『ひろしま』(広島県文化会議機関誌)
発行年月日 |
号数 |
著者 |
タイトル |
所蔵 |
1964 |
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0801 |
創刊 |
8.6平和特集 |
P |
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土井信子 |
ルポタージュ・傷痕は今も |
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松田正男 |
漢詩・原爆忌 |
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詩 |
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堀ひろじ |
歴史は語る |
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兼松成一 |
午後 |
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木村徳雄 |
からだで反対する |
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佐々木稔 |
四月ノアル日 |
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由紀操 |
底辺 |
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俳句 |
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佐々信一郎 |
ボクの解剖手記より |
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座談会・占領下広島の平和運動を語る |
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出席者:天道正人 深川宗俊 四国五郎 山口勇子 土屋清 堀博自 |
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随想 |
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増岡敏和 |
ある心情の中の敵 |
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柿手春三 |
第十回広島市平和美展によせて |
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岡本美代子 |
学童保育を実践して |
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ラジオ中国芸能労組 |
闘いに結合したうたを |
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土屋清 |
なにが〈河〉を産みだしたか |
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短歌 |
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南雅子 |
無数なる白 |
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近藤幸子 |
明日への歩み |
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深川宗俊 |
一九六三年夏 |
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山手茂 |
原爆被害者問題と被爆体験の意義 |
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菅井幸雄 |
演劇時評・原爆と演劇 |
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編集部 |
広島県文化会議年表 |
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美術評論 |
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下村仁一 |
現実と美術 |
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斉藤武四 |
真実と美術 |
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南雅子 |
総創作運動への提唱―広島県文化会議シンポジュームの報告から |
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創作 |
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奥田泰治 |
金盞花 |
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1965 |
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0301 |
2号 |
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P |
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ルポタージュ・江田島「秋月」米軍弾薬庫現地調査行 |
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高武淳夫 |
弾薬庫の上から |
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堀ひろじ、深川宗俊、近藤幸子、竹内多一、 |
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詩 |
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山中みちこ |
ヴェトナムの若い仏教徒へ |
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堀ひろじ |
ヒロシマの連帯 |
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四国五郎 |
広島を嵐が通過する風景 |
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山口勇子 |
ある公立高校でのできごと―高校生の原潜阻止運動をめぐって |
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座談会・被爆20周年へ向けての創造活動 |
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出席者: 田中美光 下村仁一 深川宗俊 谷口武志 土屋清 堀博自 |
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世界10億人集会被爆者救援広島県大会抗議文(日本政府宛て、19641206付) <内容:4日の閣議でのカーチスルメーへの叙勲決定> |
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加川次男 |
短歌・弾薬と梅 |
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増岡敏和 |
創刊号を読んで・広島の意志・その周辺 |
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編集部 |
広島県文化会議年表 |
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佐々信一郎 |
俳句 |
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深川宗俊 |
作品・三・一のために |
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堀博自 |
鋭い眼で生きた真実を作る過程での問題提起 |
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加川次男 |
百姓一揆を主題とした定型詩劇を作る過程での問題提起 |
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深川宗俊 |
人間賛歌<第10回原水禁大会文化・芸術部会報告> |
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書評 |
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南雅子 |
堀ひろじ第二集詩集 「凍てつく大地に」をめぐって |
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奥田泰治 |
かあさんと呼べた仲間たち |
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1965 |
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0801 |
3号 |
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P |
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グラビア 被爆写真集 |
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葦原進 |
ルポタージュ「広島」を生きて |
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詩 |
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俳句 |
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座談会 文化の大衆化をめざして |
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出席者 兼松誠一 江川和禧 日高敞之 藤井順子 堀博自 |
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短歌 |
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県文化会議事務局日誌 |
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宮島巌 |
第二の〝ひろしま〟はおこさせない-広島にみる現代修正主義の平和「理論」 |
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藤井順子 |
いつか、きっといつか |
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甲斐有 |
戦後二十年目の断片的回想 |
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ルー・クイキ(ベトナム文化使節団長) |
ベトナムにおける文化戦線のたたかい |
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増岡敏和 |
反戦詩歌人集団(一九五〇年)のこと |
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ラジオ中国芸能員労働組合(作詞・作曲) |
花と手榴弾 |
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きのこ会、広島研究の会 |
原爆小頭症についての訴え(1965.7.26) |
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深川宗俊 |
歴史をとらえる視点に |
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山口勇子 |
創作 オルゴール |
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平和のための広島県文化会議 結成日:1962年8月5日
広島県文化会議・第二回定期総会議案書 1963年10月20日
一年間のあゆみとまとめ
1、一年間のあゆみ
一九六二年八月五日、私たちは広島県内在住の芸術創造にたずさわる人びとによって、「平和のための広島県文化会議」を結成しました。文化会議の性格を「平和のための」と意味づけたのは、文化そのものは本来平和そのものの成果であるにもかかわらず、なお「平和のための」といわざるをえなかったなど、世界の平和の状況が必ずしも平和でなかったからです。
そのかんの事情についての詳細は、結成総会アピールにあきらかにされているとおりですが、私たちはあらゆる人びとの平和への願いをもとにし、人類社会から戦争をなくすることを、芸術創造活動をとおしておし進めたいと考えました。
私たちは幹事会に提出された六項目の議案、すなわち、一、機関紙、誌の発行。二、秋の文化祭。三、峠三吉詩碑の建設。四、広島平和文化賞の設定。五、県内巡回講演などの計画。六、広島県戦後文化史の編さん。以上について、文学、美術、演劇の各専門部会で話あわれた内容を基にして、第三回幹事会は、八月六日へ向けて綜合文化祭を企画する。峠三吉詩碑の建設。広島県戦後文化史の編さん。の三つの主な創造のための作業を決議しました。この幹事会決定は、十一月十一日の臨時総会に提案され、年間の活動方針として決定されました。私たちはこの三つの作業を、たんなる行事というふうには考えませんでした。綜合文化祭、峠三吉詩碑、県戦後文化史の編さんの作業は、私たちの芸術創造の仕事と深くかかわりをもつと同時に、平和の問題と離れがたく結びついていると考えたのです。
一九六三年二月七日、私たちは文化会議会員によって「峠三吉詩碑建設委員会」を設置し、この日から具体的な活動に入りました。
この活動のこまかを点については、別誌「人間の世のあるかぎりくずれぬ平和を」において報告しておりますから略します
八月六日へ向けての綜合文化祭は、文化会議内に実行委員会を設置し、いろいろと話しあいの結果、県文化会議、広島職場演劇サークル協議会、広島勤労者演劇協議会の三団体共催にすることとし、後援および協賛団体として、原水爆禁止広島県協議会、広島県原爆被害者団体協議会、広島県労働組合会議、広島県青年連合会、日本民主青年同盟広島県委員会、日本社会主主義青年同盟広島地区本部、広島県教職員組合広島支部、広島県平和委員会、広島民主商工会、第三回西日本うたごえ実行委員会の協力を得ました。公演は八月三日昼夜二回行われ観客一千八一二人の入りで、一応実質的に成功させることができました。
そのほか、無名戦士の碑文の決定。原潜寄港反対のアピール、二回にわたるソ連作家を囲む懇談会をひらきました。
2、まとめ
その成果と問題点
これらの運動の中で、文学部会は峠三吉詩碑に刻む作品の選こうについて、美術部会は詩碑のデザイン、設計、あるいは第九回平和美術展について、音楽部会は「西日本のうだごえ」の成功のために、演劇部会はシナリオ「河」の作成から公演に向けて、その大きい流れの中にあって、それぞれのジャンルで創造活動が熱っぽく話しあわれ、実を結んでゆきました。
この実践の中で、私たちは八月三日「河」の合同公演、八月二日より七日間広島平和美術展、八月四日西日本のうたごえ、八月六日詩碑除幕式、第九回原水禁世界大会へ代表派遣という具体的な成果をあげると同時に、対外的には一定の基礎をつくることができました。これら諸運動に参加した人びとは二万人以上をがぞえ、九月末現在、詩碑建設と、「河」公演によせられたカンパ額は五三五、八二○円に達しました。このことは私たちの方針の正しさを実証するものといえましょう。
しかし、これら成果の反面、文化会議内部における日常活動の不足、事務局体制の弱体からくる財政の不備、内面的な活動の遅退は、会員個々の活動があったにもかがわらず、いちぢるしく後退するという現しょうを見たことは、特に重要な問題として残されております。
このことは文化会議の動脈ともいうぺき機関紙が速報をあわせて二回発行にとどまった事実にもうかがえます。会員はそれぞれの創造活動をとおして、多くの出版物を刊行し、あるいは執筆し、おうやけにしました。たとえぱ三原の「地方」、広島の「青史」「われらのうた」、土屋清のシナリオ「河」(テアトロ)、南雅子共著童話「つるのとぶ日」(東都書房)、加川次男歌集「標的」(白樺社)、原爆症患者の手記「かえらぬつる」再版、絵画グループ展の開催、職場演劇、職場美術展等を他にも多くあげるこどができます。
だがこのように見るべきものががず多くあつたにもかかわらず、内部において集約されず、したがって独自の評価もあたえられず放置されたのであります。もっとも大切にしなくてはならない会員個々の創造活動が会の中で充分生かされなかつたことの事実の解明は、今後の大きな課題として私たちの前にあります。書くことがあとまわしになったという問い、行動に参加し、ひとりびとりがどう高まり、どうひろげたか、芸術創造と政治的実践のむすびつきを考えるぺきだという問い、それら困難でしかも重要な課題を私たち一年のあゆみは提出しました。
これは私たちの実践の中からひきだされた具体的な課題であるだけに、一年のあゆみは必ずしも一方的に否定されるべきでなく、このあゆみの中から、新しい方針が創造されてゆくべきでありましょう。その萌芽が私たちのひとつの成果としてここに提出されているのであります。
[以下略]
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