資料年表:瀬長亀次郎<作業中>
年月日 |
事項 |
備考 |
1907 |
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0610 |
誕生 |
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1958 |
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1225 |
『軍縮と国際協力のためにーストックホルム平和大会の記録』(軍縮と国際協力のための世界大会日本準備会編、日本平和委員会) |
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日本からの報告
3 沖縄のたたかい 瀬長亀次郎(日本) |
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1960 |
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0101 |
『世界 第169号』(岩波書店) |
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転機に立つ沖縄 瀬長亀次郎 241 |
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1966 |
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0201 |
『世界 第243号』(岩波書店) |
|
|
〈座談会〉祖国復帰をどう実現するか-沖縄四政党の立場- 安里積千代・岸本利実・瀬長亀次郎・中村晄兆・〈司会〉新崎盛暉 102 |
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1967 |
|
|
0915 |
『沖縄黒書』(沖縄・小笠原返還同盟編、労働旬報社) |
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沖縄からの告発 瀬長亀次郎 15 |
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1968 |
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0225 |
『沖縄100万の叫び 嬉野京子写真集』(嬉野京子著、新日本出版社) |
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表紙題字 瀬長亀次郎
沖縄は訴える 瀬長亀次郎 6 |
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1001 |
『世界 第275号』(岩波書店) |
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特集 沖縄は主張する
〔アンケート〕沖縄の本土復帰に関する意見 96
・瀬長亀次郎・ |
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1969 |
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1120 |
『平和運動20年記念論文集』(日本平和委員会編、大月書店) |
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平和運動20年に想う 瀬長亀次郎 425 |
|
1971 |
|
|
0201 |
『世界 第303号』(岩波書店) |
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|
コザ・激発する沖縄の心 福木詮 42
沖縄県民を代表して 瀬長亀次郎 52 |
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0401 |
『中央公論 4月特大号 第1005号』(中央公論社) |
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|
〈座談会〉沖縄議員百日目の痛恨
安里積千代/稲嶺一郎/上原康助/喜屋武真栄/国場幸昌/瀬長亀次郎/西銘順治/(司会)鈴木恒夫 102 |
|
0530 |
『沖縄の子本土の子』(本土と沖縄の子どもの作文交流実行委員会、百合出版) |
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|
「沖縄の子本土の子」によせて
この怒り、この痛みを 瀬長亀次郎(衆議院議員) 316 |
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0601 |
『世界 第307号』(岩波書店) |
|
|
意見 あらためて復帰とは何か 151
・瀬長亀次郎・ |
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0731 |
日本原水協第17回原水爆禁止世界大会東京大会。瀬長亀次郎沖縄人民党委員長あいさつ。 |
C |
0810 |
『民族の悲劇 沖縄県民の抵抗 新日本新書』(瀬長亀次郎著、新日本出版社) |
|
1210 |
『民族の怒り もえあがる沖縄 新日本新書』(瀬長亀次郎著、新日本出版社) |
|
1971 |
『世界 第314号』(岩波書店) |
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|
〈特集〉「沖縄」強行採決後
私は質問を拒否した 瀬長亀次郎 29 |
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1972 |
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0201 |
『学習の友 通巻222号』(労働者教育協会編、学習の友社) |
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|
明日をひらくことば 瀬長亀次郎 |
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|
1974 |
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0731 |
瀬長亀次郎、沖縄県伊江島で在日米軍による核模擬爆弾の投下訓練を確認。 |
C |
0831 |
瀬長亀次郎・松本善明、米軍の核模擬爆弾投下訓練問題で小坂徳三郎官房長官臨時代理(総務長官)に申入れ。 |
C |
|
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|
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1975 |
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0701 |
『季刊 科学と思想 夏季号 No.17』(新日本出版社) |
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【ESSAl】 私にとっての戦後三十年 瀬長亀次郎(120) |
|
0801 |
『原水爆禁止世界大会大会の記録 2 第21回 広島・長崎被爆三〇周年』(原水爆禁止日本協議会) |
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|
本会議開会総会 11~24
来賓あいさつ 日本共産党 瀬長亀次郎 18~19 |
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1979 |
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0101 |
『文化評論 No.213』(新日本出版社) |
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瀬長亀次郎「民族三部作」にもふれて |
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0714 |
『日米安保の新段階 軍事ファシズムへの危険な道』(日本共産党中央委員会出版局) |
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|
第二部
〈座談会〉核問題と日米安保条約 (不破哲三、瀬長亀次郎、新原昭治 ) |
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1982 |
|
|
0601 |
『前衛 No.480』(日本共産党中央委員会) |
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復帰十年─ いま沖縄は
闘いのあと 闘いのあす ─民族の悲劇、怒り、そして未来─ 瀬長亀次郎 64 |
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2001 |
|
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1005 |
没。享年94歳。 |
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2012 |
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1010 |
『沖縄人が見た戦世とアメリカ世 第13回特別企画展』(沖縄県平和祈念資料館) |
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Ⅱ部 戦世(イクサユー)からアメリカ世(ユー)へ 23
4 復興へ向けて 41
(1)抵抗のシンボル瀬長亀次郎 |
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2013 |
|
|
0301 |
不屈館、沖縄県那覇市に開設。。瀬長亀次郎がのこした資料をもとにした沖縄戦後史に関する民間資料館。不屈館・新着情報 不屈館 瀬長亀次郎と民衆資料 (senaga-kamejiro.com) |
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2021 |
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0201 |
『世界 第941号』(岩波書店) |
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記録の交差から始まる沖縄――阿波根昌鴻と瀬長亀次郎の日記から |
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|
止
瀬長亀次郎
せなが・かめじろう |
19070610生20011005没 |
享年94歳 |
沖縄人民党委員長。衆議院議員として人民党で1期、日本共産党として連続5期。1973年以降共産党幹部会副委員長 |
止
資料年表:河合護郎<作業中>
年月日 |
事項 |
メモ |
1928 |
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**** |
誕生 |
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1985 |
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0601 |
『21世紀への都市戦略を考える 都市政策フォーラム・in・ひろしま NIRA地域政策研究シリーズ 4』(総合研究開発機構) |
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ゲスト:鈴川俊夫(広島商工会議所専務理事)/檜山且典(広島経済同友会代表幹事)/上田宗嗣(広島青年会議所理事長)/竹下彪(広島県企画振興部長 )/
//河合護郎(広島市企画調整局長) |
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1987 |
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0110 |
『広島市保育連盟三十五年誌』(広島市保育連盟) |
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終章 将来に向けて
河合護郎(広島市民生局長)「保育の昨日・今日・明日」 |
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0401 |
広島平和文化センター新理事長に河合護郎(前広島市民生局長)が就任。河村盛明理事長は理事に。 |
C |
0701 |
『平和文化 第66号』(広島平和文化センター) |
|
|
河合護郎(当財団理事長)「マドリードで世界平和都市会議 ヒロシマの訴えに強い共感」 |
C |
1114 |
広島市で「科学者による国際平和週間・広島集会」発起人は今堀誠二・河合護郎ら14人。 |
C |
1215 |
『広島市医師会だより No.260』(広島市医師会) |
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〈招待席〉河合護郎「国際会議の裏方四方八方話」 |
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1988 |
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0225 |
|
C |
0301 |
『平和文化 第70号』(広島平和文化センター) |
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|
河合護郎(当財団理事)「肌で感じる軍拡から軍縮への流れ 六か国首脳へ荒木市長に随行して」 |
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1989 |
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0530 |
|
C |
0701 |
『平和文化 第70号』(広島平和文化センター) |
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|
核兵器廃絶を!ニュルンベルク宣言採択
西独の連帯都市会議に河合理事長出席
強い核兵器への危機感-ドイツ訪問記 河合護郎
ニュルンベルク宣言 |
|
1989 |
|
|
0530 |
|
C |
0701 |
『平和文化 第78号』(広島平和文化センター) |
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|
核兵器廃絶を!ニュルンベルク宣言採択
西独の連帯都市会議に河合理事長出席 |
|
1990 |
|
|
0520 |
|
C |
0701 |
『平和文化 第84号』(広島平和文化センター) |
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|
核実験場付近のカラウル村で集会
アルマアタ核実験禁止国際市民会議に参加して 河合護郎 |
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1991 |
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0101 |
『平和文化 第87号』(広島平和文化センター) |
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|
河合護郎(訪中団長)「広島市民平和友好訪中団報告 全面軍縮促進で一致」 |
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0121 |
|
C |
1014 |
|
C |
1992 |
|
|
0328 |
『広島医学 1992.03.28 第32回原子爆弾後障害研究会 特集号』(広島医学会) |
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|
河合護郎 特別発言 1.医療推進事業への願いと提言 |
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1993 |
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0529 |
|
C |
0731 |
|
|
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1998 |
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0901 |
『被爆体験証言者交流の集い 10年のあゆみ』(被爆体験証言者交流の集い) |
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|
「ヒロシマを語り継ぐ」
(財)広島平和文化センター前理事長 河合護郎
6.10年目のメッセージ 18 |
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1999 |
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0215 |
『荒木武追想録-ヒロシマの心を世界へ燈々無盡』(荒木武追想録刊行委員会) |
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広島市職員関係者からの追想文
河合護郎 75 |
|
0715 |
『長崎平和研究 第7号』(長崎平和研究所) |
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|
特集2 核兵器廃絶を求める広島・長崎市民の集会(第2回)
(第2部) 「核兵器廃絶に向かって日本は何をなすべきか」
(パネルディスカッション)
水本和美/川副忠子/河合護郎/森野泰成/土田秀夫/梅林宏道/岡本三夫 |
|
1115 |
『長崎平和研究 第8号』(長崎平和研究所) |
|
|
特集2 「いまこそ核兵器廃絶を!市民の集会」
主催者から発題――被爆地から/河合護郎…54 |
|
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|
|
2001 |
|
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0315 |
『核兵器廃絶をめざすヒロシマの会 設立のメッセージ
』(【共同代表】 岡本三夫 河合護郎 森瀧春子) |
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|
2003 |
|
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0731 |
|
C |
1005 |
|
C |
2004 |
|
|
0806 |
『Hiroshima Alliance for Nuclear Weapons Abolition News No.2 2004.8』(核兵器廃絶をめざすヒロシマの会) |
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|
ヒロシマは大丈夫か 河合護郎 |
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|
|
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|
|
|
2008 |
|
|
0903 |
|
C |
2009 |
|
|
0122 |
|
C |
2010 |
|
|
0628 |
核兵器廃絶をめざすヒロシマの会、日本とインド両政府が原子力協定の締結交渉を始めたことに抗議する声明文を菅直人首相・岡田克也外相に送る。 |
C |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2012 |
|
|
0513 |
|
|
1001 |
没 |
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1005 |
『第12回 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会:総会議案(2012.5.13)』 |
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1215 |
『広島ジャーナリスト 第11号』(日本ジャーナリスト会議広島支部) |
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|
河合護郎さん死去 |
C |
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|
かわい・ごろう |
1928****生20121001没 |
享年84歳 |
広島平和文化センター元理事長。原爆投下の4日後の1945年8月10日、親族を捜すため爆心地付近に入り被爆。50年に広島市職員。企画調整局長、民生局長などを歴任し、87年から5年間、広島平和文化センター理事長。退任後は市民団体「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」の共同代表に就任。 |
止
『平和に生きる』(村上経行後援会、19721001)
内容
頁 |
見出し |
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口絵 |
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02 |
まえがき |
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03 |
少年のころ |
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/米騒動の年/小さな正義派 |
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08 |
学生時代 |
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/早稲田へ/冬の時代/学友とマルクス主義 |
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12 |
敗戦前後 |
|
|
/銃剣よさらば/三菱広船へ/結婚/被爆、父の死/待ちのぞんだ朝 |
|
17 |
党を求めて |
|
|
/党本部へ/地区委員会を結成/三菱の組合づくり///// |
|
23 |
日鋼闘争 |
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|
/たたかいの火の手/広船の仲間と/血と怒りと/広がる支援/カチューシャのうた |
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27 |
たたかいの軌跡 |
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|
三菱造船を首に/妻のたたかい/わたしと原水禁運動/署名のない手紙 |
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28 |
[コラム]夫を語る 身内も難題もずばっ(妻 須美子) |
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30 |
[コラム]理路整然、純粋な人(山口勇子) |
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|
止
『広島のねがいを国政へ 活躍する、村上経行さん』(村上経行後援会、1975.12.25)<抄>
止
資料年表:村上経行<作成中>
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1918 |
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04 |
広島市大須賀町で生まれる。 |
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1942 |
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09 |
広島高等師範附属中学校卒 |
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**** |
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**** |
早稲田大学政経学部卒。この間広島鉄道局へ約1年勤務。 |
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1944 |
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03 |
三菱重工業(株)広島造船所勤務。労組結成に尽力。 |
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1945 |
|
|
08 |
広島市南観音町で被爆。 |
|
1946 |
|
|
01 |
日本共産党に入党。 |
|
1949 |
|
|
1022 |
三菱を解雇される。長女2歳、長男は生まれて1カ月。 |
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<以上の出典=『平和に生きる』(1972)、『広島のねがいを国政へ』(1975)> |
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<宇吹は大学時代、同郷ということで長女(薬学部)・長男(医学部)と面識あり> |
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1972 |
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1001 |
『平和に生きる』(村上経行後援会) |
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1975 |
|
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1225 |
『広島のねがいを国政へ』(村上経行後援会) |
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|
|
1982 |
|
|
0111 |
『黒い雨』(広島県「黒い雨・自宅看護」原爆被害者の会連絡協議会) |
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「黒い雨」降雨地域住民に被爆者手帳を 住民の不満や疑問 「赤旗」社会面トップに-35-<集まったのは10人ほど。民家の一室を借りておこなわれました。これには、共産党を代表して、村上経行党県経済委員長、屋敷一字広島市議らの姿も見えました> |
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連絡協議会役員一覧<顧問:村上経行> |
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1986 |
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0806 |
『核兵器廃絶を訴える被爆者国際遊説の記録 Hibakusha Peace Tour(原水爆禁止日本協議会、19860806)』 |
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被爆者国際遊説団名簿
●オランダA班 19850625~0708
村上経行 被爆者(広島) |
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1989 |
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0806 |
『黒い雨』(広島県「黒い雨・自宅看護」原爆被害者の会連絡協議会) |
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「まえがき」<会長:**、副会長**、事務局長 村上経行>。「あとがき」(事務局長 村上経行) |
|
|
|
|
|
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|
1991 |
|
|
0607 |
藤居会社へ。村上経行も来る。 |
U |
1026 |
村上経行より電話。党史についての問い合わせ。ソ連の評価が再び問題となる。 |
U |
1992 |
|
|
0302 |
村上経行より電話。今日午後来所予定であったが忘れていたとのこと。70周年党史の編さんについて。 |
U |
1110 |
村上経行より電話。原爆文献の数の問い合わせ。約6000件と答える。 |
U |
1222 |
藤居より電話。12時40分-13時20分。先日、村上経行が来た。 |
U |
1993 |
|
|
0804 |
藤居より電話。約30分ほど話す。先日送った資料について感想を求めたら、今朝、村上経行が来た。村上がかって「ソ連の放射能で死ぬのなら本望」と言ったことがあるだろうと確認したら、認めた。竹内は、村上のようなものと一緒にやることは出来ないと言っていた。 |
U |
1117 |
村上経行、来所。民医連に来たついで。-15時45分。ニュースステーションの「黒い雨」特集の話。矢野記者が放影研の重松に会ったら「取材のスタンスを間違えている」という不見識なことを言った。放影研関係者が、黒い雨地域の住民の話を聞いたことは一度もない。 |
U |
1994 |
|
|
1212 |
村上経行より電話。藤居のところで詳しい年表を見た。欲しい。宇吹=13日、自宅に郵送。 |
U |
1215 |
村上経行より電話。資料(被爆者運動年表)の礼。 |
U |
1995 |
|
|
0322 |
村上経行から電話。風邪で入院中。予め郵送されていた「95年平和のための広島の戦争展」について。広島で、戦争展をやることには抵抗があったが、今回、やっと意志統一ができたとのこと。前面に出ることは求めないが、相談に乗って欲しいとのこと。****より頼まれた。 |
U |
1030 |
村上経行、来所。-15時半。****茂美「ことりもカラスもいなくなった」を持参、センターに寄贈。****が参加した国会請願について調査(何市何郡が参加したか)を依頼される。藤居を土曜日に見舞ったとのこと。インターネットを見せる。 |
U |
1116 |
村上経行へ1956年3月の国会請願の資料(***茂美関係)を送る。 |
U |
1221 |
村上経行より電話。「占領下のヒロシマ」について。藤居平一が胃ガンで手術をした由。 |
U |
1996 |
|
|
0419 |
藤居通夜。田中(中国新聞)=昨年9月後も退院したり上京していた。宇吹は、大変良い仕事(「まどうてくれ」)をした。村上経行=亡くなる数日前に会った。もうあまり持たないということは、医者から言われていた。本人は死にたくない、と言っていた。 |
U |
0426 |
村上経行より電話。藤居夫人より読売新聞社(東京)が15日午後に取材に来るとの連絡があり、二人ほど立ち会って欲しいとのことであった。自分は出ないほうが良いと思う。宇吹を考えている。検討しておいて欲しい。 |
U |
0426 |
[つづき]村上経行=庄野は、吉田嘉清が弔辞を読むように勧めていたが、体調が悪いとか何とか言って、葬儀の途中で帰ってしまった。田中(中国)は、藤居のことを本にするつもりでいる。****が弔辞の朗読を申し入れたが、藤居夫人が断った。****も同様。 |
U |
0430 |
村上経行来所。5月15日の読売の藤居取材について相談。-11時。村上の話=4月14日に****と藤居夫人と3人で藤居を見舞った。廊下に出たら号泣していた。低空飛行3人組、村上孝太郎ETC。 |
U |
0509 |
村上経行より電話。読売の藤居夫人取材の手順についての相談。村上も藤居夫人もあまりに大げさに考えすぎると言うと、村上は「慣れていないから」と素直に返答していた。 |
U |
1997 |
|
|
0121 |
村上経行より電話。山崎文男の日記、藤居追悼集の進捗状況について。 |
U |
1206 |
元大正屋呉服店(レストハウス)の保存・活用を「みんなで話し合う集い」。於国際会議場コスモス。 参加者150人。この会議では、最高の数(楠発言)。マスコミの取材多数。金沢・藪井も。松本寛・佐藤重夫・植木研介・村上経行・森脇勝義・安藤夫人らの顔を見る。 |
U |
1998 |
|
|
1209 |
下村仁一画集「ヒロシマ-鎮魂と怒り」刊行を祝う会。於法華クラブ10F。-8時半。司会:小笠原伸江、チェロ演奏:庄司有子、挨拶:増田勉・吉野誠・石口俊一・橋詰由美子・中村俊博・久保浩之・石川・堂垣内崇雅など。[自由発言]宇吹=30年前、下村と一緒に資本論やレーニンを読んだ。楠=下村は、レッドパージになった3人の教員の1人。徳毛宜策・村上経行・若林節美・武田寛などの顔を見かける。 |
U |
|
|
|
2000 |
|
|
0714 |
村上経行、来所。13:00~13:30。広島大学医学部年史。 |
U |
0718 |
村上広島県「黒い雨・自宅看護」原爆被害者の会連絡協議会に医学部史を郵送。 |
U |
|
|
|
2004 |
|
|
0501 |
『黒い雨 ヒロシマからの証言』(広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会) |
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71p「黒い雨」と私(増田善信)<私がこの卵形の地域以外にも、「黒い雨」が降っていたことを知ったのは、1985年夏の原水爆禁止世界大会でした。当時の「黒い雨」の会の事務局長村上経行氏から教えられたもので、****> |
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95p <広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会名簿>の名誉役員欄に「村上経行」あり |
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2011 |
|
|
07 |
村上経行没。享年93歳 |
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2012 |
|
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0930 |
『黒い雨 内部被曝の告発』(広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会) |
|
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103p「 村上経行さんが「黒い雨の調査結果には迷惑をこうむっている」という趣旨の発言をされた。」、「村上さんは開口一番「気象の専門家として、あんなに激しい雨があんなにきれいな卵型をした地域だけに降ると思いますか」と質問された」(増田善信) |
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|
止
資料年表:吉田治平<作業中>
年月日 |
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1922 |
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****生 |
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1945 |
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0815 |
未明、部隊の命で福岡から神奈川に向う途中、広島入り。 |
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1977 |
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0720 |
『わしらの被爆体験 100人の証言』(全日自労広島分会・自労被爆者の会編、全日自労広島分会刊) |
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|
2010 |
|
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05 |
『生きて 労働運動家 吉田治平さん』(『中国新聞 連載』15回0518~0609)(担当:西本雅実・編集委員) |
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2018 |
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0131 |
没 |
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0209 |
西本雅実「評伝・吉田治平さん」(『中国新聞』) |
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2023 |
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1206 |
『被団協 第539号』(日本原水爆被害者団体協議会) |
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「ヒロシマの闘士」の歩みに学ぶ 広島 先人を語る会<9回目> |
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よしだ・じへい |
1922****生20180131没 |
享年95歳 |
1845年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定> |
止
資料年表:藤居平一<作業中>
年月日 |
事項 |
備考 |
1915 |
0807 広島市の銘木店の長男として誕生。 |
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1922 |
広島高等師範学校附属小(碧空会)に入学 |
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1928 |
同付属中学校入学 |
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1935 |
平壌飛行連隊整備隊に入る |
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1939 |
航空兵中尉に任じられる |
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1941 |
満州国の航空通信第一連隊の第一大隊本部付 |
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1943 |
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02 |
満州国の航空教育隊に転属。日本へ復員。 |
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04 |
早稲田大学専門部商科に入学 |
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1127 |
篠崎美枝子と結婚 |
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1944 |
日本鋼管横浜鶴見造船所に勤労動員 |
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1945 |
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0806 |
原爆投下で、父完一、妹、二人の甥などを失う |
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1946 |
早大卒。家業の銘木店を継ぎ、広島県銘木森林組合(現広島県銘木事業協同組合)を設立。組合長に就任 |
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1947 |
日本銘木林産組合(その後全国銘木連合会に改称)を設立。副会長に就任。早大校友会広島県支部幹事長。広島高師同窓会のアカシア会設立を提唱。 |
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1949 |
近隣に神崎保育園を設立し、後援会長に。 |
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1951 |
早大商議員に就任し、晩年まで務める。 |
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<以上1915~1951年の事績は『人間銘木―藤居平一追想集』> |
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1954 |
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1955 |
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1956 |
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1959 |
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1965 |
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1981 |
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1201 |
『広島県原水協・日本被団協年表(稿)1954~1958』(宇吹暁、広島大学原爆放射能医学研究所) |
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1982 |
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0126 |
「まどうてくれー藤居平一聞書(1)」(『資料調査通信 5号』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室)【〈聞き手〉宇吹暁、〈聞書作成〉石田典子・寺井裕子】 |
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0226 |
「まどうてくれー藤居平一聞書(2原水爆禁止世界大会)」(『資料調査通信6号別冊』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
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0331 |
「まどうてくれー藤居平一聞書(3原爆被害者の救援と組織化)、資料、藤居メモ(1)1955年11月~56年3月」(『資料調査通信7号別冊』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
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0531 |
「まどうてくれー藤居平一聞書(4広島県被団協の結成)、資料、藤居メモ(2)1956年3月~7月」(『資料調査通信8号別冊』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
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0630 |
「まどうてくれー資料特集」(『資料調査通信9号別冊』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
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『資料調査通信9号別冊1』 |
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『資料調査通信9号別冊2』くずれぬ平和を 8・6広島大会、被害者大会議事録[抄] |
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『資料調査通信9号別冊3』第2回原水爆禁止世界大会議事速報[抄] |
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1983 |
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1031 |
「まどうてくれー藤居メモ(3)1956年8月~9月」 |
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『資料調査通信25号別冊1』(『広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
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「まどうてくれー資料特集」1956年8月~9月」 |
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『資料調査通信25号別冊2』(広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
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1130 |
「まどうてくれー資料特集」1956年10月~12月 |
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資料1:藤居メモ
資料2~8:日本被団協の発行文書
資料9~15:藤居故人・日本被団協に寄せられた書簡
資料16~26:原爆被害者救援をめぐる動向) |
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『資料調査通信26号別冊2』(広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
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1223 |
「まどうてくれー藤居メモ」1957年1月~2月 |
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資料1~4:藤居あて書簡
資料5~11:日本被団協結成後初めて開かれた全国代表者会議の資料。
資料12~23:藤居故人あるいは日本被団協に寄せられた書簡
資料24・25:日本被団協に関する新聞記事 |
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『資料調査通信27号別冊1』(広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
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1984 |
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0127 |
「まどうてくれー藤居メモ及び関連資料資料」1957年3月~5月 |
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資料1~6:藤居あて書簡、
資料7:藤居論文
資料8~23:日本被団協および広島の動向を示す資料。
資料24~32:広島原爆障害研究会、日本原水協などの諸団体資料。 |
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『資料調査通信28号別冊1』(広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
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0229 |
「まどうてくれー資料資料」1957年3月~5月 |
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1957年8月
12日 開会総会
13日 階層別協議会
14日 分科会
15日 閉会総会 |
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1996 |
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0714 |
病のため死去。80歳。藤居銘木株式会社を閉店。 |
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1997 |
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0417 |
『人間銘木 藤居平一追想集』(藤居美枝子) |
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**** |
『広島平和科学』(広島大学平和科学研究センター、1997) |
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船橋喜恵「原水爆禁止世界大会「第一回」 : 藤居平一氏に聞く」 |
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2006 |
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0703 |
『被爆者運動50年 生きていてよかった<1>~<5>』(『中国新聞』西本雅実編集委員~20060708) |
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2011 |
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0708 |
『まどうてくれ 藤居平一・被爆者と生きる』(大塚茂樹、旬報社) |
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0723 |
大塚『まどうてくれ』出版記念会。リーガロイヤルホテル。宇吹。出席者:大塚夫妻。木内洋育(旬報社社長)。河野一郎(中国新聞文化事業社専務取締役)。阿部静子、池田精子(広島県被団協副理事長)、村戸由子。舟橋。若林節美。石田。松井。安藤。澤野。森田裕美。・・・ |
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2次会:吉田治平(広島市南区皆実町1丁目平和住宅自治会)、籔井和夫(中国新聞経営企画局担当局長兼メディア企画室長)。・・・ |
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0726 |
<出版記念会報道>(RCC-N6 被爆者救援運動の原点)「まどうてくれ 藤居平一・被爆者と生きる」 06:41~06:47 |
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止
『広島へ…そしてヒロシマへ 私の戦後平和運動史』(中本たか子著、白石書店、1986/07/25)
内容
章 |
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1 |
占領下で…9 |
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敗戦 9
はじめて婦人参政権を 12
2・1ストと新憲法 13 |
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2 |
レッド・パージ…14 |
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世にも不思議なできごと 14
追放の指令 17
朝鮮戦争 19
講話問題 22 |
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3 |
第5福竜丸の被災…24 |
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アメリカの水爆実験 24
久保山氏の死から 26
原水爆禁止署名うんどう 27
焼津の人びと 28
久保山すずさん 29 |
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4 |
広島の暑い夏…31 |
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広島へ 31
比治山とABCC 32
平和の名が多い街 34
原爆ドーム 36
原爆1号 37
「原爆被災者の会」 39
F・O・R(キリスト者友和会) 42
入院中の被爆者 46
被爆者の生活の窮迫 49
世界大会の前 51
第1回原水爆禁止世界大会 52
分散会 55
原爆基地化反対の訴え 58 |
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5 |
砂川のたたかい…62 |
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基地拡張の通告 62
強制測量 64
土地に杭を打たれても 70
不当検束と曉の町議会 71
プライス報告 76
学生たちの支援 77
参議院選挙 78
第2回原水爆禁止世界大会 80
再び強制測量 81
文化人・全学連の支援 82
泊まりこみの学生たち 84
10月5日のこと 86
全国の各基地からの激励と支援 87
合法的なたたかい 88
情勢が緊迫する 90
歴史的な10月13日 94 |
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6 |
安保闘争日記(抄) 106 |
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刻一刻と緊張をます 106
国会の暴挙 107
はじめてのゼネ・スト 114
報道機関の変貌 119
羽田事件とハガチーの声明 120
羽田事件の弾圧 130
第2次ゼネ・スト 134
6・15国会周辺の暴力 139
アイゼンハワー来日拒否 143
「新条約は無効である」 149
第3次ゼネ・スト 150 |
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7 |
新島のいんじいうんばあ…154 |
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ミサイル試射場の問題 154
山路で 156
オルグ団と暴力団 160
この暴虐 166 |
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8 |
銀杏ちる東大構内…171 |
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東大の民主化闘争 171 |
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9 |
被爆者はいま…178 |
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再び広島へ 178
山下会 181
「ぼく生きたかった」の母 183
小頭症の問題 187
原爆資料館とその付近 188
世界大会の分散会 189
被爆者が指導者になる 196 |
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あとがき 199 |
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止
資料年表:中本たか子
年月日 |
事項 |
備考 |
1903 |
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1119 |
誕生。 |
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1954 |
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0901 |
『中央公論 9月号 第792号』(中央公論社) |
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中本たか子「壁にかかる書像 」243 |
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1101 |
『婦人公論 11月号第451号』(中央公論社) |
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中本たか子 「夫への公開状-理想と現実のジレンマ-」 182 |
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1967 |
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1001 |
『文化評論 1967-No.72』(日本共産党中央委員会) |
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随想 人民の理性の勝利 中本たか子 86 |
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1968 |
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1201 |
『民主文学 第37号通巻87号』(新日本出版社) |
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広津和郎追悼特集
尽きない感謝をもって 中本たか子…99 |
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1969 |
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1101 |
『民主文学 第48号通巻第98号』(新日本出版社) |
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誓いの塔は見ている-新島・そのご- 中本たか子…152 |
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1974 |
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1115 |
『未来にかけるたたかい ドキュメント昭和五十年史 6』(佐藤静夫編、汐文社) |
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ミサイル反対の新島闘争 中本たか子 87 |
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1976 |
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0815 |
『抵抗の群集』( 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟編、白石書店) |
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この非情なる風土 中本たか子 47 |
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1983 |
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0801 |
『日本の原爆文学 10 短編Ⅰ』(美川きよ [ほか]、ほるぷ出版) |
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中本たか子「死の鞭と光」152 |
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1986 |
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0725 |
『広島へ…そしてヒロシマへ 私の戦後平和運動史』(中本たか子著、白石書店) |
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1988 |
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0801 |
『とべ千羽鶴』(中本たか子著、青磁社) |
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1991 |
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0928 |
没 |
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1993 |
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0806 |
『跛行 篠垤潔原爆小説集』(篠垤潔、青磁社) |
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<評価> 中本たか子の「原爆文学」 167
<書評> 中本たか子「とべ・千羽鶴」 181 |
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28 |
1991 |
中本 たか子 |
なかもと・ たかこ |
87 |
小説家。1927年上京、『女人芸術』誌に参加。1941年蔵原惟人と結婚。<資料年表:中本 たか子> |
止
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