李鍝
り・ぐう | 19121115生19450807没 | 享年32歳 | 李氏朝鮮王族の子孫。広島原爆で被爆死。 |
資料年表:李鍝<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1912 | ||
1115 | 誕生。 | |
1926 | ||
04 | 学習院中等科を経て、陸軍士官学校予科入学。 | |
1945 | ||
07 | 第二総軍司令部(広島)参謀部第一課教育参謀に任命さる。 | |
李方子『過ぎた歳月』 | ||
0806 | 原爆被災。 | |
0807 | 似島(広島沖)で逝去。32歳。 | |
0808 | 遺体を吉島飛行場から朝鮮京城へ。 | |
宮内省発表(8日正午)李鍝公殿下には一昨六日広島に於て作戦任務御遂行中空爆により御負傷、昨七日戦死せられたり | ||
0810 | 宮内省告示第21号 大勲位李鍝公殿下本月七日薨去セラレタルニ付長子李清公系ヲ襲カセラル 宮内大臣 石渡庄太郎 | |
0815 | 葬儀。 | |
0825 | 『昭和天皇実録』(1945年8月25日の項)=朝鮮より帰朝の式部次長坊城俊良が御文庫に参殿につき、謁を賜う。坊城は、去る十五日の李鍝公(八月七日広島似ノ島陸軍療養所において薨去)の葬儀に参列するため京城へ出張し、その際に見聞した停戦後の混乱状態につき言上する。○侍従日誌、侍従武官日誌、王公族録、徳川義寛終戦日記、松平慶民手帖 | |
1963 | ||
1106 | ~7日。 朴賛珠(李鍝夫人)、陸軍士官45期生の招待でソウルから来広。広島平和記念公園、原爆死没者慰霊碑、相生橋、前田別荘など訪問。 | |
1969 | ||
1016 | 広島県、広島韓国人原爆慰霊碑建立委員会が進める韓国人慰霊碑を平和公園対岸の本川橋西詰河岸緑地への建立を許可。 | |
1970 | ||
0410 | 韓国人原爆犠牲者慰霊碑―李鍝公殿下他弐万余霊位、除幕 | |
1973 | ||
01 | 李方子『すぎた歳月』 | |
第8章 | ||
戦局は日々に暗く/広島に原爆投下/ああ、八月十五日/韓国は独立したけれど | ||
1988 | ||
0915 | 中国放送、テレビ『民族と海峡・広島で原爆死した朝鮮王族李鍝 その生と死を追う』放映。 | |
1989 | ||
0805 | 『資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑』(企画:ピカ資料研究所、編集:「全国在日朝鮮人教育研究協議会・広島」有志<加藤陽祐・多賀俊介・豊永恵一郎>、「ピカ資料研究所」田原幻吉・中川幹郎)、刊行「碑の会」(全朝教有志・ピカ研) | |
1999 | ||
2015 | ||
0903 | 『ともに歩んできた50年 韓日国交正常化50周年記念 駐広島大韓民国総領事館 ニュースレター特別版』(駐広島大韓民国総領事館) | |
韓国人原爆犠牲者慰霊碑と李鍝 35 | ||
り・ぐう | 19121115生19450807没 | 享年32歳 | 韓国人犠牲者慰霊碑(1970年4月10日除幕)の碑文。『すぎた歳月』(李方子、1973年)。『資料・韓国人犠牲者慰霊碑』(ピカ資料研究所など編、碑の会刊、1989.8.5)、『昭和天皇実録』 | ||
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