「戦前の廣島」カテゴリーアーカイブ

広島の戦災と復興

広島の戦災と復興(城下町広島の歴史講座十講(第8回))
会場:東区総合福祉センター 2008.1. 27
講師:宇吹暁(うぶき さとる)<広島女学院大学>

Ⅰ 広島の戦災

「原爆被爆」対象のさまざまな捉え方<略>

経済安定本部「太平洋戦争による我国の被害調査」

1947(昭和22)年7月から開始。広島・長崎の原爆被害については特別の配慮をはらう。

この調査は、おおむね中央の各省からの報告をもとに作成。調査実務の中心にあった企画調査課は、1948年1月13日から2月4日にかけて広島・長崎を訪れ、県・市の関係者や市内の主要な企業関係者に資料の提供を求める。

占領軍への配慮からか公表はされなかったが、両市の原爆被害についての特別な報告書「広島・長崎に於ける原子爆弾に依る物的被害」が、1948年6月1日付で作成。この報告書は、原爆による物的被害を建築物・道路・港湾河川など14項目から整理した包括的なもの。また、この調査にあたって、市内の各機関から提出された資料には、それまでの広島県・市の報告には見ることのできない貴重なデータが含まれている。

広島県の報告には、県自身の被害とともに宗教団体や史蹟名勝・国宝などの被害報告が含まれている。宗教団体の建物被害の状況は次表の通りである。これにより、市内の81の神社・74の神道教会・145の寺院・58の仏教教会・24の基督教会合計382の宗教施設の建物が原爆による大小の被害を被ったことを知ることができる。

神社・寺院・教会の建物被害状況

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史蹟では、「明治二十八年戦役広島大本営」(国有)・「明治天皇広島行在所」(国有)・「明治天皇広島行幸所浅野泉邸」(県有)が全焼、名勝では、「縮景園郷土館」(県有)が全焼、国宝では、「広島城天守」(国有)が全焼(実際は全壊であり、焼失はしなかった)、「不動院金堂」(私有)が4割の被害を受けている。

都市別人的被害syllss_080308

Ⅱ 広島の復興

A 被爆者<略>

B 被爆都市futaba20070127-30

戦災復興土地区画整理事業(西部復興)  施行者:広島県知事

一工区  施行面積 約477.0ha
施行期間 昭和21(1946)年度~昭和44(1969)年度<清算期間を除く> 総事業費15億8300万円
二工区  施行面積 約33.8ha
施行期間 1946年度~1971年度<清算期間を除く> 総事業費18億3500万円

戦災復興土地区画整理事業(東部復興) 施行者:広島市長
施行面積  約582.5ha
施行期間 1946年度~1969年度<清算期間を除く> 総事業費33億6800万円
広島平和記念都市建設法

1949年5月に衆参両院を満場一致で通過したこの法案は、7月7日の広島市民の投票で9割を超える支持を得た上で、原爆記念日の8月6日に公布。

第1条「恒久平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として,広島市を平和記念都市として建設する」

平和公園<略>

 

広島市勢要覧(1948年版) 

本市は原爆のため観光資源も観光施設も壊滅したのであるが廃墟の中から吾々の新しい観光資源が取り上げられた。

・即ち原爆記念保存物である。爆心地、元安橋、産業奨励館、相生橋、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、芸備銀行、大阪銀行、山陽記念館、国泰寺の石塔、県庁跡、御幸橋ガスタンクがそれである。

・今後日本に来遊する国際観光客の殆ど全部は、広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールの主要部分とするであろう。

広島市勢要覧(1949年版)

平和記念館  原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室、平和塔等を有する記念館を建設して平和広島の「シンボル」とする計画である。

 

「廣嶋」と厳島  大広島市街地図(1933年)futaba20070127-37

似島陸軍検疫所(広島・宇品・名勝)記念写真帖  1939(昭和14)年4月25日発行futaba20070127-38

1.御用船より似島検疫所に向ふ凱旋部隊  <中略>18.乗船の実況 宇品= 19.宇品港桟橋  20.宇品御幸橋  21.向宇品観音堂  〃.向宇品観音堂全景  22.宇品御幸通1丁目  〃.宇品新道路  23.宇品千田銅像  〃.向宇品別世界 広島名所=24.広島日清戦役記念史蹟大本営趾  25.広島城天主閣  26.広島駅  27.広島市庁舎  〃.広島浅野泉邸  28.広島招魂社  〃.広島比治山旧御便殿  29.広島饒津神社  〃.広島金座街革屋町  30.広島県立商品陳列所  31.広島相生橋及丁字橋

 広島市勢要覧にみる観光(広島の史蹟、名勝等)

広島市は日本三景の一つである厳島を控へ、国立公園随一、詩の瀬戸内海に面し、デルタ上を六つの清流が貫き、山紫水明で、而も海陸交通の便極めてよく、北に行っては桜と鵜飼の三次、つつじと、スキーの道後山、及び芸北の仙境三段峡等があり、又泉都別府、道後に船の旅を楽しむもよく、而も原子爆弾により、国際的に有名化し、世界に冠絶した観光都市として内外人の訪客を受けようとしつつある。殊に終戦後は、軍国の黒衣に包まれていた瀬戸内海島の要塞地帯の景勝地を、あます所なく開放し、更に貿易港としての指定を受けることになれば、観光上喜びにたえないところである。『広島市勢要覧1947(昭和22)年版』

千田廟と千田男爵銅像= 往年日本の大玄関として名声のあった宇品港は、明治17年時の県令千田貞暁によって起工せられ、工費30余万円5カ年の歳月を経て完成を見た。  其の後4年日清戦役勃発するやこの宇品港は一躍重要基地として国運の進展に寄与し、次々の事変戦役にも重要役割を果たしてきた。  市民は千田県令の偉大なる事業を偲び大正4年宇品町御幸通りの中央に高く広島湾の海波を望んで銅像を建立し、後更に千田廟を祀り毎年4月盛大なる千田祭を執行して来ったのである。

不動院(牛田町)= 天正2年僧行基の開基と伝へられ、当時は行基自ら観音像を彫刻し、七堂伽藍を創建して新日山蓮華王寺と称し、方7町12の末寺を備へていたと云う。その後大永年間兵火にかかって荒廃したが、安国寺恵瓊豊太閤に請うて再建し不動院と称し、豊太閤、朝鮮征伐の途次当院に滞陣した。背後の丘には、豊太閤及び福島正則の遺髪の塔がある。  不動院は、現に古義真言宗仁和寺の末寺、金堂は天文年間の建立、天井画龍の落款に「天文庚子冬十月日僧永怡筆」とあり純乎たる唐様禅宗建築堂層入母屋造で、一見鎌倉円覚寺舎利殿を大きくした様なもので、室町時代禅宗建築の傑作の一に数えられている。尚当院には豊臣時代の古文書多数所蔵されて居り、豊太閤と縁故の深い事を物語っている。

頼家の墓(比治山本町)= 頼家一門の門主たる人々の墓は、比治山公園多聞院付近にある。春水、梅颶、聿庵、杏坪等20数基に上るが、山陽三樹三郎の墓はここにない。春水は竹原(賀茂郡)の人、山陽の父で山陽3歳の時招かれて藩儒となり、大阪より移って7代重晟、8代斎賢藩主に仕へた朱子学者である。  杏坪は山陽の叔父、春水と同じく朱子学者で、始め広島藩に仕へ後自ら願出で三次奉行となって令名高く、芸藩通誌の著者として著名である。  梅颶は山陽を生み、山陽を育しみ、山陽を大成せしめた賢夫人、人の子の真の母親として亀鑑又立派な学者であった。聿庵は山陽の長子で春水の跡を継ぎ、広島藩に仕へた。      『広島市勢要覧 1948(昭和23)年版』

東照宮= 市内尾長町の中腹に在り天保年間藩主浅野光行の創建に係り徳川家康の霊を祀っている、境域5300平方米、社殿は南面し石階51殿である。往時は社殿壮麗を極め祭礼儀頗る盛大であったとゆわれている。

頼山陽文徳殿= 比治山公園の山腹に在り、頼山陽の百年祭を記念するために広島市単独の事業として計画し山陽文徳殿建設翼賛会の努力により完成、昭和9年10月15日の竣工である。  頼家の墓 頼山陽の父春水を初め頼家一門の墓は比治山公園多聞院付近にある。             『広島市勢要覧 1950(昭和25)年版』

三滝観音道場= 市内三滝町の山林中にあり1000年の昔、弘法大師唐国より帰朝の砌当地に巡錫、聖観音菩薩の種字を天然石に刻し岩窟に安置した。爾来其の霊験の著しいことと四季山水の風致幽邃雅趣の深さにより一般信徒の杖引く者絶えず、現在は水害、原爆の被害により道場の荒廃甚だしくこれが修築工事中である。

『広島市勢要覧 1951(昭和26)年版』

似島=<解説略> 広島城跡=<解説略> 国泰寺墓地=<解説略>比治山公園=<解説略>長寿園=<解説略>

『広島市勢要覧 1952(昭和27)年版』

来広観光客数及び推定消費金額(昭和27年中、推定総数)(国鉄、汽船、郊外電車、バス調)futaba20070127-39 

C 被爆国

被爆者対策(略)、被爆者対策、被爆者対策予算(厚生省)

原爆死没者追悼平和祈念館

1998年3月13日=国が広島・長崎両市に建設を予定している原爆死没者追悼平和祈念館について、「(既存の原爆資料館などと)屋上屋を重ねる。再検討するべきだと思う」と述べ、建設中止も視野に入れ計画を見直す考えをしめす(『中国新聞』3月14日)

原爆死没者追悼平和祈念館開設準備検討会最終報告

1998年9月10日「既存の関連諸施設との関係」の項より抜粋
「広島に設置される祈念館の特徴として位置づけられる、「被爆関連資料・情報の収集及び利用」については、既存の資料館が原爆死没者の遺品等、主として被爆した「もの」を通して原爆被爆の実相を伝え、平和を訴えているのに対し、祈念館では、原爆死没者や遺族等の手記、体験記等を収集し、利用に供することにより、主として被爆した人々の「こころとことば」によって原爆被爆の実相を伝え、平和を訴えようとするものである。」
2002年8月1日開館。

広島平和記念都市建設法

広島平和記念資料館 世界平和記念聖堂  

平成18年(2006年)7月5日、わが国の戦後建築物としては初めて、国の重要文化財に指定。広島平和記念資料館:丹下健三が設計し、国際的に高い評価を受けた最初の戦後建築であり、同氏の出発点となった作品。

平和記念公園  2007年2月6日、国の名勝に指定

 

D ヒバクシャ=人類

原爆ドーム保存

広島県議会意見書1( 1950年11月29日)

元県立産業奨励館跡を史蹟指定方について(理由)

広島は原爆による未曽有の被災を受け、全世界の同情と注視を集めているのであるが、被爆の中心地に所在している元県立広島産業奨励館は、被災の惨状を物語る唯一の史蹟とし残存し、その後五ケ年風雨のため朽廃の度甚しく、まさに倒壊にひんしており、あまつさえ鉄材の物価騰貴のため、鉄の盗難又続出し、その保存はまことに遺憾な現状にある。

依って右の被爆建築物を文化財保護法に基く史蹟として指定し、更に原爆に関する諸資料及び記念物をドーム内に蒐集陳列し、県民は勿論、広く観光に来遊する内外人の観覧に供し、よい記念としてその保存に十全を期し、平和広島の建設は申すに及ばず世界平和の象徴とするよう早急に措置せられることを要望するものである。

保存運動(発端)

1964(昭和39)年12月22日、広島の3つの原水禁団体(原水協・原水禁・核禁会議)を含む11の平和団体代表、浜井信三広島市長に原爆ドームの永久保存を要請。この要請は、原水禁運動が分裂して以来はじめての3団体の共同行動。 市長、11団体の要請に対し、「来年度予算案に調査研究費を計上して、専門家に保存方法を研究させる」と、初めて保存の意志を明らかにする。(『中国新聞』1964年12月23日)

原水禁・被爆者関係11団体要請書(抄) 1964年12月22日

しかしながら、人類最初の原爆の記念物である広島の遺跡は、二十年の歳月の中で失われ消し去られ、現在辛じて残されているのは、原爆ドームがほとんど唯一のものとなっています。

紀元前の戦の跡を物語るトロヤの遺跡、近代戦争の犯した残虐さの限りを示すアウシュビッツ収容所の残忍なまでに生々しい証拠物にも劣らず、広島の原爆の遺跡は、永く人類の歴史の中に残されなければならない重要な記念物であります。

浜井信三広島市長の見解

被爆者の中にも、原爆ドームには両論ありましてねえ。早く忘れたい、あれがあると町に出るのが苦痛だという人もあったんです。まあ、最近、あの建物を解いて組み直す必要があるという専門家の意見もあるんですが、私らはそんなことは必要ない、あのままでいいという気持ちなんですが、置いておいても十年ぐらいはなくなるものでなし、終局的には次の世代の人が決めればいいんですねえ(注=保存調査のために今年度、市は百万円の予算を計上)。

私の原則論は、当時のものはとり去り、資料的なものは資料館の中にいれたい、そして政府が”白書運動”を取りあげれば、それは結構なことで、ぜひ手をつけてもらいたいということです。 出典:『週刊新潮』1965年6月5日号

浜井広島市長「原爆ドーム保存の訴え(抄)」  1966年11月1日

あの日以来、かろうじて生き残った者たちを先頭に、幾多の苦難を越えて広島の復興は進められ、広島は今や平和を象徴する都市として回生し得たのであります。  しかし、そのことによって、原爆の跡はほとんど取り除かれ、現在残されているのは、いわゆる「原爆ドーム」のみとなりました。  その事実からして、この原爆ドームこそは、広島の惨害を記憶し、それを語る基点としてはまことにふさわしい記念物であります。もちろん、わたくしたちは原爆ドームが、人類史上類例もない大惨禍を実証するには余りにも小さすぎることを知っております。

原爆ドームの世界遺産化

1996.11.29~30 世界遺産委員会ビューロー会議、メキシコ・メリダで開催。原爆ドームが審議される。

12.2 委員会、メリダで開会。

12.6 原爆ドームと厳島の世界遺産への登録が決定。(メキシコ現地時間5日)

1996.12.5(現地時間)国際記念物遺跡会議(ICOMOS)による文化遺産の説明。

中国代表の発言=登録の決定に必要な会場のコンセンサス(合意)には参加しない。

午前9時33分、コンセンサスによりドームの世界遺産が決定。

アメリカ代表=この合意に参加しないことを宣言する声明を発表。

出典:朝日新聞社編「原爆ドーム」

平和記念施設あり方懇談会

2004年7月~2005年6月  広島 4回 東京 4回

平山郁夫委員:釈尊誕生の地ルンビニ、 飯田喜四郎委員:ギリシア・ローマの遺跡

山折哲雄委員:エルサレムの嘆きの壁、 横山禎徳委員:サンチアゴ・デ・コンスポテラ

被爆60周年 「枠組み」に大きな変化はなし<原爆ドームの世界遺産化に伴い、原爆被害を世界の歴史の中にどう位置づけるのかの検討が始まったことを示すもの>。

≪平山委員≫

これは根幹に関わることだが、日本の遺跡の保存の仕方は、例えば奈良でも、あるいは海外でお釈迦さんの生まれた土地ルンビニに行っても、皆、公園化している。奈良でも石舞台の所に花や芝生を植えて道を造って、これでは遺跡ではない、破壊である。ドームを見ても芝生があって最後に瓦礫がある。なぜ瓦礫を残さないのか。当時はこんな綺麗ではない。阿鼻叫喚、地獄があった訳だが、それを知らない今の世代の人が見たらどう思うだろうか。

過去の論議の資料で以前の市長が「火事になってもこの程度は壊れる」と言ったという記録があったが、まさしくそうである。この遺跡をどう扱うかは、アウシュビッツや色々な施設と比べてみても、姿勢が問われると思う。

日本人は優しいところがあるから、平和的にやろうということならまた違ってくる。何を残していくのか、その精神とメッセージをどう伝えるのか。ただし構造的、物理的に限界があり、現状維持ではすぐ壊れるので、可能な限りガッチリと修理し、耐震構造にしても同じだが、それをどう景観と結びつけるか。その辺を根本的に討論したらどうか。

おわりに -被爆体験の歴史化-

陸上自衛隊広島市内パレード。1962年~。1965年平和公園使用計画。反対運動起こる。73年までパレード実施。<大和ミュージアムや岩国米軍基地との関連で>

陸上自衛隊第13旅団(安芸区矢野町・安芸郡海田町)。1939年旧陸軍の物資補給所。1950年警察予備隊駐屯地。1962年、陸上自衛隊第13師団。中国5県と四国4県を担任。1999年3月第13旅団。中国5県。

政令指定都市=広島市1980年4月1日。

五大都市(大阪、名古屋、京都、横浜、神戸)=1956年9月1日、北九州市1963年。 札幌市、川崎市、福岡市。72年。仙台市89年。 千葉市92年 さいたま市2003年。静岡市2005年。 堺市2006年。新潟市、浜松市 2007年。

第12回アジア競技大会 1994年10月2日~10月16日 広島 首都以外では初の開催

1951年、インドの提唱により始められた、アジアの国々のための総合競技大会。

ピースキャンドル 1997年8月6日 広島青年会議所、ひろしま点灯虫の会 <ライトアップ>

ワールドサッカー 2002年5月31日~6月30日

日本では1993年1月に国内開催都市候補地を選定=札幌 宮城 新潟 茨城 埼玉 横浜 静岡 大阪 神戸 大分

GROUND ANGELライトアート2005年12月16日~12月25日 広島平和記念公園(資料館前広場)

岡本太郎『明日の神話』=『太陽の塔』の制作と同時期の、1968年から1969年に描かれた。

2003年9月、メキシコシティ郊外の資材置き場で発見

折りづるみこし 2007年5月のひろしまフラワーフェスティバル(FF)に初登場

主要国(G8)下院議長会議(議長サミット)=2008年9月に広島市内で開催。

復興と復元  被爆建造物、頼山陽記念館+旧日本銀行広島支店、市民球場=小堺、伝統的建造物群保存地区、

歴史へのこだわり  学都広島大学の東広島移転、広島大学霞キャンパス開発史、長崎との対比futaba20070127-85

近代化遺産  

  • 呉との対比
  • 重要文化財(建造物)
  • 明治=旧呉鎮守府司令長官官舎(呉市入船山記念館)
  • 大正=本庄水源地堰堤水道施設
  • 昭和=広島平和記念資料館、 世界平和記念聖堂
  • 経済産業省近代化産業遺産
  • 2005年5月 大和ミュージアム開館

南京の日本軍―南京大虐殺とその背景(藤原彰)

『南京の日本軍―南京大虐殺とその背景』(藤原彰、大月書店、19970801)

内容

はじめに
南京攻略戦と大虐殺
1 南京戦への道程
2 南京攻略戦の展開

南京攻略に参加した日本軍主要部隊

中支那方面軍
(松井石根大将)
[1937年
11月7日編合]
上海派遣軍
(朝香宮鳩彦王中将)
[略] [略] [略]
第10軍
(柳川平助中将)
[1937年
10月20日編成]
第6師団 [略] [略]
第114師団 [略] [略]
国崎支隊(第5師団の一部)
(国崎登少将)
歩兵第9旅団 歩兵第41連隊
(山田鐵二郎大佐)

3 捕虜の組織的殺害
4 市内掃蕩と集団処刑
5 市民への残虐行為
6 南京大虐殺の本質と規模
事件の背景と原因
1 日本軍隊の特質
2 軍の素質の低下

第5師団の兵の役種区分調査結果

(1937年7月27日動員、同年8月20日調査)

人数 百分比
現役兵 6615 27.4
予備兵 7527 31.2
後備兵 3313 13.7
補充兵 6645 27.7
合計 24100 100.0

3 指揮官と幕僚の変質
4 軍機風紀の退廃
5 志気の衰退

「満州事変」と広島

「満州事変」と広島

 1931(昭和6)年9月18日、関東軍は、奉天(現・瀋陽)北方の柳条湖の満州鉄道線上で爆薬をしかけ、これを中国軍による爆破であるとして、張学良軍を奇襲、翌日には満鉄沿線を制圧した。この「満州事変」は、以後、日中戦争・太平洋戦争と足かけ15年にわたる戦争(「15年戦争」)の発端となった。

呉では、1931年10月9日に呉鎮守府所属の巡洋艦「天龍」が、「邦人保護」を名目として、上海に向け出動、上海事件直後には、巡洋艦「大井」および駆逐隊4隻が、特別陸戦隊2個中隊を乗せ上海に向った。また、11月以降、広島の宇品は増援軍の乗船港として利用され、12月には、第5師団の一部が天津・北平(北京)方面の警備に出動した。

政府は、英米との対立を避けるため事件の不拡大方針をとったが、関東軍はこれを無視してつぎつぎと軍事行動を起こし、翌年1月までに満州(中国東北部)全域を占領した。この間、軍部は、満州に傀儡国家を樹立する工作をすすめ、1931年11月には天津事件を起こして清朝最後の皇帝溥儀を満州に連れ出した。そして翌32年1月18日には、列強の目を満州での新国家樹立工作からそらせるため、上海事変を引き起こした。1932年3月1日の満州国建国後、日本政府は、国際連盟を脱退(1953年)し、1936年11月25日には日独防共協定を締結した。

国内では、「満州事変」後、血盟団事件(1932年2月9日)、5・15事件が相次いで起こり、「満州事変」を契機に日本の社会は、急速に戦争とファシズムの時代に突入した。

軍隊の歓送迎

県内では広島・福山・呉を中心に、市民が歓送迎にかり出され、戦争熱に巻き込まれた。県は、1931年11月列車で来広し、宇品を出発する第8師団(弘前)混成第4旅団の見送りのため、沿線各町村は国旗または提灯を掲揚、各駅および沿線には各種団体が出て歓送するよう通牒した。弘前部隊は16日の広島駅頭での大歓迎を受けた後、翌17日には10万人の市民に見送られて出発した。また、この日の鈴木旅団長の訓示が広島放送局を通じ全国放送された。

12月の第5師団の出発では、第41連隊(福山)連隊長が同師団の派遣隊長であり、福山での歓送が盛り上がった。市議会が満場一致で採択した送別文を決議して激励した。19日には、市民が提灯行列を行って門出を祝うとともに、21日の福山駅出発にあたっては10万人が見送った。同日の宇品港出発に際しても、1000隻の船が歓送し、宇品付近で13万人の人出が見られた。こうした宇品港・広島駅での歓送迎は、事変後から翌1932年10月末までに462回にも達している。

1932年2月6日、呉市で挙行された上海事変後最初の呉鎮守府所属戦死者2名(三重・岡山出身者)の海軍合同葬(第1次)には、4万人が会葬した。(『呉日日新聞』1932年2月7日)

慰問金・国防献金

戦争支持の具体的行動は、慰問金・国防献金への参加という形でも現れた。広島連隊区司令部は、事変発生から1か月後、在満将兵と山海関警備にあたっていた歩兵第11連隊細川中隊への慰問金品募集を始めた。最終締め切りの1931年11月末には、慰問金の総額は、1万円余となった。ところが、12月10日に、第5師団長、広島・山口・島根各県知事、帝国在郷軍人会第5師管連合支部長らが呼びかけた国防献金では、37万円という桁違いの額に達した。これは、「勅諭拝受50周年記念事業兵器献納」と銘打って募金運動で、集まった金は、37万円余で軍用機5機が建造され、残りの22万円は高射砲などの防空兵器に当てられた。

1932年7月24日、広島市の東練兵場で軍用機5機の命名式が、梨本宮・小磯陸軍次官などの来賓のほか5万人の市民の参加のもとに挙行され、愛国第32号~35号、第40号の模範飛行が行われた。

陸軍で起こった軍用機献納熱は、海軍にも波及した。呉では献納のための後援会が1932年2月14日に結成され、献金11万5000円余で戦闘機2機を建造し、1932年5月13日、広工廠で命名式(報国第3号、第4号)を挙行した。このほか1933年7月30日にも、呉海工会・広工僚会・徳山燃工会による献納機2機(報国第23号、第24号)の命名式が行われている。

「満州事変」下の主な軍国主義的諸行事

「満州事変」以後、軍国主義的な各種行事が大々的に開かれるようになった。その主なものとしては、つぎのようなものがあった。これらの諸行事は、時局の緊迫した折には、民衆を動員する一大決起の場となり、時局が一段落した折には、意図的に「非常時」を演出する役割を果たした。

年 月日 記念日・関連諸行事、大会など
1932
0424 軍人勅諭拝受50年。
記念式典。広島=在広部隊5000人、市民数千人、呉=2万人、福山=15000人参加。
記念時局博覧会。広島市西練兵場・広島県商品陳列所などで開催。総入場者34万人。
0918 満州事変記念日。
在広部隊・郷軍・小中学生・青年訓練校生など9000人、市中行進。
広島国防研究会主催時局講演会、広島偕行社で開催。
土肥原歩兵第9旅団長・三宅陸軍運輸部長・二宮師団長、満州事変を回顧し講演。
FK、全国に実況中継。
1025 リットン報告に対する広島国民大会(広島西練兵場)。
広島県・広島市・広島商工会議所・在郷軍人会広島市聯合分会・広島国防研究会共同主催。5万人参加。
1933
0211 建国祭・広島国民大会(広島西練兵場)。
県・市・商工会議所・郷軍広島市連合会・国防研究会・広島市町総代連合会共催。7万人参加。
0429 天長節。
在広部隊の観兵式(広島西練兵場)。観衆3万人。
0527 海軍記念日。
記念行事(呉二河公園)。2万人参加。
1229 東宮命名記念行事。
広島市主催奉祝式(比治山御便殿)。招待者2000人、有志5000人参列。
中等学校生徒1万人、西練兵場で奉祝。
尾道市式典(久保小学校)6000人参列、市内を旗行列。
1934
0211 建国祭および皇太子殿下生誕奉祝大会(広島西練兵場)。
広島県・広島市・第五師団・商工会議所その他24団体主催。5万余人参加。
0310 陸軍記念日。
92式装甲自動車献納命名式(広島東練兵場)。
1101 大本営御進転40周年。
記念式典(広島西練兵場)。5万余人参加。
明治天皇行幸記念展覧会、広島城で開催。拝観者総数23万余人。
1935
0327 国防と産業大博覧会(~5月10日)。呉市主催。第1会場二河公園、第2会場川原石海軍用地。
入場者(両会場観覧者)136万余人。
0527 海軍記念日。日本海海戦三十周年記念日。
祝賀会(呉市)。県在住の日露戦争海軍従軍者1000人、呉市在住の陸軍従軍者1000人を招待。
1936
0918 満州事変5周年記念大会(広島招魂社前)。2万人参加。
午後10時30分(柳条湖爆破時刻)、全市で30分の黙祷。

 

国防団体の結成

広島には、帝国軍人後援会・海軍協会・愛国婦人会といった軍事後援団体の支部が存在していたが、「満州事変」後、より積極的な団体が新たに生まれた。上海事変が勃発し海軍が本格的に戦争に介入するようになってまもない1932年2月15日、呉市対支時局後援会が設立された。市当局を中心に市内の各種団体・在郷軍人会・男女青年団など全市をあげての軍事援護機関であった。同会は、翌33年9月30日、呉市国防協会と改称した。広島でも同様の機関として、1932年7月24日に広島国防研究会が設立された。また、「事変」3周年にあたる1933年9月18日には、広島市で広島国防研究会の肝いりで広島国防婦人連合会が発足した。さらに、同月29日には、こうした県内の組織の連合体として広島国防研究会が発会した。

防空演習

広島においては、1932(昭和七)3月、陸軍記念日の行事として広島市青年訓練所連合主催・第5師団後援の防空・市街戦演習が2日間にわたり行なわれた。初日の9日夜半には、3分間の燈火管制が実施され、全市民がこれを実行した。呉においても、同年7月設立された呉・広連合防護団が、秋の陸・海軍合同演習に呼応して、10月24日防空演習を実施した。

防護団というのは、法的根拠はいっさいなく、軍部が市町村長に奨励してつくらせたものであったが、昭和8年2月1日には、広島市防護団が発会式をあげ、3月にかけて、尾道・福山・三原の各市にも防護団が設立された。3月8~9日には、これらの防護団を中心とした第5師管下防空警備演習が実施された。

広島県が直接防空演習に関係するのは、昭和9年からである。7月21日実施された呉鎮守府・第五師団・第11師団連合中国・四国四県下防空演習にさきだって、広島県は、『防空演習必携』を発行し、県内各市町村に演習内容・防護団囲設置基準などを明らかにするとともに、演習中は、知事が県統監を勤めた。こうした軍と広島県の共同主催になる防空演習は、昭和10年・11年にも実施された。演習の模様を、広島・呉周辺の学校日誌から摘記すれぱつぎのとおりである。

年 月日  記事
1932
1020 (広小)第4校時防空演習をなす。
1021 (二河小)午前9時40分毒ガス弾防護演習。午後1時毒ガス弾防護避難映画撮影。
1933
0222 (幟町小)宿直中、防空講演会講堂において行なわる。大盛会なり。
0301 (幟町小)午後1時45分より防空警備予行演習あり。
本校は第5分団本部となり児童の避難訓練をなす。
0308 (幟町小)本日より第5師団管内の防空演習。
午後1時40分爆弾並に毒ガス弾本校に落下の想定の下に3年以下は西練兵場に、
4年以上は泉邸前松原にそれぞれ避難す。
1934
0712 (二河小)燈火管制演習、午後8時半~10時。
1935
0728 (二河小)本校炊事室にて防護団第7分団の炊出をなす。
1936
0909 (広小)防空演習予行。
0912 (広小)防空予行演習(催涙弾投下演習)挙行さる。
よって尋4以下学年は第1時限のみにて授業を打切る。
午前9時半北庭集合(西南高等、北東6年、中央尋5以上)。
0915 (広小)御進転記念日。防空演習午前9時より開始さる。
呉鎮守府長官、広工廠長その他の参観あり。

注:広(呉市)・二河(呉市)・幟町(広島市)各小学校保存の日誌より抜粋

 防空演習とともに、防空展・防空講演会・防空映画会などが開催され、防空思想の普及がはかられているが、軍の記念日や軍事演習の付随行事として行なわれたものが多く、一般には、空襲が現実のものと理解されるというよりも、戦意高揚の行事としてうけ取られたであろう。