反核運動1988
1988年5月31日~6月26日、第3回国連軍縮特別総会(SSDⅢ)が開催された。INF全廃条約締結後に開催されたこの総会にむけての国際的な盛り上がりは、6年前のSSDⅡほどにはみられなかった。しかし、日本においては、SSDⅠ・Ⅱのような諸団体の統一的な取り組みはなされなかったものの、それぞれの団体がSSDⅢにむけて多様な運動を展開し、約18団体が総勢1200人をニューヨークに送った。総会は、最終文書が採択されないという不調な結果に終ったが、8月前後には、恒例の原水爆禁止世界大会をはじめ、非核自治体や青年など反核運動の新しい担い手による取り組みが広島・長崎を中心に繰り広げられた。
[第3回国連軍縮特別総会]
日本で大量の代表を派遣したのは、日本原水爆被害者団体協議会や日本青年団協議会など市民10団体の「SSDⅢの成功に向けての市民準備会」、原水爆禁止日本協議会(原水協=共産党・統一労組懇系)などの「SSDⅢに核兵器のすみやかな廃絶を要請する日本連絡会」、原水爆禁止国民会議(原水禁=社会党・総評系)の「SSDⅢに向けて行動する会」で、それぞれ250~340人からなる代表団を送った。
総会に設定されたNGOデーである6月8日~9日には、9人の日本代表が発言した。第1日目の発言者は、伊藤サカエ(原水禁)・伊東壮(被団協)・二階堂進(軍縮議連)・中林貞男(市民準備会)・庭野日敬(立正佼成会)の5人で、このうち、伊東は「被爆実態を世界に普及するための各国政府による被爆者招請」を、また中林は「核軍縮に関する国連の情報・研究センターの広島設置」を提言した。第2日目には、荒木武広島市長と本島等長崎市長(世界平和連帯都市市長会議)および広根徳太郎(原水協)・山崎尚見(創価学会インタナショナル)が発言した。
10日には、国連本部で署名提出式が500人の参加のもとに開催された。約3900万の署名の目録が、総会議長へ手渡された。このうち3000万の署名は、日本連絡会の「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名である。翌11日には10万人の参加者によりハマーショルド広場での平和集会とセントラルパークまでのデモ行進がおこなわれた。世界的に反核運動の大衆動員が低迷する中で、原水協は、SSDⅢの開催中の6月9日に、前年の10月に続く第2の「平和の波」行動を実施した。この行動では、世界51か国、日本国内では約1000の市町村で反核の署名活動や集会などがおこなわれた。
[原水爆禁止世界大会]
原水禁による被爆43周年原水爆禁止世界大会は、8月1日の東京の国際会議を皮切りに広島と長崎で総会を開催した。国際会議には25か国・地域、2国際組織の60人の海外代表が参加した。一方、原水協を中心とした原水爆禁止1988年世界大会は、国際会議を2日から4日まで広島で、海外代表26か国14国際組織の代表と日本代表のあわせて290人のもとに開催し、広島と長崎で総会をおこなった。いずれの世界大会の総会も、広島では8000~1万人規模、長崎では5000人規模のものであった。また、原水協の大会は、核固執勢力との闘いを訴えた宣言を採択し、原水禁の大会は、「いまこそ、生活の場から反核を!日本こそ、非核・軍縮を!」との大会宣言を決議した。
このほかに、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議=民社党・同盟系)が、7月29日に長崎で核禁会議九州ブロック集会(800人参加)を、8月1日には広島で核禁会議全国集会(600人参加)を開き、公明党も7月31日と8月5日に第8回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を長崎と広島で開催している。
いわゆる市民団体の行事や集会も広島・長崎を舞台に繰り広げられた。日本生活協同組合連合会は、8月5日に広島で「文化の夕べ」を、9日には長崎で750人を集めて「虹のひろば」を開催した。一方、被団協は、広島・長崎で、それぞれの原爆記念日に「被爆者・遺族と国民のつどい」を開催し、原爆被爆者援護法の制定を訴えた。また、日本青年団協議会も、6日に広島で平和集会を開催している。なお、長崎では、県被災協・生協連など市民5団体主催の「市民平和集会」がもたれ、400人の参加が見られた。
[非核自治体運動]
1988年にも60以上の自治体が非核宣言をおこない、宣言自治体総数は約1300となった。非核宣言自治体の宣言後の行動として、東京の町田市・葛飾区、新潟の長岡市、大阪の大東市、福岡の八女市、山口市などが2月から9月にかけて平和都市宣言碑を建立した。大阪の枚方市は、初の試みとして7月25日から3泊4日の広島・長崎ツアー「平和の船」を航行させた。一般公募者1700人から選ばれた市民600人は、船上での記念講演やコンサート、人形劇・平和学校などの催しに参加するとともに、被爆地で原爆被害の実相を学んでいる。このほか、4月に日野市が1億円の平和基金条例を公布した。
非核自治体に関連した動きとしては、非核の政府を求める会(86年に近藤幸正・関屋綾子・宮本顕治などの呼びかけで結成)が、6月21日に東京で第3回総会を開催した。同会は、結成後地方の会づくりに力をそそいできたが、総会までに38都道府県で会の結成をおこなった。
[国内の動き]
日本の反核運動は、これまで8月を中心に繰り広げられてきたが、1988年は、SSDⅢの関係で、5月から6月にかけていくらかの集会がもたれた。5月13日には、原水協などが東京の日比谷の野外音楽堂で「広島・長崎の火5・13集会」を開催した。これは、3月26日に広島・長崎をそれぞれ出発し、全国6コースでリレーされてきた国連に届けるための「火」の終結集会で、2800人が参加した。一方、社会党・総評を中心とするSSDⅢにむけて行動する会は、開会中のSSDⅢに呼応して、6月13日に東京・代々木公園で「平和のひろば」を開いた。約80の団体が出店やパフォーマンスを展開したこの集会には2万3000人が参加した。このほか、宇都宮徳馬を座長とする核軍縮を求める22人委員会が、5月14日に「SSDⅢに向けて、なにができるか」をテーマに、「長崎平和シンポジウム」を開催し、核実験の禁止、非核3原則の堅持、海洋核の軍縮などを求めたアピールを採択した。このほかに、日教組婦人部などが、5月17日から22日にかけて、広島と東京において、「反核・軍縮、地球をまもる女たちの集会」を、12か国からの海外代表をまじえて開催するなど 、多彩な行事が展開されている。
原爆記念日前後には、原水協・原水禁あるいは生協といった大規模な組織による集会とは別に、コンサートなど若者を巻き込んだ行事や職能別の反核団体によるさまざまな行事が、継続的にもたれるようになっている。申楽乃座は、6日に大阪で、4回目の「反核・平和のための能と狂言の夕べ」を上演した。被爆地でも、5日に山本コータローらが広島で、また、6日にはさだまさしが長崎で、それぞれ「ヒロシマ88平和コンサート」とコンサート「長崎から・1988・夏・さだまさし」を開催した。いずれも昨年から始まったものであるが、広島では5000人、長崎では2万人の入場者があった。
[海外での反核の動き]
3月11日から10日間、アメリカの平和団体「ネバダ平和実験」(APT)が中心となってネバダ核実験抗議行動が展開された。12日には、5000人が集会を開き、実験場内に突入して1200人の逮捕者を出している。5月には、ギリシアの「平和の10日間行動」で8万人が行進をおこなった。また、6月25日、地中海の島国マルタ共和国では、3万人が決起し、港を船で封鎖、イギリス核艦船の寄港を阻止した。
こうした大衆動員の行動以外に、SSDⅢに合わせて、パグウォッシュ会議と核戦争防止国際医師会議(IPPNW)が、それぞれニューヨークとモントリオール(カナダ)で開催された。