大田洋子
おおた・ようこ 19031120生 19631210没 享年60
[原爆被害者の会東京協力会世話人]。第4回女流文学賞(1952年)、文化人会議昭和29年度平和文化賞。『広島県現代文学事典』(岩崎文人執筆。Pp233-234)
資料
大田洋子文学碑 | ||
大田洋子文学碑建立記念誌 | ||
作品 | ||
大田洋子
おおた・ようこ 19031120生 19631210没 享年60
[原爆被害者の会東京協力会世話人]。第4回女流文学賞(1952年)、文化人会議昭和29年度平和文化賞。『広島県現代文学事典』(岩崎文人執筆。Pp233-234)
資料
大田洋子文学碑 | ||
大田洋子文学碑建立記念誌 | ||
作品 | ||
関千枝子
せき・ちえこ | 19320328生20210221没 | 享年88 | フリージャーナリスト。著書に「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」。姉=黒川万千代。級友・亀沢恵尼の姉=亀沢深雪。 |
書誌
書名 | 著者(無い場合は著者=関千枝子)・発行所など | 出版年月日 |
広島第二県女二年西組-原爆で死んだ級友たち | 筑摩書房 | 1985/2/28 |
ヒロシマ花物語 | 汐文社 | 1990/7/15 |
しらうめ 広島第二県女創立50周年記念誌 | 広島県立広島第二高等女学校同窓会(編・刊) | 1995/9/3 |
女がヒロシマを語る | 江刺昭子、加納実紀代、関千枝子、堀場清子編、 インパクト出版会 | 1996/8/6 |
証言-ヒロシマ・ナガサキの声1996 | 長崎の証言の会 | 1996/9/10 |
ヒロシマから吹く風 | 横浜市立浦島丘中学校 | 1997/3/10 |
ヒロシマの女たち 続 | 広島女性史研究会編著、ドメス出版 | 1998/4/11 |
広島第二県女二年西組 〔上〕 | 埼玉福祉会 | 1999/5/20 |
広島第二県女二年西組 〔下〕 | 埼玉福祉会 | 1999/5/20 |
日本原爆論大系 第7巻 歴史認識としての原爆 | 岩垂弘ほか、日本図書センター | 1999/6/25 |
若葉出づる頃 新制高校の誕生 | 西田書店 | 2000/6/10 |
8月の晴れた日に 7 | 埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)、さいたまコープ労働組合平和部 | 2002/4/13 |
ゲンバクの日ぼくたちは10代だった | 桂寿美江、神南明子、野村恵利子取材・執筆 松本あゆみ英語翻訳 創文刊 | 2003/7/30 |
原爆被災証言記 忘れられた学徒たち | 県立広島女子大学同窓有志、広島県立広島第二高等女学校同窓有志 | 2007/8/6 |
修学旅行記録集[2006/10/25(水)~28(土)] | 埼玉県立飯能高等学校 | 2008/3/8 |
戦争と性 第27号 | 「戦争と性」編集室 | 2008/4/25 |
ヒロシマ・ナガサキを考える 復刻版Ⅱ | ヒロシマ・ナガサキを考える会 | 2008/8/6 |
広島第二県女二年西組 構成台本 | 関千枝子著 岩田直二構成演出らくらく演劇塾 | 2010/3/1 |
広島第二県女二年西組-原爆で死んだ級友たち | 筑摩書房 | 2010/5/25 |
ヒロシマ原爆地獄 ヒロシマの生き証人は語り描く | 河勝重美著、ヒロシマ「原爆地獄」を世界に弘める会(河勝重美) | 2011/1/1 |
ヒロシマ原爆地獄 生き証人の描く被爆者一人ひとりの生と死 日英二カ国語版 | ヒロシマ「原爆地獄」を世界に弘める会(河勝重美) | 2011/1/1 |
ヒロシマ・ナガサキを考える 復刻版Ⅲ-① | ヒロシマ・ナガサキを考える会 | 2011/8/6 |
ヒロシマ・ナガサキを考える 復刻版Ⅲ-② | ヒロシマ・ナガサキを考える会 | 2011/8/6 |
フィールドワークまっぷ 広島の少年少女たちの死をめぐって 2012年版 | 竹内良男 | 2012/8/1 |
広島・長崎から 戦後民主主義を生きる 往復書簡 | 関千枝子、狩野美智子著 彩流社 | 2012/10/31 |
ヒバクシャからの手紙 被爆体験記集 第3巻 | 広島平和文化センター 編集 厚生労働省、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 | 2013/3/31 |
慟哭の廣島 | 今田耕二、木下印刷所(印刷) | 2014/7/22 |
金輪島と原爆 原爆死没者慰霊碑参拝 | 竹内良男 | 2014/10/26 |
原爆地獄 The Atomic Bomb Inferno ヒロシマ生き証人の語り描く一人ひとりの生と死 日英版 | 河勝重美編、コールサック社 | 2015/4/16 |
ヒロシマの少年少女たち 原爆、靖国、朝鮮半島出身者 | 彩流社 | 2015/8/26 |
関千枝子 中山士朗 ヒロシマ往復書簡 第1集(2012-2013) | 関千枝子、中山士朗著 西田書店 | 2015/11/20 |
ヒロシマを若い世代に 原爆で未来を絶たれた若い命は訴える 被爆者の語り描く失われた若い命の生と死のドラマ 日本語英語二カ国語版 = Hiroshima never again : an appeal to today’s young people from the young who lost their future : survivers witnessed the life and death of young people in Hiroshima : English-Japanese edition 河勝重美 | 2016/5/24 | |
関千枝子 中山士朗 ヒロシマ往復書簡 第2集(2013-2014) | 西田書店 | 2016/6/1 |
関千枝子 中山士朗 ヒロシマ往復書簡 第3集(2014-2016) | 西田書店 | 2017/6/1 |
証言 町と暮らしの記憶 中島本町・材木町・水主町 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2017/8/5 |
ヒロシマ対話随想 | 関千枝子、中山士朗著、西田書店 | 2019/5/10 |
チェ・ゲバラ(本名:エルネスト・ゲバラ) 19280 614生、19671009没
資料
本 | ||
書名 | 著者、発行所、出版年など | 備考 |
ゲバラのHiroshima | 佐藤美由紀、 双葉社、20170806 | |
目次 | ||
プロローグ | ||
第1章 | ||
キューバ親善使節団 カバーニャ要塞のコマンダンテ 外交模索が目的の長期外遊 経済成長を支える日本の工業力を注視 ゲバラ一行の金銭事情 通商第一主義を通した日々 大使の息子とチェの出会い 冷淡な対応の中での学びと思索 |
||
第2章 | ゲバラとヒロシマ | |
千鳥ヶ淵と広島と 強行突破 原爆慰霊碑の前に立って 翳りある顔に見える心の葛藤 原爆資料館で吐き出した感情 被爆者を抱きしめて ヒロシマからの言葉 カメラで切り取ったヒロシマ 持ち帰った強い思い |
||
第3章 | アメリカ嫌い | |
政治的な目覚め 運命の出会い キューバ上陸、革命成就 最大の反革命勢力・アメリカ 要注意人物 反帝国主義への新たな誓い 米支配に従属したニッポンを憂う |
||
第4章 | ミサイル危機と反核 | |
北の巨人の”いやがらせ” 要職歴任、昼夜の学び アメリカの侵攻計画とソ連への接近 国交断絶と社会主義革命 ケネディ大統領の陰謀 ミサイル配備の思惑 米ソ二大国の応酬 当事国を無視した危機の収束 ゲバラの本音 反核の思いを込めた国連演説 |
||
第5章 | それぞれのヒロシマ | |
四四年後に果たされた約束 フィデル・カストロのヒロシマ 絶対平和思想 娘アレイダのヒロシマ 一般市民たちの被爆地への認識 キューバに息づくゲバラの思い |
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エピローグ | ||
広島・キューバ展 | 2017年9月16日 会場:旧日本銀行広島支店 | |
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備考
児玉健次(こだま・けんじ) 1933年生 20210224没 享年87歳
日本の政治家。衆議院議員(通算4期)、日本共産党中央委員。
広島県生まれ。1956年広島大学学生細胞で入党。文学部卒業。同大学院中退。高校に奉職後、教諭として勤務する一方、北海道高教組副委員長等を歴任。
1986年第38回衆議院議員総選挙で北海道1区から立候補し初当選。4期当選(中選挙区北海道1区2期、比例北海道ブロック2期)議員在任中、社会労働委員、国会対策委員代理、文部科学委員などを歴任。
死亡欄掲載紙20210227=朝日新聞、赤旗。
参考資料<リンク>=8・6学生平和会議(主催:広島大学学生自治会、会場:広島児童文化会館 1956年8月5~7日)実行委員長=児玉健次(広島大学文学部)
宇吹メモ=1990年5月15日午後2時、 共産党国会調査団来所(=広島大学原爆放射能医学研究所)。林紀子、児玉健次など12人。宇吹助手が応対。
原爆補償法の思想(今堀誠二)
『つぐない 原爆補償』(創刊号、19731206)所収
昭和十二年に日中戦争がはじまると、日本の海軍航空隊は中国の主な都市に渡洋爆撃を加えた。それは文字通り、中国のほとんどの都市を、片端から攻撃目標を軍事施設においていたとは言え、一般市民の中からも、少なからぬ犠牲者を出した。世界の世論は、その点て激しく日本を非難し、日本は市民の被害者に対して賠償すべきだという主張が半ば常識として言われていた。とくにアメリカは、ほとんど毎日、日本の外務省に抗議を行った。例えば十一月十日に、日本の爆撃機が南京の軍官学校に攻撃を加えたとき、正門付近で、市民が負傷した。これは無差別爆撃であり、国際法違反だからこのような爆撃を直ちに中止せよ、といったような抗議であった。アメリカ国務省は、ねばり強くあくまで、日本の非を鳴らしてやまなかった。日本は馬耳東風ときめ込んでいたが、世界の良心はいつも中国を是とし、日本を非とする立場をとり続けていた。
私たちが、原爆被災者の国家補償を要求するのは、原爆投下
が無差別爆撃であり、違法な戦争手段だから、これに対する補
償を求めるわけである。そのことは同時に、日本軍が行った違
法な攻撃を反省して、これに対する中国人民の補償要求を支持
するのはもとより、ひいてはすべての戦争において、附随的に
起きざるを得ない。この種の犠牲者の発生を、未然に防ぐこと
を主張するわけで、戦争そのものを、根絶するための具体的な
運動に、ほかならないのである。
日本人は原爆に対して、被害者意識をもつことはあっても、加害者としての反省は皆無に近い。広島・長崎における外国人被爆者は朝鮮人・中国人をはじめとし、世界の各国人を含んでいるが、そうした外国人被爆者の大半は、日本の国策によって日本に連れて来られた人たちである。国家補償をうけるとすれば、アメリカと並んで、日本の責任に帰せられるべきケースが多い。その点でも日本は加害者なのだが、問題はもっと深刻である。
日本は日中戦争以来、到る所で非戦闘員に対し、あらゆる残
虐行為を加えてきた。南京大虐殺は戦時下の「軍事美談」であ
って、「事実」ではないという主張を展開している大もいるが、そうした「軍事美談」が作られたこと自体が、時代の風潮を示す「事実」である。むろん、日本軍だけが、こうした残虐行為
を行なったわけではない。昭和十二年の通州事件では、約三百
人の日本人が強姦され、虐殺されているし、昭和二十年には北
満の開拓地にいた日本の農婦たちが、夫の出征後に、ソ連軍に
よって蹂躙しつくされている。ただこうした事件は、日本軍が
やって来た行為の裏返しであって、当時、兵隊であった私たち
は、アメリカに上陸して女と言わず子供と言わず、皆殺しにせ
よというような教育を、うけていたわけである。われわれはす
べての非戦闘員に対して加えた不法な行為に対し、心から反省
するとともにその被害者に対する補償を行なう決意なしには、
原爆補償を求めることはできないのである。
昭和二十年、日本の都市はつぎつぎに焼き払われた。何十万
という市民が絨毯爆撃のために殺され、数百万人が貴重な富を失なった。こうした一般戦災の被害は、原爆被災と同一視すべ
きではないが、原爆被災のみに補償を要求し、一般戦災への補
償を拒否することは許されない。両者の間にはっきりした相違
かおることは事実だが、原爆補償は戦災補償のうちでもっとも
重要な補償であり、これを突破口にして、戦災補償全体に、運
動の輪をひろげていくことが、将来のねらいとなってしかるべ
きであろう。
広島は軍都を誇り、事実、ハンブルグ以上の防備都市でもあ
った。そこには徹底抗戦の熱意に燃えた四十万の市民が住んで
いた。
アメリカの戦略爆撃はすでに日本の大部分の都市を灰にして
いたから、広島が攻撃を受けるのは時間の問題だったし、全市
民もそれを覚悟していた。そこに普通の爆弾が落されたのだっ
たら、広島は何も言えなかったし、ノー・モア・ヒロシマ運動
もまた起らなかった。原爆という、完全な無差別大量虐殺攻撃
をしかけられたことで、歴史は変わったのである。
原水爆時代は一日も早く終らせればならない。原爆補償法制
定の意義は、その点にかかっているが、同時に、その運動の拡
がりの中から、すべての戦災者の補償が実現されることで、福
祉国家が実現することにも、意味があると言わねばならない。
昭和二十年までの日本は、軍事国家であり、軍閥国家であった。
そのことへの根本的な反省が、補償法の制定となり、補償法に
よって国家が国民生活を保証するようになれば、福祉国家への
脱皮となるわけである。
運動の前途は、きわめて困難であり、成功の可能性は少ない
が、われわれはそれだからこそ、勇往邁進したいと思っている。
歴史を作るというのは、そういうことなのである。(東洋史)
明田弘司 あけだ・こうし 192212 生 20150812没 享年92
『没後5年 明田弘司写真展』(10月23日~12月23日 会場:泉美術館) | |
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|
2020年12月3日撮影。 |
平山郁夫美術館 2003年9月15日
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今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)
内容
章 | キーワード(人物・著書・団体など) | 備考 |
3 | ||
バーバラ・レイノルズ | 広島・長崎世界平和巡礼団 | |
アメリカのピッツバーグを訪れたとき、市民の中から原爆被災資料がアメリカに持ち帰られていることが話題にされ、二ユーヨークタイムスがこれをスクープとしてとりあげようとした。事実関係がもう一つはっきりしなかった為に不発に終ったが、アメリカにある資料の返還は、在米の被爆者調査とともに、将来の宿題だと言える。 | ||
ウ・タント | ||
巡礼団はニューヨークの国連本部でウ・タント事務総長に会い、 国連が被災白書を作るように要請。 1966年12月、国連総会はウ総長が「核兵器影響に関する 国連事務総長報告」をまとめるよう、満場一致で決議し、 翌年10月ウ報告は提出。 |
||
この基礎データとなる広島・長崎の被災事実が明らかでなく、例えば死亡者の数なども終戦直後の県警報告78000が採用され、それが今後の災害を推定する基礎数字になっているという有様であるから、全体としてウ・タント報告の信頼度を弱める結果となったことは、まことに残念である。猶、広島・長崎の被爆者には、相当数の中国・朝鮮・東南アジア・ロシア・アメリカ人がいることを付言しておく。 | ||
金井利博 | 中国新聞社論説委員。 | |
1940年代から原爆関係文献の収集を行ない、その方面の開拓者の一人。 早い時期から被災白書の作成を中国新聞の紙上で提唱。 1964年8月、総評社会党系原水禁世界大会に出席、提案。 |
||
談和会 | 広島・山口の大学人で組織する平和のための研究団体 | |
被災白書を具体的なプランにまとめて発表、とくに国勢調査で被災者総数を明らかにして研究上の「分母」となる数字をつかむべきことを、政府に要求するとともに、広く全国民の協力をよびかけた。 | ||
<以下未入力、要作業> | ||
世界平和アピール七人委員会 | ||
愛知揆一 | 文部大臣 | |
佐藤栄作 | 首相 | |
中山 | 文部大臣 | |
原爆被災学術資料標本センター | ||
予算も計上されたが、一部の保守系市議の積極的な妨害工作があって、結局、この予算案は、大蔵省査定を通ったあとで政治的につぶされ、資料館は実らなかった。 | ||
原爆被災資料収集協力委員会 | 日本被団協。日高六郎・大江健三郎氏らの協力 | |
近藤泰夫 | ||
原爆ドーム保存 | ||
広島折鶴の会 | ||
浜井広島市長 | ||
市会内部の保守系議員の妨害にも拘らず、42年8月までに、200万人の寄付者が、計画予算を5割も上廻る6500万円の浄財が寄せ、工事も美事に完成した。 | ||
原爆被災白書推進委員会 | ||
原爆被災白書 をすすめる市民の会 |
||
日本政府による原爆被災白書の作製に関する要望書 | ||
茅誠司 | 原爆被災白書推進委員会委員長 | |
今堀が、文部省在外研究員となって訪米した機会にアメリカ国務省に働きかけたことも契機となって、67年5月、アメリカは返還をほのめかすに到った。 | ||
原爆被災映画返還運動 | ||
談和会 | ||
学術会議 | ||
中国新聞 | 新聞協会賞 | |
朝日新聞 | 「原爆500人の証言-被爆者追跡調査レポート」 | |
NHK広島 | ||
原爆地図の復元運動 | ||
平和文化センター | ||
山崎輿三郎 | ||
原爆被災資料広島研究会 | ||
田原伯 | ||
佐々木雄一郎 | ||
1968年の夏は、原爆被災資料ブームとよばれる程、多くの新資料が再発見された。広島東署がもっていた約二万人分の検視調書をはじめ、被災直後に臨時病院となっていた近郊の学校・公民館・役場などから、当時の日誌などが続々出て来た。広島県動員学徒犠牲者の会は各学校に紹介して、8月6日に各作業場で倒れた学生・生徒の記録をあつめ、「動員学徒誌」(68年5月刊)を出版したが、原爆資料館が小堺吉光氏を中心に、数年の歳月を費してまとめた「広島原爆戦災誌」も、完成を間近にひかえて最後のミガキをかけている。 | ||
今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)
内容
章 | キーワード(人物・著書・団体など) | 備考 |
1 | 別記 | |
2 | ||
仁科芳雄 | ||
都築正男 | ||
学術研究会議 | 日本学術会議の前身 | |
原子爆弾災害調査研究特別委員会 | ||
日映ニュース映画班 | 特別委員会の映画部を担当 | |
原爆記録映画 | ||
GHQ命令 | ||
原子爆弾災害調査報告集 | ||
アメリカは原爆の秘密がソ連にもれることを恐れて、原爆被災資料 の独占に全力をあげた。 |
||
大橋成一 | 臨時野戦病院(宇品の大和紡績)院長 | |
天野重安 | ||
玉川忠太 | ||
アメリカ原子力委員会 | ||
ABCC | Atomic Bomb Casualty Comission(1948) | |
国勢調査(1950年) | 母集団=10万人 | |
レイノルズ | ||
ABCCの調査は、科学的であり、系統的であって、すぐれた成果をあげたが、被災の実態そのものを明らかにして、被爆者の救援に役立てようとする姿勢をもたなかったので、被爆者からはモルモット扱いにするという悲難が絶えなかった。戦争準備のための研究ということもあって、原爆の残虐性をアメリカ市民の目からかくそうという気持が強く、レイノルズ博士の行なった小児への影響がいつまでもオクラになっていたり、胎内被爆による小頭症の調査を発表 しなかったり、その他原爆が恐ろしいものだという印象を与える調査結果は公表をさける傾向があったことは否定できない。 |
||
発表の上ではともかく、ABCCの蓄積した資料はまことにすばらしいもので、これを正しく活用することが、被災の研究にとって大切な条件である。ABCCの年間の研究費は10億円で、広島大学全体の研究費をはるかに上廻っている。 | ||
原爆乙女 | 独立の回復 | |
広島市原爆障害者治療対策協議会 | 1956年4月改組、財団法人広島原爆対策協議会(原対協) | |
原子爆弾後障害研究会 | ||
福祉センター | 「所感文集」 | |
長岡省吾 | ||
原爆資料保存会 | ||
原爆参考資料陳列館 | 1949年9月、市公民館の一室に原爆参考資料陳列館が開設。 | |
平和記念資料館 | 1955年にはと改称、現在の場所に。 | |
専門調査員も居らず、予算は人件費まで、入場料で賄われる等、不備な点が多かった。原爆資料館というのは市民の愛称。 | ||
原子力平和利用展示館 | ||
1958年、原爆資料を迫放して、平和記念資料館を原子力平和利用展示館に変更させようという動きがおこり、マジックハンドが中心にすえられて、遺物や写真は片すみに追いやられたりした。陳列遺物の一半は原爆資料保存会の所有であったから、保存会が強く抵抗して、10年がかりで、旧に帰していった。 | ||
巡回展覧会計画 | 1950年に立てられているが、朝鮮戦争のため、神戸の貿易博に出陳しただけで中止。 | |
要調査(宇吹)『日本貿易産業博覧会”神戸博”会誌』(日本貿易産業博覧会事務局、1950) | ||
広島長崎原爆資料公開展 | 1954年 東京・日赤本社 | |
全国巡回展 | 1967年 朝日新聞社 | |
沖縄 展覧会 | 1967年 | |
大阪 万国博出品 | 失敗 | |
国連本部(ニューヨーク)に展示室を設ける計画 | 失敗 | |
(失敗の)一つの原因は、広島市当局の消極的態度にあるが、資料内容が貧弱なことも原因の一つである。原爆資料館に専門委員会を置き、遺物の科学的・体系的な蒐集に着手することが必要であって、世界の博物館の水準に比較した場合、原爆資料館の内容の貧弱 さは、目を覆うばかりである。 |
||
中野清一・久保良敏・山手茂 | 被爆者の社会科学的調査 | |
日本原水協専門委員会 | 「原水爆被害白書」(1961年) | |
リフトン | R.J.Lifton ”Death in Life”(1967年) | |
渡辺正治・湯崎稔 | 中山村調査 | |
今堀誠二 | 「原水爆時代」(上・下) | |
中国新聞社 | 「広島の記録」(全三冊) | |
広島市 | 新修広島市史」 | |
長岡弘芳 | 「原爆文学史略説」(りいぶる13~15号) | |
広島平和文化センター | 「平和の歩み」 | |
3 | 別記 | |
4 | 別記 |
今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)
内容
章 | キーワード(人物・著書・団体など) | 備考 |
1 | ||
ロベルト・ユンク | ベルリン大学歴史学科出身、 | |
千の太陽よりも明るく | ||
Robert Jungkには広島の災害と、戦後の被爆者の生活史をえがいた「灰墟の光- 甦えるヒロシマ」があるが、その作製のため来広した時、直接会って見聞したときの聴取による。 | ||
遠山茂樹 | 昭和史 | |
西島有厚 | 原爆はなぜ投下されたか | |
広島の災害については、歴史学から見た場合、ほとんど何も解明さ れていないと言っても過言ではない。被災者の数、死亡者の数、原爆孤児の数、原爆乙女や原爆孤老の数、どれ一つとして、概数さえつかめていない。まして家族の欠損がどんな意味をもったか、失われた富はどの位か、被爆者の精神はどんな点に特徴があるか等々、被災の基礎的事実を客観的にとらえようとする努力は、殆んどなされなかった。 |
||
原爆資料館 | ||
ジョン・ハーシー | 「ヒロシマ」 | |
ユンク | 「灰墟の光」 | |
2 | 別記<リンク> | |
3 | 別記<リンク> | |
4 | ||
被災資料の内容は、当時の記録や遺物だけでなく、その後の被爆者のあり方を、体系的に把握するため、聴取・写真・映画などにより、残していくことが大切なので、既存資料をあつめる作業のほかに、価値ある資料を作っていく作業が重要である。 その具体的方法は、原爆被災白書推進委員会が1966年に発表した 「日本政府による原爆被災白書の作製に関する要望書」が、 言わば第一次案と呼ぶべきものである。 学術会議が数回にわたってくりかえしたシンポジウムの報告書は、 いずれもまとめられているが、アンチテーゼに相当するレポート である。学術会議が政府に申入れて、発足も間近い特別委員会(ワーキングーグループ)が、この作業を本格的に始めれば、原案の作製が期待できる。 ここに、私の個人的見解を記してみるつもりであったが、紙幅の都合上割愛する。 いずれにしても、被爆者を含めた市民の積極的な協力と、創造力に富んだ研究者の専門的能力と、政府・県・市・大学等の全面的な支援か必要であって、自主・民主・公開の原則を守り、被爆者の立場に立って構想することが、プラン作製の原則であろう。歴史家の任務はまことに重大である。 |
||