平和宣言
(10) 宣言内容の変遷
宣言に盛り込まれてきた要素は、実に多様である。しかし、「人類破滅観」のように当初より一貫して存在するものや、ある年以降継続的に盛り込まれている要素、ある時期にのみに存在する要素もある。1991年(平成3年)の宣言の構成は、(a)被害の実相、(b)ヒロシマの願い、(c)国際動向、(d)日本政府への要望、(e)ヒロシマの動向と決意、(f)ヒロシマの訴え、(g)結語となっている。結語では、国際協力のあり方、平和教育の推進、被爆者援護法の実現、海外の被爆者への援護についての注意を喚起し、原爆犠牲者への追悼の意の表明と、平和への不断の努力の誓いが述べられた。これら各要素の変化の概要は、前述の通りである。
これまで触れなかったが、マスコミが大きく取り上げた要素もいくらか存在する。たとえば、1969年(昭和44年)の宣言は、「人間の月着陸という人類の夢はついに実現した」と述べたが、これを中国新聞は「アポロ11号の英知を 人類の平和建設に 平和祈念式 広島市長の平和宣言」との見出しで報じた(「中国新聞」69年7月30日)。また、各紙は、79年の宣言が「核実験被曝」に初めて言及したとして大きく取り上げた。このほか、広島への平和と軍縮に関する国際的な平和研究機関の設置が、82年の平和宣言で初めて提唱された。この提唱は、88年から90年の宣言にも盛り込まれたが、91年の宣言では消えた。
宣言内容は、時代とともに大きく変化してきた。浜井市長の時期(前期)の宣言では見ることのできなかった原水爆禁止の直接的訴えが、渡辺市長の時期には明確に現れるようになった。こうした変化は、市長の交代にともなう変化というより、基本的には式典を取り巻く環境の変化によりもたらされたものである。これは、山田市長の時期に現れた「被爆体験の継承」についても同様のことがいえる。
とはいえ、市長の交代による変化と思われるものも存在する。山田市長の時期の宣言では、「世界法」(1967年と70年)、「正義と世界新秩序の支配する社会の建設」(68年)、「世界市民意識」(69-71年、74年)、「一切の軍備主権を人類連帯の世界機構に移譲し、解消すべきである」(71年)、「世界国家」(73年)といった表現が使用されている。これらは、いずれも世界連邦主義に基づくものと考えられ、山田市長以外には使用していない。また、平岡市長は、「日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人びとに、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」という表現で、日本がもたらした戦争被害への謝罪の気持ちを述べた。この気持ちは、81年、87年、89年の宣言が原爆死没者慰霊碑の碑文の「過ち」や89年の「戦争の過ち」について触れることで間接的に表わされてきたとの解釈がある(「毎日新聞」87年8月7日)。しかし、それが明確な表現で盛り込まれた背景には、市長の強い意向があった。