1952年式典(平和式典の原型)

1952年式典(平和式典の原型)

1951年(昭和26年)9月9日、サンフランシスコで対日講和条約が調印され、翌52年4月28日発効した。これにより、占領下においてタブーとなっていたさまざまな動きが一気に噴き出すこととなった。51年10月19日、戦後初の広島県戦没者合同慰霊祭が広島県遺族厚生連盟により行われ、翌52年5月2日には、広島県主催の戦没者追悼式が開催された。東京の出版社は、51年10月『原爆の子-広島の少年少女のうったえ』(長田新編、岩波書店)、52年4月『原爆の図』(丸木位里・赤松俊子、青木文庫)、6月『原爆詩集』(峠三吉、青木文庫)、8月『原爆第一号 ヒロシマの写真記録』(海野彪、田島賢裕、朝日出版社)、『広島-戦争と都市』(岩波写真文庫)、9月『詩集原子雲の下より』(峠三吉編、青木文庫)など、原爆被害の実態を取り上げた書物をつぎつぎに出版した。また『アサヒグラフ』(52年8月6日号、「原爆被害の初公開」)、『改造』(52年11月増刊号、「この原爆禍」)といった雑誌が、原爆特集を行なった。
独立後初の平和式典は、平和記念公園内に新設された原爆死没者慰霊碑前広場で午前8時から1時間、つぎの式次で開催された。
開式の辞 (坂田助役)
慰霊碑除幕(戦災孤児5名)
広島市原爆死没者過去帳奉納(浜井市長)
焼香   (戦災孤児2名)
式辞 (永田市会議長)
平和の鐘、黙とう(午前8時15分)
平和宣言 (浜井市長)
放鳩
メッセージ朗読 吉田首相(代読:河野副知事)、岩本衆院副議長(代読:佐竹代議士)、三木参院副議長、英連邦軍呉基地司令官パットン代将、大原広島県知事(代読:河野副知事)、山中県会副議長
平和の歌合唱 (NHK広島放送局合唱団)
閉式の辞
式典には、前年同様、空からの参加が見られた。岩国基地駐留英連邦軍機が、山口県岩国渉外局長、毎日新聞記者ら6名を同乗させて式場上空を旋回し、三色の花輪をパラシュートに付けて投下、朝日新聞本社機「さちかぜ」も花束と同社村山会長のメッセージを投下した。また、NHKは、飛行機と地上を結ぶ二元放送による式典の実況放送を行ない、その途中で花束を投下した。