資料年表:山本達雄

資料年表:山本達雄<作業中

年月日
**** 誕生
1945
08 広島への原爆被爆直後、陸軍兵として遺体処理作業。市内で書店(金正堂)を経営していた叔父を探す。
0916 地下倉庫でくすぶる火を懐炉に移し福岡県吉野村の自宅に持ち帰り仏壇や火鉢でともし続ける。
1966
**** 家業の茶栽培を取材に来た新聞記者に漏らしたことから「原爆の火」の経緯が報道される。
1968
**** 「平和の火」として星野村に引き継がれる。
1972
0730 原水禁被爆者キャラバン隊が分火し、原水爆禁止世界大会長崎大会(社会党・総評系)の会場へ。8月7日長崎市松山公園にともる。 C
 1973
 0805  広島県原水禁、福岡県星野村の「原爆の火」を8月6日に広島での世界大会会場に届ける。  C
 1988
 0324  福岡県星野村の「原爆の火」、役場前の「平和の塔」で採火式。第3回国連軍縮特別総会(SSDⅢ)の開かれるニューヨークに向け出発。  C
 0602  「原爆の火」、国連本部に届く。  C
 0611  ニューヨークでNGOの国際平和集会、国連本部前からセントラルパークまで平和行進。先頭は 「原爆の火」をもった被爆者30人。  C
0806 『ヒロシマの火』(山口勇子著、新日本おはなし文庫)
 1024  大窪寺(香川県長尾町、四国霊場88番札所の結願寺)で 「原爆の火」平和塔の建立式。 C
1989
0213  東照宮(東京)で「上野東照宮に広島・長崎の火を灯す会」発起人会。山口勇子・伊東壮東友会会長らが出席」。  C
 04―  般若寺(奈良市)境内に「原爆の火」を灯し続ける「平和の塔」の建立計画。  C
1015  豊橋市立桜丘高校(愛知県)、「原爆の火」を灯した「平和の塔」完成。  C
 1990
 0721  上野東照宮(東京)の「原爆の火」を灯しを灯し続けるモニュメント完成。  C
 0729  神奈川県原爆被災者の会、鎌倉市の大船観音境内に「原爆の火の塔」を建立。  C
 1995
0506  「1995年国民平和大行進」(日本原水協など)、上野東照宮の「原爆の火」をともし、都立第5福竜丸展示館前を出発。  C
 2000
1206 「ピースウォーク」参加者約40人、「原爆の火」を手に、広島市平和公園に到着。 C
2003
0120 社史が語る原爆・ヒロシマ』(「しんぶん赤旗」中国四国総局、新日本出版社))
「いまも燃える『原爆の火』―金正堂」83-
2004
0511 逝去。享年88歳
0601  『朝日新聞』(20040601)
渕沢貴子「山本達雄さん 広島「原爆の火」採取し守る 平和の願い、静かにともす」
 2007
 08  ヒロシマの火 平和への灯
 このモニュメントには、広島平和記念公園の「平和の灯」と福岡県星野村の「平和の火」から分火された、”2つの火”が灯されています。
「平和の火」は、1945年(昭和20年)福岡県星野村出身の山本達雄さんが、原爆で亡くなられた親戚の形見として、廃墟となった広島の街から持ち帰った”原爆の火”です。
自らも被爆した山本さんは、多くの尊い命が奪われた”ヒロシマを忘れてはならない”と、自宅で絶やすことなく火を守り続けました。
その後、1968年(昭和43年)この火は「平和の火」として星野村に引き継がれ、広島から遠く離れた地で、被爆後62年の今も、燃え続けています。
NHK広島放送局では、広島平和記念公園と星野村の”2つの火”を合わせ、原爆で亡くなられた方々の慰霊、また核廃絶と恒久平和を願う”ヒロシマの祈りの火”として灯し続けていきます。題字は、書家で被爆者でもある森下弘さん(広島市佐伯区)にお願いしました。2007年(平成19年)8月
 2008
 1202  『「平和の火」 福岡県星野村から広島平和公園へ』(久行大輝・記者)  C
2014
 1218  「平和首長会議 加盟年からの平和メッセージ」
 ㉘福岡県八女市 三田村統之  C