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故議員砂原格君に対する追悼演説

故議員砂原格君に対する追悼演説

出典:『第68回国会 衆議院 本会議 第31号 昭和47年5月23日』

  • 002 船田中

    ○議長(船田中君) 御報告いたすことがあります。  議員砂原格君は、去る八日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。  同君に対する弔詞は、議長において去る二十一日贈呈いたしました。これを朗読いたします。   〔総員起立〕  衆議院は多年憲政のために尽力しさきに逓信委  員長運輸委員長の要職にあたられた議員従三位  勲二等砂原格君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞  をささげます     —————————————  故議員砂原格君に対する追悼演説

  • 003 船田中

    ○議長(船田中君) この際、弔意を表するため、大原亨君から発言を求められております。これを許します。大原亨君。   〔大原亨君登壇〕

  • 004 大原亨

    ○大原亨君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員砂原格君は、去る五月八日逝去されました。まことに痛恨の念にたえません。
     私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしんで哀悼のことばを申し述べたいと存じます。
    (拍手)
     顧みれば、昭和二十年八月六日午前八時十五分、広島市に史上最初の厚子爆弾が投下され、ただ一発のこの原爆によって全市は一瞬の閃光とともに灰じんに帰し、未曽有の惨状が現出いたしたのであります。このとき、砂原さんは爆心地にほど近い自宅において被爆され、建物の下敷きとなり、文字どおり九死に一生を得られたのであります。あなたは口にこそ出されなかったが、あなたのからだは、その後終生放射能の恐怖にさらされることになったのであります。
     砂原さんは、それに加えて宿痾の糖尿病が悪化して、本年初めから東京において入院加療し、さらに三月中旬からは被爆者治療の権威である郷里の広島赤十字病院に移って治療に専心しておられました。しかし、私が、去る三月、病院にお見舞いしたときには、奥さまと差し向かいでおいしそうに食事をしておられ、「もうだいじょうぶだよ」と言って、病人とも思えぬほど元気であり、かたい握手をして別れたのであります。また、最近は、再起を期して病院の廊下で歩行練習もされ、「六月になったら東京に行くんだ」と言われていたとのことであります。その御様子から、私はあなたが登院される日の近いことを信じ、心からお待ちしていたのでありますが、五月八日夜、だれもが思いもかけなかった病状の急変を来たし、奥さまの手を、しっかりと握ったまま、生けるがごとく大往生を遂げられました。主治医は、あなたの生命を断った要因に原爆症があったことを指摘されましたが、私は、原爆の悲惨さに思いをいたし、深い悲しみとともに強い憤りを抱かずにはおられません。  私は、昭和三十三年本院に議席を得て以来十四年余になりますが、この間五回にわたる選挙を通じて砂原さんと相争ってまいりました。互いに党派を別にし、主義主張を異にしておりましたが、庶民的政治家としての砂原さんに対し、心からの尊敬の念を抱き、あなたを相手として戦うことを誇りとしていたのでありまして、いまここに砂原さんの急逝にあい、私は、いまさらのように人生の無常を感ずるとともに、心から痛惜の念を覚えるものであります。(拍手)
     砂原さんは、明治三十五年四月、広島県高田郡白木町の農家にお生まれになりました。高等小学校を卒業後一たん農業に従事されましたが、独立独行の志かたかったあなたは、広島市に出て、幾多の辛酸をなめつつ未来への模索を続けた末、二十二歳にして土木建築事業を興し、事業家としての第一歩を踏み出されました。その後事業は次第に拡大され、やがて砂原組をはじめ各種の分野で幅広く活躍されることになりました。その間、広島商工会議所副会頭にもあげられ、地方産業界の指導的役割りを果たされたのであります。
     砂原さんが地方政界に入られたのは昭和十七年でありました。あなたは、時のいわゆる翼賛選挙に憤慨をし、持ち前の反骨精神から、敢然として広島市会議員の選挙に非推薦で立候補し、初当選をされたのであります。以来、市会議員として、その庶民性と実行力をもって市政の推進にこん身の熱意を傾け、多くの業績をあげられたことは、広島市民周知の事実であります。
     そして、昭和二十年八月六日、突如としてあの原爆に襲われたのであります。戦後十六年間にわたって広島市長であった故濱井信三氏は、その著書「原爆市長」の中で、「焼け跡にもようやく秋の気配が動きはじめた。八月の終りから九月の初めにかけて身に傷を受けず、火傷もしなかった人たちが、次々に倒れていった。被爆直後から市役所に出て来て、さかんに活躍していた市会議員の砂原格氏も姿を見せなくなった」と書いていますが、砂原さんもついに原爆症のため病床に伏すのやむなきに至りました。原爆のため肉親を失い、みずからも脱毛や歯ぐきよりの出血などの重症におちいりましたが、不屈の砂原さんは、よくこれを乗り越えて再び不死鳥のように立ち上がり、地元町内会長、消防団長をはじめ市会議員として、混乱の極にあった市民の救済に挺身をされました。
     翌二十一年には市会議長の要職につかれ、焦土と化した広島市の復興に全力を傾注し、また、昭和二十二年からは県議会にも議席を占めて、戦後の復興と民生の福祉増進に尽くし、県民の信望を大いに集められたのであります。(拍手)
     そして、昭和二十七年十月、第二十五回衆議院議員総選挙が行なわれるや、あなたは、祖国の再建と郷土広島の復興のため努力したいとの決意を固め、激戦の広島県第一区から勇躍立候補し、みごと当選の栄を獲得されたのであります。(拍手)  本院に議席を得られた砂原さんは、長年地方政界においてつちかわれた経験と、あくまでも庶民の生活に根ざした実際的感覚をもって国政に当たられ、その活躍ぶりは独自のものがありました。
     昭和三十五年には、第二次池田内閣の通商産業政務次官に就任をされ、中小企業の振興、特に零細企業について、商工会の制度創設に尽力をされました。昭和三十八年には、同じ池田内閣の厚生政務次官となり、みずからの貴重な体験に基づいて原爆被爆者対策に積極的に取り組み、また当時から、「街に緑を」と提唱するなど、公害問題に対して先駆的な考えを示されました。
     本院においては、運輸、商工、逓信、建設その他各委員会の委員あるいは理事となって、各方面にわたり幅広い活躍をされました。そして、逓信委員長あるいは運輸委員長の要職にもあげられ、よくその重責を果たされたのであります。
     しかしながら、砂原さんの本領は建設行政にありました。特に、通路問題については、実務を知悉した経験とその卓越した実行力をもって貴重な意見を吐き、欠くことのできない権威として、つとに同僚議員の認めるところでありました。「近代的な交通網の整備は、その国の発展の証左であり、国民の生活や生産を向上させる基本である。」これは、道路の重要性がなお実感として受け取られていない当時からの国土開発に対する砂原さんの政治信念であり、砂原さんが政治生命をかけて提唱してこられたところであります。
     昭和四十一年には、国土開発縦貫自動車道建設法の改正案が成立しましたが、砂原さんは、この法律の制定あるいはまた道路建設の実施にあたって、献身的な努力をいたされました。  最近におきましても、本州四国連絡橋公団法案の制定あるいは道路整備五カ年計画の推進に、陰ともひなたともなって努力をされたのでありまして、この間の砂原さんの尽力は高く評価されなければなりません。(拍手)
     それにつけましても、砂原さんが執念を燃やしておられた地元の中国縦貫自動車道あるいは中国横断道が完成半ばにして急逝されたことは、砂原さんにとって大きな心残りであったでありましょう。
     自由民主党にあっても、道路調査会副会長として、また政務調査会審議委員として、党の政策の立案推進に大きな発言力を持っておられたのであります。
     かくして、砂原さんは本院議員に当選すること前後六回、在職十四年八カ月に及び、この間国政に残された功績はまことに偉大なものがあります。
     思うに、砂原さんは真の大衆政治家であり、きっすいの政党政治家でありました。「政治は、足と真心だ。これに尽きる。奉仕の気持ちで三百六十五日、足を使わなければだめだ」、あなたはこれを政治活動の基本姿勢とし、いたずらに理想に走らず、常に大衆に接し、大衆の心の中に政治の方向を求めてこられました。「困った人があったらまず救済の手を差し伸べ、理屈や法律はそのあとについてくればいいではないか」と言いつつ、はだで感じ取った真実を黙々として現実の政治の上に具現してこられたのであります。そして、時にその政治姿勢に向けられる批判も甘受し、断固としてわが道を歩み続けられたのでありますが、私は、そこにこそ大衆政治家砂原格君の真骨頂があったと信ずるものであります。(拍手)
     砂原さんは、裸一貫から身を起こし、あらゆる辛酸をなめながら、不撓不屈の信念を堅持して、独立独歩、よく今日を築かれました。世人は、そのあなたを立志伝中の人、あるいはまた、その風貌も加えて、今太閤と評しております。しかし、私は、砂原さんが、人生の試練に直面するごとに、それをみずからを高めみがくかてとし、大衆を愛する至情に転化し、政治家としての、また人間としての形成に昇華してこられたことにこそ、惜しみない敬意と拍手を送りたいと思うのであります。  あなたの訃報に接し、広島のお宅には次々と弔問客が訪れたのでありますが、その中には、砂原さん直筆の手紙の束を両手にしっかりと握りしめ、ぼう然として涙にくれながら霊前にただずむ一市民の姿も見られたのであります。(拍手)それはまさに、みずからを顧みず寸暇をさいて世のため人のためをはかってこられた砂原さんをいたむにふさわしい情景でありました。
     御年七十歳。あなたの生命のともしびは静かに消えて、平和の象徴としてよみがえった広島の地において永遠の眠りにつかれたのでありますが、その全生涯をただ一筋に大衆にささげられたあなたのみたまは、多くの人たちの胸中に不滅の灯としていつまでもいつまでも燃え続けていくことでありましょう。  現下、内外の情勢は激しい流動を続けております。このときにあたり、庶民の中から生まれ、常に庶民とともにある砂原さんのごとき政党政治家を失いましたことは、返す返すも残念なことであり、まことに大きな損失と申さなければなりません。  人の値打ちは棺をおおうてきまる。いま私は、病床で最後の握手をかわしたときのあなたのがんじょうでしかもあたたかい手のぬくもりをしみじみと感じつつ、砂原さんの人となりをしのび、その功績をたたえ、心から御冥福をお祈りして、追悼のことばといたします。(拍手)

砂原格

砂原格

すなはら・かく 19020403生19720508没 享年70歳 『砂原格追想録』(砂原格先生顕彰会・会長森本亨、1978.5.8)

資料年表:砂原格<作業中

年月日 事項 メモ
1902
0403 誕生
1952
0425 『藤野七蔵氏追懐録』(広島瓦斯)
砂原格「産業界の巨星」445
0920 『川よとわに美しく 詩集』(米田栄作著、第二書房)
砂原格「跋」
1954
0625 『ながれ』(村上哲夫著)
砂原格:信用は真実、真剣 <318~320頁>
1965
0330 『砂原組40年史』
1972
0508 死亡
1974
0120 『高田郡史 下巻』
「砂原格」< 518頁>
1978
0508 『砂原格追想録』(砂原格先生顕彰会・会長森本亨)
1995
0301 『砂原組70年史』

 

渡辺忠雄

渡辺忠雄

わたなべ・ただお 18980715生19800506没 享年81歳 元広島市長(1955~59年)。

資料年表:渡辺忠雄<作業中

年月日
1898
0715 山県郡大朝町生まれ。
1928
** 弁護士開業
1946
0411 ~460622衆議院議員(日本自由党)。公職追放。
1955
0430 広島市長選挙。当選。5月2日就任、1959年5月1日退任。
0730 臨時市議会「原子炉導入については世界の科学的水準が高い国々ではすべて原子炉の平和利用の試験が行われ、実用化の段階に入っているので日本だけ、広島市だけが原子力の平和利用に狭量であってはならない。適当な時期に受け入れる気持ちである」
0806 広島市平和記念式典。平和宣言。
1007 第7回広島建設促進協議会、参院議員会館(東京)で開催。渡辺市長の提案で同協議会規約「平和記念都市建設の促進をはかる」を「産業都市建設の促進をはかる」に変更し、協議会の新発足を決める。
1123  原水爆禁止広島県民協議会発足。代表委員7名の一人にに選ばれる。
 1956
0103 中国新聞紙上で柴田重暉市議会議長と対談。「選挙で公約したように私は従来の『平和都市建設』をさらに進めて『産業都市建設』へすべての施策をもっていきたい」
0215 原水爆禁止広島市協議会の結成大会、広島市公会堂で開催。会長に渡辺市長。
0705 広島市、米から帰国した原爆乙女8人を招き、市社会館で渡辺市長を囲み座談会。
0806 広島市平和記念式典。平和宣言。
0928 渡辺市長の平和宣言に米ハワイ・ホノルル市長から返書。
1012
1015
1022
1956
0207
0806
1959
04 広島市長選挙。落選
1978
0508 『砂原格追想録』
渡辺「情熱に燃え実行型の士」pp.55-57
1980
0506

 

高橋和巳

高橋和巳

たかはし・かずみ 19310831生19710503没 享年39歳 作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)<投稿>

資料年表:高橋和巳<作業中

年月日 事項 備考
1931
0831 大阪市浪速区で誕生。
1949
07 京都大学文学部(旧制)入学。
1965
1130 『憂鬱なる党派』(河出書房新社)
1967
06 京都大学文学部助教授。
1969
03 大学闘争の最中、学生側を支持して京都大学文学部助教授を辞職
0615 『京大闘争 京大神話の崩壊』(京大新聞社編・京大全共闘協力、三一書房)
「大学問題をめぐって」ティーチイン(大学変革委員会 講師:高橋和巳)
学生H:僕は4回生ですが、今現実的に卒業や大学院入試がせまっていて、どうしようか迷っています。現実の問題として入試中止といった事態も起こりかねない時に、先生や闘争を組んでいる諸君は一体どんな展望を持っているのか。卒業や入試をひかえた者のことも考えてほしい。
1110
1971
0503 死亡。享年39歳。
0705 『文芸臨時増刊 高橋和巳追悼特集号』(河出書房新社)
1130 『高橋和巳作品集3 憂鬱なる党派』(河出書房新社)
1976
 0115  『わが解体』(河出書房選書)
 1978
 1201  笠原伸夫「高橋和巳論 暗鬱志向の原拠」(『現代思想12月号』青土社)

原爆体験記読書会(198604~198703)

原爆体験記読書会
呼び掛け人:田原幻吉・宇吹暁
全11回(198604~198703)

原爆体験記研究会1986a

 

出席者
1 04 08 「絶後の記録」

参加者:大野・中川・豊永・宮道・舟橋・冨沢・春日・羽原・内田・宇吹・田原

2 05 13 参加者:中川・若林・江崎・豊永・宮道・冨沢・羽原・内田・渡辺・宇吹・田原
3 06 10 「原爆の子」。

参加者:大野・若林・江崎・豊永・宮道・舟橋・宇吹・田原

4 07 08 参加者:大野・中川・豊永・羽原・内田・宇吹・田原
5 09 09 「星は見ている」。

参加者:大野・若林・江崎・豊永・舟橋・宇吹

6 10 14 参加者:大野・若林・舟橋・内田・宇吹・田原
7 11 11 「天よりの声」。

参加者:中川・豊永・舟橋・内田・宇吹・田原

8 12 09 「もうひとつのヒロシマ」。

参加者:中川・若林・江崎・豊永・舟橋・羽原・内田・宇吹・田原

9 01 13 参加者:若林・江崎・舟橋・内田・渡辺・宇吹・田原
10 02 10 参加者:江崎・豊永・宮道・内田・宇吹・田原
11 03 10 参加者:大野・若林・豊永・宮道・舟橋・羽原・内田・島津・宇吹・田原

ヒロシマは問う(田原伯197107)

ヒロシマは問う(「ヒロシマは問う③」『朝日新聞』連載)

幻の原爆白書 作製の熱意、国になし 死者数も不明確なのに
40年8月6日、首相官邸で、世界平和アピール七人委員会から原爆被災白書づくりなどの陳情を受けた佐藤首相。
「私のオイも、広島で原爆を受けて死んだ。原爆は大事な問題だと思う。あらゆる手をつくすよう関係の大臣に指示する」
役所やめ資料集め 口先だけの「調査」 苦闘の記録も廃棄
<写真キャプション>
「ひとつでも多くの惨禍の物証を」
――足で集め回った被爆資料を整理する田原さん。が、貴重な文献類が生かされる日はいつくるのか。むなしい気持ちに襲われることもある。
a197107b2
参考資料「広島・長崎は問う<2>幻の白書」(197007**)
a197107a2<写真キャプション追加>「広島平和記念資料館で」

 

原爆資料の収集と保存を考える(今堀・山崎・田原)

原爆資料の収集と保存を考える(今堀・山崎・田原)

中国新聞連載

年月日
19680307(上) 今堀誠二
特質無視のウ報告 資料の不足で迫力欠く  原爆被災資料広島研究会への期待
19680308(中) 山崎与三郎(原爆資料保存会幹事)
原爆資料の重要性 体験と実証で平和を 年とともに困難さ増す
19680308(下) 田原伯(原爆文献研究家)
個人の体験からの発言 分類・整理が急務 独力で一万点を集める
tahara19680309
気違い扱いの十年
 10年余り前、それまでの務めをやめて、ただ原爆資料の収集に全生活を当てたので私は「原キチ」と呼ばれ、変り者扱いにされてきた。
現在約一万点の原爆資料を集めることができた。
資料不備な図書館
全国の古本屋捜し
整理・研究が日課
収集三原則と分類
これは田原氏の談話をまとめたものである。

 

ピカ研の指摘により作成した正誤表

ピカ研の指摘により作成した正誤表(20200704現在)
作成:宇吹 暁

年月日 書名
19710806 広島原爆戦災誌 第1巻
19710906 広島原爆戦災誌 第2巻
19711006 広島原爆戦災誌 第3巻
216 広島中央電話局(1.0km) 広島中央電話局(500m)
19711106 広島原爆戦災誌 第4巻
888上 田原伯 幻吉
19711206 広島原爆戦災誌 第5巻
19720331 広島県史 原爆資料編
19840329 広島県史 年表
19880325 広島県戦災史 116 天主閣 天守閣
19800715 原爆被災学術資料センター蔵 原水爆関係資料目録(Ⅰ)1974年4月~1978年12月
「お国がつくる見本の本 学者用 税立図書館」
19850301 原爆被災学術資料センター 原爆関係蔵書目録(Ⅱ)1979年1月~1983年12月
多数の指摘
19900731 原爆被災学術資料センター 原爆関係蔵書目録(Ⅲ)1984年1月~1988年12月
多数の指摘
1985 IMAGES FOR SURVIVAL <Exhibition of American and Japanese Peace Posters>
19890401 図説広島市史 172 「広島平和記念都市建設法」は、広島市民の平和への決意の結実であるとともに国内外のノーモア・ヒロシマズの声の象徴である。
この法に基づく広島の復興と市民のたゆみない平和への努力を基盤として、今日の広島市は国際平和文化都市を目指して進んでいる。
なぜか
172 ピカドン(昭和25年8月刊) (昭和25年8月6日刊)
172 原爆詩集(昭和26年9月刊) 原爆詩集(昭和26年9月20日刊)
173 『アサヒグラフ』 原爆特集号 『アサヒグラフ』 原爆被害の初公開
174 (写真15)原爆被災全体像調査のための市民集会
(所蔵者・提供者等)中国新聞社
(所蔵者・提供者等)金井・幻吉
174 (写真17)平和公園 (写真17)平和大通り
226 グアム島<「原爆投下機はグアム島発進!? 図説広島市史に誤記」『中国新聞19920331』
255 峠三吉「一九六五年のヒロシマ」(昭和二十一年八月二日) 峠一夫 21.12.1
1992 原爆文献にみる戦後史 平成4年度広島市公文書館常設展示
1992 都築・弓野資料にみる占領下の原爆災害調査 平成4年度広島市公文書館常設展示Ⅱ
多数の指摘
19960331 ヒロシマの被爆建造物は語る
098 『ニューヨーカー』 使用了解を
308 李将軍
365 原爆被災資料総目録1.2.3 原爆被災資料総目録1.2.3.4
383 ピカ研究所提供 ピカ資料研究所
386 年表広島 年表ヒロシマ
19960331 被爆50周年 図説戦後広島市史 街と暮らしの50年<本なし、ピカ研メモのみ>
19990726 原爆手記掲載図書・雑誌総目録 1945-1995
田原伯(ピカ研主宰) 田原幻吉(ピカ研所長)
1収録基準(5)改版? (内容変更)=改訂
2収録期間(1)1945年8月~1995年末
2収録期間(2)確認できる最も古い手記=1946年2月 逆あがり、1945.8.31大田洋子
3記載事項(2)多重者 多重者=記入法
3記載事項(5)所蔵 原医研・国会図 所蔵 原医研・国会図・以外
003 [0011]
013 [0106]<[]内は一連番号>原爆詩集 所蔵:国会図
014 お父さんを生かしたい―平和を叫ぶ子らの訴え 残念もう少し?四集5冊、三集5冊、10冊
031 [0284]<発行年月日日=19580401> <発行年月日日=195606>
201 [2015]原爆を吊ってあった落下傘
289 <19880331上原敏子>

 

 

「ピカより〇〇〇〇〇日」の会

ピカ暦19680706「ピカより〇〇〇〇〇日」の会
設立日:

資料:配布ビラ

年月日 ピカより何日
19680606 8341
 8時15分=8341日=201万1040分=7億2066万2400秒
19680706 8371
19680806 8402
19680906 8433
19681006 8463
19681106 8493
19681206 8524
19690106 8555
19690206 8586
19690306 8614
1240万4160分=7億4424万9600秒
pika2
「読売新聞(広島市内版)」(19740101)掲載広告
 田原幻吉(長崎市万才町3-33)