ピカ資料研究所(ピカ研)の紹介ビラ
最近の仕事、これからの仕事
ピカ資料研究所(ピカ研)の紹介ビラ
最近の仕事、これからの仕事
ピカ資料研究所表札
ピカ研の指摘により作成した正誤表(20200704現在)
作成:宇吹 暁
年月日 | 書名 | 頁 | 誤 | 正 |
19710806 | 広島原爆戦災誌 第1巻 | |||
19710906 | 広島原爆戦災誌 第2巻 | |||
19711006 | 広島原爆戦災誌 第3巻 | |||
216 | 広島中央電話局(1.0km) | 広島中央電話局(500m) | ||
19711106 | 広島原爆戦災誌 第4巻 | |||
888上 | 田原伯 | 幻吉 | ||
19711206 | 広島原爆戦災誌 第5巻 | |||
19720331 | 広島県史 原爆資料編 | |||
19840329 | 広島県史 年表 | |||
19880325 | 広島県戦災史 | 116 | 天主閣 | 天守閣 |
19800715 | 原爆被災学術資料センター蔵 原水爆関係資料目録(Ⅰ)1974年4月~1978年12月 | |||
「お国がつくる見本の本 学者用 税立図書館」 | ||||
19850301 | 原爆被災学術資料センター 原爆関係蔵書目録(Ⅱ)1979年1月~1983年12月 | |||
多数の指摘 | ||||
19900731 | 原爆被災学術資料センター 原爆関係蔵書目録(Ⅲ)1984年1月~1988年12月 | |||
多数の指摘 | ||||
1985 | IMAGES FOR SURVIVAL <Exhibition of American and Japanese Peace Posters> | |||
19890401 | 図説広島市史 | 172 | 「広島平和記念都市建設法」は、広島市民の平和への決意の結実であるとともに国内外のノーモア・ヒロシマズの声の象徴である。 この法に基づく広島の復興と市民のたゆみない平和への努力を基盤として、今日の広島市は国際平和文化都市を目指して進んでいる。 |
|
なぜか | ||||
172 | ピカドン(昭和25年8月刊) | (昭和25年8月6日刊) | ||
172 | 原爆詩集(昭和26年9月刊) | 原爆詩集(昭和26年9月20日刊) | ||
173 | 『アサヒグラフ』 原爆特集号 | 『アサヒグラフ』 原爆被害の初公開 | ||
174 | (写真15)原爆被災全体像調査のための市民集会 (所蔵者・提供者等)中国新聞社 |
(所蔵者・提供者等)金井・幻吉 | ||
174 | (写真17)平和公園 | (写真17)平和大通り | ||
226 | グアム島<「原爆投下機はグアム島発進!? 図説広島市史に誤記」『中国新聞19920331』 | |||
255 | 峠三吉「一九六五年のヒロシマ」(昭和二十一年八月二日) | 峠一夫 21.12.1 | ||
1992 | 原爆文献にみる戦後史 平成4年度広島市公文書館常設展示 | |||
1992 | 都築・弓野資料にみる占領下の原爆災害調査 平成4年度広島市公文書館常設展示Ⅱ | |||
多数の指摘 | ||||
19960331 | ヒロシマの被爆建造物は語る | |||
098 | 『ニューヨーカー』 | 使用了解を | ||
308 | 李将軍 | |||
365 | 原爆被災資料総目録1.2.3 | 原爆被災資料総目録1.2.3.4 | ||
383 | ピカ研究所提供 | ピカ資料研究所 | ||
386 | 年表広島 | 年表ヒロシマ | ||
19960331 | 被爆50周年 図説戦後広島市史 街と暮らしの50年<本なし、ピカ研メモのみ> | |||
19990726 | 原爆手記掲載図書・雑誌総目録 1945-1995 | |||
Ⅶ | 田原伯(ピカ研主宰) | 田原幻吉(ピカ研所長) | ||
Ⅹ | 1収録基準(5)改版? | (内容変更)=改訂 | ||
Ⅹ | 2収録期間(1)1945年8月~1995年末 | |||
Ⅹ | 2収録期間(2)確認できる最も古い手記=1946年2月 | 逆あがり、1945.8.31大田洋子 | ||
Ⅹ | 3記載事項(2)多重者 | 多重者=記入法 | ||
Ⅹ | 3記載事項(5)所蔵 原医研・国会図 | 所蔵 原医研・国会図・以外 | ||
003 | [0011] | |||
013 | [0106]<[]内は一連番号>原爆詩集 所蔵:国会図 | |||
014 | お父さんを生かしたい―平和を叫ぶ子らの訴え | 残念もう少し?四集5冊、三集5冊、10冊 | ||
031 | [0284]<発行年月日日=19580401> | <発行年月日日=195606> | ||
201 | [2015]原爆を吊ってあった落下傘 | |||
289 | <19880331上原敏子> | ? |
「ピカより〇〇〇〇〇日」の会
設立日:
資料:配布ビラ
年月日 | ピカより何日 |
19680606 | 8341 |
8時15分=8341日=201万1040分=7億2066万2400秒 | |
19680706 | 8371 |
19680806 | 8402 |
19680906 | 8433 |
19681006 | 8463 |
19681106 | 8493 |
19681206 | 8524 |
19690106 | 8555 |
19690206 | 8586 |
19690306 | 8614 |
1240万4160分=7億4424万9600秒 | |
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|
「読売新聞(広島市内版)」(19740101)掲載広告 | |
田原幻吉(長崎市万才町3-33) |
入会のしおり-非核の政府を求める広島の会(結成総会19870613)
呼びかけ人
相原和光 | 広島YMCA名誉総主事 |
市岡正憲 | 元中学校長 |
岩佐勝子 | キリスト教婦人矯風会 |
宇根内良子 | 県母親連絡会 |
太田睦雄 | 広島市教組委員長 |
大槻和夫 | 広大教授 |
大森正信 | 広大教授 |
片柳寛 | 広島女学院大学長 |
倉光誠一 | カトリック正義と平和広島協議会 |
迫千代子 | 婦人国際平和自由連盟 |
佐々木猛也 | 弁護士 |
佐藤天俊 | 三滝寺住職 |
佐藤光雄 | 広島市職労委員長 |
原田美代子 | 元小学校長 |
松重美人 | 写真家 |
山手叡 | 日本共産党広島県委員長 |
三浦精子 | 児童文学者 |
宗藤尚三 | 日本基督教団広島府中教会 |
(五十音順) |
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●非核の五項目 |
①全人類共通の緊急課題として核戦争をふせぎ、核兵器をなくす |
②国是とされる非核三原則の厳格な実施をもとめる |
③日本を核戦争にみちびくすべての措置に反対する |
④国家補償による被爆者援護法を制定する |
⑤原水爆禁止世界大会のこれまでの合意にもとづいて国際連帯をつよめる |
ヒロシマはどう伝えうるか 原爆・平和報道の過去・現在・未来
日本ジャーナリスト会議広島支部(JCJ広島)主催「ジャーナリストのためのヒロシマ基礎講座」(2008年7月12日(土) 広島市まちづくり市民交流プラザ)
Ⅰ ヒロシマ教育の現場から | |
1987.7.11 | 広島平和文化センター主催留学生平和セミナー(第1回) |
「被爆の社会的影響について」<1987.10.2 国連軍縮フェローシップへの講演>私もかかわる。90年頃からいつも平和文化センター理事長と私が攻撃対象。 | |
1990年度~ | 広島大学平和科目「戦争と平和に関する総合的考察」 |
1991年度受講生(日本人・女) 資料)1992年度受講生(中国人) | |
199011 | アメリカの大学での講演=石原慎太郎の南京虐殺否定発言、フセインとヒロヒトの同一視 |
20030801 | 14万羽の折り鶴焼失>関西学院大学学生との合同授業 2004年~。 *県外学生のヒロシマに関する知識の欠如=県外での平和教育の衰退 |
2005年~ | 広島女学院大学前期科目「ヒロシマ」。 *女学院学生の被爆3世の自覚の欠如=家庭の継承機能の衰 |
他の教育現場の状況 | |
ピース・ボランティア(1999年~)、 ピースクラブ、ピースフォーラム 「広島・長崎講座」(2002年~)=平和教育の対象が高校生から大学生へ。 2007年 明治大学軍縮平和研究所など主催「被爆者の声をうけつぐ映画祭」 広島大学の平和教育=広島を中心に据えなかった。2009年度から必須科目で原爆資料館・大和ミュージアム・旧海軍兵学校教育参考館(江田島)・大久野島毒ガス資料館・ホロコースト記念館。 笠井綾(表現アーツセラピスト)「日曜エッセー 被爆継承 言葉を超え六感で」(中国新聞 2008年3月16日) 退 |
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Ⅱ 原爆医療・医学分野での進展 | |
原爆傷害調査委員会(ABCC)->1975年4月1日 放射線影響研究所 | |
2008年6月、被爆者の死因を追跡する寿命調査(LSS)などを少なくとも今後25年継続するとの計画 | |
*広島県に居住する被爆者数(広島大学広報委員会『学内通信』No.242) | |
昭和55(1980)年 17万9000人->昭和80(2005年)年 8万2000人(推定) | |
*IPPNW=核戦争防止国際医師会議。1980年に発足。1985年にノーベル平和賞を受賞 | |
*湯崎(84.6.11)、内田(91.3.5)、志水(91.7.26)、秦(92.4.17)死亡。 | |
<19910726宇吹メモ>ヒロシマの枠組みは存在するものの、その良質の精神(たとえば志水清や藤居平一に体現されていた)は、次第に失われている。現在の「被爆体験の継承」というスタイルで本当の継承ができるのか。必要なのは、「継承」というより「構築」ではないか。・・・ | |
*原爆訴訟との関連 | |
「被爆者運動」の担い手が、遺族から動員学徒に移行 | |
戦前の軍国主義と戦後の初々しい民主主義の体験者 伊東壮=旧制県立広島一中3年の時に被爆。山梨大学学長(1992-98年)のほか、日本原水爆被害者団体協議会代表委員(1981-2000年)などを歴任した。 平山郁夫=旧制広島修道中学(3年在学中、勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で被災。この被爆経験が後の「文化財赤十字」活動などの原点となる。『広島生変図』(1979)(広島県立美術館蔵) |
|
原水爆禁止運動への偏見 | |
弓削達(「歴史的現在をどう生きるか」岩波ブックレットNO.276、1992年11月) 「厭戦的な平和運動」・「被害者意識的な厭戦平和主義」 |
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歴史化の進展事例 | |
原爆資料館への学芸員の配置 広島市 1995年~、長崎市 2009年予定 1996年 原爆ドームの世界遺産化 広島平和記念資料館 重要文化財、広島平和記念公園 国名勝 2007年2月 長崎の平和公園 登録記念物 2008年5月? 2008年3月29日 NHKテレビ『探検ロマン世界遺産SP』 「記憶の遺産」=人類が忘れてはならない記憶の場所 2008年6月 島根県雲南市三刀屋町の市永井隆記念館敷地内に如己堂 |
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Ⅲ 戦艦大和ブームとヒロシマ | |
Ⅳ 最近の原爆報道 | |
空白の10年=県被団協の結成、12年=医療法、1970年代後半=国政課題としての被爆者問題 空白の3年=48 08 ? 夏、丸木位里・赤松俊子、「原爆の図」の製作に着手。 丸木俊『女絵かきの誕生-原爆を描いた愛の自叙伝』(朝日新聞社、1977年) ヒロシマの誇り原爆ドーム、久間防衛大臣の発言、岡本太郎『明日の神話』、一本の鉛筆 2011年度から完全実施される小学校社会科の新学生指導要領の解説書 福田首相のオリンピック開会式参加と長崎平和式典参列。 資料4)最近の原爆報道より 朝日新聞連載 「聞きたかったこと 被爆から63年」2008年4月2日~ 2008年5月31日 第8回東京空襲犠牲者遺族会総会。2000年に結成。2006年に訴訟を提起。 2008年6月22日 「殉国之塔」(旧呉海軍工廠への空襲で死亡した女子挺身隊らを祀る)の移設と慰霊祭 2008年7月9日 広島市原爆供養塔の納骨名簿(823体分)の公開 |
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Ⅴ 未来へ | |
*あふれる原爆情報のガイド役=原爆情報リテラシー 1988年9 月2日 中国地区デ-タベース推進協議会・標準化部会。中国電力本社。 *被爆体験継承のためのFD(Faculty Development) 浅井基文<広島に聞く・広島を聞く>広島平和研究所ニューズレター 2006年3月号~ 舟橋喜恵、平岡敬、坪井直、李実根、鎌田七男、中沢啓治、金子一士(森滝健一郎、浅井 |
|
1987.7.11広島平和文化センター主催留学生平和セミナー(第1回)
「被爆の社会的影響について」<1987.10.2 国連軍縮フェローシップへの講演>
私もかかわる。90年頃からいつも平和文化センター理事長と私が攻撃対象。
1990年度~「戦争と平和に関する総合的考察」
1991年度受講生(日本人・女) 資料)1992年度受講生(中国人)
1990年年11月、アメリカの大学での講演=石原慎太郎の南京虐殺否定発言、フセインとヒロヒトの同一視
<2003年8月1日14万羽の折り鶴焼失>関西学院大学学生との合同授業 2004年~。
*県外学生のヒロシマに関する知識の欠如=県外での平和教育の衰退
広島女学院大学前期科目「ヒロシマ」 2005年~。
*女学院学生の被爆3世の自覚の欠如=家庭の継承機能の衰退
資料1=実践例
他の教育現場の状況
ピース・ボランティア(1999年~)、 ピースクラブ、ピースフォーラム
「広島・長崎講座」(2002年~)=平和教育の対象が高校生から大学生へ。
2007年 明治大学軍縮平和研究所など主催「被爆者の声をうけつぐ映画祭」
広島大学の平和教育=広島を中心に据えなかった。2009年度から必須科目で原爆資料館・大和ミュージアム・旧海軍兵学校教育参考館(江田島)・大久野島毒ガス資料館・ホロコースト記念館。
笠井綾(表現アーツセラピスト)「日曜エッセー 被爆継承 言葉を超え六感で」(中国新聞 2008年3月16日)
Ⅱ 歴史化するヒロシマ
原爆医療・医学分野での進展
原爆傷害調査委員会(ABCC)->1975年4月1日 放射線影響研究所
2008年6月、被爆者の死因を追跡する寿命調査(LSS)などを少なくとも今後25年継続するとの計画
*広島県に居住する被爆者数(広島大学広報委員会『学内通信』No.242)
昭和55(1980)年 17万9000人->昭和80(2005年)年 8万2000人(推定)
*IPPNW=核戦争防止国際医師会議。1980年に発足。1985年にノーベル平和賞を受賞
*湯崎(84.6.11)、内田(91.3.5)、志水(91.7.26)、秦野(92.4.17)死亡。
91.7.26・・・ヒロシマの枠組みは存在するものの、その良質の精神(たとえば志水清や藤居平一に体現されていた)は、次第に失われている。現在の「被爆体験の継承」というスタイルで本当の継承ができるのか。必要なのは、「継承」というより「構築」ではないか。・・・
*原爆訴訟との関連
「被爆者運動」の担い手が、遺族から動員学徒に移行
戦前の軍国主義と戦後の初々しい民主主義の体験者
伊東壮=旧制県立広島一中3年の時に被爆。山梨大学学長(1992-98年)のほか、日本原水爆被害者団体協議会代表委員(1981-2000年)などを歴任した。
平山郁夫=旧制広島修道中学(3年在学中、勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で被災。この被爆経験が後の「文化財赤十字」活動などの原点となる。『広島生変図』(1979)(広島県立美術館蔵)
原水爆禁止運動への偏見
古くさいというムード=冷戦終結後顕著。飢餓・貧困・環境問題・民族問題・宗教紛争
弓削達(「歴史的現在をどう生きるか」岩波ブックレットNO.276、1992年11月)
「厭戦的な平和運動」・「被害者意識的な厭戦平和主義」
川島孝郎(石田明、空辰男)、深川宗俊、藤居平一、
長田新、(斉藤)、森戸辰男、今堀誠二、森滝市郎、佐久間澄、大牟田稔、平岡敬、
資料2)今堀誠二著『原水爆時代-現代史の証言(上)(下)』目次
原爆資料館への学芸員の配置 広島市 1995年~、長崎市 2009年予定
1996年 原爆ドームの世界遺産化
広島平和記念資料館 重要文化財、広島平和記念公園 国名勝 2007年2月
長崎の平和公園 登録記念物 2008年5月?
2008年3月29日 NHKテレビ『探検ロマン世界遺産SP』
「記憶の遺産」=人類が忘れてはならない記憶の場所
2008年6月 島根県雲南市三刀屋町の市永井隆記念館敷地内に如己堂
Ⅲ 戦艦大和ブームとヒロシマ
資料3)日本表象文化史(第12回)2008年1月21日資料
朝日新聞の取材に注目
Ⅳ 最近の原爆報道
空白の10年=県被団協の結成、12年=医療法、1970年代後半=国政課題としての被爆者問題
空白の3年=48 08 ? 夏、丸木位里・赤松俊子、「原爆の図」の製作に着手。
丸木俊『女絵かきの誕生-原爆を描いた愛の自叙伝』(朝日新聞社、1977年)
ヒロシマの誇り原爆ドーム、久間防衛大臣の発言、岡本太郎『明日の神話』、一本の鉛筆
2011年度から完全実施される小学校社会科の新学生指導要領の解説書
福田首相のオリンピック開会式参加と長崎平和式典参列。
資料4)最近の原爆報道より
朝日新聞連載 「聞きたかったこと 被爆から63年」2008年4月2日~
2008年5月31日 第8回東京空襲犠牲者遺族会総会。2000年に結成。2006年に訴訟を提起。
2008年6月22日 「殉国之塔」(旧呉海軍工廠への空襲で死亡した女子挺身隊らを祀る)の移設と慰霊祭
2008年7月9日 広島市原爆供養塔の納骨名簿(823体分)の公開
Ⅴ 未来へ
*あふれる原爆情報のガイド役=原爆情報リテラシー
1988年9 月2日 中国地区デ-タベース推進協議会・標準化部会。中国電力本社。
*被爆体験継承のためのFD(Faculty Development)
浅井基文<広島に聞く・広島を聞く>広島平和研究所ニューズレター 2006年3月号~
舟橋喜恵、平岡敬、坪井直、李実根、鎌田七男、中沢啓治、金子一士(森滝健一郎、浅井)
原爆文献を読む会会報記事目録(抄)
号 | 記事 | 著者 | メモ |
1 | 経過報告と感想-初会合の記録にかえて | 長岡弘芳 | 19681101刊、19690711再刷 |
原爆の思想を築きたい アンケート集計結果 | |||
原爆文献を読む会-活動の記録 | |||
8月例会記 | |||
誌上録音 | |||
原爆講演会 | |||
1日合宿 | |||
9月例会 | |||
大牟田氏を囲んで | |||
10月例会 | |||
丸木美術館訪問 | |||
東友会・慰霊祭 | |||
忘れられなかった「原爆」 | 鵜沼礼子 | ||
広島と僕 | 近藤弘 | ||
「この世界の片隅で」レポート以後 | 岡寿克 | ||
「原爆の図」を見て | 佐藤博史 | ||
原爆展を見て | 佐藤博史・古川智子 | ||
地方会員からの便り | |||
書面出席 | |||
会員の仕事 | |||
編集後記 | |||
2 | 核時代のメモ・ノート(1)1968年の軌跡-広島・長崎被爆から中国の核実験まで- | 林栄介 | 19690205刊 |
3 | (続)孫貴達さんが残していったもの | 19690524刊 | |
4 | (特集)原爆と私たちの今日的課題 | 19690712刊 | |
5 | (特集)「原爆と私たちの今日的課題」集会報告 | ||
6 | 19700425 | ||
7 | 〈講演記録〉ある被爆者の戦後史 | 石田忠 | 19701002 |
8 | 19710305 | ||
「ジャーナリストのためのヒロシマ基礎講座」(日本ジャーナリスト会議広島支部(JCJ広島)主催。20080712~)
回 | テーマ | 講師 | 年月日 |
01 | ヒロシマはどう伝えうるか-原爆・平和報道の過去・現在・未来 | 宇吹暁 | 20080712 |
広島女学院大学教授 | |||
02 | 浅井基文 | ||
広島市立大学広島平和研究所長 | |||
03 | 伝えることと、記録することのはざまで~原爆小頭症の取材を続ける中で思うこと~ | 平尾直政 | RCC企画部長 |
04 | 広島の思想はなぜ国際政治を動かせないのか、動かすために我々はいかにすべきか | 広岩近広 | 20081025 |
毎日新聞専門編集委員 | |||
05 | ブッシュ核戦略の挫折と米新政権の課題 | 太田昌克 | 20081122 |
共同通信記者 | |||
06 | 日本核武装の幻想 そしてナガサキの平和運動 | 土山秀夫 | 20090124 |
核兵器廃絶ナガサキ市民会議代表 | |||
07 | 報道されなかったイラク戦争 ~映像で見るイラク~ | 西谷文和 | 20090328 |
フリージャーナリスト、「イラクの子どもを救う会」代表 | |||
08 | ひろしま―呉―イワクニ。トライアングルの視点 | 小野増平 | 20090418 |
広島経済大教授、元中国新聞編集局長 | |||
* | 緊急フォーラム:アメリカの核政策~オバマ大統領のプラハ演説が意味するもの | 20090425 | |
哲野イサク(広島在住・ウェブジャーナリスト、大島寛(広島修道大教授)、佐渡紀子(広島修道大准教授) | |||
22 | 詩人と医学者、歴史家が語り合う「ヒロシマからフクシマまでの道」 | 20110723 | |
アーサー・ビナード、鎌田七男 | |||
『被爆70年-市民が育んだヒロシマ』(広島自治体問題研究所、20150728)
内容
編 頁 | タイトル | 著者 | |
01 | はじめに | ||
村上博(広島自治体問題研究所理事長) | |||
第1編 | ヒロシマの市民活動 | ||
06 | 原爆遺跡保存運動懇談会のあゆみ | 高橋信雄 | |
16 | 『木の葉のように焼かれて』を平和運動の推進に | 新日本婦人の会広島県本部 | |
20 | 広島高校生平和ゼミナールの40年 | 澤野重男 | |
28 | 70年目の「ヒロシマ」を考える | 大越和郎 | |
34 | 原爆被害者相談員の会の活動をふり返る | 三村正弘 | |
42 | 広島の被爆訴訟支援の到達点 | 青木克明 | |
51 | 劇団 月曜会 今昔 | 岩井里子 | |
55 | 21年目を迎える「平和のための戦争展」~見る戦争展から、育てる戦争展へ~ | 利元克巳 | |
第2編 | 「ヒロシマ六法」(解説) | 田村和之 | |
71 | 法律・条例集 | ||
広島平和記念都市建設法(1949年制定) | |||
広島市基本構想(2009年策定) | |||
被爆者援護法(1994年制定) | |||
87 | 編集後記 | ||
橋本和正(広島自治体問題研究所事務局長) | |||
原爆被害者援護法案要綱 1956.8
原爆被害者援護法案要綱 (日本被団協案)
第一 方針
一、国費により、原爆被害者の医療と必要な生活の保障を行うこととする
原爆被害者とは、原爆障害者及び原爆死没者ならびにそれ等の者の同一世帯員(主として当該障害者叉は死没者の収入によって生計を維持し、叉はその者と生計を共にした者、若しくはしている者)をいう。
原爆被害者については、次のような特異性が認められるので、これが医療と必要なる生活の保障は、すべて国庫負担によることが妥当と考えられる。
(一)科学的にみて
1、原爆障害者とは放射性物質のアルファー、ベーター、ガンマー線による持続的な細胞内原子機能機能の根本的破壊、ならびに爆発時における熱傷と爆風による広範な被害である。
2、原爆死没とは右のような原因により、死んだ者と今後予想せられる死亡をいう。
(二)医学的にみて
1、原爆障害者については、その治療は、長期を要し、かつ困難である。又被害者は多数にわたり、かつ後障害及び遺伝的影響を残すとされるから、その研究、治療は、総合的で規模も大掛りであることを必要とする。
2、原爆死没者については、的確な治療及び対策が講ぜられぬまゝ死没したものである。
(三)経済的にみて
1、原爆障害者については、その症状が前記のように特異であり、治療に永い期間と多額の費用を必要とするので、個々の患者にとって自らの治療の負担に耐え得ない。
2、原爆障害及び原爆死没者の同一世帯員については、原爆による被害が広範長期にわたり且大量殺りくであった為に自他共に生計維持の方途に苦しんだのである。従ってその障害者若しくは死没者か当該世帯の生計の中心者に該当する場合、叉は将来生計の中心者として期待される場合においては、その者の同一世帯員の生活は国家の責任において保障されることを必要とする。
(四)政治的にみて
原爆被害者は国の責任におい遂行した戦争による犠牲であり、原爆という当時においては予想を絶する特殊兵器によるものであるから、無防備無準備のまゝに受け、また警備にも適切を欠ぐという、全く個人の責任範囲外の被害であるから、これが治療と生活については国の責任で行はれるべきである。
二、その他、今日、国の責任において原子力科学及びその実用化の推進を取り上げているのであるから、これに随伴するであらう放射能被害の予防、治療、その他にも貴重な貢献をすることと思はれる。
第二 要領
一、国費で治療を行う者の範囲は、昭和二十年八月広島市及び長崎市における原爆障害者(当時胎内にいた者を含む。)とする。
二、本法による治療を行う者の決定は、先ず、被爆者の登録を行い、次いでこれらの者の内から、具体的に治療を行う者の認定をするという二段の手続きをとること。
登録対象は現に原爆症患者である者及び、将来原爆症の発生する可能性のあるもの、すなわち、被爆当時叉はその直后に被爆地域に在ったものとし、登録及び認定は、都道府県知事とする。
登録は、本人叉は第三者の申請によることゝし、次に治療を行う者の認定に当っては、厚生大臣の定める基準により諮問機関の議を経て決定するものとする。
三、治療を行う期間は転帰までとする。
四、治療を行う機関は厚生大臣の指定する医療機関とすること。
また、必要に応じて一時救護所を設けることができるようにすること。
五、医療機関の治療方針及び治療報酬は健康保険の例により、それによることができない時は厚生大臣が定めることとすること。
六、障害者に対しては障害年金を支給するか、若しくは、治療または療養を要する者の中、生活に支障を来たすため、これを受けることの困難な者に対しては治療手当または療養手当を支給すること。
七、障害者を安んじて治療叉は療養させるため都道府県知事が必要と認めたときは同一世帯員に対して援護することができるようにすること。
八、原爆死没者に弔慰金を支給し、その遺族に遺族年金を支給すること。
九、原爆障害者の調査と原爆障害の治療の研究機関を設立する。
十、被爆者の健康管理を行うこと、
本人の意に反しない範囲で登録の対象者である被爆者の健康状態を調査し、健康状態に関して指導と予防措置を講ずることゝし、これが実施は都道府県をして当らしめ費用は国が全額負担する。
十一、次の様な義務規定を設けること。
1、治療を受ける者及び健康管理を受ける者について、症状に関して、又、住居の変更に関して、当該機関に対する届出義務を化する。
2、治療の委託を受けた医療機関について、治療の経過等に関して当該機関に対する報告義務を課する。
3、右の届出、報告の時期様式等は省令に委任する。
十二、治療状況の報告を行った医療機関に対して要した実費を支給すること