小佐々八郎 作業中
19940216没 | 小佐々八郎 | こささ・はちろう | 88 | 日本被団協顧問。長崎原爆被災者協議会会長などを歴任。藤居平一氏の紹介で自宅を訪問。 |
資料年表:小佐々八郎
年月日 | 事項 | 備考 |
止
小佐々八郎 作業中
19940216没 | 小佐々八郎 | こささ・はちろう | 88 | 日本被団協顧問。長崎原爆被災者協議会会長などを歴任。藤居平一氏の紹介で自宅を訪問。 |
資料年表:小佐々八郎
年月日 | 事項 | 備考 |
止
『人間に未来はあるのか-ある物理学者の問い』(庄野直美、勁草書房、19820710)
内容
章 | |||
序 | 滅亡の深淵 3 | ||
1981年秋の大学祭(大阪K大学)の講演(演題:滅亡の深淵-一物理学者の未来観) | |||
核時代 3 真の民主主義 14 人間らしい心 17 人間的基本価値 22 われらに未来はあるのか 27 |
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1 | 出生-広島からの出発 33 | ||
太田川 33 広島へ 41 広島一中 44 日本帝国崩壊の足音 48 広島高等学校 50 九州へ 56 原爆投下 60 |
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2 | 敗戦-混沌のなかで 67 | ||
1945年8月15日 67 廃墟と屍の街 71 夜明けの混迷 79 博多にて 87 アメリカの占領政策 96 物理学と唯物論と 102 |
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3 | 半独立-それでも希望を抱いて 107 | ||
再び広島へ 107 アメリカとソ連 116 ヨーロッパからヒロシマヘ 127 原水爆禁止運動 135 世界平和巡礼 145 |
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4 | 再生-人間の探究 156 | ||
ヒロシマ・ナガサキの論理と心 156 原爆被害の実相と核戦争 173 平和教育と平和研究 193 科学と宗教 205 弁証法的二元論 226 |
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あとがき | |||
止
被害者をめぐる今日までの動き<作業中>
今日までを三期に分け、(Ⅰ)戦後より講和条約締結(26年9月まで)(Ⅱ)第1回世界大会まで(Ⅲ)第1回世界大会より今日まで、とする。
(Ⅰ)戦後より講和条約締結(26年9月まで)
(1)まず考えねばならないのは、終戦当時一般市民の間に、感覚的と思われるにしても、ガスを吸ったからとか水をのんだからとか、の言葉が自分の症状に十分関係があるが如くに聞かれたものである。
(2)
(3)アメリカへの訴えての救済活動(浜井市長時代)
(4)谷本牧師の動き
(5)広島平和記念都市建設法
(6)ABCCの問題
(Ⅱ)第1回世界大会まで(1955・8)まで
(1)
(2)
(3)広島市原爆障害者治療対策協議会発足
(4)
(5)ビキニ水爆実験を契機として
(6)1954年8月6日の原水爆禁止広島平和大会
(7)
(8)
(9)
(10)
(11)
(Ⅲ)第1回世界大会より今日まで、
゜ビキニ事件→被害者救援を刺激(しかしまだ大衆運動とはならぬ)
゜第1回世界大会までは、禁止運動と救援運動は一応無関係(禁止運動は自分たちには無関係で白々しい、という被害者の言葉があったほど)
゜第1回世界大会を契機として事態が一変
◇第1回世界大会(1955・8 於ヒロシマ)の被害者問題における意義
゜大会の討議と結論から次の方向が生まれた。
(a)被害の実相調査
(b)傷害の治療と予防問題
(c)生活保障の問題
(d)自立活動
◇第2回世界大会(1955・8 於ナガサキ)の被害者問題における意義
◇以上の観点からして、第1回大会後今日までの被害者をめぐる動きをみる場合、その活動状態は、(a)(b)(c)(d)の4項目によって整理することができ、その際第2回大会の役割は、それらを飛躍さす契機としてとらえればよいのであろう。
(1)第1回大会以後今日までの動きで特筆すべき組織の結成をまずあげてみる。
(ⅰ)原水爆禁止日本協議会の中に被害者救援委員会が設立された。 1955年9月
(ⅱ)救援委員会の発足。1955年11月26日、原水爆禁止広島協議会の中につくられ、役員としては、委員長(渡辺忠雄氏)副委員長(正岡旭氏、服部円氏他3名)幹事長(藤居平一氏)などをきめた。ただし渡辺氏が委員長を受諾されなかったため、委員が決定できなかった。
この委員会の目的
(a)原爆被害者の不幸な実相をあらゆる人々に伝え、救援を呼びかける。
(b)救援のために努力しているあらゆる団体、個人及び施設と協力して精神面、医療保健面、及び経済面などによりする救援をおこなう。
(ⅲ)全国社会福祉協議会の中に、原爆被害者対策特別委員会が設置される。(1955.11、 原水協関係の委員-山高シゲリ(全地婦連委員長)藤居平一(広島)香田松一(長崎)
(ⅳ)広島市原爆障害対策協議会が、広島原爆障害対策協議会に発展した(1956.4)
(ⅴ)日本原水爆被害者団体協議会の発足
1956.8.10 第2回世界大会の中から生まれたこの会の目標と方針は次のように決議されている。
一、
ニ、
三、
四、
五、被害者組織を強化して団結をつよめよう。このためどんな地域でも、被害者のいまいる処には必ず組織をつくり、この協議会に参加させよう。
(ⅵ)
(2)具体的に進められてきた活動
(ⅰ)被害の実態調査
(ⅱ)被害者組織の結成
(ⅲ)原水爆禁止運動
(ⅳ)生活と生命を守る運動
(ⅴ)救援金及び救援物資
(3)今後の問題点
(ⅰ)援護法をめぐる問題点
(ⅱ)根治療法の問題
原爆被害を根本的に治療する方策は、現在のところ、いかなる国においても完成されていないようである。****
この意味で、過去の運動の中で常に唱えられてきた国際的放射線医学研究機関の設置が望まれるのである。ところで最近、広島の医師および原子力科学者(大学人会有志)の或るグループが、医学・物理学・化学の綜合的観点から、広島の原爆症の基礎的な調査、研究を始めているのは注目に値しよう。この成果が一日も早く出されることを期待しよう。
(註)本文章の起草は、藤居平一、庄野博允<庄野直美>の両名が担当しました。
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鎌田定夫
かまた・さだお | 1929生20020226没 | 享年72歳 | 長崎総合科学大学教授、長崎平和研究所長。 |
資料年表:鎌田定夫
年月日 | 事項 | ||
1929 | |||
**** | 誕生 | ||
1970 | |||
0809 | 『沈黙の壁をやぶって』(長崎県教職員組合長崎総支部、長崎市原爆被爆教師の会編、労働旬報社) | ||
鎌田定夫「 第六章 原爆体験の継承と国民教育への展望 -長崎の屈折した体験の中から」 | |||
2002 | |||
0226 | 死亡。 | ||
0228 | 「非核不戦に生きて =鎌田定夫が残したもの= 上 」(『長崎新聞』20020228) |
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0301 | 「非核不戦に生きて =鎌田定夫が残したもの= 中 」(『長崎新聞』20020301) |
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0302 | 「非核不戦に生きて =鎌田定夫が残したもの= 下 」(『長崎新聞』20020302) |
||
2006 | |||
1125 | 『時代を生きて 文集・鎌田定夫』(『時代を生きて』刊行会) | ||
止
資料年表:甲斐英男
年月日 | 事項 | 備考 |
1927 | ||
1120 | 生 | |
1980 | ||
0918 | 『広島, 全2巻〈歴史と文化〉〈史蹟郷土史〉』(講談社出版研究所著、講談社) | |
第一部 広島県の歴史 九、幕末動乱と広島県の成立 甲斐英男 131 |
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1983 | ||
0825 | 『広島県の百年 県民百年史34』(有元正雄、天野卓郎、甲斐英男、頼祺一著 山川出版社) | |
1985 | ||
0117 | 『甲斐英男先生山陽新聞賞受賞記念 講演とディナーの夕べ』(「アンデルセン」6階ホール、1985年1月17日) | |
1986 | ||
0331 | 『広島市公文書館紀要 第9号』(広島市公文書館) | |
軍都広島の都市経営と宇品-広島市会の論議を中心に-(甲斐英男) 29 | ||
1989 | ||
0206 | 没。享年61歳 | |
0331 | 『広島市公文書館紀要 第12号』(広島市公文書館) | |
渡辺則文「甲斐英男運営委員の逝去を悼む」 123 | ||
0601 | 『追悼 甲斐英男先生』(『追悼甲斐英男先生』出版世話人<渡辺則文・天野卓郎・有元正雄>) | |
2016 | ||
03 | 『広島市 甲斐英男氏蒐集文書仮目録』(広島県立文書館) | |
甲斐英男
かい・ひでお | 19271120生19890206没 | 享年61 | 広島県史編さん室時代の上司。 |
止
資料年表:藤原彰
年月日 | 事項 | メモ |
1922 | ||
0702 | 誕生。 | |
1979 | ||
09 | 藤原教授宛宇吹依頼状(控) | |
<作業中> | ||
2003 | ||
0226 | 逝去。享年 80歳 | |
0531 | 藤原彰さんを偲ぶ会。参列者:約200名。於:学士会館。 | |
リーフレット:「藤原彰さんの足跡」 | ||
藤原彰
ふじわら・あきら | 19220702生20030226没 | 享年 80歳 | 歴史学者。宇吹は1980年5月1日から81年2月28日まで文部省内地研究員として一橋大学藤原彰研究室に在籍。<資料年表:藤原彰> |
止
長田三郎
おさだ・さぶろう | 生19940205没 | 享年74 | 父は長田新。 |
資料年表:長田三郎<作業中>
年月日 | |||
誕生 | |||
臨時徴収現役兵として、南支(かつての中国南部)で敗戦を迎え捕虜収容所に収容され復員。 | |||
長野県上田市へ移住 | |||
1983 | |||
0430 | 「 燕」 長田三郎16 | ||
『反戦のこえ 詩集2』(戦争に反対する詩人の会) | |||
1985 | |||
0213 | 「歴史をくりかえさないために 」 長田三郎 | ||
『信州白樺 長野新特集』第61・62・63号 | |||
1987 | |||
第1回 上田平和音楽祭。 | |||
第4回から第6回まで実行委員長 | |||
上田市はやはりすごかった: てんこ盛り人生 (way-nifty.com) | |||
1990 | |||
0101 | 「ヤシガニ」 長田三郎 18 | ||
『稜線 季刊詩誌 No.33 冬』(稜線の会、 1990.1) | |||
0701 | 「原爆の子をめぐりて」 | ||
『わだつみのこえ90号』(日本戦没学生記念会) | |||
1992 | |||
0720 | 『燕 長田三郎反戦反核詩集』(稜線の会) | ||
1994 | |||
0205 | 長田三郎死亡 | ||
07 | 『稜線』51号 長田三郎追悼 | ||
0701 | 長田三郎「『原爆の子』と長田新」 | ||
1.だまって死んでしまえるものか | |||
2.映画「ひろしま」 | |||
3.広島子どもを守る会 | |||
4.8月6日 | |||
5.平和の砦を築くために | |||
出典:『占領下の広島 反核・被爆者運動草創期のものがたり』 | |||
2000 | |||
1001 | 鈴木初江「わが心友、長田三郎」 4 | ||
出典:『火幻』第44巻169号 | |||
2011 | |||
1231 | 「長田三郎との出会い」 | ||
出典:『君たちに捧げる 『原爆の子』(岩波版) 出版六〇周年記念』(中村巖) | |||
2019 | |||
1119 | 『原爆の子』と長田三郎氏 | ||
出典:『原爆の子』と長田三郎氏 (fc2.com) | |||
止
『軍縮と国際安全保障に関するワークショップ・広島セッション 要約記録』(広島市・広島大学・国際連合大学・広島平和文化センター、1981/12/08)
内容
01 | 開会あいさつ 今堀誠二 パルメ委員会招致広島実行委員会委員長 | ||
02 | 歓迎あいさつ 荒木武 広島市長 | ||
04 | 原爆の医学的影響に関する概要説明 大北威 広島大学原爆放射能医学研究所教授 | ||
11 | 原爆の社会的影響に関する概要説明 今掘誠二 広島女子大学学長 | ||
被爆者の証言 | |||
13 | 栗原貞子 詩人 | ||
15 | 深掘義昭 長崎県被爆者手帳友の事務局長 | ||
18 | 秋月辰一郎 聖フランシスコ病院医長 | ||
22 | 松重美人 写真家 | ||
討議 | |||
27 | オルセグン・オバサンジョ委員(ナイジェリア) | ||
29 | アルフォンソ・ガルシア=ロブレス委員(メキシコ) | ||
30 | 宍戸寛 日本キリスト教団大島教会牧師 | ||
32 | オロフ・パルメ委員長(スウェーデン) | ||
33 | ゲオルギ・アルバトフ委員(ソビエト) | ||
35 | 森滝市郎 原水爆禁止日本国民会議代表委員 | ||
36 | 庄野直美 広島女学院大学教授 | ||
37 | 森下 弘 広島県高等学校原爆被爆教職員の会会長 | ||
38 | 相原和光 広島YMCA総主事 | ||
39 | 久保正直 広島被爆者の会会長 | ||
40 | ジャン=マリー・ダイエ委員(フランス) | ||
41 | 森治樹 委員(日本) | ||
43 | パルメ委員長あいさつ | ||
閉会あいさつ | |||
48 | 本島等 長崎市長 | ||
プログラム 50 | |||
参加者名簿 51 | |||
後記 54 | |||
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オロフ・パルメ
28 | 19270130生1986228没 | 享年 59 | スウェーデン首相。在任中に暗殺される。1981年に「軍縮と安全保障に関する独立委員会」委員長として、来広し、原爆資料館などを見学。 |
資料年表:オロフ・パルメ
年月日 | |||
1980 | |||
09 | 「軍縮と安全保障に関する特別委員会」(通称:パルメ委員会、本部ウィーン、委員長:オロフ・パルメ博士)発足。各国の首相、外相経験者で構成。 | ||
1981 | |||
0724 | 広島市の平和問題調査会(委員長:永井道雄元文相)、国連大学(東京)で第2回会合。12月に日本で開く「軍縮と安全保障に関する特別委員会」(通称:パルメ委員会、本部ウィーン、委員長:オロフ・パルメ博士)に広島市での軍縮研究集会参加を要請。 | ||
0806 | ヨーロッパの「1981年平和大行進」5000人がパリに到着。パルメ・スウェーデン前首相も参加。 | ||
1204 | パルメ委員会、国連大学(東京)で東京総会を開催。 | ||
1208 | パルメ委員会、軍縮と国際安全保障に関するワークショップ・広島セッションを開催。 | ||
『軍縮と国際安全保障に関するワークショップ・広島セッション 要約記録』(広島市・広島大学・国際連合大学・広島平和文化センター、1981/12/08) | |||
1209 | オロフ・パルメ、東京でお別れの記者会見。 | ||
1982 | |||
0601 | パルメ「パルメ委員会」委員長(元スウェーデン首相)、完全軍縮に向け各国政府の具体的行動を提言した最終報告を国連に提出。 | ||
『共通の安全保障』(パルメ委員会、日本放送出版協会刊、1982/10/20) | |||
1986 | |||
0228 | パルメ・スウェーデン首相、ストックホルム中心街の路上で暗殺される。享年59歳。 | ||
0806 | 荒木広島市長平和宣言、パルメスウェーデン首相の発言に言及 | ||
止
資料年表:亀井文夫<作業中>
1956/3/8 | われらのうた 1956.3.8 | 第17号 | われらのうたの会 |
1956/5/1 | 婦人公論 1956.05 | 5月号第469号 | 中央公論社 |
1956/8/1 | 中央公論 1956. 8 | 8月特大号 第815号 | 中央公論社 |
1957/12/1 | 中央公論 1957.12 | 12月号 第834号 | 中央公論社 |
1958/8/1 | 中央公論 1958. 8 | 8月号 第842号 | 中央公論社 |
1971/12/1 | 映画評論12月号 1971.12.01 | 第28巻第12号 | 映画出版社 |
1977/1/1 | 一億人の昭和史 10 不許可写真史 | 毎日新聞社 | 毎日新聞社 |
1982/3/15 | 幻の原爆映画を撮った男 三木茂-映像に賭けた生涯 | 宇野真佐男著 | 共栄書房 |
1986/8/15 | ぼくらはアジアで戦争をした 教科書に書かれなかった戦争 Part3 | 内海愛子編 | 梨の木舎 |
1989/8/21 | たたかう映画 ドキュメンタリストの昭和史 | 亀井文夫著 谷川義雄編 | 岩波書店 |
1998/1/20 | 天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲 | 平野共余子著 | 草思社 |
1999/10/30 | 大日本帝国の戦争 2 太平洋戦争 1937-1945 | 毎日新聞社 | |
2002/8/10 | 菊地周の記録 | 菊地周を偲ぶ会 企画 | 菊地周を偲ぶ会 |
2005/12/4 | 部落問題に向きあった100人 | 大阪人権博物館 | 大阪人権博物館 |
2012/6/30 | 核エネルギー言説の戦後史1945-1960 「被爆の記憶」と「原子力の夢」 | 山本昭宏著 | 人文書院 |
2017/10/25 | いのちの籠 2017.10 | 第37号 | 戦争と平和を考える詩の会 |
2021/3/16 | プロデュースされた〈被爆者〉たち 表象空間におけるヒロシマ・ナガサキ | 柴田優呼著 | 岩波書店 |
長編記録映画 人間よ傲るなかれ 映画監督亀井文夫伝 | |||
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