「03 ヒロシマNGO」カテゴリーアーカイブ

原爆被害者援護法案要綱(1956.8)

原爆被害者援護法案要綱 1956.8

原爆被害者援護法案要綱 (日本被団協案)
第一 方針
一、国費により、原爆被害者の医療と必要な生活の保障を行うこととする
原爆被害者とは、原爆障害者及び原爆死没者ならびにそれ等の者の同一世帯員(主として当該障害者叉は死没者の収入によって生計を維持し、叉はその者と生計を共にした者、若しくはしている者)をいう。
原爆被害者については、次のような特異性が認められるので、これが医療と必要なる生活の保障は、すべて国庫負担によることが妥当と考えられる。
(一)科学的にみて
1、原爆障害者とは放射性物質のアルファー、ベーター、ガンマー線による持続的な細胞内原子機能機能の根本的破壊、ならびに爆発時における熱傷と爆風による広範な被害である。
2、原爆死没とは右のような原因により、死んだ者と今後予想せられる死亡をいう。
(二)医学的にみて
1、原爆障害者については、その治療は、長期を要し、かつ困難である。又被害者は多数にわたり、かつ後障害及び遺伝的影響を残すとされるから、その研究、治療は、総合的で規模も大掛りであることを必要とする。
2、原爆死没者については、的確な治療及び対策が講ぜられぬまゝ死没したものである。
(三)経済的にみて
1、原爆障害者については、その症状が前記のように特異であり、治療に永い期間と多額の費用を必要とするので、個々の患者にとって自らの治療の負担に耐え得ない。
2、原爆障害及び原爆死没者の同一世帯員については、原爆による被害が広範長期にわたり且大量殺りくであった為に自他共に生計維持の方途に苦しんだのである。従ってその障害者若しくは死没者か当該世帯の生計の中心者に該当する場合、叉は将来生計の中心者として期待される場合においては、その者の同一世帯員の生活は国家の責任において保障されることを必要とする。
(四)政治的にみて
原爆被害者は国の責任におい遂行した戦争による犠牲であり、原爆という当時においては予想を絶する特殊兵器によるものであるから、無防備無準備のまゝに受け、また警備にも適切を欠ぐという、全く個人の責任範囲外の被害であるから、これが治療と生活については国の責任で行はれるべきである。
二、その他、今日、国の責任において原子力科学及びその実用化の推進を取り上げているのであるから、これに随伴するであらう放射能被害の予防、治療、その他にも貴重な貢献をすることと思はれる。
第二 要領
一、国費で治療を行う者の範囲は、昭和二十年八月広島市及び長崎市における原爆障害者(当時胎内にいた者を含む。)とする。
二、本法による治療を行う者の決定は、先ず、被爆者の登録を行い、次いでこれらの者の内から、具体的に治療を行う者の認定をするという二段の手続きをとること。
登録対象は現に原爆症患者である者及び、将来原爆症の発生する可能性のあるもの、すなわち、被爆当時叉はその直后に被爆地域に在ったものとし、登録及び認定は、都道府県知事とする。
登録は、本人叉は第三者の申請によることゝし、次に治療を行う者の認定に当っては、厚生大臣の定める基準により諮問機関の議を経て決定するものとする。
三、治療を行う期間は転帰までとする。
四、治療を行う機関は厚生大臣の指定する医療機関とすること。
また、必要に応じて一時救護所を設けることができるようにすること。
五、医療機関の治療方針及び治療報酬は健康保険の例により、それによることができない時は厚生大臣が定めることとすること。
六、障害者に対しては障害年金を支給するか、若しくは、治療または療養を要する者の中、生活に支障を来たすため、これを受けることの困難な者に対しては治療手当または療養手当を支給すること。
七、障害者を安んじて治療叉は療養させるため都道府県知事が必要と認めたときは同一世帯員に対して援護することができるようにすること。
八、原爆死没者に弔慰金を支給し、その遺族に遺族年金を支給すること。
九、原爆障害者の調査と原爆障害の治療の研究機関を設立する。
十、被爆者の健康管理を行うこと、
本人の意に反しない範囲で登録の対象者である被爆者の健康状態を調査し、健康状態に関して指導と予防措置を講ずることゝし、これが実施は都道府県をして当らしめ費用は国が全額負担する。
十一、次の様な義務規定を設けること。
1、治療を受ける者及び健康管理を受ける者について、症状に関して、又、住居の変更に関して、当該機関に対する届出義務を化する。
2、治療の委託を受けた医療機関について、治療の経過等に関して当該機関に対する報告義務を課する。
3、右の届出、報告の時期様式等は省令に委任する。
十二、治療状況の報告を行った医療機関に対して要した実費を支給すること

原爆瓦ー世界史をつくる十代たち

『原爆瓦-世界史をつくる十代たち』
(山口勇子著,出版元:平和文化、発売元:汐文社、1982/07/07)

タイトル 備考
12 瓦が再現してみせた原爆
実験-原爆を再現する 12
瓦が気体になった 12
ぼくたちの原爆 16
ヒロシマナガサキを「体験」する 17
熱量計算-三・〇×一〇の一二乗カロリー 19
核兵器廃絶の若い仲間 20
にのしま
25 「その日はいつか」の詩にあるように
ヒロシマの風景 27
そしてわたしのヒロシマ 29
ほんとうのところを見極めて欲しい
34 高枚生集会の高まり
原爆瓦までの道のり 34
歩み始めた高校生たち 35
高まり見せた高校生集会 37
「史樹ちゃんはわたしたちです」
46 平和ゼミナールで育つ高校生たち
無名戦士の碑 46
平和ゼミナールの授業 48
その日にこそ平和と民主主義を学ぶ 52
ヒロシマに生きる
56 ヒロシマの子どもたち
拠点 56
八木満喜男のこと
62 初めて瓦を掘りあてたとき
片手落ちの広島 62
「あった!」 63
頭と心と体で学ぶフィールドワーク 66
突然の新聞記事
71 瓦のように溶かされたくない
アピール・ヒロシマの川を考えよう 71
初めての対市交渉 71
みんなの手で一枚でも多く 75
瓦のように溶かされたくない
79 各地に旅立つ原爆瓦
輪の広がり 79
世界につながる瓦発堀 81
「この瓦でヒロシマの願いを広めてください!」 82
瓦を守れ
93 はがき作戦
荒木広島市長殿 93
再び瓦発掘ヘ 95
市の計画 97
急速に盛り上がる瓦保存運動
100 ボタンを見つけた
四種のボタンが語る戦争と原爆 100
「だからなくさなければ、わたしらがやらなくては……」 102
「原爆さえなかったら……」 104
自分の手でつかみとったもの
108 「昭和の歴史」研究グループ
特別講座-学習から自分の生き方を考える 108
ヒロシマのもう一面 110
青春のひとみを支えるもの 113
米軍機ファントム墜落 114
安保によって米兵は裁かれない! 115
女性である前に人間であれ
120 受ける平和からつくりだす平和へ
ヒロシマ-一九八一・八・六 120
ええことばかりいって 121
“新天地”長崎ヘ 122
第八回八・六高校生集会 123
受ける平和からつくりだす平和ヘ 124
白いチョゴリの被爆者 126
吸収したものの重さ 127
「ぼくの弟も食べ物がなくなって死にました」 128
ずっと続く道
131 長崎研修旅行で得たもの
平和ヘの初旅 131
この怖さをいっぱいに広げよう 133
ヒロシマナガサキの瓦で友情と平和を 135
平和ゼミの感覚だけで考えてはいけない 137
若者は若者らしい方法で
141 ノエルベーカーの手紙運動
ノエルベーカー卿との再会 141
ノエルベーカーの手紙 142
ノエルベーカー卿に瓦を渡した
156 原爆の証を消してはいけない
第三回対市交渉 156
こっちの力を大きくすることだ
163 げんばくがわらをほりました
すすむ発掘作業と交流 P63
現実と理想が一体化されない不安 164
げんばくがわらをほりました 166
一〇フィートフィルムカンパ 170
お供養して下さい
174 平和への願いが市を動かした
「ぼくはかわらをすててはいけないと思います」 174
平和への願いが市を動かした 176
最後の原爆瓦発掘
182 原爆瓦モニュメントの土台の重さ
かわらおばさん 182
あの平和公園はきれいすぎる 183
安田女子高校社会科学研究部の場合 185
出会いのすばらしさ 190
原爆瓦前史-故田辺勝さんのこと
196 アリス・ハーズ賞受賞 196
アリス・ハーズ賞 196
生にむかって先頭に立ってください 197
生命が未来をもつように 199
実践を通じて学ぶこと 201
高校生平和ゼミの意義深さ
206 原爆瓦のモニュメント建設へ
建設募金一番乗り 206
原爆の子の像 207
第二の原爆の子の像建設にむけて 209
平和のためのモニュメント 214
街頭行動ヘ 216
世界の歩みの中の原爆瓦発掘 218
220 各地の高校生平和ゼミ“出航”
被爆体験継承の役目を担って 220
神奈川でも 221
長崎でも 223
呉でも 223
埼玉でも
236 平和の記念碑を
相つぐ募金と手紙 236
小学生たちの奮闘 238
ヒロシマの心を世界に 244
第五回平和ゼミナール 5
別れと出発の季節 247
もどらぬ風 249
平和教育“戦士”の新しい門出 251
平和は待つものではない、つくりだすものだ
254 あとがき 1982年5月23日・東京行動の日に

第9次平和教育のとりくみ実態調査1990年度のまとめ

第9次平和教育のとりくみ実態調査1990年度のまとめ
(広島市教職員組合平和教育部会、1991年11月)

内容

年月日
199111 はじめに 向井康員(広島市教職員組合執行委員長)
199103 第9次平和教育のとりくみ実態調査アンケート用紙
平和教育各校のとりくみ状況
アンケートによせられたご意見・ご感想
日の丸・君が代に関わってのご意見
平和教育分科会基調提案
199104 『ヒロシマの子育て・教育 第10号』(全教広島教育研究所)
19910820 市教組平和教育部会だより
19910202 『それ行け1組 No.272』(南区・仁保小学校2年1組)
広島赤十字病院被爆建造物保存運動の報告
19910728 第3回原爆の子の像碑前祭
19910728 原爆の子の像碑前祭アピール
19910805 似島で原水爆禁止少年少女の集い(全広島教職員主催) 新聞記事
似島の遺跡保存から 米田進(原水爆禁止似島少年少女の集い)
1990年度平和教育のとりくみ実態調査のまとめ
1990年度平和教育視聴覚教材利用状況

広島教育研究所(資料年表)

広島教育研究所(資料年表) <敬称略>

年月日 事項 備考
1989
12 全教広島結成
http://ww5.enjoy.ne.jp/~zenkyo/
1990 広島教育研究所設立
1991
0306 <全日本教職員組合結成>
http://www.zenkyo.biz/
0907 設立1周年のつどい
0913 <民主教育研究所設立準備会>
0924 藤井敏彦より電話。27日、藤井研究室で全教の平和教育研究会を開催する。研究員は佐中・田村・宇吹。1年かけて平和教育の基礎資料集を作成したい。<宇吹メモ>
1003 藤井敏彦研究室。広島教育研究所「平和教育部会」第1回会合。藤井・江種・川島・沢野・忍岡・宇吹。研究テーマを「平和と人権」にする。19時から21時過ぎまで。<川島資料><宇吹メモ>
1127 第1回拡大研究評議会。
1204 広島教育研究所「平和教育部会」第2回会合。宇吹は欠席<川島資料><宇吹メモ>
1992
0113 広島教育研究所「平和教育部会」第3回会合。藤井・沢野・忍岡・田村。川島は欠席。宇吹・忍岡が報告。沢野=朝鮮人問題に取り組みたい。<川島資料><宇吹メモ>
0218 広島教育研究所「平和教育部会」。藤井・横山・忍岡・田村・江種・宇吹、出席。忍岡の報告「核実験と環境破壊」。<宇吹メモ>
0327 広島教育研究所「平和教育部会」。欠席。前日「世界のヒバクシャ」の数をまとめて郵送。<宇吹メモ>
0427 92年度研究員総会
0824 広島平和教育研究所平和教育部会。於広島教育研究所会議室。忍岡の「ビキニ」原稿の検討。忍岡・田村・高橋・藤井・宇吹。始まる前、楠と話す。6時半-9時50分。田村の話=平和学会で会った高知で原爆文学を教えている女性が宇吹のことを知っていた。<宇吹メモ>
0831 広島教育研究所「平和教育部会」。江種・忍岡・沢野・高橋・藤井・宇吹。忍岡の原稿「核実験と環境破壊」原稿完成。藤井の話=*はイタリアのユダヤ人と結婚している。<宇吹メモ>
1009 広島教育研究所平和教育部会。藤井・高橋・江種・沢野・忍岡・川島・宇吹。高橋=「平和教育への提言」案の説明。沢野=安田の平和教育の紹介。川島=意識調査が、広島の平和教育の出発点だった。再度、意識調査を実施し、その分析の中で、提言をまとめる。<宇吹メモ>
1110 「広島教育研究所・平和部会のまとめ」出席者:藤井・沢野・楠・高橋。(資料)
11 『環境破壊から地球を救うための平和教材 教育・教材シリーズ Vol.1(広島教育研究所平和教育部門)』(冊子)
1216 平和教育部会。江種・高橋・田村・藤井・川島・沢野重男・宇吹。「平和意識アンケート」案について検討。8時30分から20分ほど、被服廠保存について意見を聞く。江種=400人位が平和学習できる場が欲しい。<宇吹メモ>
1993
0107 平和教育部会。平和意識調査の質問票の検討。藤井・田村・川島・沢野・江種・高橋。<宇吹メモ>
0225 平和教育部会。藤井・江種・沢野・忍岡・高橋・田村・宇吹。今年度の活動の総括と来年度の計画についての意見。アンケート(案)の検討。<宇吹メモ>
0421 広島教育研究所研究員総会。於研究所。<宇吹メモ>
0608 広島教育研究所平和教育部会。連絡が無いので欠席。<宇吹メモ>
1206 平和教育部会。江種・高橋・川島・沢野・田村・宇吹。「平和に関する意識調査」の検討。<宇吹メモ>
1994
0107 広島教育研究所へアンケート結果に対する意見を郵送。<宇吹メモ>
0125 広島教育研究所平和部会。開始前、忍岡にエスペランチストについて聞く。藤井・江種・川島・高橋・沢野・忍岡。アンケート結果の分析。沢野の提案で小・中学校の例数を増やすことになる。森滝の死去が話題になる。<宇吹メモ>
0301 8時過ぎから広島平和教育研究所平和部会に参加。平和意識調査の分析。担当:原爆資料館、原発関係の3項目。3月末締切。<宇吹メモ>
0323 広島教育研究所平和意識調査の分析に取りかかるが意外と難しい。<宇吹メモ>
0422 「94年度広島教育研究所研究員総会」<資料>
0519 平和教育部会。欠席。<宇吹メモ>
0606 全教広島より電話。今晩、平和部会開催の由。欠席を伝える。<宇吹メモ>
0615 教育研究所平和教育部会。藤井、田村、高橋、沢野、江種。-10時20分。意識調査のまとめ。<宇吹メモ>
0629 広島教育研究所平和教育部会。田村・高橋・沢野・江種・宇吹。意識調査の最終まとめ。<宇吹メモ>
0722 広島教育研究所平和教育部会。平和意識調査分析の最終会合。藤井・高橋・沢野・江種・宇吹。6時半-8時半。<宇吹メモ>
0801 広島教育研究所平和教育部門『<被爆50周年・平和教育への提言>今、ヒロシマの子どもたちは・・・-広島県下小・中・高・大学生の平和意識調査』(冊子)
1005 広島教育研究所平和部会開始前の藤井の話=アジア大会の開会式に参加したが、演出が全くけしからん。特に、君が代。アジアへの配慮に欠ける。小倉豊文の娘は同級生。その関係で小倉の考えに接する機会があった。原爆投下を責めることは出来ないという考えは一貫していた。私の考えには、良い感情を持っていなかったようだ。<宇吹メモ>
1005 「広島教育研究所平和部会まとめ(10月5日)」。<資料(B4 1枚)>
1005 被爆50年に向けて何をするか。藤井・江種・高橋・沢野・宇吹。「語り部」は差別的表現である、との強い指摘があったのでこれからは使わないことにする。この日の会の結論として、全教平和部会の被爆50周年の活動としては、広島の近現代史をまとめることになった。<宇吹メモ>。
1005 *の話=ABCCから学校に迎えがあった時、柱にすがりついて離れない女子生徒がいた。占領期のことでもあり、宥めて行かせた。ABCCの職員が、病理解剖の申し入れをするため、遺族の所にきて、胸のポケットから金をちらつかせながら説得していた。<宇吹メモ>
1021 広島教育研究所平和部会。藤井・江種・高橋・沢野・田村・宇吹。-9時。広島県の近現代史の構想。大久野島・宇品・加計など、歴教協の優れた成果のあることは確認出来たが、うまくまとまらず。藤井の提言で、「原爆投下をめぐって」をテーマに考えることとなる。<宇吹メモ>
1021 沢野に、図説戦後50年記念史のために「原爆瓦」関係の写真提供を依頼。来週までに調べてくれるとのこと。<宇吹メモ>
1021 田村の話=パグウォッシュの会議は、ほとんどが東京で準備されるので、広島準備委員会は、あまり仕事は無い様子。<宇吹メモ>
1022 <川島メモ>前日の欠席事情。当日提出予定の教材「宇品」案
1125 広島教育研究所平和部会「被爆50年・アジア太平洋戦争終結50年を迎えるにあたって 平和教育部会として何に取り組むか」(資料B5 1枚)。22日欠席の連絡。<宇吹メモ>
1214 平和教育部会=藤井・田村・江種・高橋・忍岡・川島・沢野・宇吹。
 1214 教育研究所平和教育部会。「被爆50年・アジア太平洋戦争終結50年をどう迎えるか -平和教育部会として―」(資料B4 1枚)。
 1214 被爆50周年の取り組みについて議論。宇吹が、報道・出版・行事など沢山計画されているので、その動きを平和教育の立場から評価し、紹介してはどうか、編集はできないが、資料は提供すると提案。<宇吹メモ>川島が宇吹提案を積極的に支持。宇吹提案に沿って、月2回の通信を発行することになる。しかし、実行部隊の裏付けは無し。スミソニアン見学ツアーについても関心があったが、通信発行の中で検討することになる。<宇吹メモ>
1021 全教平和教育部会。於二葉中学校。-8時半。間違って二葉公民館で20分ほど待つ。メンバー全員が出席。「82反核」と自治研での講演のコピーを皆に贈呈。タイトルは「被爆50年」、月2回刊、4頁とすることが決まる。私が毎号、4頁目を担当することになる。<宇吹メモ>
 1129  広島教育研究所第13回市民教育講座「子どもたちの学力を豊かに育てるために―教課審「中間まとめ」をどう読むか―」。講師:大槻和夫。会場:二葉公民館。(資料 ビラ1枚 B5 1枚)
1995
0105 全教「被爆50年」用の資料をまとめる。<宇吹メモ>
0106 全教平和教育部会。「被爆50年」1月上旬号編集会議。於二葉中学校。藤井・川島・高橋・江種・忍岡・宇吹など計10人。良いスタート。<宇吹メモ>
0116 『ウォッチング被爆50』創刊号
0119 全教平和教育部会。於二葉中学校。-8時。「ウォッチング!被爆50」創刊号完成。1月下旬号の編集会議。高橋・川島・沢野・田村・若い女性2人・宇吹。川島に中国新聞年表の解説原稿を渡し、意見を聞かせて貰うよう頼む。<宇吹メモ>
0201 『ウォッチング被爆50』第2号
0203 全教平和教育部会。於二葉中学校。1月後期号を入手。2月前期号の編集会議。教研集会を特集する。若い女4・男1人、川島・高橋・沢野・田村・宇吹。2月後期から2回、スミソニアン博物館問題を取り上げることになる。川島より中国年表解説への感想を貰う。<宇吹メモ>
0216 『ウォッチング被爆50』第3号
0220 全教平和教育部会。第4号の編集。6-8時。於二葉中学校。川島・高橋・宇吹他4人。<宇吹メモ>
0307 第23回全国平和教育シンポジウム第2回実行委員会。於エコード広島。「大会テーマ:ヒロシマ・ナガサキ50年、そしてアジアとの連帯・共生」に高橋信雄が異議を唱えるが通らず。私は、平和・戦争博物館の分科会を設けるよう提案。企画委員会へ一任となる。<宇吹メモ>
0323 第23回平和教育シンポジウム第3回実行委員会。於エコード広島4F。朝、空辰男に欠席の旨連絡。<宇吹メモ>
0327 「ウォッチング被爆50周年」の作成。川島に速達で届ける。<宇吹メモ>
0401 『ウォッチング被爆50』第4号
0414 全国平和教育シンポジウム第4回実行委員会。於エコード広島4F会議室。第4分科会「平和とマスコミ・教科書・博物館問題を考える」の運営委員を引き受ける。高橋と相談の結果、私がマスコミ関係者にリポートを依頼することになる。20分から40分。<宇吹メモ>
0422 「95年度広島教育研究所研究員総会」(資料)
0426 *(ウォッチング95の編集会議メンバー)より電話。生徒から「原爆切手」の現物が見たいとの希望があった。どこかで入手できないか。<宇吹メモ>
0510 第23回平和教育シンポジウム第5回広島実行委員会。於エコード広島4F。8日に欠席の連絡。<宇吹メモ>
0512 全教平和教育部会、ウォッチング被爆50年の編集会議。-8時。久しぶりの会合。6月1日号の編集について相談。原爆投下をめぐる資料の整理。<宇吹メモ>
0525 全教平和部会。於二葉中学校。原爆投下関係資料を届けて、会合は欠席。高橋に明日の平和教育シンポの会合も欠席することを伝える。<宇吹メモ>
0526 全国平和教育シンポジウム第6回実行委員会。於エコード広島4F。欠席。<宇吹メモ>
0615 全教平和部会。於二葉中。高橋・沢野・女性3人・宇吹。-8時。1号分を平和ゼミの報告にあてることになる。高橋の話=最近の平和教育シンポジウムの参加者は300程度に減った。分科会が二日目まで持つかどうか心配。シンポでの司会は自分がする。<宇吹メモ>
0616 第23回全国平和教育シンポジウム実行委員会総会。於エコード広島4F。欠席。<宇吹メモ>
0624 第23回全国平和教育シンポジウム。於幟町中学校体育館。-12時全体会記念講演「ある戦中派の平和」(山田浩)。参加者400人。自分史的なものに期待をしたが、「戦後補償」についての話。加害というテーマに引きずられ、とってつけたような内容。<宇吹メモ>
全国平和教育シンポ分散会。第4「平和とマスコミ・教科書・博物館問題を考える」。参加者21人。-5時。宇吹報告「博物館と平和教育」、武河隆司報告「紙面にみる新聞社の戦争責任と自己批判」。宇吹は持ち時間30分のところを1時間半しゃべる。<宇吹メモ>
岡本三夫や*(朝日)・読売記者が参加していた。高橋の話では、この分科会は、これまで小人数で成立しにくかったが、この程度の参加で一応成功とのこと。25日の分科会は休ませて貰うように交渉。<宇吹メモ>
分科会終了後、*(朝日)と会う。一緒に幟町中学校から郵便貯金会館に歩いて行く。長崎の軍縮シンポの取材に行った由。東京で笠原十九司・吉見・日本被団協の取材した話を聞く。私から、*の程度の悪さ、地方自治体の国際貢献・交流の問題点について話す。<宇吹メモ>
全国平和教育シンポ-市民に贈る夕べ「きたがわてつ」平和コンサート。於広島郵便貯金ホール。-9時。開演前に、北川に付き添っている新江と会う。プログラムによれば「サウンドディレクター」として参画。元気そうで安心。<宇吹メモ>
市民に贈る夕べ。「ヒロシマ夢現太鼓」・安田女子高校音楽部=久しぶりの文化行事参加。ストレス解消にこうした行事への参加が必要。トーク=海老根勲・空辰男・児玉(女学院)・萩本(安田高校)=女子高校生の話と空の話がかみ合わない。北川の歌とトーク。<宇吹メモ>
全国平和教育シンポジウムの感想=運営の中心を担っているのは、定年後の高齢者。初期の熱気は感じらず。このままでは、先細りは確実。枠組みそのものの精度疲労もある。<宇吹メモ>
06 『戦後50年・被爆50年 平和を考えよう -仲間の実践に学び、ヒロシマの平和教育の前進を-』(全広島教職員組合)(冊子)
0703 全教平和部会。於二葉中学校。川島・女性2人・宇吹。-8時過ぎ。次回が決まらず。川島は、今年度で定年退職の由。佐藤正のことを聞く。一緒に勤めたことがある由。夏休みに合宿をしようとの話が出る。<宇吹メモ>
1024 23回全国平和教育シンポジウム第7回実行委員会。エコード広島。欠席。<宇吹メモ>
1127 全教平和部会。於教育研究所。藤井・田村・高橋・江種・忍岡・宇吹。「教育についての父母アンケート」検討会。-9時。私が、長田新の悪口を言ったら、藤井から反論が返ってきた。藤井=森戸は常に東を向いていた。<宇吹メモ>
1996
0420 広島教育研究所研究員総会<資料>。於二葉公民館。欠席。<宇吹メモ>
1997
0313 全教平和部会。-8時半。高橋・江種・沢野・松井・宇吹。来年度の方針案の作成。高橋=戦争展は、予算的にしんどい。昨年は200万円掛かった。沢野=「子ども平和の像」建立の動きについて報告。楠の話=レストハウス保存について市議会に新たな動き。公明党が質問、新生クラブが関心を示す。議長裁定が出るかも?<宇吹メモ>
0419 「97年度広島教育研究所研究員総会」(資料)
0929 広島教育研究所平和教育部会。6時-8時40分。藤井・高橋・川島・江種・忍岡・沢野・?・宇吹。今後の部会活動について。広島市の指導案や原爆展のシナリオを検討することになる。<宇吹メモ>
江種の話=被団協への修学旅行生向けの講話申し込みは、最大時の5分の1に減っている。。<宇吹メモ>
*の話=4月から*中学校に勤務。給料は20万円程度。年金は25万円貰っている。経済的には現役時代より恵まれている。<宇吹メモ>
1118 全教平和部会。高橋・江種・忍岡・沢野・?・宇吹。広島市の小・中学校の平和教育資料集をめぐって。<宇吹メモ>
高橋の話=歴教協は、宇品・大久野島・強制連行などの問題を、典型教材・地域教材として取り上げてきた。広島市の博物館は、中島地域の建物を実物大で復元するつもり。広島の右翼で理論的なのに*がいる。<宇吹メモ>
沢野の話=韓国の独立紀念館には、特別展示のような形で、従軍慰安婦が展示してあった。市立大学であった大江健三郎の講演を年休を取って聞きに行った。大変良かった。<宇吹メモ>
*の話=現在の加害教育は、解放教育の路線上で行われている。<宇吹メモ>
1998
0114 全教平和部会。高橋・江種・沢野・松井・宇吹。-8時半。平和教育に関わって来た先輩に原稿を書いてもらうことになる。<宇吹メモ>
0309 高橋信雄(全教)より電話。15日(日曜日)に平和教育のインタビューを実施するとのこと。欠席の旨を伝える。<宇吹メモ>
0724 広島教育研究所市民講座(資料 案内ビラ B5 1枚)
1006 「98年度広島教育研究所研究評議会」(資料)
1999
0201 全教広島・広島教育研究所教育課程検討委員会「全教広島 号外」
0417 「99年度広島教育研究所研究員総会」(資料)。二葉中学校図書室。欠席。<宇吹メモ>
2000
0422 「2000年度広島教育研究所研究員総会」(資料)。於・生涯学習センター。-4時半。沢野=今年の旅行のテーマは「環境」で、四万十川へ行く由。<宇吹メモ>
0510 教育研究所平和部会。私と江種しか集まらず、帰る。大江健三郎の資料。<宇吹メモ>
0713 広島教育研究所「人権・平和教育合同部会」。-8時半。楠・高橋・舟橋・江種・松井・人権関係2人・宇吹。<宇吹メモ>
0823 全教広島平和部会。江種・舟橋・沢野・松井・高橋。沢野の話=ゾンタクラブで藤田知事と同席したが、平和教育に関心を持っていた。これまでの祈り中心から創造に変化する必要性を訴えていた。海外からの研修生と高校生の交流など。<宇吹メモ>
0913 全教広島平和部会。同和教育部会と合同。-8時半。<宇吹メモ>
1004 全教広島平和部会。欠席。<宇吹メモ>
 2001
 0420  「2001年度広島教育研究所研究員総会」(資料)。
 2002
 0417  「2002年度広島教育研究所研究員総会」(資料)。
2003
2004
 2005
 0428  「2005年度広島教育研究所研究員総会」(資料)。
 2006
 0428  「2006年度広島教育研究所研究員総会」(資料)。
2007
 0420  「2007年度広島教育研究所研究員総会」(資料)。
2008
 2009
 0507  「2009年度広島教育研究所研究員総会」(資料)。
2010
2011
2012
2013
0521   「2013年度広島教育研究所研究員総会」(資料)。
 2014
 0523   「2014年度広島教育研究所研究員総会」(資料)。
2015
 10  『第17次平和教育へのとりくみ実態調査報告』(全教広島・広島市教職員組合 広島教育研究所<平和教育部会>)(冊子)
 2016
 0520    「2016年度広島教育研究所研究員総会」(資料)。
2017
2018
 2019
 0517    「2019年度広島教育研究所研究員総会」(資料)。

 

 

 

広島自治体問題研究所のあゆみ

広島自治体問題研究所のあゆみ

関係略年表

 年月日  事項
 196303  自治労大阪衛都連の援助で設立
 196306  月刊機関誌『住民と自治』発刊
 196408  自治体学校(第1回)
19770721 ~0724 第19回全国自治体学校。広島から7名参加
19771201 広島自治体問題研究会結成。
 19780512  『自治体問題研究所所報』第24号
 自治体問題研究所建設3カ年構想
 19790501  『自治体問題研究所所報』 第25号
 自治体問題研究所1979年度総会に向けて
 自治体問題研究所規約
 1979年度自治体問題研究所役員について
19790815 『自治体問題研究所広島研究会会報』No.1~6(19800125)
19791101  自治体問題研究所広島研究会発会式
 19800220  『ひろしまの地域とくらし』No.7~
19840519  第6回総会 広島自治体問題研究所と改称。
19841110  『ひろしまの自治をひらく 広島自治体問題研究所5周年記念誌』刊。
 19891202   『ひろしまの自治をひらく 広島自治体問題研究所10年のあゆみ』刊。
 1999  『広島自治体問題研究所20年の歩み 21世紀の地方自治をひらく』刊。

『ヒロシマの子育て・教育』

『ヒロシマの子育て・教育』 広島教育研究所機関誌

発行
年月
備考
057 199507 特集:いま、ヒロシマから平和を問う
藤井敏彦「連載『戦後50年とわたし』Ⅳ」
第24回平和教育シンポジュームから
070 199610
073 199701
100 199906 特集:ヒロシマと新ガイドライン
109 200004 三浦精子「特別寄稿 「おこりじぞう」と山口勇子さん」
205 200902 特集:平和教育部会から提言
松井久治
江種祐司
206 200903 特集:平和教育部会から提言
高橋信雄
澤野重男
<以下未入力>

広島・長崎原爆被爆者大会(19620522)

広島・長崎原爆被爆者大会
1962年5月22日
広島市公会堂で2,500人の被爆者の参加のもとに開催。厚生省公衆衛生局全画課長の講演・両市被爆者代表の意見発表ののち,次のような宣言および決議を採択。大会の席上、全日本被爆者協議会を結成。

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案内ビラ

宣言
われわれ原爆被害者は,一生拭い去ることのできない放射能に対する不断の脅威と不安を内包し,日常生活並びに社会活動に多くの障害と制約を受け,物心共に苦難の十七年を生きてきた。その間放射能障害による症状の悲惨な現実と,被爆者の生活の実態が認識され,被爆者の切実な声が通して,最近に至り原爆医療法が制定され,逐次医療の充実をみつつあることはまことに慶びに堪えない。ここに関係各位の並々ならぬ御熱意と御努力に対し深甚なる感謝の意を表するものである。
本日被爆者大会の開催に当り,われわれは核爆発の実験停止と,真の世界平和確立のための,広島・長崎の悲願達成に,根気強く努力をつづけ,全国二十方に上る被爆者相携えて,あらゆる困難と苦痛を克服して力強く生き抜くことを誓い,更にいわれなき無この犠牲者に対する国家の責任と保障において,万全の援護対策の速かなる実現を切に要望して已まない。
右宣言する。

決議
戦後既に十七カ年の歳月を閲みし,全国二十万に上る原爆被爆者の多くは,経済的基盤を失い,或いは放射能障害に悩みかつ脅えつつ,日常生活並びに社会活動に幾多の制約を蒙り,苦難の日々に堪えて今日に至った。
医療に関しては,さきに特別立法により補償の途が開かれ,稍々安らかなるものを得たとはいえ,更に政府,国会その他関係機関におかれては,被爆者の生活の実態に鑑み,原爆犠牲者国家保障性の見地に立って更に援護その他強力なる施策を打出すべきである。よって次の事項について速かに適切なる措置を講するとともに全面的な援助を要請する。
一、特別被爆者の範囲の拡大をすみやかに実現することを期する。
二、原爆被爆者援護対策の確立を期する。
三、原爆被爆者ホームの建設を要望する。
四、原水爆禁止と世界恒久平和実現への正しい国民運動を力強く推進する。
五、全日本被爆者協議会の結成を促進する。
右決議する。

大会次第

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