広島赤十字病院慰霊碑
建立年月日:1959年12月8日 |
所在地(建立当時):広島市千田町・広島赤十字病院 |
所在地(現在):広島県広島市中区千田町2-5-64 |
撮影年月日:2021年7月5日 |
(正面)(原文左横書)慰霊 (裏面) 昭和三十四年十一月吉日建之 日本赤十字社 |
〔説明板〕(仏文略)
死はこの市に住む人々をも その後人類は一体となって 赤十字はこの福祉の業に |
広島赤十字病院慰霊碑
建立年月日:1959年12月8日 |
所在地(建立当時):広島市千田町・広島赤十字病院 |
所在地(現在):広島県広島市中区千田町2-5-64 |
撮影年月日:2021年7月5日 |
(正面)(原文左横書)慰霊 (裏面) 昭和三十四年十一月吉日建之 日本赤十字社 |
〔説明板〕(仏文略)
死はこの市に住む人々をも その後人類は一体となって 赤十字はこの福祉の業に |
広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク
所在地:広島県広島市中区千田町2-5-64 |
撮影日:2021年7月5日 |
(資料) https://www.hiroshima-med.jrc.or.jp/brandnew/page2.php |
メモリアルパークの移設について病院敷地の東端に以前ありました被爆遺跡(歪んだ窓枠)等のモニュメントを移設し、平成25年7月2日に「広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク」がオープンしました。当日は日本赤十字社名誉副総裁である高円宮妃殿下によるご供花が行われ、多くの方々にご参列いただきました。モニュメントが設置されていた一帯に新棟を建設する計画となったことから、検討を重ねた結果、移設先は今後の病院の建て替え等で長期に亘り影響の出ない日本赤十字社広島県支部の敷地となりました。平和と人権尊重の重要性を語り継いでいく役割を担っているメモリアルパークを、平和教育の一環としても継承していきたいと考えています。また、既存メモリアルパークが466.0㎡であるのに対し約600㎡に面積を拡張させ、毎年8月6日に行われる慰霊式では、より多くの方に参列して頂けるよう配慮しています。 |
『いのちの塔-広島赤十字・原爆病院への証言』
「いのちの塔」手記集編纂委員会
中国新聞社 19920610
目次
グラビア | 痛恨の『あの日 あの時』 | |
核時代の生命のしるし ~序にかえて~ | 大江健三郎 | |
プロローグ | 被爆前後の日赤かいわい | 前保美枝子 |
証言・その一 ~周辺住民と入院患者ら~ | ||
一枚の白衣 | 宗藤尚三 | |
八月六日 | 笠間徳子 | |
長い白日夢 | 真栄田年穗 | |
救護活動の拠点・日赤で | 中谷昇 | |
まるで悪夢の日々 | 中島睦男 | |
父と弟の死の日に | 船倉[土+坒]子 | |
証言・その二 ~医師・看護婦~ | ||
外科医の、それは“悲しい日々”が… | 服部達太郎 | |
ヒロシマを語りつぐもの | 入江長生 | |
生き残った一人として | 宇野ヨネ子 | |
二十歳の夏に | 面田孝子 | |
従軍看護婦になりたかった私 | 内田千寿子 | |
婦長の一言に励まされて | 栗原アヤコ | |
若い血を躍らせた館 | 浅野智恵子 | |
無念の涙 | 大阪己佐子 | |
耳を澄ませば聞こえる悲鳴 | 高田静子 | |
青春の詰まる“故郷” | 小里美智子 | |
証言・その三 ~被爆後の入院患者~ | ||
日赤病院で受けたケロイド手術 | 光島太郎 | |
日赤は生きる希望でした | 米田美津子 | |
日赤入院とその後 | 吉川生美 | |
今もお世話になる日赤なのに… | 小野春子 | |
詩・『窓』 | 野津彼方 | |
小説 『母の炎』から | ||
母の炎 | 山口勇子 | |
考証 『被爆遺跡としての日赤本館』 | ||
広島赤十字・原爆病院の建築について | 石丸紀興 | |
未来へのメッセージ | ||
「広島日赤病院本館」について | 後藤陽一 | |
核政策への無言の抵抗碑として | 伊東壮 | |
貴重な原爆遺跡を保存しよう | 久保浦人 | |
あとがき | 宗藤尚三 | |
資料編 | ||
<資料1> | 広島赤十字・原爆病院保存運動の経過 | |
<資料2> | 広島赤十字・原爆病院の沿革 | |
<資料3> | 座談会・あの時の広島赤十字病院 |