門秀一
資料年表:門秀一<作業中>
年月日 |
事項 |
備考 |
1915 |
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生 |
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1969 |
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0806 |
『濱井信三追想録』(濱井信三追想録編集委員会) |
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門秀一「平和の灯と浜井氏」 447 |
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1976 |
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中国文化賞受賞。 |
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1994 |
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0902 |
没 |
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0920 |
『広大フォ-ラムNo.314』 |
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金田晋「門秀一先生を悼む」 |
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かど・しゅういち |
1915****生19940902没 |
享年79歳 |
核禁広島県民会議初代議長。広島大学名誉教授。西洋倫理哲学専攻。 |
止
資料年表:林重男<作業中>
年月日 |
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1918 |
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誕生 |
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1971 |
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1208 |
『広島原爆戦災誌 第五巻 資料編』(広島市) |
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13、被爆広島の写真記録者たち 971 |
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1981 |
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0730 |
『写真集 原爆をみつめる-1945年広島・長崎』(飯島宗一・相原秀次編、岩波書店) |
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1983 |
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0221 |
『原爆瓦は語りつづける 原爆犠牲ヒロシマの碑建設の記録』(「原爆犠牲ヒロシマの碑」建設委員会) |
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『ヒロシマの碑』に思う 林重男 32 |
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1992 |
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0619 |
『爆心地ヒロシマに入る カメラマンは何を見たか 岩波ジュニア新書208』(林重男著、岩波書店) |
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1994 |
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0806 |
『ノー・モア・ヒロシマ 50年後の空洞と重さ』(小倉豊文著、風濤社) |
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付録 写真・地図・統計 153
1、被爆後の広島市全景 林重男撮影 154 |
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2002 |
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0901 |
死亡。 |
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2005 |
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0715 |
『原爆と写真』(徳山喜雄著、御茶の水書房) |
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第二章 キノコ雲の下で起こったこと 53
林重男 「道楽」をせずに、忠実に記録 96 |
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2006 |
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0515 |
『疑惑のアングル 写真の嘘と真実、そして戦争』(新藤健一著、平凡社) |
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第三章 戦場とカメラマン 145
原爆を撮った男たち 150 /木村伊兵衛の抵抗-林重男/ |
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2015 |
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0806 |
『広島原爆写真集 決定版 = The collection of Hiroshima atomic bomb photographs』(小松健一、新藤健一編、「反核・写真運動」監修、勉誠出版) |
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対談「原爆を撮った男たち」の証言
松本栄一 林重男 (聞き手・小松健一)…224 |
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1001 |
『被爆70周年 ヒロシマを見つめる三部作 第2部』(広島市現代美術館) |
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爆心地ヒロシマに入る 林重男…24
Entering the Hypocenter in Hiroshima…28
Shigeo Hayashi
図版、作家、作品解説 Plates, Notes, on Artists & Works
林重男 Shigeo Hyashi… |
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2017 |
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0310 |
『戦中・戦後の記録写真Ⅱ 林重男・菊池俊吉・別所弥八郎所蔵ネガの整理と考察』(井上祐子、山辺昌彦、大堀宙著、東京大空襲・戦災資料センター) |
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第1部 総論 4
林重男・菊池俊吉・別所弥八郎のプロフィールと所蔵写真について 井上祐子 5
第2部 林重男所蔵写真解題 13
1.戦中日本における防空と市民の暮らしの写真について 山辺昌彦 14
2.戦中日本における軍関係写真について 大堀宙 20
3.1943年中国取材写真について 井上祐子 28
4.1943年フィリピン取材写真について 井上祐子 36
5.1944年東南アジア取材写真について 井上祐子 38
6.戦後写真について 山辺昌彦 46 |
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2023 |
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0410 |
『原爆写真を追う 東方社カメラマン林重男とヒロシマ・ナガサキ』(林重男・井上祐子著、図書出版みぎわ) |
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01 |
200201 |
林重男 |
はやし・しげお |
84 |
写真家。文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に参加、広島と長崎を撮影。<資料年表:林重男> |
止
林重男
01 |
200201 |
林重男 |
はやし・しげお |
84 |
写真家。文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に参加、広島と長崎を撮影。<資料年表:林重男> |
止
布川弘
ぬのかわ・ひろし |
1958**生20190927没 |
享年61歳 |
山形県生まれ。広島大学大学院総合科学研究科教授。広島市被爆70年史編集研究会で同席。 |
著書:『“近代都市”広島の形成』(吉川弘文館、2018年)
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はじめに(勝部眞人) |
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1 |
近代日本の秩序形成(近代日本社会における「外来」と「在来」の構造的な連関;歩兵第四十一連隊の福山転営と市制施行への動き;戦間期国際秩序構想と日本―太平洋問題調査会における論議を中心として;国際平和運動における新渡戸稲造と賀川豊彦の役割) |
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2 |
片隅から見た日本の近代(「片隅」に込めた意味;広島藩における海防の端緒と砲術;戦争と神機隊;救民の構想と軍事;武一騒動;成立した新政府への対抗;第五師団の成立;片隅から見た現在) |
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世界の片隅からの視座(勝部眞人) |
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止
資料年表:福島菊次郎<作業中>
年月日 |
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19210315 |
福島菊次郎誕生。 |
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19610801 |
「被爆者の苦悩みつめる福島菊次郎の写真集「ピカドン』」(『中国新聞(夕刊)』平岡敬・記) |
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1963 |
(写真)ヒロシマみやげをつくるのもひと苦労。福島菊次郎氏撮影。<『「原爆一号」といわれて ちくまぶっくす36』(吉川清、筑摩書房、19810724)所収> |
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196608 |
福島菊次郎「原爆白書」(『アサヒカメラ』) |
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19750806 |
福島菊次郎(下関出身のフリーカメラマン)写真展「30年目のゲンバク―放射能遺伝傷害の恐怖」、ギャラリー「アメリア」(東京)で開催。 |
C |
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19820701 |
福島菊次郎「ヒバクシャの戦後」<『原爆展 忘れまい、この惨禍』(朝日新聞東京本社企画部 )所収> |
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19870830 |
『戦争がはじまる 福島菊次郎全仕事集』(福島菊次郎、社会評論社) |
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19890722 |
写真家福島菊次郎の写真展「天皇の戦争責任とヒロシマ」、広島市で開催(小西のぶ子記念館主催、24日まで)。 |
C |
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199508 |
反原発団体「原発いらん!下関の会」主催「反原発写真展」下関市の旧英国領事館で開催。福島菊次郎らの写真。 |
C |
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19950921 |
東京都写真美術館(主催・会場)「核―半減期(広島・長崎の写真)」 |
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19990806 |
原爆・原発・差別などを写した社会派写真家・福島菊次郎の作品を常設展示する写真資料館、下関市内に開館。 |
C |
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20110615 |
「被爆者の苦悩みつめる福島菊次郎の写真集「ピカドン』」<『時代と記憶 メディア・朝鮮・ヒロシマ』(平岡敬、影書房)> |
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20120806 |
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C |
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20121110 |
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C |
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20130201 |
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C |
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20130827 |
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C |
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20130901 |
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C |
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20141019 |
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C |
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20150620 |
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C |
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20150708 |
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C |
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20150714 |
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C |
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20150924 |
福島菊次郎死去 |
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20150926 |
「反原発・反戦貫く 関係者悼む 福島菊次郎氏が死去」(道免雅良・井上龍太郎) |
C |
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20150927 |
「天風録」 |
C |
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20150930 |
那須圭子「福島菊次郎さんを悼む」 |
C |
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20151001 |
『論』写らなかった戦後 私たちが読み取る番(佐田尾信作・論説主幹) |
C |
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20151121 |
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C |
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20151223 |
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C |
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20170626 |
『ピカドン ある原爆被災者の記録』(福島菊次郎著、復刊ドットコム) |
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20220710 |
「書評 福島菊次郎」あざなえる記憶」(那須圭子) |
C |
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止
栗原登 くりはら・みのる<作業中>
19261130生20160907没 |
享年90歳 |
広島大学原爆放射能医学研究所所長(1985年4月1日~1987年3月)。 |
止
『広島原爆とアメリカ人 ある牧師の平和行脚 』(谷本清著、日本放送出版協会 、19760720)
内容
章節 |
タイトル |
備考 |
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序にかえて |
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1 |
原爆に生き残って |
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1-1 |
運命の八月六日 |
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1-2 |
廃墟の中で |
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1-3 |
一牧師のビジョン |
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2 |
和解の旅 |
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1948年9月~1950年1月(15ケ月間)、31州、256都市、472の教会その他の団体で講演582、聴衆約160000名、旅行距離約65800マイル |
2-1 |
ピース・センターの構想 |
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2-2 |
第一印象 |
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2-3 |
メンジスト教会ミッション・ボードと私 |
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2-4 |
本格的巡回始る |
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2-5 |
ピース・センター独自の途を歩む |
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2-6 |
被爆地ヒロシマをどうするか |
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2-7 |
平和請願運動 |
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2-8 |
平和請願運動潰される |
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2-9 |
真珠湾記念日とヒロシマ・デー |
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2-10 |
東京裁判と死刑執行への反応 |
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3 |
嵐の中の平和行脚 |
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1950年9月~1951年7月(8ケ月間)、24州、201都市、242団体 講演295、聴衆約5600名、旅行距離約34500マイル |
3-1 |
朝鮮戦争下のアメリカへ |
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3-2 |
講演の新内容を求めて |
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3-3 |
ニューヨーク入り |
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3-4 |
カズン氏は極めて多忙である |
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3-5 |
ヒロシマ・ピース・センター理事会 |
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3-6 |
今回の巡回旅行の特色 |
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3-7 |
嵐の中の平和運動 |
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4 |
原爆乙女アメリカに往く |
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1955年5月5日~同年12月20日(7ケ月間)、26州、195都市、212団体 講演245、聴衆約47500名、テレビ・ラジオ・新聞64、行程約38100マイル |
4-1 |
日本における原爆乙女治療始る |
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4-2 |
米国での治療運動始る |
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4-3 |
資金はどのようにして集められたか |
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4-4 |
ニューヨークの受容態勢 |
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4-5 |
ホスト・ファミリー訪問とカウンセリング |
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4-6 |
原爆乙女の渡米はアメリカに何をもたらしたか |
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〇ヒューストン市の1週間 |
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〇原爆悲劇に対する読みが深くなった |
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〇国際時局に対する読みも深くなった |
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〇募金活動の実情 |
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〇協力を申し出る4つの病院 |
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〇一日本人医師の批判とその影響 |
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4-7 |
ピース・センターはどこへ行く |
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4-8 |
平和の営み |
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5 |
「傷痕」の伴をして |
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1975年9月25日~同年12月15日(80日間)、19州、89都市、105協会その他団体 講演148、聴衆約28800名、旅行約38400マイル |
5-1 |
「傷痕」ダイジェスト |
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5-2 |
講演後の質問応答 |
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5-3 |
核兵器使用に際して新しい倫理の確立が要請されている |
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5-4 |
「傷痕」のどこに感動したか |
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5-5 |
被爆者治療問題の隘路 |
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5-6 |
被爆者の悩みは被爆者以外には判ってもらえない |
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5-7 |
アメリカ講演旅行の総括 |
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原爆乙女の会
代表者 |
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谷本清 |
設立年月日 |
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1950年3月 |
目的及び事業 |
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当初、原爆障害者が聖書を研究することにより、精神的に立ち上がることを目的として、「原爆障害者更生会」として発足した。会員は原爆乙女の外、男子障害者や高年齢の女子障害者も加わっていた。 |
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<中略> |
組織内容 |
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会員数約80名 |
その他の参考事項 |
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この会は、上記のような経過から、現在では男子会員及び女子高齢者会員は徐々に少数となり、現在の原爆乙女の会となった。 |
『原水爆関係団体名簿』(広島市衛生局原爆被害対策課、19670201) |
原爆傷害者更生会 設立:1951年8月27日
書名コード |
書名 |
編著者 |
発行所 |
49081501 |
平和のともしび-原爆第一號患者の手記 |
吉川清・富田勝己(補註) |
京都印書館 |
50072501 |
ヒロシマの十字架を抱いて |
谷本清 |
大日本雄弁会講談社 |
76072002 |
広島原爆とアメリカ人-ある牧師の平和行脚 |
谷本清 |
日本放送出版協会 |
81072401 |
「原爆一号」といわれて |
吉川清 |
筑摩書房 |
サイド・オマール
19260728生19450903没 |
オマール、サイド |
マレーシア出身の南方特別留学生、広島文理科大学在学中被爆、昭和20年9月3日京都で死亡 |
資料
宇吹暁「第29回オマール氏法要」(『広大フォーラム 22期5号』1990年11月20日)
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。