故宇根実氏の収集せる資料について

故宇根実氏の収集せる資料について

『ふるさとよしうら 創刊号』(吉浦郷土史研究会、19760518)

故宇根実氏の収集せる資料について 宇吹暁

はじめに
宇根先生の御宅に、私が伺ったのは、先生が亡くなられてから三年目、昭和49年6月のことでした。折しも、宇根先生の蔵書・資料の整理をなさっていた香川先生が、
「お宅のむすこさんは、県史編さん室に勤務しているそうだが、手伝いに来ないか」と私の母に伝言していただいたのが、そのきっかけでした。
早速、六月一二日、宇根家に伺いましたが、その量の厖大さと、内容の豊富さに驚ろくばかりで、その日は手をつけずに、とりあえず、編さん室に帰って報告をいたしました。
編さん室では発足以来、県内の市町村役場・旧庄屋・旧戸長の御宅をほぼ網羅的に調査し、近世以降現代までの行政資料は多くのものを確認してきましたが、宇根家の資料は、そういった行政資料と違い、社会問題・文化問題といった県民生活により密着した性格のものでした。編さん室としても、このような資料の収集に最も苦心していたことでもあり、翌日より大挙して資料目録をとらせていただきました。その期間一週間、調査員のべ二十人、この規模の調査は、町村役場文書の整理でさえも多くはなかったことです。また、これだけですべての資料の目録が採れたわけではなく、刊本類・俳句関係のものは全く手つかずで、県史として当面必要なものに限られています。このことは、宇根家文書の多量さを示すとともに、またその質の高さの一つの証左でもあります。
ところで、編さん室の資料調査について一言述べておきます。資料の多くは未整理のままのものがほとんどなので、まず分類をします。その上で分類ごとに資料の題名を書いて目録をつくります。この目録づくりは、大変重要な仕事です。というのは、まず 第一に、その資料の全体像を知る上で必要だからです。
そして第二に、資料を網羅的に残すためです。調査者が自分に必要なものだけを整理すれば、その他のものが、あまり価値のないものとして処分される恐れがあります。その調査者に必要と思われなくても、他の研究者に必要な場合もあるからです。
また第三に、目録をつくることにより、多くの人にその資料を利用してもらうことができます。編さん室では、各役所、各家の資料目録を印刷に付して、全国の大学・研究機関に送っています。所蔵者には、ご迷惑だったことが多々あったとは思いますが、これによって全国の研究者が広島という一地域の小さな資料までもその所在を知ることができたのです。こうした資料整理をすることが、県史をより確かなものにするための、目に見えない大きな仕事の一つです。

内容の一端
この資料目録づくりは、私にとって県史編さん室の仕事の中でも非常に有意義なものとなりました。なによりも楽しい仕事でした。
行政資料や庄屋文書などの場合、研究上の重要性は判るのですが、一点一点の資料がおもしろいということはほとんどありません。しかし、宇根家のものは、これまで一度もみたことのない雑誌類が多かったこと、しかもその雑誌は吉浦・呉地方のものであることにより、一つ一つに心を踊らせてページをくることができました。
目録は、内容としては、広島県発行物・呉市役所文書・吉浦町消防組資料・社会事業関係資料・郷土の新聞雑誌・郷土史関係のパンフレットなどで、総点数は六〇〇余にのぼりました。このうち、社会事業関係資料・郷土の新聞雑誌の多くを、まもなく発行される(六月頃の予定)・「広島県史近代現代資料編Ⅲ(社会文化編)」に収録させていただきました。
また、社会事業関係のものは、広島県社会福祉協議会でも、現在編さん中の年史に活用されているとのことです。今後もさまざまな本や研究に利用されるものと思われます。
つぎに、私か興味をもち啓発された数点の資料について紹介してみます。

(郷土雑誌「明星」)
明治四二年八月、末永白雨なる人によって編さんされた「明星」という雑誌があります。これは、吉浦村青年会(麗芽会と称していた)文芸部の機関誌として、同年春に創刊されたものですが、第二号である夏季号のみが残されています。ガリ刷りで六二頁の、当時としては大部のものに属し、表紙には、星と島と帆掛舟が描かれており、中にも多くのカットが盛り込まれています。
明治四二年といえば、全国的に青年会が組織されていた時期です。
江戸時代、若衆組とか若連中と称して各村にあった青年組織も、明治維新以降文明開化の荒波の中で消滅しつつありました。そうした風潮に対して政府は、日露戦争後(明治三七・三八年)、日本の国力を根本から高めてゆく一施策として、青年会の結成を奨励していました。吉浦青年会(麗芽会)もこの中で生まれたのです。
「U・S生」なる人はつぎのように述べています。
麗芽会なるものは所謂青年者の教化に勉め風儀の改善を図り美徳を一般に普及せしめ専ら人生処生の最大目的たる体躯の健全に努め道義を重んじ独立自営偉大なる国民生活を遂ぐるために設けられたる機関にして社会の進運に伴ひ実力の発展と相俟って風紀の興振を増進する所以の道を尽すにあり。
内容はガリ技術がまだ稚拙で読みづらいのですが、なかなか愉快です。漣石という人は、「運動について」と題して野球について紹介しています。
「柔道とか撃剣とか相撲とかはいわば時勢に後れていないかと思います。今廿世紀現代の運動としては余り恥しくないといってよいのはまづ庭球とか野球等であろう」と言い、野球が日本に移入された経緯、野球の効能について述べています。また「一口噺」として
客「先生、あなたは此度苦しみを計る苦度計を発明なさったそうですが一つ計って頂きたいものです。」
先「よし、どういう苦しみか?」
客「人が死ぬときのそれを」
先「36度だ」
客「なぜ?」
先「死苦(四九)36度だ」
客「死んだ後は?」
先「死後(四五)20度だ」
客「ついでに貧乏のそれは?」
先「四九度だ、質々だから」
といったものもあり、明治の青年のユーモアを伝えてくれます。ところが、つぎのような深刻なものもあります。一七才で中学二年生である羊堂生の「最後の日記」と題した遺書めいたものです。どうもこの人は結核に罹ったらしく、家にとじこもったまま野球・庭球などの勧誘に応じなかったそれまでの怠惰、日本男子と生まれながら天皇陛下のため、日本帝国のため万分の一程の忠義奉公もしなかったことを悔やみ、「皆様さらば!!」と結んでいます。編者はこれに対し「あたら青年の最後真に哀れなり。吾輩此文見てひたと泣き伏しぬ」と評言しています。今日の医学からみれば想像もつかないことです。
これらが内容のほんの一端ですが、当時の世相を生き生きと伝えてくれる資料です。ところでこの一片の雑誌は、吉浦の近代における文化運動の始まりという点でも貴重です。
霞陽という人は、この雑誌が「わが吉浦の天地に印刷雑誌界の嚆矢として呱々の声を揚げた」と述べていますが、こうした最初のものが残っている例は県内にいくらも無いのではないかと思います。
また、この雑誌をつくった郷土の先輩にも敬意を表さずにはおられません。編集を手伝った青雲という人は、
「地獄のような苦しい役所仕事を終えて五時の列車で帰っては毎夜毎夜喰うよ喰わんよで編輯局掬露君の宅に通い」、午前一時頃まで頑破ったと書いています。

(吉浦文化協会)
昭和二〇年の敗戦は、多くの日本国民を虚脱状態においたと言われています。しかし、一方では、昭和二〇年代のはじめは、日本歴史の中で最も生き生きと文化運動が進められた時期の一つでもあります。食糧は欠乏し、社会は混乱の極みではありましたが、永い軍国主義の圧政から解放された日本国民の自由な空気を求める願いもまた切実なものでした。この願いは文化運動に結実し、昭和二〇年暮からは、雨後の筍のように全国各地に文化団体がつくられ、翌二一年三月一日現在で、中国地方だけでも一二一の文化団体が結成されております(昭和二一年三月一日「中国新聞」)。昭和二一年一月二六日に創立された吉浦文化協会も、その一つです。呉地方では一番最初のもので世間の注目をあびたらしく、当時の中国新聞にその創立が紹介されています。
その活動内容の概略は、香川亀人著「宇根実評伝」にあるので触れませんが、戦後の吉浦の文化運動の始まりとして、今日学ぶべきものが多くあります。その一つは、敗戦という日本史上未曾有のできごとに、国民一人一人がどのように対応したかです。吉浦文化協会の活動全体が、それに対する答えですが、ここでは、同協会教化部主催「物を問う会」(昭和二一年二月九日、田中貢博士を囲んで開催)の議事内容を紹介するにとどめます。
一、会の趣旨説明 二、各自に質問を提出すること等を司会者、出席者にはかり同意を得。出席者の希望により司会者より先づ質問す。
イ、現下、国内思想は動乱し経済界は混乱し、治安は極度に弱りたるに際し、国民生活の安定を如何にして政府は確保せんとするか、更に先生のこれらに対する対策は如何にや、此等に対して約四十分間の説明ありたり。
ロ、天皇制に対する各政党の方針如何、これに対する先生の見解如何を問う、此の問題に対し約五十分の説明ありたり。
ハ、青木亀太郎氏より労働組合と資本家の賃銀制に対する見解の問題につき見通しを質問。
二、川本氏より共産党の基本綱領につき質疑あり、併せて日本皇室特に雄略天皇の事績につき説明ありたり。
ホ、司会者より英国皇室と同国民の皇室に対する敬愛の諸相につき説明、民主的皇室の在り方につき意見開陳あり。
へ、進駐軍(特に濠洲兵)に関する質問あり。
卜、食糧特に米の問題につき如何なる見込なりやの質問あり。
田中博士の答弁内容が具体的にわからないのは残念ですが、当時、人々がどのような疑問点をもっていたかを知ることができます。
ともあれ、こうした討論が自由になされたこと自体が、この時期の特徴でした。そしてこのことは、戦争への反省とともに、平和を確立するための決意へと結びついてゆきます。吉浦文化協会俳句班機関誌″浦舟″(昭和二一年一一月刊)創刊のことばで、宇根会長はつぎのように述べています。
俳句が戦争から遊離していたことは、戦争が真善美の宇宙現象に反するものであることだとも言われよう。一部の俳句で生活をする人達がものした戦争にこじつけての作品は、決して美事のものではなかった。
俳句は全く戦争に役立たなかったし、又、役立たせるものでない神聖な芸術品であった。
今や自由の天地が巡り来た。俳句が平和の使者として登場する日が来た。我が民族の愛好詩たる俳句時代が来たのである。

吉浦文化協会という団体が組織されていたからこそ、当時の息吹を私たちは知ることができるのですが、その運動内容にも貴重なものがあります。私の仕事の上から言えば、この協会の文芸部の一つとして郷土研究班がつくられていることは、注目すべきことです。
この混乱期に、郷土研究が志向されているということは、郷土研究が、けっして好事家の片手間仕事ではなく、郷土再建にかけがえのないものとして位置づけられていたことを示してはいないでしょうか。事実、その後、吉浦郷土史の成果は、一部の人々によるとはいえ、県内でも高い水準のものが出ております(もっとも、不勉強にも、このことを宇根家の調査の中ではじめて知ったのですが)。
歴史学は、学者だけが大学の中でやるのではだめだ、地域の文化運動の一環として地域住民とともにやらなければ、その将来は無い、と最近よく言われていますし、常々私もそう思ってはいるのですが、自分自身が生れ育った郷土に、こうした秀れた活動があったことを知った時、自身のこれまでの歴史学に対する姿勢を恥じるとともに、こうした運動を、早急に掘り起し、もっともっと多くのものを学んでおこうと考えました。
おわりに
宇根家の資料は、宇根家の眞重な財産であるとともに、吉浦町民、呉市民、いや全国の歴史研究のための貴重な財産です。これを残された故宇根実先生ならびに、心よく閲覧を許してくださる宇根クニ氏に深く感謝するとともに、今後この資料が散迭することなく、広く利用されることを願わずにはおられません。
また、郷土史への造詣の深かった宇根先生が亡くなられた後であることが悔やまれてなりませんが、これからでも、若い私たちが、吉浦の歴史をさぐる仕事を受け継げば、必ず先生にも喜こんでいただけるものと思います。(一九七六・四・二五)
(筆者は広大放射能医学研究所員)