「03 ヒロシマNGO」カテゴリーアーカイブ

広島青年文化連盟

広島青年文化連盟 1946年2月24日発会式

参考資料

今堀誠二『原水爆時代-現代史の証言(下)』( 三一書房  19590721)
山代巴『原爆に生きて』(径書房  1991072503)
渡辺力人・田川時彦・増岡敏和編『占領下の広島-反核・被爆者運動草創期ものがたり』(日曜舎 1995070103)

 

出典:「原水爆時代-現代史の証言(下)」

青年運動と青年教師

大会に結集された原爆反対運動の底流をさぐってみると、広島青年文化連盟の動きを見のがすことはできない。1944年の春、広島の高等学校(旧制)や高等師範をおえて、東大・九大・広島文理大などに進学していた学生-須浦寛・大西享邦氏など20余名が、敗戦直後の広島で冬休みを迎えた時、青年運動を起そうという相談をはじめた。一般青年や広島女専の生徒がこれに加わってきた。翌年2月の発会式には、山代巴氏をむかえて講演会を開き、その後はもっぱら尾道図書館長中井正一氏の指導をうけた。中井氏は、日本敗戦の原因をわれわれ自身のあきらめ根性・みてくれ根性・ねけがけ根性に求め、こうした封建制を無くなすことが文化運動の基本であると論じて、この青年運動に方向づけを与えた。

初代の委員長は大村英幸氏であったが、半年後には峠三吉氏がこれにかわり、その後長く連盟を支えた。事業としては、レコードコンサートから中学生の受験講座まであって、雑然たるものであったが、のちに社会科学研究部が作られると、会活動の中心はこれに移った。社研といっても、サルトルの話をきいたり映画の合評会をやったりという調子で、社会勉強の会であったが、中本剛教諭を中心とする原爆の子の作文教育運動がはじめられていた点は重要である。49年の平和擁護大会には、連盟として主催団体に加わり、峠・大村・中本氏らをはじめ、多くの人が積極的に動いて、大会を成功させる原動力となった。

原爆が投下された時、中本氏は広島市荒神国民学校の訓導であったが、学童疎開で安佐郡久地村に赴いていたため、難を免れた。8月8日に児童の家族の被害を調べるため、広島市に向った。原子砂漠の入口の横川橋畔では、黒焦げになった兵隊の死体が、定位置につっ立ったままで橋を守っているのに、まず驚かされた。荒神学校は全滅で人影がなく、死の静寂が不気味に支配していた。防空ごうのドアをあけると、児童の死体が目にはいった。頭を真二つに割られている。受持学級の子どもで、疎開をいやがり、広島に残ったため、難にあったわけである。中本氏は新婚間もない妻の安否が気になってたまらなくなった。女性の負傷者や死体に行きあうと、妻ではないかと目を見張った。彼女の勤務先の青崎国民学校にたどりついた。校庭には被爆者の死体を焼く煙がたちのぼり、そのそばに魂を失ったような人が一人、茫然と立ちつくしていた。それが妻であった。お互いに生ぎていることが信じられないほどであった。

原爆の体験は中本氏の世界観を変えた。青年文化連盟や組合活動に、進んで加わった。中井正一氏がインテリのみてくれ根性を批判し、それが最高までいったとき、自己矛盾の結果として街頭に飛び出していくと説いた時、中本氏は街頭に出る決意を固めた。47年に段原小学校に転任したが、その前後を通じて、国語教育を研究テーマにしていたので、子ども達に「生活つづり方」を書かせた。被爆の体験や、原爆症の苦しみを書く子が出できた。やがて同僚の協力を得て、純真な子ども達に原爆体験記を書かせる仕事を始めた。子どもの作文も逐次成長し、佳作の五○余編は大村氏や峠氏の手で、いろいろな機会に発表された。長田新編『原爆の子』が生れるまでには、こうした先駆的な努力があったわけである。

中本氏の受持学級では、子どもがみな現実を正しく観察し、ありのままを理解する力を、身につけるようになった。平和擁護大会で山根君の語った体膜談が、聴衆に深い感銘を与えたことは、彼の教育活動の成果を示すことになったが、彼自身は49年11月に、右の大会に出席したことも一つの理由となって、教職から追放された。平和擁護は権力者にとって許すべからざる犯罪行為だったのである。

中井氏は国会図書館ができるとその副館長となって広島を去り、社研は私が顧問格をひきうけて、55年頃まで資本論などの研究会をつづけた。朝鮮戦争のさなかに、このグループの若い人々は、研究会の会場にも困りながら、勉強と社会的活動を勇敢にやりぬいた。嵐にもめげず、小さい保塁の中で友情をあたためあいながら、毎週研究会をひらき、平和のためのたたかいに、積極的に参加している姿は、貴いものに思えた。峠氏の死後も、青年連盟の殿軍の名をはずかしめなかったが、私の消極的な指導のために、孤立主義に陥って大衆からはなれ、平和大会の決議を運動に発展させることはできなかった。
歴史の重み

平和擁護大会は、松川事件のフレーム・アップが頂点に達した前後に開かれている。青年婦人層を中心とする市民の自覚を背景として、原爆禁止ののろしをあげながら、ヒューマニズムにのっとった、平和への道を要求したわけである。第三次大戦がさけられないようにみえた時、破局のまえに、大手をひろげて立ちはだかった形であったが、大会を支えた力の中には、国民運動を展開するだけの積みあげがなく、討議の結果、そういった運動方針をうち出すこともしなかったので、時局の重大性と対決することはできなかった。これにはいろいろな原因があるが、大会が世界労連の企画であったにもかかわらず、日本の労働者が、平和問題に対して、充分な認識をもっていなかった点を指摘しなければならない。共産党に例をとると、同党が大会につくした功績は大きい。党の県委員会機聞紙『ひろしま民報』の編集長大村英幸氏は記者とカメラマンを総動員して大会記事の取材にあたり、10月10日号をその特集号にあてた。一面トップの大見出しは「原子兵器の禁止-広島市民から全世界に打電」となっており、二面のトップも「平和へ胸うつ願い-せつせつ広島大会の感動」と題して、それぞれ詳し い記事をのせている。原爆禁止に視点をすえた、思い切った編集ぶりであったが、この号は、労働者からはまったくうけなかった。当時の共産党広島県委員長は大村氏に対して、「こんな面白くない編集ではダメだ」と文句をつけた。党員の中には松江・峠・大村氏など、大会の推進に当った人が多く、アカの集会といわれた程、彼らの努力は大きかった。配炭公団細胞では最初から、原爆反対の声を大会に持ちこもうと決定していた。ただこの人達はいずれも共産党内のインテリ派であって、党内のプロレタリア派は大会に対して熱意をもたなかった。日本の労働著が、松川事件でわが家に火がついているにもかかわらず、消防隊に相当する国民運動を、「原爆死か平和か」の形で展開できないとすれば、歴史の重みをになうことは不可能な相談であった。

出典:「原爆に生きて」

占領下における反原爆の歩み

一九四六年二月のある日、これからの生活の相談で栗柄の母の家へ帰った。そのあとを追うように広島文理科大学の大村英幸という学生が、栗柄の家の私を訪ねて来た。どうして巴がここにいるのがわかったのかと、母は不思議そうに聞いた。彼は私が治安維持法の犠牲者であることや、今は三原の農業会の二階にある農民連盟の事務所にいることを、広島の『アカハタ』読者から聞いて三原の農業会を訪ねたが、今日は栗柄へ帰ったと聞き、府中の『アカハタ』取りつぎの河村書店を訪ねて行けばわかるだろうと、彼は糸崎から汽車で府中へ来て、河村書店で栗柄の家の位置を知り、自転車を借りて、高い坂の上まで訪ねて来たのである。私はその行動力に驚いた。

彼はすでにささやかながら「広島青年文化連盟」という葉まりをつくっており、この二月の最後の日曜日の午後、荒神小学校の教室を借りて、「広島青年文化連盟」のはじめての講演会を開くことにしているから、話しに来てくれと言った。

私は、GHQの二世の将校から、原爆について批判めいたことを言うと、沖縄送りにすると言われていることを話した。彼は「原爆の悲惨は、広島に住んでいる青年の方がよく知っているから、それについてGHQを刺激するようなことは話してもらわんでもいい。僕らは何かせずにいられないから集まるんです。プレスコード(占領軍による言論統制)で発表を禁じられていても、体験したことを書き残すこともできる。こわれた瓦のかけらでも、ぐにやぐにやに溶けてかたまったガラスの瓶でも、取ってかくしておくことはできる。誰にでもできるそういうことから始めようとしているんです・・・」

彼はごく平易にそういうことを話すのだが、高等師範学校時代に、トルストイの『戦争と平和』、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』なども読み、日本文学にしても、森鴎外の『伊澤蘭軒』のようなむずかしいものを愛読していて、空襲で焼かれるのが惜しくて、へーゲルの原書など大事な本を、山陽線松永駅から近い柳津の生家へ持ち帰ったのが、八月五日夜。翌日の朝の一番で広島へ帰る汽車が、大阪空襲でおくれたため、ピカドンは西条駅で迎えたという偶然から、命拾いをしていた。多くは口にしなくても、軍国主義でおしつぶされそうな大学にいながら、ひそかにヒューマニズムを培った思慮の深さは、瞳や態度からにじみ出ていた。

私はこの青年の行動力と思慮深い態度にひかれて、二月終わりの日曜の午後、広島の荒神小学校の教室を訪ねた。迎えに出たのは、痩せてはいるが骨組のがっしりした青年、この学校の教師中本剛先生だった。ここは爆心地から二百五六十メートル北にあるので、校舎はすべてペシャンと倒れても火事にならなかったから、教師たちは倒された講堂を起こし、木を組みたて、トンカチ、トンカチ、槌や鋸を動かして、四つの教室をつくっていた。私らはその一つに集まったのだが、窓ガラスは破れたまま。窓枠の向こうに見えるのは焼野原。押し上げ窓の小屋は幾つか見えたが、人の住む町とは思えなかった。

集まったのは二十人足らず。私はギリシャ神話の、希望だけが残されたパンドウラの話と、豪胆な抵抗を貫いたプロメテウスの話をした。話のあと痩せて青白い顔の、華奢な体に借り物のような大きな黒いマントを着た、おっさんふうの人が近づいて握手の手を差しのべた。これがのちの『原爆詩集』の作者、峠三吉だった。

座談のとき私は、十一月終わりの駅前広場で焚火をかこみ、タ間暮れの瓦礫の焼野のはるか彼方で、槍倒しの楠とかいう大樹の芯が燃えている煙が、まっ直ぐに空高く昇っているのを見たときの、言いようもない淋しさを話し、今日はあの楠のそばへ行ってみたいと話した。私の話を聞いていた放浪者ふうの青年が、「そんなら案内してあげます。あのそばに親戚の者がおりますから」と言って、会が終わると私を連れて、楠のそばの親戚へ案内した。はからずも彼が連れて行った家の叔父さんは、長い間、この片隅で、差別に反対の抵抗心を燃やし続けた人だった。私が因われの五年を過ごしたことも、肉親のことのように聞いてくれ、「今夜はここに泊まりなさい」と言い、暗くなると小屋の外の、ドラム缶の露天風呂へ入れてくれた。

近くの屠牛場で働いているとかで、夕飯には牛のこま切れのすき焼きを食べさせ、「人間がピカドンのように恐ろしいものをなくするためには、同じ人間を四つだの、非人だのとさげすんで、人のいやがる仕事をさせて来た、差別との闘いと同じように、長い闘いがいると思いますのう」と、私のこれから先の闘いに希望を持たせ、勇気を与えた。
私が彼[峠]とはじめて会った一九四六(昭和二十一)年二月のころの彼は、荒神小学校の前の小屋で貸し本屋をしていたのである。あのとき荒神小学校の教師だった中本剛によれば、校舎を起こして教室をつくり、やっと授業が始まったころ、学校の前の土塀の道に食べ物を売る小屋や衣料を売る小屋が次々と建った。その中に「貸し本」の看板をかけた小屋ができた。「おい親父、わしの読むような本はないか」と店へ入ると、「あなたは何をする人ですか」と、痩せた青白い男が出て来た。「わしはこの前の小学校の教師じLじゃ」。男は頭の横を指でとんとんと叩いて、「教師はここが百年おくれています」と言った。面白い男だなと思った。それが峠三吉だった。この出会いから、被爆の惨禍を見るまで軍国主義のこりこりだった中本剛は、峠の助言で急速にヒューマニストになったと言っている。

二月の荒神小学校での集会のあと、広島青年文化連盟の中心メンバーは、三吉の住む翠町の家の二階を会場にして読書会をひんぱんに開き、社会科学、宗教、哲学、文芸などの研究や講演会、夏期講習会、レコードコンサート、音楽会、美術展など多彩な活動をひろげ、機関誌『探求』を発行した。そこには峠の詩も載り、「新時代への苦悩」と題するエッセイも載り、広島文理科大学や広島女子専門学校の進歩的学生を中心に、一般社会人の間にもひろがり、二・一ゼネストの前の吉田内閣打倒国民大会や翌年のメーデーには、峠三吉草案のメッセージを送った。
大村英幸が、広島青年文化連盟をつくるに至った事情は、八月から十二月まで大学は開校しないし、友達四、五人つきあってはいるが何をしていいかわからない。学校で残っているのは宇品に近い広島女子専門学校だけ。須浦という学生がそこにあった電蓄を一日かけてなおした。小田や大西が家にあったレコードを持って来てかけてみたら音が出る。それがささやかなレコードコンサートになった。原爆について言ったら沖縄送りになることを知っているから、原爆の遺跡を残そう、焼け瓦の一部でも残しておこう、体験を書き残しておこう、そういう組織をつくろうとその年の十二月に発足したのが、「広島青年文化連盟」だった。私が行った一九四六(昭和二十一)年二月の荒神小学校での集まりのときは、須浦や小田は東京の学校へ帰っており、大村が委員長になり、社会人の峠らも加えて歩みだした。私のあとすぐに呼んだのは中井正一先生。焼けて宇品へ移っていた国鉄の管理部で、中井先生は私の故郷で話されたと同じ趣旨の、あきらめ、みてくれ、抜けがけの三つの根性の話をされた。それは共鳴者を得て、大村は毎月のように中井先生を案内して、あちこちの職場を訪問した。

国鉄管理部の総務部長や日通の支店長などは、大正デモクラシーから昭和のはじめにかけてのデモクラシーの中でマルクスの本も読んでおり、絶望的な気持で軍国主義へ走らされた経験から、自分の下の若い者が労働組合をつくる動きを応援していた。そういうところへ学生服を着て、共産党の機関紙『アカハタ』を持って行く大村は、待ち望まれる星だったのだ。日本共産党に入り、党の組織づくりに忙しくなった大村は、青年文化連盟の委員長は峠に譲り、大村は副委員長になって青年文化連盟の機関誌『探求』の発行や編集の責任者になり、いろんな文化活動をすすめた。

その夏は、東京の大学から小田と須浦が帰って来て、塾を開いて稼いだ金を青年文化連盟に寄付してくれ、大村や峠の活動を助けた。八月六日になると花電車が走り、家ごとに蒲鉾がくばられた。それは被爆者へのご機嫌とりであることは見えすいている。公に口にできないその怒りは、労働組合の結成へ、吉田内閣打倒国民大会へともりあがった。各職場で二・一ゼネストヘ向けての集会が開かれるころの大村は、共産党中央から派遣されたオルグ塚田大願の片腕になって職場をまわっていた。

一九四七(昭和二十二)年の八月六日の平和式典にはマッカーサーのメッセージがおくられ、片山内閣(社会・民主・国民協同党の三党連立)を代表して文部大臣森戸辰男氏、参議院議員を代表して山下義信議員が参列した。マッカーサーは原爆の出現が戦争の意味を一変させたことを強調し、原爆は人類を絶滅に導くと説き、「この広島の教訓が等閑に付せられざるよう、神よみそなわせ給え」と結んでいた。広島平和祭協会の会長、浜井信三市長は、爆心地に設立した平和塔前の広場で、平和式典、慰霊祭、平和の鐘除幕式を行った。午後は、みこし、だし、仮装行列が市中をねり歩いた。被爆者は眉をひそめ「何のためのお祭り騒ぎ」と批判の声もあがった。

一方では、広島県下のすべての労働組合が参加している労働文化協会が、この八月、県下二十二か所で夏期大学を開いていた。これは労働文化協会会長の中井正一氏が、前年の尾道での夏期大学の成功から、憲法の中村哲氏、歴史の羽仁五郎氏など、有名な学者、文化人二十一名を講師として呼び、広島大学の教授や、労働文化協会の会長、副会長も講師団に加わって、二十日にわたって県下を歩く壮大な文化活動だった。広島青年文化連盟もこれに加わり、広島では、会場の国鉄企画部にあふれるほどの聴講者を集めた。講師は誰もが、含蓄のある講議をし、職場で、地域で、平和へ向かって歩む基礎知識を吸収させていた。

一九四八(昭和二十三)年春、文理科大学哲学科の卒業生は六人、大村英幸はその中の一人だった。彼の卒論は「ヘーゲルの法哲学へのマルクスの批判」で、先生から「良くできました」とほめられている。だが彼は出世コースはたどらず、共産党広島県委員会の機関誌『ひろしま民報』の責任者になっていた。『ひろしま民報』読者としての私が忘れられないのは、四九年六月の日本製鋼所広島工場のストライキの報道だった。ドッジプラン(四九年、GHQ経済顧間ドッジが指導した財政金融引締政策)

出典:「占領下の広島」

広島青年文化連盟のこと

[楠]広島青年文化連盟はいつ結成されたんですか。広島における戦後最初の文化運動ですよね。大村さんが初代委員長で・・・。

[大村]たしか1945年12月だと思います。あの当時なんにもなかった。それでよい音楽を聞こう。被爆の実相を残そうというのが目的でした。そしてみんな新しい知識に飢えていました。いろんな人を呼んで講演会や講座を開きました。原子物理学の仁科芳雄博士の話も聞きました。中井正一、山代巴、労働文化協会といっしょに憲法の中村哲、歴史の羽仁五郎、右以外の人は数多く呼んでおおいに全県下でやりました。なかでも中井先生は立派な人物でしたね。この方が私らに大きな影響を与えました。

弁論大会も開きました。中四国の大学・高等専門学校の生徒で。優勝したのは富永君(現・黒川万千代さん)でした。

中心メンバーには学生の柘植、大西、織田、須浦君らがいました。この4君はその後、東京などの有名大学の教授となった学者です。また、仲間のなかにはお亡くなりになった佐久間澄先生の弟子たちが多くいました。もちろん私のあと広島青年文化連盟の委員長を引き受けてくれた峠三吉もいっしょでした。

そうです。音楽会や前進座やプークの公演もやりました。機関紙「探究」も発行しました。はじめ文学部長と宗教部長が峠さんで、歴史部長が三谷藤四郎さんだったかな・・・。

広島で劇団もつくりました(広島芸術劇場)。横川あたりでやった劇のシナリオもつくりました。九州のアメリカ軍に許可をとりにいったら、原爆に関係する部分はプレスコード違反ということで全部削られました。杉田俊也君は劇団の八月座→トランク座をつくっていました。彼は朗読がうまかった。だから日鋼争議のとき峠三吉の詩「怒りのうた」を群衆の前で朗読してもらいました。

私はこういう活動を続けていたらよかったんだが、徳毛宣策さんからどうしても日本共産党の専従に出てこいと言われて県委員会に出ました。そして「ひろしま民報」の編集をやりました。衆院選挙も一区でやりましたよ。その時、原田香留夫候補は次点までいきましたね。

峠さんはうちによく来ていっしょに飯を食いましたよ。彼は原爆は絶対だめだというものすごい勢いのある詩をつくってくれました。要請すると必ず応えてくれる人でした。日鋼争議の「怒りのうた」や原爆詩集にある「八月六日」もそうです。

先輩の井伏鱒二も「黒い雨」など立派なものを書いて残しました。四国五郎君も反原爆の絵を書いています。

ただ原爆が落ちたというだけでは聖地にはなりません。原爆というものを二度と世界に使ってはならん。そういう運動の聖地にせんといかんと思います。

中国文化連盟

結成:1945年12月17日

 1945年12月17日,広島近郊の国民学校で栗原唯一・貞子夫妻を中心に結成.細田民樹・畑耕一を顧問とするこの連盟は,翌46年,「中国文化人追悼大会」という名目で原爆犠牲者追悼大会を開催し,参加者150人が慰霊と平和の誓いをたてる.同連盟は,46年3月機関誌『中国文化』を「原子爆弾特輯号」と銘打って創刊し,8月には栗原貞子の詩集『黒いたまご』(原爆詩「生ましめんかな」を収録)を出版.『中国文化』の発行人であった栗原唯一は呉市にあった米軍民間情報部に呼びだされ,「原爆の惨禍が原爆以後もなお続いているというような表現は,いかなる意味でも書いてはならない」と厳重に言い渡される(栗原貞子『「中国文化」原子爆弾特集号・復刻』,『黒い卵―占領下検閲と反戦・原爆詩歌集』).

広島戦災児育成所

開設:1945年12月1日

広島戦災児育成所要覧[抄] 1948

一.沿革

1.広島市原爆による孤児の収容施設を設置のため山下義信氏発起し広島県労政課協力し広島市労務課賛同し原爆後直ちに即ち10月中旬より山下氏を中心に計画をすすめ、県有土地建物の使用認可を得て開設した。開設費は山下氏個人の支出するところであった。

2.開設と同時に広島市の学童集団教育所を併設し学校教員数名宿泊し所内の小学校教育を開始し昭和23年3月までこれを継続した。

3.昭和21年8月6日の原爆記念日を期して財団法人広島戦災児育成会の設立認可があった。

4.爾来食堂浴場便所児童寮(4棟)を増築し更に最近2棟を建築完成した。

5.昭和22年5月9日神父フラナガン氏来訪した。

6.昭和22年12月6日天皇陛下御巡幸をお迎えした。

7.昭和23年10月23日高松宮殿下御来所。

二.創設年月日

1.昭和20年11月1日設立準備開始。

2.昭和20年12月1日開設。

3.昭和20年12月23日第1回児童入所。

4.昭和21年1月19日開所式挙行。

[以下略]

広島折鶴の会

1958年6月22日?
一九五六年に発足して「原爆の子の像」を制作した「平和をきずく児童・生徒の会」の活動は、像の完成(一九五八年五月)とともにその主目標を終った。また子どもたちの身の上にも就職・進学などの変化かおとずれたため、なんらかの転換を必要とするようになった。たまたま一九五八年(昭三三)四月、映画「千羽鶴」に出演協力した子どもたちがいたが、彼らを中心にして新しく参加した子どもたちを加え、発展的に「折鶴の会」を発足させることになった。
この会は、河本一郎氏夫妻を世話役として一九五八年六月に発会し、中学・高校生で組織され、現在は約六〇人の会員をもっている。被爆者の慰問や世話、各国核実験への抗議、ボルゴグラード・ピオニールやアウシュヴィッツなど外国との交流活動などのほか、一九五九年(昭三四)からは市内の少年少女たちに呼びかけて、八月六日に「原爆の子の像」の前で平和集会を開くなどの活動を続けている。
広島平和文化図書刊行会(編)『ヒロシマの証言-平和を考える』日本評論社(刊)、1969年8月6日

1958年5月、平和記念公園の一隅に原爆の子の像が建てられ、さらに佐々木禎子の死をテーマにした映画『千羽鶴』も同年6月に完成した。この映画に出演した子供たちに、禎子の兄佐々木雅弘も加わって、広島折鶴の会が発足した。世話人は、禎子とは生前から親しく、子ども達への平和指導を続けてきた入市被爆者の河本一郎。以来23年間」、女子中学生を中心に200人を超える少年少女がこの会に参加し、被爆者救援に、また来広する世界の人々の送迎に、広島の子供たちの平和の灯を掲げ続けて今日に至っている。この間、1972年西ドイツのハイネマン大統領の招きで西ドイツを訪問、また韓国へも前後7回、平和の使節として渡り、被爆二世のビドルギ団とも交流しているほか、ブラジルのヒロシマ中学とも姉妹団体となっている。1981年現在の会員数は約10人。『広島県大百科事典』(橋本栄一執筆)より抜粋。

「星は静かに動いた そこにある平和37 新しい芽 折鶴の会 被爆者へいじらしい救援」 (『中国新聞』1961年8月1日)
ロベルト・ユンク『廃墟の光』
ロベルト・ユンク生誕100周年記念資料展 「ヒロシマを世界に伝える-核の被害なき未来を求めて-」
広島平和記念資料館・ユンク科研グループ(共催)
2013年2月15日~3月28日

年表:広島折鶴の会

事項
58 06 22 広島折鶴の会発足。
60 02 08 広島の「折鶴の会」の代表8人、ドゴール大統領宛の核実験中止署名3700余人分を浜井市長に渡す。
60 08 28 広島折鶴の会、原爆ドーム保存署名運動を開始。
65 02 11 広島「折鶴の会」、広島市に原爆ドーム保存資金として9181円と1300人の署名を提出。
68 10 06 広島折鶴の会、原爆症治療のため密入国した孫貴達の治療などを求めた嘆願書を赤間法相・園田外相宛に送付。
69 02 16 広島折鶴の会と韓国原爆被害者援護協会、広島市内で姉妹縁組の調印。約70人が参加。
69 07 25 広島折鶴の会、28日から韓国で開かれる夏季学校に参加する広島在住の韓国席の高校・大学生一行22人に、韓国原爆被害者援護協会にあてたメッセージや折り鶴を託する。
70 05 07 在日大韓民国居留民団広島県本部と韓国原爆被害者援護協会の幹部、広島折鶴の会を訪れ、少女たちの韓国への招待を申し入れ。
70 08 06 広島の女子高校生グループ「折鶴の会」、3月に白血病で死亡した8歳の被爆二世の少女をしのぶパンフレットを平和記念式終了後、遺族に配布。
70 10 12 朝日新聞「ひろしま文化:悲惨な韓国の被爆者-「広島折鶴の会」会員に聞く」
71 08 18 広島折鶴の会の少女ら8人、在韓被爆者慰問のため広島を出発。ソウル市に5日、釜山市に2日滞在し、在韓被爆者や韓国の被爆二世の会「ビドルギ団(鳩の会)と交流の予定。
71 09 29? 広島折鶴の会のもとに、韓国の被爆二世の団体・ビドルギ団(鳩の会)のメンバーによる父母からの聞き取りが届く。同会では出版を計画。
72 04 26 日米交換留学生としてアメリカに滞在した「広島折鶴の会」会員、帰広。米国原爆被爆者協会と折鶴の会が姉妹団体縁組み、「在米被爆者たちは広島からの医師団が来ることを心待ちにしている」と報告。
72 06 17 広島折鶴の会、韓国の被爆二世を平和式典に招待するための募金活動を開始。
72 07 30 「韓国被爆二世ビドルギ団」の4人、広島折鶴の会の招きで広島入り。14日まで滞在。
72 07 31 広島折鶴の会の招きで広島入りしている「韓国被爆二世ビドルギ団」の4人、山田広島市長を訪問。
73 05 07? 広島折鶴の会、韓国への原爆診療所建設のための募金活動(3回目)を広島市内で実施。
73 06 24 広島折鶴の会、創立15周年の集いをヒロシマし青少年センターで開催。出席した約30人の韓国人被爆者が「韓国人被爆者の会」を組織することを計画。
73 08 17 広島折鶴の会、韓国人被爆者の慰問のため広島を出発。韓国政府の招待による同会の訪韓は4回目。
73 10 09 広島折鶴の会、ハワイひろしま親善訪問団に、ハワイ在住県人会宛ての、在米被爆者救援をはたらきかける手紙託す。
74 02 06? 広島折鶴の会のメンバー韓国人被爆者の体験記集の作成を計画。
74 08 03 韓国被爆二世の会「ビドルギ団」の少女2人、広島折鶴の会のメンバーと広島女学院高校で懇談。
74 08 17 広島折鶴の会、韓国大統領暗殺未遂事件のため、この日からの韓国人被爆者との親善訪問の予定を中止。
74 11 23 広島折鶴の会、広島市の河村病院に入院中の韓国人被爆者・崔英順を見舞う。
75 09 13 広島折鶴の会、来日中の白光欽韓国原爆被害者援護協会副会長を招き親善懇談会を広島女学院高校で開催。
76 11 27 広島折鶴の会、河村病院に入院中の在韓被爆者・林福順を見舞う。
78 08 20 折鶴の会、韓国を訪れ、被爆者慰問。
78 10 09 ブラジルサンパウロ市の広島中学の役員来広し、「折鶴の会」と交流。
79 05 19 「広島折鶴の会」、広島県の南米訪問団に、在南米被爆者激励の手紙など託す。
80 04 20 「ヒロシマ折鶴の会」、ヒロシマ市中・高校校長の歓迎交流会開く。
83 02 20 広島折鶴の会のメンバーら、広島原爆養護ホーム「神田山やすらぎ園」を慰問。
83 07 99 カナダの作家コーリン・トーマスより、脚本執筆のため原爆症で死んだササキ・サダコについての資料を依頼する手紙が広島折鶴の会へ届く。
84 03 10 「広島折鶴の会」、放火で折りづるが焼失した動員学徒慰霊塔に折りづるささげる。
84 05 13 広島折鶴の会、広島市を訪れている在カナダ被爆者協会のメンバーに折りヅル、平和カレンダーなどを贈る。
85 01 17 ブラジルの日本語学校の生徒ら、来広し原爆資料館など見学、原爆病院を慰問。18日広島折鶴の会と交流。
85 11 06? 原爆をテーマにした戯曲「千羽鶴」の作者コーリン・トーマスから、同戯曲の脚本(日本語訳)などが、広島市の平和活動グループ「広島折鶴の会」に届く。
85 12 14 広島市、西独で出版される児童文学「サダコと千羽鶴」の插絵・折りづる(「広島折鶴の会」などが作成) を、ハノーバー市へ送付。
86 02 21 広島折鶴の会、広島-札幌間の航空便就航を記念して、北海道・広島町などに千羽づるを贈呈、広島市で贈呈式。
86 03 08 広島折鶴の会のメンバー、広島市平和記念公園内の原爆ドーム前で、ドームを国の特別史跡に指定するよう求める署名運動を開始。
86 04 17 広島折鶴の会、カナダ原爆被害者の会に親子縁組を申し込むメッセージなどを、カナダを訪れる広島市長に寄託。
86 05 09? 広島折鶴の会が1960年頃交流していたインド人のヒロシマ・ボガの消息が判明し、同会のメンバーら、交流の再開を呼びかける手紙を送付。
86 06 22 広島折鶴の会、ソ連原発事故の被災者に見舞いの折りづるを作成、ソ連共産党書記長に寄贈。
86 11 30 広島折鶴の会、国際駅伝広島大会に参加した韓国の選手に折りづるを贈る。
87 01 15 広島折鶴の会、韓国人原爆犠牲者の慰霊碑を平和記念公園内に移設するよう求める署名運動を開始。
87 01 21 ブラジル・サンパウロ市の日本語学校生徒(18名)、来広し、平和学習。広島折鶴の会のメンバーと交流。
87 06 18h 広島折鶴の会に、姉妹縁組しているソ連ボルゴグラード市のピオネール(少年団)から、旗など届く。
87 10 25 広島折鶴の会、広島市の平和記念公園「原爆の子の像」前で、原爆症で死去した佐々木禎子の追悼式開催。
88 04 27? 「広島折鶴の会」、1936年のベルリン・オリンピックに「日本人」として出場させられた韓国のマラソン選手に、折りづるを送付し、同選手から礼状届く。
88 07 25 「広島折鶴の会」、原爆ドームの設計者ヤン・レツルのめい(チェコスロバキア在住)にドームの写真などを寄贈。
89 04 02 広島折鶴の会、24年前のドーム保存運動のきっかけとなった日記を残した故楮山ヒロ子(1960年に白血病で死去)の墓前に献花、ドーム保存運動の再開を報告。
89 04 02 広島折鶴の会、カナダの小学校などから届いた千羽づる約2000羽を平和記念公園の原爆の子の像にささげる。
89 04 05? 旧広島県産業奨励館(原爆ドーム)の設計者故ヤン・レツルのめいから、「広島折鶴の会」メンバーに、ドーム保存への協力を訴えた手紙(1988年夏に送付)に対する返書が届く。
89 05 04? 広島折鶴の会、長野市の布コイ製造業赤石平太郎から託された「こいのぼり」をブラジルのヒロシマ中学校に寄贈。
89 06 02 広島折鶴の会と電気通信共済会中国支部、原爆ドーム保存募金協賛のテレホンカードを作成し、販売を開始。1枚1000円で、うち200円を募金に。
89 06 10 埼玉県与野市の与野西中学校生徒、修学旅行で来広し、「原爆の子の像」前で慰霊祭。チェコ・ナホト市へ贈る原爆ド-ムの絵を広島折鶴の会に寄託。
89 07 30 米ミシガン州の小学生より千羽鶴と平和メッセージが届き、「広島折鶴の会」メンバーらによって「原爆の子の像」に献納。
89 08 04 仏マラコフ市のミシェル・シボ助役一家、来広し、「原爆の子の像」前で「広島折鶴の会」と交流。
89 08 25 広島折鶴の会と電気・電信共済会中国支部、原爆ド-ム保存募金テレホンカ-ドの販売益金(80万円)を広島市に寄付。
89 10 14 米のアニメーション映画「サダコと千羽づる」の米国人プロデューサー、ジョージ・レベンソン、来広し、「原爆の子の像」に参拝。「折鶴の会」会員らと交流。
90 04 01 「広島折鶴の会」、原爆ドームの設計者のめいに送るため、補修工事の終了した同ドームを撮影。
90 04 01 「広島折鶴の会」、原爆ドーム保存運動のきっかけになった故楮山ひろ子の墓前に、ドーム補修工事の終了を報告。
90 05 28 広島折鶴の会、来広したチェコの体操選手団に、原爆ドームの保存工事終了を記念して、同ドームのレプリカを寄贈。
90 08 03 米の児童文学者エレノア・コア、女性国際シンポジウム参加のため来広。「広島折鶴の会」メンバーらと「原爆の子の像」に参拝。
90 10 31? 福山市の専門学校講師吉原綾子ら、1967年当時の原爆ドーム保存運動の記録「爆心地」(B5、96ページ、折鶴の会自費出版)の英訳を開始。
91 04 10 チェルノブイリ原発事故被災地の子供ら、広島赤十字・原爆病院に入院(13日まで)。市民グループ「広島折鶴の会」、折りづるなどの慰問品を届ける。
91 06 09 埼玉県の与野西中学校の生徒(234人)、来広し、平和学習。チェルノブイリの子どもたちへの贈物を「折鶴の会」に寄託。
91 07 19 広島女学院大学名誉教授メアリー・マクミラン、ニューヨーク市で死去。広島滞在中、折鶴の会・ワールド・フレンドシップ・センター などの平和運動に参画。1980年には広島市の特別名誉市民に選ばれる。(広島女学院)
91 11 24 「広島折鶴の会」、ハワイ真珠湾(パールハーバー)のアリゾナ記念館に折りづるを送付。12月8日に同記念館に献納。
91 11 14? 「広島折鶴の会」、ハワイ真珠湾(パールハーバー)のアリゾナ記念館に折りづるを送る運動を開始。
92 01 12 広島折鶴の会の子どもたち5人、河村病院で韓国人被爆者と一緒に書初め。ハングル文字で「韓国人原爆犠牲者慰霊碑を平和公園に」。
93 05 29 広島折鶴の会の小学生ら6人、広島赤十字・原爆病院に南米から里帰り治療で入院中の3人の被爆者を慰問。
93 12 13 広島折鶴の会、中国・南京の小学生と平和文通を行うことを決める。
94 03 11 広島折鶴の会、カナダ・モントリオール市の生徒から届いた千羽鶴を平和記念公園の「原爆の子の像」に供える。
94 08 06? 「広島折鶴の会」、新潟県の主婦らの手づくりによる親指大の幸福地蔵200体を受け取る。
95 06 18 広島折鶴の会の5人、ブラジルから里帰りして広島赤十字・原爆病院で治療中の被爆者4人にブラジル・サンパウロ州立ヒロシマ市中学校宛の折り鶴を託す。
95 08 03? 広島「折鶴の会」の河本一郎、英水爆実験に抗議し1957年に原爆慰霊碑前に初めて座り込み、2年後に首相官邸前で割腹自殺した僧侶・小林葆生の遺骨を原爆供養塔に納骨することを希望。
95 08 09? 「広島折鶴の会」、今年2月に北朝鮮で結成された「反核と平和のための朝鮮被爆者協会」との交流を計画。
95 10 03 「広島折鶴の会」、韓国釜山市の医師から贈られたチョゴリを着て、広島市内で療養中の韓国人被爆者と交流。
95 10 19 「折鶴の会」(河本一郎世話人)、県庁を訪れ、来月南米を訪問する藤田知事に託する折鶴4000羽を渡す。
96 06 12? 広島折鶴の会、中国の核実験に対する手紙を千羽鶴を添えて送ることを計画。
96 09 28 広島折鶴の会、広島市を訪れたチェコ・プラハ国立歌劇場還元楽団に千羽鶴などを贈る。
96 11 28? 広島折鶴の会のメンバーである市立基町高校2年生、ユネスコの世界遺産化委員会のメンバーに原爆ドームの世界遺産化を願う手紙を送る。
97 10 25 河本一郎ら「広島折鶴の会」のメンバー2人、広島市平和公園の「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子の墓に折り鶴をささげるため福岡市に向かう。
98 07 09 「広島折鶴の会」の小学生2人、インドの市民団体に送る折鶴約500羽を「プルトニウム・アクション・ヒロシマ」の代表に託す。

現代と広島の会

「現代と広島」の会

設立:1978年7月10日

年表

年月日 報告者 「タイトル」ほか
1 19780710 発足準備の話し合い。 参加者8名 。朝日会館屋上
2 19780828  宇吹 「 被爆直後の原爆報道」
3 19780925  田原  「不思議な広島」
4 19781030  藤原  「尾道時代の中井正一」
5 19781120  宇吹 「 原爆と市民」
6 19781218   忘年会。 参加者7名 。源蔵。
資料「「現代と広島の会」1978年の歩み」1979.1.29
7 19790129  木村
8 19790226  田原  「原爆手記の考察(Ⅰ)」
9 19790326  深川  「被爆朝鮮人徴用工について」
10 19790423 田原  「子どもの視界の中で―継承の問題―」
11 19790522  島津 「 原爆孤児の戦後―広島戦災孤児育成所を中心に」
12 19790625  今田  「鮎川信雄の『死の灰詩集』批判について」
資料「「現代と広島の会」1979年(前半)の歩み」1979.6.25
13 19790723  松林  「町内会・部落会等の廃止について」
197908 10日~11日。合宿(呉市・国民宿舎温度ロッジ。7名領収書計41933円)
14 19790810  石踊  10:30~安芸書房の現状など
15 19790810  深川宗俊  13:35~「消えた国旗批判」
16 19790810  田原  16:30~<ピカ研(調査報告綴)、原爆ババアなど>
17 19790811  藤原  09:20~「戦後の広島県内文化運動について」
18 19790811  宇吹  「『原水禁運動の原点』をめぐって」<レジメが行方不明>
19 19790917  島津 「太平洋核実験場から」
20 19791022 内田恵美子 「原爆被災資料論」<レジメのタイトル「資料センター発足後の経緯・問題点・今後の課題」、「広島大学原爆放射能医学研究所の沿革」>
21 19791112 安藤  「早速整爾論」
 土師ダム(日帰り会場)
19810512 石踊  安芸書房の現状など
19810512 田原  梶山季之、中国文化連盟など、
19810616 島津  「中国山地の製鉄業」
19810714  田原  「ピカ時評」命日の紹介。