平山郁夫美術館 2003年9月15日
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平山郁夫美術館 2003年9月15日
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今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)
内容
章 | キーワード(人物・著書・団体など) | 備考 |
3 | ||
バーバラ・レイノルズ | 広島・長崎世界平和巡礼団 | |
アメリカのピッツバーグを訪れたとき、市民の中から原爆被災資料がアメリカに持ち帰られていることが話題にされ、二ユーヨークタイムスがこれをスクープとしてとりあげようとした。事実関係がもう一つはっきりしなかった為に不発に終ったが、アメリカにある資料の返還は、在米の被爆者調査とともに、将来の宿題だと言える。 | ||
ウ・タント | ||
巡礼団はニューヨークの国連本部でウ・タント事務総長に会い、 国連が被災白書を作るように要請。 1966年12月、国連総会はウ総長が「核兵器影響に関する 国連事務総長報告」をまとめるよう、満場一致で決議し、 翌年10月ウ報告は提出。 |
||
この基礎データとなる広島・長崎の被災事実が明らかでなく、例えば死亡者の数なども終戦直後の県警報告78000が採用され、それが今後の災害を推定する基礎数字になっているという有様であるから、全体としてウ・タント報告の信頼度を弱める結果となったことは、まことに残念である。猶、広島・長崎の被爆者には、相当数の中国・朝鮮・東南アジア・ロシア・アメリカ人がいることを付言しておく。 | ||
金井利博 | 中国新聞社論説委員。 | |
1940年代から原爆関係文献の収集を行ない、その方面の開拓者の一人。 早い時期から被災白書の作成を中国新聞の紙上で提唱。 1964年8月、総評社会党系原水禁世界大会に出席、提案。 |
||
談和会 | 広島・山口の大学人で組織する平和のための研究団体 | |
被災白書を具体的なプランにまとめて発表、とくに国勢調査で被災者総数を明らかにして研究上の「分母」となる数字をつかむべきことを、政府に要求するとともに、広く全国民の協力をよびかけた。 | ||
<以下未入力、要作業> | ||
世界平和アピール七人委員会 | ||
愛知揆一 | 文部大臣 | |
佐藤栄作 | 首相 | |
中山 | 文部大臣 | |
原爆被災学術資料標本センター | ||
予算も計上されたが、一部の保守系市議の積極的な妨害工作があって、結局、この予算案は、大蔵省査定を通ったあとで政治的につぶされ、資料館は実らなかった。 | ||
原爆被災資料収集協力委員会 | 日本被団協。日高六郎・大江健三郎氏らの協力 | |
近藤泰夫 | ||
原爆ドーム保存 | ||
広島折鶴の会 | ||
浜井広島市長 | ||
市会内部の保守系議員の妨害にも拘らず、42年8月までに、200万人の寄付者が、計画予算を5割も上廻る6500万円の浄財が寄せ、工事も美事に完成した。 | ||
原爆被災白書推進委員会 | ||
原爆被災白書 をすすめる市民の会 |
||
日本政府による原爆被災白書の作製に関する要望書 | ||
茅誠司 | 原爆被災白書推進委員会委員長 | |
今堀が、文部省在外研究員となって訪米した機会にアメリカ国務省に働きかけたことも契機となって、67年5月、アメリカは返還をほのめかすに到った。 | ||
原爆被災映画返還運動 | ||
談和会 | ||
学術会議 | ||
中国新聞 | 新聞協会賞 | |
朝日新聞 | 「原爆500人の証言-被爆者追跡調査レポート」 | |
NHK広島 | ||
原爆地図の復元運動 | ||
平和文化センター | ||
山崎輿三郎 | ||
原爆被災資料広島研究会 | ||
田原伯 | ||
佐々木雄一郎 | ||
1968年の夏は、原爆被災資料ブームとよばれる程、多くの新資料が再発見された。広島東署がもっていた約二万人分の検視調書をはじめ、被災直後に臨時病院となっていた近郊の学校・公民館・役場などから、当時の日誌などが続々出て来た。広島県動員学徒犠牲者の会は各学校に紹介して、8月6日に各作業場で倒れた学生・生徒の記録をあつめ、「動員学徒誌」(68年5月刊)を出版したが、原爆資料館が小堺吉光氏を中心に、数年の歳月を費してまとめた「広島原爆戦災誌」も、完成を間近にひかえて最後のミガキをかけている。 | ||
今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)
内容
章 | キーワード(人物・著書・団体など) | 備考 |
1 | 別記 | |
2 | ||
仁科芳雄 | ||
都築正男 | ||
学術研究会議 | 日本学術会議の前身 | |
原子爆弾災害調査研究特別委員会 | ||
日映ニュース映画班 | 特別委員会の映画部を担当 | |
原爆記録映画 | ||
GHQ命令 | ||
原子爆弾災害調査報告集 | ||
アメリカは原爆の秘密がソ連にもれることを恐れて、原爆被災資料 の独占に全力をあげた。 |
||
大橋成一 | 臨時野戦病院(宇品の大和紡績)院長 | |
天野重安 | ||
玉川忠太 | ||
アメリカ原子力委員会 | ||
ABCC | Atomic Bomb Casualty Comission(1948) | |
国勢調査(1950年) | 母集団=10万人 | |
レイノルズ | ||
ABCCの調査は、科学的であり、系統的であって、すぐれた成果をあげたが、被災の実態そのものを明らかにして、被爆者の救援に役立てようとする姿勢をもたなかったので、被爆者からはモルモット扱いにするという悲難が絶えなかった。戦争準備のための研究ということもあって、原爆の残虐性をアメリカ市民の目からかくそうという気持が強く、レイノルズ博士の行なった小児への影響がいつまでもオクラになっていたり、胎内被爆による小頭症の調査を発表 しなかったり、その他原爆が恐ろしいものだという印象を与える調査結果は公表をさける傾向があったことは否定できない。 |
||
発表の上ではともかく、ABCCの蓄積した資料はまことにすばらしいもので、これを正しく活用することが、被災の研究にとって大切な条件である。ABCCの年間の研究費は10億円で、広島大学全体の研究費をはるかに上廻っている。 | ||
原爆乙女 | 独立の回復 | |
広島市原爆障害者治療対策協議会 | 1956年4月改組、財団法人広島原爆対策協議会(原対協) | |
原子爆弾後障害研究会 | ||
福祉センター | 「所感文集」 | |
長岡省吾 | ||
原爆資料保存会 | ||
原爆参考資料陳列館 | 1949年9月、市公民館の一室に原爆参考資料陳列館が開設。 | |
平和記念資料館 | 1955年にはと改称、現在の場所に。 | |
専門調査員も居らず、予算は人件費まで、入場料で賄われる等、不備な点が多かった。原爆資料館というのは市民の愛称。 | ||
原子力平和利用展示館 | ||
1958年、原爆資料を迫放して、平和記念資料館を原子力平和利用展示館に変更させようという動きがおこり、マジックハンドが中心にすえられて、遺物や写真は片すみに追いやられたりした。陳列遺物の一半は原爆資料保存会の所有であったから、保存会が強く抵抗して、10年がかりで、旧に帰していった。 | ||
巡回展覧会計画 | 1950年に立てられているが、朝鮮戦争のため、神戸の貿易博に出陳しただけで中止。 | |
要調査(宇吹)『日本貿易産業博覧会”神戸博”会誌』(日本貿易産業博覧会事務局、1950) | ||
広島長崎原爆資料公開展 | 1954年 東京・日赤本社 | |
全国巡回展 | 1967年 朝日新聞社 | |
沖縄 展覧会 | 1967年 | |
大阪 万国博出品 | 失敗 | |
国連本部(ニューヨーク)に展示室を設ける計画 | 失敗 | |
(失敗の)一つの原因は、広島市当局の消極的態度にあるが、資料内容が貧弱なことも原因の一つである。原爆資料館に専門委員会を置き、遺物の科学的・体系的な蒐集に着手することが必要であって、世界の博物館の水準に比較した場合、原爆資料館の内容の貧弱 さは、目を覆うばかりである。 |
||
中野清一・久保良敏・山手茂 | 被爆者の社会科学的調査 | |
日本原水協専門委員会 | 「原水爆被害白書」(1961年) | |
リフトン | R.J.Lifton ”Death in Life”(1967年) | |
渡辺正治・湯崎稔 | 中山村調査 | |
今堀誠二 | 「原水爆時代」(上・下) | |
中国新聞社 | 「広島の記録」(全三冊) | |
広島市 | 新修広島市史」 | |
長岡弘芳 | 「原爆文学史略説」(りいぶる13~15号) | |
広島平和文化センター | 「平和の歩み」 | |
3 | 別記 | |
4 | 別記 |
今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)
内容
章 | キーワード(人物・著書・団体など) | 備考 |
1 | ||
ロベルト・ユンク | ベルリン大学歴史学科出身、 | |
千の太陽よりも明るく | ||
Robert Jungkには広島の災害と、戦後の被爆者の生活史をえがいた「灰墟の光- 甦えるヒロシマ」があるが、その作製のため来広した時、直接会って見聞したときの聴取による。 | ||
遠山茂樹 | 昭和史 | |
西島有厚 | 原爆はなぜ投下されたか | |
広島の災害については、歴史学から見た場合、ほとんど何も解明さ れていないと言っても過言ではない。被災者の数、死亡者の数、原爆孤児の数、原爆乙女や原爆孤老の数、どれ一つとして、概数さえつかめていない。まして家族の欠損がどんな意味をもったか、失われた富はどの位か、被爆者の精神はどんな点に特徴があるか等々、被災の基礎的事実を客観的にとらえようとする努力は、殆んどなされなかった。 |
||
原爆資料館 | ||
ジョン・ハーシー | 「ヒロシマ」 | |
ユンク | 「灰墟の光」 | |
2 | 別記<リンク> | |
3 | 別記<リンク> | |
4 | ||
被災資料の内容は、当時の記録や遺物だけでなく、その後の被爆者のあり方を、体系的に把握するため、聴取・写真・映画などにより、残していくことが大切なので、既存資料をあつめる作業のほかに、価値ある資料を作っていく作業が重要である。 その具体的方法は、原爆被災白書推進委員会が1966年に発表した 「日本政府による原爆被災白書の作製に関する要望書」が、 言わば第一次案と呼ぶべきものである。 学術会議が数回にわたってくりかえしたシンポジウムの報告書は、 いずれもまとめられているが、アンチテーゼに相当するレポート である。学術会議が政府に申入れて、発足も間近い特別委員会(ワーキングーグループ)が、この作業を本格的に始めれば、原案の作製が期待できる。 ここに、私の個人的見解を記してみるつもりであったが、紙幅の都合上割愛する。 いずれにしても、被爆者を含めた市民の積極的な協力と、創造力に富んだ研究者の専門的能力と、政府・県・市・大学等の全面的な支援か必要であって、自主・民主・公開の原則を守り、被爆者の立場に立って構想することが、プラン作製の原則であろう。歴史家の任務はまことに重大である。 |
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『核を葬れ!森瀧市郎・春子父娘の非核活動記録 』(広岩近広、藤原書店、20170806)内容
章 | ||
プロローグ | ||
1 | 「力の文明」の対極に「愛の文明」 | |
右目に突き刺さった原爆のガラス片 残された左目に映った広島の惨禍 原爆と敗戦の深い傷痕 同僚や子らの死に深い悲しみ 戦争は「力の文化」の必然的帰結 原子力時代に求められる新しい道徳 |
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2 | 「ヒロシマ後の世界」を見据えて | |
「広島子どもを守る会」が発足 ビキニ事件に憤慨して原水爆禁止国民運動 六〇年安保に揺さぶられた平和運動 国民運動は原水協と原水禁に分裂 |
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3 | 「不殺生」「非暴力」「生命への畏敬」 | |
国民平和使節として欧州に反核の旅 大学に辞表を提出して、重大決意を実行 「原水爆禁止広島母の会」の活動 三人の聖者の生き方に感銘 「人類は生きねばならぬ」と退官後も奮迅 |
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4 | 幻想だった核の平和利用 | |
平和利用の名のもとに原発の建設計画 原発は原爆の材料プルトニウムをつくる 「核と人類は共存できない」と世界に訴える 反核の力を結集させたい 「ヒロシマの役割」を再認識する 非核の未来をつくらねばならない 「それでも原発は危険だ」と言いつづける 「いのちとうとし」のラストメッセージ |
||
5 | ウラン採掘に始まる放射能汚染 | |
インド.パキスタンの若者と平和交流 ウラン鉱山の放射線被害を現地で調査 「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」が始動 「子どもの命を返してくれ!」 劣化ウラン国際大会が警告した内部被曝 |
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6 | 原子力体制を問う | |
核廃絶は、原発廃絶と切り離せない 日本政府の原発輸出と核政策を問う 「国から二度、棄民にされた」 三つの課題と三つのキーワードで責任を追及 法廷で「核の人道に対する罪」を陳述 フクシマを忘れない、繰り返させない特別アピール |
||
7 | 地球規模で広がるヒバクシャ | |
核被害を総合的に捉える 「私たちには怒る義務がある」 ヒバクシャは世界的な用語になった 「核なき世界」を目指す取り組み オーストリアが「人道の誓約」 「平和の種」が「反核の息子」に 核兵器禁止条約に反対する被爆国 国連で、核兵器禁止条約を策定 |
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エピローグ | ||
資料 | ||
世界核被害者フォーラム 広島宣言 世界核被害者の権利憲章要綱草案 核兵器禁止条約 |
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森瀧市郎・春子の活動年譜 | ||
主な引用・参考文献 | ||
『核兵器白書 ウ・タント国連事務総長報告』(鹿島平和研究所訳 、鹿島研究所出版会、19680425 )
内容
序文(鹿島守之助) | ||
日本版のための序文(ウ・タント国連事務総長) | ||
国連事務総長の報告 | ||
国連事務総長あて送付書 | ||
序説 | ||
Ⅰ | 核兵器を使用した場合の影響 | |
広島および長崎 | ||
将来の戦争における核兵器のありうべき使用の意義 | ||
ある国の一地方に対する核攻撃の影響の評価 | ||
野戦における核兵器の使用から生ずる影響 | ||
抑止か戦争か | ||
Ⅱ | 核兵器の取得と一層の開発の経済的意義 | |
各種の核弾頭生産計画のコスト 39 調達コストのまとめ 44 経済的意義 45 プルトニウム資源の予想される増大の意義 |
||
Ⅲ | 核兵器の取得および一層の開発の安全保障における意義 | |
序説 53 核兵器の歴史 53 現在の見通し 56 戦術的兵器の問題 61 政治的関連における核兵器 |
||
結論 | ||
付編Ⅰ | 核爆発の一般的特性 | |
付編Ⅱ | 核放射線の遺伝的影響 | |
付編Ⅲ | 本編Ⅰの参考文献 | |
付編4 | 核弾頭の基礎的コスト | |
国連歴代事務総長
名前 | 出身国 | 在職期間 |
アントニオ・グテーレス | ポルトガル | 2017年1月1日~ |
潘基文 | 韓国 | 2007年1月~2016年12月 |
コフィー・A・アナン | ガーナ | 1997年1月~2006年12月 |
?ブトロス・ブトロス=ガーリ | エジプト | 1992年1月~1996年12月 |
ハビエル・ペレス・デクエヤル | ペルー | 1982年1月~1991年12月 |
クルト・ワルトハイム | オーストリア | 1972年1月~1981年12月 |
ウ・タント | ビルマ(現ミャンマー) | |
1961年11月に事務総長代行に任命され、1962年11月に正式に事務総長に任命。1971年12月まで在職 | ||
ダグ・ハマーショルド | スウェーデン | |
1953年4月から1961年9月にアフリカでの航空機墜落事故で殉職するまで在職 | ||
トリグブ・リー | ノルウェー | 1946年2月~1952年11月 |
出典:https://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/secretariat/secretary-general/list_sg/
ノーベル平和賞受賞者(ヒロシマ関連)一覧
年 | 名前 | 国等 | 備考 |
1949 | ボイド=オア | ||
1952 | シュヴァイツァー | ||
1959 | ノエルベーカー | ||
1962 | ボーリング | ||
1972 | 佐藤栄作 | 日本 | 非核三原則 |
1979 | マザー・テレサ | ||
1985 | IPPNW | ||
1997 | 地雷禁止国際キャンペーン(ICBL) | ||
ジュリー・ホワイト講演(広島県庁) | |||
2009 | バラク・オバマ | 米 | 「核なき世界」 |
20160527広島訪問 | |||
2015 | 国民対話カルテット | チュニジア | 民主化に貢献 |
民間3団体代表が広島訪問 | |||
2017 | ICAN | ||
2018 | デニ・ムクゲ | コンゴ(旧ザイール) | 紛争下の性暴力被害者支援 |
20191006 原爆資料館で講演(『中国新聞』20191007) | |||
『ノーベル平和賞-90年の軌跡と受賞者群像』(堤佳辰、河合出版、19900910 )
目次
章節 | |||
序論 | |||
平和賞の起源 | |||
平和賞の軌跡 | |||
ノーベル平和賞受賞者一覧(1901~1989年) | |||
平和賞受賞者内訳(国別、機関別) | |||
本論 | |||
1章 | 新世紀の曙光(1901~1910)平和運動の揺籃期-その希望と苦闘 | ||
1(1901) | 赤十字の父 | デュナン | スイス |
1 | 国際恒久平和同盟の祖 | パシー | 仏 |
2 | 常設国際平和局の中心 | デュコマン | スイス |
2 | 「列国議会同盟」(IPU)の推進者 | ゴバ | スイス |
3 | 「IPU」と「国際仲裁連盟」の創立者 | クリーマー | 英 |
4 | ゛万国の法理゛へ | 国際法学会 | |
5 | ゛ノーベルの恋人゛ | スットナー女史 | 墺 |
6 | ゛大きな杖゛の男 | テディ・ローズベルト | 米 |
7 | 熱血の平和ジャーナリスト | モネタ | 伊 |
7 | 国際生活法理の信奉者 | ルノー | 仏 |
8 | ノーベルの遺志の後継者 | アルノルドソン | 瑞 |
8 | ゛北欧中立゛の推進者 | バイエル | 丁 |
9 | 小国の論理を代弁した | ベールナルト | 白 |
9 | ゛平和宮゛を実現した | デストゥールネイユ | 仏 |
10 | 平和の拠点 | 「常設国際平和局」 | |
2章大いなる幻影(1911~1920年) | |||
1(1911) | 1)国際法学会の創設者 | アセル | 蘭 |
1 | 平和雑誌の出版者 | フリート | 墺 |
2 | 善隣外交の演出者 | ルート | 米 |
3 | 初の社会主義受賞者 | ラフォンテーヌ | 白 |
4 | 該当者なし 第1次世界大戦 | ||
5 | 該当者なし 第1次世界大戦 | ||
6 | 該当者なし 第1次世界大戦 | ||
7 | 戦時捕虜の看護と創刊 | 赤十字国際委員会 | |
8 | 該当者なし 第1次世界大戦 | ||
9 | 悲劇の国際連盟創設者 | ウイルソン | 米 |
10 | 国際連盟の法的軍事機関化を主張 | ブルジョア | 仏 |
3章 | つかの間の平和(1921~1930年)ベルサイユ体制の重圧 両大戦のはざまで | ||
1(1921) | 厳正中立を貫いた | ブランティング | 瑞 |
2 | 列国議会同盟の舵取り | ランゲ | 諾 |
探検家、博愛主義者 | ナンセン | 諾 | |
3 | 該 当者なし 委員会の不決断 | ||
4 | 該 当者なし 委員会の不決断 | ||
5 | 対独賠償の軽減者 | ドーズ | 米 |
5 | ロカルノの融和の名優達 | チェンバレン | 英 |
6 | ロカルノの融和の名優達 | ブリアン | 仏 |
6 | ロカルノの融和の名優達 | シュトレーゼマン | 独 |
7 | 最高齢の平和賞受賞者 | ビュイッソン | 仏 |
7 | 「ドイツ平和連盟」総裁 | クヴィデ | 独 |
8 | 該当者なし | ||
9 | ゛不戦条約゛に名を残す | ケロッグ | 米 |
10 | ノーベルも尊敬した大主教 | セーデルブロム | 瑞 |
4章 | 平和主義者の悪戦苦闘(1931~1940年)ファッシズムの台頭 第2次世界大戦の前夜 | ||
1(1931) | 「平和と自由の国際婦人連盟」創設 | アダムズ | 米 |
1 | ゛不戦条約゛の黒子 | バトラー | 米 |
2 | 該当者なし | ||
3 | 「大いなる幻影」の著者 | エンジェル | 英 |
4 | 平和の゛青い鳥゛を追う | ヘンダーソン | 英 |
5 | 獄中の平和賞 | オシエツキー | 独 |
6 | 「中南米不戦条約」を起草 | サーヴェドラ=ラマス | アルゼンチン |
7 | 終始一貫「国際連盟」を支持 | セシル | 英 |
8 | 戦前最後の平和賞 | ナンセン難民国際事務所 | |
9 | 平和賞の空白期 | ||
10 | 平和賞の空白期 | ||
5章 | 戦争、平和、そして冷戦(1941~1950年)国際連合の悩み 東西二大陣営の対立 | ||
1 | 平和賞の空白期(続) | ||
2 | 平和賞の空白期(続) | ||
3 | 平和賞の空白期(続) | ||
4(1944) | 第2次大戦中の人道的活動 | 赤十字国際委員会 | |
5(1945) | ゛国際連合の父゛ | ハル | 米 |
6(1946) | YMCAを通じ平和運動 | モット | 米 |
6(1946) | 婦人平和運動に挺身 | ボルチ | 米 |
7 (1947) | 絶対平和を求めて | フレンド奉仕団理事会 | 英 |
7(1947) | ゛平和の友゛の活動 | 米国フレンド奉仕委員会 | 米 |
8 | 該当者なし | ||
9(1949) | 「国連食料農業機関」(FAO) 創設者 | ボイド=オア | 英 |
10(1950) | 第1次中東戦争の名゛火消し゛ | バンチ | 米 |
6章 | 核時代の勢力均衡(1951~1960年)ガラスの城の不安 復興から人権へ | ||
1(1951) | 「国際労働機関」(ILO)の草分け | ジュオー | 仏 |
2(1952) | ゛ランバレネの聖者゛ | シュヴァイツァー | 仏 |
3(1953) | ゛マーシャル・プラン゛で西側を救う | マーシャル | 米 |
4(1954) | 第2次大戦後の難民処理 | 国連難民高等弁務官事務所 | |
5 | 該当者なし | ||
6 | 該当者なし | ||
7(1957) | 国連平和外交を推進 | ピアソン | 加 |
7(1957) | ゛少年の家゛゛欧州村゛を建設 | 白(1957) | |
8 | 該当者なし | ||
9(1959) | 平和運動の長距離ランナー「 | ノエルベーカー | 英 |
10(1960) | アパルトヘイトへ平和闘争 | ルツリ | 南ア |
7章 | 黄金の60年代?(1961~1970年)第3世界の台頭 内外の社会矛盾 | ||
1(1961) | 行動する国連事務総長の殉職 | ハマショルド | 瑞(スウェーデン) |
2(1962) | 化学賞と平和賞のダブル受賞 | ボーリング | 米 |
3(1963) | ゛100周年゛の栄光 | 赤十字国際委員会 | |
3(1963) | 平和時活動にも意欲 | 赤十字社連盟 | |
4(1964) | 非暴力の公民権運動に殉じた牧師 | キング | 米 |
5(1965) | 戦後の児童救済と栄養補給に貢献 | ユニセフ | |
6 | 該当者なし | ||
7 | 該当者なし | ||
8(1968) | ゛世界人権宣言゛を起草 | カサン | 仏 |
9(1969) | 戦前から労使の国際連帯 | ILO | |
10(1970) | ゛緑の革命゛の先達 | ボーローグ | 米 |
8章 | 動乱の70年代!(1971~1980年)民族、宗教、思想 反体制の力学 | ||
1(1971) | ゛東方政策゛の雄 | ブラント | 西独 |
2 | 該当者なし | ||
3(1973) | ゛ベトナム和平゛の実現へ | キッシンジャー | 米 |
3(1973) | 唯一の平和賞辞退者 | レ・ドク・ト | 北ベトナム |
4(1974) | 「国際アムネスティ」を創設 | マクブライド | アイルランド |
4(1974) | ゛非核三原則゛を推進 | 佐藤栄作 | 日 |
5(1975) | 不屈の反体制科学者 | サハロフ | ソ連 |
6(1976) | ゛ベルファストの平和行進゛のリーダー | ウィリアムズ | 英 |
6(1976) | ゛ベルファストの平和行進゛のリーダー | コリガン | 英 |
7(1977) | ゛良心の囚人゛解放へ | 国際アムネスティ | |
8(1978) | 中東和平へ大胆な賭け | サダト | エジプト |
8(1978) | 往年のテロリストに平和賞 | ベギン | イスラエル |
9(1979) | ゛カルカッタ゛の聖女 | マザー・テレサ | インド |
10(1980) | ゛暗黒政治゛中の灯火 | エスキベル | アルゼンチン |
9章 | 新たな秩序を求めて(1981~1989年)20世紀の総決算へ 語り部の役割 | ||
1(198) | 創 立30周年の軌跡 | 国連難民高等弁務官事務所 | |
2(198) | 世界初の軍縮相 | ミュルダール | 瑞 |
2(1982) | 中南米比較地域条約を実現 | ロブレス | メキシコ |
3(1983) | 自主労組゛連帯゛の指導者 | ワレサ | ポーランド |
4(1984) | 非暴力で黒人差別に対決 | ツツ大主教 | 南ア |
5(1985) | 核戦争防止国際医師の会 | IPPNW | |
6(1986) | アウシュヴィッツの語り部 | ウィーゼル | 米 |
7(1987) | ゛中米和平゛構想を推進 | アリアス | コスタリカ |
8(1988) | 創立40年の国連平和維持軍 | UNPKF | |
9(1989) | 亡命30年の゛活き仏゛ | ダライ・ラマ | チベット |
補論 | 平和賞の゛落ち穂゛ 受賞して然るべき人たち | ||
1 | ゛白衣の天使゛の母 | ナイチンゲール | 英国 |
2 | 無抵抗不服従運動の教祖 | ガンジー | インド |
3 | ゛死線を越えて゛ | 賀川豊彦 | 日本 |
4 | 北京゛動乱゛に対話路線を主張 | 趙紫陽 | 中国 |
5 | 米ハノイ北爆を名指しで批判 | パルメ | スウェーデン |
6 | 反戦、反核の行動する哲学者 | ラッセル卿 | 英国 |
7 | ゛近代五輪゛の創始者 | クーベルタン | 仏 |
8 | 三重苦の聖女 | ヘレン・ケラー | 米 |
9 | ゛獄中27年゛の闘士 | ネルソン・マンデラ | 南ア |
結び | 平和賞の使命 平和賞の進路 | ||
広島市公文書館開館30年講演会(2007年9月29日)
占領下における被爆者医療活動-医学博士・都築正男資料から
宇吹 暁(広島女学院大学)
はじめに
1972年2月3日、日赤に重藤文男院長を訪問。
都築著『医学の立場から見た原子爆弾の災害』借用。
1978年6月11日、80年11月17日~18日、都築家資料調査。
1994~96年度 科学研究費補助金
1995年12月23日、広島大学公開講座「原爆医療法制定前の被爆者問題」。
Ⅰ 占領下における被爆者医療活動
『広島大学公開講座・被爆50年-放射線が人体に与えた影響』
(広島大学1995.10.01)<資料1
Ⅱ 都築資料の概要
広島市寄贈(1981年7月6日)点数
書簡・葉書53点、論文247点、講演要旨27点、写真19点、雑誌17点、調査票9点、地図9点、その他264点 計645点 <『広島市公文書館紀要 第5号』(広島市、1981.03.31)>
『広島新史 資料編1(都築資料)』(広島市、1981.03.31)
目次<略>
Ⅲ 都築正男をめぐる現在
1.文献
1.文献
No. | 発行年月日 | 書名 | 著者・編者 | 発行所 |
1959.07.21 | 原水爆時代-現代史の証言(上) | 今堀誠二 | 三一書房 | |
1972.03.31 | 広島県史・原爆資料編 | 広島県(編) | 広島県 | |
1979.07.25 | 広島・長崎の原爆災害 | 広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会(編) | 岩波書店 | |
1980.08.06 | 桜隊全滅-ある劇団の原爆殉難記 | 江津萩枝 | 未来社 | |
1981.03.31 | 広島新史・資料編Ⅰ-都築資料 | 広島市(編) | 広島市 | |
1981.03.31 | 広島市公文書館紀要 第5号 | 広島市(編) | 広島市 | |
1981.04.05 | 都築正男研究業績目録-都築正男大人命20年祭 | 広島市史編纂室(編) | 都築正和 | |
1982.11.10 | 長崎原爆体験-医師の証言 | 調来助・吉沢康雄 | 東京大学出版会 | |
1986.08.11 | DDT革命-占領期の医療福祉政策を回想する | サムス,クロフォード、F.、竹前栄治(訳) | 岩波書店 | |
1990.10.18 | 核と共に50年 | 木村一治 | 築地書館 | |
1995.03.30 | 漱石の脳 | 斎藤磐根 | 弘文堂 | |
1995.10.01 | 広島大学公開講座・被爆50年 -放射線が人体に与えた影響 |
広島大学 | 広島大学 | |
1997.02. | 原爆被爆者対策史の基礎的研究―原爆被爆者対策前史 1945年(昭和20)~1953年(昭和28)資料集― | 宇吹 暁 | 宇吹 暁 |
2.今堀誠二の評価
占領軍と日本人科学者:サムス、アレン、ケリー、 ジュノー
『原水爆時代-現代史の証言(上)』、『広島県史・原爆資料編』、(『広島・長崎の原爆災害』)、『広島新史・資料編Ⅰ-都築資料』
3.検閲
「所謂『原子爆弾傷』に就いて-特に医学の立場からの対策」(『総合医学』、1945年10月1日)
<ゲタバキ部分あり。「昭和20年9月8日米国原子爆弾損害調査団を案内して広島市へ向ふ時記す」>
4.調査データのプライオリティ
大橋成一(元陸軍軍医学校教官・少佐、宇品陸軍救護病院副院長)、井深健次(元陸軍軍医学校校長・中將)宛の書簡(1953年5月3日付)の中で原子爆弾災害調査報告集の中に軍関係者の名前が掲載されていないことを指摘。(「広島県史原爆資料編」)。
大橋書簡=「当時の軍関係者の研究分担者の名前が掲載されて居らず、大学の先生方等のみの名があり、之のレポートが大学の先生方によって主になされた如く誤解される恐れがあると愚考致します。」
5.政府機関
予防衛生研究所、文部省、厚生省研究班、
6.広島・長崎の医療関係者
*都築正男報告(新聞発表)『中国新聞』
1945.9.4 9.5 11.25 1946.5.22 12.21
『広島県史・原爆資料編』(広島県、1972.03.31)
*公開治療
*松坂義正(広島)、調来助(長崎)
*学研調査団資料 調査票
7.被爆者
1945年8月13日、仲みどり(移動演劇団桜隊の女優)、広島で被爆後、東大都築外科に入院。24日、仲みどり、東大病院で死亡。30日、東大医学部教授都築正男ら調査団、来広。
1956年4月15日、東京の原爆被災者の会(事務局長松尾明人)、東京で、原爆被災者の集いを開催(東京・群馬・神奈川などから約100人参加)。都築博士による講演。被災者対策の充実・促進などを申し合わせ。
「畑とし子」=<東京の日赤で都築博士の治療を受ける>『あの日から生きて生きて』(1986年2月20日)
宗藤尚三=<被爆場所:1.3キロ自宅。大学生。日赤・似島・庄原日赤で治療。庄原では都築の診断を受ける。>『いのちの塔-広島赤十字・原爆病院への証言』(1992年6月10日)