資料年表:亀井文夫<作業中>
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1956/3/8 |
われらのうた 1956.3.8 |
第17号 |
われらのうたの会 |
1956/5/1 |
婦人公論 1956.05 |
5月号第469号 |
中央公論社 |
1956/8/1 |
中央公論 1956. 8 |
8月特大号 第815号 |
中央公論社 |
1957/12/1 |
中央公論 1957.12 |
12月号 第834号 |
中央公論社 |
1958/8/1 |
中央公論 1958. 8 |
8月号 第842号 |
中央公論社 |
1971/12/1 |
映画評論12月号 1971.12.01 |
第28巻第12号 |
映画出版社 |
1977/1/1 |
一億人の昭和史 10 不許可写真史 |
毎日新聞社 |
毎日新聞社 |
1982/3/15 |
幻の原爆映画を撮った男 三木茂-映像に賭けた生涯 |
宇野真佐男著 |
共栄書房 |
1986/8/15 |
ぼくらはアジアで戦争をした 教科書に書かれなかった戦争 Part3 |
内海愛子編 |
梨の木舎 |
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1989/8/21 |
たたかう映画 ドキュメンタリストの昭和史 |
亀井文夫著 谷川義雄編 |
岩波書店 |
1998/1/20 |
天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲 |
平野共余子著 |
草思社 |
1999/10/30 |
大日本帝国の戦争 2 太平洋戦争 1937-1945 |
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毎日新聞社 |
2002/8/10 |
菊地周の記録 |
菊地周を偲ぶ会 企画 |
菊地周を偲ぶ会 |
2005/12/4 |
部落問題に向きあった100人 |
大阪人権博物館 |
大阪人権博物館 |
2012/6/30 |
核エネルギー言説の戦後史1945-1960 「被爆の記憶」と「原子力の夢」 |
山本昭宏著 |
人文書院 |
2017/10/25 |
いのちの籠 2017.10 |
第37号 |
戦争と平和を考える詩の会 |
2021/3/16 |
プロデュースされた〈被爆者〉たち 表象空間におけるヒロシマ・ナガサキ |
柴田優呼著 |
岩波書店 |
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長編記録映画 人間よ傲るなかれ 映画監督亀井文夫伝 |
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止
『長編記録映画 人間よ傲るなかれ 映画監督 亀井文夫伝』(制作:「人間よ傲るなかれ」製作委員会)
内容
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キャスト(未交渉―予定) |
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ナレーター(小林恭治)、亀井の声(滝沢修)、証言者:(土本典昭、伊藤武郎、野田真吉、岸旗江、山田五十鈴、佐藤忠男、大島渚) |
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1 |
プロローグ |
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2 |
メイン・タイトル |
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3 |
関東大震災 |
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4 |
阪妻プロ制作 |
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5 |
昭和初期の社会状況 |
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6 |
「何が彼女をそうさせたか」 |
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7 |
マルクス主義の思想 |
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56 |
原子爆弾投下 |
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74 |
原爆ドーム |
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75 |
原爆資料館 |
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76 |
原子爆弾投下 |
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77 |
その数日後のヒロシマ |
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78 |
ニュース映画 |
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79 |
「朝日ニュース原爆特集号」 |
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80 |
「生きていてよかった」より |
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81 |
ニュース映画 |
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82 |
「世界は恐怖する」 |
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100 |
人間の智恵の暴走 |
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101 |
エピローグ |
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止
『たたかう映画-ドキュメンタリストの昭和史』(亀井文夫著 谷川義雄編、岩波書店、19890821 )
目次
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頁 |
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Ⅰ |
ドキュメンタリーをめざして |
001 |
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わんぱく時代/ソビエト留学/上海事変の記録/戦う兵隊/記録映画を考える/記録映画と真実と/ |
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Ⅱ |
わが戦争と平和 |
073 |
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信濃風土記 /シナリオ小林一茶/コミンテルンと雑魚一匹/日本の悲劇/来なかったのは軍艦だけ/ |
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Ⅲ |
戦後を記録する |
137 |
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軍事基地日本 |
138 |
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原爆への視線 |
146 |
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世界は恐怖する |
155 |
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部落差別は生きている |
176 |
Ⅳ |
生物みなトモダチ |
185 |
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ギャラリー東洋人にて |
186 |
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みんな生きなければならない |
197 |
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編者あとがき(谷川義雄) |
215 |
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亀井文夫監督作品目録 |
225 |
亀井文夫
19080401生19870227没 |
かめい・ふみお |
享年78 |
映画監督。被爆者を描いた「生きていてよかった」(1956年)などを制作。 |
止
シナリオ・生きていてよかった
脚本・監督 亀井文夫
製作 原水爆禁止日本協議会・日本ドキュメントフィルム社
広島、長崎の原爆症患者の生活を捉えた真実の記録映画がはじめてつくられた。この姿を世界中に訴えて!とケロイドの娘さんも自らすすんでカメラの前に立った。これはそのシナリオを亀井監督が本誌のために特に書き改めたものである。
第1部 死ぬことは苦しい[撮影場所のみ摘記]
・(広島日赤病院)
・(長崎医大の付属病院)
・(広島日赤病院の廊下)
・(広島・比治山下のあるバラック)
第2部 死ぬことは苦しい だが 生きることも苦しい
・(ある家の室内)
・(広島の繁華な街)
・(梅の花が咲いている山村)
・(日赤病院の一室)
・(長崎医大の付属病院の一室)
・(諫早から長崎へ通うバス道路)
・(広島・五日市にある戦災孤児育成所)
第3部 死ぬことは苦しい だが、生きることも苦しい でも、生きていてよかった
・(日本座敷)
・(広島市・宇品町にある明成園)
・(ある家庭の庭先)
・(長崎、路地の奥の家)
・(長崎の道路工事)
・(丘陵へつづくなだらかな坂道)
・(長崎の原爆記念館の陳列棚)
・(再び浦上の美しい道)
出典:『婦人公論』1956年5月号
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