戦争と平和の旅1993年1月25日~30日[敬称略]
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時間 |
事項 |
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10:30 |
京都大学文学部博物館。事務長が常設展示(中国関係)を案内してくれる。広島大学の事務長(文学部**事務長?)が見学したとのこと。文学部の校費で運営しているので大変とのこと。学内を歩く。建物が新たに建築されており、構内が学生時代に比べ、狭苦しく感じられた。 |
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13:00 |
コープイン京都で報告。1.戦後初期の原爆体験記、原爆被害報告活動、2.記録に残っている「京大原爆展」、の2点について話す。-15時20分。**・*(機関紙共同出版)・*・*(工学部出身、元毎日新聞編集委員)・山辺昌彦(立命館大学)。 |
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13:01 |
*の話=蔵本淳は2級後輩。自分は岡山出身で近かったので良く知っている。真面目に研究に打ち込むタイプだった。蔵本が米軍基地でインターンをやったのは、当時はそこが最も適切な場所だったから。*は、いいかげんな教師だった。 |
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13:02 |
蔵本が〔NHKの番組で〕被爆の証言をしたことと、現在原医研所長として活躍していることを、私が*に話すと驚いていた。謝礼として2万円貰う。 |
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16:03 |
16:03京都発-18:39東京着。地下鉄東西線大手町-竹橋。出口を間違い、KKR竹橋まで雨の中を歩く。19時半到着。部屋は広く、バス付きで快適。レストラン芙蓉で夕食。最も安いメニューが2000円。少量で食べた気持ちがせず。 |
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09:30 |
国立国会図書館。一般研究室の申込。 |
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09:40 |
憲政資料室。*と会う。あちらが覚えていた。*がしばしば来て私の話をしているとのこと。慶応の学生が百数十枚GHQ資料のフィルム・シートをコピーして一応作業を終了した由。放影研からしばしば連絡がある由。 |
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11:00 |
国会議事録。第85回臨時国会(~1978年10月21日)まで原医研資料センタ-で目録済み。第101回国会(1983年12月)以降、「発言者索引」と「事項索引」を電算化。第110回(1987年11月)以降テキストの電算化。 |
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11:30 |
JAPAN-MARK(国会図書館書誌情報)の検索。1969年以降電算化。遡及版(1969~1983年)、最新版(1984~1991年)・(1992年1~9月)。キ-ワード「原爆」、「平和」で検索。 |
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12:00 |
新聞閲覧室。地方紙の1992年の8・6社説調査。 |
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15:00 |
長崎日日新聞。1957年5月以降の調査。 |
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17:00 |
雑誌論文目録で笹本征男「原爆初動調査における日本軍の役割」を調べる。しかし、雑誌論文のデ-タベースは利用できず、目録では掲載日・掲載書誌を捜し出すことが出来なかった。 |
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20:00 |
「永田町-(半蔵門線)-九段下<夕食>-(東西線)-竹橋」のルートで宿に帰る。 |
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08:00 |
竹橋-東京-川崎-(南武線)-武蔵小杉-(東横線)-元住吉-川崎市平和館(中原区木月住吉町・平和公園内)。 |
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10:00 |
川崎市平和館。見学者なし。しばらくして、身体障害者のグループが入る。図書室では簡単なパソコンによる文献検索が出来るようになっていた。映画が2か所で見ることができる。空襲の体験談が空襲による焼け野原の写真をバックに語られる構成は良かった。 |
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11:50 |
日本被団協。1992年の出版物調査。伊藤直子など3名の女性。12点の図書類(2700円)を入手。 |
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13:00 |
国立国会図書館。地方紙社説調査。 |
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20:30 |
大井町の地下街で夕食。一人での食事は見あたらず、帰りのサラリーマン同士のグループでごった返していた。しかし、九段下より食事のためには良い。 |
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08:15 |
KKR竹橋に宅配便を依頼。5.5キロ。約1400円。宅配便のランクは5、10、15キロ。明日には届くとのこと。 |
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10:30 |
法政大学大原社会問題研究所。JR中央線西八王子駅より法政大学行きバス。最初に原爆写真を紹介した「婦人民主新聞」は、1948年8月「15日」では無く「12日」だった。孫引きの恐ろしさを改めて感じる。 |
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10:31 |
受付の年輩の女性が、麻布分館時代(現地へは1986年移転)に私が通ったことを覚えており、書庫を案内してくれる。原水協関係の資料は1.5段で大したことは無かった。労働団体だけで精いっぱいで、大衆団体にまで手が回りかねるとのこと。資料2400円を購入。 |
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13:00 |
新宿でバッグ(1800円)を購入。 |
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14:00 |
国立国会図書館。長崎新聞1957年10月~58年3月調査。 |
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07:30 |
KKR竹橋を早く出発したので-千鳥ケ淵戦没者墓苑-靖国神社-神田の古書街(朝食)と散歩。 |
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09:00 |
千鳥ケ淵戦没者墓苑(1959年竣工)。参拝者は皆無。靖国の国営版の感じ。 |
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09:10 |
靖国神社。遊就館(1986年改修復元)を見学。1945年9月に死亡した中国軍管区勤務で山県郡出身の30才前後の女性の資料が展示されていたが、原爆についての言及は無し。 |
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10:30 |
第103回平和科学研究センタ-運営委員会。出張中につき欠席。 |
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10:30 |
神田古書街。永井隆全集(1971年8月28日刊)を文華堂で入手。1万円。南海堂に「原水爆時代上下」が3500円で出ていたが買わず。 |
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12:00 |
大手町の「ていぱーく(逓信博物館)」を見学。パソコン通信についての展示を期待したが的外れだった。多くの小学生が見学。すぐに出る。 |
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13:30 |
国立国会図書館。長崎日日新聞1958年4月-8月調査。 |
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19:00 |
東京駅八重洲口地下街でみやげ物の買物。*=ヘアバンド。*=ドラえもんのゲームウォッチ。職場用と桜丘用のサブレ。 |
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05:50 |
KKR竹橋チェックアウト。一泊7000円で計39964円。DCカードで支払う。 |
| 30 |
06:16 |
東京発-08:58京都着。9:22市バス(50系統)-10:00立命館大学国際平和ミュージアム着。 |
| 30 |
10:00 |
立命館大学国際平和ミュージアム。現代史と平和学の最新の成果を取り入れており、新鮮な感動。全国の自治体名が入力され、非核自治体宣言を行っているかどうか検索できるシステムがあり、笑った。原水禁運動は、原水禁の資料はなく、原水協のみ。 |
| 30 |
10:30 |
一通り見終ったところで山辺昌彦と会う。館長室で話をする。途中、*課長が加わる。厚生省援護局・広島県・市・平和記念資料館が見学に来たとのこと。援護局も慰霊施設の建設を計画していることを初めて知る。県は、被服廠の保存策について日本開発銀行に調査を依頼。 |
| 30 |
11:44 |
京都駅発-12:00新大阪着-(地下鉄)-梅田-(環状線)-森ノ宮。 |
| 30 |
12:00 |
「ピースおおさか(大阪国際平和センタ-)」(大阪城公園)。販売図書を全部購入したら、7000円を超えた。 |
| 30 |
14:04 |
新大阪発-15:37広島着。原医研へのバスの中で、空と会う。師範学校の同窓会に出席し帰るところ。被爆50周年に向けて体験記の出版の話が出たとのこと。原医研に宅配便は届いておらず。 |
人事異動通知書(辞令書)(抄)
| 発行者 |
任命権者 広島県教育委員会 |
| 発行年月日 |
昭和44年10月1日 |
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| 異動内容 |
広島県公立学校教諭に臨時的任用する(期間は昭和45年3月31日までとする) |
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教育職(二)2等級に決定する 2号級を支給する |
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広島県立音戸学校教諭を命ずる |
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| 発行年月日 |
昭和45年4月1日 |
| 異動内容 |
広島県公立学校教諭に任用する |
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教育職(二)2等級に決定する 3号級を支給する |
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広島県立広島工業高等学校教諭を命ずる |
| 発行年月日 |
昭和45年4月1日 |
| 異動内容 |
広島県教育委員会事務局指導主事に充てる 指導課勤務を命ずる |
| 発行年月日 |
昭和51年4月30日 |
| 異動内容 |
広島県教育委員会事務局指導主事を解く |
| 発行年月日 |
昭和51年4月30日 |
| 異動内容 |
辞職を承認する |
履歴書(抄)
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| 昭和44年4月7日 |
京都府立総合資料館臨時職員として採用(東寺百合文書整理業務)。週5日勤務(週40時間) |
| 発行者 |
京都府立総合資料館長 井上裕雄 |
| 発行年月日 |
昭和51年4月23日 |
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| 作家名 |
遭遇年月日 |
遭遇場所 |
| 高橋和巳 |
1969年? |
京都大学本部構内(京都) |
| 三島由紀夫 |
1970年11月25日 |
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(東京) |
| 大江健三郎 |
1987年7月30日 |
広島ターミナルホテル(広島) |
高橋 和巳
たかはし かずみ 19310831生
19710503没 作家。歳。
高橋和巳=「私たちはしばしば、一つの時代を、その繁栄の中心において記述しがちであるが、一つの時代は先端的な繁栄の場をもつと同時にその時代の矛盾と悲惨の集約の場をももつ。そして文化というものは、社会の先端を切る人々にのみ担われるのではなく、矛盾と悲惨の場に耐えた人々によっても担われる。その不運の場に居あわさねばならなかった人々の苦しみのうちに築かれてゆく価値を無視してしまっては、その時代、その民族の精神は十全ではありえないのである。」
(「滅びざる民」、『読書人』1966年8月1日号掲載)
三島 由紀夫
広島に”新型爆弾”が投下されたとき、私は東大法学部の学生であった。(中略)
それが原爆だと知ったのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだった。世界の終わりだ、と思った。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。もっとも、原爆によって突然発生したというより、私自身の中に初めから潜在したものであろうが・・・。 ヒロシマ。ナチのユダヤ人虐殺。まぎれもなくそれは史上、二大虐殺行為である。だが、日本人は「過ちは二度とくりかえしません」といった。原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は、終戦の詔勅の「五内為ニ裂ク」という一節以外に、私は知らない。(中略)
核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさえながら核を作っている。彼らは言いわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被爆国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもって対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思い起こすべきではないのか。
(三島由紀夫の発言、「私の中のヒロシマ」、『週刊朝日』1967年8月11日号
大江 健三郎
1958年「飼育」で芥川賞受賞。
「ヒロシマ1960」(『中国新聞』1960年8月7日)
***私はきょう広島を訪れて原爆記念祭に出席した。それは私にとって貴重な体験である。***日本人はその生涯に、すくなくとも一度は広島を訪れるべきである。
***私は広島で、原爆と戦いつづけながら日常生活をきずいている、勇気にみちた人たちを見た。それは土門拳の「ヒロシマ」で私が発見し、深い敬意をはらっていた人たちを、現実に見ることであった。そしてまた私は、納骨塔の前で会った母親のように、深く暗い海のような悲しみと嘆きをもつ人たちをも見たのである。
***この二つの人間像が広島の人たちを代表するものであろう。私はこの勇気ある人たち、しかも深い悲嘆を心にいだきつづける優しさをもった人たちを、おなじ日本人としてもつことに誇りを感じる。
「ヒロシマ・ノート」(『世界』1965年3月号)
***広島こそが、僕のいちばん基本的な、いちばん硬いヤスリなのだ。広島を、そのような根本的な思想の表現とみなすことにおいて、僕は自分が日本人の小説家であることを確認したいのである。
「ヒロシマからの新しい光-人類再生のシンボルに」(『中国新聞』1992年1月1日)
***これまで広島は第二次世界大戦で始まった核兵器体制の黒い巨大なシンボルでした。いま核軍縮の方向性があきらかとなって-逆行がありうるのであれ-、広島は核の被害から人間がどのように再生したかを示す光のシンボルともなりうるはずです。チェルノブイリの被災者の広島における治療は、すでに具体的にそれをあらわしていると思います。
1994年10月13日、ノーベル文学賞受賞決定。
「世界文学は日本文学たりうるか?」
(ノーベル賞受賞後初の講演。『あいまいな日本の私』(岩波新書、1995年)所収)
***私どもは、広島と長崎の経験を持っていますが、はたして日本人はそれを本当に思想化したか、日本文明の問題として考えてきたか?あるいは、日本人の文化の問題として捉えてきたかというと、私はそうではないのではないかと考えています。
***広島と長崎の課題を日本人が経験した20世紀最大の出来事として把えなおすならば、そのとき初めて日本人は、この世紀末から次の世紀に橋渡しすべき思想を、あるいは文明をかちとりうるのではないでしょうか。
***われわれは、ゆがんだ貧しい近代をつくってしまった。そして大きい戦争を惹き起こして、悲惨な経験をした。その頂点に広島と長崎があります。そのことをわれわれは、自分たちの文化の問題として、文明の問題としてあらためて徹底的に考えるべきではないか?それが私たちにとって、ついに世界言語を構想することにもつながる仕方で世界の文学に参加するための出発点ともなるのではないか?
***広島、長崎のあの大きな犠牲は、償わなければならないと思います。償うのは私たちです。また、広島、長崎にいたった、そしてそれ以後も決して完全に治っているとはいえない国家の疾患から、私たちは恢復しなければならない。
ノーベル賞受賞記念講演「あいまいな日本の私」
(1994年12月7日『あいまいな日本の私』(岩波新書、1995年)所収)
***日本と日本人は、ほぼ50年前の敗戦を機に***大きい悲惨と苦しみのなかから再出発しました。新生に向かう日本人をささえていたのは、民主主義と不戦の誓いであって、それが新しい日本人の根本のモラルでありました。しかもそのモラルを内包する個人と社会は、イノセントな、無傷のものではなく、アジアへの侵略者としての経験にしみをつけられていたのでした。また広島、長崎の、人類がこうむった最初の核攻撃の死者たち、放射能障害を背負う生存者と二世たちが--それは日本人にとどまらず、朝鮮語を母国語とする多くの人びとをふくんでいますが--、われわれのモラルを問いかけているのでもありました。
「『ヒロシマの心』と想像力」(『核と人間2』(岩波書店、1999年)所収)
***核兵器に対する日本人の国民感情という政府の声明の常套句も、広島、長崎から発せられる実際には内容のぎっしりつまった「ヒロシマの心」という言葉も、ともに、海外では本気で受けとられなくなっている現状がある、とあえて私はいいたいと思います。
***被爆者たちの反核の感情に、すくなくともいまナショナルなものは大きくない、と私はこれまで幾らかなりとその傍に立って運動に参加したり、観察したりしてきた者としていうことができます。被爆者はあきらかに被害者ですが、そして被爆直後反核の運動の開始、そしてある時期まで、深い被害者意識があったことは当然だと思いますが、しだいにそれを克服して、その核兵器の投下をもたらすものとなった--だからといって、それが必然的に核兵器を広島に、またとくに長崎にまで投下させるものだった、とはいえませんが--太平洋戦争、それに先だつ日中戦争での、加害者としての日本人という意識を、被爆者援護法の運動は実際に取り込んできました。また植民地化された朝鮮半島の人々への加害者意識を、具体的に生活感覚のなかに生かしもしました。私は戦後の日本人の思想史において、広島、長崎の被爆者たちの、援護法に焦点をおいた、そしてさらに今日まで続く核廃絶の運動のなかでの、その経験の普遍化の道程は特別な重みを持つものだと考えています。
私の想い出 やす
| 左:「自分史」を書くように勧めた際に渡した暁のメモ
右:上記のメモととも手書き原稿が入れられていた袋の表書き |
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| <自分史の冒頭> |
大正10年1月19日生、安芸郡矢野町字**、**吾一郎の五女として生まれる。
父 吾一郎
母 キクヨ
長男 次郎 矢野町在住
長女 キヨノ **筆雄と結婚 50歳にて死亡
次女 千代 **太郎と結婚
三女 ユキ 宇吹静男と結婚 21歳にて死亡
四女 シズ 幼児中死亡とのこと 記憶なし
五女 ヤス 三女ユキ死亡後の後妻として意志なきままを結婚させられ今日に至る
六女 キミ **節郎と結婚 43歳にて死亡
次男 一士 焼山**家に養子縁組現在に至るいつわり多き 一生と思う 夏草の
茂る季 生れしと 亡母言いませり |
| 私が五年生、妹きみちゃんが二年生の時、合同で学芸会をした写真が一枚残っている。「乞食と王子」。妹が「乞食」で私は陸軍大臣か何か大臣になって演じた。父は乞食の配役に文句を言っていた。妹は上手に演じた。ハワイ帰りの**さんが英語で歌をうたった。美しいベールをかぶりながら。今の学校の様に主役でもめる事はなく先生が適役を決められるので芸達者が主役で面白かった。 |
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つづく
1946年8月~1965年3月(誕生から高校時代)
| 本籍 |
広島県呉市 |
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| 小学校 |
呉市立吉浦小学校 |
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| 中学校 |
呉市立吉浦中学校 |
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| 高等学校 |
修道高等学校 |
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