『志あるところ必ず道あり 大原亨追悼録・遺稿集』(発行編纂委員会、19910806)
内容<作業中>
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部 |
著者 |
タイトル |
備考 |
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多賀谷真稔・秋葉忠利 |
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序にかえて |
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秋葉忠利 |
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追悼の辞 |
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大原亨 経歴 |
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001 |
第1部-1- |
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社会保障の大原 |
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倒れても、なお、社会保障を 多賀谷真稔 2
大原先生・3つの思い出 伊藤茂 8
年金改革に注がれた情熱 宇津木泰子 13
社会保障制度に生涯を捧げた政治家 内海英男 15
党政策の大先達だった友 堀昌雄 16
「私たちの年金」が生まれた頃の想い出 小口賢三 18
福祉・年金の小原先生への思い 岸田文武 25
30年一筋に医療保障・年金を追究 長尾立子 28
教えられた福祉と平和の国づくり 三井速雄 30
瀬戸内海環境保全と年金で活躍 林義郎 36
「共済組合四法案」の闘いを担って 前田弘 40 |
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045 |
第1部-2- |
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政治家としての大原像 |
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慈しみの心で政治に取り組む 藤音晃祐 46
大衆への愛情をこめた政治家の姿 金子みつ 48
勉強家だった社労の大人 横山泰治 50
頼りがいある海坊だった 上杉佐一郎 54
大原君とはもっと話したかった 小杉進 57
「趣味は勉強」の大原先生 森井忠良 60
政治と郷里の大先輩を偲ぶ 粟屋敏信 63
大原先生の人間像を偲ぶ 小森龍邦 66
衆議第一議員会館215号室 素顔の大原さん 秋信利彦 71
初当選をおでん屋で祝ってくれた人 福岡義登 74
大原先生の幾つかの思いで 江田光子 76
パスポートなしで東独入り 海野明昇 78
在京秘書として働いた思い出から 石川弘美 81 |
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085 |
第2部-1- |
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地元が語る政治家大原 |
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終りを全うした人 竹下虎之助 86
大原先生と広島市長選挙 荒木武 88
県労会議と平和運動での大原さん 浜本万三 90
大原先生は私の労働運動の師 藤崎徳雄 92
遺影を奉じて被爆者援護法の実現へ 森瀧市郎 98
先生との出会いを心に 吉川生美 99
放影研発足のきっかけを作られた先生 重松逸造 101
昭和33年選挙から関わり続けて 山下三郎 103
大原君と広高教組のことども 岡本清 110
平和を望み、愛した大衆政治家 川崎美澄 115
気どらず気さくな人だった 斎藤尊 117 |
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119 |
第2部-2- |
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身近な人が語る大原像 |
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大原亨先生のほこり 鶴敍 120
一言に思いをこめて 庄野直美 134
信心の人・誠実の人・大原先生 武野似徳 135
郷土広島のためにも多大の功績 明星正明 137
町内で語り合った先生の思い出 山本秀雄 138
「むすび会」からと大原先生を懐う 増原千代子 140
「虹の会」の思い(1) 唐川敏子 145
「虹の会」の思い(2) 竹本久子 148
いただいた2枚の書に思う 村井浩 149
大原亨の生まれ故郷を語る 大原信 153
亨さんの生いたちと働きを偲んで 大原輝子 155
私人としての「亨君」を語る 岡本隆 159
勲一等より尊い勲章 山田文雄 165
普段着姿の義兄への思い 大原篤子 172
志あるところ必ず道あり 大原邦夫 174 |
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179 |
第3部-1- |
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最後の論文 |
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90年3月5日付の書簡 180 |
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「逆転下の年金改正の総括」(上) 181
「逆転下の年金改正の総括」(下) 188 |
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195 |
第3部-2- |
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国会における演説・質疑 |
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初質問 第29国会・衆議院社会労働委員会(58・6・27)原爆被爆者の医療対策に関する質疑 196
第68国会・衆議院本会議代表質問(72・2・1)社会保障政策-老人福祉・医療等 207
第68国会・衆議院本会議趣旨説明(72・4・25)「公的年金の年金額等の臨時特例に関する法律案」 226
第71国会・衆議院本会議趣旨弁明(73・7・10)「活動火山周辺地域における避難施設等の整備等に関する法律案」 231
第72国会・衆議院社労委提案理由説明(74・4・4)「原子爆弾被爆者等援護法案」 234
第96国会・衆議院社労委(82・4・22)原爆関係2法案に対する質疑 237
第102国会・衆議院本会議(84・12・13)永年在職議員表彰に対する謝辞 255
第102国会・衆議院社労委(85・5・23)原爆被爆者対策に関する質疑 257
第104国会・衆議院予算案(86・2・17)部落差別問題に関する質疑 272
最後の質問 第116国会・衆議院社労委(89・11・22)国民年金法等一部改正案などに対する質疑 289 |
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止
森脇幸次<作業中>
もりわき・こうじ |
****生19770430没 |
享年68 |
中国新聞論説委員、取締役編集局長、中国地方経済連合会常務理事。 |
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出典:『広島新史編修手帖 No.1』 |
止
杉村春子
すぎむら・はるこ |
19060106生19970404没 |
享年91 |
女優。本名:石山春子。広島市出身。『広島県現代文学事典』(九内悠水子・記)。映画吹き込み現場に立ち会う。<投稿> |
資料年表:杉村春子<作業中>
年月日 |
事項 |
備考 |
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出典:C=「中国新聞」 |
1906 |
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0106 |
誕生。 |
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1961 |
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0614 |
杉村春子・朝永振一郎・末川博・亀井勝一郎・坂田昌一・中島健蔵・鈴木一雄、「7人の集まり」を結成、平和アピール発表。(『平和アピール20年運動史』) |
C |
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1963 |
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0613 |
人権を守る婦人協議会、「原子力潜水艦の日本寄港に反対する婦人へのアピール」を発表。市川房枝・山高しげり・淡谷のり子・平塚らいてう・杉村春子など151人が署名。 |
C |
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1966 |
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0601 |
「東京の原爆被害者をはげます集い」、東京都体育館(東京・千駄ヶ谷)で開催。都内の被爆者・家族約1700人など約8000人が参加。松本清張・杉村春子など在京文化人有志50人の呼びかけ。 |
C |
1967 |
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0714 |
広島テレビが芸術祭参加番組として制作するセミ・ドキュメンタリー「百日紅の花」の撮影始まる。監督:松山善三、主演:杉村春子。 |
C |
1004 |
広島テレビ制作、芸術祭参加番組「百日紅の花」放送(日本テレビ系は10日)。監督:松山善三、出演:杉村春子、木村光江ら。 |
C |
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1969 |
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広島テレビ、芸術祭参加番組「碑(いしぶみ)」。 |
C |
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2006 |
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0714 |
映画「母たちの祈り」でナレーションを務めた杉村春子さんから「ヒロシマの心とあるが、これはどういうことか」と尋ねられ、立ち会っていた私(宇吹)は、「ある市民からノーモア・ウォ―、ノーモア・ヒロシマと聞きました」と言ったら、「その気持ちで読もう」と言われた |
C |
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『中国新聞』(2006年7月14日) |
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止
伊藤実雄<作業中>
いとう・じつお |
19060325生19840404没 |
1946年4月の総選挙で広島全県区(当時)から初当選、1期。『古稀を越えて 伊藤實雄』(1982.2.25) |
資料年表:伊藤実雄
年月日 |
事項 |
備考 |
1906 |
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0325 |
出生地:広島県安芸郡熊野町。 |
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1945 |
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0808 |
子息・伊藤忠造(広島県立広島1中1年)原爆被爆により死亡。(「ご遺族からのアンケート」『ゆうかりの友』pp.91-92) |
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1977 |
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0729 |
『回顧録』(広島県農業会原爆物故者追悼法要執行委員会) |
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1982 |
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0225 |
『古稀を越えて』 |
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1984 |
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0404 |
死亡。 |
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止
資料年表:大北威<作業中>
年月日 |
事項 |
備考 |
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C=出典:『中国新聞』 |
1976 |
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0606 |
大北威、第17回原子爆弾後障害研究会で発表。「広島の被爆者の白血病発生は全国平均に比べ依然高率」 |
C |
1977 |
広島大学原医研、大北威血液学研究部門教授を新所長に選出。4月1日発令。 |
C |
0224 |
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1981 |
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0319 |
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)<第1回>、米バージニア州ワレントンで開幕。~25日。12カ国100人が参加。日本から大北威、市丸道人(長崎大学)、庄野直美(広島女学院大学)が出席。 |
C |
1208 |
パルメ委員会、広島市で研究討論集会。大北威と今堀誠二(広島女子大学長)が被爆の実相を説明。 |
C |
1982 |
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0403 |
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)<第2回>大会、英ケンブリッジ大学で開催。大北威が被爆後障害をスライドで紹介。 |
C |
1983 |
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0618 |
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)<第3回>大会、オランダ・アムステルダムで開催。福原照明広島市医師会長、大北威原医研教授が出席。7月12日、福原照明・大北威、帰国の記者会見。 |
C |
1984 |
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0405 |
大北威、野間祐輔広島県医師会副会長、児玉克哉(10フィート運動広島若者の会)の3人の核戦争防止国際医師会議(IPPNW)第4回世界総会への参加が決まる。 |
C |
1985 |
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03 |
大北威広島大学原医研教授、定年を待たず退官へ。国立名古屋病院副院長に就任。 |
C |
1215 |
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)のノーベル平和賞受賞を記念する学術講演会、広島市内で開催。大北威国立名古屋病院副院長、IPPNW共同代表2人が広島訪問実現の見通しと述べる。 |
C |
12 |
広島平和文化センターの米国戦略爆撃調査団が広島の被爆直後を撮影した16ミリカラーフィルム全10巻の解説文作業完了。松重美人(写真家)・庄野直美・大北威の3人が担当。 |
C |
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|
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|
止
大北威
おおきた・たけし |
生20080402没 |
享年83 |
広島大原爆放射線医科学研究所所長。ノーベル平和賞を受賞(1985年に)した「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」のメンバー。<投稿> |
初代事務総長の大北威 先生は1962年、原医研血 液学部門の開設とともに名 古屋大学より赴任、1965年 に同部門の教授となられ た。被爆者白血病の研究と ともに、白血球の細胞回転 などの研究に携わり、1977 年から4年間は原医研所長 も務められた。大北先生は1985年に国立名古屋 病院副院長に就任、後に同病院の院長、名誉院 長を務め、JPPNW愛知県支部長やJPPNW顧問 もなさったが、2008年4月2日に逝去なさった。<出典:片岡勝子「思い出:IPPNW日本支部と歴代事務総長のことども」(広島県医師会速報2375号、20180625)>
止
資料年表:ヨハネ・パウロ二世<作業中>
年月日 |
事項 |
備考 |
1920 |
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0518 |
誕生 |
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1978 |
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1016 |
ヨハネ・パウロ二世就任 |
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1980 |
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0925 |
ヨハネ・パウロ二世の広島訪問(198102)が決まる。 |
C |
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C=出典:『中国新聞』 |
1221 |
ヨハネ・パウロ二世の1981年2月の訪日発表。 |
C |
1981 |
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0107 |
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の特使エルネスト・ガリ―ナ大司教ら3人、広島入り。原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学。10日、パウロ・マルチンスク大司教も。 |
C |
0223 |
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世、日本カトリック司教協議会の招きで来日。 |
|
0225 |
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世、広島入り。原爆慰霊碑参拝、約2万5000人の信者らの前で平和アピール(9か国語)発表、原爆資料館見学。広島市公会堂で講演「技術・社会そして平和」。6時間滞在、長崎へ。 |
C |
0225 |
ローマ法王、ヒロシマ・アウシュビッツ委員会(桑原英昭会長)が守るアウシュビッツの遺骨を祝福。 |
C |
0225 |
ポール・チベッツ(広島原爆投下機エノラ・ゲイの機長)、仏のテレビで原爆投下を「後悔していない」、「ローマ法王の平和を求める人道主義に敬意を表する」と語る。 |
C |
03 |
広島原爆資料館、ローマ法王の平和アピールをマーク・ハットフィールド米上院議員を通じレーガン大統領に送る。 |
C |
0410 |
広島原爆資料館、からの贈り物公開。1945年8月8日のバチカン市の新聞『オブセルバトーレ・ロマーノ』(イタリア語)のコピー銅板。 |
C |
0402 |
『ヨハネ・パウロII世 教皇訪日公式記録』(主婦の友社、1981/04/02) |
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0413 |
広島市、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の広島訪問の記録映画を完成。 |
C |
06 |
藤枝良枝(広島市)、「ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の平和アピールを記念碑に残そう」と呼びかけ |
C |
0830 |
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世、第二次大戦勃発42周年を前に、核兵器廃絶の訴え。「広島・長崎を思い出すことは核戦争をこの世からなくすこと」 |
C |
1102 |
ホセ・テオン(エリザベト音大学長)、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の指示で故エドモンド・ブランデン(英詩人)の詩「ヒロシマー1949年8月6日に寄せて」を作曲、同大の定期演奏会で発表。 |
C |
1104 |
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世来広の記念碑の建設委員会発足。藤枝良枝の呼びかけに原田東岷・栗原貞子・河村盛明(広島平和文化センター理事長)ら応じる。 |
C |
1226 |
被爆瓦とローマ法王の平和アピールを刻んだ「平和のためのモニュメント」が広島YMCAビジネス専門学校に完成、除幕式。 |
C |
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1982 |
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0225 |
『平和への道 教皇ヨハネ・パウロⅡ世来広記念文集』(カトリック正義と平和広島協議会「平和を願う会」) |
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0225 |
『ローマ法王歓迎の集い』(広島市) |
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0228 |
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の平和アピール碑建立委員会(原田東岷委員長)、広島市内で初の街頭募金。提唱者の藤枝良枝さんらが協力を呼びかける。 |
C |
0315 |
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C |
04 |
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C |
0611 |
|
C |
0615 |
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C |
0721 |
|
C |
09 |
|
C |
1983 |
|
|
0225 |
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の平和アピール碑除幕 |
C |
0531 |
|
C |
1984 |
|
|
0914 |
|
C |
1985 |
|
|
0806 |
|
C |
0905 |
|
C |
|
|
|
1987 |
|
|
0108 |
|
C |
0225 |
|
C |
0401 |
|
C |
1988 |
|
|
0410 |
|
C |
|
|
|
1991 |
|
|
0225 |
『戦争は人間のしわざです』(カトリック正義と平和広島協議会) |
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0319 |
|
C |
1992 |
|
|
0223 |
|
C |
|
|
|
1994 |
|
|
0225 |
|
C |
|
|
|
|
|
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2005 |
|
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0402 |
ヨハネ・パウロ二世離任。死去、84歳。 |
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|
止
ヨハネ・パウロ二世
よはね・ぱうろ |
19200518生20050402没 |
享年84 |
4月2日(日本時間3日)。1981年2月25日広島訪問。<『教皇訪日公式記録 ヨハネ・パウロⅡ世』主婦の友社、19810402><資料年表:ヨハネ・パウロ二世 > |
止
森亘
もり・わたる |
19260110生 20120401没 |
享年86歳 |
元東京大学総長。原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会座長。 |
原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会
昭和60年 |
1985年 |
10月 |
厚生省が原子爆弾被爆者実態調査において、死没者に関する調査を初めて実施 |
平成2年 |
1990年 |
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厚生省が原爆死没者に対する弔意の表し方について検討を開始 |
平成3年 |
1991年 |
|
国が原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会を設置 |
出典:祈念館について | 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 (hiro-tsuitokinenkan.go.jp)
止
山西義政
やまにし・よしまさ |
19220901生20200401没 |
享年97 |
(株)イズミ(広島県広島市、山西泰明社長)創業者。1997年、個人コレクションを中心に泉美術館を開設。 |
資料年表:山西義政<作業中>
年月日 |
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19220901 |
誕生 |
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19970427 |
泉美術館開館。山西義政の個人コレクションをもとに出発。 |
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20110819 |
写真展「復興の記憶」。~9月19日 。 |
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20180728 |
「ヤミ市から立ち上がった広島商人」<記憶から紡ぐあのころの広島>(『広島市被爆70年史 映像編』) |
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20200401 |
死亡 |
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止
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。