『廣島あの日から』(長岡省吾、資料集成後援会、19550525)
内容(抄)
図表・写真・ | 解説 | |
爆発当時の状況 | 19450806 08:15 晴天無風状態 | |
原子雲 | 宇品町7丁目より木村権一氏決死的撮影。爆心より4km | |
広島市の被害全影 | 1か月後爆心地付近より撮影 | |
『廣島あの日から』(長岡省吾、資料集成後援会、19550525)
内容(抄)
図表・写真・ | 解説 | |
爆発当時の状況 | 19450806 08:15 晴天無風状態 | |
原子雲 | 宇品町7丁目より木村権一氏決死的撮影。爆心より4km | |
広島市の被害全影 | 1か月後爆心地付近より撮影 | |
『広島は訴える 原爆広島11年の記録』(小積明男<川手健?>編、発行者:吉川清、発行所:広島原爆資料出版会、19560801)
目次
頁 | 見出し | |
002 | その朝までの広島 | |
005 | 運命の日、八月六日 | |
014 | 原爆は平和をもたらしたか | |
019 | 魔の遺産、原爆症 | |
045 | 原爆被害者の生活 | |
069 | 原爆被災児の実態 | |
082 | 原爆被害者の運動 | |
103 | 原水爆禁止運動の発展 | |
128 | 附録1 原爆障害者調査結果表(原対協発表) | |
132 | 附録2 原爆被害者の損害賠償請求起訴状 | |
145 | 附録3 損害賠償請求訴訟の政府側答弁書 | |
ピカ資料研究所表札
ピカ研の指摘により作成した正誤表(20200704現在)
作成:宇吹 暁
年月日 | 書名 | 頁 | 誤 | 正 |
19710806 | 広島原爆戦災誌 第1巻 | |||
19710906 | 広島原爆戦災誌 第2巻 | |||
19711006 | 広島原爆戦災誌 第3巻 | |||
216 | 広島中央電話局(1.0km) | 広島中央電話局(500m) | ||
19711106 | 広島原爆戦災誌 第4巻 | |||
888上 | 田原伯 | 幻吉 | ||
19711206 | 広島原爆戦災誌 第5巻 | |||
19720331 | 広島県史 原爆資料編 | |||
19840329 | 広島県史 年表 | |||
19880325 | 広島県戦災史 | 116 | 天主閣 | 天守閣 |
19800715 | 原爆被災学術資料センター蔵 原水爆関係資料目録(Ⅰ)1974年4月~1978年12月 | |||
「お国がつくる見本の本 学者用 税立図書館」 | ||||
19850301 | 原爆被災学術資料センター 原爆関係蔵書目録(Ⅱ)1979年1月~1983年12月 | |||
多数の指摘 | ||||
19900731 | 原爆被災学術資料センター 原爆関係蔵書目録(Ⅲ)1984年1月~1988年12月 | |||
多数の指摘 | ||||
1985 | IMAGES FOR SURVIVAL <Exhibition of American and Japanese Peace Posters> | |||
19890401 | 図説広島市史 | 172 | 「広島平和記念都市建設法」は、広島市民の平和への決意の結実であるとともに国内外のノーモア・ヒロシマズの声の象徴である。 この法に基づく広島の復興と市民のたゆみない平和への努力を基盤として、今日の広島市は国際平和文化都市を目指して進んでいる。 |
|
なぜか | ||||
172 | ピカドン(昭和25年8月刊) | (昭和25年8月6日刊) | ||
172 | 原爆詩集(昭和26年9月刊) | 原爆詩集(昭和26年9月20日刊) | ||
173 | 『アサヒグラフ』 原爆特集号 | 『アサヒグラフ』 原爆被害の初公開 | ||
174 | (写真15)原爆被災全体像調査のための市民集会 (所蔵者・提供者等)中国新聞社 |
(所蔵者・提供者等)金井・幻吉 | ||
174 | (写真17)平和公園 | (写真17)平和大通り | ||
226 | グアム島<「原爆投下機はグアム島発進!? 図説広島市史に誤記」『中国新聞19920331』 | |||
255 | 峠三吉「一九六五年のヒロシマ」(昭和二十一年八月二日) | 峠一夫 21.12.1 | ||
1992 | 原爆文献にみる戦後史 平成4年度広島市公文書館常設展示 | |||
1992 | 都築・弓野資料にみる占領下の原爆災害調査 平成4年度広島市公文書館常設展示Ⅱ | |||
多数の指摘 | ||||
19960331 | ヒロシマの被爆建造物は語る | |||
098 | 『ニューヨーカー』 | 使用了解を | ||
308 | 李将軍 | |||
365 | 原爆被災資料総目録1.2.3 | 原爆被災資料総目録1.2.3.4 | ||
383 | ピカ研究所提供 | ピカ資料研究所 | ||
386 | 年表広島 | 年表ヒロシマ | ||
19960331 | 被爆50周年 図説戦後広島市史 街と暮らしの50年<本なし、ピカ研メモのみ> | |||
19990726 | 原爆手記掲載図書・雑誌総目録 1945-1995 | |||
Ⅶ | 田原伯(ピカ研主宰) | 田原幻吉(ピカ研所長) | ||
Ⅹ | 1収録基準(5)改版? | (内容変更)=改訂 | ||
Ⅹ | 2収録期間(1)1945年8月~1995年末 | |||
Ⅹ | 2収録期間(2)確認できる最も古い手記=1946年2月 | 逆あがり、1945.8.31大田洋子 | ||
Ⅹ | 3記載事項(2)多重者 | 多重者=記入法 | ||
Ⅹ | 3記載事項(5)所蔵 原医研・国会図 | 所蔵 原医研・国会図・以外 | ||
003 | [0011] | |||
013 | [0106]<[]内は一連番号>原爆詩集 所蔵:国会図 | |||
014 | お父さんを生かしたい―平和を叫ぶ子らの訴え | 残念もう少し?四集5冊、三集5冊、10冊 | ||
031 | [0284]<発行年月日日=19580401> | <発行年月日日=195606> | ||
201 | [2015]原爆を吊ってあった落下傘 | |||
289 | <19880331上原敏子> | ? |
「ピカより〇〇〇〇〇日」の会
設立日:
資料:配布ビラ
年月日 | ピカより何日 |
19680606 | 8341 |
8時15分=8341日=201万1040分=7億2066万2400秒 | |
19680706 | 8371 |
19680806 | 8402 |
19680906 | 8433 |
19681006 | 8463 |
19681106 | 8493 |
19681206 | 8524 |
19690106 | 8555 |
19690206 | 8586 |
19690306 | 8614 |
1240万4160分=7億4424万9600秒 | |
![]() |
|
「読売新聞(広島市内版)」(19740101)掲載広告 | |
田原幻吉(長崎市万才町3-33) |
四国(四國)五郎
しこく・ごろう | 19240511生20140330没 | 享年89 | 画家。『広島県現代文学事典』(西原大輔・記)。自著『平和記念式典の歩み』の執筆過程で広島市広報課在任中の四国氏に面識を得た。 |
資料
刊本 | ||
年月日 | 書名 | 備考(編著者・発行所など) |
1970/07/20 | 四国五郎詩画集-母子像 | 四国五郎著 広島詩人会議編 広島詩人会議 |
1975/04/30 | 広島百橋 | 四国五郎 絵と文 春陽社出版 |
1979/11/01 | 絵本おこりじぞう | 山口勇子 原作、沼田曜一 語り、四国五郎 絵 金の星社 |
1982/06/25 | おこりじぞう | 山口勇子作、四国五郎絵 新日本出版社 |
1983/07/20 | 絵本ヒロシマのおとうさん ヒロシマの心を子どもたちに | 高橋昭博文、四国五郎絵 汐文社 |
資料 | ||
2020 | 四国直登の避難ルート(A3、1枚) | <2020年国立広島原爆死没者追悼平和祈念館企画展「ヒロシマを描き続けた四国五郎と死の床でつづった直登の日記」で入手> |
2020 | 四国五郎の年譜(A4、1枚) | <2020年国立広島原爆死没者追悼平和祈念館企画展「ヒロシマを描き続けた四国五郎と死の床でつづった直登の日記」で入手> |
20200806 | NHK BS1スペシャル「ヒロシマの画家 四國五郎が伝える戦争の記憶」午前0:46~午前2:26(100分) | |
『川手健を語る』(川手健を語る会編、岡本智恵子 19950806)
川手健を語る会
とき | 1985年4月28日(日曜日)午後5時半 |
ところ | 広島県民文化センター5階ルビーの間 |
会費 | 5000円 |
目次
頁 | 事項 | 備考 | ||||||
002 | 案内状 | 発起人=13人 | ||||||
003 |
|
|||||||
003 | 川手健君の横顔 | |||||||
004 | 川手健を語る会発起人 | |||||||
005 | 出席者 | <宇吹暁が藤居平一の指示で代理として出席> | ||||||
008 | 川手健追悼会(発言者) | |||||||
大牟田(司会) | ||||||||
012 | 長崎 | |||||||
013 | 高橋 | |||||||
017 | 好村(司会) | |||||||
018 | 岡田 | |||||||
021 | 中江 | |||||||
023 | 岡田 | |||||||
023 | 司会 | |||||||
025 | 松江 | |||||||
028 | 野村 | |||||||
028 | 司会 | |||||||
029 | 松野 | |||||||
031 | 司会 | |||||||
032 | 広岡 | |||||||
033 | 司会 | |||||||
033 | 望月 | |||||||
036 | 司会 | |||||||
037 | 森滝 | |||||||
046 | 司会 | |||||||
041 | 岡本智恵子(朗読) | 「かんかんがくがく 黒い橋―あるコミュニストの死―」(『中国新聞』19600605) | ||||||
043 | 司会 | |||||||
043 | 温品 | |||||||
044 | 司会 | |||||||
044 | 石田 | |||||||
047 | 司会 | |||||||
047 | 里信 | |||||||
048 | 司会 | |||||||
050 | 寺前 | |||||||
051 | 司会 | |||||||
052 | 高橋 | |||||||
053 | 石井 | |||||||
054 | 文沢 | |||||||
054 | 司会 | |||||||
055 | 石井 | |||||||
060 | 司会 | |||||||
060 | 沼田 | |||||||
061 | 司会 | |||||||
061 | 丸本 | |||||||
062 | 司会 | メッセージ紹介 | ||||||
062 | 藤居平一 | |||||||
063 | 佐久間澄 | |||||||
063 | 伊東壮 | |||||||
063 | 竹内武 | |||||||
063 | 杉本きみよし | |||||||
064 | 高橋昭博 | |||||||
064 | 村上操 | |||||||
064 | 多地映一 | 本名:田村順一 | ||||||
064 | 小久保均 | |||||||
065 | 司会 | |||||||
065 | 石川 | |||||||
066 | 司会 | |||||||
066 | 川本 | |||||||
067 | 高橋 | |||||||
069 | 司会 | |||||||
070 | 川手健 | 半年の足跡(「原爆に生きて」195306) | ||||||
080 | 川手健 | ”傷は癒えたか”応募原稿 | ||||||
087 | 川手健 | 年譜 | ||||||
091 | 且原澄夫 | 川手健君のこと(1989.2.24) | ||||||
099 | 山元敏之 | 東京で38日間生きた | ||||||
104 | 新聞記事 | |||||||
105 | 新聞記事 | |||||||
106 | 広島大百科辞典 | |||||||
107 | 新聞記事 | |||||||
108 | 奥付 | 100部発行の40 |
増岡敏和
ますおか・としかず 2010年7月28日没 享年82歳
8月6日(1945年)には海軍の予科練(飛行機練習生)で松山航空隊に入隊、8月6日頃は軍隊疎開で愛媛県の南部の深浦町にいた。敗戦の数日以内に広島市に帰る。祖母、母、長妹(原爆死)、次妹被爆弟たちは学童疎開中。
資料
年月日 | タイトル | 形態・メモ |
19560601 | 請願書(広島県原爆被害者団体協議会) | |
19920911 | 増岡⇒ 吉川生美 | 書簡 |
吉川生美⇒ 宇吹 | 書簡 | |
19920923 | 増岡⇒ 吉川生美 | 葉書 |
19921006 | 宇吹⇒吉川生美 | 書簡(控) |
同上同封資料『東友文庫5 「ヒロシマ・ナガサキから何を学ぶか」被爆45周年連続学習講座 第5集 被爆者・国民は何をしてきたか』 | ||
19921030 | 宇吹⇒増岡 | 書簡(控) |
19921105 | 増岡⇒ 宇吹 | 葉書 |
19940712 | 増岡持参資料 | 紙1枚 |
「不屈の原水禁・被爆者運動前史―「占領期の広島」手控え」 | ||
19930124 | 1992年度久保医療文化研究所講演録(久保医療文化研究所) | 冊子 |
第68回講演会(19920314)増岡敏和「広島における反原爆文化運動の原点」 |
『「原爆一号」といわれて ちくまぶっくす36』(吉川清、筑摩書房、19810724)
目次
章 | 頁 | 見出し |
はじめに | ||
1 | 怒りこみ上げる基本懇の答申 | |
1 | 運命の日 | |
8 | 夜勤明けのその日 | |
19 | 死に脅える毎日 | |
23 | 八月一五日 | |
2 | 救護所での日々 | |
26 | 血と膿の体 | |
29 | 極貧の日々 | |
32 | 死亡者名簿の私の名前 | |
37 | 救護所の閉鎖 | |
39 | 日赤病院へ入院 | |
3 | 43 | 原爆一号 |
44 | 原爆一号の命名 | |
49 | インタビューや訪問客に追われる | |
写真(1947年)広島日赤病院の屋上でライフ誌の撮影に協力。 | ||
51 | 医学学術集会での研究材料 | |
写真(1949年)広島日赤病院を慰問したプロ野球選手と。故小西得郎氏、藤村冨美男氏の姿も。 | ||
54 | ケロイド手術の失敗 | |
57 | 患者会結成と強制退院 | |
4 | 原爆ドーム横集落時代 | |
62 | 野宿 | |
65 | 原爆ドーム横にみやげ物店開店 | |
70 | 被爆者を訪ね歩く | |
78 | 原爆傷害者更生会の誕生 | |
83 | 原爆乙女と私 | |
写真(1950年)日赤広島病院を訪れた日本ペンクラブの一行と。故川端康成氏の姿も。 | ||
写真(1953年)東大附属病院小石川分院で、原爆乙女の診察に立ち会う。 | ||
5 | 被爆者運動の組織化 | |
92 | 原爆被害者の会を結成 | |
100 | ケロイドを見せものにしてなぜ悪い | |
写真(1963年)ヒロシマみやげをつくるのもひと苦労。福島菊次郎氏撮影。 | ||
103 | 原爆被害者の会の協力会 | |
105 | 原爆被害者の会分裂 | |
111 | ABCCの横暴 | |
6 | 原水爆禁止世界大会 | |
118 | 平和都市広島の再興 | |
128 | 原水爆禁止広島市民大会 | |
129 | ネール首相の広島訪問 | |
写真(1957年)広島原爆病院前で故ネール首相と。 | ||
131 | 国会請願と日本被団協結成 | |
134 | 原爆一号の店取り壊し | |
写真(1957年)原爆一号の店の前で。 | ||
136 | 原水禁運動の分裂 | |
7 | バー「原始林」開店 | |
138 | マスターの私、ママの妻 | |
140 | ホステス、被爆者の売春婦 | |
144 | 不愉快な客 | |
8 | 東南アジア歴訪 | |
150 | パール博士の碑文への疑問 | |
157 | インドネシアでの広島出身元日本兵 | |
9 | 映画と私 | |
164 | 「原爆の子」 | |
166 | 「ひろしま」 | |
167 | 「生きていてよかった」 | |
168 | 「二十四時間の情事」 | |
169 | 「ヒロシマ一九六六」 | |
175 | 「記録なき青春」 | |
176 | 「ヒロシマの証人」 | |
177 | 挫折した「小さな恋人たち」 | |
178 | 「灯は生きていた」 | |
178 | 流産した「にっぽんの青い鳥」 | |
180 | 反響をよんだ「はだしのゲン」 | |
10 | 折り折りの人 | |
182 | 宗教と私 | |
186 | 病に倒れた峠三吉 | |
189 | 首相官邸前で割腹自殺した小林雲徹 | |
写真(1957年)クリスマス島英水爆実験に抗議して座り込み。右端が小林雲徹。 | ||
193 | ガンで死んだ南小一 | |
197 | 広島へ通った土門拳 | |
写真(1953年)原爆一号の店の前で土門氏と。 | ||
203 | 結びにかえて |
『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815)目次
頁 | 事項 |
口絵 | 上図:著者の両腕と背のケロイド(松笠やうのもの) |
下図:ライフ誌上に掲載された一文 | |
「ライフ」特派員より著者に送られた書簡 | |
病床にある著者と妻。英文はタイム誌上に掲げられた一文 | |
永久に平和記念館として保存される旧産業奨励館 | |
1 | 序 (富田勝己 <京都府立医科大学外科教室> ) |
5 | 目次 |
図:避難場所、休憩場所 | |
1 | 思ひ出の八月六日 |
4 | 悲しき経験 |
11 | 命は助つたが |
15 | 生の欲望 |
「大粒の雨」、「西原国民学校」 | |
21 | 遂に失神 |
「祇園青年会館」 | |
25 | その夜の救護所 |
「祇園神社」 | |
29 | 可部町勝圓寺にて |
29 | 父を亡ふ |
「可部の警察署の診療所」、「勝圓寺の御堂」 | |
33 | 八月十五日を迎ふ |
37 | 顕著な原爆症状 |
42 | 絶望より微かな希望へ |
52 | 焼土廣島の見開 |
59 | 復員列車をみる |
63 | 友情に泣く |
三次町より川内村へ | |
70 | 無医村に迎へる冬 |
赤十字病院に入院 | |
75 | 三度廣島へ |
79 | 闘病生活つづく |
87 | 山根さんの人間的魅力 |
91 | 再び思ひ出の八月六日 |
97 | 平和の黙祷 |
100 | 死の淵を彷徨 |
103 | 春を迎へて |
105 | 平和の礎石に |
111 | 実験臺上へ |
116 | 「ライフ」特派員と會ふ |
122 | 跋 (伊藤嘉夫 広島赤十字病院皮膚科医学博士 ) |
後記( 吉川清) | |
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|
帯 | |
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|
口絵 |
京都印書館=1944年(昭和19年) 人文書院と立命館出版部ほか京都の出版社数社が企業整備により統合し誕生した出版社。http://www.jimbunshoin.co.jp/company/c285.html