『広大文学』(広島大学文芸部機関誌)
No. | 発行年月日 | 著者 | タイトル | 所蔵 |
17 | 19620720 | 木村逸司 | デルタの火 | P |
宮本善樹 | 広島の神話 | |||
18 | 19630415 | 下村紀彦 | 暑かった日々 | P |
19 | 19630620 | 山田佳子 | 詩 こわれた街 | P |
20 | 19640115 | 宮本善樹 | 石になったバーテンダー | P |
20 | 阿川弘之 | 特別寄稿 「皆実」の思い出 | P | |
23 | 19660410 | 木村劫 | 蜃気楼 | P |
『広大文学』(広島大学文芸部機関誌)
No. | 発行年月日 | 著者 | タイトル | 所蔵 |
17 | 19620720 | 木村逸司 | デルタの火 | P |
宮本善樹 | 広島の神話 | |||
18 | 19630415 | 下村紀彦 | 暑かった日々 | P |
19 | 19630620 | 山田佳子 | 詩 こわれた街 | P |
20 | 19640115 | 宮本善樹 | 石になったバーテンダー | P |
20 | 阿川弘之 | 特別寄稿 「皆実」の思い出 | P | |
23 | 19660410 | 木村劫 | 蜃気楼 | P |
いづみ(広島県警察本部警務部教養課)機関誌
発行年月日 | 号 | 著者 | タイトル | 所蔵 |
195604 | 111 | |||
所蔵:広島県立図書館~56巻5(2001.5)<「いずみ」。欠あり> | ||||
19560901 | 116 | 田辺至六 | 原爆回顧(2) | P |
19561001 | 117 | 吉岡秀雄 | 原爆回顧録を読みて | P |
19571001 | 129 | 原水爆は文明の無謀 | P | |
19620401 | 181 | 川畑幸夫 | 核兵器実験と放射能 | P |
19630801 | 197 | 原爆写真特集 あれから18年 | PH | |
原爆体験記 | ||||
田丸久夫 | 曇り後晴れ 原爆の思い出 | |||
上石実爾 | 原爆追想 | |||
19670801 | 241 | 特集 原爆追悼記事 | P | |
1968 | 247 | 明治百年特別号 | P | |
197008 | 273 | 誌名「いずみ」 | PH | |
原爆特集 | ||||
197508 | 333 | G | ||
198508 | 453 | G | ||
ひろしま随筆同人会機関誌『ひろしま随筆』創刊:19591210
年月日 | No. | 著者 | タイトル | 所蔵 |
19591210 | 創刊 | |||
19600530 | 2 | PH | ||
湊秀昭 | 原連載・広島素描①爆ドーム | |||
久村敬夫 | 姉と広島 | |||
今堀誠二 | 《随筆指定席》日本料理 | |||
高橋昭博 | 【賛助会員随筆】浪々の子―デルタの街の点描 | |||
19610410 | 3 | PH | ||
武田英司 | 連載・広島素描②番兵塔 | |||
松浦寛次 | 《随筆指定席》川を愛す | |||
広島ペンクラブ会長・中国新聞論説委員 | ||||
郷土広島への夢:中野憲義・横山盛行・丸山浩子・真鍋幸子・湊秀昭・武田英司・松井哲夫・山野千代子 | ||||
19620701 | 4 | PH | ||
松井哲夫 | 連載・広島素描③柳 | |||
高橋昭博 | 核実験をめぐって | |||
19630710 | 6 | H | ||
7 | ||||
19641210 | 8 | PH | ||
河野敏夫 | 連載・広島素描⑦平和の灯 | |||
19650615 | 9 | P | ||
田川文和 | 連載・広島素描⑧広島城 | |||
19651210 | 10 | 創刊10号記念号 | P | |
中田明美 | 連載・広島素描⑨祈りの泉 | |||
19660620 | 11 | P | ||
河野敏夫 | 『おとうさん』と呼んでみた | |||
19681025 | 16 | PH | ||
19701115 | 20 | 1970年8月6日の私 | P | |
『ひろしま』(広島県文化団体連絡会議機関誌)
年月日 | 号 | 著者 | タイトル | |
1972 | ||||
0315 | 創刊号 | P | ||
下村仁一 | 表紙の絵について | |||
堀ひろじ | <巻頭言>私と文化 | |||
池上利秋 | <写真>沈む村-土師にて | |||
<短歌> | ||||
山本康夫 | 狂気の寂 | |||
深川宗俊 | 流砂のうた | |||
四国五郎 | <詩>広島行幸メモ | |||
深川宗俊 | <ルポルタージュ>草土千軒遺跡保存と企業公害 | |||
日本ジャーナリスト会議 | ||||
XYZ | ペンペン草の誓い―マスコミ内部からの告発 | |||
奥田冽 | 神田周三氏の死を悼む | |||
広島県民教連 | ||||
首藤昭五 | 広島県民教連とそのあゆみ | |||
広島映画サークル協議会 | ||||
村上忠人 | 足元をみつめ「理念と展望」を―映サの若い活動家たちにおくる | |||
牛尾国和 | 自主制作上映運動と映サその当面の課題 | |||
広島県美術会議 | ||||
下村仁一 | 美術運動の前進を | |||
音楽 | ||||
浜田裕子 | 春のうららの教材観 | |||
法律 | ||||
阿佐美信義 | 仁保事件の裁判と人権 | |||
日本リアリズム写真集団広島支部 | ||||
池上利秋 | 写真活動について | |||
広島合唱団 | わたしの広島 | |||
広島詩人会議 | ||||
木村徳雄 | 多様性と統一性 | |||
鞆地区文化を考える会 | ||||
池田一彦 | 我らはしくじるを先に仕候 | |||
文団連呉支部結成について | ||||
<書評> | ||||
広島の詩人たち | ||||
平和詩集第二集 | ||||
広島原爆戦災誌 | ||||
土屋清 | 万灯の詩―-2部 武一一揆百年記念 | |||
奥田冽 | <エッセイ>広島の奇形―ある盗作歌人 | |||
宮本泰子 | <童話>歩道橋 | |||
奥田泰治 | <創作>烏 | |||
『ひろしま』(広島県文化会議機関誌)
発行年月日 | 号数 | 著者 | タイトル | 所蔵 |
1964 | ||||
0801 | 創刊 | 8.6平和特集 | P | |
土井信子 | ルポタージュ・傷痕は今も | |||
松田正男 | 漢詩・原爆忌 | |||
詩 | ||||
堀ひろじ | 歴史は語る | |||
兼松成一 | 午後 | |||
木村徳雄 | からだで反対する | |||
佐々木稔 | 四月ノアル日 | |||
由紀操 | 底辺 | |||
俳句 | ||||
佐々信一郎 | ボクの解剖手記より | |||
座談会・占領下広島の平和運動を語る | ||||
出席者:天道正人 深川宗俊 四国五郎 山口勇子 土屋清 堀博自 | ||||
随想 | ||||
増岡敏和 | ある心情の中の敵 | |||
柿手春三 | 第十回広島市平和美展によせて | |||
岡本美代子 | 学童保育を実践して | |||
ラジオ中国芸能労組 | 闘いに結合したうたを | |||
土屋清 | なにが〈河〉を産みだしたか | |||
短歌 | ||||
南雅子 | 無数なる白 | |||
近藤幸子 | 明日への歩み | |||
深川宗俊 | 一九六三年夏 | |||
山手茂 | 原爆被害者問題と被爆体験の意義 | |||
菅井幸雄 | 演劇時評・原爆と演劇 | |||
編集部 | 広島県文化会議年表 | |||
美術評論 | ||||
下村仁一 | 現実と美術 | |||
斉藤武四 | 真実と美術 | |||
南雅子 | 総創作運動への提唱―広島県文化会議シンポジュームの報告から | |||
創作 | ||||
奥田泰治 | 金盞花 | |||
1965 | ||||
0301 | 2号 | P | ||
ルポタージュ・江田島「秋月」米軍弾薬庫現地調査行 | ||||
高武淳夫 | 弾薬庫の上から | |||
堀ひろじ、深川宗俊、近藤幸子、竹内多一、 | ||||
詩 | ||||
山中みちこ | ヴェトナムの若い仏教徒へ | |||
堀ひろじ | ヒロシマの連帯 | |||
四国五郎 | 広島を嵐が通過する風景 | |||
山口勇子 | ある公立高校でのできごと―高校生の原潜阻止運動をめぐって | |||
座談会・被爆20周年へ向けての創造活動 | ||||
出席者: 田中美光 下村仁一 深川宗俊 谷口武志 土屋清 堀博自 | ||||
世界10億人集会被爆者救援広島県大会抗議文(日本政府宛て、19641206付) <内容:4日の閣議でのカーチスルメーへの叙勲決定> | ||||
加川次男 | 短歌・弾薬と梅 | |||
増岡敏和 | 創刊号を読んで・広島の意志・その周辺 | |||
編集部 | 広島県文化会議年表 | |||
佐々信一郎 | 俳句 | |||
深川宗俊 | 作品・三・一のために | |||
堀博自 | 鋭い眼で生きた真実を作る過程での問題提起 | |||
加川次男 | 百姓一揆を主題とした定型詩劇を作る過程での問題提起 | |||
深川宗俊 | 人間賛歌<第10回原水禁大会文化・芸術部会報告> | |||
書評 | ||||
南雅子 | 堀ひろじ第二集詩集 「凍てつく大地に」をめぐって | |||
奥田泰治 | かあさんと呼べた仲間たち | |||
1965 | ||||
0801 | 3号 | P | ||
グラビア 被爆写真集 | ||||
葦原進 | ルポタージュ「広島」を生きて | |||
詩 | ||||
俳句 | ||||
座談会 文化の大衆化をめざして | ||||
出席者 兼松誠一 江川和禧 日高敞之 藤井順子 堀博自 | ||||
短歌 | ||||
県文化会議事務局日誌 | ||||
宮島巌 | 第二の〝ひろしま〟はおこさせない-広島にみる現代修正主義の平和「理論」 | |||
藤井順子 | いつか、きっといつか | |||
甲斐有 | 戦後二十年目の断片的回想 | |||
ルー・クイキ(ベトナム文化使節団長) | ベトナムにおける文化戦線のたたかい | |||
増岡敏和 | 反戦詩歌人集団(一九五〇年)のこと | |||
ラジオ中国芸能員労働組合(作詞・作曲) | 花と手榴弾 | |||
きのこ会、広島研究の会 | 原爆小頭症についての訴え(1965.7.26) | |||
深川宗俊 | 歴史をとらえる視点に | |||
山口勇子 | 創作 オルゴール | |||
『河図洛書-渓水社十周年記念』(木村逸司編、溪水社 <渓水社>19850430)目次(抄)
Ⅰ-1 | 出合いの一冊 | ||
長岡弘芳 | J・ハーシー『ヒロシマ』のこと | ||
Ⅰ-2 | 幼い日に | ||
Ⅰ-3 | 青春の道すがら | ||
天野卓郎 | 私の読書 | ||
佐藤進 | 万年文学青年の読書歴 | ||
平岡敬 | カフカと『世紀群』 | ||
Ⅰ-4 | わたしの読書法 | ||
Ⅰ-5 | 収書・探索 | ||
Ⅰ-6 | 蔵書 | ||
宇吹暁 | 蔵書あれこれ | ||
Ⅰ-7 | 思いつれづれ | ||
岩崎清一郎 | ありあまる時間の中の怠惰 | ||
宇野正三 | 安養の浄土はこいしからずそうろう | ||
中敏みのり | 遠来の友との出会い | ||
Ⅱ-8 | 本づくりあれこれ | ||
石踊一則 | 紙魚のひとりごと | ||
Ⅱ-9 | 編集のことなど | ||
大牟田稔 | 見果てぬ夢 | ||
五藤俊弘 | 広島県詩集のこと | ||
Ⅱ-10 | 本としてだす | ||
Ⅱ-11 | 文化・地方・渓水社 | ||
板垣綬 | 「中央」と「地方」って何んだろう | ||
今堀誠二 | 世界にひろがり得てこそ | ||
米山穫 | 渓水社 | ||
Ⅲ- | 渓水社の十年 |
社会運動史研究会(1990年設立)
研究成果
戦後社会運動史論―1950年代を中心に | 広川禎秀・山田敬男編 | 大月書店 | 20060120 |
<あとがき(抄)>「この研究会は、歴史科学協議会の1989年大会・犬丸義一報告の準備研究会をきっかけとして生まれ、1990年に名称を社会運動史研究会とし」 | |||
吉田ふみお「ストックホルム・アピール署名運動とその歴史的背景」 | |||
大森実「戦後平和運動の市民運動的形成」 | |||
戦後社会運動史論②―高度成長期を中心に | 広川禎秀・山田敬男編 | 大月書店 | 201203 |
戦後社会運動史論③―軍事大国化と新自由主義の時代の社会運動 | 広川禎秀・山田敬男編 | 大月書店 | 20181214 |
『ふるさとよしうら 18号』(吉浦郷土史研究会、19820430)
近況報告(1982年)
私ごとですが、学生時代には日本中世史を専攻し、若狭国太良庄(東寺の庄園)の農民の生活を卒業論文にまとめました。このことにより、私は、千年余り前の文書に浸る楽しみを垣間みることができました。広島県史編さん室勤務(一九七〇年四月~七六年四月)中には、広島県内を資料を求めて歩き回り、アカデミズムの中には無かった「生きた歴史」に触れる機会にめぐまれました。そして、いま、広島大学原爆放射能医学研究所での六年
間が過ぎようとしています。
歴史学を職業とできる人間は、そう多く存在するわけではありません。なかでも現代史・戦後史ということになると、なおさら限られてきます。原爆問題という限定付ではあっても、歴史を研究できる立場を最大限活用しなくては、と原医研に就職以来、常に自分自身にいいきかせてきました。
一昨年九月から昨年二月にかけての十ヵ月間は、一橋大学への内地留学の機会に恵まれました。その間、大学で現代史の方法論について研讃するかたわら、国立国会図書館に通って、原爆問題に関する資料収集に努めました。収集した資料のコピーは、一万六千枚を超えます。
帰広以来一年近く経った今日も、まだ整理がついていませんが、収集作業中に気付いたことの一つは、日本政府や国会が、戦後一貫して原爆被害を国レベルの被害として取り上げていることです。たとえば、広島市が一九四七年(昭和二二)以降開催している八月六日の平和式典には、総理大臣が、メッセージを寄せるとか、代理を派遣するとか、また本人自ら出席するとか、何らかの形で、すべて関与しています。また、「被爆国」という表現は、原爆被害を、個人レベル、一地方レベルの被害としてではなく、国レベルの被害としてとらえた表現ですが、これも国会議事録には被爆直後から見ることができます。
これらの事実は、原爆被害が戦後の社会にもつ意味の大きさを示すものですが、具体的にどのような意味を持ってきたのか、原爆被害者にとってどうなのか、広島市や県の政治にとっては、日本政府の外交政策にとってはなどなど、多くの問題が解明される必要があります。
一方、原爆被害は、単に過去の問題ということにとどまりません。原爆は、三十七年後の被爆者の身体にどう影響しているのか、被爆者に対する国の施策は、いまのままでよいのか、三月二十一日に全国から二十万人近い人々が集って開かれた集会は、ヨーロッパの反核運動とどのような関連があるのか、など、さまざまな疑問が起ってきます。
何をどのように手をつけて良いのかわからず、試行錯誤の積み重ねですが、これも、「現代史」が抱える課題と割り切って、一つ一つ解決してゆくつもりです。
『ふるさとよしうら 6号』(吉浦郷土史研究会、19780428)
郷土史断想 宇吹暁
“ふるさと”は、常日頃気に懸けているものではなくとも、何かの拍子に出てくるもののようです。私について言えば、資料を見ている時、″呉″という字が反射的に目につきます。多くの場合は。呉れ給え”の″呉″の類なのですが。ま仁、呉関係の資料を搜していなくても、それが目につけばメモしています。最近も、アメリカの資料を調べていていくつかかをメモしています。一九四五年中のニューヨーク・タイムスには、三月一九日、六月―二日、七月一日、同二四日、同二八日の呉に対する爆撃に関する記事とともに、航空写真も八葉掲載されています。また、アメリカが終戦後調査した爆撃結果の報告書にも、呉に関するものが、何箇所かありました。空中からの写真撮影から目標を識別した結果が正しかったかどうかの調査では、呉地区は、網を使っての艦船の偽装が最も広汎に行なわれていたと述べています。そして、識別の結果を、たとえば次のように判定しています。
下記の主要なる海軍艦船は、一九四五年三月一八日~一九日の攻撃中撮影した写真に依り空母から呉近海に在るものとして報告されたものである
一 戦艦大和
一 戦艦金剛級(後榛名と識別さる)
ニ 戦艦伊勢及日向
ニ 空母雲龍級(後天城及葛城と識別さる)
(以下略)
思わぬところで、子供の時聞いたさまざまな話を思い出しながら読み入ってしまいます。
このような<ふるさと>との出会いは、だれしも何らかの形で経験していることと思います。周辺の誰に話しても無意味にしか思えないだろうが、しかし、郷里の友人に会った時には、ぜひ話したい情報、こういうものが、今、都会では珍重されて<ふるさと>ミニコミブームを作っています。戦前、戦後を通じて県人会的な組織はあるようですが、これは、それとは違い、主な担い手は若者たちです。一方、各地には、年輩の人々によって支えられている郷土史研究会があります。極論すれば、若者 は都会で<ふるさと>を思い、老人は<ふるさと>で<郷土史>を考えていると言えます。しかし、この二つの<ふるさと>は、内容的には、異っています。都会で想う<ふるさと>は、イメージ的でたとえば広島の場合、カープ・カキ・瀬戸内海・酒などといった象徴的なものと結びつくことが多いのに対し、郷土史における<ふるさと>は、地域性が非常に強く感じられます。<よしうら><かわらいし><てんのう>といった、そこにある町並は勿論一軒一軒の家族の構成までもはっきりとつかめる範囲、あるいは、狩留賀、魚見山といった砂の色、小道の勾配まで明確に思い浮べることのできる場所などが郷土史の対象となっています。
最近、この<ふるさと>のもつ地域性について考えさせられたことがあります。それは一九七〇年前後に、全国各地に起った、空襲・戦災を記録する運動です。それまでにも、空襲・戦災体験は、八月一五日を前後して、新聞などのマスコミで取り上げられてきていました。しかし、多くは個人的体験でした。一九七〇年前後からは、地域が取り上げられたのです。
たとえば、広島市では、平和公園は、元中島町などの街があったのですが、その一軒一軒が復元されています。
こうした動きが全国各地に起っているのです。原爆体験や、空襲体験が昨日のごとく語られるのは、体験の特異さによるのでしょうが、三十数年前の街並が、すらすらと出てくる人々が、幾人かあるのには、驚ろいてしまいます。そういう人たちの話を聞きながら感じることは、その人々にとって、街は、かけがえのない生活の場であり、それぞれ、その街を、いつくしみ、はぐくんで来たのだなあとの感慨です。
しかし、私自身について、二十年後に、明瞭に思い出せる街があるだろうかと自問する時、生れ育った本町筋の名前すら、卮かしいものに心えてきます。″ふるさと“にいる若者でありながら、イメージ的にしか<ふるさと>を、とらえることのできない私に、「ふるさとよしうら」が語りかけるものは、「自らの生活の場を、いつくしみ、はぐくめ」との教訓です。
故宇根実氏の収集せる資料について
『ふるさとよしうら 創刊号』(吉浦郷土史研究会、19760518)
故宇根実氏の収集せる資料について 宇吹暁
はじめに
宇根先生の御宅に、私が伺ったのは、先生が亡くなられてから三年目、昭和49年6月のことでした。折しも、宇根先生の蔵書・資料の整理をなさっていた香川先生が、
「お宅のむすこさんは、県史編さん室に勤務しているそうだが、手伝いに来ないか」と私の母に伝言していただいたのが、そのきっかけでした。
早速、六月一二日、宇根家に伺いましたが、その量の厖大さと、内容の豊富さに驚ろくばかりで、その日は手をつけずに、とりあえず、編さん室に帰って報告をいたしました。
編さん室では発足以来、県内の市町村役場・旧庄屋・旧戸長の御宅をほぼ網羅的に調査し、近世以降現代までの行政資料は多くのものを確認してきましたが、宇根家の資料は、そういった行政資料と違い、社会問題・文化問題といった県民生活により密着した性格のものでした。編さん室としても、このような資料の収集に最も苦心していたことでもあり、翌日より大挙して資料目録をとらせていただきました。その期間一週間、調査員のべ二十人、この規模の調査は、町村役場文書の整理でさえも多くはなかったことです。また、これだけですべての資料の目録が採れたわけではなく、刊本類・俳句関係のものは全く手つかずで、県史として当面必要なものに限られています。このことは、宇根家文書の多量さを示すとともに、またその質の高さの一つの証左でもあります。
ところで、編さん室の資料調査について一言述べておきます。資料の多くは未整理のままのものがほとんどなので、まず分類をします。その上で分類ごとに資料の題名を書いて目録をつくります。この目録づくりは、大変重要な仕事です。というのは、まず 第一に、その資料の全体像を知る上で必要だからです。
そして第二に、資料を網羅的に残すためです。調査者が自分に必要なものだけを整理すれば、その他のものが、あまり価値のないものとして処分される恐れがあります。その調査者に必要と思われなくても、他の研究者に必要な場合もあるからです。
また第三に、目録をつくることにより、多くの人にその資料を利用してもらうことができます。編さん室では、各役所、各家の資料目録を印刷に付して、全国の大学・研究機関に送っています。所蔵者には、ご迷惑だったことが多々あったとは思いますが、これによって全国の研究者が広島という一地域の小さな資料までもその所在を知ることができたのです。こうした資料整理をすることが、県史をより確かなものにするための、目に見えない大きな仕事の一つです。
内容の一端
この資料目録づくりは、私にとって県史編さん室の仕事の中でも非常に有意義なものとなりました。なによりも楽しい仕事でした。
行政資料や庄屋文書などの場合、研究上の重要性は判るのですが、一点一点の資料がおもしろいということはほとんどありません。しかし、宇根家のものは、これまで一度もみたことのない雑誌類が多かったこと、しかもその雑誌は吉浦・呉地方のものであることにより、一つ一つに心を踊らせてページをくることができました。
目録は、内容としては、広島県発行物・呉市役所文書・吉浦町消防組資料・社会事業関係資料・郷土の新聞雑誌・郷土史関係のパンフレットなどで、総点数は六〇〇余にのぼりました。このうち、社会事業関係資料・郷土の新聞雑誌の多くを、まもなく発行される(六月頃の予定)・「広島県史近代現代資料編Ⅲ(社会文化編)」に収録させていただきました。
また、社会事業関係のものは、広島県社会福祉協議会でも、現在編さん中の年史に活用されているとのことです。今後もさまざまな本や研究に利用されるものと思われます。
つぎに、私か興味をもち啓発された数点の資料について紹介してみます。
(郷土雑誌「明星」)
明治四二年八月、末永白雨なる人によって編さんされた「明星」という雑誌があります。これは、吉浦村青年会(麗芽会と称していた)文芸部の機関誌として、同年春に創刊されたものですが、第二号である夏季号のみが残されています。ガリ刷りで六二頁の、当時としては大部のものに属し、表紙には、星と島と帆掛舟が描かれており、中にも多くのカットが盛り込まれています。
明治四二年といえば、全国的に青年会が組織されていた時期です。
江戸時代、若衆組とか若連中と称して各村にあった青年組織も、明治維新以降文明開化の荒波の中で消滅しつつありました。そうした風潮に対して政府は、日露戦争後(明治三七・三八年)、日本の国力を根本から高めてゆく一施策として、青年会の結成を奨励していました。吉浦青年会(麗芽会)もこの中で生まれたのです。
「U・S生」なる人はつぎのように述べています。
麗芽会なるものは所謂青年者の教化に勉め風儀の改善を図り美徳を一般に普及せしめ専ら人生処生の最大目的たる体躯の健全に努め道義を重んじ独立自営偉大なる国民生活を遂ぐるために設けられたる機関にして社会の進運に伴ひ実力の発展と相俟って風紀の興振を増進する所以の道を尽すにあり。
内容はガリ技術がまだ稚拙で読みづらいのですが、なかなか愉快です。漣石という人は、「運動について」と題して野球について紹介しています。
「柔道とか撃剣とか相撲とかはいわば時勢に後れていないかと思います。今廿世紀現代の運動としては余り恥しくないといってよいのはまづ庭球とか野球等であろう」と言い、野球が日本に移入された経緯、野球の効能について述べています。また「一口噺」として
客「先生、あなたは此度苦しみを計る苦度計を発明なさったそうですが一つ計って頂きたいものです。」
先「よし、どういう苦しみか?」
客「人が死ぬときのそれを」
先「36度だ」
客「なぜ?」
先「死苦(四九)36度だ」
客「死んだ後は?」
先「死後(四五)20度だ」
客「ついでに貧乏のそれは?」
先「四九度だ、質々だから」
といったものもあり、明治の青年のユーモアを伝えてくれます。ところが、つぎのような深刻なものもあります。一七才で中学二年生である羊堂生の「最後の日記」と題した遺書めいたものです。どうもこの人は結核に罹ったらしく、家にとじこもったまま野球・庭球などの勧誘に応じなかったそれまでの怠惰、日本男子と生まれながら天皇陛下のため、日本帝国のため万分の一程の忠義奉公もしなかったことを悔やみ、「皆様さらば!!」と結んでいます。編者はこれに対し「あたら青年の最後真に哀れなり。吾輩此文見てひたと泣き伏しぬ」と評言しています。今日の医学からみれば想像もつかないことです。
これらが内容のほんの一端ですが、当時の世相を生き生きと伝えてくれる資料です。ところでこの一片の雑誌は、吉浦の近代における文化運動の始まりという点でも貴重です。
霞陽という人は、この雑誌が「わが吉浦の天地に印刷雑誌界の嚆矢として呱々の声を揚げた」と述べていますが、こうした最初のものが残っている例は県内にいくらも無いのではないかと思います。
また、この雑誌をつくった郷土の先輩にも敬意を表さずにはおられません。編集を手伝った青雲という人は、
「地獄のような苦しい役所仕事を終えて五時の列車で帰っては毎夜毎夜喰うよ喰わんよで編輯局掬露君の宅に通い」、午前一時頃まで頑破ったと書いています。
(吉浦文化協会)
昭和二〇年の敗戦は、多くの日本国民を虚脱状態においたと言われています。しかし、一方では、昭和二〇年代のはじめは、日本歴史の中で最も生き生きと文化運動が進められた時期の一つでもあります。食糧は欠乏し、社会は混乱の極みではありましたが、永い軍国主義の圧政から解放された日本国民の自由な空気を求める願いもまた切実なものでした。この願いは文化運動に結実し、昭和二〇年暮からは、雨後の筍のように全国各地に文化団体がつくられ、翌二一年三月一日現在で、中国地方だけでも一二一の文化団体が結成されております(昭和二一年三月一日「中国新聞」)。昭和二一年一月二六日に創立された吉浦文化協会も、その一つです。呉地方では一番最初のもので世間の注目をあびたらしく、当時の中国新聞にその創立が紹介されています。
その活動内容の概略は、香川亀人著「宇根実評伝」にあるので触れませんが、戦後の吉浦の文化運動の始まりとして、今日学ぶべきものが多くあります。その一つは、敗戦という日本史上未曾有のできごとに、国民一人一人がどのように対応したかです。吉浦文化協会の活動全体が、それに対する答えですが、ここでは、同協会教化部主催「物を問う会」(昭和二一年二月九日、田中貢博士を囲んで開催)の議事内容を紹介するにとどめます。
一、会の趣旨説明 二、各自に質問を提出すること等を司会者、出席者にはかり同意を得。出席者の希望により司会者より先づ質問す。
イ、現下、国内思想は動乱し経済界は混乱し、治安は極度に弱りたるに際し、国民生活の安定を如何にして政府は確保せんとするか、更に先生のこれらに対する対策は如何にや、此等に対して約四十分間の説明ありたり。
ロ、天皇制に対する各政党の方針如何、これに対する先生の見解如何を問う、此の問題に対し約五十分の説明ありたり。
ハ、青木亀太郎氏より労働組合と資本家の賃銀制に対する見解の問題につき見通しを質問。
二、川本氏より共産党の基本綱領につき質疑あり、併せて日本皇室特に雄略天皇の事績につき説明ありたり。
ホ、司会者より英国皇室と同国民の皇室に対する敬愛の諸相につき説明、民主的皇室の在り方につき意見開陳あり。
へ、進駐軍(特に濠洲兵)に関する質問あり。
卜、食糧特に米の問題につき如何なる見込なりやの質問あり。
田中博士の答弁内容が具体的にわからないのは残念ですが、当時、人々がどのような疑問点をもっていたかを知ることができます。
ともあれ、こうした討論が自由になされたこと自体が、この時期の特徴でした。そしてこのことは、戦争への反省とともに、平和を確立するための決意へと結びついてゆきます。吉浦文化協会俳句班機関誌″浦舟″(昭和二一年一一月刊)創刊のことばで、宇根会長はつぎのように述べています。
俳句が戦争から遊離していたことは、戦争が真善美の宇宙現象に反するものであることだとも言われよう。一部の俳句で生活をする人達がものした戦争にこじつけての作品は、決して美事のものではなかった。
俳句は全く戦争に役立たなかったし、又、役立たせるものでない神聖な芸術品であった。
今や自由の天地が巡り来た。俳句が平和の使者として登場する日が来た。我が民族の愛好詩たる俳句時代が来たのである。
吉浦文化協会という団体が組織されていたからこそ、当時の息吹を私たちは知ることができるのですが、その運動内容にも貴重なものがあります。私の仕事の上から言えば、この協会の文芸部の一つとして郷土研究班がつくられていることは、注目すべきことです。
この混乱期に、郷土研究が志向されているということは、郷土研究が、けっして好事家の片手間仕事ではなく、郷土再建にかけがえのないものとして位置づけられていたことを示してはいないでしょうか。事実、その後、吉浦郷土史の成果は、一部の人々によるとはいえ、県内でも高い水準のものが出ております(もっとも、不勉強にも、このことを宇根家の調査の中ではじめて知ったのですが)。
歴史学は、学者だけが大学の中でやるのではだめだ、地域の文化運動の一環として地域住民とともにやらなければ、その将来は無い、と最近よく言われていますし、常々私もそう思ってはいるのですが、自分自身が生れ育った郷土に、こうした秀れた活動があったことを知った時、自身のこれまでの歴史学に対する姿勢を恥じるとともに、こうした運動を、早急に掘り起し、もっともっと多くのものを学んでおこうと考えました。
おわりに
宇根家の資料は、宇根家の眞重な財産であるとともに、吉浦町民、呉市民、いや全国の歴史研究のための貴重な財産です。これを残された故宇根実先生ならびに、心よく閲覧を許してくださる宇根クニ氏に深く感謝するとともに、今後この資料が散迭することなく、広く利用されることを願わずにはおられません。
また、郷土史への造詣の深かった宇根先生が亡くなられた後であることが悔やまれてなりませんが、これからでも、若い私たちが、吉浦の歴史をさぐる仕事を受け継げば、必ず先生にも喜こんでいただけるものと思います。(一九七六・四・二五)
(筆者は広大放射能医学研究所員)