資料年表:森滝市郎
年月日 |
事項 |
メモ |
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1905 |
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0428 |
広島県双三郡君田村で誕生。 |
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1976 |
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0530 |
『反核三十年』(日本評論社) |
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1985 |
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0625 |
『非核未来にむけて 反核運動40年史』(森滝市郎ほか著、績文堂、19850625) |
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森滝市郎 「序」 |
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0710 |
『ヒロシマ四十年 森滝日記の証言』(中国新聞社編、平凡社) |
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1988 |
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0805 |
『いのちとうとし』(森滝市郎先生の米寿を祝い激励するつどい実行委員会) |
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1994 |
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0325 |
『核絶対否定への歩み』(森滝市郎、原水爆禁止広島県協議会<広島県原水禁>刊、発行所:渓水社)- |
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1995 |
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0720 |
『人類は生きねばならぬ』(森滝市郎追悼集刊行委員会) |
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2017 |
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0806 |
広岩近広『核を葬れ! 森滝市郎・春子父娘の非核活動記録』(藤原書店) |
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止
『ヒロシマ四十年 森滝日記の証言』(中国新聞社編、平凡社、19850710)
内容
部 |
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1 |
運命の日、8月6日 1 |
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一瞬の閃光、右眼を失う 3
爆死体累々、地獄絵の町 7
病床に続々、知人の安否 10
皇国の栄信じた、被爆前への悔恨 12
終戦を宣する「玉音放送」に号泣 16
帰郷、肉親に再会し、心安らぐ 18
郷里、敷地の里で療養生活 20
反核へ「慈の文化」を説く 25 |
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2 |
反核への道 第1回原水禁世界大会まで 29 |
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戦後最初の仕事、学園の広島復帰 31
天応奉迎、広島再建へ励ましのお言葉 33
「広大平和問題研究会」設立に奔走 36
平和を訴え、「原爆の子」出版 36
原爆孤児へ愛の手「精神養子運動」 40
ビキニ海域の水爆実験で日本漁船被災 43
原水爆禁止署名、広島県で百万人 46
広島平和大会へ、広範な草の根結集 48
「広島原水協」を結成 50
女性の語り部、欧州で平和訴え 52
大衆主導の大会めざし、広島準備会 55
共産圏代表への入国ビザが難航 57
原爆投下の日、第1回原水禁世界大会 59 |
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3 |
世界への訴え 連帯を求めて 65 |
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「日本原水協」発足、反核の新たな母体 67
保守を含め、広島市原水協を結成 69
映画「生きていてよかった」が好評 71
援護法制定めざし、広島県被団協を結成 73
第2回原水禁世界大会、長崎で 76
長崎と連帯、日本被団協が発足 78
原爆医療法が成立 81
英の水爆実験阻止めざし、市民大会 83
米英ソへ国民平和使節 86
ノーベル賞作家ラッセル卿を訪問 91
ゲッチンゲン宣言の科学者と交流 93
第4回原水禁世界大会、東京で 95
第5回世界大会、東西緊張背景に 98 |
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4 |
分裂の軌跡「いかなる国」巡って 105 |
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「60年安保」の年 107
当局から圧力、被団協への補助金カット 109
反安保に全国でデモ 原水協も「非常事態宣言」 111
第6回世界大会 平和へ戦う姿勢 117
援護法の成立求め、国会請願 121
民社・全労系が別組織「核禁会議」結成 124
地婦連などから体質改善迫らる 126
第7回世界大会、内部対立深まる 129
ソ連が核実験再開、抗議の可否で激論 131
米ソに核実験中止訴え、市民大会 133
「いかなる国」問題で社共が対立 136
基本原則貫く、社党・総評路線の色濃し 138
大学に辞表出し、米核実験再開に抗議 140
「悟り」精神的原子の連鎖反応こそ力 143
第8回世界大会のさなか、ソ連が核実験 反対巡り、社共激しく対立 145
社会党系団体で、原水禁国民大会 156
「いかなる国」問題で安井理事長ら辞職 160
地方原水協の統一要求、中央を動かす 162
部分核停条約巡り、新たな対立 第9回世界大会、事実上の分裂に 167
第9回世界大会 分裂のドキュメント 昭和38年8月1日~7日 182 |
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5 |
被爆地の願い 国は責任を認めよ 185 |
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被団協にきしみ、原水協脱退論が再噴出 187
原爆裁判判決、原爆投下は国際法違反 189
ビキニ・デー広島集会、政党色排して 191
被災三県原水協の連絡会議発足 194
昭和39年夏の大会、3つの分裂集会に 196
被災白書運動、国に被爆実相の解明迫る 198
「原水禁国民会議」が発足 201
停年退官の最終講義で決意披露 204
昭和40年夏も3つの大会 206
日本被団協理事長、初の選挙に 209
原爆ドーム保存へ、新たな市民運動 212
つるパンフ、援護法運動の理論的支え 215
援護法制定めざし、国会請願行動 218
シンポジウム「ヒロシマを考える」 220
42年夏の3つの大会へ中ソ不参加 222
厚生省被爆者調査「一般と差異ない」 225
被爆者特別措置法成立、要望と隔たり 227
統一行動への道を手探り 230
援護法制定めざし、衆参両院で訴え 234
44年夏、原水禁沖縄大会 239 |
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6 |
風化に抗して 核なくなる日まで 243 |
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70年安保の年迎え、決意新たに 245
安保自動継続抗議に77万人 247
被団協理事長辞任、集団指導体制へ 250
ヒロシマ会議、核時代から脱却の道を 252
被爆者援護法、またも廃案に 254
8月6日、佐藤首相の初出席巡り賛否 257
岩国基地に核貯蔵庫? 撤去求め集会 260
ベトナム和平協定調印さる 262
密航韓国被爆者に裁判で被爆者手帳 265厚かった原爆症認定の壁、桑原訴訟 267
米国依り被爆資料返還、28年ぶり公開 269
中ソ核実験にも反対、共産党方針転換 272
原水禁と原水協、ともに原則に固執 274
仏、5回も核実験市民が座り込み 276
またも葬られた、援護法案 279
学者・文化人の会が再構築を訴え 282
ラロック証言、核の日本持込み暴露 284 |
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7 |
統一への模索 苦しみを乗り越えて 287 |
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静岡ビキニ・デー、12年ぶり社共合流 289
非核太平洋会議、諸民族が結集 292
援護法、時間切れでまたもや廃案 294
県労の統一呼びかけ、不調に終わる 296
社共対立し、中央でも御破算 298
禁と協、原子力平和利用でも異なる立場 301
NGO反核シンポ開催へ、日本準備委 303
統一めざし、総評と共産が合意書 305
被団協、14年ぶりの統一行動 307
「年内めどに統一を実現」 5・19合意書までの苦悶 310
原水禁内部よりの批判、一身に 318
禁・協の代表、協議始める 320
NGOシンポ、被爆実相に認識深める 322
52年夏、14年ぶりに統一世界大会 325
初の国連軍縮特別総会、日本から5百人 330
53年夏、再び統一世界大会 333
54年ビキニ・デー、広島で統一集会 335
7人委、現行2法の再検討開始 337
政府見解「国に補償の義務なし」 340
7人委意見書、期待裏切る内容 被爆者たちより、失望と怒り 342
ローマ法皇、広島から「平和アピール」 348
ライシャワー元大使、核持ち込みを証言 351
語り部の旅、欧州の草の根運動と連帯 354
ヒロシマ行動、核廃絶へ20万人 356
核実験報道翌日の座り込み、20年目に 359
第2回国連軍縮特別総会へ、100万人のデモ 361
57年夏、原水禁大会に3万人 364 |
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森滝さんと私 |
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バーバラ・レイノルズ 367
ペトラ・ケリー 369 |
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記録 原水禁運動の歩み -ヒロシマを中心として- 371 |
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日記の公開について 森滝市郎 378 |
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あとがき 中国新聞社 編集局長 尾形幸雄 380 |
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止
石母田正『歴史と民族の発見 歴史学の課題と方法』(東京大学出版会、19520305)
内容
止
資料年表:北西允
年月日 |
事項 |
メモ |
1926 |
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**** |
誕生 |
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1976 |
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0430 |
『広島・長崎30年の証言(下)』(広島・長崎の証言の会編、未来社) |
G |
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第6章 反原爆運動の中から 9
原水禁運動の統一と静岡・広島 北西允 117 |
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1223 |
『核兵器全面禁止 崇高な人類の大義 核兵器完全禁止・国連要請国民代表団報告集』(核兵器全面禁止国際条約締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団派遣中央実行委員会) |
G |
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〔7〕 感想と報告…61
藤井日達…61////北西允…65////・・・ |
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1977 |
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0125 |
『核兵器完全禁止を国連に要請する国民代表団(広島県代表)の報告』(国連へ核兵器完全禁止を要請する国民代表派遣広島県実行委員会) |
G |
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北米反核の旅 北西允 2 |
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0701 |
『地域と科学者 第4号 被爆・核・広島特集』(日本科学者会議広島県支部) |
G |
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■被爆・核・広島特集■
【座談会】「被爆・核・広島」――核時代における広島の課題―― 北西允ほか(2) |
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0910 |
『原爆と広島大学 「生死の火」学術篇』(広島大学原爆死歿者慰霊行事委員会) |
G |
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人文科学の部
第Ⅱ章 社会科学関係(山田浩、北西允、横山英)260 |
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1979 |
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0518 |
『平和研究ノート』(山田浩・森利一編、広島大学総合科学部国際関係論教室) |
G |
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第14章 日本の原水禁運動 ――略史と問題点―― 北西允…339 |
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0620 |
『平和研究 第4号 平和運動の理論と行動』(日本平和学会) |
G |
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特集1◎平和運動の理論と行動 5
戦後日本の平和運動 日高六郎 50
<討論>原水禁運動の軌跡 北西允 61 |
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1980 |
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0925 |
『平和学講義』(山田浩編、勁草書房) |
G |
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1982 |
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0220 |
『ヒロシマ・ナガサキの証言’82冬 創刊号』(石田明・浜崎均編、広島・長崎の証言の会) |
G |
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特集1/ヒロシマ・ナガサキと広がる反核運動
反核運動の現状-西欧と日本 北西允 |
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1983 |
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0520 |
『現代日本の政治』(北西允・山田浩著、法律文化社) |
G |
1984 |
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0830 |
『平和学講義 新訂版』(山田浩編、勁草書房) |
G |
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第12章 日本の原水禁運動 北西允 214 |
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1998 |
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0404 |
『なぜ、いま新ガイドライン・有事立法か 4・4百万人署名運動全国集会 報告集』(日米新安保ガイドラインと有事立法に反対する百万人署名運動・事務局) |
G |
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●各地の取り組みから
広島では五万人を目標に 北西允…34 |
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2009 |
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0331 |
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2011 |
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0325 |
『広島に聞く 広島を聞く <日英対照> = Reflections from Hiroshima』(浅井基文編著、かもがわ出版) |
G |
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III 広島の原水爆禁止運動 67
北西允「第9回原水禁世界大会を回顧する」 69 |
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止
資料年表:横山英
年月日 |
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1924 |
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**** |
誕生 |
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1977 |
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0910 |
『原爆と広島大学 「生死の火」学術篇』(広島大学原爆死歿者慰霊行事委員会) |
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人文科学の部
第Ⅱ章 社会科学関係(山田浩、北西允、横山英)260 |
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1979 |
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0518 |
『平和研究ノート』(山田浩、森利一編、広島大学総合科学部国際関係論教室) |
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第13章 中国問題と日本の平和 横山英…323 |
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1103 |
『高校生のヒロシマ・アピール 原水爆禁止1979年世界大会関連行事・第6回8・6全国高校生集会総括集』(8・6全国高校生集会現地実行委員会、広島県高校生平和ゼミナール実行委員会) |
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本集会で原爆のもつ意味を深くとらえよう 24
平和ゼミナール校長 広島大学文学部教授 横山英 |
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1201 |
『広島通信 No.61』(「広島通信」の会) |
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二つの原爆モニュメント 横山英 |
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1980 |
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0925 |
『平和学講義』(森利一・山田浩編、勁草書房) |
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第11章 中国問題と日本の平和 横山英 189 |
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1983 |
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0221 |
『原爆瓦は語りつづける 原爆犠牲ヒロシマの碑建設の記録』(「原爆犠牲ヒロシマの碑」建設委員会) |
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◆碑・制作を終えて 27
『ヒロシマの碑』の思想 横山英 28 |
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0621 |
『ヒロシマの子-君たちはどう生きるか』(編著:森下弘・李実根・空辰男・横山英、平和文化) |
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1989 |
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0630 |
『平和教育研究 広島平和教育研究所・年報 Vol.16 1989.06』(広島平和教育研究所) |
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昭和 ヒロシマ、教育、核を語る 43
日本を中心とした東アジアにとって“昭和”とは《横山英》 44 |
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1990 |
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1101 |
『PEACE 第17回全国高校生平和集会・NO NUKES CONCERT’90報告集』(全国高校生平和集会実行委員会) |
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記念講演「核兵器廃絶への道」 広島高校生平和ゼミナール校長:広島大学名誉教授 横山英 先生 38 |
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1992 |
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1201 |
『PEACE 第19回全国高校生平和集会・NO NUKES CONCERT’92報告集』(全国高校生平和集会実行委員会) |
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1. 歓迎あいさつ
広島高校生平和ゼミナール校長(広島大学名誉教授)横山英先生 2 |
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1996 |
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0801 |
『オキナワからのメッセージ 広島と沖縄をむすぶ平和ゼミナール・報告集』(広島高校生平和ゼミナール) |
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3.日本国憲法50年 横山英…21 |
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2002 |
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0509 |
『アジア研究半世紀の軌跡 今堀誠二遺稿集』(今堀百合子) |
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二 追悼…309
弔辞(瀬戸内寂聴・横山英・天野実) |
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2006 |
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0106 |
没 |
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0530 |
『近きに在りて 第49号 横山英先生追悼特集』(広島中国近代史研究会、汲古書院) |
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止
よこやま・すぐる |
1924生20060106没 |
中国史学者。 広島文理科大学卒業。1975年「中国初期立憲思想の研究」で名古屋大学法学博士、広島大学文学部助教授、教授。1988年定年退官、名誉教授。 |
資料年表:吉田治平<作業中>
年月日 |
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1922 |
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****生 |
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1945 |
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0815 |
未明、部隊の命で福岡から神奈川に向う途中、広島入り。 |
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1977 |
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0720 |
『わしらの被爆体験 100人の証言』(全日自労広島分会・自労被爆者の会編、全日自労広島分会刊) |
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2010 |
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05 |
『生きて 労働運動家 吉田治平さん』(『中国新聞 連載』15回0518~0609)(担当:西本雅実・編集委員) |
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2018 |
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0131 |
没 |
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0209 |
西本雅実「評伝・吉田治平さん」(『中国新聞』) |
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2023 |
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1206 |
『被団協 第539号』(日本原水爆被害者団体協議会) |
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「ヒロシマの闘士」の歩みに学ぶ 広島 先人を語る会<9回目> |
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よしだ・じへい |
1922****生20180131没 |
享年95歳 |
1845年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定> |
止
『わが非暴力 藤井日達自伝』(藤井日達著・山折哲雄編、春秋社、1992/05/20)
内容<作業中>
篇 |
見出し |
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1 |
試煉 |
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生い立ち 2
出家の動機 8
大崎遊学 13
京都遊学 19
1年志願兵 24
法隆寺での参学と焼身 27
健仁寺で参禅 33
堅田の教会所開設 38
比良山での断食 47
桃尾の滝で断食 52
北陸路の信心問答 57
宮城・二重橋での撃鼓宣令 62 |
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2 |
激動 |
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母危篤-朝鮮へ急行 66
満州開教と寒行 70
関東庁の妨害と日蓮宗の横槍 77
日本山妙法寺の誕生82
北支開教-天津・北京 86
関東大震災-帰国 91
富士山麓に日本山妙法寺誕生 98
東京開教-葉山でのご祈念 99
熱海開教-西天開教の原点 105
那須開教の因縁 113
十字街頭で辻説法 116 |
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3 |
転身 |
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母の死と西天開教への出立 120
インド上陸-還来帰家 126
セイロン行脚 133
ガンジーと対面 139
お仏舎利の感得 148
陸海軍へお仏舎利奉呈 154
中国人との接触 160
日中戦争と日本山 163
インパール作戦と日本山 169
満州・朝鮮伝道-敗戦 174 |
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4 |
開華 |
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花岡山にお仏舎利塔建立 180
戦後のインドと日本山 189
王舎城の仏教復興-戦前 193
王舎城の仏教復興-戦後 198
清澄山にお仏舎利塔建立 214
王舎城宝塔落慶供養とオリッサ開教 219
砂川闘争と日本山 227
三里塚闘争と平和運動 232
シーク教徒とヒッピー族-布施の精神 239
インドの新仏教徒 248
非暴力思想とお仏舎利塔建設 251 |
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年譜 |
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あとがき |
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止
土井作治
どい・さくじ |
1930生20230117没 |
享年92 |
広島県史編さん室勤務時の上司。地域に埋もれた資料の発掘・収集・整理の実務の指導を受けた。 |
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止
『丸木俊さんを偲ぶ会』(丸木美術館ブックレット3、2000/08/01)
内容
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《スケジュール》 |
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5月4日 プレイベント(目次) |
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午後1時 映画・トーク5 |
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映画「劫火」(ジャン・ユンカーマン監督/アカデミー賞ノミネート作品/58分)
おはなし:ジャン・ユンカーマン |
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午後3時 パネルディスカッション〈原爆の図一過去・現在・未来〉…12 |
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パネラー:針生一郎(丸木美術館理事・美術評論家)
ヨシダヨシエ(美術評論家)
永井三喜男(画廊経営・丸木美術館評議員)
袖井林二郎(丸木美術館理事)
猪風来(縄文土偶作家・丸木美術館評議員)
小沢節子(美術評論家) |
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午後6時 懇親会 |
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5月5日 丸木俊さんを偲ぶ会48 |
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午前9時 「平和の壁」「平和の旗」全国からの追悼の声を展示公開
「追悼オブジェ・いのちの鳩」献羽
特設書籍コーナー絶版本・サイン本展示関連書籍販売
思い出の映像ビデオ上映(新館ロピー) |
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午後1時 丸木俊さんを偲ぶ会/セレモニー美術館新館ホール49 |
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開会の挨拶針生一郎(丸木俊さんを偲ぶ会実行委員長・美術評論家・丸木美術館理事)50
関屋綾子(丸木美術館館長)51
朗読「俊のことば」54
お別れの言葉松谷みよ子(作家)59
高木仁三郎(高木学校主宰)60
中江利忠(朝日新聞社顧問)63
岩崎巴人(画家)65
土屋義彦(埼玉県知事)67
吉武輝子(作家)67
遺族挨拶丸木ひさ子72
追悼演奏大由鬼山(尺八)74
閉会の挨拶水原孝(丸木美術館理事長)75 |
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午後3時 追悼コンサートとリレートーク野外特設会場 78 |
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コンサート
WBGC(ジャズコーラス)
ナターシャ・グジー(バンドゥーラ演奏と唄)
庄田次郎(フリージャズ)
国分寺エクスペリエンス(社会人バンド)
日野2中OB・在校生(コーラス)80 |
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リレートーク
塚田孝(牧師)81土本典昭(映画監督)83
松本猛(安曇野ちひろ美術館館長)87
前田憲二(映画監督)88 |
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「丸木俊さんを偲ぶ会」呼びかけ人名簿 91
「丸木俊さんを偲ぶ会」賛同人名簿 91
「丸木俊さんを偲ぶ会」実行委員会名簿・感想 94 |
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内容
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パール博士年譜
出典:パール下中記念館 | 下中記念財団 (shimonaka.or.jp)
1886年 ベンガル地方のナディア県(現在はバングラデーシュ領)に生まれる。
1989年 父親が急死。以後、母の手で育てられる。
1903年〜ラージシャーヒー・カレッジ(現在はバングラデーシュ領)、カルカッタのプレジデンシー・カレッジで数学を学ぶ。
1905年 ナリニバーラーと結婚。
1910年 インド北部、アラハバードでインド連合州会計院書記生として就職。
1911年 カルカッタ大学理学部、法学部を卒業。
1920年 カルカッタ大学法学修士となる。
1923年 カルカッタ大学法学部教授に就任。
1924年 カルカッタ大学「タゴール記念法学講演」の講師にはじめて選出された。
1941年 カルカッタ高等裁判所判事に就任。
1944年 カルカッタ大学総長に就任(〜1946年)。
1946年 極東国際軍事裁判(〜1948年)にインド代表判事として派遣された(途中、妻の病気を理由に何度か一時帰国をしている)。
1952年 約4年半ぶりの再来日。下中彌三郎の招聘で世界連邦アジア会議に参加、日本各地をまわる。同年、国際連合国際法委員会委員に就任(〜1967年)。
1953年 下中彌三郎の招聘で3度目の来日。
1957年 国際連合常設仲裁裁判所判事に就任。
1966年 清瀬一郎、岸信介らの招聘で4度目の来日。
1967年 カルカッタの自邸で死去。80歳。
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