社史が語る原爆・ヒロシマ

社史が語る原爆・ヒロシマ(『赤旗(中国四国版)』連載 2002.1.6~8.9)

広島電鉄

01 0106 あの日の姿 路面電車も被爆した
02 0108 女学生の体験 黄色い炎が顔をなめ
03 0109 1945年「あの日」 4000度の熱線あびる
04 0110 広電本社崩れる 鬼哭啾々 朝の惨状
05 0111 電車の被爆(上) 女性車掌が「助けて」
06 0114 電車の被爆(下) 運転手は黒焦げに
07 0115 復旧への努力 「おっ、電車が動くんか」
08 0116 運転手の証言 行方不明の同僚を捜して
09 0117 平和のとりくみ 会社あげて被爆体験継承
10 0118 幻の卒業生 学業のかたわら運転も

 

中国電力

01 0128 暗黒の一夜 惨状は前後を絶する
02 0129 戦時下の電力事業 国策会社として出発
03 0130 被爆直前 動員学徒らと仕事に
04 0131 壊滅のとき(上) 一瞬、真っ暗になって
05 0201 壊滅のとき(下) サッシが背中貫いて
06 0204 動員学徒の死 お母さん!痛いよう
07 0205 原爆第一報 血みどろになりながら
08 0206 希望の灯 復興はまず電気から
09 0207 戦後復興担った人 点灯に無上の喜び
10 0228 元社員の思い 私たちが見た被爆の怖さ

 

中国新聞

01 0225 被爆カメラマン(上) ファインダーは涙で
02 0226 被爆カメラマン(下) 「あの日」は数枚だけ
03 0227 本社壊滅 従業員三分の一が犠牲に
04 0228 社員の伝言 戦争は再びあってはならぬ
05 0301 記者の追憶(上) 中国新聞も終わりか
06 0304 記者の追憶(下) 焼け跡に赤いかんざし
07 0305 8月9日付発行 代行印刷を指示、奔走
08 0306 プレス・コード 原爆写真掲載に呼び出し
09 0307 消えたペン 遺族訪ねた告発と鎮魂の書
10 0308 不戦の誓い 戦争のためのペン持たず

 

日赤病院

01 0325 塔のある病院 廃虚の中のオアシス
02 0326 不眠不休の救護 押し寄せる被爆者
03 0327 元看護婦の証言(上) 変わり果てた街で
04 0328 元看護婦の証言(下) 遺体見送る被爆者の目
05 0329 生きる希望 全身を焼かれても
06 0401 奇跡の生還 6年間の入院生活
07 0402 原爆患者一号 今に生きる被爆体験
08 0403 ジュノー博士 遺志を引き継いで
09 0404 「保存運動」 追体験の場残して
10 0405 「いのちの塔」 生へのたたかい記録

 

福屋百貨店

01 0513 白亜の殿堂 骨組み、外郭残し全焼
02 0514 国民統制の時代 ”雑炊食堂”に行列
03 0515 火事嵐 道を隔て移る猛火
04 0516 動員学徒の「脱出記」 指一本の明かり頼りに
05 0517 燃え盛る市内 避難先から見た惨状
06 0520 被爆後の混乱 自然鎮火を待つだけ
07 0522 再興を誓う人々 手がかりは福屋から
08 0523 酒の立ち飲み うっ積を晴らす憩い
09 0524 弾圧のもと平和集会 原爆使用に危機感
10 0525 現在これから 地元に根ざし続けて

 

金正堂書店

01 0603 星野村 火 57年後も燃え続ける
02 0604 星野村 碑 平和への思い内外に
03 0605 創業のころ 本屋の「のれん分け」
04 0606 発展と衰退 文京都市の文化ささえて
05 0607 革屋町壊滅 涙の中から復興へ
06 0610 おいの体験(上) 宇品への車中で被爆
07 0611 おいの体験(中) 叔父求め歩き続ける
08 0612 おいの体験(下) 灰を吹きつけると炎が・・・
09 0613 23年の管理 惨状知る火、絶やしてはならぬ
10 0614 恒久平和願う「火」 全国9ヵ所に「分火」

 

旧国鉄

01 0624 苦い記憶 57年前の「あの日」今も
02 0625 長い腕 貨物列車に回れ右
03 0626 ガラスの嵐 壁になった友人・・・
04 0627 広島駅の被爆 「バケツ」一杯ノ水デモト
05 0628 無言の語り部 父は「ピカドンで死んだ」
06 0701 脱線転覆 ”大事故を起こしたか”
07 0702 山陽本線の復旧 ”死体の川”の上で
08 0703 救援隊の涙 紙で作った人形が・・・
09 0704 救援列車 トマトが食べたい
10 0705 この怒りを 国鉄労働者289人の碑

 

島病院

01 0729 爆心直下 瞬時に命を奪われた
02 0730 一枚の写真 再び顔そろうことはない
03 0731 黒焦げの遺体 「これは婦長さんです」
04 0801 救護活動 助け求める声、声、声
05 0802 病院のある街で 肉親の死 遺骨もなく
06 0805 35枚の絵 鉛筆画に残すわが町
07 0806 旧天神町住民の証言(上) これが「死の世界」か
08 0807 旧天神町住民の証言(下) 「いとこの死」が原点
09 0808 再建 平和と貧しきものにささぐ
10 0809 連載終了にあたって 充実した原爆報道へ

 

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宇吹 暁(うぶき さとる)「被爆体験の継承をめざして」(「しんぶん赤旗」中国四国総局、新日本出版社、2003年1月20日)pp133-141

原爆報道

被爆体験は、被爆後直後からこれまで、報道・手記・文学・映画・演劇などさまざまな形で継承されてきた。中でも、多数の人々の被爆体験を伝えてきたのは、報道と手記である。
朝日新聞(東京本社版)は、一九四五年八月一〇日付の紙面に「閃光 熱い痛い感じ」との見出しで体験者の談話を掲載、同月一二日には、浅井・松尾・岸田特派員発の現地報告「一瞬に広島変貌」を載せた。また、三〇日には「海底のやうな光-原子爆弾の空襲に遭って」との見出しで、広島で被爆した作家大田洋子の体験記を掲載している。新聞だけでなくラジオやテレビも、多くの被爆者の声を紹介してきた。NHKラジオ(広島県域)では、四九年八月九日の「原爆一号[吉川清]に聞く」、同テレビでは、五八年二月二八日の「原爆被災者は訴う」が、記録(広島放送局放送部資料班『広島ハンドブック(八三年作成)』)で確認できる早期のものである。
講和条約の発効以後、毎年八月前後には新聞各紙が、数回から十数回の企画・連載を組むようになった。一九五二年には、朝日新聞(広島版)が「原爆白書」(七月二九日から五回)を掲載するが、これは条約発効前後に広島で胎動を始めた被爆者の組織作りや平和運動などを取り上げたものであった。原爆関連の企画・連載には、「原爆症」や「復興」といった単一のテーマを取り上げたもの以外に、その年の原爆問題をめぐるさまざまな動きを紹介する「原爆問題年報」的なものがあるが、朝日のこの「原爆白書」企画は、確認できるこうした形式の最も早い例である。また、中国新聞が、「原爆モニュメント遍歴」(五二年七月二九日から八回)を掲載している。これは、「原爆で断ち切られた人間の生命を永久に結び付ける象徴」として原爆慰霊碑を紹介したものであった。
中国新聞は、この後、原爆問題をテーマとした大型連載を精力的におこなった。中には、「原爆十年-広島市政秘話」(一九五五年七月一五日から七四回)、「フェニックス広島号の冒険」(第一部・第二部、六一年一〇月一〇日から一三四回)という大型のものもあった。また、同社は、被爆二〇周年を迎えた一九六五年には、七月八日から「ヒロシマ二十年 世界にこの声を」(三〇回)、「あの日と私」(二〇回)、「炎の系譜」(三〇回)、「広島の記録」(九〇回)、「廃墟からの道 広島復興裏面史」(夕刊、三〇回)の連載を開始した。この年には、他社も積極的に原爆問題を取り上げたが、中国新聞社の力の入れようは群を抜くもので、高い評価を受け、同年の日本新聞協会賞を受賞した。
一九七〇年代に入ると、原爆企画は、マスコミ各社が当然のこととして取り上げ、その内容をめぐって競争するという活況を呈した。被爆者を対象とした本格的な世論調査が、六八年の中国新聞社を皮切りに、中国放送、NHK中国本部などで行われた。また、七四年五月にはNHK中国本部が市民に、「絵による証言」の提供を呼びかけ、大きな反響を呼んだ。手記の募集もしばしばおこなわれた。『被爆体験・私の訴えたいこと』(NHK中国本部、七七年)、『いつまでも絶えることなく』(NHK広島放送局、八六年)、『手記・被爆者たちの四〇年』(朝日新聞大阪社会部、八六年)は、マスコミの呼びかけに応じた被爆者の手記を特集したものである。これらは、マスコミが、被爆者の実態解明や被爆体験継承の担い手として大きな役割を果たしたことを示すものである。こうした原爆報道の歩みは、規模こそ広島に比べれば小さいものの、長崎においても見ることができる。中でも、長崎新聞の記事『私の被爆ノート』は、九六年二月一六日から二〇〇二年七月一一日まで連載された三〇〇回に及ぶ大型連載であった。
日本共産党の機関紙「赤旗」も毎年八月の原爆記念日前後に被爆体験継承をテーマとした連載を掲載している。一九六三年の「ここに生きる 一八度目の“あの日”を迎えた被爆者」(八月五日~八日、三回)が、同紙の縮刷版で確認できる初めてのものである。以後、「被爆者はたたかっている 被爆二十周年を迎える広島と長崎」(六五年七月~八月、一〇回)、「被爆者は訴える」(六六年七月、六回)、「広島からの手紙」(六七年七月、五回)、「被爆者は訴える」(六八年七月~八月、七回)、「被爆者とともに 援護運動この一年の歩みから」(六九年七月~八月、七回)、「“原爆”から二五年 この人をたずねて」(七〇年七月~八月、六回)と続き、今日に至っている。
新聞・ラジオ・テレビで紹介された被爆者の証言は、膨大な量になることは明らかである。これまでにも、原爆被災資料広島研究会(一九六八年結成)などにより整理が、試みられたことはあったが、中断したままである。

原爆手記
現在でも、報道機関による被爆体験継承の試みは存在している。しかし、各紙が競うように行ったのは、一九七〇年代までである。原爆手記の出版が、これと入れ替わるように活発になった。原爆手記は、九五年までの出版物に限っても、三万七七九三件の手記を掲載する三五四二点が存在するが、これらの大半は、七〇年代以降に現れたものである。これらを出版主体別にまとめれば、第1表のようになる。

第1表 原爆手記掲載書誌及び手記の分類別件数

分類 書誌数 手記数 割合(%)
1被爆当時の組織 348 6836 18.1
2被爆者団体 462 15312 40.5
3被爆者関係施設・団体 339 4100 10.9
4平和教育関係団体 287 3386 9.1
5原水爆禁止・反核団体 207 962 2.6
6社会団体 323 2085 5.6
7その他 1576 5112 13.5

注)割合=全手記数に占める割合
分類別では、「被爆者団体」によるものが最も多く、手記数は全体の四〇%に及んでいる。このほか、原爆被爆者養護施設(分類「被爆者関係施設・団体」)、平和教育の一環として学校や公民館(「平和教育関係団体」)、原水禁団体(「原水爆禁止・反核団体」)、婦人団体(「社会団体」)などによっても出版された。これらのほとんどは、広く読まれることを期待して出版されたものであり、日本の反核運動の高揚に大きな役割を果たしてきた。しかし、広島の社会的な被害実態の解明に役立つものは少ない。これらの手記では、官公庁・学校、工場など個別の名称が省かれているものが多いからである。

米国戦略爆撃調査団の調査によれば、広島には、中国地方総監府・中国海運局・広島控訴院・広島鉄道管理部・広島逓信局・広島財務局などの官公署をはじめ、広島中央放送局・日銀・勧銀・日通などの支店が置かれていた。また、市内およびその近郊には、三菱重工業・東洋工業・日本製鋼などの大企業をはじめ、六千をこえる工場が存在していたという。また、職種別の被雇用者の状況は第2表のようなものであった。

第2表 広島地域の職種別被雇用者数

職 種

平均被雇用者(人)

比率(%)
工場 83671 64.1
官公庁 13049 10.0
運輸 12288 9.3
商業 9141 7.0
専門職 3252 2.5
その他 9425 7.2
合計 130826 100.0

出典:合衆国戦略爆撃調査団「広島市に対する空襲の効果」

第1表の分類の「その他」の多くは私家版である。「被爆当時に存在した組織」と合わせた手記数は、全体のほぼ四分の一に及んでいる。これらは、限られた関係者に配布されたものがほとんどであり、反核運動に及ぼした影響は被爆者団体などによる手記ほどではなかったと思われる。しかし、分類「被爆当時に存在した組織」に含まれる「官公庁」、「学校」、「事業所」関連の手記は、いずれも社会的な被害実態を明らかにするための貴重な素材である。
「被爆当時に存在した組織」の分類に属し、広島の手記を含むものは全部で二五六点存在する。この内、最も早い例は、被爆から一年後の一九四六年八月一日に出版された『泉第1集-みたまの前に捧ぐる』(広島興産文化部編、広島興産株式会社)である。この書は、広島興産の前身である広島航空機に動員され犠牲となった広島一中や県立第一高女の生徒への追悼文集であり、一五人の手記を収録している。この後、『広島貯金支局戦災復旧事務史』・『東洋工業株式会社三十年史』・『原爆記-千代紙の小箱』(星野春雄、広島女子高等師範学校物理学教室原爆五周年刊行会)・『中国菓業名鑑-広島県之巻』・『追悼法会』(広島車掌区)が、占領期間中に発行された。また、独立後には、学校・官公庁関係のものや、被爆者の救護のあたった広島県内の医師会や三菱重工業株式会社広島造船所関係のものが多数出版されている(拙著『原爆手記掲載図書・雑誌総目録』、日外アソシエーツ、一九九九年)。

「社史が語る戦争・原爆」
本書に収録された新聞連載は、交通(広島電鉄・旧国鉄)・エネルギー(中国電力)・商業(福屋百貨店)・情報(中国新聞)・医療(日赤病院)の各分野の広島における基幹組織と「島病院」・「金正堂書店」の八社を取り上げている。前の六社が報道で紹介されるのは、今回が初めてではなく、これまでにもしばしば新聞報道や出版物で紹介されてきた。本連載では、「社史」という埋もれがちな文献を手がかりとし、それに現存する被爆者の証言を加え、被爆状況と関係者の平和への取り組みを簡潔にまとめているところにその特色がある。「当時のことを鮮明に証言できる被爆者が数少なくなってきていることを痛感」しながらも、これらの記事は、なお、現在でも被爆者からの聞き取りが可能であることを証明した。日本で生まれ、反核運動に大きな役割を果たしてきた「原爆報道」の伝統を受け継ぐ企画ということができよう。
「島病院」と「金正堂書店」では、遺稿集や県外資料を使用し、要領よくまとめられている。これらは、前者が、広島の原爆爆心地、後者が福岡県星野村に戦後燃え続けていた「広島原爆の火」が採火された場所という特異な存在ではある。しかし、両者は、ともに、被爆当時の広島に存在した多数の病院・商店などの一つである。この記事は、こうした組織の被害状況とその戦後の歩みが、見落としがちな資料をもとに明らかになる可能性を示してくれた。
被爆体験は、日本における反核運動のエネルギーの源泉であった。一九六〇年代半ばには、原爆被災白書作製が提唱された。この時期から、原爆被災資料広島研究会による原爆被災資料の所在確認作業、広島・長崎両市の原爆資料館をはじめとする公共機関による資料の収集・保存事業、一〇フィート運動による原爆映画の製作、マスコミ各社の原爆企画報道、被爆者団体を中心とした原爆手記の出版など、被爆体験継承の試みがさまざまな形でなされている。また、八〇年代以降、被爆体験の証言活動を中心とした被爆者運動が、日本の平和運動の中心的役割を果たしている。しかし、現在なお、原爆被災白書はまとめられておらず、また、核兵器の廃絶は実現されていない。
被爆体験の直接の担い手である被爆者は年々確実に減少している。また、当時の記憶が次第に不鮮明になることも、避けることはできない。さらに、われわれ残された原爆報道や被爆手記などに含まれる証言は、間接的であり、被爆者の生の証言にかわることはできない。今後も被爆体験を継承し続けるためには、多くの労力と英知を必要とするであろう。「中国四国版」という、限定された紙面で展開された今回の試みが、まずは長崎に、次いで全国に広がり、更には他社へも広がってゆくことが期待される。