サイド・オマール
19260728生19450903没 | オマール、サイド | マレーシア出身の南方特別留学生、広島文理科大学在学中被爆、昭和20年9月3日京都で死亡 |
資料
宇吹暁「第29回オマール氏法要」(『広大フォーラム 22期5号』1990年11月20日)
サイド・オマール
19260728生19450903没 | オマール、サイド | マレーシア出身の南方特別留学生、広島文理科大学在学中被爆、昭和20年9月3日京都で死亡 |
資料
宇吹暁「第29回オマール氏法要」(『広大フォーラム 22期5号』1990年11月20日)
井出三千男
いで・みちお | 1941生20060626没 | 享年65歳 | 広島市安佐北区出身。変貌する都市広島をフィルムに残した写真家。 原爆記録写真の研究家、写真の専門家の立場から、被爆建物等を手がかりに写真を読み解き、平和記念資料館の資料調査研究会委員として活躍 |
リンク:資料年表:井出三千男
止
水原肇
読売新聞記者(1989年55歳で定年退職。その後は自称トップ屋)
資料 | |
正観「梟」通信第1号(1999年6月9日) | |
carnet通信VOL1No.1(個人誌「正観」改題、1999.10.13) | |
carnet手帖Vol1No.1(キャルネー=手帖、1999.1110) | |
吉川清
きっかわ・きよし | 生19860125没 | 享年74 |
「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。 |
資料
『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815) | |
『 閃光を背負って―原爆第一号の足跡』毎日新聞(広島版)連載1989年8月16日~9月6日 | |
『 吉川清氏資料概要(中間報告)』(広島平和記念資料館、20030317) | |
リンク:吉川生美(きっかわ・いきみ)20131228没 享年92歳。「原爆1号」と呼ばれた故吉川清は夫。 約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆した。 広島市東区のグループホームで死去。 | |
止
高橋昭博
たかはしあきひろ | 19310726生20111102没 | 享年80 | 広島平和記念資料館長(1979年4月1日~1983年3月31日) |
ジュノー、マルセル
Marcel Junod | 19040514生19610616没 | 享年57歳 | スイス国籍の外科医。赤十字国際委員会駐日代表として来日。1945年9月8日、GHQの医薬品ともに広島入り。 |
リンク ttps://hiroshima-ibun.com/2023/06/16/資料年表:マルセル・ジュノー |
止
長岡省吾
ながおか・しょうご | 19010811生19730201没 | 享年71 | 広島大学理学部[学研調査]。被爆時、広島文理科大学嘱託として山口県に地質調査で出張中。翌日入市。被爆資料収集に努めた(初代広島原爆資料館長)。お宅で面談、資料閲覧 |
資料
本 | 発行年月日 | 著者・発行所 |
廣島あの日から | 19550525 | 長岡省吾、資料集成後援会、 |
HIROSHIMA | 19700720 | 長岡省吾、長岡省吾 |
H iroshima Under Atomic Bomb Attack | ||
蔵本淳
資料 | |
『蔵本淳教授退官記念業績集』(広島大学原爆放射能医学研究所病態治療研究部門臨床第一(血液内科)研究分野)、1995年3月 | |
『祝 蔵本淳教授退官記念祝賀会出席者御芳名簿 平成7年3月11日 於リーガロイヤルホテル広島』 | |
ふかがわ・むねとし | 20080424没 | 享年87 | 歌人、三菱広島・元徴用工被爆者裁判を支援する会共同代表、本名前畠雅俊=まえはた・まさとし)旧三菱重工業の韓国人徴用工の指導員をしていて被爆。73年から1人で徴用工の調査を始め、補償問題に取り組む。 |