「22 平和記念都市」カテゴリーアーカイブ

平和の鐘と黙とう(式次第)

平和式典の式次第

(4) 平和の鐘と黙とう

平和の鐘は、式典の中で8時15分に黙とうの合図として鳴らされるのが常であった。式典が中止となった1950年(昭和25年)にもこの鐘だけは鳴らされた。ただ、翌51年には、式次の中に「平和の鐘」が盛り込まれず、黙とうはサイレンを合図に実施された。
平和塔に設置された洋風の鐘は、当時、広島のシンボルとして扱われた。第1回平和祭で初めて鳴らされた後、この鐘は、47年12月の天皇行幸の際の天皇の相生橋通過の時、また48年2月に日本文化平和協会などが「文化国家建設学生大会」を平和塔の下で開催した時、さらに第2回平和祭において鳴らされた。広島逓信局は、第2回平和祭にあたり、平和塔、鐘、鳩の3点を図案化した記念スタンプを作成した。また、この鐘は、49年4月に東京日本橋・三越本店で開催された「広島県観光と物産展示会」の会場でも鳴らされた。
1949年6月、広島銅合金鋳造会(広島県銅合金鋳造工業組合の市内在住者を中心とした20人で結成)は、平和記念都市建設法の国会通過を記念して、「平和の鐘」を広島市に寄贈することを計画した。山本博広島工業専門学校教授の設計による鐘は、直径1.2メートル、高さ1.4メートル、重量760キログラムの洋風の鐘であった。意匠の八つがいの鳩は片田天玲画伯が筆をとり、市章と「ノー・モア・ヒロシマズ」(英文)が織り込まれた。また、49年8月4日、平和式典会場の市民広場に10メートルの鐘楼が完工した。鐘は、49年の式典前日、横川町の鋳造会事務所から花で飾った牛10頭と馬2頭に運ばせ、鐘楼に取り付けられた。
この鐘は、1949年の式典で鳴らされた。しかし、翌年以降は、式典の中止や式典会場の変更などにより、式典での役割を与えられることはなかった。52年から再開した式典での「平和の鐘」には、市内の寺から借用した鐘が使用された(「中国新聞(夕刊)1977年8月12日)。また、67年の式典からは、香取正彦(日本工芸会副理事長)が広島市に寄贈した鐘(高さ77センチ、直径55センチ、重さ100キロ。吉田茂元首相の書「平和」が刻まれている)が用いられるようになり、現在に至っている。
第1回から第3回(1947-49年)までの式典で鐘を鳴らしたのは浜井市長であった。第1回と3回では14回点打されたと報じられている。しかし、52年以降は、だれの手によって鳴らしたかは、報道されなくなった。鐘の点打者が、ふたたび、注目を浴びたのは、57年の式典においてであった。この年、来賓の三笠宮夫妻に奉呈用の花輪を手渡す役と平和の鐘を点打する役に、それぞれ若い被爆女性が起用された。これをマスコミは「原爆乙女が慰霊式に参列」と報じ、以後毎年、鐘の点打を式典の大役として大きく報道するようになった。それによれば、翌58年から60年には2人の「原爆乙女」が、61年と62年には1人の若い被爆女性が「平和の鐘」を鳴らしている。63年からは、この役は、「被爆者」に代わり男女1人ずつの「遺族」が勤めるようになった。69年には初めて既婚の男女が、80年には胎内被爆の男女が、また、81年には被爆二世の男女が、「遺族」として選ばれている。

(5) 演奏と合唱
1947年(昭和22年)の第1回式典では、平和の塔の除幕と平和宣言の間で、FK(NHK広島放送局の略称)放送管弦楽団・同混声合唱団により「ひろしま平和の歌」が合唱され、式典の最後でも、市内男女中等学校生徒100余人により「ひろしま平和の歌」が合唱された。これ以後、演奏と合唱は、平和式典に欠かせないものとなっている。
合唱は、FK混声合唱団(1947年)、広島放送合唱団(49年と52年)、YMCA合唱団(51年)、市内の職場の合唱団(55年と56年)、市内の学校と職場の合唱団(57年と58年)、市内の学校の合唱団(59~61年)などさまざまな団体によってなされた。しかし、62年からは、広島少年合唱隊によって合唱がなされるようになり、68年からはこの合唱隊に、市内の大学、高校、職場、同好会、婦人などの合唱団が加わるようになった。合唱団の規模は、広島少年合唱隊のみの場合は100~200人であったが、その後、500~600人規模へと増加している。なお、91年の合唱団は、表4のような19団体所属の約500人によって構成されていた。
演奏は、当初、FK放送管弦楽団(47年)、NHK管弦楽団(48年)、広島吹奏楽団(49年)、広島フィルハーモニー(51年)、広島交響楽団(53年)、天理スクールバンド(55年)、広島放送管弦楽団(56年)など専門的な楽団によってなされていた。ところが、56年からは、地元のアマチュア楽団が演奏を担当するようになった。同年は、広島市職員組合ブラスバンドが担当し、翌57年からは市内の学校のブラスバンドが担当するようになった。当初のブラスバンドを構成したのは、国泰寺、段原、観音、江波、宇品などの中学校のものであり、68年からは、市立基町高校が加わった。91年の式典では、市立の中、高等学校4校(国泰寺中、宇品中、基町高、舟入高)の吹奏楽部が演奏している。なおこの間、皇太子明仁親王(現天皇)を来賓として迎えた60年の演奏は、広島県警本部のブラスバンドが、また、64年から67年にかけてはエレクトーンの演奏が採用された。
表5は、第1回式典で合唱された「ひろしま平和の歌」(重園贇雄作詩、山本秀作曲)の歌詞である。この歌は、これ以後現在に至るまで歌い継がれている。55年、56年、58年には、この歌とともに「原爆許すまじ」が合唱された。また、64年には、コロンビア専属の新人歌手扇ひろ子(本名=重松博美)が式典の最後に「原爆の子の像の歌」を独唱した。扇は、生後6か月で広島で被爆、建物疎開に動員中の父親を失っていた。「原爆20回忌には、おとうさんの眠る広島で歌いたい」という扇の熱意に、石本美由起と遠藤実が、この歌を無報酬で作詞、作曲、レコード会社もテスト版を作成しただけで市販せず、版権を広島市に寄贈することとした。これを受けた広島市は、平和式典を延長するという異例の措置で、この歌の独唱を取り入れた。
「ひろしま平和の歌」には慰霊の要素は無い。しかし、演奏では、慰霊の曲が採用された。曲目は、「霊祭歌」(55年)、「鎮魂曲」(56年と57年)、ショパン作曲「葬送曲」(58年と59年)、ベートーベン作曲「憂いの曲」(60年)、賛美歌「日暮れて四方は暗く」(61年)、「仏教賛歌」(62年と63年)、シューマン作曲「祈祷曲」(65年)と年々変えられていたが、68年からは、式の開始時に「慰霊の曲」(大築邦雄作曲)が、また、献花時に「礼拝の曲」(清水修作曲)が演奏されるようになった。その後、75年に献花時の演奏曲が川崎優作曲の「祈りの曲第一哀悼歌」に変更され、現在に至っている。

献花(式次第)

平和式典の式次第

(3) 献花
1947年(昭和22年)から49年の平和祭には、式典で花を供える式次は存在しなかった。ところが、51年の式典からは、花を供える行事が取り入れられた。51年には、岩国基地所属のアメリカ軍機から花輪が、52年には、岩国基地と新聞社の飛行機から花輪と花束が式典上空から投下され、戦災供養塔や原爆死没者慰霊碑に供えられた。このような飛行機からの献花は、式次の中の行事ではないが、慰霊という要素が、式典に取り入れられていることを現している。また、1951年の式典では、「キリスト教の献花祈祷」、「浜井平和協会長の献花」が行われた。いずれも式典の前半に行われた慰霊祭の中の行事で、前者は、「教派神道の修祓」、「仏教の敬白文奏上・読経回向」などと、また、後者は、「藤田供養会会長の焼香」、「遺族代表の玉串拝礼」などと並んで行われており、「献花」として特別に設定された式次ではなかった。特別の式次として式典に初めて登場するのは、53年のことである。当初、名称は「花輪奉呈」であったが、68年に「献花」と改称された。
1953年の式典では、原爆死没者名簿の奉納に続いて、「花輪」が、市長、市議会議長、県知事、県議会議長によって原爆死没者慰霊碑に奉呈された。翌54年の「花輪奉呈」には、前年の4人に新たに内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長と遺族代表が加わった。「遺族代表」の参加は、浜井市長の発意で、毎年各施設に収容されている原爆孤児のなかから男女各1人の代表を選ぶことになった。54年には、新生学園(中学2年の男子)と広島戦災児育成所(中学2年の女子)が選ばれた。その後、55年は広島修道院、似島学園、56年は新生学園、光の園、57年は広島戦災児育成所、似島学園、58年戦災児育成所、新生学園、59年戦災児育成所、広島修道院、60年は広島戦災児育成所、童心園から「遺族代表」が選ばれている。しかし、61年からは、「遺族代表」の選出は、孤児収容施設からではなくなり、63年からは、「平和の鐘」を打つ役目の遺族代表が、「献花」の役目も受け持っている。
1961年には、「被爆者代表」が献花に加わった。この年の代表は、大内義直広島市原爆被爆者協議会副会長が務め、以後76年まで、慣例として同協議会の代表が「被爆者代表」に選ばれた。77年以降、「被爆者代表」は2人に増やされ、86年からは、男女2人ずつの4人となって現在に至っている。例外的に85年の「被爆者代表」は6人であったが、このうち4人は日本人であり、残りの2人は、在外被爆者の倉本寛司(米国原爆被爆者協会会長)と郭貴勲(韓国原爆被害者協会)である。さらに、73年からは献花に長崎市民代表が、また、81年からは全国都道府県から式典に招待された遺族の中から2人の代表が献花に加わるようになった。
このほか、1955年、59年、61-63年には、原水爆禁止世界大会に海外から出席した代表が、献花に加わっている。また、皇族(57、58、60年)、国連総会議長(77年)などの参列があった年には、こうした来賓による献花が行なわれた。
「献花」の順序は、当初、「市長、市議会議長」(市)→「内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長」(国)→「県知事、県議会議長」(県)→「被爆者代表」→「遺族代表」となっていたが、1968年からは、市→「遺族代表」→「被爆者代表」→国→県の順に変更され、現在に至っている。こうした改善は、70年から始まる「流れ献花」とともに、式典の市民的色彩を強めようとした措置であった。

 

原爆死没者名簿の奉納(式次第)

平和式典の式次第

(2) 原爆死没者名簿の奉納
広島市調査課は、1951年(昭和26年)5月、原爆死没者調査を実施した。再三のGHQへの陳情の結果実現したもので、7回忌(51年8月6日)を期して慰霊堂に合祀するための全死没者名簿作成を目的とするものであった。調査は、「広島に投下された原子爆弾により直接に、又は原爆の影響を直接の原因として死没された方全部」を対象としており、調査の内容としては、「1.死没者の氏名、2.性別、3.死没時の年齢、4.死没者の当時の住所、5.死没者の当時の職業(勤務先)、6.死没年月日、7.直接の原因、8.死没の場所、9.被爆時にいた場所」の9項目があげられていた。その方法は、関連者からの申告によるものとし、「広島市内及び広島県下については特別に徹底を期して、調査票も市内は全世帯に配布、県下も多量配布し、個人票以外に事業体、学校、団体、病院、寺院等には連記制調査票も配布」した。また、県外については、「各県の地方課から各市町村役場の関係課係を通じて連絡員(部落の世話人)、前国勢調査員、学校の生徒達の御協力により、或は告知板の利用等により申告者に調査票を入手させ、記入して貰う」こととした(広島市役所「広島市原爆による死没者調査についての趣意 書」)。慰霊堂の建設は、51年の式典には間に合わなかった。しかし、式典前日までに確認された氏名は、いろは別にカーボン紙に記載され、式典会場の戦災供養塔に供えられた(広島市『市勢要覧昭和26年版』、「中国新聞」54年8月6日)。
1952年7月上旬、広島市は、市内の能筆家20人に委嘱して過去帳への記載を始めた。5万7,902人の原爆犠牲者の名前を謹記した15冊の「広島市原爆死没者名簿」は、8月6日の式典で、浜井広島市長の手によって原爆死没者慰霊碑の中に設けられた奉納箱に納められた。広島市調査課は、この名簿の写しを、式典当日、原爆死没者慰霊碑と戦災供養塔前で公開し、記帳洩れの届出の受け付けを行なった。53年の式典では、この日以降新たに確認された391人の追加者の名簿が奉納され、以後、追加名簿の奉納が式典の慣例となった。
広島市は、1951年の調査に先だって、死没者の総数を20数万人と想定していた(「中国新聞」51年4月14日)。この根拠は、被爆当時の広島市内の人口を42万人(市内在住者約25万人、軍関係者約8万人、市外からの来広者約9万人)と推定、それから、50年に国勢調査付帯調査で明らかになった生存者数15万7,575人を差し引くという大雑把なものであった。ところが、51年の調査の結果は、6万人にも達せず、広島市調査課長は、53年7月に、死没者数は十数万が妥当との見解を発表した(「中国新聞」53年7月22日)。
原爆死没者名簿作成当時、この中への記帳者は、原爆被爆時またはその直後に死亡したもののみが対象との理解があった。翌1954年の式典での追加記入は212人に過ぎず、こうした結果を踏まえて、今後の追加者を加えても、名簿記帳者数は、6万人程度にとどまるのではないかとの見解が報じられている(「中国新聞」54年8月6日)。しかし、その後、被爆後数年経過した時点での死没者も記帳対象と考えられるようになった。57年には22人、58年には34人、59年には38人(原爆病院で死亡した人)が、過去1年間の死没者として名簿に追加されている。
表3は、現在までの追加数と名簿奉納総数を年別にみたものである。名簿への記帳は、遺族からだけでなく、関係団体からの申し出によってもなされた。1955年と56年には、県婦協の調査により確認された死亡者が追加され、記帳者数が増加した。69年の9,211人という増加は、市長が、被爆者健康手帳所持者で届出の無い死亡者6,844人を職権で記載したためである。また、この年には、原爆供養塔の無縁仏のうち氏名判明分1,071柱の名前が、広島戦災供養会の申し出により記入された。追加奉納された犠牲者のうち、過去1年間の死亡者の人数は、67年までは、100人未満、68年は121人であった。しかし、広島市が、市内の死亡者の中から被爆者を調査して追加奉納を行なうようになった69年以降は、1、000人を超えるようになった。
広島市は、市外の死亡者については、自動的に名簿に記載するという措置を取ることができないでいた。原爆医療法(1957年3月31日公布、正式名称:原子爆弾被爆者の医療等に関する法律)、原爆特別措置法(68年5月20日公布、正式名称:原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律)にもとづく行政事務は、広島・長崎両市を除き都道府県が担当しているからである。77年の場合、7月13日現在で名簿追加記帳予定者数は、1,664人(最終的には2,282人)であったが、そのうち、広島市の措置による数は、1,489人であり、遺族と名簿記入運動を進めている広島県原爆被害者団体協議会の届出分は、175人に過ぎない。この年、広島市を除く広島県内の被爆者健康手帳1,141人分が、所持者の死亡により県に返還されていた。しかし、広島県が、記帳の申し出は遺族の自主判断に任せるという方針を採っていたため、県から市へ記帳対象者として連絡されることはなかった(「読売新聞」1977年7月22日)。このような死亡時の居住地による名簿記帳手続き上の差異を無くするため、広島市は、80年、全国の原爆被爆者対策担当窓口に死没者名簿登載申請書を送った。また翌81年には、長崎市と連名で、知事 、政令市市長などを通じて、全国の遺族に犠牲者の名簿記載を呼びかけ、さらに82年には各地の被爆者団体にも働きかけを行なった。
年々の追加奉納数は、表3のように1972年と83年を画期として、それぞれ2,000人、4,000人を超えるようになっており、85年と90年には顕著な増加を示した。85年の急増は、前年、被爆者関係のデ-タ処理をそれまでの片仮名処理から漢字処理に変更した広島県が、被爆者健康手帳が交付されるようになった57年以降の死亡による手帳返還者2万865人の名前を広島市に提供したことによる。また、90年の急増は、85年に厚生省が実施した死没者調査で新たに判明した5,551人の犠牲者名が加えられたためである。
原爆死没者名簿の奉納は、一貫して市長の役割であった(ただし、1960年のみ県知事と共同で行なった)。その補助者を、69年までは市の職員が務めていたが、翌年からは遺族代表が務めるようになった。70年の補助者に選ばれたのは、この年に新たに名簿に追加された2人の死没者の遺族であった。その後、補助者は、2人(男女)が通例となった。ただ、追加者数の多かった85年と90年には3人が務めている。
原爆死没者名簿(仏式で「過去帳」とも呼ばれる)には、俗名・死没年月日・享年が記入されている。奉納された簿冊の数は、1952年の15冊から始まり、91年には、57冊となった。

 

灯ろう流し(平和式典の関連行事)

平和式典の関連行事

(3) 灯ろう流し
1947年(昭和22年)7月14日、広島市内の日蓮門下寺院8か寺の僧侶13人と広島立正婦人協会員1、000人が中島本町慈仙寺鼻の供養塔で臨川大施我鬼法要を執行した。供養塔での読経終了後、3隻の発動機船に分乗し、本川の三篠橋から播磨橋の間を往復、原爆犠牲者の戒名、俗名などをしたためた経木を川に流して、水供養を行なった。こうした特定の宗派による爆心地付近の川での慰霊行事は、これ以外にも、同年8月5日(広島県宗教連盟)、翌48年7月31日(日蓮宗)、51年7月11日(日蓮宗)、54年8月6日(本願寺広島別院)の行事が、新聞で紹介されている。
1948年の平和祭行事の一つに東部商店連盟が猿猴川で開催した「川祭」(8月6-7日)があった。その模様は、つぎのように報じられている。

広島市的場大通商店街では、戦災死者および幾多の死没者の霊を弔うため6日、的場町太陽館前広場に「法界万霊戦死者供養塔」を建て、午前11時と午後9時法要を厳修、また午後7時からは猿猴川で川施餓鬼を催し華やかな灯篭流しに平和祭の偉観をそえる。   (「中国新聞」48年8月3日)
翌49年にも同所で同様の行事が行なわれ、50年(または51年)からは、中国商店街連合会が、元安川で灯ろう流しを始めた(「中国新聞」1956年8月5日)。また、49年には、江波青年会が、8月6日に河川で死没した原爆犠牲者の「霊を慰めますと同時に其冥福を祈り且つ平和への犠牲に対する感謝の祈りを捧」げるため川供養を計画している(江波青年会革新同盟の広島平和協会長あて「助成金申請」49年7月16日)。これが実行されたかどうかは、不明であるが、52年の平和記念日の夜に、本川青年団が、相生橋下で灯ろう400個を流したことは、新聞で報道されている。

宗教団体、商店街、青年団などにより始められた灯ろう流しは、1952年からは、「ひろしま川祭委員会」により、大規模に実施されるようになった。この委員会は、広島市、市教委、市観光協会、広島商工会議所、FK、国際文化協会、中国新聞社が、「原爆犠牲者の霊を慰めるとともに大衆への慰安をも併せ行い、春の広島まつりとともに広島の2大年中行事」にしようとの意図で結成したもので(「中国新聞」52年7月23日)、第1回の「ひろしま川祭」は、52年8月9日と10日の両日開催された。9日の行事は花火大会と灯ろう流しで、午後7時半から10時半まで、供養塔前と本川橋側水上で、大小500発の打ち上げ花火と仕掛花火20数掛が使用され、また、相生橋河畔で、満潮時に2、000個の灯ろうが流された。10日の行事は市民水上音楽会であり、午後7時から10時半過ぎまで、原爆ドーム前の元安川に浮かべられた船を舞台に開催された。出演したのは、広島邦楽研究会、銀声会合唱団、広島放送管弦楽団、広島フィルハーモニー、花柳寿鶴社中であった。
1953年の第2回の川祭では、6日から8日の夜の満潮時に、元安川と本川で2、000個の灯ろうが流され、8日に、水上音楽会と花火大会が開催された。54年の第3回川祭では、8月6日と7日の両日、平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑前で花火大会が開催され、6日から8日にかけて七つの川で灯ろう流しがおこなわれた。その実施状況はつぎのようなものであった。

中部地区=6-8日、大仏殿前元安川河畔、2、000灯
横川地区=7-8日、横川橋下、700灯
己斐地区=6-7日、己斐橋、1、000灯
十日市地区=6日、本川小学校横河畔、300灯
鷹野橋地区=6日、明治橋下、700灯
駅前地区=6-7日、駅前橋下北側、800灯
段原地区=7日、大正橋下、300灯

この年には、8月6日午後8時から、世界平和広島仏舎利塔建設会、広島大仏奉賛会や本願寺広島別院による灯ろう流しも実施され、平和記念日の夜の広島の川は、多数の灯ろうで彩られた。
1955年の第4回からの川祭の行事は、8月6日夜の灯ろう流しと7日夜の平和公園内での慰霊花火大会となった。6日夜の灯ろう流しは、その後も続けられ、現在に至っている。91年には、広島祭委員会、中国新聞社、広島市商店街連合会の共催により、つぎの5か所で、計9,200個の灯ろうが流された。

駅前地区(駅前大橋北詰の西)  400個
中央地区(原爆ドームの南側) 7,000個
鷹の橋地区(明治橋東詰の南側) 700個
福島地区(新己斐橋東詰の南側) 600個
己斐地区(新己斐橋西詰の南側) 500個

広島祭委員会は、1959年から灯ろう流しと花火大会のほかに、市民盆おどり大会を市民球場で開催するようになった。また、65年からは、盆踊大会と花火大会が、灯ろう流しとは切り離され、太田川夏祭として開催されている。

 

原爆罹災者名簿等の公開(平和式典の関連行事)

平和式典の関連行事
(2) 原爆罹災者名簿等の公開
原爆死没者慰霊碑に奉納された原爆死没者名簿は、当初、公開されていた。また、原爆供養塔開眼を目前に控えた1955年8月1日、原爆供養塔の氏名判明遺骨2,432人の氏名が市の社会課によって公表された。これらの名簿の公表は、それぞれ関係者の大きな関心をあつめた。
被爆から20年ほど経過した広島では、原爆被災の実態を改めて見直す動きが、さまざまな形で生まれた。主な動きだけでも、1964年10月の談和会による原水爆被災白書作成の提唱、12月の広島市内11団体による広島市への原爆ドーム永久保存の要請、同月の厚生省による原爆被爆者実態調査費の65年度予算への要求、66年8月放送のNHKテレビ番組「カメラリポート・爆心半径500メートル」放映を契機に始まった原爆爆心地復元運動、同月から始まった広島原爆戦災誌の執筆、68年2月の原爆被災資料広島研究会の結成などがあげられる。こうした被災実態への関心の高まりを背景として、68年には、被爆直後に作成された原爆罹災者名簿がつぎつぎに発掘された。広島市は、これらの名簿14点、1万5,922人分を、68年7月20日から8月5日まで、広島平和記念館で公開した。名簿公開は、翌年以降も続けられ、公開される名簿は、年々増加し、90年には、83点(2万3,039人分)となっている。
被爆30年の1975年、広島市は、原爆供養塔に納骨されている犠牲者の遺骨の名簿を全国に送付することとし、7月28日から全国3,379の市町村あてに発送を始めた。この名簿は、55年に初めて公表され、68年に始まった名簿公開の会場で閲覧に供されていたが、広島市が積極的に全国に働きかけたのは初めてのことであった。その背景には、戦後30年経過し、遺家族や関係者が全国に散在しているとの判断があった。名前や収集場所の分かっている遺骨は2,432柱であったが、このうち、91年までの名簿公開で1,487人の遺骨の身元が判明した。
1985年、広島市が、市内の区役所、出張所、公民館に、一枚の紙に印刷した名簿を掲示したところ、12月下旬までに16家族が遺骨を引き取り、26家族が名乗り出るなどの成果があった。このため、広島市は、名簿の全国公開を、被爆40年の85年にふたたび実施することとした。85年7月3日、全国約890の自治体に「原爆供養塔納骨名簿」(1,080人分)を発送し、同月15日から10月31日まで全国一斉に掲示してもらうよう依頼した。全国公開は、この年以後、毎年実施されるようになった。91年には、948人分の名簿が発送された。

原爆供養塔合同慰霊祭(平和式典の関連行事)

平和式典の関連行事
(1)原爆供養塔合同慰霊祭
1947年(昭和22年)8月6日、前年に引き続いて慈仙寺鼻の戦災供養礼拝堂で広島宗教連盟主催のもとに慰霊祭が執行された。慰霊祭は、午前7時に仏式から始まり、キリスト教、教派神道、神社庁式の順に正午まで続いた。49年のこの行事の式次は広島市戦災死没者供養会が発行した「広島市戦災死没者慰霊祭執行について」と題する案内状により詳細に知ることができる。これによれば、8月6日午前6時半から7時半の1時間、宗教連盟主催の行事を行ない、平和式典開催時間(8時15分-9時15分)の中断後、9時半に再開、新教(プロテスタント)、天理教、浄土宗、旧教(カトリック)、日蓮宗、真宗本派、真宗大派、真言宗、曹洞・臨済宗の各派の順にそれぞれ1時間ずつ法要を執行し、午後6時半に終了することになっている。この行事は、平和祭の中断した50年にも執行されており、平和記念日の諸行事の中で、翌年から現在まで開催され続けている唯一のものである。
原爆被爆直後、広島から重傷者約2、000人が宇品港から海上約6キロメートル沖の似島の陸軍検疫所に送られた。7日朝までの死亡者約400人は、火葬に付されたが、相ついで死亡した約1、500人の死体は、火葬が間に合わず、同島南岸の横穴と露天の防空壕に土葬されていた(「中国新聞」47年10月14日)。1947年9月25日、広島市議会は、「広島市戦災死歿者似島供養塔」(千人塚)の建設費30万円を可決し、似島に眠る無縁仏を弔うこととした。発掘作業は、9月下旬から開始され(この時行われた放射能調査では、掘り出された骨から放射能が検出された)、11月13日、供養塔の除幕式および追悼法要が、日本宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会の共催で死没者遺家族約300人の参列のもとに開催された。翌48年の平和記念日からは、宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会が、中島の供養礼拝堂と似島供養塔の両所で慰霊祭を行なうようになり、54年まで続けられた。
1950年3月、それまで宗教連盟とともに慰霊祭を行ない、戦災供養塔を管理していた広島市戦災死没者供養会が、政教分離を求めるポツダム政令にもとづいて広島市の管理からはずされることになった(「中国新聞」55年2月15日)。そこで、同年5月、これに代わる民間団体として広島戦災供養会が結成された。同会は、分散している無縁仏を一か所に納骨するための堂の建設や戦災死没者名簿作製、祭祀法要の執行などを計画し、50年11月8日につぎのような請願書を広島市長に提出した。
現在市内数ケ所にある戦災者の遺骨は約30万柱あるが、これを一ケ所に集め明年の8月6日には、この新納骨塔で戦災供養を行ない霊を慰めたい。場所は、広島城、大本営跡の西側で、建設に要する費用約500万円を県および市で負担し、この納骨堂の傍らへ平和会館(仮称)を建設し、平和に関する研究所、図書館、会議場などを設けてもらいたい。
(「中国新聞」50年11月9日)
この請願書を付託された市議会の建設委員会は、同地が文化財保護法の適用を受けているので、使用を認めず、現在地への再建を認めた。しかし、市当局は、中島公園を平和記念公園として建設する計画から、墓地と同性格の納骨堂の公園内建設に難色を示し、この問題は停滞状態を続けることとなった(「中国新聞」53年11月25日)。
原爆犠牲者の遺骨については、講和条約発効前後から、大きな社会問題となっていた。新聞には、つぎのような動きが取り上げられている。
51年2月20日、山口県熊毛郡伊保庄村専唱寺で保管されていた元陸軍病院跡で発掘された1、288柱の遺骨が広島県世話課と復員連絡局広島支部に引き取られる。53年3月24日、中島供養塔[戦災供養塔のこと]で合同慰霊祭を執行。終了後、原爆死没者分1,232柱は、中島供養塔に、外地戦没者分56柱は、比治山納骨堂に納骨。
52年7月4日、金輪島で原爆犠牲者の遺骨29柱が見つかる。7月10日、坂村に160体以上の遺骨が眠るとの情報。29日、千田町で42体、31日、二葉山麓で52体発掘。これらの内、引取り手の無い遺骨506柱が、中島の供養塔に合祀されることになり、8月5日、納骨法要を供養会主催で執行。
53年2月、市内己斐西本町の善法寺に数百の無縁仏のあることが判明。
53年8月6日、安芸郡府中町、龍仙寺の遺骨143柱を広島市に移管。
54年4月19日、県病院職員の遺骨66柱を中島供養塔へ移す。
こうした動向は、納骨場所としての原爆供養塔建設問題に新たな進展をもたらした。1954年、広島市は、建設から8年を経過し、くち果てた姿になっている戦災供養塔の再建を検討するため、広島市供養塔建設対策委員会(委員長:坂田修一助役)を設置した。5月29日に初会合が開かれ、以後協議を重ねたが、50年当時と同様の問題から、なかなか結論に達しなかった。55年2月14日に開催された第5回委員会で、原爆供養塔の敷地は、市民感情と既成事実を尊重して、現在地を可とするとの市長への答申を決定した。一方、広島戦災供養会も、6月3日の理事会で原爆供養塔再建問題を協議し、荘厳なものを条件に市に一任し、再建資金45万円を市に寄付することを決定した。これを受けた市は、予算150万円で8月6日までに再建することとした。
原爆供養塔(設計は市立浅野図書館設計者の石本喜久治が担当)は、6月15日の地鎮祭を経て、7月20日に完成した。8月4日に、似島(約2,000柱)、己斐(約500柱)などの遺骨が移管、収納され、5日に完工式と開眼法要が挙行された。また、広島戦災供養会も、原爆供養塔の建立に合わせて供養塔北側に新塔婆を建立し、8月5日、開眼法要を執行した。塔婆に使用された木は、宮崎県の有志から寄贈された160年の古杉で、周囲3尺、高さ33尺、重量4トンという大きなものであった。
広島市社会課は、1957年にかけて、市内および市周辺の遺骨の掘り起こしと移管を行ない、遺骨の収納をほぼ終了し終えた(「中国新聞(夕刊)」61年8月13日)。しかし、遺骨は、その後も、市内の工事現場から発見されたり、被爆直後犠牲者の収容作業に当たった人々の証言などにより新たに発掘された。特に71年に広島市が実施した似島での発掘作業では、220体分という大量の遺骨が発掘された。こうした遺骨は、その都度、原爆供養塔に収納されている。現在、氏名の判明している948人の遺骨と、約7万人の無縁仏の遺骨が納められている。

黙とうのひろがり(平和式典への関心)

平和式典への関心

(2)黙とうのひろがり

「8月6日を祈りの日に」との声は、1963年(昭和38年)の第9回原水爆禁止世界大会の混乱を契機に、大きな動きに発展した。広島県議会は、64年3月23日、「原爆記念日を静かな祈りの日にしよう」との意見書を採択した。この意見書は、自民党議員会所属の議員が提出したものである。社会党など所属の6人の議員は、意見書に「昨年の8月6日は広島県、市民の感情をよそに慰霊碑前広場が赤旗に埋まった・・・・」などの表現があることや議事手続きに誤りがあるとして、議決に加わらなかったが、自民党議員会、県政刷新クラブ(民社系)、公明会の3派で可決した。また、3月31日には、広島県原爆被爆者援護対策協議会(略称=県原援協)が主催した原爆被爆者援護対策懇談会でも、県内各市町村から参集した被爆者代表約200人が、平和式典は「被爆市民の哀情にそって敬けん厳粛に執行すること」などを要望した決議を行ない、国や関係団体に送付した。県原援協は、6月13日にも、県内の原水禁運動、被爆者、婦人団体の代表に参集を求め、8月6日の行事について協議を行なった。その結果、この年は、各団体とも静かな慰霊行事を中心とした大会を計画し、平和公園広場は使用しないという方針と原 爆投下時刻に1分間の黙とうをささげる県民運動を呼びかけることを申し合わせた。

この年、広島県は、8月6日の8時15分(7月24日、知事名)と8月15日の正午(8月10日、民生労働部長名)に、それぞれ1分間の黙とうを行なうよう県民に呼びかけた。7月24日の知事の呼びかけは、県原援協などの要望を受け入れてなされたものと思われる。一方、8月10日の民生労働部長の呼びかけは、政府の要請(1964年4月24日の閣議で、8月15日に第2回全国戦没者追悼式を靖国神社境内で開催することとし、8月15日正午の黙とうを国民に呼びかけることを決定)によるものであった。同年6月14日、日本原水爆被害者団体協議会の全国理事会も、広島・長崎への原爆投下日に日の丸の半旗を掲げ、被爆時刻に1分間の黙とうをする国民運動を起こすことを決定した。この決定は、「対立した原水禁運動を超越する国民運動のおんどを日本被団協がとる方法として8月6日から同18日までを国民総反省旬間とし、旬間中は日の丸の半旗を掲げる運動を起こそう」との関東甲信越代表理事の提案が具体化したものであった。提案には8月15日の黙とうも含まれていたが、疑義が出され、原爆投下日の黙とうのみが決まった。

広島県知事は、1964年から毎年、県民に原爆投下時刻の黙とうを呼びかけるようになった。また、広島市は、73年7月20日に、8月9日の原爆投下時刻に1分間の黙とうを市民に呼びかけることを決定した。長崎市が前年8月6日に実施し、広島に呼びかけていたもので、この年から広島・長崎両市の「黙とうの連帯」が始まった。また、73年には、埼玉県庁が、被爆地以外の県庁としては初めて、広島・長崎の原爆被爆時刻に黙とうを実施した。

一部の原水禁団体や労働組合は、早い時期に「黙とう」を取り上げていた。高知県原水協は、1957年に8月6日の原爆投下時刻に県民が一斉に黙とうをささげるよう、県内の諸団体に呼びかけた。また、59年には、国鉄労組と機関車労組が、広島の平和記念日の正午に一斉に列車と電車の汽笛を鳴らして黙とうをささげるよう各支部に指令し、炭労は、同日の一番方の入坑前に、また、全国税は、当日午前9時に、それぞれ1分間の黙とうを実施している。こうした呼びかけは、原水禁運動の分裂を契機に途絶えていたが、70年代後半に、ふたたび復活した。78年7月26日、県労会議と県労被爆連(正式名称:広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会)は、広島県知事と市長に、8月6日午前8時15分から1分間、①県内すべての職場、家庭に呼びかけ、平和祈念の黙とうをささげる、②道路上のすべての車もストップさせる、③全市町村は一斉にサイレンなどの合図で、住民に平和祈念を呼びかける、④この運動は少なくとも隣接県にも呼びかけ協力を求めることを申し入れた。この年には市内の市関係施設87か所のサイレンと寺院・教会130か所の鐘が鳴らされ、市民に黙とうが呼びかけられた。また、55年に始ま った広島電鉄と広島バスの車両の黙とうへの参加は、64年以降中断していたが、この年復活した。電車70台とバス約300台が、黙とうに参加した。

広島県知事と市長は、1979年には黙とうの呼びかけを県内のみでなく中国地方5県と愛媛と香川をあわせた7県にひろげた。さらに、翌80年には47都道府県知事と9政令指定都市長あてに「原爆死没者の慰霊並びに平和祈念の黙とうについて」と題する文書を発送し、黙とうを呼びかけた。こうした呼びかけに対して、いくつかの県が応じた。79年には、鳥取県が行政無線を通じて各市町村に伝達している。また、共同通信社の調査によれば、80年には17県と1政令市(川崎市)、翌81年には25道府県と2政令市が呼びかけに応じた(「中国新聞(夕刊)」81年8月1日)。

1982年6月8日の全国市長会理事・評議員合同会議は、広島・長崎両市長の要請に応えて、両市の原爆被爆時刻に1分間の黙とうをすることを決定した。また、広島市は、翌83年から毎年、全国の都道府県市長会および広島県町村会に黙とうを呼びかけるようになった。これにより、82年の黙とう実施自治体は、487自治体(呼びかけた772自治体の63%)に急増、83年には703自治体(呼びかけた865自治体の81%)にまでなった。以後、自治体の黙とうへの取組み実施率は、80%台で定着し、現在に至っている。

黙とうへの取組みは、さまざまな形でなされている。京都府八幡市は、1983年8月6日、広島市の要請に応えて、広島市から取り寄せた「平和の鐘」の録音テープ(平和式典で録音されたもの)を市役所屋上のスピーカーから流した。京都府原爆被災者の会は、85年の平和記念日に先立ち、府内3,096の寺院、110の教会に対し、8月6日と9日の両日、「平和の鐘」を鳴らすよう要請した文書を郵送した。また、86年7月10日、奈良市も、同市議会が85年12月に非核平和都市宣言を行なったことを受けて、広島・長崎両市の原爆被爆時刻に鐘を鳴らし1分間の黙とうを行なうよう、市内と県内の非核平和都市宣言を行なっている7市の寺院、教会および各官庁、民間企業、家庭に呼びかけている。90年には、全国で751自治体が黙とうを周知させる取組みを行なったが、周知方法で最も多いのは、「広報紙で周知」(52%)であり、「サイレン」(32%)、「有線・無線放送」(29%)と続いている。

 

市民の関心(平和式典への関心)

平和式典への関心

(1)市民の関心

広島市は、1950年(昭和20年)2月、平和祭についての原爆体験者の世論調査(市調査課「広島原爆体験者についての産業奨励館保存の是非と平和祭への批判と希望に関する世論調査」49年10月実施)の結果を公表した。「いままでの平和祭についてどう思うか」との問いにたいして、「今の通りでよい」と答えた者は23%にすぎず、67%の者は「今の通りではいけない」と答え、その理由として、「お祭りさわぎすぎる」(64%)、「関係者だけで形式的だ」(14%)「ムダな費用で意義ない」(14%)などをあげた。また、「これからの平和祭に対する希望」としては、61%が「地味にやる」と答え、「お祭りのようにやる」との答えは25.5%にすぎなかった(「中国新聞」50年2月11日)。この結果は、広島市民が、平和祭に必ずしも満足していなかったことを示している。
1954年以降、原水爆禁止運動が全国的に展開されるようになり、平和記念日前後に広島で大会を開催するようになった。大会参加者の多くが、平和式典に参列したことにより、式典は全県的あるいは全国的性格を帯びるようになった。一方、8月6日の平和祭や大会に困惑し、この日を静かに過ごしたいという気持ちは、市民の間に根強く存在していた。広島市は、50年3月2日、広島市議会の「8月6日を平和の日として国民の祝祭日に加えられるよう要望の件」という決議(49年2月1日)の趣旨を具体化するため国会に提出する草案を完成した。しかし、この草案にたいして、8月6日は祝日ではなく、「全市民の哀悼の日」、「なくなった人々をしのび、平和を祈念する日」とすべきであるとの投書が新聞に寄せられた(「中国新聞」50年3月16日、6月14日)。こうした市民の声は、原水爆禁止運動が高揚する56年には、組織的な動きに発展した。同年4月19日、宇野正一、相原はる、島本正次郎ら5人は、つぎのように呼びかけた。
・・・さて、「原爆の日」のあり方について例年8月6日には、平和祭が行われ原水爆禁止、世界平和運動等いろいろな集会が催されて居りますが、一方では競輪、モーターボートも開催され、一部の市民は祭日気分になり、一部の市民は犠牲者の供養をし、一部の市民労働組合はメーデーの二番煎じの様な行事をやる等の状態であって、何か原爆被災の地広島市民の原爆投下の悲しき日の送り方としてそぐわぬものを感じますので吾々発起人有志を以って種々協議の結果、8月6日を「犠牲者に対する追悼自粛の日」と  して市民各戸に半旗(弔旗)を掲げて27万人の犠牲者に対し哀悼の意を表する市民運動を致し度いと思います・・・
(宇野正一など「(協議会への)案内状」56年4月19日)
1956年6月13日には、宇品地区原爆被害者の会(会長相原はる)が同様の主旨の請願書を広島市議会に提出した。第5回原水爆禁止世界大会の開催された59年には、この動きは、大きな広がりを見せた。広島県宗教連盟は、7月の理事会で世界大会に連盟として参加しないことを決めるとともに、8月6日を「この日の追憶を新たにして亡き人々へ心から敬弔の意を表明するとともに、平和開顕の念願をさらに強調するため」「全市各戸ごとに弔旗を掲げる運動」を提唱した(広島県宗教連盟、広島市仏教会、広島県神社庁など「趣意書」)。
平和式典の性格は、1952年以降、「慰霊」と「平和」の両面を持っていた。8月6日を祈りの日にとの声は、「慰霊」の側面の強化を求めたものと理解できる。これとは逆に、60年安保改定反対闘争の高揚を反映し、60年の式典に対しては、「平和」の立場からの批判が表面化した。60年7月29日、全日自労広島分会の代表は、浜井広島市長に、この年の県・市共同主催の式典が、来賓中心である、一部勢力の一方的な政治行事化するおそれがある、8月6日が単なる“祈りの日”に後退するのではないか、などの危惧を申し入れた。また、7月31日の広島県原水協の全県協議会でも「知名士を招いて、単に“祈り”の行事に後退したもので原水爆禁止の目標や行動が不明確だ」との批判が出されている。
平和式典に対する市民の関心は、占領期と1960年前後を除き、表面化することはなかった。1967年以降、広島市市長室公聴課に寄せられた意見の統計によれば、67年以降5年間に「原爆」、「平和」、「慰霊碑文」については、それぞれ233件、201件、74件となっているが、平和式典に関するものは9件にすぎない(広島市市長室公聴課「市民の声」)。
1960年代後半から、マスコミが原爆に関する市民の世論調査を行なうようになった。中国新聞の調査(68年)は、被爆者、非被爆者500人ずつの計1,000人を対象として実施されたが、67年の平和式典への出席状況に対する回答は、「参加した」は32%(被爆者)、20%(非被爆者)であり、「公園には出かけたが式には出ない」は、10%(被爆者)、12%(非被爆者)であった。RCC(70年実施、対象者520人)、NHK(72年実施、対象者1,000人)の調査では、8月6日の過ごし方が質問されたが、「記念式典に出席する」(RCC)、「平和記念式典や慰霊祭に参加した」(NHK)との回答は、それぞれ11.5%、11.6%であった。また、NHKが、1975年からも5年ごとに同様の世論調査を実施しているが、その結果は、表9のとおりであった。
中国新聞の調査では、式典への参加者が多いが、NHKとRCCの調査では、式典に参加する市民の割合は、ほぼ1割にとどまっている。また、NHKの継続調査の結果は、年の経過とともに、「『原爆の日』と関係なく過ごした」の割合が増加するのと逆に、「式典などへの参加」は、確実に減少している様子を示している。
NHKによる継続調査の結果によれば、市民の半数以上が8月6日に「祈り」という行動を行なっているが、このことは、市民の多くが、式典に参加はしないものの、この日に対して無関心ではないことを示している。このような市民の消極的関心は、平和式典の存廃についての態度にも現れている。1968年の中国新聞、75年と80年のNHKの世論調査の結果によれば、「やめたほうがよい」との回答は数%にすぎず、87%から96%の市民は、「平和式典を続けるべきだ」あるいは「形を変えて続けるべきだ」と回答している。式典を「形を変えて続けるべきだ」との回答は、1968年の中国新聞の調査では、被爆者で11%、非被爆者で16%であり、75年のNHKの調査では25%、80年のNHKの調査では20%であった。
式典の改善策については、広島市の平和文化推進審議会(1967年12月発足)の中で、様々な意見が述べられている。ここでは、式典の形式主義、形骸化、マンネリ化が批判され、「被爆者を全面に出すべき」、「被爆体験継承の場に」、「平和宣言に具体的な内容を盛り込め」などの具体的な改善策が出された。広島市は、こうした批判を踏まえ、式典にさまざまな工夫を加えてきた。しかし、世論調査の結果が示しているように、式典への参加者の減少傾向と原爆の日への無関心層の増大傾向を止めることはできていない。

参列者数(平和式典の参列者)

平和式典の参列者
(1) 参列者数
中国新聞は、1949年(昭和24年)8月6日に広島市外から市内に入り込んだ人の数を、広島駅の4万人、横川駅の8,000人、己斐駅の3,500人の利用者数から、約7万人と推定した。また、当日の市内の模様を、「平和式典終了後アミューズメント・タウン、本通り、流川通り、駅付近や繁華街は100度[華氏]を超える炎暑にもめげず人の波はあとをたたず、正午をすぎたころからは劇場、各催し場は超満員のいも洗いぶり」と報じている(「中国新聞」49年8月7日)。しかし、この年の平和式典の参列者数は、市発表によれば約3,000人であった。こうした参加者数の落差は、参加者の関心が、式典以外の平和祭関連の諸種の催しに向いていたことを示すものであろう。
その後の式典の参列者数は、中国新聞の報道によれば、1951年約2,000人、52年約1,000人、53年約3,000人となっている。51年10月19日に児童文化会館前広場(49年の平和式典会場)で開催された戦後初めての広島県戦没者合同慰霊祭(広島県遺族厚生連盟主催)には、県内約7万の戦没者を追悼するため1万2,000人が参列し、翌52年5月2日に同所で開催された独立後初の戦没者追悼式(広島県・市主催)には約1万人、呉市で開催された追悼式(呉市主催)には、5,000人が参列している。これらと比較すれば、広島市の平和式典は、参列者の規模からみて、県レベルのものとは言えず、広島市の行事にすぎないものであった。
ある市民は、1952年8月6日の平和記念公園には、四つの群が存在したと書き残している。

第1の群=「慈仙寺鼻の仮の堂や、その周辺に設けられていた様々な供養碑の前に、線香の束をたき、花をそなえて、あの日に死んで行った人達の霊をとむらう老若男女が数百人、引きも切らず夫々の思いをこめて頭を垂れていた。」
第2の群=第1の群から200メートルほど離れた位置に設営された平和記念式典会場。「一杯入れば4、5万人は収容出来ると云われる緑の芝生の上に参会した市民の数は僅かにほぼ200名」。
第3の群=「之を傍観する数百人である。広い芝生の周囲には鉄条網がはりめぐらされ通路の正面が一カ所開いているだけであるが、見物人はこれをとりまいて遠くから眺めるのである。」
第4の群=広島平和市民大会への参加者。
(朝野明夫「四つの群」、『広島平和問題懇話会会誌創刊号』1952年12月)

1953年の状況については、森戸辰男広島大学長(元文相)の証言がある。8月6日午前10時35分から20分間、読売新聞社の飛行機上から広島市内を観察した森戸は、その印象をつぎのように記した。
眼をうつすと慰霊碑に参拝する人々の列が長く続いている。その北方の児童文化会館広場では働く人たちの集い、総評主催の広島平和大会が開かれている。そして先ほど終了した平和まつり[平和式典=筆者注]と合せて三様の人波がそれぞれ特色をもってこの日の広島を表現していた。
(「読売新聞」1953年8月7日)

ところが、1954年には、式典への参列者数は2万人となった。この年3月1日に南太平洋ビキニ環礁で発生した日本のまぐろ漁船第五福龍丸の水爆被災事件を契機に、全国各地で原水爆禁止の運動が沸き起こった。広島県内でも婦人団体、労組、民主団体などが、7月2日に原・水爆禁止広島県民運動本部を発足させ、原水爆禁止を求める100万人の署名運動を展開した。8月6日には、同本部が、平和式典に引き続いて、原爆・水爆禁止広島平和大会を開催することを計画した。また、広島県労会議(正式名称:広島県労働組合会議)が中心となって結成した8・6平和週間実行委員会も、8月3日の会合で、6日には「広島市・広島平和協会共催の平和式典、県民運動本部主催の原・水爆禁止広島平和大会には約4万名が家族連れで参加する」ことを決定している(「中国新聞」54年8月5日)。参列者数が、数千台から数万台へ飛躍したのは、これらへの参加者が式典に参列したためであった。52年、53年の状況と比較すれば、52年の第3・第4の群や53年の平和大会の「人波」が、平和式典に合流したと考えることができる。
1955年には、8月6日から3日間、広島市を舞台に原水爆禁止世界大会(第1回)が開催され、平和式典への参列者数は5万人を数えた。54年の式典の基盤が、全県レベルのものであるとすれば、55年のそれは、全国レベルあるいは国際レベルのものであった。
その後、式典の参列者数は、2万から5万人の間で推移し、85年以降は5万人台で定着している。91年の参列者数は、広島市の発表によれば5万5,000人であった。

 

宣言の主体、対象、形式(平和宣言)

平和宣言

(1) 宣言の主体、対象、形式

平和式典の中で、平和宣言を読み上げたのは、浜井信三(1947-54年、59-66年)、渡辺忠雄(55-58年)、山田節男(67-74年)、荒木武(75-90年)、平岡敬(91年)の5人の広島市長であった。歴代市長のうち、浜井、渡辺、荒木の3市長は、原爆の直接体験者であった。
平和宣言は、1950年(昭和25年)には、式典の中止により読み上げられることはなかった。また、翌51年には、宣言は発表されず、そのかわり、市長のあいさつがなされた。
宣言の主体は、慣例として、市長個人ではなく、「広島市民の代表としての広島市長」あるいは「被爆体験を持つ広島市民の代表としての広島市長」であった。例えば、「われら広島市民」(1947年)、「原爆を体験したわれわれ」(55年)という表現が用いられている。ところが、91年の宣言は、「平和への不断の努力を市民の皆様とともにお誓いする」と結ばれている。英文では、この主語は、「We」ではなく、「I」であり、市長個人が主体として宣言に登場した初めての例であった。なお、54年までは、宣言主体の肩書に、「広島市長」の他に、「広島平和祭協会長」(47年)、あるいは「広島平和協会長」(48年、54年)が付されている。
1947年と48年の宣言は、最後をそれぞれ、「ここに平和塔の下、われらはかくの如く平和を宣言する」、「戦災3周年の歴史的記念日に当り、我等はかくの如く誓い平和を中外に宣言する」と結んだ。当初の宣言は、このように自らの誓いを内外に明らかにするということを目的としていた。ところが、51年以降、宣言の対象が、具体的に文面に表現されるようになった。51年には、「犠牲者の霊を慰めるとともに・・・平和都市建設の礎とならんことを誓うものである」と結んでおり、慰めの対象として「犠牲者の霊」が現れた。また、翌52年には「・・・尊い精霊たちの前に誓うものである」と結び、「精霊」が宣言の対象の一つとして明確に表現された。さらに、54年には、宣言の対象として「全世界に訴える」という表現が使用された。これ以後、宣言の中には、この三つの要素(「誓い」、「慰霊」、「世界への訴え」)が、常に盛り込まれるようになった。
宣言の長さは、読み上げる市長により大きく変化している。字数で見ると、1947年の最初の宣言は、約830字であった。これは、47年から66年までの浜井、渡辺両市長の宣言の中では、最も長いものであった。最も短いのは、54年の320字であり、最初のものと比べて半分以下となっている。しかし、67年から74年の山田市長の時期には、字数はほぼ800字代で定着した。75年以降の荒木市長の時期には、字数は更に増え、88年から90年の3年間は、1,500字前後にまでなっている。最も短い54年のものと比較すると、5倍近くなったことになる。
このほか、元号で表記されていた宣言の日付に1991年に初めて西暦が併記されたことも、宣言の形式に現れた変化の一つである。