平和と学問を守る大学人の会
会の結成
1953(昭和28)年2月21日,広島県内の大学に教職を持つ有志約50人は,平和と学問を守る大学人の会(略称・大学人会)を結成した。結成の背景について同会会報創刊号(1953年6月1日)は次のように述べている。
昨年の破防法問題の時には,広島の大学人は結局これを見送ったのであったが,見送りながらも刻々民主々義の基盤が侵蝕され,平和が危機に曝されて行く事実を見逃すことはでぎなかったのである。さらに昨年末から本年にかけて問題となった科学技術庁案は,侵略の魔手が直接研究の現場にまで迫ってきていることを気づかせたのである。そして,このことはかって支那事変から太平洋戦争の時代にかけて,軍事科学の偏重のために人文・社会の研究は勿論,自然科学といえども,基礎的研究は経済的に圧迫されて事実上閉塞し,さらに軍国主義思想が学問の自由を破壊したという,まだ去って間もない過去の苦しい経験を,まざまざと思い起させたのである。この反省が,今度こそはわれわれ自身の手によって学問の自由を確保し,平和を擁護しなければならないという自覚を促し,その自覚がわれわれを,今,ここに結集させているのである。春秋の筆法を以てすれば,破防法に始まる悪法が--さらに遡ってサンフランシスコ条約以来の反平和的情勢が,われわれ広島の大学人会を結成させたものである。
大学人会の目的は,「平和を擁護し良心と学問自由を守ること」(規約第2条)とし,事業として,1.共同研究会の開催,2.公開講演会・公開討論会・座談会等の開催,3.本会と目的を同じくする諸団体との連絡提携などが定められた(規約第3条)。発足以後,3月末には会員数は90入に達し,5月末現在では100人を超した。
大学人会の発足当初の活動は,地味なものであったが,この会は,のちの広島の社会運動,とりわけ原水爆禁止運動・安保闘争の中で重要な役割を果すこととなる。
大学人の会の研究活動
平和と学問を守る大学人の会は,同会研究論集として『原爆と広島』(1954年12月10日),『広島の農村』(1955年7月20日)を発行し,高い評価を受けていたが,これらは同会の共同研究の成果というよりも,個人的労作を編集したものであった。1956(昭和31)年には会の共同研究を推進することを決め,石井金一郎を中心に検討がなされた。その結果,次のような計画がまとめられ,6月12日の常任委員会で承認された。
1.広島の平和運動の過去と現状及び将来の展望(世話役=今中次麿・石井)-運動実践家を囲んで運動の実態を聞く会と,研究参加会員によるその運動の評価の研究会とを交互にもって,研究をすすめる。平和運動としては原水爆禁止運動・平和憲法擁護運動・平和文学の運動等々を含めた広い運動を対象とする。
2.原子力問題(伊藤満・庄野博允)=肩のこらない軽い気持で参加できる研究会にする。原子力をめぐる各方両の問題を一つづつとりあげて懇談を行うことから出発する。自然科学部門の人と社会科学部門の人との共同研究の場にしたい。
3.日本における学問の自由=欧州の学問の自由の歴史・日本の学問の自由の歴史・大学自治の問題,現在われわれが直面している問題等々を問題としたい。
(「広島大学人会会報」NO.16)
このほか,平和文学(または国民文学)の問題を取りあげることも検討されたが,結局見送ることになった。
平和運動の研究班は,8月17日に大原亨(広島県労議長)・松江澄(平和擁護委)・棗田金治(広大自治会)から労組・学生団体の平和運動について,同月20日に円辺耕一郎・藤居平一(広島県原水協)・山口勇子(広島子供を守る会)・松江澄から原水爆禁止運動について,また,23日には米田栄作・望月久・島陽二(詩人)・佐々木豊・志木寥波(歌人)・小林健三・土谷厳郎(平和問題談話会)・桑原英昭(人類愛善会)・河本一郎(FOR友和会)・金井利博(中国新聞社記者)から宗教・文化関係の話を聞く会を開いた。この3回の懇談会の記録は,同年12月に石井金一郎により『広島の平和運動(平和運動研究班(中間報告)」としてまとめられた。同書は,「広島の平和運動研究資料一」と銘打たれていたが,1957(昭和32)年中に「同二」として『原爆被害者の歩み』(庄野博允執筆)が、また「同三」として『原爆被害者救援の動き』(佐久間澄執筆)がそれぞれ発行された。
なお,原子力の班は,討議の資料として原子力に関する自然科学・社会科学各方面にわたる国内文献目録の作成と原子力問題についての歴史年表の作成を計画,前者については,1957(昭和32)年3月に「原子力問題研究資料1原子力関係文献目録』(佐久間澄編)として発行している。
「03 ヒロシマNGO」カテゴリーアーカイブ
日本ジャーナリスト会議広島支部
沿革
年 | 月日 | |
1967 | 0218 | 広島支部結成 |
0304 | 機関紙「広島ジャーナリスト」NO.1発行 | |
1969 | 0628 | 時事通信・田島さんの人権を守る呉市民の会結成 |
1130 | 広島県文化団体連絡会議結成。支部が加盟 | |
1970 | 第1回 不戦の夕べ | |
1982~ 1988年 | 活動休眠 「不戦のつどい」中断 | |
1989 | 0815 | 第13回 不戦のつどい |
1990 | 0618 | JCJ広島支部再建総会 |
1995 | 1103~04 | JCJ創立40周年・被爆50年全国交流集会 |
2021 | 0718 |
ジャーナリスト会議広島支部総会&記念講演会
講師:宮崎園子さん
会場:広島市まちづくり市民交流プラザ
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広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)
広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)
1978.9.14 於YMCA
(佐々木)東京に行っている広島の撮影分は、入れるというより記録に残しておくだけにしないと。
(松重)それらを入れないと、集大成にならないのではないか。ほとんど出版されているのではないか。
(佐々木)出版物掲載分も記録として残してはどうか。木村さんのは(大和人絹内撮影)ほとんど東京へ行っているのではないか。それを入れるとなると、いろいろ問題が出てくる。個人と写したものと、軍や警察が写したものを一緒にするとトラブルが起きはしないか。
(木村)主人も死んでいるし、撮影を指示した医師も死んでいて、当時のことがわからなくなっている。当時の看護婦さんなどは生きている。
(佐々木)行動記録が今は一番大切ではないか。今後写真が出てきた場合、推定の根拠になる。死なれた人のは、もうわからなくなってしまう。6×6で何枚、キャビネで何枚などという記録が大事。
川本さんの写真――N.G.ピンボケなどのネガが残っている。最初写したものは、米軍が全部持って帰った。それではもう一度撮れとの警察の指示で写したものが残っている。
大和人絹の中には相原さんは行っていない。日赤と逓信病院のみ。大和人絹の中は木村さんのものだけで済ましている。軍と警察のものだけがわからない。
(尾糠)憲兵隊に提出。ネガを提出したかどうかわからない。
(佐々木)川本さんも尾糠さんと同じコースを歩いている。
(尾糠)終戦後すべての写真を焼いた。写真班の横に穴を掘ってうめた。
(佐々木)東京空襲のも警視庁のものだけ残っている。東京のもの、ライカで30本ぐらい写している。
(松重)川本さんの写真、現像ミスも含めれば4~50枚残っているのでは。見たものだけでもそれくらいある。
(佐々木)
(松重)出版物のも写したものにまちがいなければ、複写してでも残してはどうか。
(佐々木)それはいいが、あいまいなものまで加えると目録の価値がなくなる。木村さんは自分の責任でとったもの以外は、自分で写したものとは言われなかった。軍と警察以外のものは、ほぼ検討がつく。
(松重)今日来ておられない人のネガ、枚数の確認と行動記録をつくることが必要。
(川原)6日は罹災者へ食料をもていったと言っていた。7日から写したものと思われる。軍人と一緒に巡ったそうだ。
(木村)宇品が解散になるまで、やめさせてもらえなかった。
(佐々木)9月15日頃までと聞いた。
(川原)相原さんが(調べるため)問い合わせた件についてもすべて返事を主人の代理で書いた思えがある。あの手紙が借りれれば書けると思うんだが。
(佐々木)相原さんがどこかに出すつもりがなければ、借りれると思うが。
川原さんが我々にもっと心を開いてくれたらなあ。
(川原)あの頃は市役所とのいきちがいがあったので、何もしゃべらなくなった。
(佐々木)相原さんは、S44、ぼくが東京へ行くまでは何も知らなかった。
(入室)(山本よしえ)中国新聞写真部に松重君と一緒にいた。
(佐々木)川原さんがついて行ったのは憲兵隊の人と一緒だったと言っていた。
(尾糠)私も憲兵隊と一緒に行った。
(川原)次の日(終戦日)行かれないからと憲兵隊の人にカメラを貸したら、もう返してもらえなくなった。
(佐々木)江波へも行っている。どうやって行ったのか、宇品から船で行ったのかも知れない。
(川原)楠木を写したものは、ゆがんだので写し直した。ゆがんだものが相原さんのところにあり、まっすぐなったのが残っている。
(松重)藤井さんは撮影しているか。
(川原)藤井さんは出ていないと聞いているが、会って話した時には、自分も出たと言っておられた。
(松重)来年どうしても出版しなければならないということはないが、みんないつ死ぬかわからないから早くしておきたい。
(深田)林(タクマ)さんは、自分のは大したことは何(ママ)から、と言っておられたが、早く行っていないと、もう高齢だから。
(松重)川本さんのは、息子が私に任せると言っているが、足どりをまとめておかなくては。
(佐々木)息子さんではわからないのではないか。私も警察関係の人々にずい分聞いたがわからなくなった。
(松重)いよいよ本職の新聞記者にやってもらわなくてはどうにもならないのではないか。今、原災研は150~60万ある。
(岸田)キャビネで揃えたらどうか。費用の点は自分でやっておくことにし、やれない人は私のところでもやるから。
(佐々木)36mmはベタ焼きの方がよい。
(岸田)虫目がねで見るようなですよ。
(山本)出版するのなら写真のサイズを考えておかないと。
中国新聞屋上から、同僚(谷川君)と一緒に移した。合計4枚出てきた。あとは整理してみないとわからない。
(佐々木)わかるものは、もう作業しましょうや。
(川原)当時のことは何も知らないから、私は遠慮さしてください。
(佐々木)尾糠さんは川原さんの行動を知っていないか。
(尾糠)わからない。写真を見ればわかるものがある。
(佐々木)藤井さんが元気な時聞いたら、現像焼付みな別々の人間がやったのだから、だれが写したかわかりはしないよと言っておられた。それがほんとのことだろうと思う。
(松重)キャビネに統一して。
(佐々木)35mmもか。
(松重)そうだ。
(山本)(岸田)利用にはキャビネが良い。
(松重)カード添付写真はキャビネ版とする。行動記録はいつにするか。
(岸田)11月末までにやったらどうか。
(松重)行動記録、11月末までに〆切ったらどうか。
(松重)<ネガ再製について>
市平和文化センターから手紙。田中にやらせるからオリジナルネガを貸して欲しいとの要請があった。それについての私案をつくった。8・6前に依頼があった。
(岸田)<貸出しの場合撮影者の同意をうる>は個人ではなく撮影者の会にしたらどうか。
(山本)撮影者の会を通してやったらどうか。
(岸田)撮影者の会としての権威をもたなくては。
(佐々木)個人で協力しない人もいる。それをどう考えるか。職員が個人でやって、充分責任をもっていない。
(深田)島本
(川原)〃
(入室)(黒石)
(岸田)佐々木さんは佐々木さんの意志ですればよい。
(松重)字句については、また考えてみる。
(佐々木)出版などで依頼があった場合どうか。
(岸田)個人へ来たら、撮影者の会へ連絡することにする。代表者・会則をつくる必要がある。
(松重)原爆写真は公共性が強いから、金銭面は慎重でなくてはならぬ。文化センターは永久保存用ネガと貸出用ネガをつくろうとしている。
(佐々木)文化センターは、いる写真といらない写真を別けようとしている。公文書館は全部を保存しようとしている。
(松重)文化センターは、貸出用ネガがあれば良い。
(松重 三)借りに来たが(キャビネ)何のあいさつもない。
(山本)原稿なら原稿料がでるのだから写真に対しても謝礼があって当然。
(松重)これは森本タイジさんの写真です。
(佐々木)もうこれで集まって話すよりも、あとは通信でやったらどうか。
(黒石)会費をとったらどうか。
(佐々木)1000円づつ集めたらどうか。2000円。
次回11月末までに通信でやる。
(川原)記録の会の写真は返ってくるか。
(松重)あれは言いますよ。
15:35 終了
「原爆被災体験資料」蒐集のための御協力者のお集まりのお願い
1965年7月7日
「原爆被災体験資料」蒐集のための御協力者のお集まりのお願い
御協力の意志表明をいたゞいた標記の件につきましては、先便で経過の概略をお知らせいたしましたが、今般左記のようにお集まりをいたゞきたいと存し、御案内申し上げます。
その際、左記の三氏よりそれぞれの部門について御報告があります。
物理学(医学)部門(広島)
庄野直美氏(理学博士 広島女学院短大教授)
文学部門(広島)
豊田清史氏(歌人)
長崎の概況
木野普見雄氏(長崎市常任監査員 日本被団協代表理事)
なお、最初にお送りした「計画要網」にミス・プリントもあり、「協力」の内容がはっきりしないと云う御批判が多くよせられましたが、このことについては私どもは次のように考えております。
一、日本被団協のこの事業を支持する意志表示によって、私どもをサポートしていただくこと。
一、この事業の推進のため、日本被団協は募金を行いたいと存じますが、そのお願いに対して連名でお口添えをしていただくこと。(このことについて、募金は「協力委員会」内部だけにとどめよという御意見もあります)
一、以上のほか、できれば
1.御自身でおもちのまたは御存知の資料についてお知らせいたゞくこと。
2.御専門の分野から、資料の調査、蒐集、保管方法、その他の問題点について御意見をお寄せいただくこと
3.将来、目録の作成(出版)、編集、翻訳等の問題が具体化すれば、御助言と御助勢をいただくこと。
4.その他
何分非力の私どもが進めている仕事のこと故、いろいろと手落ちも多く、なお御得心のいかない不備の点もあろうかと存じます。
また当日は御多忙中のことと存じますが、何とぞ御出席のうえ私どもを御指導、御激励下さるようお願い致します。
記
一、日時 七月一五日(木曜日)午後一時
一、場所 電通会館第一会議室
千代田区神田駿河台三の六 電話(二五二)九六一八
一、会合の内容
経過報告と今後のお願い 森滝市郎
各部門報告 前記三氏
御意見の交換
以上
一九六五年七月七日
日本原水爆被害者団体協議会
理事長 森滝市郎
様
***********************
『「原爆被災体験資料」蒐集のための御協力者のお集まりのお願い』(森滝市郎(日本原水爆被害者団体協議会理事長)、1965年7月7日)
![]() |
庄野直美 |
豊田清史 |
木野普見雄 |
日時:7月15日(木)午後1時 |
場所:電通会館第一会議室 |
会合の内容 |
森滝市郎:経過報告と今後のお願い |
前記3氏:各部門報告 |
意見交換 |
![]() |
止
団体名簿
団体名簿
資料名 | 作成者 | 作成者 年月日 | 備考 |
原水爆関係団体名簿 | 広島市衛生局原爆被害対策課 | 19670201 | |
平和関係団体調査報告書(広島市関係・その1) | 広島平和文化センター | 196803 | |
平和関係団体のしおり | 広島平和文化センター | 197003 | |
平和団体を訪ねて | 広島平和文化センター | ||
「平和文化」第2号~第22号(197608~198003)に連載。17団体を紹介 | |||
被爆体験証言者交流の集い 団体・グループ紹介一覧表 | 被爆体験証言者交流の集い世話人 | 19930301 | |
広島平和委員会(1958年 )
広島平和委員会
昭和33年9月27日,広島市内の光道会館で広島平和委員会の結成総会が開かれた。
これは,在広の日本平和委員会々員十余名の集まりであった広島平和協議会が原水爆問題に限定されがちな広島県原水協の制約を越えて、原水爆問題のみならず、民主主義の確保、憲法擁護,基地撤廃など広範な平和運動を進めるための組織として準備したものであった。(広島平和協議会「広島平和協議会へ参加のお願い」昭和33年9月)。
成総会には県内から50人が参加(総会当日の入会者は60人)し,日中関係・勤評問題・国際続一行動の点について討議を行った。また,当日,会長(佐久間澄)・幹事(佐久間・板倉静夫・三宅登・石井金一郎・村中好穂・石田千鶴子・松江澄)を決定している(「広島平和ニュース」No.1)。
広島平和委は,10月末に労働者を中心とした部会を開いたが,40人近く参加した。この時の討議で岩国基地行進を成功させようということが強く主張された。この行進というのは,10月16日に広島で開催された日本原水協中国ブロック山陽側会議で決定されたものである。この時,11・1国際共同行動デーの取り組みとして,広島・山口両県原水協共催で,核武装阻止岩国墓地平和大行進と岩国市における大衆集会を開催することとなった(「広島原水協情報」No.1 昭和33年10月30日)。
11月8日から9日にかけて広島から岩国まで40人近くの人々が徒歩行進を行ったが,その半数以上は広島平和委の労働者部会に参加した者かあるいはその働きかけによる参加者であった。広島平和委員会が結成後初めて取り組んだ続一行動である岩国基地行進の成功は,その後の平和運動に少なくない影響力を与えた(「広島大学人会会報」N。.22)。同会自身の総括によれば,その意義は次のようである。
①平和委員会グルーブによる目的意識的な活動によって基本的に成功した。労働者部会の果した役割はこの成功を決定づけた。
②運動の目標の面で,不充分ながらも警職法闘争を平和を守る運動の一環としてとらえ,この闘争に組織された力を意識的な行動方向をうちだすことによって,民主主義と平和の闘争を統一的に発展させた。
③運動の方法の面で,従来くりかえされた官僚的な上からの動員方法を打破し下からの自主的参加とそのための活動を強調し,それは基本的に実現され,今回の「行進」の重要な特徴としてその成功を保障する主要な原因となった。
④この「行進」は従来の一般的,抽象的な原水禁運動を,昨年の美保基地闘争から発展させ,具体的な基地反対の行動にたかめ広島の平和運動を前進させた。
⑤さらにこの「行進」は国鉄第二支部の経験にみられるように,行動を通じて活動家をつくりだし,今後の平和活動の一層の発展を保障した。
昭和33年12月初めには,会員数は100人を越え,各地・各職域に,平和委員会結成の動きが生まれた。
8・6学生平和会議(1956年8月5~7日)
8・6学生平和会議
主催:広島大学学生自治会
1956年8月5~7日
第1日(5日)
午前9時半~午後5時半 広島児童文化会館
広島大学・広島女子短大、北海道・東北・東京・京都・四国・九州など全国80の大学・高校から約500人が参加。
開会宣言=棗田金治(広島大学文学部)
実行委員長あいさつ=児玉健次(広島大学文学部)
「原爆許すまじ」全員合唱
平和問題シンポジューム
講演
長田新日本教育学会会長
佐久間澄広島大学教授
柳田謙十郎戦没学生記念会理事長
今中次麿広島大学教授
重藤文夫広島赤十字病院院長
討論
午後6時~
高校生代表者会議
映画会=原爆記録映画「生きていてよかった」観賞
レセプション 於紙屋町ガスビル
第2日(6日)
午前8時~ 広島市平和記念式典参列
午前10時~ 修道高等学校講堂
原爆被害者実情報告会=吉川清・原成子・温品道義など7名。
午後1時~
大学部会(於広島市平和記念館)
北海道・東北・東京・京都・四国・九州などから約300名参加。
高校部会(修道高等学校)
四国・鳥取などからの参加者を含め100名参加。
代表30名による原爆症患者の慰問=日赤・市民病院・県病院
午後6時~
被害者を囲む会(学生会館)
柳田謙十郎氏を囲む高校座談会(教育会館)
女子学生懇談会(東保健所ホール)
第3日(7日)
午前9時~午後4時 広島市中央公民館
総会
大会宣言
人類の上に初めての原爆が投下されて十一周年目に世界の平和運動とはっきりとした連帯の下に進められた、始めての日本学生の平和会議が開催されました。この会議に集った学生代表は平和を望むすべての人々、とりわけ日本の学生の平和への希望と期待とに応え、原子戦争を企だてている力をうち砕くためにいかにすべきかについて、自由かつ真剣に討議しました。私達は平和をめぐる世界情勢を検討することを通じて、社会体制の相違にもかゝわらず両体制の共存は可能であり、戦争は不可避ではないという点ですべての参加者の意見の一致を見、平和についての強い確信をうるにいたりました。
私達はこの様な期待のもとに開催される第二回原爆禁止世界大会に心からの支持と援助を送ります。
第一回原爆禁止世界大会以后の此の一年間に国際緊張を緩和し、冷たい戦争を中止させる動きは増々活発になり、現在東西陣営の間での軍縮について、歩みよりが次々と行なわれております。軍備の増大は今迄諸国民に対して貧困と不安をもたらしただけでした。軍拡競争はたヾ戦争に向かって進むにすぎません。最大の軍備である原水爆兵器が出現した現在、戦争の危険ははかりしれない程大きなものとなり、将来もし原水爆戦争がおこるならば世界中がヒロシマ、ナガサキ、ビキニとなって人類は死滅してしまうでしょう。
しかし長い間の国際緊張に代って第一回原水爆禁止世界大会以後のこの一年間、国際緊張を緩和し冷たい戦争を中止させる動きはますます活発となり現在大国の間での軍縮についての歩みよりがつぎつぎと行なわれております。和解のための共通の努力があれば大国の間にある色々な障害は必ず解決されるでしょう。この見通しを実現するのは私達の努力いかんにかゝっております。けれどもこの様な世界の国際緊張緩和の動きに逆行する動きが私達の祖国日本に於て依然続行されております。沖繩問顧にみられる様に、日本がアジアにおける国際緊張の増大の焦点となっております。原水爆戦争の基地は拡大され軍国主義復活の傾向が明らかになり、世界の平和に対する主要な障害となっております。私達は国際緊張増大に反対する立場からその様な平和の障害を取り除く為に活動を続けて行かなくてはなりません。
この様な国際緊張緩和の運動に於て、成功をおさめることこそ原爆被害者の私達の期待にこたえる第一の道であります。この道にそって被害者の国家保障を勝ち取る運動を強力に押し進めて行かればなりません。平和はすべての学生の中心的課題であり、学問と学園を守り発展させることは平和なくしてはありません。
平和運動を正しく展開して行くことによって私達は日本の若き知性と良心と云う名に恥じない立派な学生であることが出来ます。私達は第二回原水爆禁止世界大会を全面的に支持し大会の成果を日本の国民とりわけ学生のものとする為に全カをかたむけるでありましょう。私達は第二回世界大会の成果を全世界のすべての学生の運動に発展させて行くことによって日本の学生の平和への名誉ある義務を果して行くでしょう。
本日の会議によってうち立てられた平和運動の正しい方向によって、私達日本の学生は原水爆が禁止され、その貯蔵が廃棄され全般的な軍縮が達成されて人類の上に恒久平和の確固とした保証が行なわれる日迄広く全世界の願いを同じくする人々としっかりと手を携えて前進して行くでしょう。
輝かしい世界恒久平和への望みは私達の努力にかゝっています。
一九五六年八月六日 広島にて
決議
1.軍縮、原水爆実験禁止を世界全学連へアッピールする。
2.大国間の軍縮協定、原水爆実験禁止協定の即時締結を国連に要請する。
3.日ソ国交回復について日本政府に要請する。
4.日本政府に対して、軍縮と原水爆禁止運動の先頭に立って努力するよう要請する。
5.日本の再軍備は世界の動きに逆行するものであるから憲法擁護について日本政府、自民党に要請する。
6.沖縄返還問題について米政府と沖縄政府へ決議文を送る。
7.砂川土地接収に反対するむね日本政府に呼びかける。
8.原水爆被災者の救援について治療、家族の生活の完全な国家保障を政府に要請する。
長崎大会代表選出
広島青年文化連盟
広島青年文化連盟 1946年2月24日発会式
参考資料
今堀誠二『原水爆時代-現代史の証言(下)』( 三一書房 19590721) | ||
山代巴『原爆に生きて』(径書房 1991072503) | ||
渡辺力人・田川時彦・増岡敏和編『占領下の広島-反核・被爆者運動草創期ものがたり』(日曜舎 1995070103) | ||
出典:「原水爆時代-現代史の証言(下)」
青年運動と青年教師
大会に結集された原爆反対運動の底流をさぐってみると、広島青年文化連盟の動きを見のがすことはできない。1944年の春、広島の高等学校(旧制)や高等師範をおえて、東大・九大・広島文理大などに進学していた学生-須浦寛・大西享邦氏など20余名が、敗戦直後の広島で冬休みを迎えた時、青年運動を起そうという相談をはじめた。一般青年や広島女専の生徒がこれに加わってきた。翌年2月の発会式には、山代巴氏をむかえて講演会を開き、その後はもっぱら尾道図書館長中井正一氏の指導をうけた。中井氏は、日本敗戦の原因をわれわれ自身のあきらめ根性・みてくれ根性・ねけがけ根性に求め、こうした封建制を無くなすことが文化運動の基本であると論じて、この青年運動に方向づけを与えた。
初代の委員長は大村英幸氏であったが、半年後には峠三吉氏がこれにかわり、その後長く連盟を支えた。事業としては、レコードコンサートから中学生の受験講座まであって、雑然たるものであったが、のちに社会科学研究部が作られると、会活動の中心はこれに移った。社研といっても、サルトルの話をきいたり映画の合評会をやったりという調子で、社会勉強の会であったが、中本剛教諭を中心とする原爆の子の作文教育運動がはじめられていた点は重要である。49年の平和擁護大会には、連盟として主催団体に加わり、峠・大村・中本氏らをはじめ、多くの人が積極的に動いて、大会を成功させる原動力となった。
原爆が投下された時、中本氏は広島市荒神国民学校の訓導であったが、学童疎開で安佐郡久地村に赴いていたため、難を免れた。8月8日に児童の家族の被害を調べるため、広島市に向った。原子砂漠の入口の横川橋畔では、黒焦げになった兵隊の死体が、定位置につっ立ったままで橋を守っているのに、まず驚かされた。荒神学校は全滅で人影がなく、死の静寂が不気味に支配していた。防空ごうのドアをあけると、児童の死体が目にはいった。頭を真二つに割られている。受持学級の子どもで、疎開をいやがり、広島に残ったため、難にあったわけである。中本氏は新婚間もない妻の安否が気になってたまらなくなった。女性の負傷者や死体に行きあうと、妻ではないかと目を見張った。彼女の勤務先の青崎国民学校にたどりついた。校庭には被爆者の死体を焼く煙がたちのぼり、そのそばに魂を失ったような人が一人、茫然と立ちつくしていた。それが妻であった。お互いに生ぎていることが信じられないほどであった。
原爆の体験は中本氏の世界観を変えた。青年文化連盟や組合活動に、進んで加わった。中井正一氏がインテリのみてくれ根性を批判し、それが最高までいったとき、自己矛盾の結果として街頭に飛び出していくと説いた時、中本氏は街頭に出る決意を固めた。47年に段原小学校に転任したが、その前後を通じて、国語教育を研究テーマにしていたので、子ども達に「生活つづり方」を書かせた。被爆の体験や、原爆症の苦しみを書く子が出できた。やがて同僚の協力を得て、純真な子ども達に原爆体験記を書かせる仕事を始めた。子どもの作文も逐次成長し、佳作の五○余編は大村氏や峠氏の手で、いろいろな機会に発表された。長田新編『原爆の子』が生れるまでには、こうした先駆的な努力があったわけである。
中本氏の受持学級では、子どもがみな現実を正しく観察し、ありのままを理解する力を、身につけるようになった。平和擁護大会で山根君の語った体膜談が、聴衆に深い感銘を与えたことは、彼の教育活動の成果を示すことになったが、彼自身は49年11月に、右の大会に出席したことも一つの理由となって、教職から追放された。平和擁護は権力者にとって許すべからざる犯罪行為だったのである。
中井氏は国会図書館ができるとその副館長となって広島を去り、社研は私が顧問格をひきうけて、55年頃まで資本論などの研究会をつづけた。朝鮮戦争のさなかに、このグループの若い人々は、研究会の会場にも困りながら、勉強と社会的活動を勇敢にやりぬいた。嵐にもめげず、小さい保塁の中で友情をあたためあいながら、毎週研究会をひらき、平和のためのたたかいに、積極的に参加している姿は、貴いものに思えた。峠氏の死後も、青年連盟の殿軍の名をはずかしめなかったが、私の消極的な指導のために、孤立主義に陥って大衆からはなれ、平和大会の決議を運動に発展させることはできなかった。
歴史の重み
平和擁護大会は、松川事件のフレーム・アップが頂点に達した前後に開かれている。青年婦人層を中心とする市民の自覚を背景として、原爆禁止ののろしをあげながら、ヒューマニズムにのっとった、平和への道を要求したわけである。第三次大戦がさけられないようにみえた時、破局のまえに、大手をひろげて立ちはだかった形であったが、大会を支えた力の中には、国民運動を展開するだけの積みあげがなく、討議の結果、そういった運動方針をうち出すこともしなかったので、時局の重大性と対決することはできなかった。これにはいろいろな原因があるが、大会が世界労連の企画であったにもかかわらず、日本の労働者が、平和問題に対して、充分な認識をもっていなかった点を指摘しなければならない。共産党に例をとると、同党が大会につくした功績は大きい。党の県委員会機聞紙『ひろしま民報』の編集長大村英幸氏は記者とカメラマンを総動員して大会記事の取材にあたり、10月10日号をその特集号にあてた。一面トップの大見出しは「原子兵器の禁止-広島市民から全世界に打電」となっており、二面のトップも「平和へ胸うつ願い-せつせつ広島大会の感動」と題して、それぞれ詳し い記事をのせている。原爆禁止に視点をすえた、思い切った編集ぶりであったが、この号は、労働者からはまったくうけなかった。当時の共産党広島県委員長は大村氏に対して、「こんな面白くない編集ではダメだ」と文句をつけた。党員の中には松江・峠・大村氏など、大会の推進に当った人が多く、アカの集会といわれた程、彼らの努力は大きかった。配炭公団細胞では最初から、原爆反対の声を大会に持ちこもうと決定していた。ただこの人達はいずれも共産党内のインテリ派であって、党内のプロレタリア派は大会に対して熱意をもたなかった。日本の労働著が、松川事件でわが家に火がついているにもかかわらず、消防隊に相当する国民運動を、「原爆死か平和か」の形で展開できないとすれば、歴史の重みをになうことは不可能な相談であった。
出典:「原爆に生きて」
占領下における反原爆の歩み
一九四六年二月のある日、これからの生活の相談で栗柄の母の家へ帰った。そのあとを追うように広島文理科大学の大村英幸という学生が、栗柄の家の私を訪ねて来た。どうして巴がここにいるのがわかったのかと、母は不思議そうに聞いた。彼は私が治安維持法の犠牲者であることや、今は三原の農業会の二階にある農民連盟の事務所にいることを、広島の『アカハタ』読者から聞いて三原の農業会を訪ねたが、今日は栗柄へ帰ったと聞き、府中の『アカハタ』取りつぎの河村書店を訪ねて行けばわかるだろうと、彼は糸崎から汽車で府中へ来て、河村書店で栗柄の家の位置を知り、自転車を借りて、高い坂の上まで訪ねて来たのである。私はその行動力に驚いた。
彼はすでにささやかながら「広島青年文化連盟」という葉まりをつくっており、この二月の最後の日曜日の午後、荒神小学校の教室を借りて、「広島青年文化連盟」のはじめての講演会を開くことにしているから、話しに来てくれと言った。
私は、GHQの二世の将校から、原爆について批判めいたことを言うと、沖縄送りにすると言われていることを話した。彼は「原爆の悲惨は、広島に住んでいる青年の方がよく知っているから、それについてGHQを刺激するようなことは話してもらわんでもいい。僕らは何かせずにいられないから集まるんです。プレスコード(占領軍による言論統制)で発表を禁じられていても、体験したことを書き残すこともできる。こわれた瓦のかけらでも、ぐにやぐにやに溶けてかたまったガラスの瓶でも、取ってかくしておくことはできる。誰にでもできるそういうことから始めようとしているんです・・・」
彼はごく平易にそういうことを話すのだが、高等師範学校時代に、トルストイの『戦争と平和』、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』なども読み、日本文学にしても、森鴎外の『伊澤蘭軒』のようなむずかしいものを愛読していて、空襲で焼かれるのが惜しくて、へーゲルの原書など大事な本を、山陽線松永駅から近い柳津の生家へ持ち帰ったのが、八月五日夜。翌日の朝の一番で広島へ帰る汽車が、大阪空襲でおくれたため、ピカドンは西条駅で迎えたという偶然から、命拾いをしていた。多くは口にしなくても、軍国主義でおしつぶされそうな大学にいながら、ひそかにヒューマニズムを培った思慮の深さは、瞳や態度からにじみ出ていた。
私はこの青年の行動力と思慮深い態度にひかれて、二月終わりの日曜の午後、広島の荒神小学校の教室を訪ねた。迎えに出たのは、痩せてはいるが骨組のがっしりした青年、この学校の教師中本剛先生だった。ここは爆心地から二百五六十メートル北にあるので、校舎はすべてペシャンと倒れても火事にならなかったから、教師たちは倒された講堂を起こし、木を組みたて、トンカチ、トンカチ、槌や鋸を動かして、四つの教室をつくっていた。私らはその一つに集まったのだが、窓ガラスは破れたまま。窓枠の向こうに見えるのは焼野原。押し上げ窓の小屋は幾つか見えたが、人の住む町とは思えなかった。
集まったのは二十人足らず。私はギリシャ神話の、希望だけが残されたパンドウラの話と、豪胆な抵抗を貫いたプロメテウスの話をした。話のあと痩せて青白い顔の、華奢な体に借り物のような大きな黒いマントを着た、おっさんふうの人が近づいて握手の手を差しのべた。これがのちの『原爆詩集』の作者、峠三吉だった。
座談のとき私は、十一月終わりの駅前広場で焚火をかこみ、タ間暮れの瓦礫の焼野のはるか彼方で、槍倒しの楠とかいう大樹の芯が燃えている煙が、まっ直ぐに空高く昇っているのを見たときの、言いようもない淋しさを話し、今日はあの楠のそばへ行ってみたいと話した。私の話を聞いていた放浪者ふうの青年が、「そんなら案内してあげます。あのそばに親戚の者がおりますから」と言って、会が終わると私を連れて、楠のそばの親戚へ案内した。はからずも彼が連れて行った家の叔父さんは、長い間、この片隅で、差別に反対の抵抗心を燃やし続けた人だった。私が因われの五年を過ごしたことも、肉親のことのように聞いてくれ、「今夜はここに泊まりなさい」と言い、暗くなると小屋の外の、ドラム缶の露天風呂へ入れてくれた。
近くの屠牛場で働いているとかで、夕飯には牛のこま切れのすき焼きを食べさせ、「人間がピカドンのように恐ろしいものをなくするためには、同じ人間を四つだの、非人だのとさげすんで、人のいやがる仕事をさせて来た、差別との闘いと同じように、長い闘いがいると思いますのう」と、私のこれから先の闘いに希望を持たせ、勇気を与えた。
私が彼[峠]とはじめて会った一九四六(昭和二十一)年二月のころの彼は、荒神小学校の前の小屋で貸し本屋をしていたのである。あのとき荒神小学校の教師だった中本剛によれば、校舎を起こして教室をつくり、やっと授業が始まったころ、学校の前の土塀の道に食べ物を売る小屋や衣料を売る小屋が次々と建った。その中に「貸し本」の看板をかけた小屋ができた。「おい親父、わしの読むような本はないか」と店へ入ると、「あなたは何をする人ですか」と、痩せた青白い男が出て来た。「わしはこの前の小学校の教師じLじゃ」。男は頭の横を指でとんとんと叩いて、「教師はここが百年おくれています」と言った。面白い男だなと思った。それが峠三吉だった。この出会いから、被爆の惨禍を見るまで軍国主義のこりこりだった中本剛は、峠の助言で急速にヒューマニストになったと言っている。
二月の荒神小学校での集会のあと、広島青年文化連盟の中心メンバーは、三吉の住む翠町の家の二階を会場にして読書会をひんぱんに開き、社会科学、宗教、哲学、文芸などの研究や講演会、夏期講習会、レコードコンサート、音楽会、美術展など多彩な活動をひろげ、機関誌『探求』を発行した。そこには峠の詩も載り、「新時代への苦悩」と題するエッセイも載り、広島文理科大学や広島女子専門学校の進歩的学生を中心に、一般社会人の間にもひろがり、二・一ゼネストの前の吉田内閣打倒国民大会や翌年のメーデーには、峠三吉草案のメッセージを送った。
大村英幸が、広島青年文化連盟をつくるに至った事情は、八月から十二月まで大学は開校しないし、友達四、五人つきあってはいるが何をしていいかわからない。学校で残っているのは宇品に近い広島女子専門学校だけ。須浦という学生がそこにあった電蓄を一日かけてなおした。小田や大西が家にあったレコードを持って来てかけてみたら音が出る。それがささやかなレコードコンサートになった。原爆について言ったら沖縄送りになることを知っているから、原爆の遺跡を残そう、焼け瓦の一部でも残しておこう、体験を書き残しておこう、そういう組織をつくろうとその年の十二月に発足したのが、「広島青年文化連盟」だった。私が行った一九四六(昭和二十一)年二月の荒神小学校での集まりのときは、須浦や小田は東京の学校へ帰っており、大村が委員長になり、社会人の峠らも加えて歩みだした。私のあとすぐに呼んだのは中井正一先生。焼けて宇品へ移っていた国鉄の管理部で、中井先生は私の故郷で話されたと同じ趣旨の、あきらめ、みてくれ、抜けがけの三つの根性の話をされた。それは共鳴者を得て、大村は毎月のように中井先生を案内して、あちこちの職場を訪問した。
国鉄管理部の総務部長や日通の支店長などは、大正デモクラシーから昭和のはじめにかけてのデモクラシーの中でマルクスの本も読んでおり、絶望的な気持で軍国主義へ走らされた経験から、自分の下の若い者が労働組合をつくる動きを応援していた。そういうところへ学生服を着て、共産党の機関紙『アカハタ』を持って行く大村は、待ち望まれる星だったのだ。日本共産党に入り、党の組織づくりに忙しくなった大村は、青年文化連盟の委員長は峠に譲り、大村は副委員長になって青年文化連盟の機関誌『探求』の発行や編集の責任者になり、いろんな文化活動をすすめた。
その夏は、東京の大学から小田と須浦が帰って来て、塾を開いて稼いだ金を青年文化連盟に寄付してくれ、大村や峠の活動を助けた。八月六日になると花電車が走り、家ごとに蒲鉾がくばられた。それは被爆者へのご機嫌とりであることは見えすいている。公に口にできないその怒りは、労働組合の結成へ、吉田内閣打倒国民大会へともりあがった。各職場で二・一ゼネストヘ向けての集会が開かれるころの大村は、共産党中央から派遣されたオルグ塚田大願の片腕になって職場をまわっていた。
一九四七(昭和二十二)年の八月六日の平和式典にはマッカーサーのメッセージがおくられ、片山内閣(社会・民主・国民協同党の三党連立)を代表して文部大臣森戸辰男氏、参議院議員を代表して山下義信議員が参列した。マッカーサーは原爆の出現が戦争の意味を一変させたことを強調し、原爆は人類を絶滅に導くと説き、「この広島の教訓が等閑に付せられざるよう、神よみそなわせ給え」と結んでいた。広島平和祭協会の会長、浜井信三市長は、爆心地に設立した平和塔前の広場で、平和式典、慰霊祭、平和の鐘除幕式を行った。午後は、みこし、だし、仮装行列が市中をねり歩いた。被爆者は眉をひそめ「何のためのお祭り騒ぎ」と批判の声もあがった。
一方では、広島県下のすべての労働組合が参加している労働文化協会が、この八月、県下二十二か所で夏期大学を開いていた。これは労働文化協会会長の中井正一氏が、前年の尾道での夏期大学の成功から、憲法の中村哲氏、歴史の羽仁五郎氏など、有名な学者、文化人二十一名を講師として呼び、広島大学の教授や、労働文化協会の会長、副会長も講師団に加わって、二十日にわたって県下を歩く壮大な文化活動だった。広島青年文化連盟もこれに加わり、広島では、会場の国鉄企画部にあふれるほどの聴講者を集めた。講師は誰もが、含蓄のある講議をし、職場で、地域で、平和へ向かって歩む基礎知識を吸収させていた。
一九四八(昭和二十三)年春、文理科大学哲学科の卒業生は六人、大村英幸はその中の一人だった。彼の卒論は「ヘーゲルの法哲学へのマルクスの批判」で、先生から「良くできました」とほめられている。だが彼は出世コースはたどらず、共産党広島県委員会の機関誌『ひろしま民報』の責任者になっていた。『ひろしま民報』読者としての私が忘れられないのは、四九年六月の日本製鋼所広島工場のストライキの報道だった。ドッジプラン(四九年、GHQ経済顧間ドッジが指導した財政金融引締政策)
出典:「占領下の広島」
広島青年文化連盟のこと
[楠]広島青年文化連盟はいつ結成されたんですか。広島における戦後最初の文化運動ですよね。大村さんが初代委員長で・・・。
[大村]たしか1945年12月だと思います。あの当時なんにもなかった。それでよい音楽を聞こう。被爆の実相を残そうというのが目的でした。そしてみんな新しい知識に飢えていました。いろんな人を呼んで講演会や講座を開きました。原子物理学の仁科芳雄博士の話も聞きました。中井正一、山代巴、労働文化協会といっしょに憲法の中村哲、歴史の羽仁五郎、右以外の人は数多く呼んでおおいに全県下でやりました。なかでも中井先生は立派な人物でしたね。この方が私らに大きな影響を与えました。
弁論大会も開きました。中四国の大学・高等専門学校の生徒で。優勝したのは富永君(現・黒川万千代さん)でした。
中心メンバーには学生の柘植、大西、織田、須浦君らがいました。この4君はその後、東京などの有名大学の教授となった学者です。また、仲間のなかにはお亡くなりになった佐久間澄先生の弟子たちが多くいました。もちろん私のあと広島青年文化連盟の委員長を引き受けてくれた峠三吉もいっしょでした。
そうです。音楽会や前進座やプークの公演もやりました。機関紙「探究」も発行しました。はじめ文学部長と宗教部長が峠さんで、歴史部長が三谷藤四郎さんだったかな・・・。
広島で劇団もつくりました(広島芸術劇場)。横川あたりでやった劇のシナリオもつくりました。九州のアメリカ軍に許可をとりにいったら、原爆に関係する部分はプレスコード違反ということで全部削られました。杉田俊也君は劇団の八月座→トランク座をつくっていました。彼は朗読がうまかった。だから日鋼争議のとき峠三吉の詩「怒りのうた」を群衆の前で朗読してもらいました。
私はこういう活動を続けていたらよかったんだが、徳毛宣策さんからどうしても日本共産党の専従に出てこいと言われて県委員会に出ました。そして「ひろしま民報」の編集をやりました。衆院選挙も一区でやりましたよ。その時、原田香留夫候補は次点までいきましたね。
峠さんはうちによく来ていっしょに飯を食いましたよ。彼は原爆は絶対だめだというものすごい勢いのある詩をつくってくれました。要請すると必ず応えてくれる人でした。日鋼争議の「怒りのうた」や原爆詩集にある「八月六日」もそうです。
先輩の井伏鱒二も「黒い雨」など立派なものを書いて残しました。四国五郎君も反原爆の絵を書いています。
ただ原爆が落ちたというだけでは聖地にはなりません。原爆というものを二度と世界に使ってはならん。そういう運動の聖地にせんといかんと思います。
中国文化連盟
結成:1945年12月17日
1945年12月17日,広島近郊の国民学校で栗原唯一・貞子夫妻を中心に結成.細田民樹・畑耕一を顧問とするこの連盟は,翌46年,「中国文化人追悼大会」という名目で原爆犠牲者追悼大会を開催し,参加者150人が慰霊と平和の誓いをたてる.同連盟は,46年3月機関誌『中国文化』を「原子爆弾特輯号」と銘打って創刊し,8月には栗原貞子の詩集『黒いたまご』(原爆詩「生ましめんかな」を収録)を出版.『中国文化』の発行人であった栗原唯一は呉市にあった米軍民間情報部に呼びだされ,「原爆の惨禍が原爆以後もなお続いているというような表現は,いかなる意味でも書いてはならない」と厳重に言い渡される(栗原貞子『「中国文化」原子爆弾特集号・復刻』,『黒い卵―占領下検閲と反戦・原爆詩歌集』).
広島戦災児育成所
開設:1945年12月1日
広島戦災児育成所要覧[抄] 1948
一.沿革
1.広島市原爆による孤児の収容施設を設置のため山下義信氏発起し広島県労政課協力し広島市労務課賛同し原爆後直ちに即ち10月中旬より山下氏を中心に計画をすすめ、県有土地建物の使用認可を得て開設した。開設費は山下氏個人の支出するところであった。
2.開設と同時に広島市の学童集団教育所を併設し学校教員数名宿泊し所内の小学校教育を開始し昭和23年3月までこれを継続した。
3.昭和21年8月6日の原爆記念日を期して財団法人広島戦災児育成会の設立認可があった。
4.爾来食堂浴場便所児童寮(4棟)を増築し更に最近2棟を建築完成した。
5.昭和22年5月9日神父フラナガン氏来訪した。
6.昭和22年12月6日天皇陛下御巡幸をお迎えした。
7.昭和23年10月23日高松宮殿下御来所。
二.創設年月日
1.昭和20年11月1日設立準備開始。
2.昭和20年12月1日開設。
3.昭和20年12月23日第1回児童入所。
4.昭和21年1月19日開所式挙行。
[以下略]