投稿者: ubuki
国連軍縮会議
国連軍縮会議は、アジア・太平洋地域において、軍縮問題に対する意識を高め、また、軍縮・安全保障に関する対話を行う場を提供するという観点から、1988年に設置された国連アジア太平洋平和軍縮センター(当初はアジア平和軍縮センター)の主催により開催されている。この会議では、国連総会やジュネーブ軍縮会議など、各国政府代表で構成される通常の軍縮会議のように条約交渉や決議、アピールを行うのではなく、世界各国の政府高官や軍縮問題の専門家などが、個人の資格で参加し、毎回のテーマに沿った討議を行っている。
国連軍縮会議は、1988年の第3回国連軍縮特別総会において、竹下内閣総理大臣(当時)より、国連主催の軍縮会議を日本で開催する用意があると表明したことを受けて、1989年以来毎年、日本政府の協力の下で、日本国内の地方都市で開催されている。これは、日本の軍縮に対する積極的な姿勢を国内外にアピールする良い機会となるとともに、この種の会議を全国の様々な都市で開催することにより、軍縮問題に対する日本国民の関心を高めることに貢献している。これまで、広島、長崎をはじめとして、京都、仙台、札幌、秋田、金沢、大阪、横浜,さいたま,新潟で開催。出典:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/un_cd/gun_un/gaiyo.html
| 回 | 開催年月日 | 開催地 | 備考 |
| 01 | 1989年4月19ー22日 | 京都 | |
| 1991年5月 | 京都 | 05 31 FRI 14:10 S 国連京都会議一行への講演。14時10分より15分間。後、秋葉(放影研)・阿部静子・高橋昭博。 05 31 FRI 18:30 S 国連軍縮専門家一行歓迎レセプション(県知事・市長主催)。於グランドホテル。 06 01 SAT 10:00 S 「国連と軍縮」シンポジウム。於広島国際会議場。-12時。こういう啓蒙活動は、もういいのではないか。だれを対象としているのか、日本政府のため?明石次長の「北鮮」発言、気になっていたら、会場からもその後にも問題になった。 |
|
| 1992年6月15-18 | 広島 | ||
| 03 | 1993年4月 | 京都 | 93 04 17 SAT 13:30 S 第3回国連軍縮京都会議参加者一行への「原爆被害の概況説明」。宇吹・長谷川・渡辺美代子・高橋。 |
| 1995年6月12-16日 | 長崎 | ||
| 08 | 1996年7月17-20日 | 広島 | |
| 10 | 1998年11月24-27 | 長崎 | 基調テーマ「核兵器のない世界に向けて」 |
| 25 | 2015年8月26-28日 | 広島 | 参加者:23か国・5国際機関から83人。 |
| 27 | 2017年11月29-30日 | 広島 |
年表:国連軍縮会議(1989~2000年)
| Y | M | D | NEWS1 |
| 89 | 03 | 04? | 長崎・広島両市長に、「国連軍縮京都会議」(4月19日-)への招待状が届く(オブザーバーとして出席)。 |
| 89 | 03 | 16 | 国連軍縮局、4月に京都で開催する「軍縮問題に関する国連京都会議」の概要を発表。それによると、31カ国約100人が参加。テーマは「軍縮と安全保障」など。同会閉会後は広島に移動し、原爆資料館など見学。 |
| 89 | 04 | 16 | 京都の市民グループ、国連軍縮京都会議へのアピール文を掲げ、反核デモ(約30人参加)。 |
| 89 | 04 | 17 | 「国連軍縮京都会議」(19ー22日)出席者のうち広島を訪問するメンバー・スケジュールなど決定。 |
| 89 | 04 | 19 | 「国連軍縮京都会議」(国連主催)、京都市で開催(31ヵ国から90人参加、22日まで)。テーマ「核実験禁止と検証」。被爆国日本での初の世界的な軍縮会議。外相、開会式に出席。広島・長崎両市長、オブザーバーとして出席。 |
| 89 | 04 | 19 | 「国連軍縮京都会議」の主催者、広島市の被爆者の作った「反核人形」の配布を、「人手がない」と断わる。 |
| 89 | 04 | 19? | 京都の市民グループ「国際市民アクセスセンター」、各国の市民の「国連軍縮京都会議」へのメッセージをパソコン通信で収集、冊子にまとめ同会議参加者に配布。 |
| 89 | 04 | 20 | 「核軍縮を求める二十二人委員会」、「国連軍縮京都会議」で、非核三原則の法制化を検討していることを公表。 |
| 89 | 04 | 20 | 京都の市民グループ、「国連軍縮京都会議」の会場周辺で、プラカードを掲げて同会議参加者へ核兵器廃絶などを訴え。京都府警からデモ行進を阻止され、中止。 |
| 89 | 04 | 23 | 「国連軍縮京都会議」に出席したベネゼエラ・ソ連代表、原爆ドーム募金に寄金。(海外からの第1号。) |
| 89 | 04 | 23 | 「国連軍縮京都会議」への参加者(25ヵ国53人)、来広し、原爆資料館など見学。原医研・放影研職員より被爆の社会・医学的影響の説明を受け、被爆者より被爆体験を聴取。 |
| 89 | 04 | 24 | 「国連軍縮京都会議」に参加したカナダ代表、来広し、原爆ドーム保存募金に寄金。 |
| 89 | 04 | 24 | 「『国連と軍縮』広島講演会」(広島市など主催)、広島市で開催(聴衆約400人)。「国連軍縮京都会議」参加者(日・米・ソ・カナダ代表)による講演。テーマ「いま、世界は」。 |
| 90 | 04 | 16 | 広島平和文化センター河合護郎理事長ら、国連軍縮仙台会議にオブザーバー参加。 |
| 90 | 11 | 15 | 広島市長、即位の礼出席のため来日したデクエヤル国連事務総長と東京で会見。同市長、1991年の国連軍縮京都会議参加者の広島訪問と1992年の国連軍縮会議の広島開催を要請。事務総長、前向きに取り組む姿勢を表明。 |
| 91 | 04 | 09 | 中山外相、参院外務委で、広島市が同市で開催を希望している国連軍縮会議について、政府としても実現に協力する考えのあることを表明。 |
| 91 | 04 | 10 | 国連筋、5月末の「国連軍縮京都会議」には海部首相らが参加し、これまでより注目度の高いものになるとの見方を表明。海外からの会議参加者の大半が、会議後に来広。 |
| 91 | 05 | 14 | 第2回国連軍縮京都会議の参加者を広島に招いて開催する「国連と軍縮シンポジウム」の内容、決定。テーマは「冷戦後の国際システム構築への課題」。 |
| 91 | 05 | 27 | 第2回国連軍縮京都会議、京都市で開催。30日まで。広島・長崎両市長、オブザーバー参加。広島市長ら、軍縮会議の広島開催を関係者にアピール。 |
| 91 | 05 | 28 | 本島長崎市長、国連軍縮京都会議に出席中に、広島市と合同で在韓・北朝鮮の被爆者の調査を国に要望したい意向を表明。 |
| 91 | 05 | 30? | 国連軍縮京都会議に出席した仏のソラニュ・フェルネクス(「欧州議会」議員・「平和のための婦人グループ」メンバー)、同会議について「抽象論議をやめて具体的に行動を」とコメント。同グループは、毎年パリ郊外で広島・長崎記念行事を開催。 |
| 91 | 05 | 31 | 国連軍縮京都会議参加者一行45人、来広し、原爆資料館など見学。原爆映画を鑑賞し、被爆体験を聴取。 |
| 91 | 06 | 01 | 「国連と軍縮シンポジウム」、広島市で開催(広島県・市など主催、約500人参加)。「冷戦後の国際システム構築への課題」をテーマに、国連軍縮京都会議参加者らがパネリストとして参加。 |
| 91 | 10 | 26 | 広島市長、帰広。1992年の国連軍縮会議の広島市での開催について、前向きの感触を得たこと・1993年の第3回世界平和連帯都市市長会議が広島・長崎両市で開催されることなどを報告。 |
| 91 | 11 | 12 | 宮沢首相、広島市が1992年に開催を要望している国連軍縮広島会議について、開催が決定すれば政府は積極的に協力していきたいとの見解を表明。 |
| 92 | 01 | 21 | 広島市議会国際交流推進特別委員会で、6月ごろ広島市で国連軍縮会議が開催されることが明らかにされる。 |
| 92 | 02 | 01 | 広島市、同市で初めて開催される国連軍縮会議の日程などを発表。6月15日-18日に60人参加。国内での開催は4回目。 |
| 92 | 02 | 06? | 宮沢首相、広島市で開催される国連軍縮会議に出席の意向を示す。 |
| 92 | 02 | 18 | 平岡広島市長、首相官邸で宮沢首相に6月の国連軍縮広島会議への出席を要請。首相、日程が許せば出席したいとの意向を表明。 |
| 92 | 02 | 19 | 非核の呉港を求める会、呉市・同市議会に国連軍縮広島会議が核兵器廃絶をテーマとするよう請願。 |
| 92 | 03 | 12 | 広島県平和委員会、6月の国連軍縮広島会議の議題を「核兵器廃絶」とするよう、広島市長と市議会議長に文書で申し入れる。 |
| 92 | 03 | 19 | 「核兵器全面禁止・廃絶のためにヒロシマ・ナガサキからのアピール広島市署名推進委員会、国連軍縮広島会議で核兵器の緊急廃絶を議題とするよう国連に求めることを、広島市と市議会に要請。 |
| 92 | 03 | 27 | 田中義具ジュネーブ軍縮会議日本政府代表部大使、平岡広島市長と広島市内で会談。国連軍縮広島会議について意見を交換。 |
| 92 | 05 | 13 | 広島県被団協(市岡正憲理事長代行)、米国の国連本部軍縮室に国連軍縮広島会議の主要テーマを「核兵器廃絶」とするよう要請書を送付。 |
| 92 | 05 | 13? | 高橋昭博ら2人の被爆者が国連軍縮広島会議終了後の6月18日、各国代表に被爆体験を証言することが決定。 |
| 92 | 05 | 15 | 堂ノ脇光朗前軍縮大使、国連軍縮広島会議の会場視察のため広島市を訪問。 |
| 92 | 06 | 03 | 広島県被団協(市岡正憲理事長代行)、広島平和文化センタ-に、国連軍縮会議代表に核兵器廃絶を要請できるよう取り計らって欲しいと申し入れ。 |
| 92 | 06 | 03 | 広島平和文化センタ-、国連軍縮局から明石国連事務総長特別代表が国連軍縮広島会議に出席できないとの連絡を受ける。 |
| 92 | 06 | 09 | 宮沢首相、国連軍縮広島会議への出席を断念。 |
| 92 | 06 | 10 | 国連軍縮広島会議の参加者が決定。海外22か国31人と国内38人計69人。 |
| 92 | 06 | 12 | 広島県被団協(市岡正憲理事長代行)、核兵器廃絶を国連軍縮広島会議の主要テーマにするよう求めた英文の申入書を広島平和文化センタ-に提出。 |
| 92 | 06 | 12 | プロブスラブ・ダビニッチ国連軍縮室長、軍縮会議出席のため広島入り。 |
| 92 | 06 | 15 | 長崎市議会総務委員会で、国連軍縮広島会議に長崎市が関与していないことに関連し、市の平和行政へのとりくみに対する批判が出る。 |
| 92 | 06 | 15 | 国連軍縮広島会議開幕。19か国56人が出席。-18日。 |
| 92 | 06 | 15 | 国連軍縮広島会議の参加者、原爆資料館を見学し原爆慰霊碑に献花。 |
| 92 | 06 | 16 | 国連軍縮広島会議2日目。「アジア・太平洋地域における対話の開始及び信頼醸成の現状」をテーマに討議。 |
| 92 | 06 | 16 | フィリップ・ゼリコー米ハーバード大学教授、国連軍縮広島会議で「原爆投下は正当」と発言。 |
| 92 | 06 | 16 | 国連軍縮広島会議で原爆投下容認発言を行ったゼリコー米大教授、姿を消し会議を欠席。 |
| 92 | 06 | 17 | 広島県原水爆被害者団体協議会と広島県原水禁のメンバー約30人、国連軍縮広島会議での米教授の原爆投下容認発言に抗議して原爆慰霊碑前で座り込み。 |
| 92 | 06 | 17 | 「平和を願う友の会」(竹内千代ら)、国連軍縮広島会議の参加者全員に手作りの折り紙人形を渡し終える。 |
| 92 | 06 | 17 | 大阪府高槻市立庄所小学校の修学旅行生52人、広島国際会議場を訪れ、国連軍縮室のスタッフに折り鶴を手渡す。 |
| 92 | 06 | 17 | 国連軍縮広島会議3日目。「大量破壊兵器とその運搬手段の不拡散」・「アジア・太平洋地域における信頼醸成措置」の2つの作業部会に分かれて討議を続行。 |
| 92 | 06 | 17? | 国連軍縮広島会議の参加者、全員が毎日新聞社のアンケートに「核兵器廃絶は可能」と回答。 |
| 92 | 06 | 18 | 国連軍縮広島会議、全体会議を開催し閉幕。 |
| 92 | 06 | 18 | 国連軍縮広島会議の海外からの参加者約20人、原爆映画「ヒロシマ・母の祈り」を鑑賞後、被爆者2人の証言を聞く。 |
| 92 | 06 | 19 | 広島修道大学、国連軍縮広島会議に参加した米国務省科学部門科学専門調査顧問を招いて国際交流講演会を開催。約150人が聴講。 |
| 92 | 07 | 25 | 広島県原水禁、国連軍縮広島会議で原爆投下肯定発言をおこなったゼリコーハーバード大助教授を広島に改めて招待し対話することを計画。 |
| 92 | 08 | 28 | 広島県原水禁、6月の国連軍縮広島会議で原爆投下を正当する発言をしたゼリコー米ハーバード大講師に反論文を送付。 |
| 92 | 10 | 05 | 広島県原水禁、6月の国連軍縮広島会議で原爆投下正当化発言をしたゼリコー米ハーバード大講師から返書を受け取る。 |
| 92 | 11 | 09 | 国連軍縮室、1993年に京都市で国連主催の軍縮会議を開催することを明らかにする。 |
| 93 | 01 | 12 | 本島長崎市長、国連軍縮会議を被爆50周年に長崎で開催したい意向を表明。 |
| 93 | 01 | 13 | 渡辺外相、パリの化学兵器禁止条約調印式で4月に京都で国連軍縮会議(4月13日~16日)を開催することを明らかにする。 |
| 93 | 02 | 09 | 国連アジア太平洋平和軍縮センタ-、国連軍縮局と共催で4月13日から4日間、「第3回国連軍縮京都会議」を開催すると発表。 |
| 93 | 03 | 20 | 国連軍縮室・国連アジア太平洋軍縮センタ-、第3回国連軍縮京都会議の細目と主な参加者を発表。 |
| 93 | 04 | 09? | 長崎県・市でつくる国連軍縮会議長崎シンポジウム協議会が開催するシンポジウムの概要が決定。 |
| 93 | 04 | 13 | 本島・平岡の広島・長崎両市長、国連軍縮京都会議に出席し、参加者や国連関係者と懇談。本島市長、被爆50周年に国連軍縮長崎会議を開催したい意向を伝える。 |
| 93 | 04 | 13 | 国連軍縮京都会議開催。-16日。メインテーマ「相互依存世界における軍縮と国家安全保障」。約80人が参加。 |
| 93 | 04 | 16 | 国連軍縮京都会議の出席者のうち17か国22人、広島入り。 |
| 93 | 04 | 17 | 長崎県・市、ダビニッチ国連軍縮室長らを招き「国連軍縮会議長崎シンポジウム」を長崎市で開催。約420人が参加。 |
| 93 | 04 | 17 | 第3回国連軍縮京都会議参加者のうち17か国の22人、広島の原爆資料館などを見学し、被爆者らの話を聞く。 |
| 93 | 04 | 18 | 国連軍縮京都会議の参加者によるシンポジウム「アジア太平洋地域における対話構築と共通安全保障の探求」、広島国際会議場で開催。約500人が参加。 |
| 93 | 06 | 03? | 国連軍縮室と国連アジア太平洋軍縮センター、被爆50周年の1995年に長崎市で国連軍縮会議を開催する方向で検討を開始。 |
| 93 | 09 | 20 | 本島長崎市長、中田勝郎市議会議長、2年後の被爆50周年の記念行事として国連軍縮会議の長崎開催を、細川首相に要望。首相、理解を示す。 |
| 94 | 02 | 08 | 本島長崎市長、記者会見で第6回国連アジア太平洋地域軍縮会議に参加した感想を述べる。被爆50周年に国連軍縮会議を長崎市で開催するよう要請。 |
| 94 | 02 | 08 | 石栗勉国連アジア太平洋平和軍縮センター所長、広島入りし、5月に国連軍縮会議を広島市内で開催する方向で準備していることを明らかにする。 |
| 94 | 02 | 15 | 広島市、平成6年度当初予算案を発表。6月の国連軍縮広島会議、7月の平和・戦争に関する博物館会議の開催に向けた費用などを盛り込む。 |
| 94 | 05 | 19 | 石栗勉国連アジア太平洋平和軍縮センター所長、24日から開催の国連軍縮広島会議に中国・北朝鮮は参加しないことを明らかにする。 |
| 94 | 05 | 23 | ダビノビッチ国連軍縮センター所長、第2回国連軍縮広島会議について「アジア太平洋地域の軍縮と信頼醸成を図る」と記者会見で語る。また、被爆50周年にあたる1995年の国連軍縮会議の開催地として長崎が内定していることを公表。 |
| 94 | 05 | 24 | 「ピース・リンク広島・呉・岩国」、国連軍縮広島会議を主催する国連軍縮センターと国連アジア太平洋平和軍縮センターあてに、核兵器廃絶などの取り組み強化を求める要請書を提出。 |
| 94 | 05 | 24 | 第2回国連軍縮広島会議開会式・全体会議、広島国際会議場で開催。テーマ「軍備の透明性、地域対話及び軍縮」。-27日。19か国から61人が参加。核拡散防止条約(NPT)の延長問題に議論が集中。 |
| 94 | 05 | 24 | 河野洋平自民党総裁、国連軍縮広島会議で、来年広島で核兵器保有国会議を開催するよう提案。 |
| 94 | 05 | 24 | 平岡広島市長、国連軍縮広島会議の全体会議で、核保有5か国の首脳会議の開催など、核兵器廃絶やヒバクシャ救援を目的とした提案をおこなう。 |
| 94 | 05 | 24 | 本島等長崎市長、国連軍縮広島会議で被爆50周年に国連軍縮会議を長崎で開催したい意向を表明。 |
| 94 | 05 | 24 | 日本政府代表、国連軍縮広島会議の発言で、来年の軍縮会議の長崎開催支持を表明。 |
| 94 | 05 | 24 | 第2回国連軍縮広島会議の参加者、原爆資料館を見学。 |
| 94 | 05 | 25 | 「被爆体験者証言の集い」、国連軍縮広島会議に参加している伊東壮日本被団協代表委員を囲み被爆者援護法の展望について話し合い。13人が参加。 |
| 94 | 05 | 25 | 米国の反核市民団体「ネバダ砂漠の体験」代表パメラ・マイデル、国連軍縮広島会議の出席者に、全面核廃絶を求める要請書を提出。 |
| 94 | 05 | 25 | 第2回国連軍縮広島会議、第2日目。「地域安全保障と軍縮推進への努力」をテーマに全体会議。 |
| 94 | 05 | 26 | 第2回国連軍縮広島会議、非公開の作業部会。 |
| 94 | 05 | 26 | 国連軍縮広島会議に出席中のシャー・インド駐日大使、平岡広島市長を表敬訪問。 |
| 94 | 05 | 27 | ダビニッチ国連軍縮センター所長、来年の国連軍縮長崎会議には中国・北朝鮮が参加する公算が大きいことを明らかにする。 |
| 94 | 05 | 27 | 広島県・市など、公開シンポジウム「核軍縮と今日の安全保障対話」を、広島国際会議場で開催。ダビニッチ国連軍縮センター所長をコーディネーターに軍縮会議に参加した5カ国の5人が参加。市民約750人が聴取。 |
| 94 | 05 | 27 | 国連軍縮広島会議、締めくくりの全体会議。 |
| 94 | 05 | 27 | 国連軍縮広島会議の参加者ら約40人、原爆記録映画「ヒロシマ・母たちの祈り」を鑑賞後、高蔵信子と高橋昭博の被爆体験を聴取。 |
| 94 | 07 | 04 | 長崎県、被爆50周年に国連軍縮会議を長崎市に誘致するため高田知事らが10月か11月にニューヨークの国連本部を訪問し要請する予定であることを発表。 |
| 94 | 07 | 26 | 長崎県の戦後50周年記念事業懇話会、第1回会合を開催。県が提示した国連軍縮会議の開催などの事業計画案について話し合う。 |
| 94 | 10 | 12 | 高田長崎県知事と本島長崎市長、米ニューヨークの国連本部を訪れ、来年の被爆50周年に国連軍縮会議を長崎市で開催することを正式に要請。-13日。 |
| 94 | 10 | 13? | グールディング国連事務次長、国連軍縮会議を1995年6月12日から長崎市で開催することを高田長崎県知事・本島長崎市長ら訪問団に正式回答。 |
| 94 | 10 | 18 | 高田長崎県知事・本島市長、国連軍縮長崎会議開催を要請するためのニューヨーク国連本部訪問を終え、県庁で記者会見。長崎開催の正式決定と「核廃絶」が主要議題になったことを明らかにする。 |
| 95 | 02 | 16? | 長崎市で6月15日から5日間の日程で開催予定の国連軍縮長崎会議のテーマがまとまる。「半世紀の軍縮努力と展望」。 |
| 95 | 02 | 24 | 石栗勉国連アジア太平洋平和軍縮センター所長、6月の国連軍縮会議の打ち合わせのため高田長崎県知事・本島長崎市長を訪問。 |
| 95 | 05 | 11 | 村山首相、6月12日から長崎市で開催される国連軍縮長崎会議に出席の意向を表明。 |
| 95 | 05 | 17 | 村山首相が6月から長崎市で開催される国連軍縮長崎会議で演説することが決まる。 |
| 95 | 06 | 06 | 共産党長崎市議団、伊藤長崎市長に対し、国連軍縮長崎会議で核兵器全面禁止などを各国代表や国連に強く働きかけるよう申し入れ。 |
| 95 | 06 | 08 | 原水爆禁止長崎県協議会、国連軍縮長崎会議で核兵器廃絶を求める県民の願いを強く主張するよう高田県知事に申し入れ。 |
| 95 | 06 | 08 | 国連軍縮長崎会議を主催する国連の現地事務所が長崎市内のホテルに開設される。 |
| 95 | 06 | 09 | 長崎県原水禁、長崎市平和公園で「反核9の日座り込み」で、国連軍縮長崎会議で核兵器廃絶を真剣に討議するよう求めるアピールを採択。高田県知事・伊藤市長に提出。 |
| 95 | 06 | 09 | 村山首相、国連軍縮長崎会議への出席取りやめを決める。 |
| 95 | 06 | 11 | NGO「ワールド・ピース・プレイヤー・ソサエティー」、国連軍縮長崎会議の開催に合わせて「世界各国の平和を祈る長崎の集い」を長崎市内で開催。約130人が参加。 |
| 95 | 06 | 12 | 徐冒植北朝鮮外交部軍縮課長、国連軍縮長崎会議に参加した長崎市で記者会見し、同国内の被爆者の実態調査を開始していることを明らかにする。 |
| 95 | 06 | 12 | 村山首相、国連軍縮長崎会議の演説(園田官房副長官代読)で、来年に「核軍縮セミナー」を日本で開くことを提案。 |
| 95 | 06 | 12 | 長崎の被爆者と若者代表、国連軍縮長崎会議の開会式で被爆体験や平和への願いを訴える。会議の場でのこうした訴えは初めて。 |
| 95 | 06 | 12 | 国連軍縮長崎会議、開会式を長崎市内のホテルで開催。36か国91人が参加。平岡広島市長、10月に採択される国連50周年記念特別宣言に核兵器廃絶促進を盛り込むよう提案。 |
| 95 | 06 | 12 | 国連軍縮長崎会議、「過去半世紀における軍縮努力と将来への展望」をテーマに開幕。-16日。国連軍縮会議としては初めて「核兵器廃絶」をテーマに掲げる。 |
| 95 | 06 | 12 | 国連軍縮長崎会議の参加者やオブザーバー約80人、長崎市の平和祈念像に献花、原爆資料館を見学し、原爆養護ホームを慰問。 |
| 95 | 06 | 14 | 国連軍縮長崎会議(全体会議)。伊藤長崎市長、再度の長崎開催を提案。 |
| 95 | 06 | 15 | 国連軍縮長崎会議。非公開の作業部会。核兵器廃絶が討論されず、究極の目標確認に終わる。 |
| 95 | 06 | 15? | 共同通信社、国連軍縮長崎会議参加者を対象としたアンケート結果をまとめる。「原爆投下は正しくなかった」とする回答が6割を占める。 |
| 95 | 06 | 16 | 国連軍縮長崎会議、最終全体会議を開催。ダビニッチ国連軍縮センター所長が総括報告。「究極的な核廃絶」を確認。 |
| 95 | 06 | 16 | 国連軍縮長崎会議の一環として長崎市内で軍縮シンポジウムが開催される。 |
| 95 | 06 | 18 | 広島県・市・平和文化センター、国連軍縮長崎会議の参加者を招きシンポジウム「核軍縮の促進と核兵器廃絶」を広島国際会議場で開催。約500人の市民が参加。 |
| 96 | 01 | 26? | 第8回国連軍縮会議(5月開催予定)の開催地が広島市に決定。 |
| 96 | 03 | 21 | 国連、5月に開催予定だった国連軍縮広島会議を7月頃に延期すると広島市に連絡。 |
| 96 | 06 | 06 | 広島県、7月に広島市で開催される第3回国連軍縮広島会議の概要を発表。テーマは「より安全な、また核兵器のない世界に向けての共通の努力」。 |
| 96 | 07 | 17 | 第3回国連軍縮広島会議の開会式、広島国際会議場で開催。22か国の政府関係者や学者62人が参加。 |
| 96 | 07 | 17 | 第8回国連軍縮会議、広島市で開催。-20日。 |
| 96 | 07 | 17 | 第3回国連軍縮広島会議の各国の参加者、広島市平和公園の原爆慰霊碑に参拝後、原爆資料館を見学。 |
| 96 | 07 | 18 | 第3回国連軍縮広島会議(第2日)。全体会議「通常兵器・新たな問題」、作業部会「核軍縮促進のための今後の措置」、「信頼醸成措置と地域の安全」を開催。 |
| 96 | 07 | 19 | 第3回国連軍縮広島会議「広島県民・市民との対話」、広島国際会議場で開催。海外参加者と被爆地代表9人が意見交換。 |
| 96 | 07 | 19 | 第3回国連軍縮広島会議の海外参加者ら約60人、渡辺美代子の被爆の証言を聴取。 |
| 96 | 07 | 20 | 第3回国連軍縮広島会議、総括の全体会議を開き閉幕。 |
| 96 | 10 | 08 | 桂信雄札幌市長、来年7月22日-25日に、札幌市で国連軍縮会議を開催すると発表。 |
| 97 | 03 | 26 | 伊藤長崎市長、国連軍縮長崎会議の来年開催を国連側に要請する考えを国連側に要請する考えを明らかにする。 |
| 97 | 06 | 21 | 伊藤長崎市長、来年の第10回国連軍縮会議が長崎で開催される見通してあることを明らかにする。 |
| 97 | 07 | 22 | 国連軍縮札幌会議、開催。32か国からオブザーバーを含む101人が参加。-25日。 |
| 97 | 07 | 27 | 長崎県・長崎市、国連軍縮札幌会議の海外参加者を招いて「国連と軍縮シンポジウム」を長崎原爆資料館で開催。約300人が参加。 |
| 97 | 08 | 28 | 伊藤長崎市長・高田県知事、国連本部を訪問。-29日。2日、帰国の記者会見。来年秋の国連軍縮会議の長崎開催が実現しそうだと語る。 |
| 97 | 11 | 26? | 国連軍縮会議の第10回会議が来年11月に長崎市で開催されることが内定。 |
| 98 | 02 | 10 | 伊藤長崎市長、国連に対し県とともに要請していた国連軍縮会議の同市開催が決定した、と発表。同会議は今年で10回目、長崎開催は2回目。 |
| 98 | 02 | 24 | 長崎市、新年度予算案を発表。新規予算として国連軍縮長崎会議開催費負担金2000万円など。 |
| 98 | 09 | 25 | 平岡広島市長、長崎市で11月に開かれる国連軍縮会議でのあいさつの中に、米国の臨界前核実験への抗議を盛り込む考えを、市議会本会議の一般質問の中で明らかにする。 |
| 98 | 11 | 13 | 長崎市の「平和推進専門会議」の初会合、東京で開催。「国連軍縮長崎会議」への対応などを協議。 |
| 98 | 11 | 15 | 朝日新聞「国連軍縮会議、24日から長崎で-議題はひとつ、核廃絶」 |
| 98 | 11 | 17 | 長崎平和研究所・長崎総科大学平和文化研究所、国連軍縮長崎会議に向け緊急シンポジウム「核不拡散・廃絶への道を探る」を長崎原爆資料館で開催。 |
| 98 | 11 | 19 | 中国新聞連載「核なき世界へ-10回目の国連軍縮会議」(-24日、6回)。 |
| 98 | 11 | 22 | 長崎新聞「長崎で再び国連軍縮会議-「核不拡散・核軍縮」に絞り論議」 |
| 98 | 11 | 24 | 武見敬三外務政務次官、日本政府が来年4月か5月にカザフスタン共和国・セミパラチンスク旧核実験場周辺の被曝者を救済する技術・医療協力を推進するための国際セミナーを日本で開催する方針を、国連軍縮長崎会議の挨拶の中で明らかにする。 |
| 98 | 11 | 24 | 国連軍縮長崎会議。基調テーマ「核兵器のない世界に向けて」。-27日。10回目。 |
| 98 | 11 | 24 | 国連軍縮局など、国連軍縮長崎会議を長崎ブリックホールで開催。海外23か国の29人と国内42人の計71人が参加。広島・長崎両市長や山口仙二が開会式で挨拶。市民約1000人が傍聴。 |
| 98 | 11 | 24 | 長崎市内の中学・高校計30校の生徒約420人、国連軍縮長崎会議の開会式を傍聴。主催者が招待。 |
| 98 | 11 | 24 | 国連軍縮長崎会議(第1日)。明石康広島平和研究所長が基調講演「核不拡散・軍縮を阻害する新たな課題」。「核不拡散および軍縮を阻害する新たな課題」をテーマにした全体会議。 |
| 98 | 11 | 24 | 国連軍縮長崎会議の参加者、会議を前に長崎原爆資料館を訪問。 |
| 98 | 11 | 25 | 長崎新聞「国連軍縮会議要旨」 |
| 98 | 11 | 25 | 国連軍縮長崎会議に参加したインド・パキスタン・米国・中国などからの6人、谷口長崎被災協会長代行、杉本県被爆二世の会会長ら6人と懇談。 |
| 98 | 11 | 25 | 国連軍縮長崎会議(第2日)。「当面の課題・核兵器開発能力の拡散をいかに防ぐか」をテーマに全体会議。 |
| 98 | 11 | 25 | 国連軍縮長崎会議に参加したインド・米国・パキスタン・インドネシア・中国の代表5人、長崎の高校生・大学生34人との意見交換会に出席。 |
| 98 | 11 | 26 | 長崎新聞「国連軍縮長崎会議・2日目要旨」 |
| 98 | 11 | 26 | 朝日新聞「時時刻刻:「核拡散」危機直面で緊迫 国連軍縮長崎会議」 |
| 98 | 11 | 26 | 国連軍縮長崎会議(第3日)、「核軍縮への現実的手段」と「核不拡散および軍縮への好ましい環境づくり」をテーマとする全体会。核兵器廃絶への取り組みと長崎を最後の被爆地とする決意を盛り込んだ決議を採択。軍縮会議での決議は初めて。 |
| 98 | 11 | 27 | 長崎新聞「国連軍縮長崎会議・3日目要旨」 |
| 98 | 11 | 27 | 国連軍縮長崎会議。最後の全体会を開催。 |
| 98 | 11 | 28 | 長崎新聞「国連軍縮会議閉幕、成果と課題」 |
| 98 | 12 | 02 | 伊藤長崎市長、国連軍縮長崎会議を、核兵器廃絶への大きな一歩と、市議会本会議で評価。 |
| 98 | 12 | 02 | 朝日新聞「国連軍縮長崎会議:核の惨禍、繰り返さぬ、被爆地からの決意の一歩」 |
| 98 | 12 | 07 | 広島県立庄原格致高校高野山分校、「教育に新聞を」(NIH=Newspaper In Education)の公開授業を実施。「国連軍縮長崎会議」・「被爆」などを取り上げる。 |
| 98 | 12 | 08 | 毎日新聞「記者の目:国連軍縮長崎会議-「核廃絶の意志」連携を」(綿貫洋・長崎支局) |
| 98 | 12 | 08 | 長崎新聞「わがまち回顧(1)本社(上)-「長崎を最後の被爆地に」-国連軍縮会議で決議」 |
| 98 | 12 | 15 | 平岡広島市長、明石広島平和研究所長の「普遍的核の傘」発言(国連軍縮長崎会議の基調講演で)について慎重論を、市議会一般質問の中で述べる。 |
| 98 | 12 | 22 | 中国新聞「中国新聞を読んで:国連軍縮会議-市民とのかかわり焦点」(吉田修) |
| 99 | 07 | 27 | 国連軍縮局・国連アジア太平洋平和センター、国連軍縮京都会議を国立京都国際会館で開催。24か国60人の政府高官・軍縮専門家らが参加し、「今後10年間の安全保障上の懸念と軍事戦略」をメーンテーマに意見交換。-30日。 |
| 99 | 07 | 27 | 明石康・前広島平和研究所長、国連軍縮京都会議で基調講演。東京フォーラムの内容を紹介。 |
| 99 | 07 | 27 | 武見敬三外務省政務次官、カザフスタンなど5か国による中央アジア非核地帯設置に向けた取り組みを財政支援することを、国連軍縮京都会議の開会式で明らかにする。 |
| 99 | 07 | 28 | 国連軍縮京都会議(第2日目)。東京フォーラムの報告書について意見交換。「北東アジアにおける安定と協力」について集中討議。 |
| 99 | 07 | 29 | 毎日新聞「「平和」に不況の影-次回開催地決まらず-自治体負担4000万円[国連軍縮会議]」 |
| 99 | 07 | 29 | 国連軍縮京都会議(第3日目)。「核兵器とミサイル」・「通常兵器軍縮の再検討」の二つの全体会議を開催。 |
| 99 | 07 | 30 | 朝日新聞「時時刻刻:国連軍縮京都会議 24カ国が参加-軍拡阻め10年の計」 |
| 99 | 07 | 30 | 国連軍縮京都会議(第4日目)。閉会式。5つの全体会のごとに討議内容を報告。 |
| 99 | 08 | 02 | 長崎新聞「報道スペシャル:国連軍縮京都会議を終えて」 |
| 99 | 08 | 11 | 毎日新聞「深層:国連軍縮京都会議を振り返って-北朝鮮不参加にいら立ち」 |
| 99 | 10 | 28? | 広島市など自治体が財政難を理由に、開催引き受けに伴う約4000万 円の費用負担を渋っているため、国連軍縮会議の2000年の開催が危ぶまれる。 |
| 00 | 08 | 22 | 国連軍縮局・国連アジア太平洋平和軍縮センター、国連軍縮秋田会議、秋田市で開催。明石康前国連事務次長(広島平和研究所前所長)が「国連の役割」と題して問題提起。-25日。主テーマ:21世紀の軍縮と国連-その戦略と行動。広島・長崎両市長が出席。 |
ハーグ平和市民会議
1899年にハーグで開催された平和会議の100周年を記念し、1999年5月12日~15日、オランダのハーグで開催。「国際反核法律家協会」・「核戦争防止国際医師会議」・「国際平和ビューロー」・「世界連邦運動」の4団体が、国際社会から戦争と軍備(とりわけ核兵器)をなくすための討論と運動を、世界に呼びかけた。
文献
| 年月日 | 書名 | 編著者 |
| 2000806 | 戦争のない世界の実現を-公正な世界秩序のための基本10原則 | 日本ハーグ平和アピール運動 |
年表
| Y | M | D | NEWS1 |
| 99 | 01 | 30 | 原水爆禁止日本協議会、全国理事会を東京都内で開催。-31日。1999年度の運動方針としてガイドライン関連法案反対運動を推進すること、5月にハーグで開催される国際平和市民会議に代表団を派遣するこなどを決定。 |
| 99 | 03 | 02 | 長崎市、オランダ・ハーグで5月に開かれるNGO(非政府組織)主導の国際市民平和会議「ハーグ平和アピール1999」に幹部職員ら数人を代表として派遣する方針を明らかにする。 |
| 99 | 03 | 18 | 広島県原水禁、常任理事会を開催。5月にオランダのハーグで開催されるハーグ国際市民平和会議に7人の派遣団を送ることを決める。 |
| 99 | 04 | 27 | ピースボート(本部:東京)、ハーグで開催される世界市民平和会議に北朝鮮の代表を招き、北東アジア非核化などについて討議する計画を明らかにする。 |
| 99 | 04 | 27 | 日本被団協・日本生協連などでつくる「つたえようヒロシマ・ナガサキ」、ハーグで開かれる世界市民平和会議に総勢79人の共同代表団を派遣することを明らかにする。広島県からは、両被団協の代表ら5人が参加。 |
| 99 | 05 | 06 | 中国新聞連載「築け非核市民ネット-印パ衝撃から1年-ハーグNGO平和会議を前に」(-8日、3回) |
| 99 | 05 | 07 | 伊藤長崎市長、記者会見でハーグ市民平和会議に出席することを明らかにする。 |
| 99 | 05 | 09 | 「第9条の会ヒロシマ」の世話人・藤井順子、ハーグ平和会議に出席するため出発。 |
| 99 | 05 | 10 | 朝日新聞「ハーグ平和会議 期待と役割-県内から惨禍の4人に聞く」 |
| 99 | 05 | 10 | 広島からハーグ平和会議に出席する金子一士・坪井直・石川俊義の出発式、JR広島駅で実施。約30人が見送る。 |
| 99 | 05 | 10 | 秋葉広島市長、ハーグ平和会議に出席するため広島を出発。-16日。 |
| 99 | 05 | 11 | 長崎原爆松谷訴訟の原告・松谷英子、ハーグの市民平和会議に出席するため日本を出発。 |
| 99 | 05 | 11? | 「核兵器廃絶を求める広島・長崎市民集会」実行委員会、「ハーグ平和アピール1999」で、NATO軍によるユーゴスラビア空爆の中止や今世紀中に国連軍縮特別総会を開き核兵器廃絶宣言をすることなど7項目を提言することを計画。 |
| 99 | 05 | 11? | ハーグ市民平和会議で採択される提言「21世紀の平和と正義への課題(ハーグ・アジェンダ)」の草案が明らかになる。1.市民(団体)の重要性、2.軍備に頼らない人間の安全保障と人権の尊重、3.力の支配から法の支配への転換、など。 |
| 99 | 05 | 12 | 世界市民平和会議「ハーグ平和アピール1999」、オランダのハーグ市国際会議場で開催。-15日。100か国から日本の400人を含む約8000人が参加。 |
| 99 | 05 | 12 | 日本被団協などの「つたえようヒロシマ・ナガサキ共同代表団」、オランダ・ハーグ市内で被爆者の証言集会を開催。約60人が入れる会議室は満員。 |
| 99 | 05 | 13 | 秋葉広島市長、「ハーグ平和アピール1999」の中の「軍縮と人間の安全保障」全体会で冒頭発言。核抑止論の打破を訴える。 |
| 99 | 05 | 13 | 秋葉広島市長・伊藤長崎市長、「ハーグ平和アピール1999」の「ジャパン・デー」で講演。被爆体験の継承を訴える。 |
| 99 | 05 | 13 | ハーグ世界市民平和会議、広島・長崎の被爆者や世界の核実験被害者が被爆の実相を語る討論集会を開催。200人以上が参加。 |
| 99 | 05 | 14 | 世界平和連帯都市市長会議と「ピースメッセンジャー都市国際協会」、オランダ・ハーグで会合を開く。20都市の約90人が参加。秋葉広島市長、ネットワークの強化を呼びかける。 |
| 99 | 05 | 14 | 日本のNGOピースボートが「ハーグ平和アピール1999」で企画した東アジアの非核地帯化を目指す会合、予定していた北朝鮮のパネリストが欠席のまま開催。 |
| 99 | 05 | 14? | 森下一徹・伊藤孝司・桐生広人・豊崎博光・本橋成一の5人、「ハーグ平和市民会議」の会場で世界の「ヒバクシャ」をテーマとした写真展を開催。 |
| 99 | 05 | 15 | 朝日新聞「時時刻刻:ハーグ市民会議-空爆・・・すくむ平和の理念」 |
| 99 | 05 | 15 | 世界市民平和会議「ハーグ平和アピール1999」、核兵器禁止条約の交渉完結などを求める「21世紀の平和と正義に向けたハーグ・アジェンダ(提言)」を採択して閉幕。 |
| 99 | 05 | 16 | 朝日新聞社説「ハーグ会議-したたかに、しなやかに」 |
| 99 | 05 | 16 | オランダ・ハーグからNATO本部のあるベルギー・ブリュッセルまで歩く「核廃絶2000ウオーク」、ハーグを出発。平和市民会議の出席者ら約500人が参加。出発集会で日本の被爆者4人が挨拶。 |
| 99 | 05 | 16 | 秋葉広島市長、ハーグでの世界市民平和会議から帰国し、記者会見。 |
| 99 | 05 | 17 | 伊藤長崎市長、ハーグの国際市民平和会議から帰国し、記者会見。 |
| 99 | 05 | 18 | 中国新聞連載「ハーグ発平和-検証世界NGO会議」(-19日、2回) |
| 99 | 05 | 19 | 朝日新聞「主張・解説:ハーグ平和市民会議-NGO、収穫と課題と-国際舞台で軍縮けん引、日本の指導性に期待も」(山本敦子・深津弘・斎賀孝治) |
| 99 | 05 | 19 | 朝日新聞「ハーグ市民会議-「戦争」被害手つなぎ発信-広島・長崎の被爆者-核実験場の犠牲者らと証言」 |
| 99 | 05 | 25 | 朝日新聞(広島版)「風・取材ノートから-ハーグ会議で知った「市民」の様々な主張」 |
| 99 | 05 | 25 | 大庭里美「プルトニウム・アクション・ヒロシマ」代表、広島市役所で世界市民会議「ハーグアピール1999」の帰国報告。 |
| 99 | 05 | 28 | 長崎新聞連載「ハーグの報告-平和会議に参加して」(-6月4日、7回) |
| 99 | 05 | 28 | 坪井直・金子一士ら、オランダ・ハーグで開かれた世界市民会議に参加した5人、広島市役所で共同の記者会見。 |
| 99 | 06 | 05 | 中国新聞「中国論壇:ハーグ精神とNATO空爆-国連軸に平和の世紀に」(神谷昌道) |
| 99 | 06 | 08 | 中国新聞「中国新聞を読んで:ハーグ平和会議-「核」追跡継続を熱望」(三上瞻) |
| 99 | 06 | 09 | 朝日新聞(広島版)連載「ハーグからヒロシマへ」(-11日、3回) |
| 99 | 06 | 26 | 毎日新聞「ウイークエンド・リポート:NGOから世界へ発信-ハーグ平和アピール1999-100か国超、8000人が参加」 |
| 99 | 07 | 23 | 「被爆体験証言者交流の集い」、広島原爆資料館で開催。坪井直広島県被団協事務局長と石川俊義自治労連委員長がハーグ会議への出席報告。約20人が参加。 |
| 99 | 07 | 23 | 広島原爆資料館、講演会「ハーグ平和アピール1999に参加して」を同館で開催。講師:金子一士、坪井直。(「ひろしま市民と市政」) |
広島市勢要覧にみる「観光都市広島」
広島市勢要覧にみる「観光都市広島」
1947(昭和22)年版
観光
広島市は日本三景の一つである厳島を控へ、国立公園随一、詩の瀬戸内海に面し、デルタ上を六つの清流が貫き、山紫水明で、而も海陸交通の便極めてよく、北に行っては桜と鵜飼の三次、つつじと、スキーの道後山、及び芸北の仙境三段峡等があり、又泉都別府、道後に船の旅を楽しむもよく、而も原子爆弾により、国際的に有名化し、世界に冠絶した観光都市として内外人の訪客を受けようとしつつある。殊に終戦後は、軍国の黒衣に包まれていた瀬戸内海島の要塞地帯の景勝地を、あます所なく開放し、更に貿易港としての指定を受けることになれば、観光上喜びにたえないところである。
市に於ても本年1月商工会議所に観光協会を設立し、地方産業、経済並びに文化の向上に寄集すると共に国際親善を期しつつあり、其の最初の事業として市の緑化を企図し、4月に植樹祭及び緑の週間を実施した。次いで8月15日の貿易再開を機にバイヤーの誘致につとめ「かき」、「のり」、「缶詰」、「縫針」等広島の特産品を通じ外貨獲得による日本経済再建をもはかりつつある。
史蹟、名勝等
本市には大本営跡、旧御便殿、広島行在所跡、第7回帝国議会仮議場跡、頼山陽旧居、国宝広島城、縮景園、広島護国神社、饒津神社、国泰寺等由緒深ひ史蹟等があったが、これらも昭和20年8月6日の戦災により潰滅して漸くにして戦禍を免れ又は其の面影を残しているものは次の通りである。
千田廟と千田男爵銅像
往年日本の大玄関として名声のあった宇品港は、明治17年時の県令千田貞暁によって起工せられ、工費30余万円5カ年の歳月を経て完成を見た。
其の後4年日清戦役勃発するやこの宇品港は一躍重要基地として国運の進展に寄与し、次々の事変戦役にも重要役割を果たしてきた。
市民は千田県令の偉大なる事業を偲び大正4年宇品町御幸通りの中央に高く広島湾の海波を望んで銅像を建立し、後更に千田廟を祀り毎年4月盛大なる千田祭を執行して来ったのである。
不動院(牛田町)
天正2年僧行基の開基と伝へられ、当時は行基自ら観音像を彫刻し、七堂伽藍を創建して新日山蓮華王寺と称し、方7町12の末寺を備へていたと云う。その後大永年間兵火にかかって荒廃したが、安国寺恵瓊豊太閤に請うて再建し不動院と称し、豊太閤、朝鮮征伐の途次当院に滞陣した。背後の丘には、豊太閤及び福島正則の遺髪の塔がある。
不動院は、現に古義真言宗仁和寺の末寺、金堂は天文年間の建立、天井画龍の落款に「天文庚子冬十月日僧永怡筆」とあり純乎たる唐様禅宗建築堂層入母屋造で、一見鎌倉円覚寺舎利殿を大きくした様なもので、室町時代禅宗建築の傑作の一に数えられている。尚当院には豊臣時代の古文書多数所蔵されて居り、豊太閤と縁故の深い事を物語っている。
頼家の墓(比治山本町)
頼家一門の門主たる人々の墓は、比治山公園多聞院付近にある。春水、梅颶、聿庵、杏坪等20数基に上るが、山陽三樹三郎の墓はここにない。春水は竹原(賀茂郡)の人、山陽の父で山陽3歳の時招かれて藩儒となり、大阪より移って7代重晟、8代斎賢藩主に仕へた朱子学者である。
杏坪は山陽の叔父、春水と同じく朱子学者で、始め広島藩に仕へ後自ら願出で三次奉行となって令名高く、芸藩通誌の著者として著名である。
梅颶は山陽を生み、山陽を育しみ、山陽を大成せしめた賢夫人、人の子の真の母親として亀鑑又立派な学者であった。聿庵は山陽の長子で春水の跡を継ぎ、広島藩に仕へた。
1948(昭和23)年版
観光
本市は中国地方及び瀬戸内海の海陸通運の中心基地であって本市を囲繞する主要観光地への連結路線の基点である。
即ち海上15粁を距てる宮島と表裏一体をなし、西に岩国、北に仙境三段峡、帝釈峡及び桜と鵜飼の名勝である三次とは、芸備線で更に山陰の出雲、松江とは「広浜急行バス」で直結し東に新生呉港、南に国立公園瀬戸内海の島々及び四国の道後、松山次いで遠く九州の泉都別府とは定期船で広島港に継がっている。
本市は原爆のため観光資源も観光施設も壊滅したのであるが廃墟の中から吾々の新しい観光資源が取り上げられた。即ち原爆記念保存物である。爆心地、元安橋、産業奨励館、相生橋、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、芸備銀行、大阪銀行、山陽記念館、国泰寺の石塔、県庁跡、御幸橋ガスタンクがそれである。今後日本に来遊する国際観光客の殆ど全部は、広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールの主要部分とするであろう。
観光ホテル
本市には外人客の宿泊設備が無いために外客専用の観光ホテルの設置が強く要望せられていたが、昭和23年11月2日観光審議会に於ては本市に近代施設を完備した国営の観光ホテルを建設することに決定した。
右は国庫支出に係る5カ年計画事業で床敷100床を設備するものである。その場所は全市を俯瞰する比治山か或は瀬戸内海を眺望する向宇品かの何れかに選定する可く考究中である。
平和記念館
原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して、8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室や平和塔を有する記念館を建設して平和広島の「シンボル」とする計画である。
この資金は全世界に呼びかけて広く平和愛好者の浄財を募る計画である。これが第一着手として戦災直後の状景を有りのままに現出した縮尺50分の1の模型13景を作成することとなり、その数個は既に出来上っている。
史蹟、名勝
本市には大本営跡、広島城跡、旧比治山旧御便殿、御即位大典記念館、縮景園、饒津神社、国泰寺等由緒深い史蹟があったが、何も戦災により壊滅したが、戦禍を免れその面影を残しているものは次の通りである。
東照宮
市内尾長町の中腹に在り天保年間藩主浅野光行の創建に係り徳川家康の霊を祀っている、境域5300平方米、社殿は南面し石階51殿である。往時は社殿壮麗を極め祭礼儀頗る盛大であったとゆわれている。
不動院[略]
頼山陽文徳殿
比治山公園の山腹に在り、頼山陽の百年祭を記念するために広島市単独の事業として計画し山陽文徳殿建設翼賛会の努力により完成、昭和9年10月15日の竣工である。
頼家の墓 頼山陽の父春水を初め頼家一門の墓は比治山公園多聞院付近にある。
千田廟と千田男爵銅像[略]
1949(昭和24)年版
観光
本市は中国地方及び瀬戸内海の海陸通運の中心基地であって本市を囲繞する主要観光地への連結路線の基点である。
即ち海上15粁を距てる宮島と表裏一体をなし西に岩国北に仙境三段峡、帝釈峡及び桜と鵜飼の名勝である三次とは芸備線で、更に山陰の出雲、松江とは「広浜急行バス」で直結し東に新生呉港、南に国立公園、瀬戸内海の島々及び四国の道後松山、次いで遠く九州の泉都別府とは1000噸級優秀定期船で広島港に継がっている。
市内は原爆のため観光資源も観光施設も壊滅したのであるが廃墟の中から新しい観光資源が取り上げられた。即ち原爆記念保存物である。爆心地、産業奨励館、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、大阪銀行、国泰寺の石塔、御幸橋、ガスタンク等がそれである。日本に来遊する国際観光客の殆んどが広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールに組入れて居る。そして更に今後建設されてゆく広島平和記念都市そのものが人々のこよなき観光対象となってゆくであろう。
観光ホテル
本市は外人客の宿泊設備が無いために外客専用の観光ホテルの設置が強く要望せられているが、泉邸を利用して総工費4500万円で和洋折衷の高級ホテルが計画され第一期工事は昭和25年3月15日に着手することとなっている。
又洋式ホテル並にレストランを目的として児童文化会館付近に建坪210坪総工費1億1千万円を以て広島国際観光文化会館が計画されている。
平和記念館
原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室、平和塔等を有する記念館を建設して平和広島の「シンボル」とする計画である。
この資金は全世界に呼びかけて広く平和愛好者の浄財を募る計画である。これが第一着手として戦災直後の状景を有りのままに現出した縮尺1/50の模型13景を作成することとなりその数個は既に出来上っている。
史蹟名勝
本市には大本営跡、広島城跡、旧比治山旧御便殿、御即位大典記念館、縮景園、饒津神社、国泰寺等由緒深い史蹟があったが何も戦災により壊滅したが戦禍を免れその面影を残しているものは次の通りである。
東照宮[略]
不動院[略]
頼山陽文徳殿[略]
千田廟と千田男爵銅像[略]
1950(昭和25)年版
観光
広島市は今日に於ては世界隈なくその名を知られ、全世界の人々から異常か関心を以て注目せられて居る都市であり、当市に杖を曳く世界の人々は夥しい数に上っている。古来山紫水明、温和な気候風土の地として観光面に優秀な素質を有していた広島市は戦災で殆ど凡ゆるものを失ったけれども新たに世界著名観光地の序列の中に加って、その保有する素晴しい観光資源の力を大いに発揮せしめると共に海外一流観光都市の夫々の部面が持つエッセンスを巧みに取入れて一大観光理想郷たらしめようとしている。
勿論広島は360年の歴史の上に立って落ち着きのある風格を有する都市であり、広島市の新しさはこの性格の上に立つものである。そしてこの新しい広島平和記念都市が今後保有するであろう観光資源は次のようなものであろう。
1.都市自体が有する平和の雰囲気、(精神的面の資源で今後の完成に期待される。)
2.模範的に建設された都市形態美、(人工的面の資源で着々建設されつつある。)
3.市内並びに周辺の天然の美、(自然的面の資源で今後一層磨きをかけられてゆくのもである。)
山容、河川、海沿いの美しさ
4.その他一般的観光資源
原爆の遺跡、教養、文化、歓楽施設、市に近接する著名観光地
現存する観光対象物として次のものが挙げられる。
原爆資料館
市内基町中央公民館傍にあり、原子爆弾による本市災害に関する種々の資料を一堂に蒐集して一般の縦覧に供している。世界各地からの参観者は本館を見て8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念する。
東照宮[略]
不動院[略]
三滝観音道場
市内三滝町の山林中にあり1000年の昔、弘法大師唐国より帰朝の砌当地に巡錫、聖観音菩薩の種字を天然石に刻し岩窟に安置した。爾来其の霊験の著しいことと四季山水の風致幽邃雅趣の深さにより一般信徒の杖引く者絶えず、現在は水害、原爆の被害により道場の荒廃甚だしくこれが修築工事中である。
千田廟と千田男爵銅像[略]
1951(昭和26)年版
観光
『ひろしま』・・・・・
本市は、古来山紫水明温和な気候風土に恵まれ、観光面には幾多の優秀な素質を有していた。
特に市街を流れる七つの川は、山容を影し家々を写して、その壮麗さは水都の代表的存在であった。しかるに、原爆の一せんは市内の由緒ある社寺仏閣、伝統を誇った名勝旧蹟を壊滅し去ったのである。そして、これに代って新たに原子力時代を告げるには、余りにも痛ましい犠牲を宿す原爆遺跡と、10数万犠牲者の無言の警告が残された。
この遺跡と、警告により世界の恒久平和を念願して立上がった市民の真剣な復興意欲は、理想的都市の建設を早めている。最近、躍進するその後の本市をわざわざ視察するため訪問する内外人は、おびただしい数に上っている。特に、訪日観光団等は必ずそのスケジュールに本市訪問を組み、母国への土産話としている。なお、本市近郊には東に旧軍港呉市、西には日本三景の一つである厳島、その他湯来温泉等があり、南は瀬戸内海に面し海陸交通の便は極めてよく、別府及び道後温泉への快適な船旅が出来る。更に、北には桜と、う飼の三次、つつじとスキーの道後山、帝釈峡及び芸北の幽境三段峡等がある。
次に本市の観光行政に協力するため、昭和22年4月広島市観光協会が発足し、市内観光ルート、ミス広島の選定及び観光客の案内等を行っている。
主なる市内の観光対象物を挙げると・・・・・
平和記念館
本館は、平和運動を推進する中枢機能となるにふさわしい施設の一部である。
平和大通り(幅員100米)に近く、横に長い壮麗な建物で、完成後は全長250米、最高20米、幅40米となる。現在建築されているのは原爆資料陳列館で、将来はこの建物の左側に2500人を収容出来る大集会場を、右側に平和文化運動の事務室、研究討論会用の小会議室、美術展覧会場等に使用できる会館が建築される。目下建築中の陳列館の階下は平和大通りの公園に入る玄関として通り抜け出来るように、柱ばかりの廊下になっている。なお南側には米国の有名な彫刻家イサム・野口氏の設計による平和大橋及び西平和大橋が、美麗な姿を清流に映している。
原爆資料館
基町、中央公民館の傍にあり、原爆に関する種々の資料を一堂に集め、一般の観覧に供している。本館の資料は、将来平和記念館内に移される予定である。
産業奨励館
爆心地にあり、アトム広島の代表的記念物として、内外人の訪れは数知れず、その廃きょは当時の惨禍を如実に物語っている。
死の影像
紙屋町電停の南側大阪銀行支店の玄関敷石の上には、あのピカの瞬間、開店をまっていたであろう人の姿が、強烈な光線で焼きつけられている。原爆10景の一つである。
商工会議所
旧産業奨励館と電車道を隔てた所にあり、鉄筋コンクリート建築物で、強烈な爆風によりゆがめられた壁やバルコニー等が、原爆の威力を表示している。
元護国神社跡
商工会議所裏にあり、鳥居、唐しし、その他散在する御影石の表面が、数千度の原爆熱でザラザラに焼けただれている。
不動院[略]
東照宮[略]
三滝観音道場[略]
千田廟と千田男爵銅像[略]
向宇品[略]
似島
宇品港より約30分、市の南端瀬戸内海国立公園内にあり、安芸の小富士と呼ばれ、戦時中は東洋一の陸軍検疫所があった。現在戦災孤児収容所の似島学園がある。
広島城跡
西国の雄毛利輝元が、京都聚楽第の模制をこの地に移し、2年の歳月を経て築城した広島城(在間城、鯉城、当磨城、石黒城の別名あり)5層の天主閣は、原爆により焼失した。
明治27年日清戦争の時大本営が設置され、続いて終戦まで師団司令部がここにあった。
国泰寺墓地
国泰寺墓地の墓標は、爆風の方向に或いは反対の方向に倒れたが、電車道に面した墓標で、爆風にあふれた瞬間、レンガの破片を食わえ込んだ塔石の珍しい風景である。
比治山公園
市の東部にあり、山容が虎に似ているので臥虎山の別称がある。面積16町余四季の眺めをほしいままにした昔の面影は留めないが、市内の展望には絶好の場所で市民散策の好適地である。南側にはABCCがあり、西側山腹には山陽文徳殿及び多聞院がある。
頼家の墓[略]
縮景園[略]
長寿園
市の北端、太田川の清流に沿う約300米の堤で、桜樹多く市民の散策地として有名である。
1952(昭和27)年版
観光
概要
本市は、清流太田川の河口三角州に位置し、古来より山紫水明、温和な気候に恵まれており、広島につえ引くものの遊覧コースには必ず広島城跡、大本営跡、旧北治山御便殿、浅野泉邸等々が組まれ観光遊覧地として好適であった。しかしこれらの名所、旧跡のほとんどは、戦禍に消えうせ、終戦後の数年間は本市を訪れる観光客の観光対象となったものは原爆による荒廃であった。従って一時は顕著な原爆被害記録物とそれに伴う記念物の羅列になっていた。しかし本来の観光資源も年とともに整備され、真に楽しめるものが復活して来ており、また世界的に注視を集めている平和記念都市が着々と建設されているので、都市自体が観光の意義をもつようになり、世界平和のメッカとして平和を愛好する内外の人々の来訪が著増しつつあるのも本市観光の特色である。特に訪日観光団はそのほとんどが本市訪問をそのスケジュールに組んで母国への土産話にしている。
市街を貫く七つの川は、その水清く山海を映し河畔の民家を写し夜のネオンを流して市街を一層麗しくし、相生橋をはじめ30有余の橋りょうとともに水都広島の美観一入である。この水の注ぐ波静かな瀬戸内海国立公園は大小様々な島々を浮べその風光の美をたたえられている。東に進めば平清盛が開いた音戸の瀬戸があり、旧軍港呉市、野呂山高原がある。西に下れば手の届くところに日本三景の一つ安芸の宮島がある。更に北方には桜と、う飼の三次、つつじとスキーでにぎわう道後山公園、帝釈峡及び芸北の幽境三段峡がある。これらはいずれも本市からの交通も至便であるので、四季の移り変りに遊ぶ人歩多く、本市の観光を中心とする広範囲な観光ルート圏を形成している。
本市の観光行政に協力するため、昭和22年4月広島市観光協会が発足し市内観光ルート、ミス広島の選定及び観光客の案内等を行っている。
市内の観光対象物の主なるものは次のようなものである。
観光施設
平和記念館
幅員100米の平和大通りと爆心地との中間に建設中の本館は、東西に長い壮麗な鉄筋コンクリート建造物で、平和運動を推進する中枢機能となるにふさわしい施設である。完成後は全長250米、最高20米、幅40米となる。現在建築されているのは原爆資料陳列館で、将来はこの建物の西側に2500人を収容出来る大集会場を、東側に平和文化運動事務室、研究討論会用の小会議室、美術展覧会場等に使用できる会館が建築される。これをつなぐ陳列館の階下は平和大通りから公園に入る玄関として巨大な柱の間を通り抜けられるようになっている。
原爆資料館
基町、中央公民館の北隣にあり、原爆被害に関する種々の資料を一堂に集め、一般の観覧に供している。本館の資料は、将来平和記念館内に移される予定である。
産業奨励館
爆心地にあり、アトム広島の代表的記念物として、内外人の訪れは数知れず、その廃きょと化した容姿は当時の恐るべき破壊力と惨禍を今日も如実に物語っている。
死の影像
紙屋町電停の南側住友銀行広島支店の玄関敷石の上には、あの原爆さく裂の瞬間、開店をまって石段に腰かけていたであろう人の姿が、強烈な光線で焼きつけられた石面に残っている。原爆10景の一つである。
元護国神社跡
商工会議所裏にあり、鳥居、唐しし、その他散在する御影石の表面が、数千度の原爆熱でざらざらに焼けただれている。
似島
宇品港より船で約30分、瀬戸内海国立公園内にある市内南端の島で、その山容美しく安芸の小富士と呼ばれている。戦時中は東洋一の陸軍検疫所があったが、現在戦災孤児育成所の似島学園がある。
国泰寺墓地
国泰寺墓地の墓標は爆風の方向にあるいは反対の方向に倒れたものが多かったが、電車道に面した墓標で、爆風にあふれた瞬間、飛散してきたレンガの破片をくわえ込んだ塔石の珍しい風景がある。
不動院[略]
東照宮[略]
三滝観音道場[略]
千田廟と千田男爵銅像[略]
向宇品[略]
広島城跡
広島城は西国の雄毛利輝元が、京都聚楽第の模してこの地に天正19年2カ年の歳月を費して築造したもので鯉城、在間城、当磨城、石黒城等の別称があった。明治27年日清戦争の時大本営が城内に設置され、続いて師団司令部があったが、5層の天主閣をはじめすべての建物は原爆により焼失して、今では壕と築石が昔をしのばせている。
。
比治山公園
市の東部にあり、山容が虎のふした形に似ているので臥虎山の別称がある。面積16町余四季の眺めを楽しめる丘陵公園であり、山頂より南面すれば広島湾の風光を、西面すれば市街の8割を展望出来る絶好の場所で市民散策の好適地である。
西側山腹には山陽文徳殿、頼家の墓及び多聞院があり、南側山頂にはABCC(原爆傷害調査委員会)がある。
山陽文徳殿[略]
頼家の墓[略]
縮景園[略]
長寿園[略]
広島遊園地
仁保町本浦にあり、つつじ、藤の名所として有名である。
慰霊碑
爆心地に近い中島の平和記念公園内にあり、昭和27年8月6日の式典において除幕式を行い昭和20年8月6日の原子爆弾にたおれた死没者の氏名を全国にわたって調査して謹記された過去帳がこの慰霊碑内の石函の中に安置奉納された。この石函の正面には「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」と刻み込まれている。毎年8月6日にはこの地点で盛大な平和式典がとり行われる。
平和大橋
百米道路が貫く中島の東側の元安川にかかる平和大橋と、西側の本川にかかる西平和大橋の欄干はともにイサム野口氏の設計によるもので、その新たなる感覚によるデザインは平和都市にふさわしい逸作である。
来広観光客数及び推定消費金額
(昭和27年中、推定総数)(国鉄、汽船、郊外電車、バス調)
| 外来客区分 | 人 員 | 1人平均 消費金額(円) |
金額(円) |
| 総数 | 1157420 | - | 1243821640 |
| 県内客 | 866757 | 1000 | 866757000 |
| 県外客 | 289013 | 1280 | 369936640 |
| ハワイ等観光客(39団体) | 672 | 4000 | 2688000 |
| 国外観光団(4団体) | 450 | 4000 | 1800000 |
| 国外個人観光団 | 528 | 5000 | 2640000 |
広島名産
縫針 ミシン針 ゴム製品 かん詰 除虫菊製品 製線 和かさ 仏壇木製品 機械工具 かき羊かん 桜羊かん くり羊かん 味付のり のしかき 川魚料理 生かき 広島菜 かきめし かき船料理 清酒
1953(昭和28)年版
観光
概要
本市は清流太田川の河口三角州に発展し、古来より山紫水明、温和な気候に恵まれ、優美な風景の土地として知られてきた。かつて天正17年毛利輝元がこの地に移り広島と命名してから、すでに364年を経過したが、この間封建時代の城下町としてあるいは諸戦役・事変の軍事基地として幾多の変遷をとげ、多くの遺跡を残し広島に遊ぶ人の目を楽しませてきた。しかし、これら多くの遺跡は戦禍によりほとんど消え失せ、代って原爆の戦火を経た新しい国際的観光都市となり、観光対象物は原爆の破壊力を示す若干の被害記録物とこれを乗り超えて進む生存者の建設譜であり、徹底的な破壊に打ち勝って建設されつつある平和記念都市の姿である。本市は高度の技術を結集した平和記念施設たる中島の平和記念公園をはじめ大小の公園緑地、川を生かした河岸緑地、交通量に留意した街路網等を有する理想的平和記念都市建設を推進しているので、将来はこの近代的都市自体が観光対象となり、広島を世界恒久平和の発祥地たらしめること望む平和愛好者及び諸団体の来訪が予想され、すでに世界連邦アジア会議や世界連邦アジア会議が進んで広島の地で開催されている。このように内外を問わず来訪客 の著しいのも本市の平和都市の性格に立脚した観光都市の特色である。
市街を合流する七つの川は、その水清く山緑を影し民家を写し夜のネオンを浮べて市街の美観を一入増し、相生矯をはじめ30有余の橋りようを縫ってゆるやかに瀬戸内海に注いでいる。おだやかな瀬戸内海は市の前面に大小様々な島を浮ベ、その風光の美は遊覧客を陶酔させるに充分である。夏は至る所にキャンプ村や海水浴場が設けられ、レクリエーションを楽しむ人々でにぎわう。東方には呉港や、瀬戸内海の風光を一望できる野呂山高原がある。西に下れば手の届くところに子供の別天地楽々園、日本三景の一つ安芸の宮島、再建された岩国の錦帯橋、湯来温泉がある。さら北方背後地には桜と鵜飼の三次、つつじとスキーでにぎわう道後山公園、冠山高原、芸北の幽境三段峡及び帝釈峡、西日本の軽井沢と言われる八幡高原等将来性のある県立公園がある。別府温泉や道後温泉は海路至便の距離にあつて広島市の観光lこ気軽く接続できる。これらはいずれも本市観光とタイアップされた広範囲な観光ルート圏を形成しており、四季を通じてこれら各地を巡遊する人がすこぶる多い。
本市の観光行政に協力するため、広島市観光協会が設けられ、観光誘致宣伝、市内観光ルート・ミス広島の選定及び観光客の案内等活発に活動している。
なお、本年4月より中国観光バス(株)が誕生して観光客の遊覧案内の業務を開始した。
観光施設
[平和記念館、旧産業奨励館、慰霊碑、原爆資料館、似島、不動院、東照宮、三滝観音道場、向宇品、千田廟と千田男爵銅像、広島城跡、比治山公園、山陽文徳殿、頼家の墓、縮景園、広島遊園地、長寿園、東亜殉道無名士女之碑、平和大橋の写真入り紹介-略]
東亜殉道無名士女之碑
本市新川場町の本照寺境内に満蒙同胞援護会広島県支部(支部長 本照寺住職 筧義章氏)によって昭和28年3月31日建立・除幕式を行い、同時に碑の内部に大東亜戦争並びに原爆による行方不明者の氏名を謹記した小石を納入、入魂式を挙行。その碑には極東軍事裁判にインド代表として出席し、唯一人日本無罪論を主張したダバビノール・パール博士によってベンガル語碑文が刻み込まれている。
1954(昭和29)年版は発行せず
1955(昭和30)年版~1958(昭和34)年版
[市内観光地の簡単な紹介]
1959(昭和34)年版
平和記念施設
1960(昭和35)年版
世界最初の原爆罹災都市として、本市の観光は大きく姿を変えた。戦後の主な観光対象は、大なり小なり原爆に関係又は起因するものによって占められている。然し都市の復興に連れて、名勝・旧蹟も復旧され、古い行事等も往昔の繁盛を偲ばせる迄に回復した。
市内観光
[平和記念公園、原爆ドーム、慰霊碑、平和記念資料館、花時計、原爆の子の像、平和大橋、西平和大橋、広島城、三滝寺と多宝塔、長寿園、縮景園、比治山公園、元宇品公園、黄金山、不動院、竜泉寺の滝、広島遊園地、広島ユースホステルの簡単な紹介]
0-01月忌(一覧)
1月に亡くなった人々
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 02 | 1994 | 日詰忍 | ひづめ・しのぶ | 91 | 広島県被団協理事。1955年皆実原爆被害者の会会長。原水爆禁止広島母の会の活動、機関紙「ひろしまの河」。<別記> |
| 02 | 2011 | 林幸子 | はやし・さちこ | 81 | 原爆詩「ヒロシマの空」の作者。「林幸子さん遺影登録 広島祈念館」(『中国新聞』2018.6.7 西本雅実の紹介記事) |
| 03 | 2000 | 山口勇子 | やまぐち・ ゆう | 83 | 児童文学者。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆)。1982年3月25日、平和親善センターで面会。三宅・網岡両氏、同席。<別記> |
| 04 | 1969 | 高野源進 | たかの・げんしん | 73 | 広島原爆被爆時の広島県知事。広島原爆被爆時の広島県知事。参考文献:安藤福平「原爆被災と行政」(国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会(広島県・広島市)編『広島の復興経験を生かすために 廃墟からの再生 第3巻 ひろしま復興・平和構築研究事業報告書』2017年) |
| 04 | 2010 | 山口彊 | やまぐち・つとむ | 93 | 三菱重工業長崎造船所設計技師。広島と長崎で被爆。 |
| 04 | 2015 | 金子一士 | かねこ・かずし | 89 | 船舶会社に勤めていた19歳の時入市被爆。広島県被団協理事長。「本川小学校平和資料館」(1988年5月開設)の開設前に面談。「金子一士さんを偲び意志をつぐ会」(2015年5月16日、広島国際会議場)に参列。<金子一士さんを偲び遺志をつぐ会> |
| 04 | 2016 | ヨシダ・ヨシエ | よしだ・ | 86 | 本名:吉田早苗。出典:岡村幸宣「ヨシダ・ヨシエさんを悼む 「原爆の図に新たな命」」(『中国新聞』20160119)。本名=吉田早苗=よしだ・さなえ、美術評論家。『戦後前衛所縁荒事十八番』(ニトリア書房、19720805) |
| 05 | 2000 | 伊藤サカエ | いとう・さかえ | 88 | 日本原水爆被害者団体協議会代表委員。広島県被団協理事長。広島県呉市生まれ。広島市鶴見橋で建物疎開作業の勤労動員中に被爆。矢野町議会議員、同町婦人会長などを歴任。「伊藤サカエさんを語る会」(広島市原爆被害者の会主催、2013年4月16日。4回目の「先人を語る会」) |
| 05 | 2012 | 林光 | はやし・ひかる | 80 | 作曲家。1971年合唱曲「原爆小景」。「反核・日本の音楽家たち」の呼びかけ人」。 |
| 06 | 1998 | 安江良介 | やすえ・りょうすけ | 62 | 岩波書店社長。大江健三郎の広島取材を編集者として支える。1998年8月15日、日本ジャーナリスト会議広島支部「8・15不戦の夕べ」で講演「戦後民主主義とヒロシマ」。 |
| 07 | 1989 | 裕仁 | ひろひと | 87 | 追号:昭和天皇。宮内庁ホームページhttp://www.kunaicho.go.jp/ |
| 07 | 1996 | 岡本 太郎 | おかもと ・たろう | 84 | 芸術家。メキシコで制作した壁画「核の神話」の広島市への誘致運動が起こる。 |
| 08 | 1975 | 山田節男 | やまだ・せつお | 76 | 広島市長。1969年ハマーショルド記念国際平和賞受賞。[70ヒロシマ会議]。『山田節男追想録』。<別記> |
| 08 | 1994 | サマヴィル、ジョン・M・ | 88 | 米国の哲学者。『平和のための革命』(ジョン・サマヴィル、芝田進午訳、岩波書店、19741216) | |
| 09 | 1978 | 久保良敏 | くぼ・よしとし | 64 | [51広島大学平和問題研究会理事(皆)]。広島大学名誉教授。産業社会心理学専攻。被爆直後の人間の心理を初めて学問的に分析。遺された資料を一時預かる。 |
| 09 | 1885 | 藤井日達 | ふじい・にちだつ | 99 | 日本山妙法寺の山主。1982年の国連軍縮特別総会に参加するなど平和運動に貢献。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。『毒鼓(どっく)』(藤井日達、わせだ書房、1961.5.10)。『写真集 撃鼓宣令』 (柏樹社、19850528) http://nipponzanmyohoji.net/ |
| 09 | 2005 | 小川修三 | おがわ・しゅうぞう | 81 | 『小川修三博士を偲んで』(小川修三先生追悼文集発行呼びかけ人、200606) |
| 10
|
1951
|
仁科芳雄 | にしな・よしお | 61
|
物理学者。岡山県生まれ。理化学研究所で1943年に原爆開発のための「二号研究」を発足させる。被爆直後の広島・長崎で調査。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<別記予定>。『広島県史 原爆資料編』に関連資料を収録。 |
| 10 | 1967 | パールRadhabinod Pal | 71 | インド人法律家。東京裁判でインド代表判事を務める。彼の原爆慰霊碑の碑文についての発言をめぐり論争が起こる。『日本無罪論』、『平和の宣言』。 | |
| 10 | 2025 | 堀場 清子 | ほりば ・きよこ | 94 | 詩人 、 女性史 研究者。戦争と平和を考える詩の会会員。 |
| 11 | 1966 | 大原博夫 | おおはら・ひろお | 71 | 衆議院議員。広島県会議員、同議長。広島県知事。広島県医師会長。『大原博夫伝』(大原博夫追想録編集委員会、1971.3.20) |
| 11 | 1998 | レイノルズ、アール | れいのるず | 87 | 広島の反核運動の先駆者で米国の人類学者。1960年、広島女学院客員教授。参考サイト=「バーバラ・レイノルズ」、「年表 レイノルズ夫妻」、「広島平和科学研究所」 |
| 11 | 2015 | カートライト、T | 90 | 米軍B24爆撃機の元機長。広島で捕虜となった同僚を原爆で失う。出典:『中国新聞』20150116(金崎由美・記) | |
| 11 | 2020 | 八杉康夫 | やすぎ・やすお | 92 | 戦艦大和の元乗組員で生還者。広島の救援活動で入市被爆。著書『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』(八杉康夫著、栗野仁雄<構成>、ワック、20021208) |
| 12 | 2021 | 半藤一利 | はんどう・かずとし | 90 | 作家。日本近現代史を対象とした。 |
| 12 | 2019 | 市原悦子 | いちはら・えつこ | 82 | 俳優。映画「黒い雨」(今村昌平監督)に出演。 |
| 13 | 2000 | 赤松俊子 | あかまつ・としこ | 87 | →丸木俊。『広島県現代文学事典』 |
| 13 | 2000 | 丸木俊 | まるき・とし | 87 | 画家。疎開先の浦和市から広島に入市し被爆。夫・位里と『原爆の図』全15部を制作。世界平和文化賞(1953年)、国際童画ビエンナーレのゴールデンアップル賞(1971年)、朝日賞(1995年)などを受賞。 |
| 13 | 2016 | 広瀬方人 | ひろせ・まさひと | 85 | 長崎被爆者。 |
| 14 | 1992 | 於保源作 | おぼ・げんさく | 87 | 広島市医師会副会長。被爆者の癌の疫学的研究の草分け。広島原爆障害研究会。『面影 原爆ガンと取組んだ町医者 於保源作』(小川加弥太・於保信義編、渓水社、1993.1.14) |
| 15 | 1983 | 大西良慶 | おおにし・りょうけい | 107 | 京都、清水寺貫首[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]1981年、7月、京都の宗教家らと「核兵器廃絶アピール」発表。[82推進連絡会議呼びかけ人] |
| 15 | 1984 | 中津泰人 | なかつ | 『慟哭・川柳句集』(中津泰人、19740725)。串かつ川柳会主宰。1973年に呉原爆被爆者友の会結成、同会会長。 | |
| 15 | 1988 | マクブライド、ショーン | 83 | アイルランドの政治家。1974年ノーベル平和賞、77年レーニン平和賞受賞。1977年広島市でのNGO主催の被爆問題国際シンポジウムに参加。 | |
| 15 | 2005 | 松江澄 | まつえ・きよし | 85 | 1959年に日本共産党初めての県議。元広島県原水禁常任理事、元統一労働者党議長。 |
| 16 | 2002 | いぬいとみこ | いぬい・とみこ | 77 | 本名乾富子。児童文学者。「いぬいとみこさんとヒロシマ 「体験」の壁執念の取材」(『中国新聞』2002.1.22 石井伸司記)。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆) |
| 17 | 2025 | 黒瀬真一郎 | くろせ・しんいちろう | 83 | 学校法人広島女学院理事長など歴任。<資料年表:黒瀬真一郎> |
| 17 | 2023 | 土井作治 | どい・さくじ | 92 | |
| 18 | 2015 | 御庄博実 | 89 | →丸屋博 | |
| 18 | 2015 | 丸屋博 | まるや・ひろし | 89 | 1945年8月8日、広島入市。詩人(御庄博実)。広島共立病院名誉院長。 |
| 18 | 2015 | 丸屋博 | ピカに灼かれて―被爆体験記(広島医療生活協同組合原爆被害者の会) | ヒロシマ遺文 (hiroshima-ibun.com) | ||
| ピカに灼かれて 第28集 終刊号 2005年7月15日 | |||||
| 丸屋博『ヒロシマ随想 医師として被爆者として』 | |||||
| 20 | 1974 | ブランデン、エドモンド・ | 77 | 英国の詩人。1948年広島訪問。広島市立中央図書館前に詩碑(1975年8月3日建立)。『広島県現代文学事典』(植木研介執筆)。 | |
| 20 | 1990 | 田淵昭 | たぶち・あきら | 83 | 元広大医学部付属病院長。胎内被爆小頭症の調査に尽力。 |
| 20 | 2019 | 北西允 | きたにし・まこと | 93 | 「生きて 政治学者 北西允さん」(『中国新聞』2013年4月9日~27日、15回連載、担当:編集委員・西本雅実)。<別記> |
| 21 | 2008 | 浜本万三 | はまもと・まんそう | 87 | 広島県選出の元社会党参院議員。1974年に初当選し、通算3期。『花は想う人の側に咲く 浜本万三回顧録』(浜本万三、広島大学文書館(編)・現代史料出版・東出版(出版)2009.1)<別記> |
| 22 | 1994 | 灘尾弘吉 | なだお・こうきち | 94 | 江田島市出身。元衆議院議長。『灘尾弘吉先生追悼集』(中国新聞社メディア開発局出版部/編集協力、1996.12) |
| 22 | 2018 | 河内光子 | こうち・みつこ | 86 | 広島女子商業学校2年の時、学徒動員先の広島貯金支局で被爆。御幸橋の救護所ので様子が松重美人撮影の写真に残る。出典:『読売新聞』20120805、『中国新聞』20180209、『朝日新聞』20180210(宮崎園子・記) |
| 23 | 2008 | 相原秀次 | あいはら・ひでつぐ | 98 | 日本映画社の企画部員として広島・長崎への原爆投下直後から記録映画の製作に従事。 |
| 久保田明子「広島における原爆被災の映像と相原秀二資料について」 | |||||
| 23 | 2011 | 喜味こいし | きみ・こいし | 83 | 漫才師。「喜味こいしさんを悼む 上方漫才の正道歩む」(権藤芳一記)「戦争やったらあかん 被爆体験とつとつと」(岩崎秀史記)(『中国新聞』2011.1.26) |
| 23 | 2012 | 栗原真理子 | くりはら・まりこ | 76 | 被爆詩人・栗原貞子の長女。広島女学院大学の栗原貞子記念文庫開設に尽力(『朝日新聞』20120125) |
| 24 | 2018 | 香川龍介 | かがわ・りゅうすけ | 85 | 画家。(『中国新聞』20180210) |
| 25 | 1986 | 吉川清 | きっかわ・きよし | 74 | 「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。<別記> |
| 25 | 1994 | 森滝市郎 | もりたき・いちろう | 101 | 京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。広島大学。自宅で面識、資料閲覧。<別記> |
| 25 | 2011 | 石田忠 | いしだ・ただし | 94 | 一橋大名誉教授・社会学、元日本原水爆被害者団体協議会専門委員)。<別記> |
| 25 | 2023 | 林紀子 | はやし・としこ | 81 | 元アナウンサー。元参議院議員(2期)。日本共産党。宇吹メモ=1990年5月15日午後2時、 共産党国会調査団来所(=広島大学原爆放射能医学研究所)。林紀子、児玉健次など12人。宇吹助手が応対。 |
| 26 | 2019 | 葉佐井博巳 | はさい・ひろみ | 87 | 広島大名誉教授。広島の原爆被爆時、広島一中2年生。学徒動員先の兵器製作所(現廿日市市)できのこ雲を目撃。翌日に入市被爆。被曝線量推定方式を見直す日米合同研究グループの日本側座長。2002年、新しい推定方式「DS02」をまとめる。<別記>「被爆建物等継承方策検討委員会」(広島市が1991年7月24日に設置)で同席。 |
| 27 | 2003 | 川村智治郎 | かわむら・としじろう | 96 | 明39(1906)年滋賀県生まれ。広島高等師範学校・広島文理科大学卒業。京都帝国大学理学部講師、広島文理科大学助教授等、広島大学理学部教授、同理学部長を経て、昭和41(1966)年、広島大学第3代学長。広島大学長に就任。両生類研究者、カエルの染色体の分析研究。広島大学附属両生類研究所所長。第52回日本学士院賞受賞。元広島文理科大学(旧広島大学理学部1号館)の保存を考える会(設立:1995年1月7日)会長<別記> |
| 27 | 2005 | 竹内武 | たけうち・たけし | 77 | 広島平和会館。 |
| 29 | 1986 | 鈴木直吉 | すずき・なおきち | 90 | 1948年広島県立医科大学教授。広島大学医学部教授。「鈴木直吉先生の御逝去を悼む」(片岡勝子記、『(広島大学)学内通信』1985.3.25)<別記> |
| 29 | 2013 | 熊田重邦 | くまだ・しげくに | 92 | 広島女子大学教授、広島県史編さん室室長、広島県立文書館館長<別記> |
| 30 | 2016 | 亀本和彦 | かめもと・かずひこ | 69 | 小学校・高校の同級生。「祖母も伯母もその日路面電車に乗っていて被爆し、また、父も翌日軍務で広島市街地に入って被爆」(彼のブログより) |
| 31 | 2018 | 吉田治平 | よしだ・じへい | 95 | 845年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定> |
| 31 | 2023 | 久留島恵一 | くるしま・けいいち | 94
|
音戸高校時代に指導を受けた先輩教員。「呉を中心とした軍事基地の現状」(ビラ「米軍・自衛隊 基地調査告発全国交流呉集会の集まろう!!」(1975年)) |
粟屋仙吉
粟屋仙吉
| あわや・せんきち | 18931107生19450806没 | 広島の原子爆弾被爆時の広島市長。 | 享年 |
止
12月忌(一覧)
12月忌(一覧)
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 02 | 2009 | 平山郁夫 | ひらやま・いくお | 79 | 『広島県現代文学事典』(西原大輔pp.415-417)。画家。平山郁夫美術館。資料年表:平山郁夫 |
| 03 | 1976 | 澤崎嘉衛 | さわさき・よしえ | 72 | 『組織活動ひとすじに~澤崎嘉衛先生を偲ぶ~』(社団法人広島県地区衛生組織連合会、1977.12.4) |
| 03 | 2013 | 山口氏康 | やまぐち・うじやす | 91 | 『ヒロシマもう一つの顔』(山口氏康、青弓社、1986.4.9)。1971年広島市議。以後3期。 |
| 04 | 1980 | アメラシンゲ、 | あめらしんげ | 67 | アメラシンゲ、ハミルトン・シャーリー |
| 1977年広島・長崎の平和式典に参加した元国連総合議長、死去。スリランカ出身。 | |||||
| 05 | 1975 | 田辺勝 | たなべ・まさる | 69 | 広島県被団協(原水協系)理事長。広島県立工業学校の教師の時、動員学徒指導中の安芸郡海田町の工場から救援にかけつけ被爆。『読売新聞』・『中国新聞』1975.12.6~8 田辺勝 |
| 05 | 1999 | 葉室潔 | はむろ・きよし | 81 | 本名:谷原多郎。米モンタナ州生まれ。1968年広島市バレエ協会会長。「原爆主題に創作バレエ」(『中国新聞』1999.12.7) |
| 05 | 2008 | 加藤周一 | かとう・しゅういち | 89 | 評論家。日米原子爆弾影響合同調査団の一員として広島入り。立命館大学国際平和ミュージアム(1992.5.19設立)初代館長。加藤周一 |
| 09 | 2009 | 村中好穂 | むらなか・よしほ | 84 | 日本共産党広島県委員会名誉県委員。2010年3月13日、「村中好穂さんをしのぶ会」(『赤旗』2010.3.14)資料年表:村中好穂 |
| 09 | 2022 | 北川建次 | きたがわ・けんじ | 87 | 1935年生。広島大学教育学部教授、附属東雲中学校長。資料年表:北川建次。 |
| 10 | 1963 | 大田洋子 | おおた・ようこ | 60 | [原爆被害者の会東京協力会世話人]。第4回女流文学賞(1952年)、文化人会議昭和29年度平和文化賞。『広島県現代文学事典』(岩崎文人執筆。pp.233-234)資料年表:大田洋子 |
| 10 | 1963 | 高田 静雄 | たかだ・ しずお | 54 | 砲丸投げのオリンピック(1936年ベルリン)選手。中国配電本店(勤務先)で被爆。長女千鶴子(広島女学院高女2年)は動員先で被爆し死亡。資料:西本雅実「被爆オリンピアンの視点」(『中国新聞』20180716)。19090305生 |
| 10 | 2001 | 江戸屋猫八 | えどや・ねこはち | 80 | 本名:岡田八郎。「江戸屋猫八さん死去 物まね名手 広島で被爆 後遺症・‥高座で体験語る」(『中国新聞』2001.12.11)江戸屋猫八(3代目) |
| 11 | 1988 | 任都栗司 | にとぐりつかさ | 91 | 『任都栗司資料目録(原爆被爆者援護関係)』(広島市公文書館、19880630)。元広島市議会議長。任都栗司 |
| 13 | 2003 | 清水栄 | しみず・さかえ | 88 | 京都大学名誉教授。「清水栄日記 昭和20・8・6~12・7」(『広島県史 原爆資料編』pp.521-551)。清水栄 |
| 14 | 2014 | 松尾尊兊 | まつお・たかよし | 85 | 日本近現代史研究者。 |
| 15 | 1997 | 関寛治 | せき・ひろはる | 70 | 元広島大学平和科学研究センター長。関寛治 |
| 15 | 2001 | 島原帆山 | しまばら・はんざん | 100 | 山流尺八演奏家。重要無形文化財保持者(人間国宝)。広島市名誉市民。広島被爆者。原爆投下翌日、衛兵をしていた八本松町(現東広島市)の海軍弾薬庫からトラックで広島市内へ。『中国新聞』2001年8月3日付。『竹韻一路 人間国宝島原帆山』(島原帆山、新芸術社、1990.5.8)。佐伯好郎墓前で島原帆山の尺八演奏。 島原帆山 |
| 15 | 2007 | 山瀬明 | やませ・あきら | 81 | 『山瀬明さんを偲んで』(2008.2.2)=「故山瀬明さんを偲ぶ会 於.光徳会館」での配布資料。山瀬明 |
| 16 | 1988 | 小磯良平 | こいそ・りょうへい | 85 | 洋画家。19030725生。1950年8月予定の広島市平和祭(直前に中止)のポスター原画を制作。小磯良平 |
| 16 | 2008 | 竹下虎之助 | たけした・とらのすけ | 84 | 広島県知事(1981-1993年)。「評伝竹下前広島知事」(『中国新聞』20081217、桝田勲・記) 竹下虎之助 |
| 16 | 2017 | 早坂暁 | はやさか・あきら | 88 | 海軍兵学校在学中に終戦。被爆直後の広島の惨状を目撃。脚本家・作家。「夢千代日記」シリーズなど。「市民が描いた原爆の絵」 を陶板画の碑にして広島市内に建立する運動を提唱(『中国新聞』2002.2.22)。『広島県現代文学事典』(森本穫執筆。Pp.404-405) 早坂暁 |
| 17 | 1992 | アンデルス・ギュンター | あんでるす | 90 | 『橋の上の男 広島と長崎の日記』(ギュンター・アンデルス、篠原正瑛訳、朝日新聞社、 1960.8.1)。『ヒロシマわが罪と罰 原爆パイロットの苦悩の手紙』(クロード・イーザリー、ギュンター・アンデルス、篠原正瑛訳、筑摩書房)。 |
| 18 | 2015 | 藤田雄山 | ふじた・ゆうざん | 66 | 広島県知事。1993年11月~2009年11月。 藤田雄山 |
| 19 | 1979 | 丸山益輝 | まるやま・ますてる | 60 | 1966年広島大工学部教授。同大平和科学研究センターの設置・運営に尽力。1979年12月19日中国・南京で死去。広島大学大学教育研究センター長。 |
| 19 | 2012 | 中沢啓治 | なかざわ・けいじ | 73 | 漫画家。『「ヒロシマ」の空白 シリーズ 昭和とはなんであったか』(中沢啓治、日本図書センター、1987.8.25)。『広島県現代文学事典』(小西清美pp.384-385) 中沢啓治 |
| 20 | 1983 | 武見 太郎 | たけみ ・たろう | 79 | 日本医師会会長や世界医師会会長を歴任。『戦前戦中戦後』(武見 太郎、講談社、19820310) |
| 20 | 1983 | 渡辺鼎 | わたなべ・かなえ | 93 | 広島大学文学部長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起)]。原水禁世界大会(1955年)開催に貢献。 渡辺鼎 |
| 20 | 2023 | 植木 研介 |
うえき・けんすけ |
79 | 広島大学名誉教授。1990年代に広島市平和公園のレストハウスの保存を訴える。資料年表:植木 研介。 |
| 21 | 1997 | 片岡脩 | かたおか・おさむ | 65 | グラフィック・デザイナー。旧制広島一中1年生の時、原爆に被爆。「被爆者デザイナー故片岡脩さん制作平和ポスター託す 広島市立大に106枚(田原直樹記者)」(『中国新聞』2008.7.26) 片岡脩 |
| 21 | 2004 | 今西祐行 | いまにし・すけゆき | 81 | 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(山元隆春執筆。Pp.212-214) 今西祐行 |
| 22 | 1994 | 乙羽信子 | おとわ・のぶこ | 70 | 女優。映画「原爆の子」に出演。1978年1月新藤兼人と結婚。 乙羽信子 |
| 22 | 2000 | 千田夏光 | せんだ・かこう | 76 | 作家。『赤旗』に小説「終焉の姉妹」を連載。 千田夏光 |
| 22 | 2004 | 山本良雄 | やまもと・よしお | 87 | 『ヒロシマを生きる』(山本良雄、19980920)大津市被爆者友の会 277 |
| 23 | 1985 | 三村明 | みむら・あきら | 84 | 映画撮影監督。被爆直後、米戦略爆撃調査団の映画班に加わる。『聖林からヒロシマへ 映画カメラマン・ハリー三村の人生』(工藤美代子、晶文社、1985.2.22) 三村明 |
| 23 | 2008 | 平田嘉三 | ひらた・かぞう | 83 | 文部省初等中等教育局教科書調査官。広島大学教育学部教授。1980年12月15日、家永教科書裁判第一次訴訟第二審で国側証人として出廷(東京高裁)。「洗礼という言葉には、人を祝福するニュアンスがあり、原爆という悲惨な事実を示すにはなじまない。教科書では主観的・比喩的表現は避けた方がいい」。(浪本勝年「第1次教科書訴訟控訴審の審理過程」)。 平田嘉三 |
| 23 | 2018 | 大田堯 | おおた・たかい | 100 | 元日本教育学会会長。「平和・軍縮教育-3つの視点- 大田堯 121」(『世界の平和・軍縮教育 1982年国際シンポジウム報告書』WCOTP、日教組報告書編集委員会編、勁草書房)大田堯 |
| 24 | 1951 | 木原一郎 | きはら・いちろう | 67 | 戦後初の広島市長。 木原一郎 |
| 24 | 1986 | 松下正寿 | まつした・まさとし | 85 | 元立教大学総長、元参議院議員。核禁会議議長。1957年に特使として渡英、英に核実験中止を訴え。 松下正寿 |
| 25 | 2007 | 井内慶次郎 | いない・けいじろう | 83 | 旧制広島高、東京大法学部を卒業。1947年に文部省(現文部科学省)に入り、大学局長などを経て、78年から80年まで事務次官。藤居平一追悼集に寄稿。 |
| 26 | 1925 | レツル、ヤン | れつる | 45
|
産業奨励館(原爆ドーム)を設計したチェコ人建築家。「ヤン・レツルの年表」pp.218-220(『レツルの黙示録』オルガ・ストルスコバ、佐々木昭一郎監訳、NHK出版、1995.7.20) レツルの黙示録 |
| 26 | 1972 | トルーマン、ハリー・S・ | とるーまんHarry S.Truman | 88 | アメリカ合衆国第33代大統領(1945~1953)。民主党出身。原爆投下を指令。 トルーマン |
| 26 | 1978 | 畠中敬恵 | はたなかよしえ | 58 | きのこ会会長。山代巴の紹介で面会。 |
| 27 | 2007 | 川島孝郎 | かわしま・たかお | 1937年大連生まれ。広島大学教育学部卒。共著『岩波DVDブック Pesce Archives 平和ミュージアム』 | |
| 28 | 1957 | 浦廉一 | うら・れんいち | 62 | 『浦廉一博士を偲びて―その小伝』(故浦廉一先生追悼事業会、1958.12.28)。広島高等師範学校教授(東洋史)の時被爆。 |
| 28 | 2013 | 吉川生美 | きっかわいきみ | 92 | 三次市出身。爆心地から約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆。夫は、「原爆1号」と呼ばれた吉川清。資料年表:吉川生美 |
| 29 | 1968 | 久富達夫 | ひさとみ・たつお | 情報局次長(1945.4~8.22)。<松前重義「終戦に導いた原爆の報告」(『久富達夫』(久富達夫追想録編集委員会<出版共同社内>、同刊行会、1969.12.15、pp.288-290>) | |
| 30 | 1975 | 稲富 栄次郎 | いなとみ・えいじろう | 78 | 広島文理科大学助教授の時被爆。教育哲学会会長。『世紀の閃光』(稲富 栄次郎著、銀のの鈴広島図書発行、19491220)。『広島原爆記 未来への遺書』(稲富 栄次郎著、講談社、19730801)。稲富栄次郎 |
| 30 | 1983 | 矢吹憲道 | やぶき・ | 80 | |
| 30 | 1988 | ノグチ・イサム | のぐち | 84 | 日系米国人の彫刻家。広島市の平和大橋などを設計。イサム・ノグチ |
| 30 | 2014 | ドレイゴ、カレリア | どれいごかれりあ | 93 | 白系ロシア人。父が広島女学院の音楽教師。牛田の自宅で被爆。 |
| 31 | 2022 | 郭貴勲 | くぁく・くぃふん | 98 | 韓国原爆被害者協会名誉会長。 |
止
松本卓夫
松本卓夫
| まつもとたくお | 19生 19861128没 |
原爆被爆時の広島女学院院長。1948年9月~50年1月、渡米。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。1964年に広島・長崎世界平和巡礼団団長として各国を歴訪。 |
| 参考資料 | 平和巡礼 |
| 文献 | 原爆体験と世界平和 (『その日の広島-キリスト者の原爆体験』所収) |
| 『関西学院史紀要』第9号(2003年3月24日発行 A5版244頁) [シリーズ・関西学院の人びと] 神田 健次5.松本卓夫6.谷本 清 |
|
| 年表 |
| 1947/8/– | 米でも8月6日に「広島デー」。松本卓夫広島女学院長に友人の米人宗教家から連絡 | |
| 1948/1/– | 米教育界から広島女学院に留学の招請状。松本卓夫院長にも被爆状況の講演依頼 出 典(新聞掲載日など): | |
| 1950/1/8 | 1948年9月以来、渡米し平和講演などしていた広島女学院の松本卓夫院長が広島帰着 出 典(新聞掲載日など): | |
| 1964/1/17 | 広島・長崎世界平和巡礼団の広島関係メンバー決まる。松本卓夫元広島女学院長、志水清広島大原医研教授ら15人 出 典(新聞掲載日など): | |
| 1964/4/16 | 第2回広島・長崎世界平和巡礼団が広島出発。広島市平和記念館で結団壮行式。団員40人が2カ月をかけ欧米、ソ連など8カ国を回る。松本卓夫団長(元広島女学院長)が「原爆という共通の苦悩を背負っ | |
| 1964/7/4 | 1964/7/6 市民 広島・長崎世界平和巡礼団が広島市の平和記念館で市民への帰国報告集会。松本卓夫団長が「巡礼団は世界平和のためのタネまきだった。今後はその成長と収穫を繰り広げなければならないと痛切に感 | |
| 1964/7/6 | 広島・長崎世界平和巡礼団が広島市の平和記念館で市民への帰国報告集会。松本卓夫団長が「巡礼団は世界平和のためのタネまきだった。今後はその成長と収穫を繰り広げなければならないと痛切に感 | |
| 1970/6/22 | 米市民に核兵器の廃絶と世界平和を訴える「広島・長崎平和使節団」(団長、松本卓夫広島ワールド・フレンドシップ・センター館長、6人)が羽田を出発 出 典(新聞掲載日など):06・23 | |
| 1970/8/2 | 訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)がミネソタ州セントポールの教会で原爆慰霊式 出 典(新聞掲載日など):08・3夕 | |
| 1970/8/3 | 訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長、6人)が国連で記者会見。松本団長「原爆の無差別殺害は正当化できない犯罪である」。会見に先立ち、リーゼン・ニューヨーク市長らと懇談 出 典(新聞 | |
| 1970/8/22 | 全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)の6人が帰国。6月22日に日本を出発し、米の50余りの都市を訪問 出 典(新聞掲載日など):08・22夕 | |
| 1970/8/30 | 全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団が広島市の平和記念館で報告会。松本卓夫団長「今回の使節団は個別に行動し、小さな集会に主眼を置き平和を訴えた。25周年というこ | |
| 1971/7/17 | 1964年、広島・長崎平和巡礼団の一員としてトルーマン米大統領に会見した松本卓夫団長が、中国新聞のインタビューで「原爆投下を命じた責任者の口からは、通りいっぺんの返事しかなかった。 |
出典:その日の広島-キリスト者の原爆体験(新教出版社編集部編、新教出版社、1965年7月31日)
翌年の二月には、牛田山の校地にバラックの校舎と講堂とを建てて、はじめて学院自体の設備で授業を行ない、二年後には、上流川町の校庭に、やや校舎らしい建築をし、大講堂を加えた。市内の諸学校の中で、このように復興し得たのは広島女学院が最初であった。当時の文部大臣森戸辰男氏はわざわざ東京から来て、鄭重な祝辞を述べて下さった。
この建設が一応完成したころ、わたしの容体がまた悪化し出したので、米国メソジスト教会世界伝道局の招きにより渡米療養をすることになった。わたしは、被爆者にして渡米した最初の日本人であったため、かなり好奇の的になり入院中はモルモット扱いされて、いろいろの治療を実験的に試みられた。しかし、どうやら一カ月余にわたる治療のおかげで健康を回復しえたのであるが、その後一カ年半の長きにわたって、ほとんど米国全土を旅行し、諸教会、諸学校、またいろいろの文化団体の招きを受けて、原爆の経験を語り、平和を訴えて回った。
このような非人道的な戦争や手段を今後絶対に防止し、真の世界平和を実現しなくてはならないことを痛感し、平和運動を促進している人々や団体が数多くあることは、周知のとおりである。
とくに、広島および長崎の被爆者たちは、彼らの悲惨な体験から、ノー・モア・ヒロシマを訴える使命を痛感し、昨春、世界平和巡礼団を組織し、北米、カナダ、英国、フランス、東西ドイツ、およびソヴィエト・ロシアの諸国をニカ月半にわたって歴訪し、講演、座談、論議、合同研究を試みた。総勢四○名(通訳者として同伴した一二名の学生を含めて)であったが、抽象的な一般論でなくて痛切な被爆の体験に基づいて訴えたので、聴く人々に非常な感銘を与えた。また、社会の各層を代表する多種多様の者たちを網羅した巡礼団であったことも、特色があり有意義であったと思う。農家の主婦あり、保育院の保母あり、労組の主事、文筆家、新聞記者、学校長、教員、仏僧、医者、科学者といった顔ぶれであり、したがって諸外国のそれぞれのグルーブと懇談し意見の交換をする便宜を得た。
事実、この巡礼団の目的は、あわれなお涙ちょうだい式の泣きごとを述べ歩くことではなく、諸外国の人々と研究的に語りあい、どうしたら戦争を防止し平和を促進しうるかについて意見を交換することにあったのである。したがつて、われらの同志科学者は、しばしば、フランスやアメリカの知名な物理学者たちと個別的に対談したし、わたしはたびたぴキリスト教指導者たちとの会合に臨んだし、医者たちは先方の医師会の人々と医学的方面からの合同論議に参加するという方法をとった。もとより、大きな講演会を催して大衆に訴えることもした。ニューヨーク市力-ネギー・ホールに約三千人を集めての講演会、パリの公会堂における盛大な平和強調の会、モスクワのゴリキー記念公園内で数千の聴衆を迎えての大会など、その著しい例であった。知名の士との面接も有意義であった。米国元大統領トルーマン、カナダ外相バウル・マーティン、国連事務総長ウ・タント、ベルギー王バウドワンのかたがたとの面談は、単に儀礼的なものではなかったと思う。ワシントンの国会議事堂内で、上院下院議員がたとかなりつっこんだ論議を試みたが、これまた効果的であったと信じる。諸大学での率直な議論は痛快でもあった。巡礼旅行の全行程中で行なった会合は約五百回にのぼった。ラジオ、テレビなどには数十回もひっぱり出されたが、これらのマス・コミをとおして、わたしたちは数百万の人々に語りかけることができたと言えよう。
| 1942年 4月 | 松本卓夫が、院長兼専門学校長、高等女学部長として就任。 |
| 1943年 4月 | 高等女学部は高等女学校令による「広島女学院高等女学校」として、文部省によって認可を受け、松本院長が校長を兼ねた。 |
| 1945年 8月 | 6日午前8時15分、広島に原爆投下。生徒・教職員330余名の犠牲者を出し、校舎、施設のいっさいを失った。 |
| 1945年10月 | 牛田国民学校の一部を借用して授業を再開。 |
| 1946年 2月 | 牛田山の校地にバラック校舎を建築、授業を継続。 |
| 1947年 4月 |
新制中学校発足。高等女学校は中学校3年と高等学校3年に改編されることとなり、当時の高女1年生は、そのまま「広島女学院中学校1年生となった。 |
| 1947年 8月 | 上流川校地(現上職町)に仮校舎と講堂、寄宿舎を建てて、牛田の校地より復帰。 |
| 1948年 4月 | 新制高等学校発足(普通科科、英語科、家庭科)。 |
| 1948年 8月 | 高等学校木造校舎、東校地の西南側に建築。 |
| 1949年 4月 | 新制大学発足。牛田校地に大学英文学部英文学科開学。 |
| 1950年 4月 | 牛田校地に短期大学部家政科開学。 |
重藤文夫
石井金一郎
石井金一郎
| いしい・きんいちろう | 19220402生19670621没 | 享年45 | [52広島平和問題談話会](広島女子短期大学助教授)。[54世界平和集会世話人(発起)]。元広島大学教授。日本原水協専門委員。 |
資料年表:石井金一郎<作業中>
| 年月日 | ||
| 1922 | ||
| 0402 | 誕生 | |
| 1960 | ||
| 0825 | 『戦後日本の国家権力』(現代史研究会、三一書房) | |
| 1965 | ||
| 0520 | 『 現代憲法読本』(法律文化社) | |
| 1967 | ||
| 0621 | 没 | |
止
川手健
川手健
| かわて・たけし | 19310213生 19600428没 |
広島市大手町生まれ。県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。東京都内で自殺。29歳。 |
資料
| 文献 | ||
| 19521101 | 川手健「七年後の廣島」(『新日本文学』) | |
| 19530625 | 『原爆に生きて 原爆被害者の手記』(原爆手記編纂委員会、三一書房) | |
| 19540215 | 『風のように炎のように-峠三吉追悼集』 | |
| 19550109 | 川手健「原爆被害者の青年クラブのこと」(『われらのうたの会』第3号) | |
| 19950806 | 『川手健を語る』(川手健を語る会編、ウイウド・岡本智恵子) | |
資料
川手健=「原爆被害者自身の口から全世界に向って原爆の惨禍と平和の必要を訴えるその意義は大きい。原爆の投下が世界史的な大事件であるなら、その被害者が立上がって原爆の反対を叫ぶこともまさに世界史的な出来事である。このことの重要性についてはまだまだ本当に考えている人は少ない様に思う。」
(「半年の足跡」、『原爆に生きて』、三一書房、1953年、所収)
佐々木禎子
佐々木禎子
| ささき・さだこ | 19430107生 19551025没 |
2歳の時、広島市三篠町で被爆。1955年1月9日、発病。同年2月21日、広島日赤病院に入院(広島市幟町小学校6年生)。4月幟町中学校に進学するが、登校不能。入院中折り鶴を製作。10月、亜急性リンパ性白血病で死去。享年12歳。 |
参考
| 広島平和をきずく児童・生徒の会 | |
| 原爆の子の像(折鶴の子の像) | |
| 広島折鶴の会 | |
| 資料 | |
| 広島市原対協被爆生存者(児童生徒)調査表(1956年1月10日現在)(1956年2月~3月実施) | 出典:『広島原爆医療史』601頁 |
| 文献(原爆の子の像関係) | |
| 千羽鶴 原爆の子の像の記録(豊田清史、昭森社) | 1958/08/06 |
| はばたけ千羽鶴(豊田清史、 筑摩書房) | 1982/07/30 |
| 悲しみの千羽鶴(田清史、創樹社) | 1991/07/10 |
| 折り鶴の子どもたち 原爆症とたたかった佐々木禎子と級友たち(那須正幹・作 高田三郎・絵 PHP研究所 ) | 1984/07/02 |
| 現代日本朝日人物事典(長岡弘芳執筆) |
原爆参考資料陳列室(原爆記念館)
原爆参考資料陳列室(原爆記念館)
開設:1949(昭和24)年9月25日
| 広島市、市内中央公民館内に暫定的に 原爆参考資料陳列室(原爆記念館)を開設。 長岡省吾が中心となり収集した 被爆岩石・瓦・コンクリート・植物類などを 机や椅子の上に並べた。 |
|
| 写真:中央公民館横に開設された原爆資料館。 出典:「広島市勢要覧」1951年版 |
参考資料
文沢隆一「平和記念資料館物語」(『季刊平和教育1』、明治図書、1976.5.15)
広島平和記念資料館概要
9月忌(一覧)
9月に亡くなった人々
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | |
| 01 | 2002 | 林重男 | はやし・しげお | 84 | 写真家。文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に参加、広島と長崎を撮影。<資料年表:林重男> |
| 02 | 1994 | 門秀一 | かど・しゅういち | 79 | 核禁広島県民会議初代議長。広島大学名誉教授。西洋倫理哲学専攻。<資料年表:門秀一> |
| 02 | 1999 | 尾津訓三 | おづ・くんぞう | 65 | 劇作家。広島で被爆。「追記 だれよりも願った地域演劇の復興」(『中国新聞19991102』田原直樹・記)<資料年表:尾津訓三> |
| 02 | 2017 | 土山秀夫 | つちやま・ひでお | 92 | 元長崎大学長。2009年2月28日に面識。<16時半~、広島(代表:難波健治)・長崎(代表:峠憲治)の報道関係者の交流会。会場:長崎新聞社。19時~懇親会。>宇吹の質問および意見<平和教育、平和行政、市民運動、医学者の動向、IPPNW、パグウォッシュ会議>に丁寧な応答。 |
| 03 | 2018 | オマール、サイド | さいど・おまーる | 19 | マラヤ(現マレーシア)の王族。 南方特別留学生。興南寮(広島市大手町)で被爆。<資料年表:サイド・オマール>51.pdf (hiroshima-u.ac.jp) |
| 04 | 1965 | シュバイツァー、アルベルト・ | 90 | 1952年度のノーベル平和賞受賞。 | |
| 1962年6月30日、赤道直下のランバレネの病院で森瀧市郎氏の訪問を受ける。出典:http://www.ne.jp/asahi/nozaki/peace/data/gen_moritaki.html 森瀧宅で、当時のアルバムを前にこの時の話を聞く(宇吹) | |||||
| 04 | 2009 | 大山広司 | おおやま・ひろし | 91 | 元広島県議会議長、元全国都道府県議会議長会会長。『広島県議の半世紀 : 五人の知事に相まみえて : 大原博夫氏・永野巌雄氏・宮澤弘氏・竹下虎之助氏・藤田雄山氏』(大山広司・述、大平泰・記、溪水社、2005)1918生 |
| 05 | 1998 | 堀田善衛 | ほった・よしえ | 80 | 小説家。『広島県現代文学事典』(山根繁樹・記)<資料年表:堀田善衛> |
| 06 | 1998 | 黒沢明 | くろさわ・あきら | 88 | 映画監督。「生きものの記録」・「八月の狂詩曲」で核問題を取り上げる。 |
| 07 | 2020 | 岩佐幹三 | いわさ・みきそう | 91 | 修道中学在学中、被爆。1953年金沢大学教官となり同大名誉教授。1960年「石川県原爆被災者友の会」を設立。日本被団協事務局次長(2000年)・同会代表委員(2011年)<資料年表:岩佐幹三> |
| 08 | 1981 | 湯川秀樹 | ゆかわひでき | 74 | 1949年日本人として初のノーベル物理学賞受賞。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。「世界平和アピール七人委員会」メンバーとして平和運動にも尽力。[70ヒロシマ会議]<資料年表:湯川秀樹> |
| 10 | 2014 | 坂井義則 | さかい・よしのり | 69 | 1945年(昭和20年)8月6日広島原爆被爆直後に広島県三次市で誕生。父は被爆者。1964年東京オリンピックの開会式で聖火リレーの最終ランナー。 |
| 11 | 2019 | 粟屋憲太郎 | あわや・けんたろう | 75 | 日本近現代史研究者。著書に『東京裁判への道』など。1944年 6月11日生<資料年表:粟屋憲太郎> |
| 14 | 2010 | 大道あや | だいどう・あや | 101 | 絵本作家。本名:大道アヤコ。丸木スマ母、丸木位里は兄。19090411誕生。 |
| 15 | 1990 | 土門拳 | どもん・けん | 80 | 写真家。1958年に被爆者を写した写真集「ヒロシマ」を発表。『広島県現代文学事典』(20101220)<田中裕之・記><資料年表:土門拳> |
| 15 | 2010 | 秋信利彦 | あきのぶ・としひこ | 75 | 放送ジャーナリスト。中国放送(RCC)ディレクター・記者・常務取締役歴任。きのこ会。1935生。<資料年表:秋信利彦> |
| 18 | 2011 | 小野増平 | おの・ますへい | 64 | 中国新聞社入社(1970年4月)、ニューヨーク支局長(1990年8月)・東京支社長(2002年2月)・編集局長(2005年)、広島経済大学メディアビジネス学科教授 (2007年9月)を歴任。(広島大学文書館<解題:小野増平関係文書目録>) |
| 19 | 2002 | 好村冨士彦 | こうむら・ふじひこ | 71 | 広島文学資料保全の会代表。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)『考えるとは乗り越えることである―好村冨士彦遺稿・追悼集』2003<資料年表:好村冨士彦> |
| 20 | 1976 | 升川貴志栄 | ますかわ・きしえ | 78 | 原水爆禁止広島母の会会長。<資料年表:升川貴志栄> |
| 20 | 1981 | 竹下健児 | たけした・けんじ | 55 | 放射線物理学者。1945年学徒動員先の長崎で被爆。1965年広島大学原医研教授。 |
| 20 | 2009 | 大江志乃夫 | おおえ・しのぶ | 81 | 日本現代史家。 |
| 21 | 2011 | 辺見じゅん | へんみ・じゅん | 72 | 広島女学院創立120周年記念2006年度企業懇談会・講演会(会場:リーガロイヤルホテル)講演会:辺見じゅん「生きるための自分力」。並んで挨拶。宇吹:大和ブーム批判に取り組んでいることを伝えると自著『女たちの大和』(ハルキ文庫、2005年)を挙げて切り返えされる。 |
| 21 | 2017 | 森本順子 | もりもと・じゅんこ | 85 | オーストラリア在住の絵本作家。広島女学院高女在学中に被爆。 |
| 22 | 2010 | 橘祐典 | たちばな・ゆうてん | 77 | 本名:橘裕彦(ひろひこ)。映画監督。原爆記録映画「にんげんをかえせ」など。 |
| 23 | 1954 | 久保山愛吉 | くぼやま・あいきち | 40 | 第5福龍丸無線長。1954年3月1日にアメリカが南太平洋ビキニ環礁で実施した水爆実験で被曝。<資料年表:久保山愛吉> |
| 24 | 2015 | 福島菊次郎 | ふくしま・きくじろう | 94 | 写真家。<資料年表:福島菊次郎> |
| 27 | 1970 | 木野 普見雄 | きの・ふみお | 62 | 作曲家。1945年8月9日、長崎市役所に出勤中原爆に被爆。<資料年表:木野 普見雄> |
| 27 | 1983 | バーチェット、ウィルフレッド・ | 72 | ジャーナリスト。広島の被爆のもようを世界に最初に報道。<資料年表:バーチェット> | |
| 27 | 2019 | 布川弘 | ぬのかわ・ひろし | 61 | 広島大学大学院総合科学研究科教授。広島市被爆70年史編集研究会で同席。 |
| 28 | 1986 | 谷本清 | たにもと・きよし | 77 | 日本基督教団広島流川教会牧師。教会で面談。 |
| [50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆乙女の米での手術実現などに尽力。86アキバ・プロジェクト」で来日した米記者、被爆牧師死去の記事(60行余)を掲載。AP通信を通じて米の各メディアに配信。[69原爆被災資料広島研究会]。『広島県現代文学事典』<田中裕之・記>19090627生。<資料年表:谷本清> | |||||
| 28 | 1991 | 中本 たか子 | なかもと・ たかこ | 87 | 小説家。1927年上京、『女人芸術』誌に参加。1941年蔵原惟人と結婚。<資料年表:中本 たか子> |
| 28 | 1991 | 佐久間澄 | さくま・きよし | 80 | 広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆。お宅で面談、資料を閲覧。<資料年表:佐久間澄> |
| 28 | 2023 | 小河原正己 | おがはら・まさみ | 83 | 1940年山梨県生まれ。NHKプロデューサー。<資料年表:小河原正己> |
佐久間澄
| 佐久間澄
|
さくま・きよし | 19910928生19910928没 | 享年80 |
| 広島大学名誉教授。広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆し、原水禁運動に貢献。広島大学。お宅で面談、資料を閲覧 | |||
資料
| 死亡記事 | 1991年9月29日付、中国・朝日・読売・長崎・赤旗 |
| 追悼文 | 庄野直美(広島女学院大学名誉教授)「佐久間澄氏を悼む 核兵器廃絶に尽力」(掲載新聞不明) |
佐久間澄さんをしのぶ会
| 日時 | 1992年12月26日 | |
| 会場 | 広島国際会議場・ダリア(広島平和公園内) | |
| 資料 | 会への案内(呼びかけ人:) | |
| 式次第 | ||
| 遺族礼状 | ||
| 宇吹宛佐久間書簡(8月26日付) | ||
| 報道 | 不明紙、赤旗 | |
1946年8月~1965年3月(誕生から高校時代)
1946年8月~1965年3月(誕生から高校時代)
| 本籍 | 広島県呉市 | ||||
| 小学校 | 呉市立吉浦小学校 | ||||
| 中学校 | 呉市立吉浦中学校 | ||||
| 高等学校 | 修道高等学校 | ||||
森滝市郎
森滝市郎
| もりたき・いちろう | 19010428生 19940125没 |
享年92歳 | [51広島大学平和問題研究会会長理事(文)]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。広島県君田村生まれ。京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。[70ヒロシマ会議]。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。 |
庄野直美論
「庄野直美」論
| 庄野直美 | しょうの・なおみ | 1925年生
2012年2月18日没 |
Naomi SHONO |
庄野直美先生は、私のヒロシマ研究の先輩である。とりわけ、私が広島県史編さん室・広島大学に勤務した時期にはお世話になった。彼の足跡をたどりつつ、私にとっての「庄野直美」を振り返ってみた(文中で、名前を掲げる人々の敬称を省く非礼をお許しください)。
「人間銘木 藤居平一追想集」(同編集委員会編、藤居美枝子発行、1997年)(注1)に、庄野による藤居(日本原水爆被害者団体協議会初代事務局長)への追悼文が収録されている。これによると、彼が、藤居と知り合ったのは第1回原水爆禁止世界大会の大会運営事務局で、1956年初め以降は、藤居宅に泊まり込んで相談と激論を重ねた。さらに東京に発足した原水爆禁止日本協議会の会合にはしばしば一緒に出席したという。
私は、「原水爆被害白書 かくされた真実」(日本原水協専門委員会編、日本評論新社、1961年)を、学生時代から辞書的に利用していた。私には、「広島・長崎の原爆災害」(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編、岩波書店、1979年)が出版されるまでは、原爆被害を網羅的に概説した最も信頼できる本であった。この「あとがきに」によれば、佐久間澄・杉原芳夫とともに「原爆被害の実態」(第2章、第3章)の第一稿の執筆にあたっている(注2)。
「ヒロシマの証言 平和を考える」(広島平和文化図書刊行会編、日本評論社、1969年)は、広島市の平和推進事業の一環として設けられた編集委員会により発行された。本書の「刊行にあたって」に編集委員5人(注3)・執筆者7人(注4)の名前が記されている。これによれば、庄野だけが、編集者であり執筆者であった。一方、広島の平和教育が組織的・継続的に推進されるようになるのは1972年の広島平和教育研究所設置以降のことである。「平和教育研究 広島平和教育研究所・年報 Vol.1 1972」から、庄野が同研究所の国際交流部長に就任していることがわかる。庄野は、1967年の広島平和文化センターの設置から始まる広島市の平和行政や平和教育の初期から重要な役割を担っていたのである。
「原爆三十年―広島県の戦後史」(広島県編・刊、1967年)で、庄野は「原爆被災の概要」「原爆症」「被爆者の連帯」「平和研究」を執筆した。編集事務局員の私の仕事は、執筆要領に沿った彼の原稿調整を行うことであった。この作業の中で、私は、被爆二世の遺伝的影響の記述に疑問を感じてしまった。にわか勉強では、疑問が解けない。私はまず、県の関係課を訪ね見解を聞いた。その上で庄野を訪ね、原稿と県の見解が異なっていることを伝えた。すると庄野は、私に、遺伝的影響の研究概況と自らの見解を詳細に話してくれた。後日、私は、彼から県の見解に沿った修正原稿を受け取った。私が平和運動や行政から原稿の執筆を依頼された時や被爆二世問題に接するたびに思い出すできごとである。
被爆30年以降、広島・長崎両市(注5)と日本原水協が、国連を中心とした国際活動に乗り出した。両市は、1976年に「国連アピール資料編集専門委員会」(委員長・今堀誠二)を立ち上げる(注6)。『核兵器の廃絶と全面軍縮のために―国連事務総長への要請』(ヒロシマ・ナガサキ、1976年)がその成果である。このアピールの資料編「原爆被害の実態―広島・長崎」は、「物理的破壊」、「身体的破壊」、「社会的破壊」の三つの柱から構成されているが、庄野が前二者の原案を石田定(広島原爆病院内科武法)の協力で起草した。庄野は、同じ時期に日本原水協に事務局を置く団体(注7)が作成した「広島・長崎の原爆被害とその後遺-国連事務総長への報告」(1976年)にも作成のための専門家グループ(注8)の一人でもあった。なお、1977年には、こうした国内の動きに呼応するかのような海外の流れが、国内に流れ込み、この二つの流れのほか、多くの組織・団体を巻き込む大潮流となる。1977年の国連NGO被爆問題シンポジウム(注9)は、その事例である。「広島・長崎の原爆災害」(前掲)は、以上の成果を踏まえ、広島大学・長崎大学の研究者を中心にまとめられたものである。基礎原稿の執筆者が、「物理学関係」「医学生物学関係」「人文社会科学関係」の3分野で掲載されており、「物理学関係」に岡島俊三・岡林隆敏・竹下健児・橋詰雅とともに庄野の名前がある。発行(1979年)時、ある新聞は、原爆被害の集大成と報じた(注10)。
「原爆モニュメント碑文集」(原爆モニュメント研究グループ編・刊、1978年)では、庄野はスポンサーであった。私も一員であった研究会(広島県歴史教育者協議会のメンバーで構成)の横山英代表の指示で、庄野の勤務先の広島女学院大学に研究費を受け取りに行った(注11)。「核と平和―日本人の意識」(庄野直美・永井秀明・上野裕久編、法律文化社、1978年)は、1975年に発足した広島大学平和科学研究センターの研究プロジェクト「核意識構造の実態研究」による研究成果の一部である。このプロジェクトに参加した研究者は、全国13大学の27人であり、専攻分野は十数領域に及んでいる。私もその一員として、資料の収集と整理作業を中心となって進めていた永井秀明のお手伝いをした。この研究グループは、庄野を研究代表者として、1976年・77年に文部省科学研究費補助金の交付を受けている(注12)。
私が庄野の元で、あるいは共に働いたのは、この時期までである。庄野の足跡はこの後も続く。「ヒロシマ・ナガサキの証言 創刊号」(発行所:広島・長崎の証言の会、発行人:秋月辰一郎・庄野直美、1982年)や「広島の被爆建造物―被爆45周年調査報告書」(監修者:庄野直美、発行者:被爆建造物を考える会、発行所:朝日新聞広島支局、1990年)がその証である。また被爆40周年の1985年には「ヒロシマ・ナガサキ平和基金」を設立している。私は、彼からこれらへの参加を強く求められたが固辞した。理由は、依頼内容が事務局への関与であり、それは私の職場における立場では困難だったからである。
(うぶき・さとる=元広島女学院大教授、日本現代史・日本文化史)
(注1)私は、田中聰司(元中国新聞記者)とともにこの本の編集のお手伝いをした。
(注2)第一稿の執筆者:石井金一郎・伊東壮・大江志乃夫・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・杉原芳夫・田沼肇・山手茂・吉田嘉清。
(注3)広瀬ハマコ・今堀誠二・田淵実夫・森脇幸次・庄野直美。
(注4)森下弘・永田守男・文沢隆一・大牟田稔・平岡敬・石田明・庄野直美。庄野が執筆総括者を務めている。
(注5)今から見れば不思議に思えるが、被爆地の広島・長崎両市が連携して被爆問題に取り組み始めるのは、1975年(被爆30年)の平和文化都市連携の調印以降のことである。
(注6)専門委員会の広島側委員は、原田東岷(副委員長)・石田定・岡本直正・庄野・湯崎稔の5人、長崎側委員は秋月辰一郎(副委員長)など5人であった。
(注7)名称は「核兵器全面禁止国際協定締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団派遣中央実行委員会」
(注8)伊東壮・川崎昭一郎・草野信男・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・峠一夫。なお、広島・長崎両市に関わった専門家と比べて注目されるのは、庄野のみが、両者に名を連ねていることである。
(注9)庄野とNGOにまつわるエピソードを一つ。私が、NGO(Non-Governmental Organization=非政府組織)という言葉を初めて知るきっかけは県の関係者からの問い合わせである。私の勤務先の広島大学原爆放射能医学研究所でも話題になっていた。シンポジウムの主催者は、県知事や研究所長にあいさつと後援の依頼していた。広島で最も詳しかったのは庄野だったように覚えている。私は、庄野情報によりその内容をぼんやりと理解した。参加した人々が十分理解していたとは思えないが、シンポジウムは、当時存在していた原爆被害に関わる多く動きを糾合した。そして、この成功は、その後の被爆問題をめぐる雰囲気を大きく変化させた。私は、特定の組織に属さずに多くの仕事を成し遂げた庄野直美を「NOM人」(Non- Organization Movement=非組織運動の人)と呼ぶのがふさわしいと考えている。
(注10)この評価には、事務局の下働き的立場にいた私は違和感を抱いた。この本の広島部分の記述には、1977年には、「原爆と広島大学―『生死の火』学術篇」(広島大学原爆死没者慰霊行事委員会、1977年)の成果に依拠するところが多い。この本には庄野は関わっていない。
(注11)額は、10万円?20万円?30万円?いずれにしても、印刷費に満たないものであった。会では、会員の調査のための交通費や謄写版刷りの会報の費用にすることを申し合わせたように思う。
(注12)私は、うかつにも「原爆モニュメント碑文集」と「核と平和」は、まったく別の動きと思い込んでいた。しかし、今では、前者に関連して私が庄野から受け取った金は、この科研費の一部だったと推測している。
02月忌(一覧)
2月に亡くなった人々
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 01 | 1973 | 長岡省吾 | ながおか・しょうご | 71 | 広島大学理学部[学研調査]。被爆時、広島文理科大学嘱託として山口県に地質調査で出張中。翌日入市。被爆資料収集に努めた(初代広島原爆資料館長)。<別記> |
| 01 | 1997 | 河合幸尾 | かわい・ゆきお | 広島女子大学元教授。原爆被害者相談員の会代表。宇吹所蔵資料=「故・河合幸尾先生をしのぶ会」(19970405広島県民文化センター)<資料> | |
| 01 | 2003 | ネルソン、リチャード | ねるそん | 77 | 広島原爆投下機エノラ・ゲイの無線士(出典:『中国新聞』20030208) |
| 01 | 2008 | 小野文子 | おの・ふみこ | 広島大学原爆死没者慰霊行事委員会の委員。<別記> | |
| 02 | 2013 | 山岡ミチコ | やまおか・みちこ | 82 | 被爆証言者。<別記> |
| 04 | 1980 | 佐々木雄一郎 | ささき・ゆういちろう | 63 | 被爆記録写真を撮り続けた広島の写真家。[69原爆被災資料広島研究会]。<別記> |
| 04 | 1993 | 柿手春三 | かきて・しゅんぞう | 84 | 画家。「広島平和美術展」創立。代表幹事。<別記> |
| 05 | 1991 | ペドロ、アルぺ | ぺどろ | 被爆当時、長束修道院院長。出典:『中国新聞』20110428(増田咲子記者) | |
| 06 | 1989 | 甲斐英男 | かい・ひでお | 61 | 広島県史編さん室の上司。<資料年表:甲斐英男> |
| 06 | 2012 | 重松逸造 | しげまつ・いつぞう | 94 | 放射線影響研究所元理事長。<別記> |
| 06 | 2024 | 小沢征爾 | おざわ・せいじ | 88 | 指揮者。「ヒロシマ 指揮棒に思い 犠牲者へ心寄せ」(『中国新聞』20240210<西村文・記>) |
| 07 | 1971 | 尾形静子 | おがた・しずこ | 44 | 広島市広瀬国民学校で勤務中被爆。<別記> |
| 07 | 1987 | 小西ノブ子 | こにし・のぶこ | 80 | 反戦被爆者の会会長。『炎の巡礼者 ヒロシマの母 小西のぶ子遺稿集』(小西のぶ子遺稿集編集委員会、社会評論社、19880806) |
| 07 | 2016 | 若木重敏 | わかき・しげとし | 100 | 著書:『広島反転爆撃の証明』(文芸春秋、1989.7)、『原爆機反転す: ヒロシマは実験室だった (光文社文庫 わ 8-1) 』 |
| 08 | 1961 | 雑賀忠義 | さいか・ただよし | 67
|
広島高等学校教授の時被爆。英文学者。1957年広島大学を定年退官。広島平和公園にある原爆慰霊碑の碑文の作者。<別記> |
| 08 | 1980 | 平野義太郎 | ひらの・よしたろう | 82 | 日本平和委員会名誉会長。原水爆禁止日本協議会の結成に参加。[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]<別記> |
| 08 | 1997 | 小谷鶴次 | こたに・つるじ | 84
|
広島大学名誉教授。政経学部教授時代に世界連邦建設運動にかかわる。<別記> |
| 08 | 2015 | 栄久庵憲司 | えくあん・けんじ | 85 | 工業デザイナー。2005年5月18日広島女学院大学春季講演会で講演「道具と人の世界」。人文館303。超満員。3年宇吹ゼミの学生もかなり参加。<別記> |
| 09 | 1982 | 加藤新一 | かとう・しんいち | 81
|
広島市在住の被爆者。[52広島平和問題談話会](日本国際連合協会広島支部局長)。第1回国連軍縮特別総会に参加。<別記> |
| 09 | 1985 | 真下信一 | ました・しんいち | 78 | 哲学者[1982推進連絡会議呼びかけ人]<別記> |
| 09 | 1995 | フルブライト、ウィリアム・ | ふるぶらいと | 89 | 元米上院議員。広島・長崎への原爆投下に衝撃を受け、日本が復興し、国際社会に復帰するためには人材の育成が不可欠との信念から1946年に「フルブライト交流計画」を創設。<別記予定> |
| 09 | 1996 | 小笠原基生 | おがさわら・もとお | 69
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記録映画監督。「ヒロシマ・原爆の記録」、「ヒロシマ・母たちの祈り」などを監督。<別記> |
| 10 | 2010 | 森一久 | もり・かずひさ | 84 | 元日本原子力産業会議副会長、肺炎で3日死去、84歳。1926年広島生まれ。京都大学在学中に広島で家族とともに被爆。<別記> |
| 10 | 2012 | 宇根利枝 | うね・としえ | 93 | 「宇根利枝さんが死去 慰霊碑に献水 半世紀以上 93歳」(『中国新聞』20120212、田中美千子記)<別記> |
| 10 | 2018 | 松原美代子 | まつばら・みよこ | 85 | 12歳の時、建物疎開の作業中に爆心地から約1.5キロで被爆。<別記> |
| 10 | 2018 | 荒角理宰 | あらかど・りさい | 99 | 山陽ジャスコ株式会社元会長。体験記(私家版)あり(『中国新聞』1995年8月2日)。『被爆50周年を迎えて-私の原爆体験談 』(1995年08月01 日刊)<別記>別記 |
| 11 | 1985 | 村上忠敬 | むらかみ・ただよし | 77 | 広島大学高師教授。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。広島大学名誉教授。1970年4月~74年3月、広島女学院大学長。1968年~83年、核禁広島県民会議議長。在韓被爆者のための医師団派遣などに尽力。[70ヒロシマ会議]<別記> |
| 11 | 1990 | レイノルズ、バーバラ | れいのるず、ばーばら | 74
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米の平和運動家。1951年に来広し、18年間広島市に滞在、1962年に広島・長崎平和巡礼団を組織するなど平和運動に貢献。<別記> |
| 11 | 1992 | 殿敷侃 | とのしき・ただし | 50
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造形作家。3歳の時、広島で両親が被爆死。2日後に疎開先にから広島市に帰る。広島大学中退、1978年久保貞次郎の勧めで版画を始める。両親の遺品等を題材とした絵画、版画など、原爆の問題をとりあげた作品を制作。殿敷侃 :: 東文研アーカイブデータベース (tobunken.go.jp)。 |
| 12 | 2018 | 松尾雅彦 | まつお・まさひこ | 76 | 【訃報】相談役 松尾雅彦 逝去のお知らせ 逝去のお知らせ20180213.pdf (calbee.co.jp)『生きて・カルビー元社長、松尾雅彦さん(1941年~)』(『中国新聞』20100406~0428、15回連載)、山本洋子「評伝・松尾雅彦カルビー元社長」(『中国新聞』20180214) |
| 13 | 1970 | 近藤寿治 | こんどう・ひさじ | 被爆時、広島文理科大学学長(兼高師校長)として出張中。後日入市[広島大学] | |
| 13 | 2008 | 市川崑 | いちかわ ・こン | 92 | 映画監督。広島にいた母を含む家族8人全員が原爆被爆。『東京オリンピック』(1965年、東京オリンピック映画協会) 総監督。 |
| 14 | 1992 | 有末精三 | ありすえ・せいぞう | 96 | 元陸軍中将。終戦時参謀本部第2部長。大本営調査団の団長として広島入り。「原子爆弾広島へ落ちる」『終戦秘史・有末機関長の手記』(有末精三、芙蓉書房、71960815)pp26-38。 |
| 15 | 2001 | 小沼十寸穂 | こぬま | 94 | 広島大学名誉教授。広島の被爆者の精神的苦痛による後障害を実態調査。 |
| 16 | 1977 | 末川博 | すえかわ・ ひろし | 84 | 立命館大学学長・総長。1892年11月20日生。 |
| 16 | 1994 | 小佐々八郎 | こささ・はちろう | 88 | 日本被団協顧問。長崎原爆被災者協議会会長などを歴任。藤居平一氏の紹介で自宅を訪問。 |
| 16 | 2007 | 宮崎安男 | みやざき・やすお | 78 | 原水爆禁止日本国民会議の副議長。全電通中国地方本部委員長、1974年から広島県原水禁事務局長、代表委員経て、96年から04年まで原水禁国民会議副議長、の後も広島県原水禁顧問。広島平和会館・原爆被害者相談所の相談員。<別記> |
| 16 | 2021 | バーナード・ラウン | 99 | ハーバード大学公衆衛生所付属の心臓病研究所長。1980年創設の「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」共同会長。田城明「バーナード・ラウン氏を悼む 命を守る延長に反核運動」(『中国新聞』20210316) | |
| 17 | 2011 | 黒川万千代 | くろかわ・まちよ | 81 | 旧姓富永。広島女専1年生のとき校内で被爆。日本被団協事務局次長など歴任。<別記> |
| 18 | 1987 | 壬生照順 | みぶしょうじゅん | 79 | 宗教NGO[82推進連絡会議呼びかけ人]天台宗華厳院住職。全日本仏教会評議員、仏教徒平和の会幹事長、日本宗教者平和協議会理事長。<別記> |
| 18 | 2011 | 尾糠政美 | おぬか・まさみ | 18 | 陸軍船舶練習部写真班員(23歳)のとき被爆。<広島原爆被災撮影者の会> |
| 18 | 2012 | 庄野直美 | しょうの・なおみ | 86 | 九州帝国大学理学部1年のとき入市被爆。宇吹追悼文あり。<別記> |
| 19 | 2017 | 林京子 | はやし ・きょうこ | 86 | 作家。長崎県立長崎高等女学校3年の時、学徒動員中の三菱兵器工場で被爆。短編『祭りの場』(『群像』1975.6)で第18回群像新人文学賞、および第73回芥川賞。『広島県現代文学辞典』(岩崎清一郎・記)<別記> |
| 20 | 1979 | 金子弥吉 | かねこ・やきち | 78 | 山口県被団協初代会長。芸備銀行横の路上(爆心から500㍍内)で被爆。 |
| 20 | 1985 | 中野好夫 | なかの・よしお | 81 | 英文学者。原水禁運動などに尽力。[82推進連絡会議呼びかけ人]。学生時代の友人の父。 |
| 20 | 2001 | 今堀宏三 | いまほり・こうぞう | 広島文理科大学卒業後、1946年金沢高師教授、1949年金沢大学理学部助教授を経て、1960年に大阪大学教授に就任。その後、福井県立短期大学(現福井県立大学看護短期大学部)学長、鳴門教育大学学長、広島女子大学(現県立広島大学)学長、日本生物教育学会会長を歴任。 | |
| 20 | 2018 | 金子兜太 | かねこ・ とうた | 98 | 俳人。『たっぷり生きる』(金子 兜太 / 日野原 重明、毎日学芸出版 、2010) |
| 21 | 1961 | 下中弥三郎 | しもなか・やさぶろう | 82 | 世界連邦会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記> |
| 21 | 2021 | 関千枝子 | せき・ちえこ | 88 | 旧姓富永。ノンフィクション作家。著書に「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」。<資料年表:関千枝子> |
| 22 | 1968 | 名越史樹 | なごや・ふみき | 7 | 白血病で死亡。<別記> |
| 22 | 1998 | 荘司雅子 | しょうじ・まさこ | 88 | 台湾出身。奈良女子高等師範学校卒業後、1935年広島大学教育学科に入学。長田新の勧めなどでフレーベル研究。「資料年表:荘司雅子」 |
| 22 | 2019 | 加納実紀代 | かのう・ | 78 | 出典:高雄きくえ「加納実紀代さんを悼む 銃後の加害と被害問う」(『中国新聞』20190226)<別記> |
| 24 | 2011 | 藤平典 | とうへい・のり | 82 | 広島高等師範学校生(16歳)の時、学徒動員先の東洋工業で被爆。東京都原爆被害者団体協議会会長、日本原水爆被害者団体協議会代表委員など。 |
| 24 | 2021 | 児玉健次 | こだま・けんじ | 87 | 広島大学文学部在学中の1956年8月に開催された8・6学生平和会議(1956年8月5~7日)の実行委員長<別記> |
| 26 | 1955 | 今堀恭子 | いまほり・きょうこ | 43 | 被爆当時広島市女教諭。広島文理科大学の第1回女子卒業生。<別記> |
| 26 | 1968 | 浜井信三 | はまい・しんぞう | 62 | 初代公選広島市長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起)]。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記> |
| 26 | 2002 | 鎌田定夫 | かまた・さだお | 72 | 長崎総合科学大学教授、長崎平和研究所長。<別記予定> |
| 26 | 2003 | 藤原彰 | ふじわら・あきら | 80 | 歴史学者。宇吹は1980年5月1日から81年2月28日まで文部省内地研究員として一橋大学藤原彰研究室に在籍。<資料年表:藤原彰> |
| 26 | 2019 | 見崎進 | みさき・すすむ | 92 | 第五福竜丸元乗組員。 |
| 26 | 2019 | 松尾文夫 | まつお・ふみお | 85 | 元共同通信ワシントン支局長。著書「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」などで「相互献花外交」を訴え続けたことが評価され、2017年度日本記者クラブ賞受賞。 |
| 27 | 1987 | 亀井文夫 | かめい・ふみお | 78 | 映画監督。被爆者を描いた「生きていてよかった」(1956年)などを制作。<別記> |
| 27 | 2003 | 小田 丕昭 | おだ・ひしょう | 92 | 洋画家。出典:寺本泰輔「原爆抽象画秘めた鋭さ 小田 丕昭氏を悼む」『中国新聞』20030227 |
| 28 | 1986 | パルメ、オロフ | ぱるめ・おるふ | 59 | スウェーデン首相。暗殺。1981年に、「軍縮と安全保障に関する独立委員会」委員長として、来広し、原爆資料館などを見学。<別記> |
| 28 | 2001 | 武田寛 | たけだ・ひろし | 1935年福山市出身。広島大学工学部卒業後、民間企業勤務。1970年日本共産党広島県委員会勤務。1984年~97年、原水爆禁止広島県協議会事務局長。日本原水協担当常任理事。<『爆央と爆心 1945年8月6日ヒロシマで何が起きたのか』> | |
| 28 | 2015 | 松谷みよ子 | まつたに・みよこ | 89 | 児童文学作家。 |