死体処理と遺骨授受
原爆被爆の翌日1945年(昭和20年)8月7日、広島にあった軍官施設の指導者は、在広陸海軍官衙長会議を開催し、被害対策の基本方針を検討した。その中で「屍体処理ハ出来ルダケ迅速ニ行フコト」を決定、具体的内容として、つぎの3点が指示された。(『広島県戦災記録』)
1 輸送困難ニツキ現地デ焼クカ埋葬等ニ付スコト
2 右ノ中比治山八丁堀紙屋町付近市役所土橋水主町付近ハ刑務所ノ囚人400名ヲ出動応援スルコト
3 郡部ヨリ僧侶ヲ集メ読経セシム
第2項にあげられた地域では、それぞれ5,000人近い学徒隊、国民義勇隊が建物疎開作業のために動員されており、大量の死者が発生した(志水清「動員学徒等特殊集団にみられる原爆被爆直後の人的被害調査補遺」)。
これらの死体収容は、軍と警察の指揮のもとに実施されたが、8月11日までに軍部隊は、1万2,054体、警察機関は、1万7,865体、市外の救護施設は、3,040体を、それぞれ処理している(広島市調査課『戦災被害調書』1946年1月26日)。
原爆に生き延びた広島の市民の生活は、肉親や知人の消息捜しと死者への慰霊から始まった。広島市立高等女学校を例にとれば、その日誌の8月7~14日の項には、つぎのような記述をみることができる。
8月 7日
仮本部ニテ事務受付ク(中略)捜査全面的実施
上野教諭 日赤、富士見町、共済病院御捜査
柳楽教諭 同上
宮脇教諭 船舶司令部運輸部御捜査
8月 9日
捜査続行
似島方面ニ小谷教諭御捜査
現場ニ於テ御骨ヲ頂戴シ帰ル 同時ニ遺品ヲ持チ帰ル(中略)
8月14日
校長御欠席ノママ事務佐々木氏ノ斡旋ニヨリ、唯信寺御坊ヲ招キ、職員室ニ於テ午前9時半ヨリ納経引続キ判明遺家族及御希望家族ニ御分骨申上グ 約百名ノ遺家族御参列
(『昭和20年8月6日罹災関係 経過日誌 広島市立高等女学校』)
広島市は、市内各所に収容された原爆死者の遺骨を引き取り、市民部保健課で遺族への遺骨交付を行なったが、10月31日現在での授受取扱数は、受領1万1,525体、交付4,805体、残6,720体であった(『昭和20年広島市事務報告書並財産表』)。