和の取組み概要 |
| 21 | 19950329 | ①アメリカ社会における核廃絶の認識を高める方途について |
| 22 | 19960321 | ①被爆50周年以後の平和行政について。広島市平和問題調査会は、この会合を以て解散した。 |
| 『広島平和文化センター20年誌』(19970331刊) | ||
第1部 国際連合訪問の状況(日程順)
| 1976年11月 | |
| 25日 | ワシントン到着 |
| 26日 | 日本大使館を表敬訪問 米国務省軍縮局を訪問 国立公文書館を訪問 ウイリアム・ペン・ハウスで平和の集いを開催 |
| 27日 | アーリントン墓地参拝 米国科学者連盟事務所を訪問 ウイルミントン到着 ウイルミントン大学学長主催夕食会に出席 |
| 28日 | ウイルミントン市長主催朝食会に出席 ヒロシマ・ナガサキ記念文庫を訪問 ニューヨーク到着 |
| 29日 | 日本代表部を訪問 国連広報担当事務次長補を訪問 クリスチャン・センターを訪問 オーストラリア代表部を訪問 |
| 30日 | カナダ代表部を訪問 フランス代表部を訪問 アメリカ代表部を訪問 |
| 1976年12月 | |
| 1日 | ワルトハイム国連事務総長と会見 イギリス代表部を訪問 内外新聞記者団と会見 イスラエル代表部を訪問 アメラシンゲ国連総会議長と会見 ニューヨーク市長を表敬訪問 赤谷次長補主催のレセプションに出席 ノーマン・カズンズ氏と懇談 |
| 2日 | ソビエト代表部を訪問 インド代表部を訪問 東ドイツ代表部を訪問 西ドイツ代表部を訪問 日本協会主催のレセプションに出席 |
| 3日 | ニュージーランド代表部を訪問 ノルウェー代表部を訪問 国連第1委員会(軍縮)を傍聴 |
| 4日 | 訪問10日目に休養日 |
| 5日 | ロサンゼルス空港到着 広島・長崎両県人会主祭歓迎夕食会に出席、在米被爆者と懇談 |
| 6日 | ロサンゼルス市長を訪問 大内会長ら、被爆者と医療相談 ロサンゼルス市議会を訪問 日本総領事官を訪問 シティー・ビュー病院を訪問 ロス郡医師会の昼食会に出席 日系老人ホームを視察 |
| 7日 | ロサンゼルス郡参事会で発言 内外記者会見で両市長共同声明 トーマス・野口事務所を訪問 ロサンゼルス発 サンフランシスコ着 広島・長崎両県人会主催歓迎会に出席 |
| 8日 | サンフランシスコ市長を訪問 オークランド=ベイ地区を見学広島・長崎両市長主催夕食会開催 |
| 9日 | サンフランシスコ発、東京へ |
| 10日 | 東京羽田着 |
| 12日 | 荒木広島市長、慰霊碑に帰国報告 |
| 13日 | 諸谷長崎市長、記念像に帰国報告 |
出典:『国連訪問レポート-1976 ヒロシマ・ナガサキ 核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請 』(著者:広島市・長崎市編、 刊 19770331 )
『国連訪問レポート-1976 ヒロシマ・ナガサキ 核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請 』広島市・長崎市編 、刊、19770331)
| 部 | 事項 | |
| 国連訪問を終えて | ||
| 1 | 国際連合訪問の状況(日程順)<詳細リンク> | |
| 2 | 国連事務総長への要請・要望事項および原爆被害の実態に関する資料 | |
| 3 | 国際連合訪問の経緯 | |
| 概要 | ||
| 1975年8月1日~1976年11月25日 | ||
| 編集後記 |
『大使の平和メッセージ-21世紀を平和な時代に』(広島市市民局国際平和推進部平和推進担当編・刊、19990801 )
はじめに
本年8月6日の平和記念日に向けて、私は、126名の各国駐日大使の方々に「平和のメッセージ」の送付を要請いたしました。
これは、各国を代表している大使の皆様によりヒロシマに関心を持っていただき、世界平和都市連帯の推進など平和の取組みを進めているヒロシマに対する理解を深めていただくとともに、ヒロシマと各国の架け橋となっていただくことを期待し、要請したものです。
このたび43名の大使の方から、各国の平和の取組みや大使自身の平和への思い、ヒロシマヘの思い、21世紀への平和の誓いなどを内容とするメッセージをいただくことができました。
メッセージをお寄せいただいた大使の皆様に深く感謝申し上げます。
紛争の相次ぐ今日、民族や政治体制の異なる各国の大使に、この機会に平和に思いを馳せながらメッセージを作成していただくことは、そのこと自体有意義であり、
また、そのメッセージは多くの人々に読まれることにより一層意義を増すものと考えます。
御来場の皆様には、大使からのメッセージや広島市内の小学生20名が平和への思いを込めて書いた作文に触れていただくことにより、平和への思いをより一層強めていただければ幸いです。
私としても、今回の取組みが国境を越えた連帯の輪を広げ、来る21世紀を「核兵器のない、平和な時代」にしていくための第一歩となることを期待しております。
終わりに、重ねて大使の皆様をはじめ関係者の皆様に感謝の意を表します。
平成11 (1999)年8月1日
広島市長 秋葉忠利
各国駐日大使への平和メッセージの要請について
1趣旨
現在、核保有国による核軍縮は遅々として進まず、核兵器の廃絶への道筋を見い出すことができないまま21世紀を迎えようとしており、また、ユーゴスラビアのコソボ自治州をめぐる問題も.平和的解決に向けて事態が動きだしたが、依然として根本的な解決には克服すべき課題も多く残されている。
平和な世界の実現を求める願いは、政治、文化、宗教、民族などの違いを超えて人類共通のものであり、ヒロシマとしても、こうした願いを結集し、国境を越えた連帯の輪を広げることにより、来る21世紀を「平和の世紀」にしていくための努力を行っていきたいと考えている。そのための取り組みの一つとして、各国駐日大使特命全権大使等に平和のメッセージを寄せていただくよう依頼したものである。
2依頼先
各国駐日大使館特命全権大使、臨時代理大使 126名
3依頼日
平成11(1999)年6月11日(金)
4メッセージ送付数 43通
(地域別内訳)
●アジア州 14か国
イスラエル国、イラン・イスラム共和国、インド、インドネシア共和国、オマーン国、カンボジア王国、シリア・
アラプ共和国、シンガポール共和国、、タイ王国、トルコ共和国、パキスタン・イスラム共和国、フィリピン共和国、
ブルネイ・ダルサラー厶国、マレイシア
●大洋州 2か国
オーストラリア、フィジー共和国
●アフリカ州 6か国
ウガンダ共和国、エジプト・アラブ共和国、ギニア共和国、ザンビア共和国、ボツワナ共和国、モザンビーク共和国、
●ヨーロッパ州 11か国
アイルランド.イタリア共和国、オランダ王国、クロアチア共和国、スイス連邦、スウz一デン王国.スペイン国、
チェコ共和国、フィンランド共和国、ルーマニア.ユーゴスラビア連邦共和国、
●NIS諸国(エストニア、ラトビア、リトアニアを除く旧ソ連の新独立国) 3か国
ウズベキスタン共和国、カザフスタン共和国、べラルーシ共和国、
●北アメリカ州 3か国
コスタ・リカ共和国、ミーカ共共和国、メキシコ合衆国
●南アメリカ州 5か国
アルゼンチン共和国、エクアドル共和国、コロンビ共和国ア、ブラジル連邦共和国、ペルー共和国
駐日大使の平和メッセージ(1999年)
平和な世界の実現を求める願いは、政治、文化、宗教、民族などの違いを超えた人類共通のものです。こうした願いを結集し、来たる21世紀を「平和の世紀」にしていくための取組みの一つとして、各国駐日大使へ平和メッセージの寄稿を呼びかけました。これに応えて、48か国の駐日大使から寄せられたメッセージを平成11年8月1日から31日まで平和記念資料館で展示しました。
また、8月6日に、メッセージを寄せたユーゴスラビア、コスタ・リカ、ベラルーシ、カンボジアの4か国の大使らを広島に招き、当夜、原爆ドーム前で平和メッセージを読み上げていただきました。これにより市民の平和への関心を高め、広島と各国との平和と友好の連帯の絆を深めることができました。
『平和と交流2000年版(平成11年度事業)』(財団法人広島平和文化センター、20010209)
広島平和(祭)協会略年表
| 1947年 | ||
| 月 | 日 | 事項 |
| 06 | 20 | 広島平和祭協会設立の打ち合せ会を広島商工会議所で開催。役員など決定。 |
| 07 | 03 | 広島平和祭協会、平和祭行事について市内各団体との打ち合せ会を開催(~7日)。 |
| 07 | 07 | 広島市平和祭協会、常任委員会を開催。「平和マーク」を販売して社会事業費に当てることを決定。 |
| 07 | 11? | 広島平和祭協会、行事の大綱を決定。平和メッセージ・平和の鐘・平和の鳩など。 |
| 07 | 16? | 広島市平和祭協会、平和祭予算105万円の募集に奔走。 |
| 07 | 22 | 広島平和祭協会、公募していた平和の歌・慈仙寺鼻と護国神社前の広場の名称の当選者を発表。 |
| 08 | 10? | 広島平和祭協会、被爆体験を後生に伝える資料写真集・パンフレットの作成を計画。 |
| 08 | 15? | 広島平和祭協会、市民のお祭騒ぎ批判の声に対し弁明。 |
| 1948年 | ||
| 06 | 14 | 広島市平和祭協会、48年度第1回総会を開催。協会名を平和協会と改称。 |
| 1948年 | ||
| 月 | 日 | |
| 06 | 28 | 広島平和協会、宗教・茶華道関係団体の委員会を開催。30日までに興業・スポーツ・新聞報道・文化・商店街関係団体の委員会も開催。 |
| 08 | 06 | 広島平和協会・NHK・FK,NHK「世界の音楽」公開演奏会を広島児童文化会館で開催。 |
| 1949年 | ||
| 05 | 03 | 広島平和協会、世界憲法起草人民会議(50年9月ジュネーブで開催予定)代議員派遣署名運動を開始。 |
| 05 | 03 | 広島平和協会・中国新聞社、国際平和協会理事長賀川豊彦を招いて平和確立記念講演会「世界平和の創造」を開催。 |
| 06 | 06 | 広島平和協会、第1回役員会を開催。13名が参加。平和祭行事を決定。 |
| 06 | 27? | 広島平和協会など、8月5日から3日間開催予定の平和都市記念書道展覧会の作品を募集。 |
| 08 | 05 | 広島平和協会、平和音楽祭を児童文化会館で開催。 |
| 08 | 06 | 広島平和協会、第4回平和祭式典を市民広場(児童文化会館前)で開催。約3000人が参加。 |
| 08 | 06 | 広島平和協会、平和音楽祭を児童文化会館で開催。英国の詩人ブランデン(東大講師)が平和祭に寄せた「ヒロシマに寄する歌」を広島放送合唱団が合唱。7日も。 |
| 1950年 | ||
| 02 | 11 | 広島市中央公民館で、原爆と平和展(広島平和協会主催)、開催(3月12日まで)。原爆関係資料展示。3月8日までの入場者数大人4273人、小人1611人。入場者収入32万2290円。 |
| 06 | 02? | 広島平和協会、平和祭行事の計画案を作成。お祭り気分的行事を廃することをとする。予算は約200万円。 |
| 08 | 02 | 広島平和協会、緊急常任委員会を開催。平和祭を中止することを決定。 |
| 08 | 02 | 広島平和協会,平和祭中止を決定. |
| 08 | 06 | 広島市民生局社会教育課編「原爆体験記」(広島平和協会)発刊. |
| 1951年 | ||
| 07 | 25 | 広島平和協会、世界各国の主要都市(200)・国内各市(300)にメッセージを発送。 |
出典:『中国新聞』ほか
平成30年度公益財団法人広島平和文化センター事業計画書
出典:『平和と交流 2018年版(平成29年度事業)』
| 事業名 | 2018年度予算額(万円) |
| 修学旅行生への被爆体験講話等 | 658.1 |
| ヒロシマ・ピース・ボランティア事業 | 342.1 |
| 被爆者証言ビデオの制作 | 202.7 |
| 被爆体験証言者交流の集いの運営 | 3.7 |
| 平和文化センターインターンシップ事業 | 39 |
| ヒロシマ・ピースフォーラムの開催 | 51.3 |
| 国内原爆写真展用資料の普及・活用 | 73.2 |
| 中・高校生ピースクラブの開催 | 201.6 |
| 平和学習講座 | 27.5 |
| 平和記念資料館平和学習ワークブック等の作成 | 314.6 |
| 国内原爆展の開催 | 1014.4 |
| 原爆展・平和学習用資料の普及・活用 | 67.6 |
| 英語で伝えようヒロシマセミナー | 5.3 |
| 旧日本銀行広島支店での平和記念資料館収蔵品の展示 | 203.3 |
| 被爆体験伝承者による伝承講話の定時開催 | 381.3 |
| 平和記念資料館収蔵資料の保存措置の強化 | 1535 |
| 被爆資料の収集等の強化 | 846.5 |
| 平和記念資料館ボランティアスタッフ活動支援事業 | 175.8 |
| 広島平和記念資料館の企画展の実施 | 122.1 |
| 平和記念資料館再整備事業 | 4973.4 |
| 平和・戦争に関する博物館等とのネットワーク | 11.9 |
| 展示・収蔵資料等の調査研究 | 210.8 |
| こども平和キャンプの開催 | 31.1 |
| ひろしま子ども平和の集い | 82.1 |
| こどもたちの平和文化活動支援事業 | 123.4 |
| 機関紙の発行等 | 418.2 |
| 平和宣言の発信 | 169.7 |
| 広島平和記念資料館ホームページ及びデータベースの管理・運用 | 1651.4 |
| 情報資料室の管理運営 | 222.9 |
| 国際平和シンポジウムの開催 | 9 |
| 国連軍縮フェローズの受入れ | 37 |
| 中国人民平和軍縮協会との交流 | 164.6 |
| ウェブ会議システムによる海外への被爆体験証言 | 22.4 |
| ピースナイターの開催 | 30 |
| 国外原爆写真展用資料の提供 | 48.8 |
| ヒロシマ・ナガサキ原爆展の開催 | 1069.2 |
| 「広島・長崎講座」の開設 | 18.4 |
| 国連見学ツアーガイド等のヒロシマ研修 | 369 |
| 平和首長会議の運営 | 865.4 |
| 2 0 2 0ビジョンキャンペーンの展開 | 3877 |
| 平和首長会議運営体制強化 | 866.9 |
| 平和首長会議インターンシップ | 481.1 |
| 青少年「平和と交流」支援事業 | 700.1 |
| NPT再検討会議等への高校生派遣事業 | 406.2 |
| 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の管理運営 | 29264.9 |
| 広島平和記念資料館の管理運営 | 31343.7 |