8月に亡くなった人々
日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
01 | 1974 | 竹内釼 | たけうち・けん | 1890年1月6日、福岡県生。1939年広島日本赤十字病院新設のための責任者、設立と共に初代院長。1945年8月6日、院長室にて執務中被爆、二昼夜人事不省、6ケ所骨折の重傷。<竹内釼> | |
02 | 1989 | 鈴木喜代治 | すずき・きよじ | 88 | 日本映画社の原爆被災記録映画作り(生物植物調査班)に参加。 |
02 | 2017 | 磯野恭子 | いそのきょうこ | 83 | 34年ラジオ山口(現山口放送)にアナウンサーとして入社。のちディレクターとして,「聞こえるよ,母さんの声が…原爆の子,百合子」「祖国へのはるかな旅―ある中国残留婦人の帰国」など,戦争と平和をテーマにしたドキュメンタリーを制作。63年民放局初の女性取締役に就任。広島県出身。広島大卒。<ヒロシマの女たち・続> |
03 | 2015 | 阿川弘之 | あがわ・ひろゆき | 94 | 日本の小説家、評論家。広島県名誉県民。日本芸術院会員。日本李登輝友の会名誉会長。文化勲章受章。『広島県現代文学事典』(高木伸幸・記)<資料年表:阿川弘之> |
05 | 1990 | 桧垣益人 | ひがきますと | 94 | 元日本被団協代表委員(1970-81年)。広島駅地下道で被爆。1961-84年、広島県被団協事務局長。<資料年表:桧垣益人> |
06 | 1948 | 大塚惟精 | おおつか・いせい | 62 | 原爆被爆時の中国地方総監。『中国地方総監府誌 原爆被災記録』(刊行委員会、19720806) |
06 | 1945 | 粟屋仙吉 | あわや・せんきち | 48 | 被爆時の広島市長。津上毅一『粟屋仙吉の人と信仰:原爆にたおれた広島市長』待晨堂、1966年。 |
06 | 1945 | 森喬以 | もり・たかもち | 広島市立造船工業教諭として生徒を引率中、被爆死。 | |
07 | 1945 | 李鍝 | い・う | 韓国人犠牲者慰霊碑(1970年4月10日除幕)の碑文。『すぎた歳月』(李方子、1973年)。『資料・韓国人犠牲者慰霊碑』(ピカ資料研究所など編、碑の会刊、1989.8.5)、『昭和天皇実録』。<資料年表:李鍝> | |
09 | 1973 | 大月洋 | おおつきひろし | 67 | 民衆劇場。お宅で面談、資料閲覧 |
09 | 2000 | 田沼肇 | たぬまはじめ | 74 | 1950年、法政大学大原社会問題研究所に就職。64年同大学教授。93年退職し名誉教授に。日本原水協代表理事。<資料年表:田沼肇> |
10 | 1945 | 高木敏子 | たかぎ・としこ | 34 | 広島地方裁判所検事の妻。市内雑魚場町の家屋強制疎開後の跡片付づけにとりかかる前に被爆。『広島原爆犠牲者高木敏子追想録』(高木尊之編集発行、19730810) |
10 | 1988 | 清水幾太郎 | しみず・いくたろう | 81 | 社会学者。原爆孤児精神養子運動に協力。<資料年表:清水幾太郎> |
12 | 1987 | 増本量 | ますもと・はかる | 金属物理学者。東北大学名誉教授。日本金属学会会長。広島県安芸郡矢賀村(現:広島市東区矢賀)出身。『増本量伝』 | |
12 | 2006 | 小林文男 | こばやし ・ふみお | 72 | 中国研究者。アジア経済研究所主任調査研究員、広島大学名誉教授。<資料年表:小林文男> |
12 | 2015 | 明田弘司 | あけだ・こうし | 92 | 写真家。「戦争から復員後の48年、広島市内で写真展を開業。仲間とヒロシマ・フォト・クラブを結成。写真家の名取洋之助から広島の復興を記録するよう助言され、市民生活や街の活気を撮り続けた」(『中国新聞』2015.8.13)。<資料年表:明田弘司> |
14 | 1989 | 長岡弘芳 | ながおかひろよし | 57 | 本名:奥村弘芳。原爆文献研究家。『広島県現代文学事典』(大西昭・記) |
15 | 1989 | 源田実 | げんだみのる | 84 | 広島県加計町出身。1941年第1航空艦隊参謀、真珠湾攻撃を立案、指導。1954年航空自衛隊に、1959年空将で航空幕僚長。1962年退官、参議院全国区で当選、以後4期、自民党国防部会長などを歴任。 |
15 | 1996 | 丸山 真男 | まるやま・ まさお | 82 | 政治学者、思想史家。東京大学 名誉教授 、 日本学士院 会員。<資料年表:丸山 真男> |
16 | 1945 | 丸山定夫 | まるやま・さだお | 44 | 俳優。日本移動演劇連盟桜隊を引率して慰問巡回中、広島で被爆。『俳優・丸山定夫の世界』(菅井幸雄編、未来社、19890806) |
16 | 1945 | 手島守之輔 | てしま・もりのすけ | 31 | 竹原生まれ。県立第二中学校卒、東京美術学校油画科。8月1日臨時召集先の広島連隊で被爆、死亡。 |
16 | 2004 | 沖原豊 | おきはら・ゆたか | 79 | 広島大学長(第7代、1985年5月21日~)。教育学者。『解題:沖原豊関係文書目録』(執筆:酒井真)。 |
16 | 2023 | 中西巌 | なかにし・いわお | 93 | 旧被服支廠の保全を願う懇談会会長(初代)。『赤レンガ倉庫は語り継ぐ 旧広島陸軍被服支廠被爆証言集』(旧被服支廠の保全を願う懇談会、2020/03/01) |
17 | 1991 | 田辺耕一郎 | たなべこういちろう | 87 | 「広島憩いの家」事務局長。1957年に開設された被爆者のための「憩いの家」を管理運営。『広島県現代文学事典』(岩崎清一郎・記)。憩いの家で面談、資料閲覧。<資料年表:田辺耕一郎> |
18 | 1958 | 熊田秀雄 | くまだ・ひでお | 54 | 金光教御幸教会初代教会長。『御幸教会五十年史 改りのあゆみ五十年―第一部―初代熊田秀雄の求道と布教』(熊田信道、金光教御幸教会、1986.5.9)〈内容> |
18 | 1974 | 奥 久登 | おく ひさと | 93 | 広島県内の小学校長,県商工水産課長,広島市助役,県信用購買販売組合連合会長などを歴任。昭和17年衆議院議員(日本進歩党)。戦後,広島信用金庫理事長,県教育委員長。『奥久登先生 思い出の記』(佐々木勲編、広島信用金庫・広島大学東雲同窓会・広島県農業協同組合連合会関係諸団体・広島県安芸郡坂小学校同窓会刊、19640505) |
21 | 1945 | 園井恵子 | そのい・けいこ | 33 | 『園井恵子・資料集 原爆が奪った未完の大女優』(岩手県松尾村、1991.3.31) |
21 | 1986 | 四竈一郎 | しかまいちろう | 広島市基督教連盟委員長[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会](日本キリスト教団広島協会牧師)。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。元広島県原水協代表理事( 被爆者)。 | |
21 | 2002 | 近藤幸四郎 | こんどうこうしろう | 69 | 広島県被団協事務局次長、広島被爆者団体連絡会議事務局長、元日本被団協代表理事などを歴任。<資料年表:近藤幸四郎> |
24 | 1945 | 仲みどり | なか・みどり | 36 | 東大病院で死亡(毎日新聞)。移動演劇 桜隊 に所属。公演先の広島市で被爆。<資料年表:仲みどり> |
25 | 19450825 | 岡田二郎 | おかだ・じろう | 40 | 広島県立第二高等女学校の音楽教師。広島市南観音町で被爆。「岡田二郎に70年ぶり光 原爆に散ったバイオリニスト あす広響演奏会で紹介」(『中国新聞(富沢佐一・客員編集委員記)20150804』 |
25 | 1991 | 松前重義 | まつまえしげよし | 90 | 東海大学総長。広島調査団長として被爆直後に入市。<資料年表:松前重義> |
25 | 1995 | 御園生圭輔 | みそのおけいすけ | 82 | 終戦時、陸軍軍医学校教官として広島原爆の被害調査に当たる。<資料年表:御園生圭輔> |
26 | 2014 | 孫振斗 | そん・じんどぅ | 87 | 韓国人被爆者訴訟の原告の草分け<資料年表:孫振斗> |
28 | 1983 | 山内敕靖 | やまうち・ただやす | 65 | 広島ガス社長。期間:19710226-19820628。<資料年表:山内敕靖> |
28 | 2017 | 羽田孜 | はた・つとむ | 82 | 内閣総理大臣(1994年4月28日~6月30日) |
29 | 2010 | 森田俊男 | もりた・としお | 89 | 教育研究者。平和・国際教育研究会代表。<資料年表:森田俊男> |
30 | 1995 | 上栗頼登 | かみくり・よりと | 76 | 東広島市の児童養護施設「広島新生学園」元園長。<資料年表:上栗頼登> |
30 | 2017 | 谷口稜曄 | たにぐち・すみてる | 88 | 長崎被爆者。 |
31 | 1945 | 中島光風 | なかじま・こうふう | 国文学者・歌人。広島高等学校教授。広島市上流川町の自宅で被爆。 『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記) | |
31 | 2005 | ジョセフ・ロートブラット | ろーとぶらっと | 96 | ポーランド 生まれの イギリス の 物理学者 、 平和活動家 。 |
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