「51 自分史」カテゴリーアーカイブ

東寺百合文書を読む

『東寺百合文書を読む―よみがえる日本の中世』(上島有・大山喬平・黒川直則編、思文閣出版)

目次(抄)

002 1 東寺(概説) 上島有
006 ◇文書の管理
加賀百万石前田侯紀信の桐箱 上島有
046 2 武家 黒川直則
078 3 民衆 大山喬平
082 ◇各地さまざま―荘園の顔
086 (33)安芸国三田郷雑掌地頭代和代状-契約通りの年貢上納を遅らせる地頭 石井進
102 日本海に近く―若狭国太良庄
102 (39)源国友若狭国太良庄助国名相伝次第(案)-荒唐無稽でも資料的価値(正安2(1300年)5月7日) 網野善彦
105 (40)若狭国太良庄惣百姓等申状-「百姓」が代官の罷免を求める(15世紀半ば室町時代) 高橋敏子

私のヒジヤマメイト

私のヒジヤマメイト

私は、この9年間、雨の降っていない限り毎日、昼休みに比治山を散策している。比治山は、本学の霞キャンパスに勤務・在学した人には、桜や紅葉名所として馴染みが深いはずである。一度も登ったことのない人は、おそらくいないのではなかろうか。しかし、私のように日常的に歩き、その魅力を満喫しているものは数少ないのではないか、と秘かに自負している。

比治山は、二つの丘が南北に連なっており、それぞれの丘に登るいくつかの小道が用意されている。当初、さまざまな道を登ってみたが、まもなく定着したのは、南東の急勾配の坂から南の丘に登り、東側の道から北側の丘の西側、東側、南の丘の西側という「8」の字のコースである。これで、所要時間は約40分、歩数は「5000歩弱」。これだけ昼休みに歩いていれば、大抵の人は「1日1万歩」が達成できる。

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「最新大広島市街地図」(広文館、昭和8年1月15日発行)より

歩き始めた直後に、現代美術館が北側の丘の頂に完成(1989年)、今年(97年)には、その北側にあった青空図書館がまんが図書館に生まれ変わった。春秋には、これらの利用者や、遠足・修学旅行生などで、比治山は賑わいをしめす。また、日々、放射線影響研究所(旧ABCC)や丘周辺に所在する企業の関係者のマラソン姿に出会う。その一方で、真夏や雪降りの日には、人影を見ることはまれである。

この丘には多くの動物が棲んでいる。道ばたの蛇に驚いて飛び上がったことがあった。深い斜面の下にたぬきを確認したこともあった。小鳥たちは、毎日目にすることができる。職場の野鳥の会の会員に同行してもらったことがあったが、その時、しじゅうから・めじろ・ひよどり・やまがら・つぐみ・しろはら・えながなどがいることを知った。また、桜以外にも多くの木々・草花が花を咲かせ、実を付けている。名前は何回聞いても忘れてしまうが、それぞれの区別は付くようになった。

HJFYR01 さくら
HJFYR02  ふじ
HJFYR03 にせあかしあ

この9年間は、丘の東側に位置する段原地域が、再開発により急激に変貌した時期であった。歩き始めた当初は、丘の陰に隠れて原爆に耐えることのできた段原の街並みがまだ残っていた。これらが壊され新しい街に生まれ変わる様子を、毎日丘の上から眺めてきた。また、週に1回は、北の丘から段原に降りるコースを取り、この変貌を近くから観察した。西側の眺望からは、NTTクレド基町ビル(1994年竣工)など市街地の高層ビルの建設や己斐の山の造成の過程を知ることができた。

デスクワークが中心の人間にとって、昼休みに身体を動かすことは、健康維持のために大いに役立つはずである。そう信じてきた私は、就職以来、昼休みに、エスキーテニスや卓球を楽しんできた。しかし、これらは、最高で数ヶ月続いたことはあったものの、年間を通じての習慣となることはなかった。

私の比治山散策の直接の契機は、A君の糖尿病による入院であった。彼は、私の小学校時代からの友人である。霞キャンパスから数キロほどの地域に住んでいる彼は、それまでにもしばしば、私の職場を訪ねてくれていた。しかし、退院後、彼は、昼になると必ず私を訪ねるようになった。それは、医師から「毎日1万歩」を厳命された彼に、私が、昼休みに一緒に比治山を歩くことを提案したからであった。

入院中、糖尿病により失明の可能性があることを知ったA君は、真剣に医師の指示を守ろうとしていた。雨や雪模様の日もやってきた。止むのを待って歩こうとしたのである。一方の私は、軽い気持ちで言ったつもりはないが、毎日歩くことにそれほど執着してはいなかった。テニスや卓球をしたいと思うこともあった。仕事が途中で途切れることを嫌い、彼だけに歩いて貰ったこともあった。また、彼が仕事の関係で来ることのできない時に、私が一人で歩くことはなかった。

まもなく、この散策が私にとっても欠かすことのできないものとなった。私は、若い頃から血圧が高めであり、20年ほど前から健康診断のたびごとに高血圧の判定が下されていた。それが高じ、数年前には心筋梗塞の疑いが指摘された。薬を飲め、というのが医師の忠告であった。しかし、私は、A君のように医師の指示に忠実にはなれず、勝手に、激しい運動は避け、適度の運動を行うことで乗り切ることを心に決めた。こうして、以前には体力増進に役立つとは思えなかった散策が、私の健康にちょうど良い運動となったのである。それからは、昼休みにかかる来客があれば、A君一人で歩いてもらうのではなく、来客を誘って一緒に歩くようになった。

広島で社会科学の専門書を扱える数少ない古書店主であるA君は、散策を始める前から、私の研究上の良き協力者であった。しかし、散策を始めてからは、この関係はより深いものとなった。彼は、私が欲しい本を話せば、大抵の場合は数日中に、また、稀少なものでも数ヶ月中には入手してくれた。彼は、単に私が依頼した本を探してくれるだけではない。被爆40周年を契機に原爆手記に関心を持った私は、つぎつぎに出版される手記の確認とその収集・分析をおこなってきた。その結果、被爆直後から50周年までに3500冊余の原爆手記が出版されたことを確認することができた。このうちの彼が確認し、入手してくれた本は、100冊を下らないはずである。

二人の散策が始まった当初、私の中には、「私の言い出したことであるから断ることはできない」という気持があったように思う。しかし、今では、比治山散策は、私の健康維持と研究のために欠くことのできないものである。それを支えてくれているA君に感謝するとともに、これからもヒジヤマメイト(職場の若い女性が付けてくれた愛称)としての関係が続くことを願っている。

広島大学勤務期の日録(抄)

広島大学勤務期の日録(抄)

Y M D 事項(敬称略
77 04 30 被爆問題国際シンポジウム広島準備委員会社会科学委員会(第1回)
78 02 10 ミーティング。栗原訪韓(31日~7日)報告。
03 03 ミーティング。話題-栗原発言=復元事業に対する厚生省の補助は53年度までで打ち切り。復元資料は市から借用している。復元資料は市では証拠能力をもつとは見ていない。復元資料の閲覧はケースバイケース。
03 25 『原爆モニュメント碑文集』(原爆モニュメント研究グループ編・刊)。
03 31 米国戦略爆撃調査団について-調査報告と収集資料を中心に」(『広島県史研究』3)
07 15 広島原爆被災撮影者の会(於広島YMCA)<発足>

『広島壊滅のとき―被爆カメラマン写真集』(1981年刊)

08 06 NYタイムズ原爆関係記事目録(1)」(『広島ジャーナリスト』78)

「同(2)」(『同』79、19781225)、「同(3)」(『同』80、19790220)

79 03 31 原爆と市民-米国戦略爆撃調査の再検討」(『広島市公文書館紀要』2)
06 30 マンハッタン・プロジェクトのプレス・リリーズ」(『広島ジャーナリスト』80)
07 25 広島長崎の原爆災害』(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編)岩波書店。
80 03 19 湯崎送別会。4月1日より総合科学部に転出。
04 20 広島市の平和意識」(『ひろしまの地域とくらし』9(自治体問題研究所広島研究会))
04 26 藤居平一日本被団協初代事務局長との出会い。

「原爆被害問題研究の恩師」(『人間銘木 藤居平一追想集』(藤居美枝子、1997年4月刊))

05 01 文部省内地研究員として一橋大学へ出張(~1981年2月28日).
12 広島の原爆被災資料収集状況」(『現代史通信』17)
81 03 31 広島新史資料編Ⅰ-都築資料』(広島市編・刊)
06 25 平和教育実践事典』(広島平和教育研究所編)労働旬報社
08 25 湯崎稔,志水清,栗原登,務中昌己,早川式彦,山本脩,渡辺正治,上岡洋史,宇吹暁,大瀧慈「原爆による家族破壊-「原爆被災復元調査」の成果を通して」(「広大原医研年報22」)
10 01 *、初出勤。(藤居のテープや資料の整理をして貰うことになる)
82 原爆医療法の成立」(『広島大学原爆放射能医学研究所年報』23)
82 日本における原水爆禁止運動の出発-1954年の署名運動を中心に」(『広島平和科学5』)(広島大学平和科学研究センター)
03 31 広島新史資料編Ⅱ-復興編
04 日本における原水爆禁止運動の前提-「被爆体験」の検討」(『日本史研究』236)
10 25 広島県大百科事典』(中国新聞社編・刊)
83 03 31 原水爆禁止世界大会に関する覚書」(『広島県史研究』8)
04 広島大学職組書記長。1984年度委員長。~1985年5月4日、解任。

<高血圧と心筋梗塞>

05 31 「被爆体験」の展開-原水爆禁止世界大会の宣言・決議を素材として」(『芸備地方史研究』140)
07 15 資料82反核-原爆文献を検証する』(「ひろしまをよむ」会編、渓水社)
84 03 03 志水清より資料寄贈(本人持参)(第1便)
03 08 志水資料の大まかな整理。
06 11 湯崎稔死亡。13日、廿日市光禅寺で葬儀。<自らの死の不安>
06 16 原爆被災資料総目録 第4』(原爆被災資料広島研究会編集部会(石井浩史・宇吹暁・島津邦弘・田原幻吉・丹藤順生・ピカ資料研究所)・ピカ資料研究所)編集。原爆被災資料広島研究会刊)
07 08 広島大学会館運営協議会協議員(=1985年7月7日)
07 23 今堀より依頼=平和文化センタ-の資料調査研究委員会に湯崎のかわりに委員になって欲しい。被爆体験テープの取りまとめ。
07 11 原医研将来検討委員会(第1回)~第52回(最終回)(1992年6月10日)
08 08 栗原より話。総合科学部*より湯崎の資料のうち復元関係資料を整理して欲しいとの依頼があった由。8月21日、総合科学部社会文化図書室。湯崎資料を見る。地図10数筒、電算機打ち出し約30ケース。9月17日総合科学部で芝田進午と会う。湯崎の地図だけ原医研で引き取ることで了解。

10月17日総合科学部より湯崎の地図を引き上げる。

09 01 財団法人広島平和文化センター原爆被災資料調査研究委員会
11 30 広島新史歴史編』(広島市編・刊)[監修]今堀誠二、[執筆者]小堺吉光、宇吹暁、天野卓郎、藤原浩修、頼祺一、今堀誠二。
12 11 予算からみた原爆被爆者対策の変遷」(『ヒバクシャ-ともに生きる』3)
85 03 21 原爆報道の軌跡-新聞記事の量的側面の検討」(『広島市公文書館紀要』8)
07 10 原医研が歩んできた道」(『学内通信 (広島大学)』242)

著者:栗原登・務中昌己・宇吹暁

08 15 原爆資料をめぐって」(『広島市医師会だより』232)
10 18 軍縮と市民運動-日本の原水爆禁止運動をめぐって」(『国際政治(日本国際政治学会)』80)
10 25 平和事典』(広島平和文化センター編)勁草書房
12 25 被爆40年の広島の現状と課題(上)」(『ひろしまの地域とくらし』73)

「同(中)」(『同』74、1986年1月)、「同(下)」((『同』75、2月)

86 02 01 原爆についての広島市民意識」(『歴史地理教育』393)
03 04 志水清より資料寄贈(第2便)。
03 31 原爆被爆者等面接記録-米国戦略爆撃調査団資料(テープ部門)』(財団法人広島平和文化センター)
05 10 広島県戦災史編集委員会<『広島県戦災史』(1988年6月刊)>
06 01 新聞の「記録性」を考える」(『新聞研究(日本新聞協会)』419)
06 21 湯崎家より資料借用。6月27日、湯崎資料整理。*、内田、石田。

25日、*(広島・長崎平和基金)来所.湯崎資料整理。

06 30 原爆被災資料をめぐって」(『ヒバクシャと現代 地域と科学者(日本科学者会議広島支部』第8号)
07 01 広島大学文書保存委員会専門委員会専門委員。<1988年からか?>。~1990年3月31日(任命権者:沖原豊)~1992年3月31日(任命権者:田中隆荘)
87 07 平和会館資料借用。
88 04 11 財団法人広島平和文化センター専門委員(委嘱者:荒木武)

『平和記念式典の歩み』(1992年刊)

04 財団法人広島平和文化センター原爆映画製作委員会
05 19 古川博(中国・東京支局)より電話。平凡社年鑑の執筆の引継を依頼される。89年4月14日「反核運動1988」(『平凡社百科年鑑』)。以後、「反核運動1998」まで執筆。
06 17 内田恵美子、休暇に入る。30日、日赤に内田を見舞う。
09 02 中国地域データベース推進協議会データベース標準化部会
11 04 栗原登中国文化賞受賞祝賀会。
12 23 あらたな意味をもつ被爆体験の継承」(『人間の心ヒロシマの心』(秋葉忠利編)三友社出版)
89 03 18 栗原最終講義。4月1日栗原と話す.家族票について.
04 04 秦野裕子入院。
04 吉川清資料借用(1989年4月~)
11 01 蔵本淳所長より、助教授の辞令。
11 10 財団法人広島平和文化センター平和関係施設調査研究委員会。
12 10 児玉克哉、湯崎資料を見に来所。湯崎の論文関係の箱(1箱)を持ち帰る。
90 04 01 原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センターの危害防止主任者(任命権者:田中隆荘)。

広島総合科学部講師(併任)

08 31 原爆症の調査・研究・治療の再開-原爆医療法前史への覚書」(『広島大学原爆放射能医学研究所年報』31)
11 20 第29回オマール氏法要」(『広大フォーラム(広島大学広報委員会)』)
11 25 過去15年間の原爆報道(新聞)の検討」(『長崎医学会雑誌』65特)
91 03 05 内田恵美子、午後8時24分日赤病院で死亡。
07 24 志水清死亡。26日、死亡連絡入る。「復元の最も良質の精神が無くなった」「ヒロシマの枠組みは存在するものの,その良質の精神(例えば志水清や藤居平一に体現されていた)は,次第に失われている.現在の被爆体験の継承というスタイルでは,本当に継承できるとは思えない.必要なのは「継承」というより「構築」ではないか.」
07 23 広島市被爆建物等継承方策検討委員会。~1992年7月15日。
91 原爆関連文献資料のフルテクスト・データベースの構築の試み」(『広島平和科学 14』メンバー:松尾雅嗣・宇吹暁・川崎信文・好村富士彦・田村佳子・舟橋喜恵)
92 01 00 志水清資料=目録の出版。湯崎稔資料=選別と返却
02 「公的機関・団体の原爆資料(非医学的資料)」
03 25 平和記念式典の歩み』((財団法人広島平和文化センター)
04 17 秦野裕子、死亡。39才。
05 14 芝田の話=湯崎の論文集を中国新聞社の創立100周年の記念出版として出版してもらうよう交渉している。芝田は来年3月で停年退官。
06 01 広島大学大学院医学系研究科担当(任命権者:田中隆荘)
06 12 資料センタ-教官会議。教授会報告(早川)、今週の業務、来週の予定、宇吹報告。提出資料=「資料調査通信」最終号・センタ-概況年報別冊・AFIP返還資料報告書・センタ-蔵書目録3冊・センタ-要覧(和英)・秦野論文・宇吹「資料センタ-の現状と将来について」。
06 20 トゴーで散髪。「銭型禿」まだ治らず。
09 01 厚生省委託原爆死没者慰霊等調査研究啓発事業

原爆資料および情報ネットワーク委員会・被爆者対策資料小委員会委員

(委嘱者:重松逸造=放射線影響研究所理事長)。~?。1996年10月1日付の委嘱状まで。

09 18 広島県旧陸軍被服支廠保存・活用方策懇話会(第1回)
10 27 広島修道大学非常勤講師(~11月30日)
11 10 『戦争と平和の理論』(芝田進午編、勁草書房刊)
11 19 所内回覧済みの本・紀要類と志水清の本類の処分。
93 03 01 *(広島市平和記念館)・*(平和文化センタ-)、来所。「広島平和記念館展示物・説明文」の執筆依頼。
03 1 広島市博物館(仮称)展示検討委員会専門部会委員
03 29 広島大学研究・教育 資料・機器類の基礎的調査研究プロジェクト『広島大学研究・教育 資料・機器類調査報告書』(1993年3月29日)
03 31 「原爆被害者の証言と平和教育-文集を読んだ感想にかえて」(『若い世代に被爆体験を語り継ぐために-平和学習の感想文集』(被爆体験証言者交流の集い世話人会、1993年)所収)
03 広島大学原爆放射能医学研究所『原爆被爆者資料のデータベース化 平成4年度広島大学教育研究学内特別経費による研究報告』
04 01 広島大学平和科学研究センター運営委員会運営委員。
04 07 *の話=湯崎資料を2箱預かっている。
94 01 20 *(中国新聞社長秘書役)から1977年原水禁統一前後の資料を預かる。
02 09 新聞切り抜き関係の仕事が終わった後の業務として、*に志水資料目録の入力、*に未登録の刊本の整理を頼む。
03 28 商用データベースと『原爆・被爆』情報」(『広島医学』47-3 )
06 24 広島大学助教授原爆放射能医学研究所附属国際放射線情報センターに配置換(任命権者:原田康夫)
07 27 第1回統合移転記念事業実行委員会広報部会。於旧総合科学部第2会議室。

編集長:難波紘二。

09 01 **(広島市原対部調査課)、来所。早川とセンターで援護史に関する資料について説明。志水資料の衛生局長時代の資料を貸す。14日**来所。志水資料を返却。国会会議録のコピーを持ち帰る。*が28日の大阪朝日の調査に同行するとのこと。
09 30 早川の話=資料センターの教授選考で星が決まった由。
12 21 広島市「米国スミソニアン協会航空宇宙博物館の特別展について意見を伺う会」
95 03 31 広島大学研究・教育総合資料館研究報告第1号(広島大学)
04 01 広島大学医学部講師(併任)
04 29 日本原水爆被害者団体協議会の結成」(『日本社会の史的構造-近世・近代』(朝尾直弘教授退官記念会、思文閣出版))
07 05 被爆50周年を迎えて-現状と課題」『ひろしまの地域とくらし』177
07 21 核兵器廃絶の世紀へ」(『年表・ヒロシマ-核時代50年の記録』(中国新聞社))
07 28 パグウォッシュ会議全体会議。「核兵器の効果」。B・バーンステイン、飯島宗一。
07 28 原医研国際シンポジウム。「セミパラチンスク近郊住民の放射線被曝とその問題点」。於医学部第4講義室。秋山実利(司会)・ローゼンソン・リスコフ・山下俊一・星正治・今中哲二・佐々木正夫・早川式彦。
08 01 被爆50周年とヒロシマの動き」(『日本の科学者』30-8)
08 21 統合移転史の後半部分の原稿を仕上げ、借用資料とともに学内便で*(企画調査)へ送る。統合移転史関係の資料をまとめて収納。書き上げて見ると、無理やり、やらされた仕事ではあってもそれなりに得るものはある。
10 01 広島大学公開講座・被爆50年-放射線が人体に与えた影響
11 01 翔べ!フェニックス-広島大学統合移転完了記念誌
11 28 被爆体験と平和運動」(『戦後民主主義-戦後日本・占領と戦後改革第4巻』(岩波書店))
 96  03  30  広島大学博物館研究報告(旧広島大学研究・教育総合資料館研究報告)第2号(広島大学)
03 31 『街と暮らしの50年-被爆50周年 図説戦後広島市史
04 01 広島大学大学院国際協力研究科講師(併任)
07 23 原医研第2回国際シンポジウム。特別講演。重松・佐々木。
07 25 [座談会]木の葉の歴史を語る」(『木の葉のように焼かれて』第30集)
09 28 健康診断の結果は、「心電図に異状あり」。
10 15 シンポジウム:あらためて原爆遺跡保存を考える質疑・討論](『芸備地方史研究』)
10 20 被爆50年の中の原爆展の位置」(『「原爆展」掘り起こしニュース』6)
12 原爆手記掲載書・誌一覧』(IPSHU(広島大学平和科学研究センター)研究報告シリーズ研究報告No.24 )
97 02 原爆被爆者対策史の基礎的研究-原爆被爆者対策史資料集(1945年~1953年)平成6-8年度科学研究費補助金(基礎研究c2)研究成果報告書 課題番号06610313』
03 28 広島大学博物館研究報告(旧広島大学研究・教育総合資料館研究報告)第3号(広島大学)
04 10 原爆被爆資料をめぐって」(『長崎平和研究』1)
04 17 原爆被害問題研究の恩師」(『人間銘木 藤居平一追想集』)
05 20 保存運動の到達点-どう生かすかが課題」(『原爆ドーム・ユネスコ世界遺産-21世紀への証人』、中国新聞社)
06 01 第38回原爆後障害研究会(広島国際会議場)。-9時41分まで、座長を無事務める。すぐに帰宅。
06 02 年休を取って、共済病院へ。9時、胃カメラを飲む。食道から胃にかけてひどい潰瘍。薬を大量に貰う。
07 25 原医研国際シンポジウム。於広仁会館。
08 01 「INTERVIEW「地域では独自に体験を遺している」」(『放送文化1997.8』(日本放送出版協会))
09 被爆関連文献のフルテクスト・データベースの作成・検索・分析の研究

平成7-8年度科学研究費補助金(基礎研究B1)研究成果報告書 課題番号07309010』(松尾雅嗣・宇吹暁・田村佳子・濱谷正晴・舟橋喜恵)

98 02 04 広島大学50年史編集専門委員会。事務局2F会議室。頼委員長より幹事になるよう依頼される。
04 ホームページ『ヒロシマ通信』開設(1998年4月~)。

1999年8月1日~6日のアクセス数90件。7日現在5173件。

07 05 原爆資料の今後をめぐって」(『ひろしまの地域とくらし』212)
10 01 広島女子大学講師(任命権者:藤田雄山)
10 12 原医研国際シンポジウム(第1日)。於国際会議場。~14日。
99 03 31 図録・広島平和記念資料館-ヒロシマを世界に』(広島平和記念資料館。監修:葉佐井博巳、宇吹暁、井出三千男)

 

旅:「阪神・淡路大震災」関連

野島断層保存・北淡町震災記念公園 (1999年2月13日)

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神戸市内(2001年12月21日)

 神戸港震災メモリアルパーク
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神戸ルミナリエ
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阪神・淡路大震災復興支援館(フェニックスプラザ)

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支援館のあゆみ http://www.sinsaikikin.jp/phoenix/

「平成8年7月20日開館」「平成14年3月31日閉館」「  阪神・淡路大震災復興支援館―フェニックスプラザ―は、阪神・淡路大震災からの本格的な復興に向けて、震災復興情報の発信、被災者自立支援情報の提供、また、交流や学習の場を提供することを目的に、兵庫県が平成8年7月から平成14年3月までの5年8ヶ月に渡り設置いたしました。」「当館機能の一部(情報発信等)を引き継ぎ、神戸東部新都心にオープンした、阪神・淡路大震災記念「人と防災未来センター」も引き続きご利用いただきますようお願い申し上げます。」

「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 1995.1.17」(2018年4月8日)

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震災・地震(宇吹日誌より 1992~2016)

キーワード「震災」・「地震」(宇吹日誌より)1992~2016

年月日 事項[敬称略]
19921130 *から聞いた蔵本[原医研所長]の話=文部省の担当官と話してきた。原医研が強い社会的要請で出来たものであること、原爆の研究を続けるものと理解していた。名前の変更には拘っていない。地震研がピナツボ火山を研究対象にして改組、これは原医研でも応用出来る。資料センタ-に良い。
19930527 江戸東京博物館(墨田区横網)見学。*参与の説明を受ける。3月28日開館。多い時で2万人の入館者。参与は、都を退職するまで都の部長で、同館建設の実質的責任者。非常に親切。福山の誠之館出身とのこと。10時30分から館内見学。

感想=雑踏で落ちついて鑑賞できず。「おいらん」・関東大震災時の朝鮮人問題に、人権問題の配慮が感じられる。「収蔵庫からのメッセージ」に関心をもったが、浮世絵が入力されているだけ。図書は、「クウシュウ」で17件できたが、「ゲンバク」はゼロ。

感想=電算機はIBM。電算機の購入・運用に当たっては館の立場で考えてくれるコンサルタントを頼む。電算機・収蔵庫ともに贅をつくしている。知事部局の主導だからか。いずれにせよバブルがはじけた現在では、こうはいかないのではないか。

*にトータルメディアからの二人を含めて質疑応答。-3時半。演出は、トータルメディアによるもの。複製の製作費は莫大。

感想=博物館の担い手といえば、学芸員しか思い浮かばなかったが、同館では、研究者・学芸員・トータルメディアの3者。トータルメディアの存在は、私には胡散臭く感じられるが、これに主導されるのではなく、使いこなせるようにならなくてはいけないのだろう。

19930316 *来室。ロスアンゼルスに地震の影響の調査に行くとのこと。
19950117 *へ兵庫県の地震について見舞いの電話。*子の家は無事とのこと。
19950119 母の話=*が車で*子らを広島に連れて帰った由。本人は現場に泊まり込む予定。
19950120 フェリス来所予定が地震のため中止。
19950122 パソコン通信(ニフティ)で兵庫県南部地震の情報を見る。
19950125 ニュースステーションの関西大地震の救護所に*[原医研助教授]が出演していた。
19950128 桜ケ丘の父母の家に:姉・*子母子・*が来る。水道が使用できるようになったので、今日、神戸に帰るとのことで、母がご馳走をする。私も相伴。*子の話=地震の場合、倒れただけでは火災保険が下りないが、焼ければ下りる。それで、火災の中には放火もあるのでは。
19950212 藤居より自宅に電話。年末より、エソで、情勢が充分掴めていない。「被爆者援護法」問題についての動きについて資料が欲しい。神戸震災と原爆との関係を考えてみたい。89%が家の下敷き。原爆の場合は、警戒警報の解除後だった問題。
19950215 *の話=原田学長の昨日の話では、神戸の震災のため、本部事務局の西条への移転が2・3年遅れるとのこと。
19950218 *の話=朝尾の[退官]記念会は、本人が関西大震災で親戚などの不幸があり、辞退しているので、中止になる可能性が大きい。
19950315 午前中、旧図書室の雑誌・新聞類の箱詰めを手伝う。午後1時からセンター全員で、移動作業。-4時。山田(会計)の話=24日までに工事は完了予定だが、阪神大震災の影響で入手できない資材がある。
19950521 沼田[鈴子]の話=昭和26?年ごろ、東京で被爆のことを話したら、関東大震災の被害を引き合いに出された。戦後、自分史の年表をつけている。宮崎安男との出会いで、妹の病気の認定を申請することになった。総合科学部の小林の講義で話しているが、学生はまじめに聞いている。
19950605 *((朝日新聞社電子電波メディア局データベースセクション))の話=メディア局は、調査部門とデータベース部門が一緒になって設置された。東京本社の戦前の資料は、関東大震災と空襲で無くなっているので、戦後を中心に整備する。大阪本社の資料は、戦前のものも含め、膨大な量にのぼる。
19950729 *(オランダ人、ENGLISH・SCHOOL・OF・OSAKA)、来所。13年日本にいる、芦屋在住、震災を経験、大変だった由。オランダ第2の新聞で「日本社会は原爆をどうとらえているか」を取り上げる。
19960928 墨田区両国・東京都慰霊堂参拝。関東大震災時の朝鮮人虐殺に対する反省は見られない。東京空襲の写真と原爆の写真に違いは無い。
19980411 *先生を囲む会。於クレイトンベイホテル。参加者38名。*、*の話=工場を経営。ともに神戸製鋼の下請けとして成功。阪神大震災以来、親会社の締め付けが厳しい。
19990213 明石海峡大橋-淡路ハイウェイオアシス-道の駅「あわじ」-14時北淡町震災記念公園(野島断層保存館)
19990506 *(*新聞広島総局)来所。-5時半。2年間、県庁で取材。その前は神戸支局。阪神大震災を体験。広島の取材すべき人物の蓄積がないので、人を中心に取材を進めたいとのこと。
20001006 総合情報処理センター講演会。講師:たつみ北海道立札幌医科大学教授。於歯学部2階小会議室。-3時。途中、大きな地震。
20010324 *・*とレガシイで大阪へ出発-8:30西条IC-9:30吉備SA(給油=サービスエリア3570円)10:00-この間、*が運転-11:30三木SA12:00-吹田IC-松原IC-近畿自動車道-1:30杉本町着。ハイウェイカード=3万円。*、腰痛と頭痛を訴える。*の携帯に入った友人からのメール「大丈夫?」がきっかけになって、広島での地震を知る。-17:40西宮名塩SA(給油2730円)-龍野西SA-20:00吉備SA-22:30帰宅。山陽自動車道の岡山以西が不通だったので、心配したが、タイミングよく通行可能となり、順調な帰路。
20010324 西宮名塩SA。テレビのニュースで、広島の地震の情報を得る。*の携帯は、友人とのメールがしばらく出来ていたが、つながらなくなる。Iモードの*の携帯には、初めからつながらず。公衆電話の列に並び、母、*、兄と連絡を取る。皆、無事なことを知り、一安心。龍野西S0324Aで、山陽自動車道の岡山-広島間開通を知る。
20010324 22時半、桜ヶ丘[の母]を見舞う。壁に掛けていた額が落ち、食器棚の食器がずれて、開かなくなったが、兄と一緒に直した、借家のモルタルが落ち、大変なことになった、庭の植木にも被害が出たが、手をつけていない、とのこと。自宅でも、花瓶・玩具・皿・本・CDなどが散乱。
20010325 研究室の地震被害を見るため出勤。3階の病理標本の被害を心配したが、水漏れなし。移動式書架の開いていた部分の雑誌が少し落ちていただけ。引越しの準備。持ち出せばよいだけの状態にする。-2時半。
20010325 桜ヶ丘の借家の落ちたモルタルの一部を、小雨の中片付ける。*・*宅の被害を、電話とメールで確認。
20010327 *医学資料館事務長と地震で動いた展示資料を直す。壁に展示していた資料などが、落ちたりしたが、割れたものは無かったとのこと。娘が女学院の卒業生とのこと。昔は、広島大学の定年退職した事務系職員が、女学院に行っており、女学院の卒業生が、広島大学に沢山採用されていた由。
20010327 **より電話。地震被害の見舞い。大会報告は、私の事情を汲んで、中止になった。来年度のことは保証できないが、雰囲気としては、来年送り。
20011221 メリメリケンパーク-神戸港震災メモリアルパーク-15:00阪神・淡路大震災支援館(フェニックスプラザ)。ケンパーク-神戸港震災メモリアルパーク-15:00阪神・淡路大震災支援館(フェニックスプラザ)。
20060612 強い地震。目が覚める。呉地方は震度5とのニュース。
20080520 *の話=*[中国人留学生]が四川省の地震被害などについて話す。
20110311 東北地方太平洋沖震災。東日本大地震。15:58*にメールを送る。16:40付の返信メール「大丈夫」が夜10時過ぎ?届く。
20110315 「東日本大震災 被災を覚える祈りの集い」。大学チャペル
20110316 *大学謝恩会。宇吹:乾杯の音頭。東北地震・福島原発事故は長期の影響。社会的な転換が必要。我々は目前のことしか関われないが、皆さんは長期の変革で活躍できる。
20110324 前日から始めた東北・関東大震災の新聞の整理終了。
20120817 NHKスペシャル「最後の笑顔~納棺師が描いた東日本大震災」。
20130311 東北大震災2周年。新聞5紙を購入。
20140314 震度5弱の地震。自宅・桜ヶ丘ともに異常なし。夕方、道路の枯葉を取り、温室北の畑に入れる。焼却炉が崩れていることに気付く。
20160414 熊本地震。益城町で震度7の地震。翌日、*から*、*ともに被害なしとのメール連絡。
20180408 「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 1995.1.17」見学。

 

パルの自己紹介

パルの自己紹介

年月日 できごと
19980502 やっと自分の住処を得ることができました。 前の飼い主は、私のことをパルと呼んでいました。「キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル」という種に属しています。 年齢は3歳、人間では20歳代後半に相当するそうです。 標準体重は7キログラムだそうです。前の住処では何でも要求するものを食べることができました。家の中に閉じこもって歩くことがなかったので、肥えてしまいました。宇吹家にやってきたときは9キロとちょっと。
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 宇吹家に来た直後
19980530 室内犬なのに良く外を歩かされる。ダイエットの成果もあり、体重は現在8.6キログラム
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19990104 宇吹家の住民の性格をやっと掴むことができた。粘り強く要求すれば、誰かが折れる。「餌くれー!」(注:目線の先に餌あり)
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家族のみなさまは、帰ってきたらまずわたしをなでてくる。でも、今小学5年生のわたしのしもべは抱きついてくるので暑苦しい。
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19990826 ペットショップでシャンプーをしてもらいご帰宅
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 20010213  パルの突然の死
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戦争と平和の旅1993年1月

戦争と平和の旅1993年1月25日~30日[敬称略]

時間 事項
25 10:30 京都大学文学部博物館。事務長が常設展示(中国関係)を案内してくれる。広島大学の事務長(文学部**事務長?)が見学したとのこと。文学部の校費で運営しているので大変とのこと。学内を歩く。建物が新たに建築されており、構内が学生時代に比べ、狭苦しく感じられた。
25 13:00 コープイン京都で報告。1.戦後初期の原爆体験記、原爆被害報告活動、2.記録に残っている「京大原爆展」、の2点について話す。-15時20分。**・*(機関紙共同出版)・*・*(工学部出身、元毎日新聞編集委員)・山辺昌彦(立命館大学)。
25 13:01 *の話=蔵本淳は2級後輩。自分は岡山出身で近かったので良く知っている。真面目に研究に打ち込むタイプだった。蔵本が米軍基地でインターンをやったのは、当時はそこが最も適切な場所だったから。*は、いいかげんな教師だった。
25 13:02 蔵本が〔NHKの番組で〕被爆の証言をしたことと、現在原医研所長として活躍していることを、私が*に話すと驚いていた。謝礼として2万円貰う。
25 16:03 16:03京都発-18:39東京着。地下鉄東西線大手町-竹橋。出口を間違い、KKR竹橋まで雨の中を歩く。19時半到着。部屋は広く、バス付きで快適。レストラン芙蓉で夕食。最も安いメニューが2000円。少量で食べた気持ちがせず。
26 09:30 国立国会図書館。一般研究室の申込。
26 09:40 憲政資料室。*と会う。あちらが覚えていた。*がしばしば来て私の話をしているとのこと。慶応の学生が百数十枚GHQ資料のフィルム・シートをコピーして一応作業を終了した由。放影研からしばしば連絡がある由。
26 11:00 国会議事録。第85回臨時国会(~1978年10月21日)まで原医研資料センタ-で目録済み。第101回国会(1983年12月)以降、「発言者索引」と「事項索引」を電算化。第110回(1987年11月)以降テキストの電算化。
26 11:30 JAPAN-MARK(国会図書館書誌情報)の検索。1969年以降電算化。遡及版(1969~1983年)、最新版(1984~1991年)・(1992年1~9月)。キ-ワード「原爆」、「平和」で検索。
26 12:00 新聞閲覧室。地方紙の1992年の8・6社説調査。
26 15:00 長崎日日新聞。1957年5月以降の調査。
26 17:00 雑誌論文目録で笹本征男「原爆初動調査における日本軍の役割」を調べる。しかし、雑誌論文のデ-タベースは利用できず、目録では掲載日・掲載書誌を捜し出すことが出来なかった。
26 20:00 「永田町-(半蔵門線)-九段下<夕食>-(東西線)-竹橋」のルートで宿に帰る。
27 08:00 竹橋-東京-川崎-(南武線)-武蔵小杉-(東横線)-元住吉-川崎市平和館(中原区木月住吉町・平和公園内)。
27 10:00 川崎市平和館。見学者なし。しばらくして、身体障害者のグループが入る。図書室では簡単なパソコンによる文献検索が出来るようになっていた。映画が2か所で見ることができる。空襲の体験談が空襲による焼け野原の写真をバックに語られる構成は良かった。
27 11:50 日本被団協。1992年の出版物調査。伊藤直子など3名の女性。12点の図書類(2700円)を入手。
27 13:00 国立国会図書館。地方紙社説調査。
27 20:30 大井町の地下街で夕食。一人での食事は見あたらず、帰りのサラリーマン同士のグループでごった返していた。しかし、九段下より食事のためには良い。
28 08:15 KKR竹橋に宅配便を依頼。5.5キロ。約1400円。宅配便のランクは5、10、15キロ。明日には届くとのこと。
28 10:30 法政大学大原社会問題研究所。JR中央線西八王子駅より法政大学行きバス。最初に原爆写真を紹介した「婦人民主新聞」は、1948年8月「15日」では無く「12日」だった。孫引きの恐ろしさを改めて感じる。
28 10:31 受付の年輩の女性が、麻布分館時代(現地へは1986年移転)に私が通ったことを覚えており、書庫を案内してくれる。原水協関係の資料は1.5段で大したことは無かった。労働団体だけで精いっぱいで、大衆団体にまで手が回りかねるとのこと。資料2400円を購入。
28 13:00 新宿でバッグ(1800円)を購入。
28 14:00 国立国会図書館。長崎新聞1957年10月~58年3月調査。
29 07:30 KKR竹橋を早く出発したので-千鳥ケ淵戦没者墓苑-靖国神社-神田の古書街(朝食)と散歩。
29 09:00 千鳥ケ淵戦没者墓苑(1959年竣工)。参拝者は皆無。靖国の国営版の感じ。
29 09:10 靖国神社。遊就館(1986年改修復元)を見学。1945年9月に死亡した中国軍管区勤務で山県郡出身の30才前後の女性の資料が展示されていたが、原爆についての言及は無し。
29 10:30 第103回平和科学研究センタ-運営委員会。出張中につき欠席。
29 10:30 神田古書街。永井隆全集(1971年8月28日刊)を文華堂で入手。1万円。南海堂に「原水爆時代上下」が3500円で出ていたが買わず。
29 12:00 大手町の「ていぱーく(逓信博物館)」を見学。パソコン通信についての展示を期待したが的外れだった。多くの小学生が見学。すぐに出る。
29 13:30 国立国会図書館。長崎日日新聞1958年4月-8月調査。
29 19:00 東京駅八重洲口地下街でみやげ物の買物。*=ヘアバンド。*=ドラえもんのゲームウォッチ。職場用と桜丘用のサブレ。
30 05:50 KKR竹橋チェックアウト。一泊7000円で計39964円。DCカードで支払う。
30 06:16 東京発-08:58京都着。9:22市バス(50系統)-10:00立命館大学国際平和ミュージアム着。
30 10:00 立命館大学国際平和ミュージアム。現代史と平和学の最新の成果を取り入れており、新鮮な感動。全国の自治体名が入力され、非核自治体宣言を行っているかどうか検索できるシステムがあり、笑った。原水禁運動は、原水禁の資料はなく、原水協のみ。
30 10:30 一通り見終ったところで山辺昌彦と会う。館長室で話をする。途中、*課長が加わる。厚生省援護局・広島県・市・平和記念資料館が見学に来たとのこと。援護局も慰霊施設の建設を計画していることを初めて知る。県は、被服廠の保存策について日本開発銀行に調査を依頼。
30 11:44 京都駅発-12:00新大阪着-(地下鉄)-梅田-(環状線)-森ノ宮。
30 12:00 「ピースおおさか(大阪国際平和センタ-)」(大阪城公園)。販売図書を全部購入したら、7000円を超えた。
30 14:04 新大阪発-15:37広島着。原医研へのバスの中で、空と会う。師範学校の同窓会に出席し帰るところ。被爆50周年に向けて体験記の出版の話が出たとのこと。原医研に宅配便は届いておらず。

 

 

1969年10月~1976年3月(広島県公立学校教諭)

人事異動通知書(辞令書)(抄)

 発行者  任命権者 広島県教育委員会
発行年月日 昭和44年10月1日
異動内容 広島県公立学校教諭に臨時的任用する(期間は昭和45年3月31日までとする)
 教育職(二)2等級に決定する 2号級を支給する
 広島県立音戸学校教諭を命ずる
発行年月日 昭和45年4月1日
異動内容 広島県公立学校教諭に任用する
教育職(二)2等級に決定する 3号級を支給する
 広島県立広島工業高等学校教諭を命ずる
発行年月日 昭和45年4月1日
異動内容 広島県教育委員会事務局指導主事に充てる 指導課勤務を命ずる
発行年月日 昭和51年4月30日
異動内容 広島県教育委員会事務局指導主事を解く
発行年月日 昭和51年4月30日
異動内容 辞職を承認する