献花(2月)
2019年 |
プリムラ・マラコイデス 撮影日:20190202 場所:自宅 |
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市) |
2018年 |
小菊 撮影日・場所:2018/2/5 実家 |
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市) |
献花(2月)
2019年 |
プリムラ・マラコイデス 撮影日:20190202 場所:自宅 |
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市) |
2018年 |
小菊 撮影日・場所:2018/2/5 実家 |
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市) |
献花(1月)
2021年 |
ロウバイ(蝋梅) 撮影日:5日、場所:実家 |
2019年 |
ウメ(梅) 撮影日:7日、場所:自宅 |
ロウバイ(蝋梅) 撮影日:1日、場所:実家 |
キク(菊) 撮影日:1日、場所:実家 |
ハボタン(葉牡丹) 撮影日:1日、場所:実家 |
センリョウ(千両) 撮影日:1日、場所:実家 |
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市) |
2018年 |
棕梠の実 撮影日:21日、場所:実家 |
ろうばい(蝋梅) 撮影日:5日、場所:実家 |
蕗の薹(ふきのとう) 撮影日:2日、場所:実家 |
すいせん(水仙)撮影日:2日、場所:実家 |
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市) |
3月忌(一覧)
日 | 没年 | 氏名 | 読み | 享年 | 備考 |
01 | 19610301 | 手塚良道 | てづか・よしみち | 72 | 広島文理科大学教授(漢文学)の時被爆。「奇怪な火焔」<被爆場所:爆心より2000米、当時の住所:白島中町72-1、広島文理科大学教授、55歳>(『原爆体験記』広島市民局社会教育課編、広島平和協会刊、19500806)pp.81-85。 |
01 | 20030301 | 藤田進 | ふじた・すすむ | 参議院議員5期、第2代総評議長、大阪工大摂南大学総長・理事長。 | |
01 | 20040301 | 飯島宗一 | いいじま・そういち | 81 | 広島大学学長(1969~1977年)。追悼記=庄野直美(『中国新聞』20040305)、来栖武士郎(『中国新聞』20040327)、高木新(『朝日新聞』20040330)。 |
01 | 20110301 | クラウス・ルーメル | 94 | 1937年に来日。イエズス会の長束修練院<広島市安佐南区>で被爆。 | |
01 | 20140301 | アラン・レネ | 91 | フランス・ヌーベルバーグとなった映画監督。「24時間の情事(ヒロシマ・モナムール)」(1959年) | |
01 | 20180301 | 佐藤行通 | さとう・ぎょうつう | 99 | 日本山妙法寺僧侶、社会運動家。『日本中が私の戦場 平和を求める宗教者の手記』 (東邦出版社、1970730) |
01 | 20190301 | 大井健二 | おおい・けんじ | 72 | [退任教員の履歴と業績]大井健二(『広島国際研究 2012』第18巻、広島市立大学国際学部、2012/11/30) |
02 | 19800302 | 安井郁 | やすいかおる | 72 | [原水爆禁止世界大会日本準備会事務総長]。日本原水協顧問。『道-安井郁 生の軌跡』(「道」刊行委員会編、法政大学出版局、1983/08/06) |
03 | 19890303 | 岸本吉太 | きしもと | 広島市で写真店経営(被爆者)。被爆直後から被爆の惨状を撮影し続け、1981年に原爆資料館に写真を寄贈。広島原爆被災撮影者の会のメンバー。 | |
03 | 20000303 | 伊東壮 | いとう・たけし | 70 | 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員、元山梨大学学長。広島市生まれ。広島一中3年の時、動員先の兵器工場で被爆。東京・国立被爆者の会の結成に参画、東京都原爆被害者団体協議会事務局長、日本被団協事務局長などを歴任。江種則貴「評伝」(『中国新聞』2000.3.6)、本田雅和「惜別」(『朝日新聞』2000.4.12) |
03 | 20090303 | 伊藤明彦 | いとう・あきひこ | 72 | 長崎の入市被爆者。長崎放送記者だった1968年、担当したラジオ番組をきっかけに被爆者の声の証言の収録を始める(高見浩太郎=共同「この人」『中国新聞』20080621)。石井みちこ「伊藤元記者をしのぶ」(『中国新聞』20090308投書欄)<参照:原爆ジャーナリスト> |
04 | 19870304 | 北村西望 | きたむら・せいぼう | 102 | 彫刻家。長崎市の「平和祈念像」の制作者。 |
04 | 20170304 | 長友啓典 | ながとも・けいすけ | 77 | グラフィックデザイナー。2010年に「ヒロシマ・アピールズ」を制作。参照:HIROSHIMA APPEALS ARCHIVES http://hiroshima.jagda.or.jp/appeals.html |
05 | 19710305 | 山本正房 | やまもと・まさふさ | 72 | 中国新聞社長(1958年9月~)、同会長(1969年11月~)。『山本正房追悼録』(1971.8.15) |
05 | 19720305 | 神田周三 | かんだ・しゅうぞう | 78 | 洋画家。広島で被爆。広島平和美術展設立に参加。(『広島県大百科事典』岡本隆寛・記) |
05 | 19780305 | 島本正次郎 | しまもとしょうじろう | 92 | 広島県被団協理事。『理容生活六十五年』(島本正次郎、1966/08/06) |
05 | 19910305 | 内田恵美子 | うちだ・えみこ | 広島大学原医研事務官。職場の同僚<投稿> | |
06 | 19730306 | バック、パール・ | ばっく、ぱーる | 80 | アメリカの小説家。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<投稿> |
06 | 20050306 | 栗原貞子 | くりはら・さだこ | 92 | 詩人・歌人・評論家。『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)。広島原水禁常任理事 http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0505_1.htm<投稿> |
06 | 20240306 | 児玉正昭 | こだま・まさあき | 広島県史編さん室勤務時期の宇吹の上司。 | |
06 | 20240306 | 五百籏頭眞 | いおきべ・ まこと | 政治学者 、 歴史学者 (日本政治外交史)。広島大学勤務期に面識あり。 | |
07 | 19840307 | 浅田常三郎 | あさだ・つねさぶろう | 85 | 物理学者。『町人学者 産学連携の祖 浅田常三郎評伝』(増田美香子編、毎日新聞社、20080419) |
08 | 19960308 | 下江武介 | しもえ・ | 92 | 広島県被団協理事。<投稿予定> |
08 | 20010308 | 田畑茂二郎 | たばた・しげじろう | 89 | 京大名誉教授。原爆投下は国際法違反と鑑定。 |
08 | 20180308 | 大田萩枝 | おおた・はぎえ | 96 | 1942年、広島県立病院勤務。核戦争防止国際医師会議(IPPNW)第9回世界大会(広島)で被爆体験を語る。西本雅実「大田萩枝さん死去 被爆医師 救護に奔走」『中国新聞』20180402)。 |
09 | 19520309 | 松田重次郎 | まつだ・じゅうじろう | 77 | 梶山季之著『松田重次郎』(時事通信社、1966/02/25)<投稿> |
10 | 19530310 | 峠三吉 | とうげ・さんきち | 36 | [52広島平和問題談話会](新日本文学会広島支部長)。[原爆被害者の会幹事]。広島県西条国立療養所で死亡。(『広島県大百科事典』大原三八雄・記)『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)<投稿> |
10 | 19920310 | 久保仲子 | くぼ・なかこ | 64 | 愛媛県原爆被害者の会会長。藤居平一聞き書きに登場。原爆死没者慰霊碑 |
11 | 20190311 | 諏訪了我 | すわ・りょうが | 85 | 浄土真宗本願寺派浄寶寺前住職。<投稿予定> |
12 | 19720312 | モリス、アイラ | もりす・あいら | 68 | フランス在住の米国人作家。「広島憩いの家」の生みの親。妻エディタとともに広島市特別名誉市民(1967年4月)。(『広島県大百科事典』田辺耕一郎・記) |
12 | 19840312 | 渡辺嶺男 | わたなべみねお | 63 | 元広島大学原医研から鳥取大学医学部教授。コンピューターによる被爆者の疫学研究。1976年12月、78年11月、79年12月、81年12月に原医研で講義。ネットワークの概念について学ぶ。 |
13 | 19510313 | 原民喜 | はら・たみき | 45 | 詩人・小説家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)1919年広島高師附中入学。慶応義塾大学に進む。千葉から郷里の広島に疎開中被爆。東京・西荻窪で鉄道自殺。広島市本通り商店街の商店で原時彦氏(民喜の甥)に被爆時民喜が所持していた手帳を閲覧させていただく。 |
13 | 19930313 | 渡辺千恵子 | わたなべ・ちえこ | 63 | 長崎原爆乙女の会を結成。映画「生きていてよかった」に藤居平一に抱かれて外出した映像あり。 |
14 | 19960314 | 木村一治 | きむら・もとはる | 『核と共に50年』(木村一治、築地書館、1990.10.18)<投稿> | |
14 | 20010314 | 芝田進午 | しばた・しんご | 70 | 哲学者。反核文化論を提唱。広島大学教授(1976~93年)。担当する平和科目での講義(2コマ)を依頼される。<投稿> |
15 | 19880315 | モリス、エディタ | もりす・えでいた | 小説家・平和活動家。夫アイラとともに広島市特別名誉市民(1967年4月)。『広島県現代文学事典』(植木研介・記) | |
16 | 19890316 | 太田司朗 | おおた・しろう | 85 | 元広島大学助教授。元エリザベト音楽大教授。広島平和記念公園の「平和の時計塔」から流れる「平和の時計塔の歌」の作詞・作曲者。 |
17 | 19980317 | 下程勇吉 | したほど・ゆうきち | 1904年10月6日 – 1998年3月17日 広島県安佐郡戸山村生。1924年3月広島県立第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1927年3月広島高等学校(文科乙類)卒業。 1930年京都帝国大学文学部哲学科卒。1937年京都府立医科大学予科教授。1947年、京都大学助教授、「天道と人道 二宮尊徳の哲学」で、文学博士(京都大学)を取得。1948年京都大学教授。教育学部創設に参加し1951年から学部長。「京大原爆展」調査の中で名前を知る。その後親族の結婚式で面識。 |
|
17 | 20020317 | 後藤陽一 | ごとう・よういち | 88 | 広島大学名誉教授。恩師・道重哲男の恩師(投稿) |
18 | 19940318 | 天野卓郎 | あまの・たくろう | 68 | 広島県史編さん室。職場の上司。(投稿) |
19 | 20170319 | 今田洋子 | いまだ・ようこ | 73 | 1歳の時、母に背負われ入市被爆。広島平和記念資料館でピースボランティア。「シュモーに学ぶ会」代表。「今田洋子さん死去 シュモーに学ぶ会代表 私が広島の思い伝えなければ」(『朝日新聞』20170321 岡本玄・記) |
20 | 19650320 | 峠和子 | とうげ・かずこ | 56 | 峠三吉の妻。 |
20 | 20170320 | 肥田舜太郎 | ひだ・しゅんたろう | 100 | 被爆当時、広島陸軍病院所属の軍医。日本原水爆被害者団体協議会原爆被爆者中央相談所理事長などを歴任。(投稿) |
21 | 19980321 | 竹内千代 | たけうち・ちよ | 90 | ワールド・フレンドシップ・センターの創立メンバー。平和を願う友の会代表。 |
21 | 20020321 | 高木昌彦 | たかぎ・まさひこ | 76 | 元大阪大学医学部。カザフスタンで医療ボランティア活動。 |
21 | 20180321 | 吉田嘉清 | よしだ・よしきよ | 92 | 平和運動家。元原水爆禁止日本協議会代表理事。『人間銘木 藤居平一追想集』に寄稿。 |
22 | 20050322 | 丹下健三 | たんげ・けんぞう | 91 | 建築家。 |
23 | 19930323 | 芹沢光治良 | せりざわ・こうじろう | 小説家。『広島県現代文学事典』(村上林造・記) | |
23 | 20170323 | 佐古美智子 | さこ・みちこ | 85 | 原爆による心身の傷を歌った「ほほえみよ還れ」の作詞者。渡米治療。(出典『中国新聞』20170324) |
24 | 19930324 | ハーシー、ジョン | はーしーJohn Hersey | 78 | 広島のルポルタージュ「ヒロシマ」の著者。2002年の広島市の平和宣言(秋葉市長)に著書『ヒロシマ』が取り上げられる。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)。<投稿> |
24 | 20140324 | 新堀 通也 | しんぼり・みちや | 92 | 教育学者・社会学者。「大学研究者の履歴書 」、「新堀通也(しんぼりみちや)先生【全6回】(広島大学・武庫川女子大学名誉教授)」、『新堀通也、その仕事』(新堀通也先生追悼集刊行委員会編 東信堂、2015) |
25 | 20140325 | シェル、ジョナサン | しぇる、じょなさん | 70 | 2000、2007年に広島を訪問。パネリストを務める。2002年の広島市の平和宣言(秋葉市長)に著書『地球の運命』が取り上げられる。 |
26 | 19940326 | 山口誓子 | やまぐち・せいし | 俳人。『広島県現代文学事典』(山下航正・記) | |
26 | 20190326 | 萩原健一 | はじわら・けんいち | 68 | 俳優・歌手。広島大学原爆放射能医学研究所でロケしたNHKドラマ「されど、わが愛」(19950805放映)に出演。撮影当日(19950419)、宇吹の研究室が彼の休憩所になる。 |
28 | 19850328 | 河村郷四 | かわむら・さとし | 82 | 第23代広島商工会議所会頭。『河村郷四追想録』(河村郷四追想録編纂委員会、19860315) |
30 | 19950330 | ダーリング、ジョージ | だーりんぐ | 89 | George B. Darling. 1957年~1972年原爆傷害調査委員会(ABCC) 所長。米国学士院が招聘した時、エール大学の人類生態学教授。http://www.rerf.or.jp/glossary/darling.htm |
30 | 20140330 | 四国五郎 | しこく・ごろう | 89 | 『広島県現代文学事典』(西原大輔・記)。広島市広報課所蔵の写真調査でお世話になる。 |
31 | 19900331 | 山田信蔵 | やまだ | バーバラ・レイノルズに日本語を教えたのが縁で、1964年に第2回世界平和巡礼に参加。 | |
31 | 20020331 | 川本義隆 | かわもと・よしたか | 69 | 広島平和記念資料館館長(1983年4月~1993年3月)。<資料年表:川本義隆> |
31 | 20190331 | 久保田訓章 | くぼた・のりあき | 86 | 広島東照宮名誉宮司。<投稿> |
うちだえみこ | 1942年 | 19910305没 | 広島大学原医研事務官。 |
内田恵美子著 |
「図書・資料紹介 原爆被災資料総目録第四集=占領期文献の発刊」(『ヒロシマ・ナガサキの証言第13号 ’85冬』広島・長崎の証言の会1985.2.20) |
『図書館反核平和通信』準備号No.2 1985.9.14<下記> |
追悼文 |
宇吹暁(原爆放射能医学研究所)「内田恵美子さんの御逝去を悼む 」(『広大フォーラム』23期2号No.289 1991.5.20) |
月忌(凡例)
*ここでは、宇吹(サイト作成者)が知己を得た人々のうち、すでに鬼籍に入られた方々を紹介します。
*生前に直接お会いすることはないが、私のヒロシマへの取組の中で、資料を通して大きな影響を受けた方々も含まれています。
*死亡が新聞などの死亡欄や人物事典で確認できた死亡年月日をもとに、月忌ごとにまとめます。
日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
01 | 1974 | 竹内釼 | たけうち・けん | 1890年1月6日、福岡県生。 |
略歴
年月日 | 事項 |
1980.1.6 | 福岡県に生まれる。 |
1915. | 旧制第5高等学校(熊本)を経て、東京帝国大学医科大学医学部卒業。 |
1916. | 陸軍軍医中尉に任官。近衛師団に配属。 |
1919. | 陸軍軍医学校外科主任教官となる。 |
1926. | ドイツ留学(2か年)。帰途渡米視察。 |
1940. | 中国派遣(約1年) |
1939. | 広島日本赤十字病院新設のため責任者となり、設立と共に初代院長となる。 |
1945.8.6 | 院長室にて執務中被爆、二昼夜人事不省、6ケ所骨折の重傷。 |
1947 | 昭和天皇御訪広に際し、広島被爆の状況について御前講演。 |
1948 | 広島日本赤十字病院再建復興なり、辞職。 |
1974.8.1 | 逝去。 |
出典:『竹内釼画集』(竹内辰五郎、2005年3月) |
<宇吹メモ>「廃墟に立てば去りがたし」(『月刊中国 8月号』中国新聞社、1946年8月)に被爆時の体験を記す。
日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
01 | 1974 | 竹内釼 | たけうち・けん | 1890年1月6日、福岡県生。1939年広島日本赤十字病院新設のための責任者、設立と共に初代院長。1945年8月6日、院長室にて執務中被爆、二昼夜人事不省、6ケ所骨折の重傷。<竹内釼> | |
02 | 1974 | 福田須磨子 | ふくだ・ | 52 | 長崎原爆の被爆者。詩人。1975年8月2日、長崎市爆心地公園に慰霊碑建立。 |
02 | 1989 | 鈴木喜代治 | すずき・きよじ | 88 | 日本映画社の原爆被災記録映画作り(生物植物調査班)に参加。 |
02 | 2017 | 磯野恭子 | いそのきょうこ | 83 | 34年ラジオ山口(現山口放送)にアナウンサーとして入社。のちディレクターとして,「聞こえるよ,母さんの声が…原爆の子,百合子」「祖国へのはるかな旅―ある中国残留婦人の帰国」など,戦争と平和をテーマにしたドキュメンタリーを制作。63年民放局初の女性取締役に就任。広島県出身。広島大卒。<ヒロシマの女たち・続> |
03 | 2015 | 阿川弘之 | あがわ・ひろゆき | 94 | 日本の小説家、評論家。広島県名誉県民。日本芸術院会員。日本李登輝友の会名誉会長。文化勲章受章。『広島県現代文学事典』(高木伸幸・記)<資料年表:阿川弘之> |
05 | 1990 | 桧垣益人 | ひがきますと | 94 | 元日本被団協代表委員(1970-81年)。広島駅地下道で被爆。1961-84年、広島県被団協事務局長。<資料年表:桧垣益人> |
06 | 1948 | 大塚惟精 | おおつか・いせい | 62 | 原爆被爆時の中国地方総監。『中国地方総監府誌 原爆被災記録』(刊行委員会、19720806) |
06 | 1945 | 粟屋仙吉 | あわや・せんきち | 48 | 被爆時の広島市長。津上毅一『粟屋仙吉の人と信仰:原爆にたおれた広島市長』待晨堂、1966年。 |
06 | 1945 | 森喬以 | もり・たかもち | 広島市立造船工業教諭として生徒を引率中、被爆死。 | |
07 | 1945 | 李鍝 | い・う | 韓国人犠牲者慰霊碑(1970年4月10日除幕)の碑文。『すぎた歳月』(李方子、1973年)。『資料・韓国人犠牲者慰霊碑』(ピカ資料研究所など編、碑の会刊、1989.8.5)、『昭和天皇実録』。<資料年表:李鍝> | |
09 | 1973 | 大月洋 | おおつきひろし | 67 | 民衆劇場。お宅で面談、資料閲覧 |
09 | 2000 | 田沼肇 | たぬまはじめ | 74 | 1950年、法政大学大原社会問題研究所に就職。64年同大学教授。93年退職し名誉教授に。日本原水協代表理事。<資料年表:田沼肇> |
10 | 1945 | 高木敏子 | たかぎ・としこ | 34 | 広島地方裁判所検事の妻。市内雑魚場町の家屋強制疎開後の跡片付づけにとりかかる前に被爆。『広島原爆犠牲者高木敏子追想録』(高木尊之編集発行、19730810) |
10 | 1988 | 清水幾太郎 | しみず・いくたろう | 81 | 社会学者。原爆孤児精神養子運動に協力。<資料年表:清水幾太郎> |
12 | 1987 | 増本量 | ますもと・はかる | 金属物理学者。東北大学名誉教授。日本金属学会会長。広島県安芸郡矢賀村(現:広島市東区矢賀)出身。『増本量伝』 | |
12 | 2006 | 小林文男 | こばやし ・ふみお | 72 | 中国研究者。アジア経済研究所主任調査研究員、広島大学名誉教授。<資料年表:小林文男> |
12 | 2015 | 明田弘司 | あけだ・こうし | 92 | 写真家。「戦争から復員後の48年、広島市内で写真展を開業。仲間とヒロシマ・フォト・クラブを結成。写真家の名取洋之助から広島の復興を記録するよう助言され、市民生活や街の活気を撮り続けた」(『中国新聞』2015.8.13)。<資料年表:明田弘司> |
14 | 1989 | 長岡弘芳 | ながおかひろよし | 57 | 本名:奥村弘芳。原爆文献研究家。『広島県現代文学事典』(大西昭・記) |
15 | 1989 | 源田実 | げんだみのる | 84 | 広島県加計町出身。1941年第1航空艦隊参謀、真珠湾攻撃を立案、指導。1954年航空自衛隊に、1959年空将で航空幕僚長。1962年退官、参議院全国区で当選、以後4期、自民党国防部会長などを歴任。 |
15 | 1996 | 丸山 真男 | まるやま・ まさお | 82 | 政治学者、思想史家。東京大学 名誉教授 、 日本学士院 会員。<資料年表:丸山 真男> |
16 | 1945 | 丸山定夫 | まるやま・さだお | 44 | 俳優。日本移動演劇連盟桜隊を引率して慰問巡回中、広島で被爆。『俳優・丸山定夫の世界』(菅井幸雄編、未来社、19890806) |
16 | 1945 | 手島守之輔 | てしま・もりのすけ | 31 | 竹原生まれ。県立第二中学校卒、東京美術学校油画科。8月1日臨時召集先の広島連隊で被爆、死亡。 |
16 | 2004 | 沖原豊 | おきはら・ゆたか | 79 | 広島大学長(第7代、1985年5月21日~)。教育学者。『解題:沖原豊関係文書目録』(執筆:酒井真)。 |
16 | 2023 | 中西巌 | なかにし・いわお | 93 | 旧被服支廠の保全を願う懇談会会長(初代)。『赤レンガ倉庫は語り継ぐ 旧広島陸軍被服支廠被爆証言集』(旧被服支廠の保全を願う懇談会、2020/03/01) |
17 | 1991 | 田辺耕一郎 | たなべこういちろう | 87 | 「広島憩いの家」事務局長。1957年に開設された被爆者のための「憩いの家」を管理運営。『広島県現代文学事典』(岩崎清一郎・記)。憩いの家で面談、資料閲覧。<資料年表:田辺耕一郎> |
18 | 1958 | 熊田秀雄 | くまだ・ひでお | 54 | 金光教御幸教会初代教会長。『御幸教会五十年史 改りのあゆみ五十年―第一部―初代熊田秀雄の求道と布教』(熊田信道、金光教御幸教会、1986.5.9)〈内容> |
18 | 1974 | 奥 久登 | おく ひさと | 93 | 広島県内の小学校長,県商工水産課長,広島市助役,県信用購買販売組合連合会長などを歴任。昭和17年衆議院議員(日本進歩党)。戦後,広島信用金庫理事長,県教育委員長。『奥久登先生 思い出の記』(佐々木勲編、広島信用金庫・広島大学東雲同窓会・広島県農業協同組合連合会関係諸団体・広島県安芸郡坂小学校同窓会刊、19640505) |
21 | 1945 | 園井恵子 | そのい・けいこ | 33 | 『園井恵子・資料集 原爆が奪った未完の大女優』(岩手県松尾村、1991.3.31) |
21 | 1986 | 四竈一郎 | しかまいちろう | 広島市基督教連盟委員長[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会](日本キリスト教団広島協会牧師)。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。元広島県原水協代表理事( 被爆者)。 | |
21 | 2002 | 近藤幸四郎 | こんどうこうしろう | 69 | 広島県被団協事務局次長、広島被爆者団体連絡会議事務局長、元日本被団協代表理事などを歴任。<資料年表:近藤幸四郎> |
24 | 1945 | 仲みどり | なか・みどり | 36 | 東大病院で死亡(毎日新聞)。移動演劇 桜隊 に所属。公演先の広島市で被爆。<資料年表:仲みどり> |
25 | 19450825 | 岡田二郎 | おかだ・じろう | 40 | 広島県立第二高等女学校の音楽教師。広島市南観音町で被爆。「岡田二郎に70年ぶり光 原爆に散ったバイオリニスト あす広響演奏会で紹介」(『中国新聞(富沢佐一・客員編集委員記)20150804』 |
25 | 1991 | 松前重義 | まつまえしげよし | 90 | 東海大学総長。広島調査団長として被爆直後に入市。<資料年表:松前重義> |
25 | 1995 | 御園生圭輔 | みそのおけいすけ | 82 | 終戦時、陸軍軍医学校教官として広島原爆の被害調査に当たる。<資料年表:御園生圭輔> |
26 | 2014 | 孫振斗 | そん・じんどぅ | 87 | 韓国人被爆者訴訟の原告の草分け<資料年表:孫振斗> |
28 | 1983 | 山内敕靖 | やまうち・ただやす | 65 | 広島ガス社長。期間:19710226-19820628。<資料年表:山内敕靖> |
28 | 2017 | 羽田孜 | はた・つとむ | 82 | 内閣総理大臣(1994年4月28日~6月30日) |
29 | 2010 | 森田俊男 | もりた・としお | 89 | 教育研究者。平和・国際教育研究会代表。<資料年表:森田俊男> |
30 | 1995 | 上栗頼登 | かみくり・よりと | 76 | 東広島市の児童養護施設「広島新生学園」元園長。<資料年表:上栗頼登> |
30 | 2017 | 谷口稜曄 | たにぐち・すみてる | 88 | 長崎被爆者。 |
31 | 1945 | 中島光風 | なかじま・こうふう | 国文学者・歌人。広島高等学校教授。広島市上流川町の自宅で被爆。 『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記) | |
31 | 2005 | ジョセフ・ロートブラット | ろーとぶらっと | 96 | ポーランド 生まれの イギリス の 物理学者 、 平和活動家 。 |
止
くりはら ・さだこ | 19130304生20050306没 | 享年92 |
詩人・歌人・評論家。『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)。広島原水禁常任理事 http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0505_1.htm |
著書
書名 | 出版社 | 出版年月日 |
黒い卵 詩歌集 | 中国文化発行所 | 19460830 |
私は広島を証言する-栗原貞子詩集 | 詩集刊行の会 | 19670715 |
どきゅめんと・ヒロシマ24年-現代の救済 | 社会新報 | 19700420 |
詩集 ヒロシマ・未来風景 | 詩集刊行の会 | 19740330 |
ヒロシマの原風景を抱いて | 未来社 | 19750731 |
ヒロシマというとき | 三一書房 | 1976 |
核・天皇・被爆者 | 三一書房 | 19780715 |
未来はここから始まる-ヒロシマ詩集 | 詩集刊行の会 | 19790401 |
反核詩集 核時代の童話 | 詩集刊行の会 | 19820321 |
核時代に生きる-ヒロシマ・死の中の生 | 三一書房 | 19820815 |
黒い卵 占領下検閲と反戦・原爆詩歌集(完全版) | 人文書院 | 19830720 |
栗原貞子詩集 | 土曜美術社 | 19840715 |
詩と画で語りつぐ 反核詩画集 ヒロシマ | 詩集刊行の会 | 19850315 |
栗原貞子詩、吉野誠画 | ||
反核詩集-核なき明日への祈りをこめて | 詩集刊行の会 | 19900731 |
問われるヒロシマ | 三一書房 | 19920630 |
栗原貞子詩集 忘れじのヒロシマわが悼みうた | 詩集刊行の会 | 19970630 |
資料
資料 |
『栗原唯一追悼 平和憲法の光りをかかげて』(栗原貞子編、詩集刊行の会刊、19801115) |
栗原貞子「文明の野蛮を憂う」(『朝日新聞 論壇』1995.8.4) |
事項 |
谷本清平和賞(第3回 1990年)受賞 |
栗原貞子生誕100年記念展示(広島市立中央図書館、2013) |
都築正男(つづき・ まさお)略歴
1892(明治25)年10月20日 | 兵庫県姫路市に生まれる。 |
1913(大正2)年7月1日 | 第一高等学校卒業 |
1917(大正6)年12月6日 | 東京帝国大学医科大学医学科卒業 |
1917(大正6)年12月19日 | 海軍中軍医 |
1923(大正12)年4月1日 | 海軍軍医学校選科学生。東京帝国大学大学院入学 |
1925(大正14)年2月16日 | 東京帝国大学助教授、高等官5等に叙せらる。歯科口腔外科研究のため満2年間ドイツ・アメリカ合衆国に留学。 |
1929(昭和4)年2月6日 | 東京帝国大学教授(歯科学講座担当) |
1934(昭和9)年3月31日 | 歯科学講座を免ぜられ、第2外科学講座を担任。 |
1936(昭和11)年9月10日 | アメリカ合衆国へ出張。 |
1939(昭和14)年11月15日 | 海軍軍医少将に任ぜらる。12月21日、海軍予備役編入。 |
1940(昭和15)年6月14日 | ドイツへ出張。 |
1946(昭和21)年8月3日 | 文部教官を免ぜらる(海軍将官のため公職・教職追放)。 |
1947(昭和22)年7月16日 | 都築正男を原子爆弾傷害調査委員会より解任。 |
1952(昭和27)年10月10日 | 東京大学名誉教授 |
1954(昭和29)年9月30日 | 日本赤十字社中央病院長。同社輸血研究所長。 |
1958(昭和33)年9月17日 | 姫路市初の名誉市民の称号を贈られる。 |
1958(昭和33)年月日 | 西独赤十字功労章。 |
1959(昭和34)年7月2日 | 日本放射線影響学会初代会長。 |
1960(昭和35)年6月日 | 発病。 |
1961(昭和36)年4月5日 | 死去。 |
出典:『都築正男研究業績目録 1925-1960-都築正男大人命20年祭』(広島市史編纂室編、都築正和発行、19810405)
著書
書名コード | 書名 | 編著者 | 発行所 |
54023301 | 医学の立場から見た原子爆弾の災害 | 都築正男 | 医学書院 |
81033104 | 広島新史・資料編Ⅰ-都築資料 | 広島市(編) | 広島市 |
81040501 | 都築正男研究業績目録 1925-1960-都築正男大人命20年祭 | 広島市史編纂室 | 都築正和 |
論文
Y | M | D | ZASSIMEI | TITLE | メモ |
45 | 10 | 01 | 日本医事新報 | 原子爆弾による広島市の損害に就いて | 5P以下欠 |
45 | 10 | 01 | 総合医学 | 所謂「原子爆弾傷」に就いて-特に医学の立場からの対策 | ゲタバキ部分あり。「昭和20年9月8日米国原子爆弾損害調査団を案内して広島市へ向ふ時記す」 |
54 | 01 | 25 | 日本週報 | 赤十字精神で原爆を禁止せよ | |
54 | 06 | 広島医学 | 外科臨床の立場から考察した原子爆弾傷、特にその後遺症状に就て | ||
54 | 08 | 思想 | 歐米に於ける原子力と放射能障害との問題 | ||
54 | 08 | 改造 | キューリー夫妻を訪ねて | ||
54 | 08 | 外科 | (座談会)放射能症の権威に聞く-ビキニの灰をめぐって | 都築正男・中泉正徳・筧弘毅・清水健太郎・石川浩一・柳壮一 | |
54 | 08 | 05 | 思想 | 欧米に於ける原子力と放射能障害との問題 | |
54 | 10 | 15 | 日本医師会雑誌 | 慢性原子爆弾症の診断と治療について | |
54 | 11 | 中央公論 | 水爆傷害死問題の真相 | ||
54 | 11 | 01 | 日本医師会雑誌 | 放射能障害について | |
54 | 11 | 15 | 日本医師会雑誌 | 原爆熱傷後の瘢痕異状に対する皮膚移植成形術について | |
54 | 12 | 保健医学雑誌 | 放射能障害の予後について | ||
55 | 01 | 自警 | 医学的に見た原水爆の災害 | 「原水爆禁止運動資料集第4巻」の情報。 | |
55 | 02 | 東京医学雑誌 | 広島長崎の被爆とビキニの被灰 | ||
55 | 04 | 平和 | 原子力医学のために | ||
55 | 08 | 01 | 婦人朝日 | 特集・原子力とはどういうものか-女性として知りたい疑問のかずかず | 崎川範行・武谷三男・都築正男(解答者) |
55 | 11 | 学術月報 | 生物学並びに医学領域の話題と感想 | ||
56 | 04 | 01 | 世界 | 原水爆と放射能禍 | |
56 | 08 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会に出席して | ||
57 | 01 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国連科学委員会第2回会議に出席して | ||
57 | 04 | 総合医学 | 核爆発に伴う人工放射性物質の影響-国際連合科学委員会を中心として | ||
57 | 05 | 01 | 世界 | 核爆発と放射能 | |
57 | 06 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国連科学委員会第3回会議に出席して | ||
58 | 02 | 学術月報 | わが国における放射能影響調査の研究体制について-問題点提起ならびに討 | 都築正男[座長] | |
58 | 02 | 学術月報 | 国連科学委員会について | ||
58 | 05 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第四回会議に出席して | ||
58 | 08 | 10 | 週刊朝日 | (徳川夢声連載対談)問答有用 | 都築正男・徳川夢声 |
58 | 09 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第5回会議に出席して | ||
58 | 10 | 国連評論37-10 | 国連科学委員会に関する報告 | ||
58 | 12 | 日本臨床外科医会雑誌 | 原子爆弾傷害の本態とその後遺症 | ||
59 | 03 | 学術月報 | 「原子力時代の人類への放射線影響に関するシンポジウム」について | ||
59 | 07 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第6回会議に出席して | ||
59 | 07 | 学術月報 | ICRP新勧告の意義 | ||
59 | 11 | 01 | 原子爆弾後障害研究会講演集[第1回] | 原子爆弾による障害の研究経過について(総括講演) |
平和記念資料館メルマガ第98号(2011/ 9/ 1)
最近、研究過程で作成した過去の資料を整理中、「広島大学原医研新聞切抜きの分類別枚数(1975~81年分)」とのタイトルのデジタルデータを見つけた。そして二つのことを思い出した。
その一つは、私の提案が原因で、「原発」関係の記事の収集が1982年から取りやめとなったことである。1975~81年分の切り抜き枚数総計は、12507枚、うち「核軍事」(3221枚)と「核平和利用」(3083枚)に分類されている枚数の合計は6304枚で全体のほぼ半数を占めている。原爆放射能医学研究所では、原爆被害に関する資料を収集対象としていたので、私には、限りある予算・人員を考えれば、この二つの分類に属する記事収集を中止するのはやむを得ないと主張した。
もう一つは、広島の眼科医・杉本茂憲先生(故人)との出会いである。チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)から2ヶ月あまり後に先生が原医研に来所、この事故関連の新聞記事の閲覧を希望された。要望された資料は収集対象としていないことを伝えると、非常に残念がられた。そして、ヒロシマの蓄積をこの被災者に生かすことはヒロシマの医師の使命と力説されたのである。被爆者医療に情熱を注ぐと同時に、世界にも目を向ける医師の存在に直接触れる ことのできた貴重な体験であった。
元広島大学原爆放射能医学研究所 宇吹 暁(うぶき さとる)