『「原爆一号」といわれて ちくまぶっくす36』(吉川清、筑摩書房、19810724)
目次
章 |
頁 |
見出し |
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はじめに |
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1 |
怒りこみ上げる基本懇の答申 |
1 |
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運命の日 |
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8 |
夜勤明けのその日 |
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19 |
死に脅える毎日 |
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23 |
八月一五日 |
2 |
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救護所での日々 |
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26 |
血と膿の体 |
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29 |
極貧の日々 |
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32 |
死亡者名簿の私の名前 |
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37 |
救護所の閉鎖 |
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39 |
日赤病院へ入院 |
3 |
43 |
原爆一号 |
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44 |
原爆一号の命名 |
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49 |
インタビューや訪問客に追われる |
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写真(1947年)広島日赤病院の屋上でライフ誌の撮影に協力。 |
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51 |
医学学術集会での研究材料 |
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写真(1949年)広島日赤病院を慰問したプロ野球選手と。故小西得郎氏、藤村冨美男氏の姿も。 |
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54 |
ケロイド手術の失敗 |
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57 |
患者会結成と強制退院 |
4 |
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原爆ドーム横集落時代 |
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62 |
野宿 |
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65 |
原爆ドーム横にみやげ物店開店 |
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70 |
被爆者を訪ね歩く |
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78 |
原爆傷害者更生会の誕生 |
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83 |
原爆乙女と私 |
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写真(1950年)日赤広島病院を訪れた日本ペンクラブの一行と。故川端康成氏の姿も。 |
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写真(1953年)東大附属病院小石川分院で、原爆乙女の診察に立ち会う。 |
5 |
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被爆者運動の組織化 |
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92 |
原爆被害者の会を結成 |
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100 |
ケロイドを見せものにしてなぜ悪い |
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写真(1963年)ヒロシマみやげをつくるのもひと苦労。福島菊次郎氏撮影。 |
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103 |
原爆被害者の会の協力会 |
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105 |
原爆被害者の会分裂 |
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111 |
ABCCの横暴 |
6 |
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原水爆禁止世界大会 |
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118 |
平和都市広島の再興 |
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128 |
原水爆禁止広島市民大会 |
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129 |
ネール首相の広島訪問 |
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写真(1957年)広島原爆病院前で故ネール首相と。 |
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131 |
国会請願と日本被団協結成 |
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134 |
原爆一号の店取り壊し |
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写真(1957年)原爆一号の店の前で。 |
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136 |
原水禁運動の分裂 |
7 |
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バー「原始林」開店 |
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138 |
マスターの私、ママの妻 |
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140 |
ホステス、被爆者の売春婦 |
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144 |
不愉快な客 |
8 |
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東南アジア歴訪 |
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150 |
パール博士の碑文への疑問 |
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157 |
インドネシアでの広島出身元日本兵 |
9 |
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映画と私 |
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164 |
「原爆の子」 |
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166 |
「ひろしま」 |
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167 |
「生きていてよかった」 |
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168 |
「二十四時間の情事」 |
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169 |
「ヒロシマ一九六六」 |
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175 |
「記録なき青春」 |
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176 |
「ヒロシマの証人」 |
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177 |
挫折した「小さな恋人たち」 |
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178 |
「灯は生きていた」 |
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178 |
流産した「にっぽんの青い鳥」 |
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180 |
反響をよんだ「はだしのゲン」 |
10 |
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折り折りの人 |
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182 |
宗教と私 |
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186 |
病に倒れた峠三吉 |
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189 |
首相官邸前で割腹自殺した小林雲徹 |
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写真(1957年)クリスマス島英水爆実験に抗議して座り込み。右端が小林雲徹。 |
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193 |
ガンで死んだ南小一 |
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197 |
広島へ通った土門拳 |
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写真(1953年)原爆一号の店の前で土門氏と。 |
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203 |
結びにかえて |
『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815)目次
頁 |
事項 |
口絵 |
上図:著者の両腕と背のケロイド(松笠やうのもの) |
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下図:ライフ誌上に掲載された一文 |
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「ライフ」特派員より著者に送られた書簡 |
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病床にある著者と妻。英文はタイム誌上に掲げられた一文 |
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永久に平和記念館として保存される旧産業奨励館 |
1 |
序 (富田勝己 <京都府立医科大学外科教室> ) |
5 |
目次 |
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図:避難場所、休憩場所 |
1 |
思ひ出の八月六日 |
4 |
悲しき経験 |
11 |
命は助つたが |
15 |
生の欲望 |
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「大粒の雨」、「西原国民学校」 |
21 |
遂に失神 |
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「祇園青年会館」 |
25 |
その夜の救護所 |
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「祇園神社」 |
29 |
可部町勝圓寺にて |
29 |
父を亡ふ |
|
「可部の警察署の診療所」、「勝圓寺の御堂」 |
33 |
八月十五日を迎ふ |
37 |
顕著な原爆症状 |
42 |
絶望より微かな希望へ |
52 |
焼土廣島の見開 |
59 |
復員列車をみる |
63 |
友情に泣く |
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三次町より川内村へ |
70 |
無医村に迎へる冬 |
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赤十字病院に入院 |
75 |
三度廣島へ |
79 |
闘病生活つづく |
87 |
山根さんの人間的魅力 |
91 |
再び思ひ出の八月六日 |
97 |
平和の黙祷 |
100 |
死の淵を彷徨 |
103 |
春を迎へて |
105 |
平和の礎石に |
111 |
実験臺上へ |
116 |
「ライフ」特派員と會ふ |
122 |
跋 (伊藤嘉夫 広島赤十字病院皮膚科医学博士 ) |
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後記( 吉川清) |
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帯 |
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口絵 |
京都印書館=1944年(昭和19年) 人文書院と立命館出版部ほか京都の出版社数社が企業整備により統合し誕生した出版社。http://www.jimbunshoin.co.jp/company/c285.html
【資料】原爆第1号吉川清の試み
『中国新聞』 1951.4.3
原爆第1号きのう退院
昭和21年1月広島赤十字病院に入院、療養をつづけていた原爆1号吉川清氏は前後16回におよぶ手術で健康を全く回復し2日午後退院、5年2ヵ月の病院生活に別れをつげた。
(吉川清氏談)私は原爆による限りない苦悩を過去の長い病床生活において切実に味わってきた。同じような原爆による傷害者とかたく手をたずさえ、更生の道をどこまでも突き進みたい。このような意味からこのたび広島原爆傷害者救済援護会を設立した。
『中国新聞(夕刊)』 1951.6.4
インドから援助第1号!
めぐり来る原爆7周忌を前に原爆第1号患者として有名な吉川清氏(38)を中心に同病傷害者のうち127名の有志が内外の浄財によって人造パール製造の共同作業所と原爆患者診療所を設置し、相互に雄々しく立ち上がらんとする朗話がある。
原爆傷者立上がる 作業・診療所“われらの手で”
発起人に選ばれた吉川氏は6年にわたる入院生活からさる4月2日退院、爆心地産業奨励館ドーム前に夫人生美さん(30)とともに外人相手にみやげ物店を開業、細々ながら再起の日々を送っていたが、たまたま同地の整地作業に訪れる原爆ケロイド患者の日雇人夫の人々と病状を語り合うと共に、身体障害でどん底の困窮生活にあえぐ人々の多きを知り“なんとか相携えて働ける仕事 もちたい”と話し合った結果、予算70万円で次の事業計画をたて、かつて日赤入院時代同氏を見舞った内外人にこの基金募集を呼びかけ、すでにインドのシャルマン氏(昨年12月来広)がニューデリーにおいて松本滝蔵代議士と会見、50万円寄付の伝言があり、6月からは地元名士の援助署名運動に着手している
▽共同作業場=主として海外輸出用の人造パール(真珠)の製作ならびに販売
▽原爆患者の診療所の設置=原爆患者に対し実費治療ならびに一般困窮者の無料診察および相談(担当医は日赤副委員長服部達太郎氏が無料奉仕で当たる)
(吉川氏談)なんとかこの同病患者が結束して暗い気持を忘れ仕事にぼっとうして立上がれば幸いと思っています。予算面もインドから50万円近く送金するという手紙もあり、残りは私がリュックサックを背負って全国資金行脚してでも完成さす決心です。
やまぐち・ゆうこ |
19161022生20000103没 |
享年83 |
広島市生まれ。広島女学院専門学校中退。29歳の時、疎開先から広島に入市し被爆。国内精神養子運動に参画。広島子どもを守る会副会長、日本原水協代表理事、同筆頭代表理事、非核の政府を求める会常任世話人などを歴任。小説『荒れ地ばら』で1982年に第14回多喜二・百合子賞を受賞。 |
著書(本)
書名 |
編著者 |
発行所 |
発行年月日 |
つるのとぶ日-ヒロシマの童話 |
大野允子、御手洗旬江、宮本泰子、山口勇子 |
東都書房 |
19630725 |
かあさんと呼べた日 |
山口勇子編 |
草土文化 |
19780720 |
絵本おこりじぞう |
山口勇子(原作)・沼田曜一(語り)・四国五郎(絵) |
金の星社 |
197911 |
荒れ地野ばら |
山口勇子 |
新日本出版社 |
19810830 |
おこりじぞう |
山口勇子(作)四国五郎(絵) |
新日本出版社 |
19820625 |
原爆瓦-世界史をつくる十代たち |
山口勇子 |
平和文化(発行)・汐文社(発売) |
19820707 |
みずき芽吹くとき |
山口勇子 |
新日本出版社 |
19840325 |
子どもに平和を・平和の教育を |
山口勇子 |
あゆみ出版 |
19850120 |
ヒロシマの火 |
山口勇子(さく)・四国五郎(絵) |
新日本出版社 |
19880806 |
にんげんの鎖(上・下) |
山口勇子 |
新日本出版社 |
19890610 |
原爆の火の長い旅 |
山口勇子 |
新日本出版社 |
19910625 |
著書(雑誌)
ひづめ・しのぶ |
19940102没 |
享年91 |
広島県被団協理事。1955年皆実原爆被害者の会会長。原水爆禁止広島母の会の活動、機関紙「ひろしまの河」。 |
日詰忍年表
1955 |
02 |
10 |
日詰しのぶ(広島市皆実町)、ロンドン医師会代表ホレース・ジュールスから体験談を聞きたいとの招待状を受け取る。 |
1955 |
02 |
16 |
森滝日記=夜、世界平和集会世話人会。日詰忍夫人がロンドンの医師団体(代表ホレース・ジュール博士)に招かれて原爆被災の体験談をすることになったので、その支度金カンパにつき相談うける。(目標五万) |
1955 |
02 |
20 |
原爆被害者の会、日詰忍の渡英壮行会を事務所で開催。会員13人が参加。(「めばえ」NO.7) |
1955 |
02 |
22 |
森滝日記=午後2時半、日詰さん安芸で立つ。渡辺、佐久間氏らとともに見送り。 |
1955 |
03 |
06 |
日詰しのぶ・居原貴久江(長崎被爆者)・山本杉・岡本彰祐、英国へむけて羽田を出発。 |
1955 |
03 |
13 |
日詰しのぶ・居原貴久江・山本杉、ロンドンに到着。(日本経済夕刊) |
1955 |
03 |
23 |
原爆被害者の会、渡英中の日詰忍の第1報を入手。(「めばえ」NO.6、NO.7) |
1955 |
04 |
05 |
山本中国新聞社長のもとに渡欧中の日詰忍から詳しい報告と感想が届く。 |
1955 |
04 |
19 |
原爆被害者の会幹事日詰忍、英国から帰国。(「めばえ」NO.6) |
1955 |
05 |
03 |
日詰しのぶ(原爆被害者の会)、渡英の旅から広島に帰る。 |
1955 |
08 |
07 |
日詰忍、原水爆禁止世界大会第4分散会(農協ビル)に参加。 |
1956 |
02 |
20 |
広島県被団協代表の市川千代子・山田静代・日詰忍、国会の原水爆禁止決議へのお礼のための上京を終え帰広。(朝日新聞) |
1959 |
11 |
21 |
「冷戦終結推進・安保改訂打破日本平和大会」、東京で開催。-23日。広島県平和委員会から日詰(皆実)・村上(婦民)・板倉(書記局)など6名が参加。 |
1994 |
01 |
02 |
日詰忍(広島県被団協理事)、死亡。4日のお別れ会には300人が参加。 |
資料
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案内状「第7回先人を語る会(慰霊と講話)海外で最初の被爆証言~日詰忍さんを語る会~」(主催:広島市原爆被害者の会、日時:2018年10月13日、場所:広島平和記念資料館) |
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投稿タイトル |
掲載書誌 (発行年月日) |
7年の記 |
原爆に生きて-原爆被害者の手記(19530625) |
欧州に招ねかれて |
開拓者(195508) |
一枚の服 |
めばえ(19560501) |
(アンケート特集への回答) |
平和(広島平和をきずく児童・生徒の会)(19570805) |
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座談会・被爆体験と今日私たち |
ひろしまの河NO.2(19610801) |
署名 |
ひろしまの河NO.2(19610801) |
被爆体験と平和憲法 |
ひろしまの河NO.4(19611201) |
みちのくのたび |
ひろしまの河NO.4(19611201) |
勲章について一言 |
ひろしまの河NO.11(19650101) |
うた[短歌] |
ひろしまの河NO.12(19650801) |
日詰忍 |
ひろしまの河NO.13(19660301) |
吉川生美
きっかわ・いきみ |
生20131228没 |
享年92 |
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爆心地から約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆。夫の「原爆1号」と呼ばれた故吉川清とともに、戦後のヒロシマを生き抜く。 |
閃光を背負って―原爆第一号の足跡(毎日新聞(広島版)連載1989年8月16日~9月6日
回 |
掲載月日 |
見出し1 |
見出し2 |
1 |
0816 |
署名運動 |
救済求め手を組もう |
2 |
0817 |
請願書 |
最初は”外注”友人に依頼 |
3 |
0818 |
被爆者の叫び1 |
「このケロイドを見よ」 |
4 |
0819 |
被爆者の叫び2 |
東京でも体験語る |
5 |
0822 |
被爆者の叫び3 |
被害者の会を脱退 |
6 |
0823 |
八・六友の会 |
すべてと仲良く |
7 |
0824 |
抗議 |
広島の人間として |
8 |
0826 |
あがき |
自分が手がけたのに |
9 |
0830 |
吉川清の思い |
この”肩書”ずしりと |
10 |
0831 |
歩み・上 |
権利の主体へと |
11 |
0902 |
歩み・中 |
土産物店など経営 |
12 |
0902 |
歩み・下 |
ぐち口にせず往生 |
吉川清
きっかわ・きよし |
生19860125没 |
享年74 |
「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。 |
資料
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『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815) |
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『 閃光を背負って―原爆第一号の足跡』毎日新聞(広島版)連載1989年8月16日~9月6日 |
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『 吉川清氏資料概要(中間報告)』(広島平和記念資料館、20030317) |
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リンク:吉川生美(きっかわ・いきみ)20131228没 享年92歳。「原爆1号」と呼ばれた故吉川清は夫。 約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆した。 広島市東区のグループホームで死去。 |
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止
森滝日記
『中国新聞』連載 1984年1月1日~8月1日 200回
第部 |
見出し |
回 |
日記日付 |
1 |
運命の日 |
1~14 |
19170113~19460314 |
2 |
反核への道 |
15~30 |
19461203~19550803 |
3 |
世界への訴え |
31~50 |
1950920~11995590806 |
4 |
分裂の軌跡 |
51~88 |
19600116~19630805 |
5 |
被爆地の願い |
89~128 |
19630818~19690814 |
6 |
風化に抗して |
129~158 |
19700101~19741009 |
7 |
統一への模索 |
159~200 |
19750302~19820805 |
|
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ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。