NGO一覧(ら行)
組織名 | 設立年月日 | 確認年月日 | 備考 | |
黎明短歌会 | 代表:武田兵衛 | 月刊誌『黎明』創刊号2001年1月、40号=終刊(2008年) | ||
『黎明』5巻32号=原爆手記(柳井ルリ子ほか)掲載 | ||||
NGO一覧(ら行)
組織名 | 設立年月日 | 確認年月日 | 備考 | |
黎明短歌会 | 代表:武田兵衛 | 月刊誌『黎明』創刊号2001年1月、40号=終刊(2008年) | ||
『黎明』5巻32号=原爆手記(柳井ルリ子ほか)掲載 | ||||
組織名 | 設立年月日 | 確認年月日 | 備考 | |
吉浦郷土史研究会 | ||||
組織名 | 設立年月日 | 確認年月日 | 備考 | |
組織名 | 設立年月日 | 確認年月日 | 備考 | |
組織名 | 設立年月日 | 確認年月日 | 備考 | |
た | ||||
組織名 | 設立年月日 | 確認年月日 | |
は | |||
ひ | 広島市女性団体連絡会議 | 199502 | 202002 |
http://www.hiroshima-wenet.net/ 広報紙「ひろしまWENET」 | |||
広島市地域女性団体連絡協議会
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1948 | 202002 | |
https://cyberbb.com/hjd/
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広島平和記念公園被爆遺構の保全を促進する会 | 20170402 | 201705 | |
出典:『朝日』2017.0419『毎日』2017.05.13 | |||
ふ | |||
へ | |||
ほ |
ワールド・フレンドシップ・センター
設立年月日:1965年8月7日
ワールド・フレンドシップ・センター | |
ワールド・フレンドシップ・センター | 「平和の推進1975」p. |
ワールド・フレンドシップ・センター | 「平和の推進1976」p.29 |
ワールド・フレンドシップ・センター | 「平和の推進1983」pp.47-48 |
ワールド・フレンドシップ・センター | 「平和の推進1988」pp.81-82 |
(1)ワールド・フレンドシップ・センター(WFC)<助成。~1990> | 「センター20年誌」pp.111-112 |
広島平和美術展
1955年8月4~8日、初の広島平和美術展が平和記念館を会場で開催。
開催趣旨「いつの時代においても戦争は文化の破壊者でした。核戦争がはじまれば、人類の絶滅を意味します。八月六日を中心に集まり、作品を通して世界平和への願いを現すために」
第2回以降は、広島平和美術協会の主催。時には、広島市教育委員会(第4回)、広島市中央公民館・中国新聞社(第10回)、広島平和文化センターなど、他機関との共催。
広島平和美術展 | |
平和美術展 | 「平和の推進1980」 |
広島平和美術展 | 「平和の推進1982」 |
広島平和美術展 | 「平和の推進1983」p.34 |
広島平和美術展 | 「平和の推進1985」 |
広島平和美術展 | 「平和の推進1986」 |
平和美術展 | 「平和の推進1987」 |
広島平和美術展 | 「平和の推進1988」p.55 |
(1)広島平和美術展 106 | 「センター20年誌」pp.106-107 |
(1)第43回広島平和美術展の共催…………91 | 「平和と交流1998」pp. |
(1)第44回広島平和美術展の共催 83 | 「平和と交流1999」pp. |
(1)第45回広島平和美術展の共催 129 | 「平和と交流2000」pp. |
(1)第46回広島平和美術展の共催 122 | 「平和と交流2011」pp. |
『河図洛書―渓水社10周年記念』(渓水社、1985年4月1日)pp.140-143
原爆問題についての私の師の一人であるT(田原)氏との出会いは、広島市内のあるガレージであった。そこには、T氏の管理する原爆関係の本が持ち込まれていた。私は学生時代から平和、
原爆問題に関心を持っていた。広島県の歴史の中でも重要なテーマと思い、その関連の本について、卒業後も気をつけていた。しかし、T氏の本の大半は、初めて目にするものであった。その後、T氏は、しばしば「蔵書を前の議論」の機会をつくってくれた。それは、私が、学生時代以来、久しく忘れていたものであった。私の原爆文献漁りが、T氏との出会いを契機に始まった。
平和と学問を守る大学人の会
会の結成
1953(昭和28)年2月21日,広島県内の大学に教職を持つ有志約50人は,平和と学問を守る大学人の会(略称・大学人会)を結成した。結成の背景について同会会報創刊号(1953年6月1日)は次のように述べている。
昨年の破防法問題の時には,広島の大学人は結局これを見送ったのであったが,見送りながらも刻々民主々義の基盤が侵蝕され,平和が危機に曝されて行く事実を見逃すことはでぎなかったのである。さらに昨年末から本年にかけて問題となった科学技術庁案は,侵略の魔手が直接研究の現場にまで迫ってきていることを気づかせたのである。そして,このことはかって支那事変から太平洋戦争の時代にかけて,軍事科学の偏重のために人文・社会の研究は勿論,自然科学といえども,基礎的研究は経済的に圧迫されて事実上閉塞し,さらに軍国主義思想が学問の自由を破壊したという,まだ去って間もない過去の苦しい経験を,まざまざと思い起させたのである。この反省が,今度こそはわれわれ自身の手によって学問の自由を確保し,平和を擁護しなければならないという自覚を促し,その自覚がわれわれを,今,ここに結集させているのである。春秋の筆法を以てすれば,破防法に始まる悪法が--さらに遡ってサンフランシスコ条約以来の反平和的情勢が,われわれ広島の大学人会を結成させたものである。
大学人会の目的は,「平和を擁護し良心と学問自由を守ること」(規約第2条)とし,事業として,1.共同研究会の開催,2.公開講演会・公開討論会・座談会等の開催,3.本会と目的を同じくする諸団体との連絡提携などが定められた(規約第3条)。発足以後,3月末には会員数は90入に達し,5月末現在では100人を超した。
大学人会の発足当初の活動は,地味なものであったが,この会は,のちの広島の社会運動,とりわけ原水爆禁止運動・安保闘争の中で重要な役割を果すこととなる。
大学人の会の研究活動
平和と学問を守る大学人の会は,同会研究論集として『原爆と広島』(1954年12月10日),『広島の農村』(1955年7月20日)を発行し,高い評価を受けていたが,これらは同会の共同研究の成果というよりも,個人的労作を編集したものであった。1956(昭和31)年には会の共同研究を推進することを決め,石井金一郎を中心に検討がなされた。その結果,次のような計画がまとめられ,6月12日の常任委員会で承認された。
1.広島の平和運動の過去と現状及び将来の展望(世話役=今中次麿・石井)-運動実践家を囲んで運動の実態を聞く会と,研究参加会員によるその運動の評価の研究会とを交互にもって,研究をすすめる。平和運動としては原水爆禁止運動・平和憲法擁護運動・平和文学の運動等々を含めた広い運動を対象とする。
2.原子力問題(伊藤満・庄野博允)=肩のこらない軽い気持で参加できる研究会にする。原子力をめぐる各方両の問題を一つづつとりあげて懇談を行うことから出発する。自然科学部門の人と社会科学部門の人との共同研究の場にしたい。
3.日本における学問の自由=欧州の学問の自由の歴史・日本の学問の自由の歴史・大学自治の問題,現在われわれが直面している問題等々を問題としたい。
(「広島大学人会会報」NO.16)
このほか,平和文学(または国民文学)の問題を取りあげることも検討されたが,結局見送ることになった。
平和運動の研究班は,8月17日に大原亨(広島県労議長)・松江澄(平和擁護委)・棗田金治(広大自治会)から労組・学生団体の平和運動について,同月20日に円辺耕一郎・藤居平一(広島県原水協)・山口勇子(広島子供を守る会)・松江澄から原水爆禁止運動について,また,23日には米田栄作・望月久・島陽二(詩人)・佐々木豊・志木寥波(歌人)・小林健三・土谷厳郎(平和問題談話会)・桑原英昭(人類愛善会)・河本一郎(FOR友和会)・金井利博(中国新聞社記者)から宗教・文化関係の話を聞く会を開いた。この3回の懇談会の記録は,同年12月に石井金一郎により『広島の平和運動(平和運動研究班(中間報告)」としてまとめられた。同書は,「広島の平和運動研究資料一」と銘打たれていたが,1957(昭和32)年中に「同二」として『原爆被害者の歩み』(庄野博允執筆)が、また「同三」として『原爆被害者救援の動き』(佐久間澄執筆)がそれぞれ発行された。
なお,原子力の班は,討議の資料として原子力に関する自然科学・社会科学各方面にわたる国内文献目録の作成と原子力問題についての歴史年表の作成を計画,前者については,1957(昭和32)年3月に「原子力問題研究資料1原子力関係文献目録』(佐久間澄編)として発行している。