平和式典の関連行事
(3) 灯ろう流し
1947年(昭和22年)7月14日、広島市内の日蓮門下寺院8か寺の僧侶13人と広島立正婦人協会員1、000人が中島本町慈仙寺鼻の供養塔で臨川大施我鬼法要を執行した。供養塔での読経終了後、3隻の発動機船に分乗し、本川の三篠橋から播磨橋の間を往復、原爆犠牲者の戒名、俗名などをしたためた経木を川に流して、水供養を行なった。こうした特定の宗派による爆心地付近の川での慰霊行事は、これ以外にも、同年8月5日(広島県宗教連盟)、翌48年7月31日(日蓮宗)、51年7月11日(日蓮宗)、54年8月6日(本願寺広島別院)の行事が、新聞で紹介されている。
1948年の平和祭行事の一つに東部商店連盟が猿猴川で開催した「川祭」(8月6-7日)があった。その模様は、つぎのように報じられている。
広島市的場大通商店街では、戦災死者および幾多の死没者の霊を弔うため6日、的場町太陽館前広場に「法界万霊戦死者供養塔」を建て、午前11時と午後9時法要を厳修、また午後7時からは猿猴川で川施餓鬼を催し華やかな灯篭流しに平和祭の偉観をそえる。 (「中国新聞」48年8月3日)
翌49年にも同所で同様の行事が行なわれ、50年(または51年)からは、中国商店街連合会が、元安川で灯ろう流しを始めた(「中国新聞」1956年8月5日)。また、49年には、江波青年会が、8月6日に河川で死没した原爆犠牲者の「霊を慰めますと同時に其冥福を祈り且つ平和への犠牲に対する感謝の祈りを捧」げるため川供養を計画している(江波青年会革新同盟の広島平和協会長あて「助成金申請」49年7月16日)。これが実行されたかどうかは、不明であるが、52年の平和記念日の夜に、本川青年団が、相生橋下で灯ろう400個を流したことは、新聞で報道されている。
宗教団体、商店街、青年団などにより始められた灯ろう流しは、1952年からは、「ひろしま川祭委員会」により、大規模に実施されるようになった。この委員会は、広島市、市教委、市観光協会、広島商工会議所、FK、国際文化協会、中国新聞社が、「原爆犠牲者の霊を慰めるとともに大衆への慰安をも併せ行い、春の広島まつりとともに広島の2大年中行事」にしようとの意図で結成したもので(「中国新聞」52年7月23日)、第1回の「ひろしま川祭」は、52年8月9日と10日の両日開催された。9日の行事は花火大会と灯ろう流しで、午後7時半から10時半まで、供養塔前と本川橋側水上で、大小500発の打ち上げ花火と仕掛花火20数掛が使用され、また、相生橋河畔で、満潮時に2、000個の灯ろうが流された。10日の行事は市民水上音楽会であり、午後7時から10時半過ぎまで、原爆ドーム前の元安川に浮かべられた船を舞台に開催された。出演したのは、広島邦楽研究会、銀声会合唱団、広島放送管弦楽団、広島フィルハーモニー、花柳寿鶴社中であった。
1953年の第2回の川祭では、6日から8日の夜の満潮時に、元安川と本川で2、000個の灯ろうが流され、8日に、水上音楽会と花火大会が開催された。54年の第3回川祭では、8月6日と7日の両日、平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑前で花火大会が開催され、6日から8日にかけて七つの川で灯ろう流しがおこなわれた。その実施状況はつぎのようなものであった。
中部地区=6-8日、大仏殿前元安川河畔、2、000灯
横川地区=7-8日、横川橋下、700灯
己斐地区=6-7日、己斐橋、1、000灯
十日市地区=6日、本川小学校横河畔、300灯
鷹野橋地区=6日、明治橋下、700灯
駅前地区=6-7日、駅前橋下北側、800灯
段原地区=7日、大正橋下、300灯
この年には、8月6日午後8時から、世界平和広島仏舎利塔建設会、広島大仏奉賛会や本願寺広島別院による灯ろう流しも実施され、平和記念日の夜の広島の川は、多数の灯ろうで彩られた。
1955年の第4回からの川祭の行事は、8月6日夜の灯ろう流しと7日夜の平和公園内での慰霊花火大会となった。6日夜の灯ろう流しは、その後も続けられ、現在に至っている。91年には、広島祭委員会、中国新聞社、広島市商店街連合会の共催により、つぎの5か所で、計9,200個の灯ろうが流された。
駅前地区(駅前大橋北詰の西) 400個
中央地区(原爆ドームの南側) 7,000個
鷹の橋地区(明治橋東詰の南側) 700個
福島地区(新己斐橋東詰の南側) 600個
己斐地区(新己斐橋西詰の南側) 500個
広島祭委員会は、1959年から灯ろう流しと花火大会のほかに、市民盆おどり大会を市民球場で開催するようになった。また、65年からは、盆踊大会と花火大会が、灯ろう流しとは切り離され、太田川夏祭として開催されている。