三村剛昂
みむら・よしたか | 18980301生19651026没 | 享年67 |
広島文理科大学教授(物理学)。1944年同大理論物理学研究所の初代所長。 | ||
資料 | |
『科学者と平和 三村剛昂先生遺稿集』(三村剛昂先生遺稿収録委員会) | |
三村剛昂
みむら・よしたか | 18980301生19651026没 | 享年67 |
広島文理科大学教授(物理学)。1944年同大理論物理学研究所の初代所長。 | ||
資料 | |
『科学者と平和 三村剛昂先生遺稿集』(三村剛昂先生遺稿収録委員会) | |
亀井文夫
19080401生19870227没 | かめい・ふみお | 享年78 | 映画監督。被爆者を描いた「生きていてよかった」(1956年)などを制作。 |
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仁都栗司
にとぐり・つかさ 生 19881211没 享年91 | |
元広島市議会議長。広島平和記念都市建設法・原爆医療法などの制定に尽力。 | |
資料 | |
『仁都栗司資料目録』(広島市公文書館、1988年6月30日) |
森戸辰男
18881223生19840528没 | もりとたつお | 享年95 | |
1950年広島大学初代学長。(13年間)。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。[51広島大学平和問題研究会会長]。[52広島平和問題談話会]。1951年に、「広島大学平和問題研究会」を発足させる。 |
資料 | |
『広島大学所蔵 森戸辰男関係文書目録 (上・下巻)』(森戸文書研究会編、広島大学・松下視聴覚研究財団刊) | |
サイド・オマール
19260728生19450903没 | オマール、サイド | マレーシア出身の南方特別留学生、広島文理科大学在学中被爆、昭和20年9月3日京都で死亡 |
資料
宇吹暁「第29回オマール氏法要」(『広大フォーラム 22期5号』1990年11月20日)
井出三千男
いで・みちお | 1941生20060626没 | 享年65歳 | 広島市安佐北区出身。変貌する都市広島をフィルムに残した写真家。 原爆記録写真の研究家、写真の専門家の立場から、被爆建物等を手がかりに写真を読み解き、平和記念資料館の資料調査研究会委員として活躍 |
リンク:資料年表:井出三千男
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水原肇
読売新聞記者(1989年55歳で定年退職。その後は自称トップ屋)
資料 | |
正観「梟」通信第1号(1999年6月9日) | |
carnet通信VOL1No.1(個人誌「正観」改題、1999.10.13) | |
carnet手帖Vol1No.1(キャルネー=手帖、1999.1110) | |
吉川清
きっかわ・きよし | 生19860125没 | 享年74 |
「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。 |
資料
『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815) | |
『 閃光を背負って―原爆第一号の足跡』毎日新聞(広島版)連載1989年8月16日~9月6日 | |
『 吉川清氏資料概要(中間報告)』(広島平和記念資料館、20030317) | |
リンク:吉川生美(きっかわ・いきみ)20131228没 享年92歳。「原爆1号」と呼ばれた故吉川清は夫。 約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆した。 広島市東区のグループホームで死去。 | |
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高橋昭博
たかはしあきひろ | 19310726生20111102没 | 享年80 | 広島平和記念資料館長(1979年4月1日~1983年3月31日) |
ジュノー、マルセル
Marcel Junod | 19040514生19610616没 | 享年57歳 | スイス国籍の外科医。赤十字国際委員会駐日代表として来日。1945年9月8日、GHQの医薬品ともに広島入り。 |
リンク ttps://hiroshima-ibun.com/2023/06/16/資料年表:マルセル・ジュノー |
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