「03 ヒロシマNGO」カテゴリーアーカイブ

全日本損害保険労働組合

全日本損害保険労働組合

全日本損害保険労働組合被爆20周年記念碑
建立年月日:1965(昭和40)年8月6日
場所:広島市・平和記念公園
[正面上]
なぜ あの日は あった
なぜ いまもつづく
わすれまい
あのにくしみを
この誓いを[正面前]
被爆二十周年記念之碑[裏面]
昭和四十年八月六日
全日本損害保険労働組合
 現在は、移築された位置にある。
  撮影日:2020年8月6日
 DSC03555
   撮影日:2015年8月6日10:45
 CIMG5710

 

中国新聞労働組合50年史

『中国新聞労働組合50年史』(同編集委員会、19970829)

内容

備考
平和・生活・権利 そして新聞のために 斎藤普
50年であって50年ではない「ヒロシマ」 北村肇
1 50年の歩み
2 組織・権利・共闘
3 賃金・退職金
4 生活と健康
5 合理化
6 新研・平和
講和条約
原水爆禁止運動
新研活動の誕生
警職法反対
政暴法反対
安保
単組初の新研集会
沖縄・安保
マスコミ攻撃
ベトナム戦争反対
戦史博
単組新研部が発足
外務省機密漏洩事件
県民と自衛隊のつどい
米大統領歓迎広告
自衛隊FF参加
自衛隊政府広報
紙面モニター・アンケート
不戦の碑・消えたペン 被爆40周年事業 125人の無念刻む
国家秘密法阻止
朝日新聞射殺事件
「浮標」
天皇報道
連載企画ボツ
元編集局長が市長選出馬
連載「B・C級戦犯」
小選挙区・審議会
記者クラブ問題
ヒロシマ新聞 50年後の視点で45年8月7日付紙面を製作
7 経営・企業間競争
8 青年婦人部
あとがき
資料
歴代役員/スローガン/年表

 

 

ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会刊行物

ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会

刊行物

発行年月日 書名
20040929 証言 原爆納骨安置所と佐伯敏子さん
20070126 証言原爆で消えた町から
20100505 証言町と人の記憶
20110805 消えた町 記憶をたどり 絵と証言 森冨茂雄
201407027 2014年度 第21回ヒロシマ・フィールドワーク(チラシ)
20150503 証言記憶の中に生きる町 中島本町・材木町・天神町・猿楽町
20160503 証言 生きている町 原爆で灼かれた材木町・中島本町
20160917 証言 江波に生きる 大岡貴美枝さんの語る暮らし・戦争・原爆
2017085 証言 町と暮らしの記憶 中島本町・材木町・水主町
20190805 証言そこに子どもたちの遊んだ町があった 中島本町・材木町・中島新町・大手町
20200805 Disappeared towns, tracing memories : drawings and testimonies by Shigeo Moritomi

 

 

爆央と爆心 1945年8月6日ヒロシマで何が起きたのか

『爆央と爆心 1945年8月6日ヒロシマで何が起きたのか』(武田寛著・広島県労働者学習協議会編、学習の友社、20000806)

発刊に寄せて(赤松宏一)
はじめに
1 原爆の本質と実相の検証
1 原爆の原理
2 原爆被害その一 爆風と熱線
(1)爆風
(2)熱線と高熱火災
3 原爆被害その二放射能と原爆症
(1)放射能
(2)原爆症とその研究
4 原爆被害その三家屋の損壊と被害の総合的検討
(1)家屋の損壊状況
(2)被害の総合的検討
5 原爆死没者数を推計する
6 原爆後障害とは
第1部補論 本書の方法
2 原爆手記に学ぶ
1 広島市版『原爆体験記』
2 朝日新聞社版『原爆体験記』
3 『絶後の記録広島原子爆弾の手記』
4 『星は見ている』
5 『いしぶみ』
6 『広島第二県女二年西組』
7 『八月の少女たち』
8 『流燈』
9 『木の葉のように焼かれて』
あとがき

 

 

鎮魂之碑

鎮魂之碑

建立年月日:1975年8月
場所:広島市・比治山公園・陸軍墓地
(正面)
HIC124A
HIC124b
(正面)鎮魂の碑
友よ 安らかにねむれ
兄等 修羅の巷に逝きて三十年
祖国存亡の秋に 少年学徒の身をもって馳せ参し 人類史上例をみない被爆によってこの地にねむる

瀕死の身をいとわず友の安否を訪ねし兄等
混迷のまにまに痛恨の思いをのこして散華せし友よ
兄等ののこした痛哭の思いは生きのひた吾等の心に今なおうずく

ここ同期の友等相集い 兄等在りし日の至純を追慕し いまわの声を継承しとわの平和を誓う
安らかにねむれ 若き日の友よ

(裏面)爆死者名簿(原文左横書)
由来記
船舶特別幹部候補生は 第二次大戦の末期 風雲急を告げる戦局打開のため志願応募した学徒少年兵で 若潮部隊と称されていた。主力は海上挺身戦隊として小型舟艇に爆雷を搭載し 先輩は比島及び沖縄に出撃千有余名の者が散華していった船舶通信隊補充隊特別幹部候補生隊は小豆島での基礎教育後広島に転属 *と称した輸送船舶の通信用員として 千田町
国民学校を宿舎にして教育を受けていた
八月六日 朝の点呼中校庭で被爆 帰営中の三期生を含め 全員が重軽傷を負い特幹隊は壊滅の状態に陥ちた
各施設に収容されたものの 終戦の混乱で治療もままならず 旬日のうちに数十名の者が散華していった
昭和四十五年以来生存者有志相集いこれら友の惨死を風化させるにしのびず 相はかりて還らざる友の冥福を祈り あわせていまわの声を継承し とわの平和を誓って鎮魂の碑を建立するものである

昭和五十年八月吉日元船舶通信隊補充隊特別幹部候補生隊
若潮千通会有志一同建之

若潮千通会

広島県宗教連盟

広島県宗教連盟

略年表

年月日 事項 備考
19450806 被爆直後、爆心地に近い慈仙寺(現在の原爆供養塔付近)の境内は、臨時火葬場となり、そこには、氏名、年齢、性別などほとんどわからない痛ましい無数の死体が運ばれ火葬されました。
194601 広島市宇品神田三丁目養徳院住職 国居道憲氏、呉市西辰川町白蓮寺住職 吉川元晴氏らが原動力となって、広島市戦災死没者供養会が設立され、名誉会長に浅野公爵、会長に広島市長が就任
19460429 慈仙寺鼻に供養塔を建設することを決定
194605 「広島市戦災死没者供養塔」建立。卒塔婆を形どった高さ6mのもの(木材不足のため張りぼて)
供養塔完成後の約1週間、広島県仏教連合会、供養会、町会連盟、広島市、広島県は在広各新聞社の後援で戦災死没者遺骨収容大供養週間とし、各町内会は、遺骨収集作業日とし、自主的に区域内の遺骨を収容し、追善供養を執行。
194607 バラック建ての納骨堂と礼拝堂が市民の喜捨により建立。
19460806 供養塔前で各宗派合同の慰霊祭。以後、毎年開催
1950 広島市戦災死没者供養会を「広島戦災供養会」に改組。新供養会は、地元各界から選ばれた民間組織となる。以後、毎年の慰霊祭は、供養会主催により8月6日、朝6時15分から執行。
195507 50m北寄りの現在地に新供養塔を建設。大きさ:直径16m、高さ3.5m。表面に芝生を植える。
以上の出典:『原爆供養塔ができるまで – 広島市公式ホームページ 』(原爆供養塔ができるまで – 広島市公式ホームページ  https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/15507.html
19960806  『広島県宗教連盟「戦後五〇年」誌 平和と慰霊・追悼の歩み』刊行。