「02 慰霊・追悼」カテゴリーアーカイブ

「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」建立についてのおねがい

「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」建立についてのおねがい

“太き骨は先生ならむ そのそばに
小さきあたまの骨 あつまれり”
“目玉飛びでて盲となりし学童は
かさなり死にぬ 橋のたもとに”
(正田篠枝「耳鳴り」「百日紅」より)
“ひろしま”に原爆が投下されて二十五年の歳月が流れました。ただ一発で中国地方第一の都市広島が火の海となり、一瞬にして二十万余の人たちが亡くなりました。その中に幼い子どもたちと、指導し引率していた教師がいるのです。

一九四五年八月六日午前八時十五分でした。終戦に近いこの日、アメリカははっきりした目的をもって世紀の非人道兵器、原子爆弾を、密集した住宅街の頭上に投下したのです。当時、広島市の国民学校初等科は、四年生以上が田舎に強制疎開され、三年生以下は、まだ小さいことから親の元に残され毎日登校していました。また、高等科の一・二年生は連日市内の建物疎開作業に動員され、奉仕の労働をしていたわけです。こうして原爆は子どもたちを無残な戦争犠牲者にまきこんだのです。
その人数は、いまだ正確にされていませんが約二千名といわれています。そのうち大半が高令な女教師でありました。
二十五年たった今日、広島市の平和公園をはじめ市内の各地に多くの慰霊碑がたてられています。ところが、どうしたことかこの国民学校の教師と子どもの碑は、いまだに建立されていないのです。その上に、生き残った被爆教師も年月とともに次第に教職を去り、また黙したまま世を去り、その人数は少なくなってきています。こうした中で、誰がいうともなく深い意義をみつめて碑の建立をしなければいけないという声が各地に生まれてきました。
ここにわたしたち発起団体は、互いに連絡しあい協議を重ねた結果「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」の建立運動をおこすことを申し合わせたのです。
広島県民及び教師のみなさん、この碑はもちろん教師と子どもの慰霊碑であります。そのことともに、三たび許してはならぬという原爆教育と、みんなが力をあわせて人類最高の倫理といわれる平和の教育を“ひろしま”の教育として、現在及び未来に押しすすめる決意の碑にしていきたいと願っているのです。
みなさん、あのあつい炎の中で、互いに抱きあい助けあい呼びあい、そして、、力つきて共に集まり燃えきっていった師弟たち、その白骨の中に限りない生命の声を今にして聞きとり、これを互いに継承しなければならないと考えます。
この碑の建立の趣意を十分御理解くださり、募金に協力していただきますようお願い申しあげます。
発起団体名
広島県小学校長会
広島県中学校長会
広島市小学校長会
広島市中学校長会
広島県PTA連合会
広島市PTA連合会
広島県退職校長会
広島県退職婦人教師の会
広島県原爆被爆教師の会
広島県教職員組合
広島県教組広島地区支部
事務局
730 広島市国泰寺町二丁目一-一九
教育会館内
TEL 43-一四六一
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会
委員長 惣野真澄
事務局長 石田明

原爆犠牲者国民学校教師と子どもの碑

原爆犠牲者国民学校教師と子どもの碑
建立年月日:1971(昭和46)年8月4日
場所:広島市・平和公園

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[台座正面]
原爆犠牲国民学校
教師と子どもの碑
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[台座裏面]

篠枝
太き骨は先生ならむ そのそばに
小さきあたまの骨 あつまれり

昭和四十六年八月六日建立
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会

資料

構成詩  未来を語りつづけて「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」除幕にささげる (8月4日午前8時15分除幕)
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ピカ研資料

 

 

 

原爆死没者の追悼行事主催者一覧(1945年)

原爆死没者の追悼行事主催者一覧(1945年)
出典:「中国新聞」

月日 追悼行事主催者
8.31 広島逓信局
9. 5 日本通運会社広島支社
9. 6 広島県庁
9. 6 中国海運局
9. 6 広島市内各中等学校・国民学校
9. 6 広島鉄道局
9. 9 中国石炭配給統制株式会社
9.14 広島県農業会
9.16 広島市立中学校
9.2 安芸高等女学校
9.2 広島郵便局
9.2 山陽中・商業・工業・高等女学校
9.2 広島女学院高等女学校
9.21 中国配電株式会社
9.21 広島電鉄株式会社
9.22 合名会社水野組本店・有限会社水野造船所
9.22 広島県燃料配給統制組合
9.22 東洋工業株式会社
9.22 広島市
9.22 中国地方総監府
9.23 広島印刷株式会社
9.23 日本電話設備株式会社中国支社
9.23 広島市多門院
9.25 広島瓦斯株式会社
9.25 広島県貨物自動車株式会社
9.27 油谷重工業株式会社広島祇園工場
9.3 広島陸軍偕行社附属済美学校
11. 6 広島財務局
11. 6 広島女子高等師範学校・同附属山中高等女学校
11.11 広島市銀行団
11.12 社団法人映画公社中国本部
11.12 広島市立造船工業学校
11.12 広島市信用組合
11.13 広島市白島国民学校
11.13 生長の家広島教化部
11.15 広島市神崎国民学校
11.2 日本赤十字社広島支部
11.3 広島県金物配給統制組合
12. 6 島病院若井小児科
12. 6 広島市下柳町内会
12. 6 広島遊興飲食税納税組合
12. 6 広島青果物統制株式会社
12. 9 広島市大手町三丁目町内会
12. 9 元中国7161部隊
12.1 株式会社鯉城園
12.11 広島高等学校
12.13 進徳高等女学校
12.14 広島市観音国民学校
12.16 広島市大手町国民学校
12.17 森永食糧工業株式会社広島支店
12.2 広島県立広島第一高等女学校
12.2 損害保険中央会・損害保険会社一同
12.2 広島市平塚町内会
12.21 大東亜食料興産株式会社
12.23 広島市大手町学区連合町内会
12.25 広島市本川国民学校
12.26 合資会社関西工作所・関西工業株式会社
12.27 広島軽金属工業株式会社

 

原爆死没者慰霊式典の記録(2015年)

『原爆死没者慰霊式典の記録 被爆70周年記念事業』(広島市(主管課:健康福祉局原爆被害対策部調査課)、20160101)

no. 実施主体 行事名 月日 場所
01 白島中町町内会 第二回原爆死没者追悼慰霊祭 0805
02 白島九軒町町内会 中区白島九軒町地区原爆死没者慰霊祭・同慰霊盆踊り 0801 碑前
原爆死没者慰霊碑前
03 国鉄労働組合広島地方本部原爆被爆者策協議会 第43回国鉄原爆死没者慰霊式典  0806
国鉄原爆死没者慰霊碑前
04 鯉城ふれあいクラブ 原爆死没者慰霊式並びに鯉城ふれあい夏祭り  0808
05 広島県原爆被害者団体協議会 広島県被団協原爆死没者追悼慰霊式 0806
06 広島陸軍病院原爆慰霊会 広島陸軍病院原爆死没者慰霊式  0806
広島陸軍病院原爆慰霊碑前
07 基町地区社会福祉協議会 基町地区原爆死没者慰霊式  0809
08 袋町地区社会福祉協議会 第39回袋町地区原爆死没者慰霊祭同慰霊夏まつり  0801
袋町公園母子像前
09 一般法人広島県動員学徒等犠牲者の会 原爆死没者追悼式典 0806
動員学徒慰霊塔前
10 原爆犠牲ヒロシマの碑維持委員会 第34回原爆犠牲ヒロシマの碑碑前祭  0805
11 広島市タカノ橋商店街振興組合 原爆死没者慰霊祭‐平和への祈りを込めて2015‐「たかのばし こども みらい」 0806
原爆犠牲者慰霊碑前
12 竹屋地区原爆慰霊式典実行委員会 竹屋地区住民及び竹屋小学校教職員・児童原爆死没者慰霊式典
竹屋小学校「原爆慰霊碑」前
13 皆実有朋会 広島県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼式  0806
広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑前
14 一般社団法人広島市医師会 広島市医師会原爆殉職会員並びに医療従事者追悼式  0806
広島市医師会原爆殉職碑「祈りの手」前
15 広島一中原爆死没者遺族会 広島一中原爆死没者慰霊祭  0726
広島国泰寺高等学校内「追憶の碑」前
16 国泰寺一丁目町内会 第62回山中女学校・県立女子高等学校原爆死没者慰霊祭 0806
高人 荒神堂慰霊碑前
17 千田町一丁目町内会 ふりかえりの塔慰霊祭  0802
鷹野橋交差点角塔前
18 旧制広島市立中学校原爆死没学徒慰霊祭実行委員会 旧制広島市立中学校原爆死没学徒慰霊祭  0806
広島市立中学校原爆慰霊碑前
19 広瀬学区原爆死没者慰霊事業委員会 広瀬学区原爆死没者慰霊祭事業  0803
広島市立広瀬小学校慰霊碑前
20 神崎学区原爆慰霊碑管理運営委員会 神崎学区原爆死没者慰霊式  0802
河原町公園内神崎学区原爆慰霊碑前
21 本川地区社会福祉協議会 第20回本川地区原爆死没者慰霊式典及び第33回本川地区原爆死没者慰霊盆踊り大会  0805
本川小学校「原爆慰霊碑」前
22 本川学区Aブロック町内会 空鞘橋慰霊碑・被爆70年慰霊祭 0802
空鞘橋慰霊碑前
23 広島舟人・市女同窓会 第39回広島市立第一高等女学校職員生徒原爆死没者慰霊式典  0806
原爆慰霊碑前(平和大橋西詰)
24 広島市立広島商業高等学校同窓会 広島市立広島商業高等学校原爆死没者慰霊祭 0806
広島市商慰霊碑前(国際会議場横)
25 広島被爆者援護会 献花・献水慰霊式典  0806
26 在日本大韓民国民団広島県本部 韓国人原爆犠牲者慰霊祭  0805
平和公園内碑前
27 芸陽観音同窓会 広島二中原爆死没者慰霊祭  0806
広島二中原爆慰霊碑前
28 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑維持委員会 被爆70周年「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」慰霊祭  0804
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑前
29 広島商業同窓会 広島県立広島商業高等学校原爆慰霊祭  0719
広島県立広島商業高等学校原爆慰霊碑前
30 江波地区社会福祉協議会 原爆被爆者「母子愛之像」献花式典  0807
江波公園内碑の丘「母子愛之像」前
31 牛田学区社会福祉協議会 原爆死没者追悼式典  0805
牛田公園内「原爆死没者慰霊碑」前
32 段原中学校区ふれあい活動推進協議会 第26回原爆死没者慰霊祭  0802
段原中学校内「慰霊碑」前
33 旧被服支廠の保全を願う懇談会 旧被服支廠原爆死没者追悼講演会と追悼の集い  0808
旧被服支廠赤レンガ倉庫前
34 広島県立広島工業高等学校同窓会 平成27年度原爆犠牲者慰霊式  0806
広島県立広島工業高等学校慰霊碑前
35 学校法人広島山陽学園 山陽高等学校原爆死没者慰霊式  0806
山陽高等学校慰霊碑前
36 庚午北町内会 広島市西区庚午第・公園原爆死没者慰霊祭  0805
庚午第一公園内碑前
37 広島市立己斐小学校PTA ピースメモリアルセレモニー己斐小慰霊祭  0806
広島市立己斐小学校・慰霊碑前
38 瀬野川地区原爆被害者の会 原爆死没者追悼式典  0723
中野第二公園・原爆死没者慰霊碑前

 

愛媛県原爆被害者の会原爆死没者慰霊碑

愛媛県原爆被害者の会原爆死没者慰霊碑

19920310没 くぼ・なかこ 享年64 愛媛県原爆被害者の会会長。藤居平一聞き書き

 

愛媛県
愛媛県原爆被害者の会「原爆死没者慰霊碑」
(松山市石手川公園)
「この碑は廣島・長崎で被爆し愛媛県各地に眠る被爆者の冥福を祈り後の世に再び核兵器の惨禍を起こさせない事を誓って之を建てる
 昭和四十九年四月十四日
    愛媛県原爆被害者の会 会長 久保仲子 
              副会長 阿部幸雄 仝西岡周子」
 2016年5月撮影

 

 

鹿児島県原爆犠牲者慰霊平和祈念碑(1998年)

鹿児島県原爆犠牲者慰霊平和祈念碑
鹿児島県鹿児島市照国町城山公園・探勝園

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 一九四五(昭和二〇)年八月六日
広島に、九日には長崎に原子爆弾が
投下され、二つの都市は一瞬のうち
に壊滅しました。熱線や放射能など
で死亡した人は年末までに二一万人
を超えました。
唯一の被爆国である日本の国民は
あの恐ろしい戦争を再び起こさない
よう、また残虐極まりない核兵器の
廃絶を叫び続けてきました。しかし
いまだに実現されていません。
あの時から五三年経った今も鹿児
島県内の一七〇〇余名の被爆者は、
原爆後遺症と闘いながら懸命な運動
を続けています。
ここに原爆犠牲者のご冥福を心か
ら祈り、核兵器廃絶と世界の恒久平
和を願って、平和都市宣言のまち・
鹿児島市の絶大なご厚意により、こ
の地に碑を建てました。
建立にご援助をいただいた国・県・市
ご当局をはじめ、建立募金にご協力
の皆様に深く感謝申しあげます。
一九九八(平成一〇)年一〇月三〇日
鹿児島県
原爆被爆者福祉協議会
撮影年月日:2018年10月29日

原爆供養塔

原爆供養塔

建立年月日:1955(昭和30)年8月6日
場所:広島市中区中島町・平和公園
〔側碑〕
(正面)(原文左横書)
原爆供養塔
〔側碑〕(同じ側碑四柱あり)(正面)
広島戦災供養塔
〔説明板〕(木製 現在は存在せず)
世界最初の原子爆弾昭和二十年八月六日午前八時十五分による犠牲者数万柱の遺骨を納める。
この地一帯が爆心地であったため期せずしてここに痛ましい無数の遺骨が運ばれ処理せられたものである。
昭和二十一年一月広島戦災供養会が創立せられ同五月仮供養塔同七月仮納骨堂礼拝堂が市民の喜捨により建立せられ三十年七月満十周年を期して広島市が中心となって納骨堂を改築せられ各処に散在していた遺骨を此処に納めた。
毎年八月六日には全県市挙げて追悼の誠をこめた供養慰霊祭が行われるほか毎月六日例祭が行われている。
供養行事は広島県宗教連盟が奉仕するほか各宗教派別による特別供養も厳修せられている
広島戦災供養会

原爆の子の像(折鶴の子の像)

広島平和をきずく児童生徒の会
原爆の子の像(折鶴の子の像)
建立年月日:1958(昭和33)年5月5日
場所:広島市中区中島町・平和公園)

 

(正面)
これは ぼくらの叫びです
これは 私たちの祈りです
世界に平和を
きずくための
(裏面)
原爆で亡くなった兄姉の霊をなぐさめ世界に平和を呼びかけるために広島市小・中高校の子供が結集し全国の友達の支援のもとにこれをつくる
一九五八年五月五日
広島平和をきずく児童生徒の会

無題

『わたしたちの広島市』(広島市小学校社会科研究会編、中国書店刊)

参考資料
広島平和をきずく児童・生徒の会日記(1955年10月-1957年3月)
「原爆の子の像」建設趣意書(1956年3月1日)
広島の教育関係団体による「原爆の子の像」建設への協力依頼
「原爆の子の像」建立募金状況総まとめ表
千羽鶴・シナリオ第一稿(共同映画社・広島平和を築く児童生徒の会編、1957年12月10日)

ひろしまの碑をめぐる思想性

ひろしまの碑をめぐる思想性1975年9月の宇吹報告

『平和教育研究』(広島平和教育研究所・年報1976年)所収

(1)

今日、平和公園をはじめとして広島市内で私が確認した限り、いわゆる「慰霊」を目的とした碑は90余りあります。歌碑とか詩碑で、慰霊の意味を含まない平和慰霊碑を会わせると120の碑があるという報告もありますが、慰霊の内容が確認できるものとしては、90余りだと思います。

これらの碑を訪れてみた感想としては、どの碑の場合も掃除がきちんとゆきとどき、今日もなお、市民や遺族の哀悼の念が戦後30年生き続けていることが非常によくわかりました。そして、慰霊碑そのものが、犠牲者なり遺族なりの戦後30年の歴史をさまざまな形で示しているようにも思ったわけです。それらが、今日生きている私たちにさまざまな事柄を強く訴えており、その内容をどう位置づけるかと言うことで、一つの史論的なものとして、「ひろしまの碑をめぐる思想性」を考えてみたいわけです。

そこで一つの例として、広島市立高等女学校の慰霊碑の経緯をみてみたいと思います。といいますのは、この経緯は他の慰霊碑と似かよったものがあり、他の慰霊碑もこれとよく似た歴史をもっているので、まずその流れを述べてみたいと思います。

終戦直後の昭和20年10月30日、この10月30日というのは戦前の教育勅語発布の記念日だそうですが、この日に、「殉職諸先生及び生徒の慰霊祭」が市立高女(現在の舟入高校)の破損した講堂で行われています。翌21年8月6日、多くの生徒と教職員が家屋疎開作業に出ていて原爆の犠牲となった現場で、一周忌法要という仏式の慰霊祭を行い、「殉職諸先生並生徒供養塔」と書き込んだ木碑をそこに建立しています。

2年後の昭和23年5月に新制高校が発足し、市女は二葉高校として出発しましたが、その年の8月6日に、母校市女の御真影奉安庫跡に石の祈念碑を建立し、慰霊碑とは呼ばずに「平和塔」と呼びました。正面は、少女が3人刻みこまれ、まん中にE=MC2(原子エネルギーの公式)という箱をもった少女がいます。裏側は「友垣にまもられながらやすらかに眠れみたまよこのくさ山に」という詩が刻んであります。

昭和25年、都市計画で最初に建てた木碑の「供養塔」地が百メートル道路の一部になるので、その年の8月6日に持明院というお寺の境内に木碑を移しています。同時に、広島市女原爆遺族会を結成し、以後は遺族会が中心となって追弔行事を行ってきました。さらに翌26年8月6日、持明院境内にもう一つの石碑「市女原爆追悼碑」を建立し、除幕しています。これは学校に建立した平和塔と同じものですが、正面のE=MC2がなくなったかわりに、「市女原爆追悼碑」と刻み込まれています。そして昭和32年8月6日、学校に建立した「平和塔」を現在地の元安川畔へ移し、今日にいたっているというのが大まかな経緯です。

(2)

この市女の例にみられるように、広島市内にある慰霊碑の多くは、慰霊祭とか慰霊法要という宗教的行事に結びついて建立されているようです。この点について、原爆投下後から翌21年8月までの一か年間に、当日の中国新聞に慰霊祭・慰霊法要を営むという宣伝広告がたくさん載りました。総計すると114種の慰霊祭・法要の通知が載っています。1年間でこれだけたくさんの慰霊祭・法要が営まれたわけですが、その際に、遭難地・火葬地・学校や職場・法要を営んだ寺などに木碑が多く建てられたと思われます。このようにして建てられた木の墓標とか、簡単な供養塔が広島における今日の慰霊碑の始まりのようです。

今日、これら初期の木碑は、そのままの形で残っているものはありませんが、当時のもので碑銘の明らかなものを調べてみると、戦死者31名之墓・船舶練習隊処理之墓・広島郵便局殉職者供養塔・神崎学区戦災死没者追善供養塔など、「原爆」という文字の出てこないのが注目されます。占領下では、こうした銘名が一般的であったようで、終戦直後のプレスコード(9月19日)などによって原爆に対する批判が封じられていた影響によると思われます。

占領下の当時は、原爆という文字が使えないだけでなく、学校などに慰霊碑を建てることにも制約が加えられています。昭和20年と22年に広島市から各国民学校長宛に出した公文書の中で、慰霊碑建立に対する制約のあることが確認できます。また当時、広島市立学校長に、学校に現存する忠魂碑とか戦没者記念碑などを撤去したかどうか報告せよという文書も出されています。そのほかに、学校を宗教行事に使用してはならないだけでなく、学外でも学校がこうしたことを主催するのを禁止しています。

昭和20年から22年に出されたこれら一連の通達は、それまでの軍国主義的な教育と一線を画すために行われた政策の一つであったと思われますが、逆に原爆犠牲者の遺族達の慰霊に対する心情をゆがめる結果にもなったと思います。

こうした当時の状況を反映して、一例として最初に述べた市女学内に建立された碑は、慰霊碑と呼ばずに「平和塔」と呼びました。この点について市女原爆遺族会長は、「当時わが国は米国占領下にあり、慰霊碑などの建立は許されない諸情勢であったが、市女原爆関係者は率先してこれを建立し、平和塔と呼んでいた」と追憶記の中で書いています。また、この平和塔の浮彫は、「あなたは原子力(E=MC2)の世界最初の犠牲として人類文化発展の尊い人柱となった」と級友が犠牲者を慰めている姿を表しているといわれており、ここでは原子力と原爆が同一視されています。占領政策が解かれた年の昭和26年に持明院境内に建てられた同型の碑では、表面の浮彫は消え、かわりに「市女原爆追悼碑」という碑銘がはいったことなどからみて、いかに原爆がタブー視されていたかの一端がうかがえます。

このように、「原爆」という二文字さえ自由に使えなかった占領下においては、ほとんどの慰霊碑の性格は、慰霊という宗教目的を出ることはありませんでした。しかし、占領が解けると、慰霊碑はさまざまな性格をもつようになってきます。その一つは、「原爆」という二文字が一般的に用いられるようになったことです。つまり、原爆犠牲が「戦死者」「戦災死者」など戦争一般の犠牲者と区別できない表現から、「原爆犠牲者」「原爆死没者」というように、その死因として「原爆」を指摘する表現になったことに大きな意味があると思います。

二つには、原爆という言葉と同時に、「平和の礎」「殉国」「散華」「英魂」「英霊」と言った死者に対する一種の意義づけが行われるようになったことです。「平和の礎」という表現は占領下から使われていましたが、これは、原爆投下が戦争を早く終わらせ平和をもたらしたのだという占領政策の思想からきたのだと思われます。昭和30年ごろまでよく使われていましたが、それ以後の碑にはなくなっています。「殉国」「散華」などは、戦前から使われている普通の表現ですが、占領下では消えており、占領解除後は学校関係の碑を中心に多く用いられています。これは、いたいけない子ども達を失った父母たちが、何らかのかたちでその死を位置づけたいという気もちによるものだと思われますが、今日の靖国神社法案と関連して深刻な問題を示しているともいえます。

「平和の礎」や「殉国」などといういい方は、過去の反省にたった表現となっていますが、昭和30年前後からは、原爆犠牲を過去のこととしてではなく、現在や未来に結びつけたものが建てられるようになりました。つまり、原爆犠牲者への哀悼の念をとおして平和への祈念、原爆への怒り、核兵器廃絶の決意などが語られるようになったわけです。その表現方法も、具体的なことばだけでなく、象徴的な彫刻などによるようになりました。

たとえば、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから=原爆慰霊碑」「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための=原爆の子の像」「なぜあの日はあった なぜいまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを=全損保労組被爆20周年記念碑」「天を撃つな 戦霊を射て 人を撃つな 戦禍を射て 原爆広島に眠る 無名の霊よ 国鉄の魂よ 霊の目はみつめ 魂の手はつかむ 平和と未来を=国労慰霊碑」などがその一例です。

これら慰霊碑の碑文や彫刻などに脈うつ原爆観、平和観はけっして同一ではなく、戦後30年広島・日本・世界中にうずまいた平和運動の影響を多かれ少なかれ受けていると思います。その意味では、今日までの平和観・原爆観の縮図のような気もしますが、一つだけ同じ訴えをしているように思います。それは、広島の悲劇を再び地上にくり返してはいけないということです。

 (3)

以上が、碑をめぐる問題について私なりの大まかな史論的な考えです。それと関連して、これら広島の慰霊碑と国などが行っている慰霊祭は、本質的に違うと思うのです。国などの場合は、戦前のことが常に考えられているようだし、靖国神社ともつながって計作されていると思います。これに対し、広島の慰霊碑の性格としては、市民の要求や市民のやむにやまれぬ感情が結集してつくられていると思います。

ところで、体験記の中にも慰霊碑でみてきたのと同じような流れがあります。[中略]

慰霊碑の碑文が簡潔で、どのようにでも解釈できるような場合もたくさんあるわけですが、慰霊碑の建立を機に出されている体験記集とかみあわせることによって、その碑のもつ意味が一つ一つ正確に位置づけられると思います。

原爆モニュメント関係参考文献・資料

原爆モニュメント関係参考文献・資料

文献・資料名 著者・作成者 発行・作成
年月日
備考
原爆モニュメント遍歴 中国新聞(連載) 1952.7-8.
慰霊碑巡拝 産経(連載) 1957.7-8.
碑よ 安らかに 中国新聞(連載) 1965.7-8.
碑は見つめている 中国新聞社 1965.7.15 中国新聞文化事業社
碑は語る-ヒロシマ22年の歩み 毎日新聞(連載) 1967.7.-8.
原爆慰霊碑巡礼案内 後藤純 1967.8.1 原爆慰霊碑研究所
広島碑林 三田嘉一 1968.8.6 三田蝋染堂(刊)
原爆被災資料総目録第1集 原爆被災資料広島研究会 1969.
写真記録 ヒロシマ25年 佐々木雄一郎 1970 朝日新聞社(刊)
原爆の碑をたずねて 原水爆禁止広島県協議会 1974.7
広島市・平和のモニュメントの分布図 高辻尚文 1975
慰霊碑の思想 宇吹曉 1975.6
慰霊碑めぐり 民主青年同盟[広島]県委員会 1975.8.3
原爆の碑-広島のこころ 黒川万千代 1976.8.6
慰霊碑・広島 原爆資料保存会 1977.2
鎮魂の碑-被爆33回忌によせて 産経新聞(連載) 1977.7.-8.
原爆モニュメント碑文集 原爆モニュメント研究グループ 1978.3.25
ヒロシマ読本 小堺吉光 1978.7.20 広島平和文化センター(刊)
原爆の碑-広島のこころ 黒川万千代 1982.7.15 新日本出版社(刊)
広島のいしぶみはみつめる・第1集 西尾隆昌 1982.9.15
ヒロシマの旅-碑めぐりガイドブック 広島県歴史教育者協議会ほか 1983.6.23 平和文化
原爆モニュメント物語 広島県歴史教育者協議会 1984.7.27 平和文化
原爆モニュメント碑文集(続) 原爆モニュメント研究グループ 1985.8.6
平和公園・
碑めぐりガイドブック
生協ひろしま 1986.4
原点-フィールドワーク・イン・ヒロシマ 広島県原水禁 1986.8.1
なぜいまもつづく広島記念碑 池上利秋・武田寛ほか編 1987.8.6 広島県原爆被害者団体協議会(刊)
ヒロシマ・平和公園・碑めぐり ソリッドマップ広島 [1989.5.] [航空写真を使用]
資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑 「碑の会」(全朝教有志・ピカ研) 1989.8.5
ヒロシマの声を聞こう
-原爆の碑と遺跡が語るもの
「原爆碑・遺跡案内」編集委員会 1990.8.1
写真集・平和のモニュメント 藤田観龍 1995.3.10 新日本出版社(刊)