長崎の被爆者5団体(代表者)
(2009年9月11日現在)
長崎原爆被災者協議会 | 谷口稜曄会長 | |
長崎原爆遺族会 | 正林克記会長 | |
長崎県被爆者手帳友の会 | 井原東洋一会長 | |
長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会 | 川野浩一議長 | |
長崎県被爆者手帳友愛会 | 中島正徳会長 |
長崎の被爆者5団体(代表者)
(2009年9月11日現在)
長崎原爆被災者協議会 | 谷口稜曄会長 | |
長崎原爆遺族会 | 正林克記会長 | |
長崎県被爆者手帳友の会 | 井原東洋一会長 | |
長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会 | 川野浩一議長 | |
長崎県被爆者手帳友愛会 | 中島正徳会長 |
被爆者7団体(広島)
構成団体
団体名 | 設立年月日 | 備考 |
広島県原爆被害者団体協議会 | 19560527 | |
広島県原爆被害者団体協議会 | ||
財団法人広島市原爆被爆者協議会 | ||
在日本大韓民国民団広島県地方本部原爆被害者対策特別委員会 | ||
広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会 | ||
広島県朝鮮人被爆者協議会 | ||
広島被爆者団体連絡会議 |
「ヒバクシャ国際署名」呼びかけ団体 – kokusaishomeihiroshima ページ! (jimdofree.com)
被爆者7団体
広島県原爆被害者団体協議会【坪井直理事長】 | |
広島県原爆被害者団体協議会【佐久間邦彦理事長】 | |
韓国原爆被害者対策特別委員会 | |
広島県朝鮮人被爆者協議会 | |
広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会 | |
広島市原爆被害者協議会【松井一實市長】 | |
広島被爆者団体連絡会議 |
止
原爆の子友の会 結成日:1952年2月17日
年月日 | 事項 |
19520217 | 原爆の子友の会、結成式を広島大学文学部で開催。長田新編「原爆の子」に手記を寄せた児童生徒約100人出席. |
19520324 | 中村巌原爆の子友の会会長ら30名、大阪大学理学部で京阪神の少年少女と交歓会を開く。 |
19520503 | 原爆の子友の会、広島大学図書館で大阪原爆の子を守る会と交歓会を開催。 |
19520730 | 原爆の子友の会の一行20名、上阪。 |
19520813 | 八木保太郎を囲む広島県教組と原爆の子友の会共催の座談会、広島市内の教育会館で開催。約70人(吉川清・谷本清ら)が参加。 |
19520816 | 原爆の子友の会の一行20人、東京神田・教育会館で芝居「原爆の子」を上演(朝日新聞)。 |
19520924? | 広島原爆の子友の会、国際医師会議に提出するため原爆体験記を募集。 |
19530809 | 大沢幹夫作・原爆の子友の会総出演舞台劇「原爆の子」、広島市児童文化会館で初公開。 |
19550121 | 世界民主青年連盟代表を囲む原爆被害者懇談会、広島市内教育会館で開催。原爆被災者の会から20名、原爆の子友の会から5名を含む約100名が参加。 |
19550512 | 長田新広島大学教授、モスクワで開催されたソ連国内の平和大会に参加。「広島原爆の子友の会」から託されたソ連の子どもたちあてのメッセージを紹介。 |
原爆乙女の会
代表者 | |
谷本清 | |
設立年月日 | |
1950年3月 | |
目的及び事業 | |
当初、原爆障害者が聖書を研究することにより、精神的に立ち上がることを目的として、「原爆障害者更生会」として発足した。会員は原爆乙女の外、男子障害者や高年齢の女子障害者も加わっていた。 | |
<中略> | |
組織内容 | |
会員数約80名 | |
その他の参考事項 | |
この会は、上記のような経過から、現在では男子会員及び女子高齢者会員は徐々に少数となり、現在の原爆乙女の会となった。 | |
『原水爆関係団体名簿』(広島市衛生局原爆被害対策課、19670201) |
原爆傷害者更生会 設立:1951年8月27日
書名コード | 書名 | 編著者 | 発行所 |
49081501 | 平和のともしび-原爆第一號患者の手記 | 吉川清・富田勝己(補註) | 京都印書館 |
50072501 | ヒロシマの十字架を抱いて | 谷本清 | 大日本雄弁会講談社 |
76072002 | 広島原爆とアメリカ人-ある牧師の平和行脚 | 谷本清 | 日本放送出版協会 |
81072401 | 「原爆一号」といわれて | 吉川清 | 筑摩書房 |
【資料】原爆第1号吉川清の試み
『中国新聞』 1951.4.3
原爆第1号きのう退院
昭和21年1月広島赤十字病院に入院、療養をつづけていた原爆1号吉川清氏は前後16回におよぶ手術で健康を全く回復し2日午後退院、5年2ヵ月の病院生活に別れをつげた。
(吉川清氏談)私は原爆による限りない苦悩を過去の長い病床生活において切実に味わってきた。同じような原爆による傷害者とかたく手をたずさえ、更生の道をどこまでも突き進みたい。このような意味からこのたび広島原爆傷害者救済援護会を設立した。
『中国新聞(夕刊)』 1951.6.4
インドから援助第1号!
めぐり来る原爆7周忌を前に原爆第1号患者として有名な吉川清氏(38)を中心に同病傷害者のうち127名の有志が内外の浄財によって人造パール製造の共同作業所と原爆患者診療所を設置し、相互に雄々しく立ち上がらんとする朗話がある。
原爆傷者立上がる 作業・診療所“われらの手で”
発起人に選ばれた吉川氏は6年にわたる入院生活からさる4月2日退院、爆心地産業奨励館ドーム前に夫人生美さん(30)とともに外人相手にみやげ物店を開業、細々ながら再起の日々を送っていたが、たまたま同地の整地作業に訪れる原爆ケロイド患者の日雇人夫の人々と病状を語り合うと共に、身体障害でどん底の困窮生活にあえぐ人々の多きを知り“なんとか相携えて働ける仕事 もちたい”と話し合った結果、予算70万円で次の事業計画をたて、かつて日赤入院時代同氏を見舞った内外人にこの基金募集を呼びかけ、すでにインドのシャルマン氏(昨年12月来広)がニューデリーにおいて松本滝蔵代議士と会見、50万円寄付の伝言があり、6月からは地元名士の援助署名運動に着手している
▽共同作業場=主として海外輸出用の人造パール(真珠)の製作ならびに販売
▽原爆患者の診療所の設置=原爆患者に対し実費治療ならびに一般困窮者の無料診察および相談(担当医は日赤副委員長服部達太郎氏が無料奉仕で当たる)
(吉川氏談)なんとかこの同病患者が結束して暗い気持を忘れ仕事にぼっとうして立上がれば幸いと思っています。予算面もインドから50万円近く送金するという手紙もあり、残りは私がリュックサックを背負って全国資金行脚してでも完成さす決心です。
原爆被害者の組織化の萌芽
原爆被害者の組織は,すでに1946(昭和21)年当時から広島戦災供養会・広島市左官町慰霊祭実行委員会・広島観音会といった慰霊行事主催団体にその萌芽をみることができる。
こうした慰霊行事における原爆被害者の集まりが組織化された例もあった。広島県立広島第一中学校の犠牲学徒の親たちは,1946年秋,一中遺族会を結成しておたがいに慰め,励ましあった(秋田正之編『星は見ている』)。また,広島市立第一高等女学校では1946年10月10日に慰霊祭を催したが,以後毎年8月6日に追弔会を開き,1948(昭和23)年の石製慰霊碑建立を契機に遺族会を結成している(『流燈-広島市女原爆追憶の記』)。
1948(昭和23)年8月10日,本川小学校で開催された傷痍婦人協力大会は,原爆被害者自身の医療,生活要求にもとづく早い時期の組織化の試みと考えることができよう。
京都大学の学生自治会である同学会は、1951年7月10日から10日間、京都丸物百貨店で原爆展を開催したが,その準備の中で「原爆体験者の心からの願い,叫び,そして怒りと悲しみを全ての人々に訴える体験記を何らかの形で発表したいと考え,学内で2度の体験者懇談会を開き,京都を始め,広島・長崎・東京などに連絡して広く手記を募集した。こうして7月には謄写刷りの『原爆体験記』(発行者は京都大学文学部学友会原爆体験記編集委員会)を作製するが,その後記は,次のように述べている。
体験者の方々は夫々の学校,職場,町,村,家庭に於いて原爆体験者懇談会を作って下さい。集団の力こそ原爆を防ぎ,平和を守る最も強い力なのです。
このように,京大同学会の開いた原爆体験者懇談会は,手記募集のための単発的な集会としてではなく,「原爆を防ぎ,平和を守るための原爆体験者組織」として意図されたものであった。
広島でも6年間の入院生活から再起した吉川清は,原爆傷害でどん底の困窮生活にあえぐ人々が相携えて働く共同作業場および原爆患者の診療所の設置を計画し,1951(昭和26)年6月から援助署名運動に着手していた(「中国新聞」(夕刊)1951年6月4日)。同年8月27日になり,流川教会牧師谷本清・吉川清などによって原爆障害者更生会が結成された。(参考:「原爆第1号吉川清の試み」、「原爆傷害者更生会」)
また,1952(昭和27)年1月17日には,前年10月発刊以後大きな反響を呼び起こしていた『原爆の子』(長田新編)に手記を寄せた高・中・小学生ら約100人が,原爆の子友の会を結成した。
原爆被害者の手記編纂委員会 19520821
目次(同委員会編『原爆に生きて 原爆被害者の手記』、三一書房、19530625)
カット:丸木位里・赤松俊子 | ||
原爆手記編纂委員会 | 序 | |
(山代巴・隅田義人・山中敏男・川手健・松野修輔) | ||
序=「我々が原爆被害者の手記を集めようといい出したのは、1948年8月で、いよいよ具体的に仕事が進み出したのは、1952年8月」、「我々はその集め方について、適切な方法がみいだせず、それが為に仕事が前へすすまなかった」、「8月21日の相談の結果、新聞やだジオによる募集には、あまり頼らず、我々が被害者の家を直接訪問してお願いし、欠けない人のは代筆してもいい、発表の機会に恵まれない人々の、手記を書かれることに重点をおこうということになったことは、この仕事を進める一つの鍵になった」 | ||
1 | 生きる | |
檜垣干柿 | 短かき夜の流れ星 | |
小原秀治 | 生命の河 | |
恵京吉郎 | 白血病と闘う | |
石井一郎 | ヌートリアの思い出 | |
磯川喜幸 | 真如の心 | |
吉川みち子 | 母子抄 | |
2 | 歩む | |
山下寛治 | 敗戦日記 | |
日詰忍 | 七年の記 | |
島本正治郎 | 「無窮」の木 | |
浮気モト | 四十八願 | |
多田マキ子 | 夫はかえらない | |
山野音代 | 友の手紙 | |
宮田君子 | 生長の家から | |
辻本トラ | 行くとこなし | |
山田静代 | 未亡人の願い | |
大屋ヒデ | 喜生園 | |
内山正一 | 父情記 | |
温品道義 | 傷害年金受給のこと | |
3 | 叫び | |
山中敏男 | 春雪日記 | |
上松時恵 | 平和をわれらに | |
浦本稔 | 青年の独想 | |
横山文江 | 甲神部隊の父 | |
牧かよ子 | すみれのように | |
池田精子 | 母となりて | |
西山わか子 | 私は生きたい | |
尾形静子 | 子等とともに | |
川手健 | 半年の足跡 |
被爆者・遺族と国民のつどい・広島
主催 日本原水爆被害者団体協議会
1990.8.5 14:00~16:30
広島・見真講堂
<袋>式辞資料など未入力
被爆者問題シンポジウム―被爆者調査をめぐって
開催日:1988年11月28日
場所:日本都市センター会議室
主催:日本原水爆被害者団体協議会
『報告書 被爆者問題シンポジウム―被爆者調査をめぐって』(日本原水爆被害者団体協議会発行)
広島県原爆被害者団体協議会
1956年5月27日設立
1555年8月、広島で開催された原水爆禁止世界大会直後、広島市内には,原爆乙女の会(シオン会)・原爆被害者の会・原爆の子友の会の先駆的3組織のほかに,広島子供を守る会,未亡人会(原爆被害者グループ),大会直前に原爆被害者の会から別れた八・六友の会と原爆被害者の会本部,および大会の期間中に組織された電気通信関係原爆犠牲者遺族会の8組織が存在した。世界大会直後から,これらの被害者組織の一本化が試みられたが,性格の異なる諸組織の統合には,多くの困難が存在した。10数回の会合ののち,1956年1月22日に広島市原爆被害者連絡協議会世話人会の発足にこぎつけた。
広島県原爆被害者大会(1956年3月18日)・国会請願(3月20日)の開催が,広島における既存の原爆被害者組織の大同団結と新たな被害者組織づくりの重要な契機となった。原爆被害者大会実行委員会は,1956年4月8日,事務局に県内各地から30人が参加して代表者会議を開催,次のような決議を行った。
県内の原爆被害者の組織は,被害者大会までに,大竹市(1955年8月6日結成)・甲奴郡(9月1日)・芦品郡(10月11日)・深安郡・神石郡・三次地区(1956年3月15日)などに結成されており,大会後の3月29日には,賀茂郡原爆被害者の会が結成された。
原爆被害者大会実行委員会は,4月8日につづいて5月13日にも代表者会議を開催,5月21日には,事務局長藤居平一の名で,5月27日の広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協と略称)結成総会の案内状を発送した。広島YMCA講堂で開かれた結成総会には,県内の被害者団体代表120人のほか,長崎8人,愛媛1人の代表が参加した。総会は,経過報告,規約案の審議ののち,次のような運動方針を決定した。
総会は,藤居平一(原爆被害者大会実行委員会事務局長・広島原水協事務局次長)・井上昇(広島県東部被害者連絡協議会)・日野義隆(大竹市被害者同志会)の3人を代表委員に,また,藤居を事務局長に選出した。