「02 慰霊・追悼」カテゴリーアーカイブ

原爆7回忌法要一覧

原爆7回忌法要一覧

主催者 1952
月日
注(挙行場所など)
広島市弥生町事務所 0803 事務所
旧広島県立広島工業学校
旧広島市第一工業学校
0804 千暁寺(宇品町)
福屋 0805 永照寺(堀河町)
地方職員共済組合広島県支部 0806 広島別院(寺町)
注:元広島県庁職員原爆死没者追弔会
帝国人絹三原工場庶務係長 0806 旧帝国人絹広島工場(広島市千田町)
広島市内日蓮門下寺院連合 0811 中島供養塔前はじめ7つの川
七回忌戦災没者追善川施餓鬼法要
<未完>
7周忌法要01
7周忌法要02
7周忌法要03 7周忌法要04

死体処理と遺骨授受

死体処理と遺骨授受
原爆被爆の翌日1945年(昭和20年)8月7日、広島にあった軍官施設の指導者は、在広陸海軍官衙長会議を開催し、被害対策の基本方針を検討した。その中で「屍体処理ハ出来ルダケ迅速ニ行フコト」を決定、具体的内容として、つぎの3点が指示された。(『広島県戦災記録』)

1 輸送困難ニツキ現地デ焼クカ埋葬等ニ付スコト

2 右ノ中比治山八丁堀紙屋町付近市役所土橋水主町付近ハ刑務所ノ囚人400名ヲ出動応援スルコト

3 郡部ヨリ僧侶ヲ集メ読経セシム

第2項にあげられた地域では、それぞれ5,000人近い学徒隊、国民義勇隊が建物疎開作業のために動員されており、大量の死者が発生した(志水清「動員学徒等特殊集団にみられる原爆被爆直後の人的被害調査補遺」)。

これらの死体収容は、軍と警察の指揮のもとに実施されたが、8月11日までに軍部隊は、1万2,054体、警察機関は、1万7,865体、市外の救護施設は、3,040体を、それぞれ処理している(広島市調査課『戦災被害調書』1946年1月26日)。

原爆に生き延びた広島の市民の生活は、肉親や知人の消息捜しと死者への慰霊から始まった。広島市立高等女学校を例にとれば、その日誌の8月7~14日の項には、つぎのような記述をみることができる。

8月 7日
仮本部ニテ事務受付ク(中略)捜査全面的実施
上野教諭 日赤、富士見町、共済病院御捜査
柳楽教諭 同上
宮脇教諭 船舶司令部運輸部御捜査
8月 9日
捜査続行
似島方面ニ小谷教諭御捜査
現場ニ於テ御骨ヲ頂戴シ帰ル 同時ニ遺品ヲ持チ帰ル(中略)
8月14日
校長御欠席ノママ事務佐々木氏ノ斡旋ニヨリ、唯信寺御坊ヲ招キ、職員室ニ於テ午前9時半ヨリ納経引続キ判明遺家族及御希望家族ニ御分骨申上グ 約百名ノ遺家族御参列
(『昭和20年8月6日罹災関係 経過日誌 広島市立高等女学校』)
広島市は、市内各所に収容された原爆死者の遺骨を引き取り、市民部保健課で遺族への遺骨交付を行なったが、10月31日現在での授受取扱数は、受領1万1,525体、交付4,805体、残6,720体であった(『昭和20年広島市事務報告書並財産表』)。

平和記念都市建設碑(原爆慰霊碑)碑文論争

平和記念都市建設碑(原爆慰霊碑)碑文論争

広島平和都市記念碑碑文(1952.7.22文案完成、8.6碑除幕)

 安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから

(英文)Let all the souls here rest in peace For we shall not repeat the evils

参考:原爆慰霊碑の写真

雑賀忠義「碑文について」(『広島市 おしらせ』第31号、1952年9月1日)

二十数万の霊は安らかに眠れない筈だ。「安らかに眠って下さい」と祈る上は不可能を可能にする決意と努力と(更にむずかしい)賢明さがいる。「過ちは繰り返しませぬから」との誓いにそれが表わされている。・・・ませぬがま・・・せんでもヘナヘナになるだろう。

一度あることは二度ある。広島は長崎で繰り返された。この繰り返しは防げるか。二十数万の犠牲が可能にする。むだにしないと忘れぬ間は。それならば、金石文字にしておこう。

廿世紀己文明の犯した最大の過ちは広島の原爆であった。

過去に低迷している広島市民ではない。飛躍して人類のなし得なかった仕事をしようと光明を見出す。

過ちは繰返さぬという決意は長崎と共に広島がなし得る特権である。原爆文明は世界の破滅を脅している。

文明はこのように不賢明だ。

人類の光明は広島の一角からとすれば、犠牲はむだでない。

パール博士の碑文への抗議(「中国新聞」 1952年11月4日)

この碑文に「過ちは再び繰返しませんから」とあるのは、むろん日本人をさしているのは明らかだ。それがどんな過ちであるのか私は疑う。ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人でないことは明りょうである。落としたものの手は、まだ清められていない。この過ちとはもしも前の戦争をさしているのなら、それも日本の責任ではない。その戦争の種は西洋諸国が問うよう侵略のために起したものであることも明瞭である。

浜井市長の説明(「中国新聞」 1952年11月4日)

過去の戦争は明かに人間のあやまちであった。私はあの碑の前に立つ人々がだれであろうと「自分に関する限りはあやまちは繰り返さない」という誓いと決意を固めることが将来の平和を築く基礎であり、また現在生きている人たちがそれを実践したときはじめて地下の英霊は安かに眠るることができるものである。その意味のことをあの短い文章に書いたのである、碑の前に対してだれの罪であると個人をつかまえてせんさくする必要はないと思う、あの碑の前には世界各国の人が立つだろうと私は思う。

雑賀忠義(碑文作成者)の考え(「中国新聞」1952.11.11)

広島市民であるとともに世界市民であるわれわれが過ちを繰返さないと霊前に誓う-これは全人類の過去・現在・未来に通じる広島市民の感情であり、良心の叫びである。「広島市民が過ちを繰返さぬといっても外国人から落とされた爆弾ではないか。だから繰返さぬではなく繰返させぬであり、広島市民の過ちではない」とは世界市民に通じないことばだ。そんなせせこましい立ち場に立つときは過ちは繰返さぬことは不可能になり霊前でものをいう資格はない。

岸田日出刀「広島の碑」(『文芸春秋』1957年2月号)

(前略)

「安らかに眠って下さい」も冗漫度しがたいセンスと思うのだが、「過ちは繰返しませぬから」に至っては、いったい何を言おうというのだろう。侵略戦争のようなものは二度としませんの意かもしれないが、こんな妙ちきりんな但し書は、あの残虐無慚な死に方をした多くの人たちの冥福とは何の関係もないことだ。(中略)

慰霊堂や碑石の造形にみられる簡素清純さによく合うような、もっとあっさりと素直な碑文を書き表せなかったものだろうか。わたくしだったら「慰霊」の二字だけを筆太に力強く縦に刻むだろう。この慰霊碑がこのままいつまでも据えつづけられるのだろうか。(後略)

Y M D NEWS1
52 08 06 平和記念都市建設碑(原爆慰霊碑)除幕.
52 11 03 世界連邦アジア会議インド代表パール博士、広島市の原爆慰霊碑に参拝。碑文に異論を唱える。
52 11 06 パール博士,原爆慰霊碑の碑文に異議をとなえる.10日,広大雑賀教授反論
54 08 11 浜井広島市長、原爆で両親を失った黒沢銀子(17才、東京都大田区)から原爆慰霊碑の碑文に対する抗議の手紙を受け取る。
55 08 19 原水爆禁止世界大会参加の中共代表団(劉寧一団長、謝泳心ら7名)、広島入り。原爆慰霊碑参拝。広島赤十字病院訪問。
57 03 14 吉田治平(革政ク),広島市議会予算市会で原爆慰霊碑の碑文についての市長の見解を問う.
57 08 04? 呉市の文化団体、広島の原爆慰霊碑の碑文について、各界からアンケートを集める。木下夕爾「意味が不徹底だから撤去する」などの回答。
70 02 11 「原爆慰霊碑を正す会」結成。有志八十人。「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませんから」の碑文は、屈辱的で二十数万の犠牲者の霊を冒とくする」
70 02 12 安保破棄要求貫徹広島県実行委員会、原爆慰霊碑の碑文変更反対を山田広島市長に申し入れ。十四日には原水禁母の会など五団体も広島市に申し入れ
70 03 09 原爆慰霊碑を正す会、「碑文まっ消」を市長へ請願(「平和の推進」)。
70 03 09 原爆慰霊碑を正す会、山田広島市長と浅尾市議会議長に「碑文抹消」を請願
70 03 13 「原爆慰霊碑の碑文を守る連絡会議」結成。社会、共産両党系の団体、市民運動グループなど十五団体が共闘、「碑文抹消運動は核アレルギーの解消、軍国主義復活を目指す策略だ。碑文は絶対に守り抜く」
70 08 03 山田広島市長、原爆慰霊碑の碑文は変えないと公式発表。「碑文の主語は〃世界人類〃であり、人類全体への警告、戒めである」(「平和の推進」)
71 04 16 天皇・皇后、広島市の原爆慰霊碑を参拝。
77 09 23 広島市の平和記念公園内、原爆慰霊碑の碑文の照明装置が壊されているのを発見。
83 08 09 ジュネーブ軍縮委員会で今井大使、広島市の原爆慰霊碑の碑文についての解釈を表明。「核戦争をあくまで回避せねばならないという決意を示したもの」
88 10 19? 故雑賀忠義広大教授による原爆慰霊碑碑文の英語版、広島市立本川小学校の平和資料館に展示。
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96 09 02 新進党広島県連、「原爆慰霊碑は目障り」と発言した亀井静香自民党組織広報本部長に対する抗議声明を発表。
97 12 20 亀井静香前建設大臣、広島市の原爆慰霊碑について「広島にもそういうばかげた碑がある。日本が悪いということを堂々とうたっている」と新潟市内での講演で発言。