広島大学勤務期の日録(抄)

広島大学勤務期の日録(抄)

Y M D 事項(敬称略
77 04 30 被爆問題国際シンポジウム広島準備委員会社会科学委員会(第1回)
78 02 10 ミーティング。栗原訪韓(31日~7日)報告。
03 03 ミーティング。話題-栗原発言=復元事業に対する厚生省の補助は53年度までで打ち切り。復元資料は市から借用している。復元資料は市では証拠能力をもつとは見ていない。復元資料の閲覧はケースバイケース。
03 25 『原爆モニュメント碑文集』(原爆モニュメント研究グループ編・刊)。
03 31 米国戦略爆撃調査団について-調査報告と収集資料を中心に」(『広島県史研究』3)
07 15 広島原爆被災撮影者の会(於広島YMCA)<発足>

『広島壊滅のとき―被爆カメラマン写真集』(1981年刊)

08 06 NYタイムズ原爆関係記事目録(1)」(『広島ジャーナリスト』78)

「同(2)」(『同』79、19781225)、「同(3)」(『同』80、19790220)

79 03 31 原爆と市民-米国戦略爆撃調査の再検討」(『広島市公文書館紀要』2)
06 30 マンハッタン・プロジェクトのプレス・リリーズ」(『広島ジャーナリスト』80)
07 25 広島長崎の原爆災害』(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編)岩波書店。
80 03 19 湯崎送別会。4月1日より総合科学部に転出。
04 20 広島市の平和意識」(『ひろしまの地域とくらし』9(自治体問題研究所広島研究会))
04 26 藤居平一日本被団協初代事務局長との出会い。

「原爆被害問題研究の恩師」(『人間銘木 藤居平一追想集』(藤居美枝子、1997年4月刊))

05 01 文部省内地研究員として一橋大学へ出張(~1981年2月28日).
12 広島の原爆被災資料収集状況」(『現代史通信』17)
81 03 31 広島新史資料編Ⅰ-都築資料』(広島市編・刊)
06 25 平和教育実践事典』(広島平和教育研究所編)労働旬報社
08 25 湯崎稔,志水清,栗原登,務中昌己,早川式彦,山本脩,渡辺正治,上岡洋史,宇吹暁,大瀧慈「原爆による家族破壊-「原爆被災復元調査」の成果を通して」(「広大原医研年報22」)
10 01 *、初出勤。(藤居のテープや資料の整理をして貰うことになる)
82 原爆医療法の成立」(『広島大学原爆放射能医学研究所年報』23)
82 日本における原水爆禁止運動の出発-1954年の署名運動を中心に」(『広島平和科学5』)(広島大学平和科学研究センター)
03 31 広島新史資料編Ⅱ-復興編
04 日本における原水爆禁止運動の前提-「被爆体験」の検討」(『日本史研究』236)
10 25 広島県大百科事典』(中国新聞社編・刊)
83 03 31 原水爆禁止世界大会に関する覚書」(『広島県史研究』8)
04 広島大学職組書記長。1984年度委員長。~1985年5月4日、解任。

<高血圧と心筋梗塞>

05 31 「被爆体験」の展開-原水爆禁止世界大会の宣言・決議を素材として」(『芸備地方史研究』140)
07 15 資料82反核-原爆文献を検証する』(「ひろしまをよむ」会編、渓水社)
84 03 03 志水清より資料寄贈(本人持参)(第1便)
03 08 志水資料の大まかな整理。
06 11 湯崎稔死亡。13日、廿日市光禅寺で葬儀。<自らの死の不安>
06 16 原爆被災資料総目録 第4』(原爆被災資料広島研究会編集部会(石井浩史・宇吹暁・島津邦弘・田原幻吉・丹藤順生・ピカ資料研究所)・ピカ資料研究所)編集。原爆被災資料広島研究会刊)
07 08 広島大学会館運営協議会協議員(=1985年7月7日)
07 23 今堀より依頼=平和文化センタ-の資料調査研究委員会に湯崎のかわりに委員になって欲しい。被爆体験テープの取りまとめ。
07 11 原医研将来検討委員会(第1回)~第52回(最終回)(1992年6月10日)
08 08 栗原より話。総合科学部*より湯崎の資料のうち復元関係資料を整理して欲しいとの依頼があった由。8月21日、総合科学部社会文化図書室。湯崎資料を見る。地図10数筒、電算機打ち出し約30ケース。9月17日総合科学部で芝田進午と会う。湯崎の地図だけ原医研で引き取ることで了解。

10月17日総合科学部より湯崎の地図を引き上げる。

09 01 財団法人広島平和文化センター原爆被災資料調査研究委員会
11 30 広島新史歴史編』(広島市編・刊)[監修]今堀誠二、[執筆者]小堺吉光、宇吹暁、天野卓郎、藤原浩修、頼祺一、今堀誠二。
12 11 予算からみた原爆被爆者対策の変遷」(『ヒバクシャ-ともに生きる』3)
85 03 21 原爆報道の軌跡-新聞記事の量的側面の検討」(『広島市公文書館紀要』8)
07 10 原医研が歩んできた道」(『学内通信 (広島大学)』242)

著者:栗原登・務中昌己・宇吹暁

08 15 原爆資料をめぐって」(『広島市医師会だより』232)
10 18 軍縮と市民運動-日本の原水爆禁止運動をめぐって」(『国際政治(日本国際政治学会)』80)
10 25 平和事典』(広島平和文化センター編)勁草書房
12 25 被爆40年の広島の現状と課題(上)」(『ひろしまの地域とくらし』73)

「同(中)」(『同』74、1986年1月)、「同(下)」((『同』75、2月)

86 02 01 原爆についての広島市民意識」(『歴史地理教育』393)
03 04 志水清より資料寄贈(第2便)。
03 31 原爆被爆者等面接記録-米国戦略爆撃調査団資料(テープ部門)』(財団法人広島平和文化センター)
05 10 広島県戦災史編集委員会<『広島県戦災史』(1988年6月刊)>
06 01 新聞の「記録性」を考える」(『新聞研究(日本新聞協会)』419)
06 21 湯崎家より資料借用。6月27日、湯崎資料整理。*、内田、石田。

25日、*(広島・長崎平和基金)来所.湯崎資料整理。

06 30 原爆被災資料をめぐって」(『ヒバクシャと現代 地域と科学者(日本科学者会議広島支部』第8号)
07 01 広島大学文書保存委員会専門委員会専門委員。<1988年からか?>。~1990年3月31日(任命権者:沖原豊)~1992年3月31日(任命権者:田中隆荘)
87 07 平和会館資料借用。
88 04 11 財団法人広島平和文化センター専門委員(委嘱者:荒木武)

『平和記念式典の歩み』(1992年刊)

04 財団法人広島平和文化センター原爆映画製作委員会
05 19 古川博(中国・東京支局)より電話。平凡社年鑑の執筆の引継を依頼される。89年4月14日「反核運動1988」(『平凡社百科年鑑』)。以後、「反核運動1998」まで執筆。
06 17 内田恵美子、休暇に入る。30日、日赤に内田を見舞う。
09 02 中国地域データベース推進協議会データベース標準化部会
11 04 栗原登中国文化賞受賞祝賀会。
12 23 あらたな意味をもつ被爆体験の継承」(『人間の心ヒロシマの心』(秋葉忠利編)三友社出版)
89 03 18 栗原最終講義。4月1日栗原と話す.家族票について.
04 04 秦野裕子入院。
04 吉川清資料借用(1989年4月~)
11 01 蔵本淳所長より、助教授の辞令。
11 10 財団法人広島平和文化センター平和関係施設調査研究委員会。
12 10 児玉克哉、湯崎資料を見に来所。湯崎の論文関係の箱(1箱)を持ち帰る。
90 04 01 原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センターの危害防止主任者(任命権者:田中隆荘)。

広島総合科学部講師(併任)

08 31 原爆症の調査・研究・治療の再開-原爆医療法前史への覚書」(『広島大学原爆放射能医学研究所年報』31)
11 20 第29回オマール氏法要」(『広大フォーラム(広島大学広報委員会)』)
11 25 過去15年間の原爆報道(新聞)の検討」(『長崎医学会雑誌』65特)
91 03 05 内田恵美子、午後8時24分日赤病院で死亡。
07 24 志水清死亡。26日、死亡連絡入る。「復元の最も良質の精神が無くなった」「ヒロシマの枠組みは存在するものの,その良質の精神(例えば志水清や藤居平一に体現されていた)は,次第に失われている.現在の被爆体験の継承というスタイルでは,本当に継承できるとは思えない.必要なのは「継承」というより「構築」ではないか.」
07 23 広島市被爆建物等継承方策検討委員会。~1992年7月15日。
91 原爆関連文献資料のフルテクスト・データベースの構築の試み」(『広島平和科学 14』メンバー:松尾雅嗣・宇吹暁・川崎信文・好村富士彦・田村佳子・舟橋喜恵)
92 01 00 志水清資料=目録の出版。湯崎稔資料=選別と返却
02 「公的機関・団体の原爆資料(非医学的資料)」
03 25 平和記念式典の歩み』((財団法人広島平和文化センター)
04 17 秦野裕子、死亡。39才。
05 14 芝田の話=湯崎の論文集を中国新聞社の創立100周年の記念出版として出版してもらうよう交渉している。芝田は来年3月で停年退官。
06 01 広島大学大学院医学系研究科担当(任命権者:田中隆荘)
06 12 資料センタ-教官会議。教授会報告(早川)、今週の業務、来週の予定、宇吹報告。提出資料=「資料調査通信」最終号・センタ-概況年報別冊・AFIP返還資料報告書・センタ-蔵書目録3冊・センタ-要覧(和英)・秦野論文・宇吹「資料センタ-の現状と将来について」。
06 20 トゴーで散髪。「銭型禿」まだ治らず。
09 01 厚生省委託原爆死没者慰霊等調査研究啓発事業

原爆資料および情報ネットワーク委員会・被爆者対策資料小委員会委員

(委嘱者:重松逸造=放射線影響研究所理事長)。~?。1996年10月1日付の委嘱状まで。

09 18 広島県旧陸軍被服支廠保存・活用方策懇話会(第1回)
10 27 広島修道大学非常勤講師(~11月30日)
11 10 『戦争と平和の理論』(芝田進午編、勁草書房刊)
11 19 所内回覧済みの本・紀要類と志水清の本類の処分。
93 03 01 *(広島市平和記念館)・*(平和文化センタ-)、来所。「広島平和記念館展示物・説明文」の執筆依頼。
03 1 広島市博物館(仮称)展示検討委員会専門部会委員
03 29 広島大学研究・教育 資料・機器類の基礎的調査研究プロジェクト『広島大学研究・教育 資料・機器類調査報告書』(1993年3月29日)
03 31 「原爆被害者の証言と平和教育-文集を読んだ感想にかえて」(『若い世代に被爆体験を語り継ぐために-平和学習の感想文集』(被爆体験証言者交流の集い世話人会、1993年)所収)
03 広島大学原爆放射能医学研究所『原爆被爆者資料のデータベース化 平成4年度広島大学教育研究学内特別経費による研究報告』
04 01 広島大学平和科学研究センター運営委員会運営委員。
04 07 *の話=湯崎資料を2箱預かっている。
94 01 20 *(中国新聞社長秘書役)から1977年原水禁統一前後の資料を預かる。
02 09 新聞切り抜き関係の仕事が終わった後の業務として、*に志水資料目録の入力、*に未登録の刊本の整理を頼む。
03 28 商用データベースと『原爆・被爆』情報」(『広島医学』47-3 )
06 24 広島大学助教授原爆放射能医学研究所附属国際放射線情報センターに配置換(任命権者:原田康夫)
07 27 第1回統合移転記念事業実行委員会広報部会。於旧総合科学部第2会議室。

編集長:難波紘二。

09 01 **(広島市原対部調査課)、来所。早川とセンターで援護史に関する資料について説明。志水資料の衛生局長時代の資料を貸す。14日**来所。志水資料を返却。国会会議録のコピーを持ち帰る。*が28日の大阪朝日の調査に同行するとのこと。
09 30 早川の話=資料センターの教授選考で星が決まった由。
12 21 広島市「米国スミソニアン協会航空宇宙博物館の特別展について意見を伺う会」
95 03 31 広島大学研究・教育総合資料館研究報告第1号(広島大学)
04 01 広島大学医学部講師(併任)
04 29 日本原水爆被害者団体協議会の結成」(『日本社会の史的構造-近世・近代』(朝尾直弘教授退官記念会、思文閣出版))
07 05 被爆50周年を迎えて-現状と課題」『ひろしまの地域とくらし』177
07 21 核兵器廃絶の世紀へ」(『年表・ヒロシマ-核時代50年の記録』(中国新聞社))
07 28 パグウォッシュ会議全体会議。「核兵器の効果」。B・バーンステイン、飯島宗一。
07 28 原医研国際シンポジウム。「セミパラチンスク近郊住民の放射線被曝とその問題点」。於医学部第4講義室。秋山実利(司会)・ローゼンソン・リスコフ・山下俊一・星正治・今中哲二・佐々木正夫・早川式彦。
08 01 被爆50周年とヒロシマの動き」(『日本の科学者』30-8)
08 21 統合移転史の後半部分の原稿を仕上げ、借用資料とともに学内便で*(企画調査)へ送る。統合移転史関係の資料をまとめて収納。書き上げて見ると、無理やり、やらされた仕事ではあってもそれなりに得るものはある。
10 01 広島大学公開講座・被爆50年-放射線が人体に与えた影響
11 01 翔べ!フェニックス-広島大学統合移転完了記念誌
11 28 被爆体験と平和運動」(『戦後民主主義-戦後日本・占領と戦後改革第4巻』(岩波書店))
 96  03  30  広島大学博物館研究報告(旧広島大学研究・教育総合資料館研究報告)第2号(広島大学)
03 31 『街と暮らしの50年-被爆50周年 図説戦後広島市史
04 01 広島大学大学院国際協力研究科講師(併任)
07 23 原医研第2回国際シンポジウム。特別講演。重松・佐々木。
07 25 [座談会]木の葉の歴史を語る」(『木の葉のように焼かれて』第30集)
09 28 健康診断の結果は、「心電図に異状あり」。
10 15 シンポジウム:あらためて原爆遺跡保存を考える質疑・討論](『芸備地方史研究』)
10 20 被爆50年の中の原爆展の位置」(『「原爆展」掘り起こしニュース』6)
12 原爆手記掲載書・誌一覧』(IPSHU(広島大学平和科学研究センター)研究報告シリーズ研究報告No.24 )
97 02 原爆被爆者対策史の基礎的研究-原爆被爆者対策史資料集(1945年~1953年)平成6-8年度科学研究費補助金(基礎研究c2)研究成果報告書 課題番号06610313』
03 28 広島大学博物館研究報告(旧広島大学研究・教育総合資料館研究報告)第3号(広島大学)
04 10 原爆被爆資料をめぐって」(『長崎平和研究』1)
04 17 原爆被害問題研究の恩師」(『人間銘木 藤居平一追想集』)
05 20 保存運動の到達点-どう生かすかが課題」(『原爆ドーム・ユネスコ世界遺産-21世紀への証人』、中国新聞社)
06 01 第38回原爆後障害研究会(広島国際会議場)。-9時41分まで、座長を無事務める。すぐに帰宅。
06 02 年休を取って、共済病院へ。9時、胃カメラを飲む。食道から胃にかけてひどい潰瘍。薬を大量に貰う。
07 25 原医研国際シンポジウム。於広仁会館。
08 01 「INTERVIEW「地域では独自に体験を遺している」」(『放送文化1997.8』(日本放送出版協会))
09 被爆関連文献のフルテクスト・データベースの作成・検索・分析の研究

平成7-8年度科学研究費補助金(基礎研究B1)研究成果報告書 課題番号07309010』(松尾雅嗣・宇吹暁・田村佳子・濱谷正晴・舟橋喜恵)

98 02 04 広島大学50年史編集専門委員会。事務局2F会議室。頼委員長より幹事になるよう依頼される。
04 ホームページ『ヒロシマ通信』開設(1998年4月~)。

1999年8月1日~6日のアクセス数90件。7日現在5173件。

07 05 原爆資料の今後をめぐって」(『ひろしまの地域とくらし』212)
10 01 広島女子大学講師(任命権者:藤田雄山)
10 12 原医研国際シンポジウム(第1日)。於国際会議場。~14日。
99 03 31 図録・広島平和記念資料館-ヒロシマを世界に』(広島平和記念資料館。監修:葉佐井博巳、宇吹暁、井出三千男)

 

宇吹所蔵資料(広島県史編さん室関係)

宇吹所蔵資料

タイトル 形態
1970 広島県史 1970年~ 1括
1971 広島県史編さん室「原爆資料調査について」(回答)1971年 ファイル1冊
1975 県史[庶務一件]1975年7月5日~1982年 ファイル1冊
1975 原爆三十年―広島県の戦後史―[庶務一件] ファイル1冊

 

旅:「阪神・淡路大震災」関連

野島断層保存・北淡町震災記念公園 (1999年2月13日)

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神戸市内(2001年12月21日)

 神戸港震災メモリアルパーク
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神戸ルミナリエ
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阪神・淡路大震災復興支援館(フェニックスプラザ)

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支援館のあゆみ http://www.sinsaikikin.jp/phoenix/

「平成8年7月20日開館」「平成14年3月31日閉館」「  阪神・淡路大震災復興支援館―フェニックスプラザ―は、阪神・淡路大震災からの本格的な復興に向けて、震災復興情報の発信、被災者自立支援情報の提供、また、交流や学習の場を提供することを目的に、兵庫県が平成8年7月から平成14年3月までの5年8ヶ月に渡り設置いたしました。」「当館機能の一部(情報発信等)を引き継ぎ、神戸東部新都心にオープンした、阪神・淡路大震災記念「人と防災未来センター」も引き続きご利用いただきますようお願い申し上げます。」

「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 1995.1.17」(2018年4月8日)

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震災・地震(宇吹日誌より 1992~2016)

キーワード「震災」・「地震」(宇吹日誌より)1992~2016

年月日 事項[敬称略]
19921130 *から聞いた蔵本[原医研所長]の話=文部省の担当官と話してきた。原医研が強い社会的要請で出来たものであること、原爆の研究を続けるものと理解していた。名前の変更には拘っていない。地震研がピナツボ火山を研究対象にして改組、これは原医研でも応用出来る。資料センタ-に良い。
19930527 江戸東京博物館(墨田区横網)見学。*参与の説明を受ける。3月28日開館。多い時で2万人の入館者。参与は、都を退職するまで都の部長で、同館建設の実質的責任者。非常に親切。福山の誠之館出身とのこと。10時30分から館内見学。

感想=雑踏で落ちついて鑑賞できず。「おいらん」・関東大震災時の朝鮮人問題に、人権問題の配慮が感じられる。「収蔵庫からのメッセージ」に関心をもったが、浮世絵が入力されているだけ。図書は、「クウシュウ」で17件できたが、「ゲンバク」はゼロ。

感想=電算機はIBM。電算機の購入・運用に当たっては館の立場で考えてくれるコンサルタントを頼む。電算機・収蔵庫ともに贅をつくしている。知事部局の主導だからか。いずれにせよバブルがはじけた現在では、こうはいかないのではないか。

*にトータルメディアからの二人を含めて質疑応答。-3時半。演出は、トータルメディアによるもの。複製の製作費は莫大。

感想=博物館の担い手といえば、学芸員しか思い浮かばなかったが、同館では、研究者・学芸員・トータルメディアの3者。トータルメディアの存在は、私には胡散臭く感じられるが、これに主導されるのではなく、使いこなせるようにならなくてはいけないのだろう。

19930316 *来室。ロスアンゼルスに地震の影響の調査に行くとのこと。
19950117 *へ兵庫県の地震について見舞いの電話。*子の家は無事とのこと。
19950119 母の話=*が車で*子らを広島に連れて帰った由。本人は現場に泊まり込む予定。
19950120 フェリス来所予定が地震のため中止。
19950122 パソコン通信(ニフティ)で兵庫県南部地震の情報を見る。
19950125 ニュースステーションの関西大地震の救護所に*[原医研助教授]が出演していた。
19950128 桜ケ丘の父母の家に:姉・*子母子・*が来る。水道が使用できるようになったので、今日、神戸に帰るとのことで、母がご馳走をする。私も相伴。*子の話=地震の場合、倒れただけでは火災保険が下りないが、焼ければ下りる。それで、火災の中には放火もあるのでは。
19950212 藤居より自宅に電話。年末より、エソで、情勢が充分掴めていない。「被爆者援護法」問題についての動きについて資料が欲しい。神戸震災と原爆との関係を考えてみたい。89%が家の下敷き。原爆の場合は、警戒警報の解除後だった問題。
19950215 *の話=原田学長の昨日の話では、神戸の震災のため、本部事務局の西条への移転が2・3年遅れるとのこと。
19950218 *の話=朝尾の[退官]記念会は、本人が関西大震災で親戚などの不幸があり、辞退しているので、中止になる可能性が大きい。
19950315 午前中、旧図書室の雑誌・新聞類の箱詰めを手伝う。午後1時からセンター全員で、移動作業。-4時。山田(会計)の話=24日までに工事は完了予定だが、阪神大震災の影響で入手できない資材がある。
19950521 沼田[鈴子]の話=昭和26?年ごろ、東京で被爆のことを話したら、関東大震災の被害を引き合いに出された。戦後、自分史の年表をつけている。宮崎安男との出会いで、妹の病気の認定を申請することになった。総合科学部の小林の講義で話しているが、学生はまじめに聞いている。
19950605 *((朝日新聞社電子電波メディア局データベースセクション))の話=メディア局は、調査部門とデータベース部門が一緒になって設置された。東京本社の戦前の資料は、関東大震災と空襲で無くなっているので、戦後を中心に整備する。大阪本社の資料は、戦前のものも含め、膨大な量にのぼる。
19950729 *(オランダ人、ENGLISH・SCHOOL・OF・OSAKA)、来所。13年日本にいる、芦屋在住、震災を経験、大変だった由。オランダ第2の新聞で「日本社会は原爆をどうとらえているか」を取り上げる。
19960928 墨田区両国・東京都慰霊堂参拝。関東大震災時の朝鮮人虐殺に対する反省は見られない。東京空襲の写真と原爆の写真に違いは無い。
19980411 *先生を囲む会。於クレイトンベイホテル。参加者38名。*、*の話=工場を経営。ともに神戸製鋼の下請けとして成功。阪神大震災以来、親会社の締め付けが厳しい。
19990213 明石海峡大橋-淡路ハイウェイオアシス-道の駅「あわじ」-14時北淡町震災記念公園(野島断層保存館)
19990506 *(*新聞広島総局)来所。-5時半。2年間、県庁で取材。その前は神戸支局。阪神大震災を体験。広島の取材すべき人物の蓄積がないので、人を中心に取材を進めたいとのこと。
20001006 総合情報処理センター講演会。講師:たつみ北海道立札幌医科大学教授。於歯学部2階小会議室。-3時。途中、大きな地震。
20010324 *・*とレガシイで大阪へ出発-8:30西条IC-9:30吉備SA(給油=サービスエリア3570円)10:00-この間、*が運転-11:30三木SA12:00-吹田IC-松原IC-近畿自動車道-1:30杉本町着。ハイウェイカード=3万円。*、腰痛と頭痛を訴える。*の携帯に入った友人からのメール「大丈夫?」がきっかけになって、広島での地震を知る。-17:40西宮名塩SA(給油2730円)-龍野西SA-20:00吉備SA-22:30帰宅。山陽自動車道の岡山以西が不通だったので、心配したが、タイミングよく通行可能となり、順調な帰路。
20010324 西宮名塩SA。テレビのニュースで、広島の地震の情報を得る。*の携帯は、友人とのメールがしばらく出来ていたが、つながらなくなる。Iモードの*の携帯には、初めからつながらず。公衆電話の列に並び、母、*、兄と連絡を取る。皆、無事なことを知り、一安心。龍野西S0324Aで、山陽自動車道の岡山-広島間開通を知る。
20010324 22時半、桜ヶ丘[の母]を見舞う。壁に掛けていた額が落ち、食器棚の食器がずれて、開かなくなったが、兄と一緒に直した、借家のモルタルが落ち、大変なことになった、庭の植木にも被害が出たが、手をつけていない、とのこと。自宅でも、花瓶・玩具・皿・本・CDなどが散乱。
20010325 研究室の地震被害を見るため出勤。3階の病理標本の被害を心配したが、水漏れなし。移動式書架の開いていた部分の雑誌が少し落ちていただけ。引越しの準備。持ち出せばよいだけの状態にする。-2時半。
20010325 桜ヶ丘の借家の落ちたモルタルの一部を、小雨の中片付ける。*・*宅の被害を、電話とメールで確認。
20010327 *医学資料館事務長と地震で動いた展示資料を直す。壁に展示していた資料などが、落ちたりしたが、割れたものは無かったとのこと。娘が女学院の卒業生とのこと。昔は、広島大学の定年退職した事務系職員が、女学院に行っており、女学院の卒業生が、広島大学に沢山採用されていた由。
20010327 **より電話。地震被害の見舞い。大会報告は、私の事情を汲んで、中止になった。来年度のことは保証できないが、雰囲気としては、来年送り。
20011221 メリメリケンパーク-神戸港震災メモリアルパーク-15:00阪神・淡路大震災支援館(フェニックスプラザ)。ケンパーク-神戸港震災メモリアルパーク-15:00阪神・淡路大震災支援館(フェニックスプラザ)。
20060612 強い地震。目が覚める。呉地方は震度5とのニュース。
20080520 *の話=*[中国人留学生]が四川省の地震被害などについて話す。
20110311 東北地方太平洋沖震災。東日本大地震。15:58*にメールを送る。16:40付の返信メール「大丈夫」が夜10時過ぎ?届く。
20110315 「東日本大震災 被災を覚える祈りの集い」。大学チャペル
20110316 *大学謝恩会。宇吹:乾杯の音頭。東北地震・福島原発事故は長期の影響。社会的な転換が必要。我々は目前のことしか関われないが、皆さんは長期の変革で活躍できる。
20110324 前日から始めた東北・関東大震災の新聞の整理終了。
20120817 NHKスペシャル「最後の笑顔~納棺師が描いた東日本大震災」。
20130311 東北大震災2周年。新聞5紙を購入。
20140314 震度5弱の地震。自宅・桜ヶ丘ともに異常なし。夕方、道路の枯葉を取り、温室北の畑に入れる。焼却炉が崩れていることに気付く。
20160414 熊本地震。益城町で震度7の地震。翌日、*から*、*ともに被害なしとのメール連絡。
20180408 「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 1995.1.17」見学。

 

パルの自己紹介

パルの自己紹介

年月日 できごと
19980502 やっと自分の住処を得ることができました。 前の飼い主は、私のことをパルと呼んでいました。「キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル」という種に属しています。 年齢は3歳、人間では20歳代後半に相当するそうです。 標準体重は7キログラムだそうです。前の住処では何でも要求するものを食べることができました。家の中に閉じこもって歩くことがなかったので、肥えてしまいました。宇吹家にやってきたときは9キロとちょっと。
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 宇吹家に来た直後
19980530 室内犬なのに良く外を歩かされる。ダイエットの成果もあり、体重は現在8.6キログラム
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19990104 宇吹家の住民の性格をやっと掴むことができた。粘り強く要求すれば、誰かが折れる。「餌くれー!」(注:目線の先に餌あり)
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家族のみなさまは、帰ってきたらまずわたしをなでてくる。でも、今小学5年生のわたしのしもべは抱きついてくるので暑苦しい。
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19990826 ペットショップでシャンプーをしてもらいご帰宅
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 20010213  パルの突然の死
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戦争と平和の旅1993年1月

戦争と平和の旅1993年1月25日~30日[敬称略]

時間 事項
25 10:30 京都大学文学部博物館。事務長が常設展示(中国関係)を案内してくれる。広島大学の事務長(文学部**事務長?)が見学したとのこと。文学部の校費で運営しているので大変とのこと。学内を歩く。建物が新たに建築されており、構内が学生時代に比べ、狭苦しく感じられた。
25 13:00 コープイン京都で報告。1.戦後初期の原爆体験記、原爆被害報告活動、2.記録に残っている「京大原爆展」、の2点について話す。-15時20分。**・*(機関紙共同出版)・*・*(工学部出身、元毎日新聞編集委員)・山辺昌彦(立命館大学)。
25 13:01 *の話=蔵本淳は2級後輩。自分は岡山出身で近かったので良く知っている。真面目に研究に打ち込むタイプだった。蔵本が米軍基地でインターンをやったのは、当時はそこが最も適切な場所だったから。*は、いいかげんな教師だった。
25 13:02 蔵本が〔NHKの番組で〕被爆の証言をしたことと、現在原医研所長として活躍していることを、私が*に話すと驚いていた。謝礼として2万円貰う。
25 16:03 16:03京都発-18:39東京着。地下鉄東西線大手町-竹橋。出口を間違い、KKR竹橋まで雨の中を歩く。19時半到着。部屋は広く、バス付きで快適。レストラン芙蓉で夕食。最も安いメニューが2000円。少量で食べた気持ちがせず。
26 09:30 国立国会図書館。一般研究室の申込。
26 09:40 憲政資料室。*と会う。あちらが覚えていた。*がしばしば来て私の話をしているとのこと。慶応の学生が百数十枚GHQ資料のフィルム・シートをコピーして一応作業を終了した由。放影研からしばしば連絡がある由。
26 11:00 国会議事録。第85回臨時国会(~1978年10月21日)まで原医研資料センタ-で目録済み。第101回国会(1983年12月)以降、「発言者索引」と「事項索引」を電算化。第110回(1987年11月)以降テキストの電算化。
26 11:30 JAPAN-MARK(国会図書館書誌情報)の検索。1969年以降電算化。遡及版(1969~1983年)、最新版(1984~1991年)・(1992年1~9月)。キ-ワード「原爆」、「平和」で検索。
26 12:00 新聞閲覧室。地方紙の1992年の8・6社説調査。
26 15:00 長崎日日新聞。1957年5月以降の調査。
26 17:00 雑誌論文目録で笹本征男「原爆初動調査における日本軍の役割」を調べる。しかし、雑誌論文のデ-タベースは利用できず、目録では掲載日・掲載書誌を捜し出すことが出来なかった。
26 20:00 「永田町-(半蔵門線)-九段下<夕食>-(東西線)-竹橋」のルートで宿に帰る。
27 08:00 竹橋-東京-川崎-(南武線)-武蔵小杉-(東横線)-元住吉-川崎市平和館(中原区木月住吉町・平和公園内)。
27 10:00 川崎市平和館。見学者なし。しばらくして、身体障害者のグループが入る。図書室では簡単なパソコンによる文献検索が出来るようになっていた。映画が2か所で見ることができる。空襲の体験談が空襲による焼け野原の写真をバックに語られる構成は良かった。
27 11:50 日本被団協。1992年の出版物調査。伊藤直子など3名の女性。12点の図書類(2700円)を入手。
27 13:00 国立国会図書館。地方紙社説調査。
27 20:30 大井町の地下街で夕食。一人での食事は見あたらず、帰りのサラリーマン同士のグループでごった返していた。しかし、九段下より食事のためには良い。
28 08:15 KKR竹橋に宅配便を依頼。5.5キロ。約1400円。宅配便のランクは5、10、15キロ。明日には届くとのこと。
28 10:30 法政大学大原社会問題研究所。JR中央線西八王子駅より法政大学行きバス。最初に原爆写真を紹介した「婦人民主新聞」は、1948年8月「15日」では無く「12日」だった。孫引きの恐ろしさを改めて感じる。
28 10:31 受付の年輩の女性が、麻布分館時代(現地へは1986年移転)に私が通ったことを覚えており、書庫を案内してくれる。原水協関係の資料は1.5段で大したことは無かった。労働団体だけで精いっぱいで、大衆団体にまで手が回りかねるとのこと。資料2400円を購入。
28 13:00 新宿でバッグ(1800円)を購入。
28 14:00 国立国会図書館。長崎新聞1957年10月~58年3月調査。
29 07:30 KKR竹橋を早く出発したので-千鳥ケ淵戦没者墓苑-靖国神社-神田の古書街(朝食)と散歩。
29 09:00 千鳥ケ淵戦没者墓苑(1959年竣工)。参拝者は皆無。靖国の国営版の感じ。
29 09:10 靖国神社。遊就館(1986年改修復元)を見学。1945年9月に死亡した中国軍管区勤務で山県郡出身の30才前後の女性の資料が展示されていたが、原爆についての言及は無し。
29 10:30 第103回平和科学研究センタ-運営委員会。出張中につき欠席。
29 10:30 神田古書街。永井隆全集(1971年8月28日刊)を文華堂で入手。1万円。南海堂に「原水爆時代上下」が3500円で出ていたが買わず。
29 12:00 大手町の「ていぱーく(逓信博物館)」を見学。パソコン通信についての展示を期待したが的外れだった。多くの小学生が見学。すぐに出る。
29 13:30 国立国会図書館。長崎日日新聞1958年4月-8月調査。
29 19:00 東京駅八重洲口地下街でみやげ物の買物。*=ヘアバンド。*=ドラえもんのゲームウォッチ。職場用と桜丘用のサブレ。
30 05:50 KKR竹橋チェックアウト。一泊7000円で計39964円。DCカードで支払う。
30 06:16 東京発-08:58京都着。9:22市バス(50系統)-10:00立命館大学国際平和ミュージアム着。
30 10:00 立命館大学国際平和ミュージアム。現代史と平和学の最新の成果を取り入れており、新鮮な感動。全国の自治体名が入力され、非核自治体宣言を行っているかどうか検索できるシステムがあり、笑った。原水禁運動は、原水禁の資料はなく、原水協のみ。
30 10:30 一通り見終ったところで山辺昌彦と会う。館長室で話をする。途中、*課長が加わる。厚生省援護局・広島県・市・平和記念資料館が見学に来たとのこと。援護局も慰霊施設の建設を計画していることを初めて知る。県は、被服廠の保存策について日本開発銀行に調査を依頼。
30 11:44 京都駅発-12:00新大阪着-(地下鉄)-梅田-(環状線)-森ノ宮。
30 12:00 「ピースおおさか(大阪国際平和センタ-)」(大阪城公園)。販売図書を全部購入したら、7000円を超えた。
30 14:04 新大阪発-15:37広島着。原医研へのバスの中で、空と会う。師範学校の同窓会に出席し帰るところ。被爆50周年に向けて体験記の出版の話が出たとのこと。原医研に宅配便は届いておらず。

 

 

1969年10月~1976年3月(広島県公立学校教諭)

人事異動通知書(辞令書)(抄)

 発行者  任命権者 広島県教育委員会
発行年月日 昭和44年10月1日
異動内容 広島県公立学校教諭に臨時的任用する(期間は昭和45年3月31日までとする)
 教育職(二)2等級に決定する 2号級を支給する
 広島県立音戸学校教諭を命ずる
発行年月日 昭和45年4月1日
異動内容 広島県公立学校教諭に任用する
教育職(二)2等級に決定する 3号級を支給する
 広島県立広島工業高等学校教諭を命ずる
発行年月日 昭和45年4月1日
異動内容 広島県教育委員会事務局指導主事に充てる 指導課勤務を命ずる
発行年月日 昭和51年4月30日
異動内容 広島県教育委員会事務局指導主事を解く
発行年月日 昭和51年4月30日
異動内容 辞職を承認する

 

 

 

大江・高橋・三島との遭遇

作家名 遭遇年月日 遭遇場所
高橋和巳 1969年?  京都大学本部構内(京都)
三島由紀夫 1970年11月25日  陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(東京)
大江健三郎  1987年7月30日  広島ターミナルホテル(広島)

高橋 和巳
たかはし かずみ 19310831生
19710503没 作家。歳。
高橋和巳=「私たちはしばしば、一つの時代を、その繁栄の中心において記述しがちであるが、一つの時代は先端的な繁栄の場をもつと同時にその時代の矛盾と悲惨の集約の場をももつ。そして文化というものは、社会の先端を切る人々にのみ担われるのではなく、矛盾と悲惨の場に耐えた人々によっても担われる。その不運の場に居あわさねばならなかった人々の苦しみのうちに築かれてゆく価値を無視してしまっては、その時代、その民族の精神は十全ではありえないのである。」
(「滅びざる民」、『読書人』1966年8月1日号掲載)

三島 由紀夫

広島に”新型爆弾”が投下されたとき、私は東大法学部の学生であった。(中略)
それが原爆だと知ったのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだった。世界の終わりだ、と思った。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。もっとも、原爆によって突然発生したというより、私自身の中に初めから潜在したものであろうが・・・。 ヒロシマ。ナチのユダヤ人虐殺。まぎれもなくそれは史上、二大虐殺行為である。だが、日本人は「過ちは二度とくりかえしません」といった。原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は、終戦の詔勅の「五内為ニ裂ク」という一節以外に、私は知らない。(中略)
核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさえながら核を作っている。彼らは言いわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被爆国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもって対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思い起こすべきではないのか。
(三島由紀夫の発言、「私の中のヒロシマ」、『週刊朝日』1967年8月11日号

大江 健三郎
1958年「飼育」で芥川賞受賞。
「ヒロシマ1960」(『中国新聞』1960年8月7日)
***私はきょう広島を訪れて原爆記念祭に出席した。それは私にとって貴重な体験である。***日本人はその生涯に、すくなくとも一度は広島を訪れるべきである。
***私は広島で、原爆と戦いつづけながら日常生活をきずいている、勇気にみちた人たちを見た。それは土門拳の「ヒロシマ」で私が発見し、深い敬意をはらっていた人たちを、現実に見ることであった。そしてまた私は、納骨塔の前で会った母親のように、深く暗い海のような悲しみと嘆きをもつ人たちをも見たのである。
***この二つの人間像が広島の人たちを代表するものであろう。私はこの勇気ある人たち、しかも深い悲嘆を心にいだきつづける優しさをもった人たちを、おなじ日本人としてもつことに誇りを感じる。
「ヒロシマ・ノート」(『世界』1965年3月号)
***広島こそが、僕のいちばん基本的な、いちばん硬いヤスリなのだ。広島を、そのような根本的な思想の表現とみなすことにおいて、僕は自分が日本人の小説家であることを確認したいのである。
「ヒロシマからの新しい光-人類再生のシンボルに」(『中国新聞』1992年1月1日)
***これまで広島は第二次世界大戦で始まった核兵器体制の黒い巨大なシンボルでした。いま核軍縮の方向性があきらかとなって-逆行がありうるのであれ-、広島は核の被害から人間がどのように再生したかを示す光のシンボルともなりうるはずです。チェルノブイリの被災者の広島における治療は、すでに具体的にそれをあらわしていると思います。
1994年10月13日、ノーベル文学賞受賞決定。
「世界文学は日本文学たりうるか?」
(ノーベル賞受賞後初の講演。『あいまいな日本の私』(岩波新書、1995年)所収)
***私どもは、広島と長崎の経験を持っていますが、はたして日本人はそれを本当に思想化したか、日本文明の問題として考えてきたか?あるいは、日本人の文化の問題として捉えてきたかというと、私はそうではないのではないかと考えています。
***広島と長崎の課題を日本人が経験した20世紀最大の出来事として把えなおすならば、そのとき初めて日本人は、この世紀末から次の世紀に橋渡しすべき思想を、あるいは文明をかちとりうるのではないでしょうか。
***われわれは、ゆがんだ貧しい近代をつくってしまった。そして大きい戦争を惹き起こして、悲惨な経験をした。その頂点に広島と長崎があります。そのことをわれわれは、自分たちの文化の問題として、文明の問題としてあらためて徹底的に考えるべきではないか?それが私たちにとって、ついに世界言語を構想することにもつながる仕方で世界の文学に参加するための出発点ともなるのではないか?
***広島、長崎のあの大きな犠牲は、償わなければならないと思います。償うのは私たちです。また、広島、長崎にいたった、そしてそれ以後も決して完全に治っているとはいえない国家の疾患から、私たちは恢復しなければならない。
ノーベル賞受賞記念講演「あいまいな日本の私」
(1994年12月7日『あいまいな日本の私』(岩波新書、1995年)所収)
***日本と日本人は、ほぼ50年前の敗戦を機に***大きい悲惨と苦しみのなかから再出発しました。新生に向かう日本人をささえていたのは、民主主義と不戦の誓いであって、それが新しい日本人の根本のモラルでありました。しかもそのモラルを内包する個人と社会は、イノセントな、無傷のものではなく、アジアへの侵略者としての経験にしみをつけられていたのでした。また広島、長崎の、人類がこうむった最初の核攻撃の死者たち、放射能障害を背負う生存者と二世たちが--それは日本人にとどまらず、朝鮮語を母国語とする多くの人びとをふくんでいますが--、われわれのモラルを問いかけているのでもありました。
「『ヒロシマの心』と想像力」(『核と人間2』(岩波書店、1999年)所収)
***核兵器に対する日本人の国民感情という政府の声明の常套句も、広島、長崎から発せられる実際には内容のぎっしりつまった「ヒロシマの心」という言葉も、ともに、海外では本気で受けとられなくなっている現状がある、とあえて私はいいたいと思います。
***被爆者たちの反核の感情に、すくなくともいまナショナルなものは大きくない、と私はこれまで幾らかなりとその傍に立って運動に参加したり、観察したりしてきた者としていうことができます。被爆者はあきらかに被害者ですが、そして被爆直後反核の運動の開始、そしてある時期まで、深い被害者意識があったことは当然だと思いますが、しだいにそれを克服して、その核兵器の投下をもたらすものとなった--だからといって、それが必然的に核兵器を広島に、またとくに長崎にまで投下させるものだった、とはいえませんが--太平洋戦争、それに先だつ日中戦争での、加害者としての日本人という意識を、被爆者援護法の運動は実際に取り込んできました。また植民地化された朝鮮半島の人々への加害者意識を、具体的に生活感覚のなかに生かしもしました。私は戦後の日本人の思想史において、広島、長崎の被爆者たちの、援護法に焦点をおいた、そしてさらに今日まで続く核廃絶の運動のなかでの、その経験の普遍化の道程は特別な重みを持つものだと考えています。

 

 

 

 

母の自分史

私の想い出 やす

左:「自分史」を書くように勧めた際に渡した暁のメモ

右:上記のメモととも手書き原稿が入れられていた袋の表書き

無題
<自分史の冒頭>
大正10年1月19日生、安芸郡矢野町字**、**吾一郎の五女として生まれる。
父 吾一郎
母 キクヨ
長男 次郎   矢野町在住
長女 キヨノ  **筆雄と結婚 50歳にて死亡
次女 千代   **太郎と結婚
三女 ユキ   宇吹静男と結婚 21歳にて死亡
四女 シズ   幼児中死亡とのこと 記憶なし
五女 ヤス   三女ユキ死亡後の後妻として意志なきままを結婚させられ今日に至る
六女 キミ   **節郎と結婚 43歳にて死亡
次男 一士   焼山**家に養子縁組現在に至るいつわり多き 一生と思う 夏草の

茂る季 生れしと 亡母言いませり

私が五年生、妹きみちゃんが二年生の時、合同で学芸会をした写真が一枚残っている。「乞食と王子」。妹が「乞食」で私は陸軍大臣か何か大臣になって演じた。父は乞食の配役に文句を言っていた。妹は上手に演じた。ハワイ帰りの**さんが英語で歌をうたった。美しいベールをかぶりながら。今の学校の様に主役でもめる事はなく先生が適役を決められるので芸達者が主役で面白かった。
albm7s007

つづく