千羽鶴-原爆の子の像の記録(豊田清史、昭森社、19580806)目次
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1 |
起き上った子どもたち |
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千羽鶴の折紙も空し |
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「こけしの会」から「平和をきずく会」へ |
4 |
少し勉強して出血する |
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非人間への抗議の証 |
6 |
全国の友達の激励に支えられて |
7 |
私たちは論議よりも実践をする |
8 |
級友の手で文集『こけし』を発刊 |
9 |
恵美子さんの臨終 |
10 |
百万の子どものねがい、制作は菊池先生 |
11 |
世界の子どもが手をつなごう |
12 |
クリスマス島の水爆実験に抗議する |
13 |
いためつけられる墓碑 |
14 |
星の一つが見つめている |
15 |
大人の批判もうけて |
16 |
広島の死の事実を |
17 |
世紀の握手、Xマスの集い |
18 |
〈原爆の子〉の祈念像 |
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〈附録〉「平和をきずく児童・生徒の会」のあしあと |
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あとに |
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補記 |
〈附録〉「平和をきずく児童・生徒の会」のあしあと
年 |
月日 |
事項 |
1955(昭和30) |
1025 |
佐々木禎子さんが原爆症でたおれた。12人目。 |
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1110 |
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1225 |
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玉川忠太
たまがわ・ちゅうた |
19870903生19701031没 |
享年73 |
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広島県立医学専門学校講師。後日入市。広島で被爆遺体を解剖。[学研調査]。[広島大学] |
資料
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企画展案内:『病理学者、原子野をゆく―広島大学医学部教授・玉川忠太の原爆症への挑戦』(広島大学医学部医学資料館、2018年8月3日~9月20日) |
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広島大学文書館蔵『大牟田稔関係文書目録』(広島大学文書館)
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発行年月 |
資料編1 |
2013年2月 |
資料編2 |
2014年2月 |
個別編 |
2015年2月 |
書籍・雑誌編 |
2016年2月 |
三村剛昂
みむら・よしたか |
18980301生19651026没 |
享年67 |
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広島文理科大学教授(物理学)。1944年同大理論物理学研究所の初代所長。 |
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資料 |
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『科学者と平和 三村剛昂先生遺稿集』(三村剛昂先生遺稿収録委員会) |
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蔵本淳
資料 |
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『蔵本淳教授退官記念業績集』(広島大学原爆放射能医学研究所病態治療研究部門臨床第一(血液内科)研究分野)、1995年3月 |
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『祝 蔵本淳教授退官記念祝賀会出席者御芳名簿 平成7年3月11日 於リーガロイヤルホテル広島』 |
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碧空―「大牟田稔さんをしのぶ会」報告・追悼集(編集人:海老根勲)
内容
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大牟田稔さんの略歴 |
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大牟田稔さんをしのぶ会呼びかけ人 |
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「大牟田さんをしのぶ会」 |
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【追悼集第1部】 |
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平岡敬 |
見つめ続けたヒロシマ |
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小久保均 |
空ゆかば |
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長岡千鶴野 |
哀しみを乗り越えて |
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嘉指信雄 |
「ヒロシマの鶴」が飛んでゆく |
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松元寛 |
大牟田さん、どうして |
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追悼記事2本(朝日新聞「惜別」中外日報「社説」 |
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メッセージ集…那覇市・真喜志津留子ほか |
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小泉直子 |
大牟田さんからの宿題 |
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繁沢敦子 |
厳しさと優しさと |
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江種則貴 |
端正な字に驚いた |
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平城智恵子 |
「ヒロシマ」に生きる意味 |
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大牟田稔遺稿集 |
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26人の原爆被害者たち |
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インタビュー(機関誌「せこへい」から) |
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「原民喜回顧展」のごあいさつ |
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大牟田稔「古希の記憶」 |
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【追悼集第2部】 |
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直野章子 |
死者を抱きしめながら |
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「しのぶ会」におけるスピーチ |
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中沢啓治 |
通じるものを感じていたのに |
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近藤憲男 |
原稿を書かなかった大牟田さん |
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碓井巧 |
記事への執着 |
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則武真一 |
いい人生を送ったな、大牟田君 |
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秋信利行 |
病床を見守って |
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大牟田聡 |
謝辞「いいオヤジでした」 |
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金井宏一郎 |
親子二代の交わり |
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海老根勲 |
編集後記 |
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今堀誠二資料
冊子・本 |
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広島大学在職中における研究業績目録 1939―1977(今堀誠二) |
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日本学士院賞受賞記念冊(今堀誠二、1980年8月) |
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今堀誠二先生広島女子大学在職期間業績目録―1977年8月~1987年12月(今堀誠二先生業績目録刊行会、1988年9月) |
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青眼―今堀先生の御逝去を悼んで(今堀杯争奪広島大学教職員親睦庭球大会第20回記念、藤川行平編、1992年11月27日) |
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歴史家の旅(今堀誠二、勁草書房、1993年10月20日) |
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アジア研究半世紀の軌跡 今堀誠二遺稿集 (今堀百合子編 刊、2002年5月9日) |
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資料 |
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今堀誠二文書仮目録(広島県立文書館、2007年1月)<請求199608>https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/mokuroku/199608imahori.pdf |
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河合護郎
月日 |
没年 |
よみ |
享年 |
備考 |
1001 |
2012 |
かわい・ごろう |
84 |
広島平和文化センター元理事長。原爆投下の4日後の1945年8月10日、親族を捜すため爆心地付近に入り被爆。50年に広島市職員。企画調整局長、民生局長などを歴任し、87年から5年間、広島平和文化センター理事長。退任後は市民団体「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」の共同代表に就任。 |
今堀誠二先生略年譜
出典:『carnet 手帖 VOL.1 NO1』(1999.11.3)発行:水原肇
年月日 |
事項 |
19141027 |
大阪市天王寺区寺田町で出生 |
193903 |
広島文理科大学史学科卒業。同大学副手。 |
193905 |
外務省留学生として中国に出張。~12月。 |
194506 |
広島文理科大学助教授。臨時召集により10月まで軍務。8月中旬から1か月余広島市で被爆災害の救済にあたり、また、9月中旬広島市郊外大野町の台風災害により埋没した病院の発掘遺体収容作業に従事。このため兵役解除は同時入隊者より2か月遅れ、10月7日に除隊し、大学に復職。 |
195004 |
36才で文学博士。 |
195105 |
広島大学教授に昇進。 |
196602 |
外務省特別研究員。引き続きアメリカ国務省招待で5か月欧米に出張。 |
196902 |
外務省特別研究員として香港に駐在(~1945年4月) |
197103 |
内閣官房国際問題懇談会委員 |
197202 |
外国出張。台湾ほか東南アジア諸国。 |
197204 |
教養部長。大学紛争、総合科学部創設に当たる。 |
197304 |
外交問題懇談会委員。 |
197406 |
広島大学総合科学部初代学長。 |
197709 |
広島女子大学学長。広島大学名誉教授。 |
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198712 |
広島女子大学学長を退任。同大学名誉教授。 |
198804 |
勲二等瑞宝章の叙勲。 |
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199207 |
「谷本清平和賞」受賞 |
19921009 |
逝去 |
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