東京都葛飾区立上平井中学校
『’76ひろしま 東京都葛飾区立上平井中学校-修学旅行記録集-』(19770319、江口保編・発行) 所蔵:ピカ研
東京都葛飾区立上平井中学校
『’76ひろしま 東京都葛飾区立上平井中学校-修学旅行記録集-』(19770319、江口保編・発行) 所蔵:ピカ研
市岡正憲
19190609生19930622没 | いちおか・まさのり | 享年74歳 | 広島県被団協理事長・県原水協理事長。 |
資料
19710622 | 『教研速報No.2』 | 広教組広島地区支部教文部 | 所蔵:ピカ研 |
学級づくり・集団づくりの学習会-6月26日(土)午後2時より 社会福祉センター(予定) 講師 市岡正憲(三原附属教頭・三原市生研)先生 | |||
19890605 | 歌集・炎1-反核非戦の闘いのために | 火幻短歌会 | |
平和教育校内研究会(石田講師)の概要(19701120)
資料所蔵:ピカ研 |
骨子 |
平和教育のあゆみ |
現代の世相と平和 |
平和教育の位置づけ |
平和教育の定義 |
学校と家庭 |
フロイド・シュモー
18950921生 20010420没 |
享年 105歳 |
1983年)11月15日広島市特別名誉市民 「ヒロシマの家」(シュモーハウス)の建設・寄附を通じて平和運動に尽力。 |
資料
ドキュメント・悲しみの千羽鶴(豊田清史、創樹社、1991/07/10)目次
1 | 鶴を折りつつなぜ死んだ | ||
2 | 二歳で被爆、でも元気に育った | ||
3 | 六年生の冬、原爆症が出た | ||
4 | 生きたくて千羽鶴を折る | ||
5 | ほんとうは千三百羽をこえていた | ||
6 | 禎子よ、もう一度この胸に | ||
7 | 「原爆の子の像」建立へ | ||
8 | 子どもの力で平和をきずくのだ | ||
9 | パン代五五〇円使っただけ | ||
10 | はばたく千羽鶴 | ||
11 | 苦しみに絶った若い命 | ||
12 | 千羽鶴のこころね | ||
13 | 次つぎと寄せられた千羽鶴 | ||
14 | 反核への折り鶴運動 | ||
15 | 禎子の折った赤い鶴 | ||
16 | 海を越える折り鶴の輪 | ||
17 | 折り鶴への放火事件 | ||
18 | 像の二〇万羽を引きちぎる | ||
19 | 首相の句碑には折り鶴がない | ||
20 | 「折り鶴の会」の嘆き | ||
21 | 折り鶴でとっちめられた私 | ||
22 | 千羽鶴の詩歌や出版書 | ||
23 | ピカドン竹藪の千羽鶴 | ||
24 | 「金色の鶴」の紛失 | ||
25 | 湯川博士より「千羽鶴」の書 | ||
26 | お母さんの千羽鶴 | ||
27 | 七六万羽折った北川さん | ||
28 | 町をあげて千羽鶴運動 | ||
29 | さまざまな問題をもつ平和公園 | ||
30 | 鶴に生きる禎子の霊よ | ||
31 | 千羽鶴が絶えませぬように | ||
あとに | |||
『『歴史と教育(広島歴教協)』NO. 14
石井金一郎先生追悼号目次
著者 | タイトル |
今堀誠二 | 石井教授の学問 |
石井和郎 | ぼくの父 |
天野卓郎 | 石井金一郎先生を偲んで |
篠原孝義 | 組織者石井金一郎先生 |
有田譲 | 石井先生と部落問題 |
松岡金光 | 石井先生を偲んで |
村上尚三郎 | 石井先生の死を悼む |
故石井金一郎氏遺族をはげます募金のお願い | |
資料 | 石井教授の死 平和運動に打撃 原爆医療法成立に功労(『中国新聞』19670622) |
遺徳をしのび500人 石井教授の教養部葬 霊前にひっそり学位記(『中国新聞』19670623) | |
天野 | 編集後記 |
バーバラ・レイノルズ 19900211没 74歳
米の平和運動家。1951年に来広し、18年間広島市に滞在、1962年に広島・長崎平和巡礼団を組織するなど平和運動に貢献。
広島平和公園 撮影日20190921 |
菊池武彦
きくち・たけひこ | 生19850504没 | 享年91歳 | 京都大学原爆災害調査班の一員として1945年8月に広島を調査。『京都大学原子爆弾災害総合研究調査班の成立と活動』、『大野陸軍病院における京大原爆総合研究調査班の山津波による遭難の状況(私の日記から)』。お宅を訪問。被爆直後の写真について教示をいただく。 |
止
下中弥三郎 1878 年生、1961年2月21日死亡。享年84歳。
下中記念財団 1962年6月設立。理事に赤井米吉(初代の理事長)。茅誠司、谷川徹三、中島健蔵、湯川秀樹など。
出典:https://www.shimonaka.or.jp/
『父は沖縄で死んだ』(大田英雄、高文研、19890613 )
目次
章 | 見出し | 備考 |
Ⅰ | 沖縄県民かく戦えり | |
◇還ってきた父のシャレコウベ◇沖縄”捨て石”作戦◇武器は「竹槍」だった◇海軍部隊の最期◇二つの電文◇壕の中の遺骨◇命沖縄の土になった「父」 | ||
Ⅱ | 家族の見た父の肖像 | |
◇命父と母の出会い◇軍人とその妻◇「武人」の横顔◇子供たちの目に映った父◇六番目で最初の男の子◇かいま見た太平洋戦争の実態◇佐世保に移る◇坂に消えた白い手袋 | ||
Ⅲ | 遺族たちの「戦後」 | |
◇初めての呉空襲◇学童疎開先で知った父の死◇八月十五日の夕焼け◇墨を塗らされた教科書◇食うためのたたかい◇離散したきょうだい◇新制中学の授業◇高校時代の記憶◇一度は考えた防大受験◇「沖縄」を避けていた大学時代◇教会活動・洗礼・就職 | ||
Ⅳ | 教師として生きる | |
島の分校の新米教師 | 倉橋分校? | |
***倉橋分校?。昼間定時制 | ||
生徒に教えられたヒロシマ | ||
***体育祭の仮装行列で原爆被災者を演じる。 | ||
「瀬戸の花嫁」 | ||
末弟も防衛大へ | ||
職員会議で罵倒された私 | ||
***1963年4月広島県立賀茂高等学校へ赴任。「日の丸」問題。滝尾英二先生のアシスタントとして社会科研究クラブの研修旅行「大和路の旅」へ生徒を引率。 | ||
古墳にとりつかれて | ||
呉市に戻る | ||
***1967年4月広島県立呉宮原高等学校へ赴任。 | ||
モーニング論争 | ||
同和教育運動のなかで | ||
防衛大へ行った教え子 | ||
***呉でも大学セクトの指導でアジト。宮原高校も一つの拠点。「反戦高校生」は「呉黄幡弾薬庫や江田島秋月弾薬庫」などを取り上げる。 | ||
自衛隊員の子女に自衛隊をどう教えるか | ||
***1983年に盛岡で開かれた「第32次全国教育研究集会」の「人権と平和」教育分科会にレポーターとして参加。助言者に森田俊男先生。 | ||
Ⅴ | 平和教育にとりつかれて | |
映画「沖縄」の上映運動 | ||
カヤさん、マキさんとの出会い | ||
***1972年カヤ(萱原威=被爆者。広高校の数学の教師)先生が中心となり県下に先がけ高教組呉地区支部内に平和教育推進部を結成。マキ(牧岡宏明。広高校の数学の教師)。972年カヤ、マキらで全国高校生活指導研究協議会呉支部(略称:呉高生研)結成。 | ||
呉空襲を記録する会 | ||
***1974年歴史教育者協議会呉支部を中心に 呉空襲を記録する会を結成。1975年『呉空襲記』(中国新聞社、吉川記者)刊。 | ||
平和教育読本をつくる | ||
***呉地区の平和教育推進部の提案で高教組本部に編集委員会設置。『明日に生きる』 | ||
平和教育推進部 | ||
***1977年カヤさんが広島商業高校に転勤。 | ||
呉地区高校生「平和の集い」 | ||
***1973年、平和教育推進部で貸し切りバスを仕立て第19回原水爆禁止世界大会の文化集会に生徒ともども参加。上条恒彦の声に圧倒される。翌年、生徒の要望で世界大会そのものに参加。1975年2月、第1回呉地区高校生「平和の集い」(呉地区高校生徒会連絡会主催、平和教育推進部・呉高生研援助、原水爆禁止呉協議会・歴史教育者協議会呉支部後援)。 | ||
「高校生平和ゼミナール」の出発 | ||
***1977年(松崎徹、沢野重男ら)「広島平和ゼミナール」結成。 8・6高校生平和集会への道= 1975年第19回原水爆禁止世界大会高校生分科会終了後、松崎から大田に相談。 第20回原水爆禁止世界大会高校生分科会終了後、指導者会議に提起。 第21回原水爆禁止世界大会高校生分科会で学園に根差した高校生の活動報告。 大阪清水谷高校の文化祭での平和問題への取り組み。 以後、3年のうち2回は広島県高校生平和ゼミナールが、1回は長崎高校生平和ゼミナールが、地元実行委員会として世話役。 |
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平和は創りだすもの | ||
***呉地区高校生「平和の集い」=2月と6月の2回。第3回、第5回、第6回の内容 | ||
すばらしい生徒たち | ||
***第7回、第13回、 | ||
「原爆瓦」に負けるな | ||
***戦跡フィールドワーク。1982年2月第15回「平和の集い」。 | ||
一年六組の旗 | ||
***1982年4月、ホームルームを担当。6月の第16回「平和の集い」 | ||
盛岡の誓い | ||
***「第32次全国教育研究集会」(1983年)。広島(沢野重男・大亀信行)・長崎・埼玉(小岩井増夫)・呉で「8・6全国高校生集会」。森田塾。 | ||
VI | 沖縄で見た「父」 | |
父の「電文」との出会い | ||
歴教協・呉支部をつくる | ||
海軍壕で見た「父」 | ||
基地オキナワの現実 | ||
安仁屋政昭氏との再会 | ||
「兄は反戦教師、弟は自衛官」 | ||
二度目の訪沖 | ||
平良知事の涙 | ||
三度目の訪沖 | ||
VII | 沖縄戦“追体験”の旅 | |
「観光コースでない沖縄」 | ||
本島中部の戦跡と基地 | ||
糸数壕にて | ||
摩文仁の丘にて | ||
平和祈念資料館にて | ||
「ひめゆり」の衝撃 | ||
父の「電文」の背後にあったもの | ||
旅の終わり | ||
VIII | 呉にも「沖縄」があった | |
軍港都市・呉の誕生 | ||
海軍・戦争とともに歩んだ呉 | ||
呉空襲の被害が大きかった理由 | ||
呉の「摩文仁ヶ丘」と「健児の塔」 | ||
呉にもあった「ひめゆりの塔」 | ||
戦艦「大和」の碑 | ||
壕の中の地獄 | ||
帝国海軍の終焉「呉沖海空戦」 | ||
「軍都」呉は、いま | ||
あとがき |