公的機関・団体の原爆資料(非医学的資料)

公的機関・団体の原爆資料(非医学的資料)
原爆資料の所蔵機関と主な資料
1992年2月17日 広島大学原医研 宇吹 暁
これは、広島県総務部県史編さん室・広島県戦災史編集委員会・広島大学原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センタ-の業務の中で、存在が確認された資料の目録である。調査の期間は、約20年間にわたるので、所蔵場所に変更のある資料が多くあるものと推定される。
広島市内
広島大学原爆放射能医学研究所
志水清資料
原医研2代所長の旧蔵資料。
久保良敏資料
元広島大学教授の原爆被害者の心理学的影響に関する研究資料(調査表など)を含む。
原爆爆心地復元関係資料
地図・調査票・聞き取りテープなど。
原爆原爆医療審議会資料(部外秘)
原医研籍の審議会委員より寄贈を受けたもの。
米国陸軍病理学研究所返還資料(写真)
1973年5月返還。被爆直後の原爆被災写真3973件(医学関係も含む)。
原爆文献
原爆被災記録・体験記・手記を中心とする約9,000件(単行本6,000冊、逐次刊行物7,000冊)。所蔵目録を3冊発行。
新聞切抜き
1967年以降の原爆被爆関係記事を中心とした約12万件。切抜き対象は、1967~73年は主に中国新聞、1974年以降は、中国・朝日・毎日・読売・長崎の5紙。
平和会館資料(複製)
文書綴55件約3,900点、一点資料1 ,300件。
渡辺漸所蔵資料(複製)
原医研初代所長の論文別冊のほか「文部省研究報告集録」・「国連科学委員会報告」を含む約160点。
1981年12月借用。
陸軍軍医学校など『原子爆弾ニ依ル広島戦災医学的調査報告』
山科清より寄贈。
広島地方気象台
当番日誌(昭和20年)
放射線影響研究所
MEDICAL EFFECTS OF ATOMIC BOMBS
合同調査団の調査報告書。
広島県衛生部公衆衛生課
原爆手帳交付申請書綴(昭和32~45年)約8,700人分。
広島県立文書館
原爆関係資料(複製)
『広島県史原爆資料編』(1972年)、『原爆三十年』(1976年)、『広島県戦災史』(1988年)編さんのため収集したもの。広島県民生部援護課
傷病恩給(援護課)
紙箱29冊。「原爆死軍人」、「病床日誌」などの文書を含む。
動員学徒死没者名簿(昭和27年12月)
職域義勇隊死没者名簿
地域義勇隊死没者名簿
広島県警察本部刑事部捜査一課
原爆死亡者イロハ名簿(広島東警察署)
広島県企画部統計課
昭和35年分国勢調査(付広島県長崎県原爆被爆者実態調査翌年繰越分)
広島県議会図書室
広島県議会会議録
広島市衛生局原爆被害対策部
原爆手帳交付申請書綴(昭和32~46年)
約11万8,000点。
広島市立公文書館
都築正男資料
東京帝国大学医学部教授の旧蔵資料。資料の概要は『広島新史資料編Ⅰ都築資料』で知ることができる。
広島市の行政資料および合併町村役場文書
基本的資料は『広島新史』編集に利用された。
広島市秘書室国際交流課
諸外国書簡綴(広島平和協会)
平和宣言に対する諸外国からの返書
広島市平和記念資料館
呉鎮守府調査団資料(神津幸直旧蔵資料
原子爆弾による人的被害及び1か年後の状況調査綴(調査課)
被爆による建物被害状況等調査綴
中国軍管区軍医部衛生速報
広島市立中央図書館
原爆文献
『広島市立図書館蔵広島資料目録』(1979年)。
広島平和文化センタ-
原子爆弾に依る被害状況調査一件(調査課)
原爆関係資料提供依頼(昭和23年1月)についての回答
58の事業所・学校からの回答。
米国戦略爆撃調査団収集資料(複製)
罹災者名簿類
85冊34,703人分。
証言ビデオ
1985年度より毎年50人づつ収録。
原爆文献
『広島平和文化センタ-図書室蔵書目録』(1985年)。
広島原爆障害対策協議会
川田兼三郎文書
原爆投下当時広島県属警部補として県衛生課に勤務していた川田の作成した資料。
新聞切抜き
1950年から1985年の原爆被爆関係記事28,473件。
広島市立広島舟入高等学校
昭和20年8月6日罹災関係経過日誌
似島学園
学園日誌(昭和21年8月26日~)
修道高等学校
昭和20年8月原爆被災記録参考書類
安田女子高等学校
原爆死没者名簿
比治山女子高等学校
教務日誌(昭和20年)
広島県内
廿日市市
戦没者遺族名簿
廿日市市(宮内公民館)
罹災者収容名簿
大竹市
義勇隊学徒隊関係綴
大竹市(玖波支所)
戦災関係参考一件(「集団罹災者名簿」などを含む綴)
呉市
原爆被害者実態調査綴(教育委員会社会教育課 昭和30年)
呉市(郷原支所)
戦災一件(昭和20年)
呉市(警固屋支所
特設警備隊員名簿(昭和20年)
尾道市
原爆被爆者手帳交付台帳
尾道市(医師会
救援医療班編成表
尾道市(福祉事務所)
被爆手帳交付台帳
福山市(山野郷土資料館)
戦没者名簿(山野遺族会  昭和25年)
福山市(福山城)
原爆死没者関係書類綴(昭和27年)
三次市
被爆者調査書綴(被爆者であって手帳の未交付者の調査  昭和43年調査)
庄原市
被爆者健康手帳交付申請書交付台帳
府中市
被爆者健康手帳申請書綴(昭和40年5月~)
府中市(協和村)
原爆被害者実態(昭和30年)
安芸郡熊野町
被爆者健康手帳台帳
安芸郡江田島町
原爆戦死の軍人軍属並びに義勇隊学徒動員女子挺身隊等公務原爆犠牲者名簿
安芸郡坂町
罹災患者名簿
安芸郡倉橋町
原爆被害者台帳
安芸郡府中町
死亡診断書綴
佐伯郡吉和村
原爆手帳交付申請書控(昭和32年7月)
佐伯郡宮島町
被爆者手帳申請書類
佐伯郡佐伯町
広島原爆死者調査票綴
賀茂郡高屋町
罹災者受入控簿
賀茂郡高屋町(造賀支所)
罹災疎開一件
賀茂郡黒瀬町
終戦以降公報綴(下黒瀬村役場)
賀茂郡大和町
戦災者引揚者援護台帳
賀茂郡豊栄町
原爆被災者一件(昭和33年)
山県郡加計町
原爆被害者会文書綴(昭和35年)
山県郡加計町(安野村)
広島戦災者名簿(昭和20年)
山県郡加計町(筒賀村)
疎開復員引揚者・帰郷軍人健康診断票綴(昭和20年)
高田郡高宮町
原爆関係死亡調査
豊田郡豊浜村
戦災者給与金書類綴
豊田郡本郷町(上北方第一公民館)
戦災罹災者一件(昭和20年)
御調郡久井町
戦災者引揚者台帳(昭和21-22年)
御調郡向島町
戦災並外地引揚者名簿
世羅郡甲山町
被爆者健康手帳交付名簿
世羅郡世羅西町
被爆者健康手帳所持者名簿
神石郡三和町
原爆(昭和36-40年)
神石郡豊松村
戦時罹災一件(昭和20年
双三郡布野村
被爆者名簿
比婆郡口和町
被爆者手帳交付関係書類
比婆郡高野町
被爆者関係書類(昭和35-36年)
比婆郡西城町
原爆被爆者一件書類
比婆郡東城町
被爆手帳交付関係書類
国内
国立公文書館
広島市爆撃問題ニ対スル反響ニ就テ(第一報)
厚生省援護局調査課
引揚援護局中国駐在事務所旧蔵資料。「死亡者連名簿」など約260綴。
防衛庁防衛研究所
第二総軍隷下部隊主要職員表
中国軍管内部隊人員調査表(昭和20年10月15日)
第二総軍命令等(昭和20年8月9日~10月10日)
畑俊六「第二総軍終戦記」
佐伯文郎「戦災処理の概要」昭和30年3月
昭和20年8月有末調査団の広島特殊団調査史料
第二総軍・第二復員司令部復員報告綴
元船舶参謀篠原優「暁部隊始末記」昭和36年8月
長岡半太郎博士「原子核分裂を兵器に利用する批判」昭和19年12月
外務省外交資料館
米軍捕虜名簿
中国軍管区司令部が作成したもので、原爆に被爆した米軍捕虜の名前を含む。
国立国会図書館
GHQ/SCAP文書(マイクロフィッシュ)   原爆検閲関係の資料を含む。
米国戦略爆撃調査団報告書(マイクロフィルム)
経済安定本部戦争被害調査資料
経済安定本部企画部調査課「戦争被害調査資料集  」
原子爆弾被害調査基礎資料
広島・長崎に於ける原子爆弾に依る物的被害算定方法(原稿)
広島市原爆被害図
長崎市原爆被害図
広島・長崎に於ける原子爆弾に依る物的被害(原稿)
仁科記念文庫
仁科芳雄ノート-原子爆弾-
小川新
草津国民義勇隊資料
米国議会図書館

参考資料 戦災者名簿一覧
これは、市町村役場資料・厚生省資料・市町村史などにより、所在の確認できた戦災者に関する名簿類の一覧である。
名簿は、昭和二〇年当時の市町村別と軍関係(部隊別)に大別して収録した。
各名簿は、作成者・「名簿名」・作成時・(収録史誌)の順に記載した。作成者に、「広島一陸」・「広島二陸」とあるのは、それぞれ「広島第一陸軍病院」・「広島第二陸軍病院」の略である。
福山市
(福山市)厚生課「戦災ニ関スル綴」昭和二〇年八月八日(「福山市史下巻」)
(福山市)「死没者名簿」  (「続福山空襲の記録」)
安芸郡
戸坂村役場「戦災者調査票」昭和二二年九月現在
(戸坂村)「戦災死没者」          (「戸坂町誌」)
広島一陸戸坂分院「死亡者連名簿」
広島一陸戸坂分院「入院患者名簿」
広島一陸戸坂分院「遺骨交付名簿」
(温品村)「死亡診断書綴」
(府中町)「戦没者名簿」(「安芸府中町史 補遺編」)
(府中町)「町内会別原爆死没者氏名一覧表」(「安芸府中町史 補遺編」)
(府中町)「戦死者調」
(府中町)「未亡人調査表」
府中町役場「死亡診断書綴」昭和二〇年(「安芸府中町史通史編」)
瀬野村役場「戦時災害(水害)並疎開一件」昭和二〇年
(瀬野村)「復員並援護一件」昭和二一年起
瀬野村役場「復員軍人・戦災者・外地引揚者名簿綴」昭和二一年七月現在
(瀬野村)「遺族名簿」
(瀬野村)「陸軍・海軍復員者調査表」(「瀬野川町史」)
昭和村役場「火葬認可稟議簿」昭和二〇年
(坂村)「罹災患者名簿 収容所小屋浦」昭和二〇年八月
(坂村)「罹災患者名簿 収容所坂国民学校」昭和二〇年八月一二日調
(坂村)「患者名簿 横浜収容所」八月一一日収容
(坂村)「収容患者名簿 横浜ノ部」八月一一日
坂村役場「罹災者名簿」昭和二〇年
坂村役場「遺骨名簿」昭和二〇年一一月
坂村役場「戦災給与金関係綴」昭和二〇年一一月起
(坂村)「原爆関係戦没者調査票」昭和二七年一月調
坂町役場「原爆患者死亡者関係簿」昭和二七年七月
佐伯郡
河内村役場「復員者並引揚者名簿」昭和二二年
八幡村「罹災者収容名簿」
(観音村)村長「戦災患者名簿」昭和二〇年八月(「五日市町史(中巻)」)
廿日市町役場「罹災者名簿」
(廿日市町)「戦没軍人・傷痍軍人関係書類」昭和二〇年~
(廿日市)「戦没者遺族調査簿」  (「廿日市町史」)
平良村「死亡診断書綴」
原村「広島原爆調査一件」
宮内村援護係「戦災者給与金交付簿」((宮内村)「戦災一件」昭和二〇~所収)
宮内村「埋火葬送届綴」昭和二〇年
宮内村「復員者戦災者名簿」昭和二二年
宮内村「戦没者名簿」
宮内村銃後奉公会「戦死者名簿」昭和一九年作成
宮内村「戦没軍人・軍人・公務員名簿」昭和二六年
地御前村「罹災者名簿 広島市観音町」
地御前村「罹災者名簿」昭和二〇年八月一四日現在
(地御前村)「海外引揚者戦災者調査票」昭和二二年七月一八日現在
地御前村役場「戦時災害見舞金弔慰金支給原簿」昭和二〇年一〇月二三日
地御前村役場「戦災罹災者台帳」
(地御前村)「戦傷病死者・出征軍人・傷痍軍人遺家族名簿」
地御前村「見舞金受領書」
地御前村役場「広島市戦災死者遺骨交付不能者名簿」昭和二一年七月三一日調
地御前村役場「戦時災害第二十二条第二十三条申請者簿」昭和二〇年一〇月二三日
(地御前村)「戦災者引揚者軍関係者等ニ関スル調査票」
(地御前村役場「援護関係書類」昭和二一年中所収)
(地御前村)「傷痍軍人名簿・軍人遺族名簿・未帰還者軍人調査表」
(地御前村)「戦災者収容名簿」
(大竹市)「戦没者遺族台帳」(「大竹市史史料編第三巻」)
(大竹警察署)「大竹警察署管内収容患者名簿 玖波国民学校収容患者の分」
玖波町役場「戦没者氏名簿」昭和二〇年八月
玖波町役場「広島市戦災ニ因ル死亡者」昭和二〇年八月六日
玖波町役場「義勇隊戦死者追弔会一件」昭和二〇年一〇月三日
大竹警察署「集団罹災者名簿 小方国民学校」八月一一日受入
大竹警察署「集団罹災者名簿 大竹国民学校」八月一一日受入
大竹警察署「集団罹災者名簿 大竹町ノ部」八月一二日受入
大竹警察署「集団罹災者名簿 木野村ノ部」八月一一日受入
安佐郡
(祇園町)「戦禍にたおれた人」(「祇園町誌」)
川内村役場「変死者検視調書」昭和二〇年八月
川内村役場「戦災死者名簿」昭和二〇年八月六日
広島県地域国民義勇隊川内村義勇戦闘隊「国民義勇隊員として出動中原子爆弾により負傷し又は疾病にかかりこれにより死亡した者の調」
八木村・緑井役場「変死者検視調書」昭和二〇年度(「佐東町史」)
(戸山村)「戦災負傷者名簿」(「沼田住民手記」)
佐伯郡久地村「復員者名簿」
(久地村)世話部係「復員者人名簿」昭和二一年三月調
広島一陸久地病棟「死亡者連名簿」
(鈴張村)「陸軍海軍復員者調査票」昭和一〇~二〇年
鈴張村「戦死者戦病者名簿」
鈴張村役場「引揚者調」
広島一陸鈴張病棟「死亡者連名簿」
広島一陸鈴張病棟「遺骨引渡簿」
安佐郡飯室村「復員軍人軍属名簿」昭和二一年一月末現在調(「安佐町史」)
広島一陸飯室分院「死亡者連名簿」
広島一陸飯室分院「入院患者名簿」
広島一陸飯室分院「遺骨交付名簿」
広島一陸飯室分院「遺骨引渡簿」
広島一陸飯室分院「遺留品引渡簿」
広島一陸亀山病棟「死亡者連名簿」
広島一陸亀山分院「遺骨交付名簿」
広島一陸亀山分院「遺骨受領証綴」
広島一陸亀山分院「遺物品受領証綴」
可部町大林「戦没者名簿」昭和三〇年四月一五日
佐伯郡大林村役場「疎開者戦災者名簿」昭和二〇年一二月一四日現在
安佐郡大林村役場「戦災者名簿」昭和二〇年八月起
大林村役場「罹災者名簿」昭和二〇年八月六日
(大林村)「戦災者名簿」昭和二一年度
広島一陸大林分病棟「死亡者連名簿」
広島一陸大林分院「死亡証書控綴」
広島一陸大林分院「入院患者名簿」
広島一陸大林分院「遺骨交付名簿」
広島一陸大林分院「遺留品授受簿」
広島一陸三入病棟「死亡者連名簿」
広島一陸三入病棟「入院患者名簿」
(可部町)「過去帳記載の原爆死没者数」(「被爆四十年追悼の記」)
広島一陸可部分院「死亡者連名簿」
広島一陸可部分院「戦災患者名簿」
狩小川村「罹災者受入状況報告綴」(「高陽町史」)
山県郡
(加計町)「戦死病没公報綴」
加計町役場「戦死戦没者名簿」
加計町役場「戦災者引揚者名簿台帳」
加計町役場「戦災者引揚民名簿及配給台帳 新転入の部」
(加計町)「戦争犠牲者名簿」(「加計町史史料下巻」)
殿賀村役場「傷痍軍人台帳」
殿賀国保組合「疎開復員引揚者名簿・帰郷軍人健康診断票綴」昭和二〇年
(「加計町史下巻」)
広島一陸筒賀分院「死亡者連名簿」
広島一陸筒賀分院「入院患者名簿」
広島一陸戸河内分院「入院患者名簿」
(八幡村)「従軍者名簿」(「八幡村史」)
(雄鹿原村)「戦争犠牲者連名簿」(「雄鹿原村史再版」)
(中野村)「日支事変並に大東亜戦争従軍者」(「中野村史」)
(大朝町)「戦没者名簿」        (「大朝町史下巻」)
(安野村)「招魂祭祭神並ニ遺族名簿」昭和一七年四月七日
(安野村「招魂祭一件」昭和九年所収)
安野村役場「支那事変戦病没傷痍疾病者一件」自昭和一二年度
安野村「戦没者遺族台帳」昭和一四年
(安野村)「戦災見舞金等要支給報告(昭和二十年八月分)」
(安野村「戦時災害保護一件」昭和二〇年)
安野村「広島戦災者名簿 昭和二十年八月六日戦災」
山県郡安野村役場「未帰還者名簿」
恩賜財団同胞援護会安野村分会「給与台帳」昭和二一年
高田郡
(刈田村)「刈田地区大東亜戦争従軍者」(「八千代町郷土誌」)
(刈田村)「戦没者氏名」(「平和の礎」)
(根野村)「大東亜戦争従軍者」(「八千代町郷土誌」)
(根野村)「戦没者氏名」(「平和の礎」)
(横田村・本村・北村・生桑村)「軍人軍属殉国者一覧」(「美土里の歴史と伝説」)
(川根村・来原村・船佐村)「戦没者名簿」(「高宮町史」)
(甲立町・小田村)「戦没者名簿」(「甲田町誌」)
広島二陸向原分院「死亡者連名簿」
広島二陸向原分院「入院患者名簿」
広島二陸向原分院「入院患者イロハ名簿」
広島二陸三田分院「死亡者連名簿」
賀茂郡
(原村)「(戦没者名簿)」(「原村史上巻」)
下黒瀬村役場「公報綴」終戦以降
下黒瀬村「各種名簿綴」
(下黒瀬村)大倫遺家族会「各戦役戦病死者名簿」
郷原村役場「戦災罹災者名簿」昭和二〇年一一月調
郷原村役場「疎開者名簿」
更正会郷原分会「海外引揚者名簿」昭和二三年四月
竹原町役場兵時課「皇后陛下御下賜品・戦死病没者調・軍人遺族記章授与願報告一件綴」 昭和一七年一月~
(西高屋村)「罹災者・引揚者名簿」
豊田郡
(豊栄村)「原爆死没者(百六名)」(「あ〃豊栄百六の叫び」)
(椹梨村・豊田村・大草村)「戦病没者」(「大和町誌」)
(椹梨村・豊田村・大草村)「応召者」(「大和町誌」)
(豊浜村)帝国在郷軍人会分会「戦病没者並遺族名簿」
豊浜村役場「傷痍軍人台帳」
豊浜村役場「戦災者給与金書類綴」昭和二〇年八月起
豊浜村役場「戦災者名簿」昭和二〇年一〇月一日調
豊浜村役場「復員者名簿」
(豊浜村)「戦没者名簿」
(豊浜村)「昭和二十年十月一日村葬執行英霊一覧表」
(豊浜村)「昭和二十年十二月二十七日村葬執行英霊一覧表」
(豊浜村役場「戦没者関係書類綴」昭和二一年所収)
(豊浜村)「昭和二十一年十月八日村葬執行英霊一覧表」
(豊浜村役場「戦死者関係書類綴」昭和二一年所収)
御調郡
御調郡久井町役場「応召軍人台帳・復員台帳 元羽和泉関係」
(久井村)援護係「復員台帳」昭和二一年
久井町役場「戦没者調査票」
久井町「戦没者並に遺族名簿」昭和三一年五月
向島西村役場「戦災者並外地引揚者一件」昭和二一年
向島西村役場「戦災者並外地引揚者名簿」
(向島西村)厚生係「海軍関係戦没者名簿」
世羅郡
(上山村)「戦没者」(「三和町誌」)
神田村役場「戦災者・引揚者援護台帳 萩原・福田之部」
神田村役場「戦災者・引揚者援護台帳 下徳良・蔵宗之部」
(神田村)「戦病没者」(「大和町誌」)
(神田村)「応召者」(「大和町誌」)
「岡竹隊・大原隊隊員名簿」(「世羅部隊誌」)
沼隈郡
(瀬戸村)「支那事変功績者調査書」(「福山市史下巻」)
沼隈郡神村長「疎開者調査ノ件報告」(福山税務署長宛)昭和二一年一月二〇日
(神村役場「戦時災害及罹災者関係綴」昭和二〇年四月所収)
(神村)「戦災者引揚者世帯票」 (「福山市史下巻」)
(本郷村)「軍人援護恩賞関係綴」(「福山市史下巻」)
(今津町)「支那事変功績者調査書」(「福山市史下巻」)
(今津町)「兵事綴」(「福山市史下巻」)
(松永町)「戦死者」(「松永町誌」)
(鞆町)「戦死者名簿」(「福山市史下巻」)
芦品郡
(藤尾村・常金丸村・戸手村・新市村・網引村)「明治以降戦没者名簿」(「新市町誌」)
「芦品部隊戦没者名簿」(「閃光は消えず-被爆した芦品部隊と警防団」)
神石郡
「戦病没者」(「神石郡誌続編」)
豊松村銃後奉公会「軍人援護台帳」昭和一五年以降
豊松村役場「死没者関係書綴」昭和一九年~昭和二〇年
豊松村役場「戦災者弔慰見舞金交付調書」
(豊松村役場「戦時罹災一件」昭和二〇年四月所収)
(豊松村役場)「罹災者及引揚者調査書」
(豊松村役場「戦時罹災一件」昭和二〇年四月所収)
豊松村役場「死没者関係書綴」昭和二一年~
豊松村役場「復員軍人・軍属調査書綴」
豊松村役場「戦没者遺族名簿」昭和二七年一〇月一〇日
(豊松村役場「戦没軍人軍属一件綴」昭和二七年度所収)
豊松村役場「戦死病没者・戦争犠牲者名簿」昭和二八年四月二〇日
(豊松村役場「戦没軍人軍属一件綴」昭和二七年度所収)
甲奴郡
(上川村)「戦没者芳名」(「甲奴町郷土誌(第二集上川地区編)」)
(甲奴村)「各戦役戦没者」(「甲奴町郷土誌(第一集甲奴地区編)」)
双三郡
(板木村)「戦没者」(「三和町誌」)
広島二陸三次分院「死亡者連名簿」
広島二陸三次分院「在室患者イロハ名簿」
広島二陸三次分院「病症増進通報録」
広島二陸三次分院「遺骨授受証綴」
「三次分院の犠牲者名簿」(「鎮魂-原爆投下直後の三次における救援活動」)
(三良坂村)「戦没者名簿」(「三良坂町誌」)
「三良坂町原爆死没者名簿」(「百日紅」)
比婆郡
「比婆部隊被爆者(死亡)名簿」(「庄原原爆の記録 第二集」)
広島一陸庄原分院「死亡者連名簿」
広島一陸庄原分院「収容患者名簿」
広島一陸庄原分院「遺骨交付名簿」
広島一陸庄原分院「遺骨授受簿」
広島一陸庄原分院「遺骨受領証綴」
広島一陸庄原分院「患者遺留品授受簿」
広島一陸庄原分院「遺骨遺留品引渡簿」
広島一陸庄原分院「遺留品受領証」
広島二陸東城分院「死亡者連名簿」
広島二陸東城分院「在室患者名簿イロハ」
広島一陸山之内病棟「死亡者連名簿」
広島一陸山之内病棟「収容患者名簿」
広島一陸山之内病棟「入院患者名簿」
広島一陸山之内病棟「遺骨交付名簿」
広島一陸山之内病棟「遺骨授受簿」
広島一陸山之内病棟「患者遺留品授受簿」
広島一陸山之内病棟「遺骨遺留品引渡簿」
広島一陸山之内病棟「遺留品受領証」
「戦没者芳名録 於広島第一陸軍病院庄原分院山内西病棟」(「庄原原爆の記録第二集」)
軍関係(厚生省援護局資料)
第二総軍司令部「戦没者名簿」
第二総軍司令部「死没者ニ関スル綴」
第二総軍司令部「死亡診断書調整資料」
第二総軍司令部「昭和二十年八月六日遺骨遺留品名簿」
第二総軍「人事(恩典)に関する綴」
(第二総軍司令部)「昭和二十年八月六日における第二総軍司令部防衛通信班人名表」
中国軍管区司令部「原子爆弾関係死亡者連名簿」
留守業務班「慰霊祭前ニ於ケル死没者連名簿」
中軍司「慰霊祭後ニ於ケル死没者連名簿」
中国軍管区司令部留守業務班「連隊区別死亡者連名簿」
中国軍管区司令部「死亡者連名簿」
中国軍管区司令部「死亡證言者死亡證書綴」
軍管区司令部「死亡證書」
中国軍管区司令部「功績列次名簿」
留守業務班「死没佐尉官功績ニ関スル綴」
留守業務班「死没准士官下士官功績ニ関スル綴」
留守業務班「死没兵功績ニ関スル綴」
中国軍管区司令部「功績上申者名簿」
中国軍管区司令部「遺骨交付名簿」
中国軍管区司令部「残留遺骨・遺留品・公報未送・弔慰金未払・未済者処理状況」
中国軍管区司令部「遺留品受渡簿」
中国軍管区司令部留守班「中国軍管区各部生死不明者連名簿」
留守業務班「死没者関係雑書綴」
留守業務班「死没者状況報告書」
留守班「死没者恩給証拠書類調整資料」
中国第一〇四部隊「死没者連名簿」
中国第一〇四部隊「戦没者連名簿」
中国第一〇四部隊「戦没者イロハ名簿」
中国軍管区歩兵第一補充隊「戦死(傷)者名簿」
中国第一〇四部隊「健在者・入院者・戦死者・生死不明者名簿綴」
中国軍管区歩兵第一補充隊「佐尉官死没者功績名簿」
中国軍管区歩兵第一補充隊「殊勲者・兵功績列次名簿」
中国軍管区歩兵第一補充隊「功績名簿(甲)」
中国軍管区歩兵第一補充隊「准士官・下士官死没者功績名簿」
中国一〇四・一一一部隊関係「死亡證書」
中国百十部隊「広島連隊区管内生死不明者名簿」
中国一一〇部隊「行方不明者連名簿」
中国第一一一部隊「広島連隊区戦没者名簿」
中国第一一一部隊「連隊区不明戦没者名簿」
広島連隊区司令部中国第一一一部隊「死亡者イロハ名簿」
中国軍管区砲兵補充隊「将校死没者功績上申名簿」
中国一一一部隊「遺留品名簿」
中国第一一四部隊「死没者連名簿」
中国一一四部隊「死没者功績上申スベキ名簿」
中国第一二一部隊「死没者連名簿」
中国第一二一部隊「戦(傷)死者連名簿」
中国軍管区通信補充隊(中国第一二一部隊)「死没者名簿」
中国第一二一部隊「死亡證書」
中国第一三九部隊「死亡者連名簿」
中国第一三九部隊(旧西部十部隊)「戦災死没者及生死不明者名簿」
中国第一三九部隊「戦死者連名簿」
中国第一三九部隊「負傷者連名簿」
中国第一三九部隊「生死不明者連名簿」
中国第四七部隊「原爆戦災者名簿」
中国第二七八四部隊第二百五特設警備工兵隊「死没者連名簿」
中国軍管区第二百五特設警備工兵隊「死没佐尉官功績名簿」
第二〇五特設警備工兵隊(中国第二七八四部隊)「生死不明者連名簿」
中国第七一六一部隊特設警備第二五一大隊「死没者連名簿」
特設警備第二五一大隊「戦災死亡者連名簿」
特設警備第二五一大隊「戦死者(原籍不明分)功績名簿」
中国第三二〇三七部隊(第一特警)「死没者連名簿」
中国第三二〇三八部隊(広島第二特設警備隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇五二部隊(賀東部隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇五二部隊「患者人名簿」
中国第三二〇五三部隊(豊北部隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇五七部隊(世羅部隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇五七部隊「原爆戦災者名簿」
中国第三二〇五九部隊(芦品部隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇六〇部隊(甲神部隊)「死没者連名簿」
中国第三二〇六二部隊(比婆部隊)「戦災死亡者連名簿」
広島第一陸軍病院「死没者名簿」
広島第一陸軍病院「死没者連名簿」
広島一陸江波分院「死亡者連名簿」
広島第一陸軍病院「死亡證書綴」
第一陸軍病院「戦死判任分官・同等待遇者事実・死亡證明書」
第一陸軍病院「事実・死亡證明書綴」
第一陸軍病院「軍属関係死亡證書」
広島第一陸軍病院「死亡證書綴(教育隊関係)」
一陸関係「入院患者名簿」
広島第一陸軍病院「昭和二十年八月六日現在(推定)在院患者名簿」
広島陸軍病院「在院患者名簿」
広島第一陸軍病院本院「在室患者名簿」
広島第一陸軍病院「戦死兵功績列次名簿」
広島第一陸軍病院「戦死准士官・下士官功績列次名簿」
広島第一陸軍病院「戦死佐尉官功績名簿」
広島第一陸軍病院「戦死兵功績名簿」
広島第一陸軍病院「功績名簿」
広島第一陸軍病院「戦死庸人・工員功績名簿」
広島第一陸軍病院「戦死庸人・工員功績列次名簿」
広島第一陸軍病院「戦死判任文官同等待遇功績名簿」
広一陸「功績上申者名簿」
医事科「入院患者・死没者功績資料綴」
広島第一陸軍病院「遺骨受領簿」
広島第一陸軍病院「遺骨授受簿」
広島第一陸軍病院「遺留品授受證綴」
広島第一陸軍病院「教育隊遺留品受領証綴」
一陸教育隊「遺留品送付簿」
広島第一陸軍病院「入院患者職員遺骨名簿」
一陸「遺留品授受證早見表」
広島第一陸軍病院「死没者(生死不明者)書類ニ関スル綴」(広一陸病)医事科「死没者生死不明者ニ関スル書類綴」
一陸「二条報告」
一陸医事科「死没者に関する照会綴」
一陸「死没者名簿調整原稿」
一陸「軍属身分証明書」
広島一陸江波分院「死亡者連名簿」
陸病江波分院「遺骨授受簿」
江波分院「遺骨未交付者名簿」
江波分院「遺骨交付名簿」
江波分院「死体及遺物引渡簿」
(宇品病院)患者係「昭和二十一年地方世話部移管遺骨ニ関スル綴」
広島第一陸軍病院宇品分院「入院患者名簿」
広島第一陸軍病院宇品分院「イロハ患者名簿」
宇品分院「遺骨名簿」
宇品分院「遺骨交付名簿」
広島第一陸軍病院宇品分院「遺留品授受證綴」
赤十字関係分「死亡診断書及証明書綴」
日赤病院「入院患者名簿」
国立広島病院医事科「昭和二十年八月六日以降広島第二陸軍病院勤務原子爆弾ニ依ル死亡者連名簿」
広島第二陸軍病院本院「昭和二十年八月室別(死亡者名簿)職員表」
広島第二陸軍病院「二陸勤務者死亡調査表」
広島第二陸軍病院「昭和二十年八月以降病院職員死亡證書綴」広島第二陸軍病院「昭和二十年八月以降入院患者死亡證書」
広島第二陸軍病院「死亡証書綴(教育隊関係)」
第二陸軍病院「在院患者名簿」
広島第二陸軍病院本部「八月六日本部ニテ収容患者名簿」
広島第二陸軍病院「部隊別患者名簿」
広島第二陸軍病院「部隊別収容患者名簿」
広島第二陸病「遺骨申送書」
広二陸「昭和二十年八月以降空襲ニ於ケル職員・患者被害状況」
赤穂師団司令部「昭和二十年十一月発来翰書類綴」
赤穂第二八三二九部隊「人事ニ関スル綴」
赤穂第二八三三〇部隊「死没者連名簿」
赤穂第二八三三〇部隊「遺骨連名簿」
赤穂第二八三三〇部隊「遺留品名簿」
赤穂第二八三三六部隊「戦死者名簿」
赤穂第二八三三六部隊「負傷者名簿」
赤穂第二八三三六部隊「生死不明者名簿」
赤穂第二八三三六部隊「負傷者名簿」
第二三一師団関係「戦死兵功績列次名簿」
独立混成第百二十四旅団通信隊「戦死兵功績列次名簿」
中部第二八三七四部隊「イロハ名簿」
(広島兵器補給廠)「昭和二十年八月六日現在広島兵器補給廠勤務中隊第一中隊隊員名簿」
船通補「原爆死亡者ニ関スル綴」
船舶通信隊補充隊「死没者名簿」
船舶通信隊補充隊「昭和二十年八月六日在隊者人名録」
世話課「司令部関係処理未済者一覧表綴」
厚生省中部復員連絡局広島支部「昭和二十二年十二月原爆関係死亡者認定票綴」
広島県民生労働部世話課「原爆関係未請求者名簿」

広島県史編さん室の原爆資料調査

広島県史編さん室の原爆資料調査
出典:「広島県史 原爆資料編」(1972年3月31日)
資料調査概要
原爆被災資料という概念は、原爆の何を明らかにするかあるいは原爆をどのように考えるかで異なった意味内容をもち、極めてあいまいであるが、広島県史編さん近代・現代史部会では、オリジナルな文献資料(その時点で作成されたもの、時間の経過により思想的ろ過のされてないもの)に焦点づけて、調査を行うことにした。
調査の対象は、次の五つに大別することができる。
1官公庁・市町村・学校
2調査団関係者
3各種団体
4新聞資料
5被爆者
1官公庁・市町村・学校
広島県は、原爆により、近代・現代史の基本資料ともいうべき県庁文書の大半を失った。その欠を補うため、県史編さん資料調査の過程で、中央官公庁文書と県下の市町村役場の両面から、広般な所在調査を行なってきた。原爆資料について、このような網羅的な調査はこれまでほとんどなされておらず、多数の資料の所在を新たに確認することができた。
中央官庁は、外務省・自治省・防衛庁・厚生省について調査を行なった。外務省は戦後の文書が非公開であり、自治省・防衛庁は、戦前の内務省・陸海軍の文書をほとんど残していなかった。厚生省は、廃止になった引揚援護局広島支部のばく大な文書群を引き継いでいた。
広島県・市については、関係各課、書庫の調査を行なった。県・市ともに、昭和二十年代の文書のほとんどを廃棄処分にしていた。
県予防課・市原爆被爆者対策課は,被爆者が提出した原爆手帳交付申請書を保管しているが(県は広島市外在住被爆者分約八万七千点、市は市内在住被爆者分約十一万八千点)、これには、被災の状況を証明できる資料のある場合には、添付することになっているので、このうち広島県予防課所蔵分について調査を行ない、約三四○点の罹災証明書・診断書など、当時の資料の所在を確認した。
市町村役場文書は、県史編さんの一般的所在調査の過程で軍事関係資料の所在の多くが確認されていたが、原爆資料に焦点づけて徹底を期すため、改めて、県下の全市町村に原爆資料の有無について調査を依頼した。このうち半数近い四七市町村から報告を得ることができ、重要と思われるものについては現地に赴いて、所在と内容を確認した。また、広島市周辺の安芸,安佐・佐伯の三都は、特に重視し、原則として現地調査を行なった。旧坂村(安芸郡)の罹災者収容名簿類、旧大林村・八木村・川内村(安佐郡)の罹災者名簿、変死者検視調書、旧宮内村(佐伯郡)の日誌・罹災者収容諸件などは、この過程で、収集されたものである。
広島市内・周辺町村の学校、寺院が収容所となった場合が多いことは、周知の事実であるが、このうち学校については広島市内と、安芸・安佐・佐伯・高田の四郡の小学校、旧制中・女学校の後身校に、原爆被災資料の所在・救護活動を行なった事実・学校が収容所となった事実の有無の報告を文書で依頼し、必要に応じて現地に赴いた。この中で、原爆被災の記述のある数点の学校日誌を発掘したのをはじめ、次の学校が収容所となったという報告をえた。
県立廿日市高等学校、県立三次高等学校、比治山女子高等学校、鈴峯女子高等学校、
広島市立小河内小学校、同亀山小学校、同大林小学校、同可部小学校、
安芸町立温品小学校、海田町立海田小学校、同東海田小学校、坂町立板小学校、同横浜小学校、同小屋浦小学校(以上安芸郡)、
安古市町立新知小学校、同安小学校、佐東町立川内小学校、同八木小学校、高場町立狩小川小学校、同深川小学校(以上安佐郡)、
吉田町立吉日小学校、甲田町立甲立小学校、向原町立向原小学校、白木町立井原小学校、同高南小学校(以上高田郡)<学校名は現在のもの>
2調査団関係者
被災直後の広島に入った調査団には、呉鎮守府・陸軍々医学校・海軍々医学校・東京帝国大学・京都帝国大学・大阪帝国大学、理化学研究所などがある。また昭和二十年九月に発足した文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会には、わが国自然科学系の学界の総力が結集され、千数百名の研究者が、広島・長崎において調査を行なっている。このうち、軍調査団、および、原爆調査の中心的存在であった理研、東大、京大、阪大に焦点づけて調査を行なった。直接、お会いして当時の状況を聴いたり、書簡、電話などで、資料の有無を確認した調査団関係者の方々は次のとおりである。
陸軍 新妻清一 大橋成一 山科清
海軍 福井信立 神津幸直
理化学研究所 故仁科秀雄(仁科記念文庫) 田島英三 玉木英彦 中山弘美 山崎文男
東大 故都築正男(都築正和)
京大 荒勝文策 木村毅一 清水栄 菊池武彦 脇版行一 清水三郎 故杉山繁輝 故天野重安
阪大 浅田常三郎 尾崎誠之助
九大 篠原健一 石川数雄
日本映画社 加納竜一 相原秀次
3各種団体
被爆体験をもつ団体・被爆者と常に接している団体・被爆体験に基づいた平和運動にたずさわっている団体から、原爆被災の実相・その後の歩み・現在直面している課題について学ぶように努めた。訪問した主な団体は次のとおりである。
広島地方気象台 広島地方貯金局 国鉄中国支社 広島市平和記念資料館 広島市平和文化センター 広鳥市原爆戦災誌編さん室 広島大学原爆放射能医学研究所 広島原爆病院 広島原爆障害対策協議会 広島県医師会 広島市医師会 ABCC 広島逓信病院 原爆資料保存会 原爆被災資料広島研究会 広島ペンクラブ 学問と平和を守る大学人の会 広島折鶴の会 広島子供を守る会 同青年部 広島市立本川小学校 広島県被爆教師の会 広島県原爆被害者団体協議会 原水爆禁止日本協議会 同広島県協議会 小沢綾子 黒田秀俊 村上操 泉谷甫
4新聞資料
原爆の与えた社会的影響を概略的に把握するため、新聞資料を収集した。特に被災直後(昭和二十年内)の報道・調査団の行動とその成果の新聞発表・広島市内の平和への歩みに注目し、これらを年表に活用した。このために関覧した新聞名・所蔵機関は次のとおりである。
新聞名 中国新聞(昭和二十年~昭和四五年)、朝日新聞・毎日新聞・読売報知新聞(昭和二十年八月~十二月)
所蔵機関 広島市立浅野図書館・呉市立図書館・三原市立図書館・国立国会図書館・東京大学新聞研究所・朝日新聞大阪本社・中国新聞社
平和運動については、前記の新聞では十分把握できない面もあるので、各団体の機関紙・誌を参照した。
大原社会問題研究所(新文化・民主日本・ゼンセン)
広島県地域婦人団体連絡協議会(県婦連・県婦協)
今堀誠二(平和の斗士・民族の星・広島生活新聞・その他被爆者団体・平和団体の機関誌など)
外国の新聞は、次の所蔵者のもののマイクロフィルムを、手に入れることができた。
米国議会図書館 大英博物館新聞ライブラリー シカゴ大学ユニバーシティ・マイクロフィルム社 ベイ・マイクロフィルム社 ニューヨークタイムズ社 国立国会図書館財団法人東洋文庫 大下応(昭和二十年当時シカゴ在住)
5被爆者
被爆者や広島被爆直後入市者が昭和二十年前後に書いた記録を探すため、前述の広島県予防課所蔵の被爆者手帳交付申請書の調査、および、体験記を発表した被爆者など四百人余を対象としたアンケート調査をおこなった。アンケートに対して八十七名の方々から回答をいただき、貴重な示唆・参考資料の提供を受けた。
[以下略]

出典:『広島県史 原爆資料編』

原爆被災資料総目録 第一集 発刊に寄せて

原爆被災資料総目録 第一集 発刊に寄せて

(五十音順・敬称略)

相原和光(広島YMCA総主事)

月に人が降り立つ新時代に、地上の平和と世界市民の意識を築いて二度と核兵器が使用されないことを万人が銘記するためにこの総目録の活用されることを祈ってやみません。

伊東 壮 (東友会=東京都原爆被害者団体協議会=事務局長)

被爆二十五周年、安保再改定期に当たって、人類の最初に受けた災禍の資料の散失しないうちに、その調査・収集に努めて広く公開し、平和の問題を原点から鋭く考え合うことは、被爆者と国民との断絶を埋ずめて、被爆者援護法制定の緒を開くことになる。

糸川成辰(原水爆被災白書をすすめる市民の会会長)

この総目録刊行は「原水爆被災白書」をすすめる広島市民の活動の第一歩である。

大江健三郎(作家)

広島を忘れ、核兵器の破滅的な実質から眼をそむけようとする者を、問いつめる本質的な目録。それは広島を記憶しつづけようとする者にもまた、総合的な問いかけを発する目録である。

梶山季之(作家)

広島の文学青年時代のぼくは、原爆被災問題についても、まじめな追究者の一人であった。その後広島を離れているが、罪ほろぼしをしたい気持ちは大いにある。この被災総目録の続刊に協力したい。

河本一郎 (広島折鶴の会世話人代表)

資料を調べ集めてゆくことは、目に見える原爆の証拠を一つでも多く残して原爆体験を心のなかから消さないため大切なことです。文学なり、写真なりの一つ一つが被爆者ひとりひとりの心の「塚」です。この総目録がその事実をつかむきっかけとして活用されるよう念願します。

熊田重邦(広島県史編さん室長)

広島県史のうえで七、原爆は世界史と広島県民との接点として大切なので、この目録の続刊を期待します。

桑田駒夫(広島県PTA連合会事務局長)             一

子供の幸福を願うPTA会員として、世の親御と先生方がこの総目録を平和教育資料に利用され、億万人が平和な地上を築く呼び水とされることを望みます。

桑原英昭(世界連邦建設同盟広島県協議会会長)

私たちは六年前からポーランドのアウシュヴィッツと広島との被災資料の交換を続け、この八月、同国の招きで渡欧するが、この総目録第一集を貴重な交換資料として持参したい。ユダヤ人虐殺についてはすでに約四百万人分の詳細な名簿ができており、これに比べて広島の実態把握の立ち遅れに市民として共同責任を感じている。

栗原貞子(詩人)

この目録は 故人となった原民喜・峠三吉・大田洋子・正田篠枝をはじめ、被占領の弾圧下で書きつづられてきた原爆の非人間的な残虐の告発と平和への祈りの二十五年にわたる総量を示す。核時代に生きる人々、特に核保有諸国の首脳にも読んでほしい諸記録の案内書である。

小堺吉光(広島市戦災誌編集主査)

この目録は広島の惨禍から世界の平和へいたる道しるべであり、民間有志の熱情の賜物です。

佐久間澄(日本原水爆禁止団体協議会代表理事)

歴史は未来を築く大切な資料です。過ちが再びくり返されないために広島の被爆の事実の徹底的な追跡こそ、もっとも重要な人類将来への基盤となるでしょう。

志水清(広島大学原爆放射能医学研究所長)

原爆被災の全体像をとらえ、原点の空白を埋ずめるために、被災資料の収集保存は重要な役割りをもつので、今後ともこの目録が充実されるよう期待します。

庄野直美(広島女学院大学教授)

繰り返してはならないヒロシマのために、ここに繰り返し後世に残す。

宅和純(広島県教職員組合執行委員長)

広島の原点に立つ平和教育推進にとって貴重な資料だと思う。

永積安明(日本学術会議原爆被災資料小委員会前委員長)

この仕事は、原爆絶滅の拠点、学術会議の期待した事業の先駆けです。

任都栗司(日本原爆被爆者協議会会長)

原爆被災の実態とその影響についての、こういうまとまった手引書は、真の平和を訴えるとともに、被爆者救済・援護の目的を達する上に大切な励ましになる。この総目録の刊行に協力したい。

長谷川鉦三(広島県教育長)

平和教育とは何かについて、まず基礎資料を客観的にとらえるため、この総目録はよい手がかりだ。

林寿彦 (国際青少年協会総主事)

今世紀の人間がつくった世界史の傷を二十一世紀へ再び持ちこまないためにも、その「傷」についての体験と認識を語り伝えることは、新しい世代に対する今世紀の人間の義務だと思う。

原田東岷(広島市医師会元会長)

全世界はより精密なヒロシマの実態を知る必要があり、また欲しているのに日本政府はこれについてまことに冷淡である。広島市民の努力によるこの総目録刊行は、国際的規模において貴重な資料研究の手がかりであり、今後もこの刊行事業の継続を期待する。

藤本千万太(広島平和文化センター次長)

時の経過は世界の人々に原爆の惨禍を忘れさせ、恐怖の感覚さえ失わせようとしている。この資料刊行が、被爆体験の継承に大きく役立つことを期待する。

松元寛(広島大学文学部助教授)

原爆被災資料の調査に、日本全体の戦災についての時期を失しない調査研究の突破口となり、戦争白書のつくられるきっかけとなってほしい。また過去の記録だけでなく、現在の公害など、文明災害の問題について、国民の目を開かせる警鐘になってほしい。

村上忠敬(核兵器禁止平和建設広島県民会議議長)

核兵器の恐ろしさを知るためには広島原爆をもっともリアルに知る必要がある。悲しくても、苦しくても、再びその事実をはっきりとらえるために、これは貴重な資料となるであろう。

森滝市郎(日本原爆被害者団体協議会理事長)

ここ数年来願い続けてきた原爆被災資料調査の第一着が広島から始まって喜ばしい。これによって被爆者の声を消さず、その実態を後世に伝える手がかりを得た。

山代巴(作家)

人権の目覚めの足あとをふりかえるために、またその欠落は、あとに続く人々が補うために。

山手光 (広島市立浅野図書館長)

この総目録は原爆被災研究の第一の手がかりです。

 

被災資料総目録 第一集

発行日  昭和四十四年八月六日

体裁   B5版 横組一三〇頁 上質紙

内容

原爆慰霊碑(六七ヵ所)原爆遺跡(九五ヵ所)物品資料(原爆資料館所蔵一七九七点)遺品(原爆資料保存会所蔵一九二一点)放送番組(昭和二二年-四三年末まで二〇年間のNHK広島中央放送局ラジオーテレビ放送記録)美術(絵画の部一二九点)文学(長崎を含み小説・詩・俳句・短歌・児童文学の五部門で約一五〇〇点)

配布方法 会員制度による。会員資格は個人加入を主とし、団体加入も可。

会員   一口五〇〇円として何口でも可。一口につき一冊、送料当会負担)

会員登録

個人・団体とも会費の振替払いこみをもって代用させていただきます(同封振替用紙をご利用ください。一枚の振替用紙で団体としてでなく個人お二人以上の共同申し込みのばあいは用紙「通信欄」にお名前を列記してください)。

第二集の刊行予定

昭和四五年上半期を目標に、被爆手記(広島・長崎・ビキニ)各種団体原爆戦災誌芸能(映画・演劇・音楽・バレー)の台本・レコード・テープ・楽譜など民間放送番組(ラジオ・テレビ)写真集各種の計五部門と第一集の各部門の長崎および昭和四四年以降の追加分を企画中です。

第三集以降予想

医学ほか自然科学、社会科学、評論、観光庁資料、民間団体資料、戦災復興誌資料、報道資料などを昭和四五年下半期以降続刊の検討を進めております。

 

なお当会のスタッフは左記の通りです。お気付きの点は、どうぞご連絡ください。

委員長  田淵実夫(前広島文化センター局長)

副委員長 今堀誠二(広島大学教授)

同    横田工(原爆資料保存会会長)

財務委員 山崎与三郎

事務局長 田原伯

「原爆被災体験資料」蒐集のための御協力者のお集まりのお願い

1965年7月7日
「原爆被災体験資料」蒐集のための御協力者のお集まりのお願い
御協力の意志表明をいたゞいた標記の件につきましては、先便で経過の概略をお知らせいたしましたが、今般左記のようにお集まりをいたゞきたいと存し、御案内申し上げます。
その際、左記の三氏よりそれぞれの部門について御報告があります。
物理学(医学)部門(広島)
庄野直美氏(理学博士 広島女学院短大教授)
文学部門(広島)
豊田清史氏(歌人)
長崎の概況
木野普見雄氏(長崎市常任監査員 日本被団協代表理事)
なお、最初にお送りした「計画要網」にミス・プリントもあり、「協力」の内容がはっきりしないと云う御批判が多くよせられましたが、このことについては私どもは次のように考えております。
一、日本被団協のこの事業を支持する意志表示によって、私どもをサポートしていただくこと。
一、この事業の推進のため、日本被団協は募金を行いたいと存じますが、そのお願いに対して連名でお口添えをしていただくこと。(このことについて、募金は「協力委員会」内部だけにとどめよという御意見もあります)
一、以上のほか、できれば
1.御自身でおもちのまたは御存知の資料についてお知らせいたゞくこと。
2.御専門の分野から、資料の調査、蒐集、保管方法、その他の問題点について御意見をお寄せいただくこと
3.将来、目録の作成(出版)、編集、翻訳等の問題が具体化すれば、御助言と御助勢をいただくこと。
4.その他
何分非力の私どもが進めている仕事のこと故、いろいろと手落ちも多く、なお御得心のいかない不備の点もあろうかと存じます。
また当日は御多忙中のことと存じますが、何とぞ御出席のうえ私どもを御指導、御激励下さるようお願い致します。

一、日時 七月一五日(木曜日)午後一時
一、場所 電通会館第一会議室
千代田区神田駿河台三の六 電話(二五二)九六一八
一、会合の内容
経過報告と今後のお願い 森滝市郎
各部門報告 前記三氏
御意見の交換
以上
一九六五年七月七日
日本原水爆被害者団体協議会
理事長 森滝市郎

***********************

『「原爆被災体験資料」蒐集のための御協力者のお集まりのお願い』(森滝市郎(日本原水爆被害者団体協議会理事長)、1965年7月7日)

20220211213140036
庄野直美
豊田清史
木野普見雄
日時:7月15日(木)午後1時
場所:電通会館第一会議室
会合の内容
森滝市郎:経過報告と今後のお願い
前記3氏:各部門報告
意見交換
20220211213140036

旧陸軍被服倉庫(広島市基町)消滅過程に見る原爆遺跡存廃論議

問題の発端

『中国新聞(夕刊)』1970年6月11日

広島市教委は、同市基町地区の再開発事業によって破壊される恐れがある旧陸軍輜重(しちょう)隊倉庫などいわゆる〃原爆遺跡〃を保存するよう、このほど市に文書で要請した。史跡として保存するとなれば、再開発計画を一部手直ししなければならず、保存か取りこわしかをめぐって論議は〃原爆遺跡〃にまで及んできた。

市教委が保存を要請したのは、輜重隊倉庫(第二基町バス停前)、陸軍病院門柱(第五基町バス停前)、陸軍病院の由来を記した石碑(県営アパートわきの不法住宅地内)の三件。(中略)

三つの〃遺跡〃のうち、門柱と石碑は場所を移すなどすれば保存も可能だが倉庫は延べ二百六十二平方メートルもあって移転は困難。しかも被爆後二十五年もたって荒れ方がひどく、ブロックもくずれ落ちている。この付近は、市の基町再開発計画で中央公園の芝生広場に予定され、近くに市立図書館や野外音楽堂を建てることになっている。

計画通り工事が進められるとなると、倉庫は取りこわしの運命にある。このため市教委は、先に開かれた市文化財審議会にはかり「補修して現位置に保存するのが望ましい」との結論を得た。

市教委の要請に、対して基町再開発事業を進めている都市計画局では、門柱と石碑の保存には問題ないとしながらも、倉庫については公園計画との関連で慎重な態度をとっている。公園計画を担当する市建設公園緑地課の浅地課長は「史実を後世に伝える意味で保存は必要だと思う。しかし史実を伝える場合、建て物跡を表示する方法もある」と言っている。(後略)

 

存廃論議

年表:1976~78(昭和51~53)年の動向

 動向
76 01 24 中国新聞「30年ぶりに全容-旧陸軍”被爆倉庫”-広島市が周辺取り壊し-惨状伝える壁・ガレキ-”第2のドーム”-関係者ら保存訴える」
76 02 04 中国新聞(夕刊)「水曜グラフ:姿消す”戦争と被爆の遺跡群”-再開発進む広島市基町地区-旧軍の施設が次々」
76 04 30 広島市基町の住民有志で作る「基町明治会」の代表5人、基町公園内の旧第5師団経理部倉庫と県立体育館裏の柳の木3本(樹齢60年以上)を保存するよう求めた要望書を広島市に提出。
76 06 23 広島市、基町の被爆倉庫の保存の検討作業を始める。
76 06 24 広島ユネスコ協会、例会と理事会を開催。基町の陸軍被服倉庫の保存について協議。運動を始めた「基町明治会」を支援する方針を決定。
76 06 29? 広島県被団協(森滝市郎理事長)、広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動に乗り出すことを決める。
76 07 04 広島県被団協(森滝市郎理事長)、日本被団協総会で広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動を全国的に広げるよう提案。
76 07 07 広島市基町の旧陸軍被服倉庫の保存運動を進める「基町明治会」、写真家佐々木雄一郎が昭和26年当時に同倉庫を撮影した写真を入手。
76 07 07 フリーの映画監督楠木徳男、広島市基町の旧陸軍被服倉庫をテーマにした映画のロケを開始。
76 07 07 広島県被団協(森滝市郎理事長)、旧陸軍被服倉庫の保存を広島市に要望。
76 07 13 読売新聞「保存に賛否両論-広島の旧陸軍被服倉庫-「被爆のあかし」地元老人らが運動-意義に疑問も「ドームだけで十分」
77 01 13 広島市、基町の旧軍被服倉庫を撤去することを決定。
77 01 17 中国新聞「記者ノート:原爆遺跡の保護対策を」
77 07 13 中国新聞(夕刊)「消え行く原爆遺跡<広島>-実態つかめず風化-問われる市の保存行政」
78 05 10 広島市、庁内関係課長等12人で構成する原爆遺跡選定調査会議を設置(広島市資料)。原爆に関係のある155件の建物・橋梁などが候補にのぼるが、そのうち重要なものとして41件を選ぶ。
78 06 01 広島市基町の旧軍被服倉庫の取り壊し開始。

 

『中国新聞』1976年1月24日

原爆資料保存会などの関係者=都心部でこれだけの施設がいまだに残っているのはまれだ。都市化で原爆資料が年々姿を消しており、被爆を伝える生きた証言として残すべきだ。

この建物の隣に住む高野千都子=被爆直後の広島の面影です。このガレキの上で下で、たくさんの人が死んだのだろう、とここを見ると手を合わせたくなる思いです。

原爆資料保存会の横田工会長=外国の平和運動家からもなぜもっと原爆の惨状を残さなかったのかと言われる。原爆の継承の意味からも保存するよう市に働きかけたい。

『読売新聞』1976年5月1日

基町明治会が広島市に提出した要望書=レンガ造りの被服倉庫は崩れ落ち、柳も被爆したため幹の半分近くが枯れているが、いずれも原爆を知らない戦後生まれの若い人たちのために残すべき資料。

『毎日新聞』1976年6月18日

片島薫(元同盟通信記者で基町明治会の会員)=被爆の事実が忘れられてゆくなかで、被爆したままの姿で出てきた倉庫は、どうしても残しておくべきだ。撤去せず公園の一部に、歴史の資料としてとどめておくのが、ヒロシマの願いでもあり、義務だと思う。

『毎日新聞』1976年6月19日

いぬいとみこ(東京在住の児童文学者)=ドームは、現在、単なる観光の象徴となってきている。ヒロシマをとどめておく意味でも被服倉庫跡を保存することは重要な意味を持つ。

田中千禾夫(作家)=原爆ドームにしろ被爆の痛ましい残がいは、すべて残しておくべきだ。残がいは生きている。現実に平和を訴える”証”として現代に息づいている。半永久的にドームを保護した広島市は、ぜひ残しておくべきだ。

栗原貞子(地元の詩人)=ヒロシマのありのままの歴史を伝える建築物がどんどん姿を消している。原爆ドームは今や観光のトレードマーク。原爆のツメ跡がくっきり残った残がいはきちんと保存しておくべきだ。

竹内武広島県被団協事務局員=私有地で見つかった残がいならば買い取るといった問題があると思う。しかし、今回のケースはそれと違い国有地の中。ぜひとも保存してとどめておくべきだろう。

広島市建設局公園緑地部=あの残がいは、公園予定地(5ヘクタール)のちょうど真ん中にあたる。あれが残っていると支障があることは事実。また、建設省の最初の指導指針でも、一切の建物を建てず、広場だけの公園を作るようにといっている。しかし、爆心地にあれほど近く、原爆の惨状を生々しく伝える貴重な残がいであるということは十分認識している。

『毎日新聞』1976年6月24日

野村哲夫基町明治会会長=この倉庫が当時どうなったのかを、こうした証人の人の話を集めれば、原爆で空白になった部分を解明できる。この倉庫は軍隊の施設だったから残すという考えではなく、原爆の悲惨さを訴え、平和のために残したい。

広島ユネスコ協会=被爆体験の継承に役立つ貴重な被爆建築物。

『毎日新聞』1976年6月24日

高校生平和大使

高校生平和大使

長崎市内の平和団体などでつくる「核兵器の廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」が派遣。スイス・ジュネーブの国連欧州本部などを訪れ、平和のメッセージを伝える。

Y M D NEWS1
98 05 18 「ながさき平和大集会実行委員会」、開催。6月11日に「すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」(仮称)を発足させることを確認。
98 06 11 長崎の約50団体でつくる「ながさき平和大集会実行委員会」、「核兵器廃絶を目指しすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」を発足させる。代表に今田斐男・松永照正・鎌田定夫を選出。
98 08 06? 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」、10月に計画している国連本部への要請行動に参加するメンバーを募集。
98 10 11 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」派遣の「国連平和大使」派遣団の結団式、長崎原爆資料館で開催。
98 10 15 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」派遣の「国連平和大使」、伊藤長崎市長を訪れ、国連事務次長あてのメッセージを受け取る。
98 10 17 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」派遣の「国連平和大使」一行4人、アメリカに向け長崎を出発。
98 10 19 (日本時間20日)「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」派遣の「国連平和大使」一行9人、ダナパラ国連事務次長に核兵器廃絶を求める署名や伊藤長崎市長のメッセージを提出。
98 10 20 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」派遣の「国連平和大使」一行、国連事務局を訪問。ダナパラ事務次長に会見。
98 10 25 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」派遣の「国連平和大使」の2人、長崎原爆資料館で帰国報告。
99 06 24 「核兵器の廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」、10月末にニューヨークの国連本部に派遣する「平和大使」として高校生数人を募集。
99 08 01 「核兵器廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」、高校生の「国連平和大使」の選考面接会を長崎原爆資料館で開催。2回目。59人が参加。
99 09 26 「核兵器の廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」(反核ネット)、高校生平和大使の派遣にむけた募金活動を長崎市内で実施。
99 11 14 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」の「国連平和大使」派遣団10人、同市を出発。-20日。
99 12 04 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」が派遣した「高校生平和大使」3人の帰国報告会、長崎市内で開催。
00 01 27? 「核兵器の廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」、長崎から反核平和のメッセージを世界に届ける「高校生平和大使」を、今年(3回目)はスイスの国連ジュネーブ欧州本部とする方針を固める。
00 04 11 「核兵器の廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」、国連などに反核・平和のメッセージを届ける「高校生平和大使」を募集。
00 05 28 「核兵器の廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」、高校生平和大使の選考を開始。51人が応募。
00 07 08 「核兵器の廃絶をめざし、全ての核実験に反対する長崎ネットワーク」、8月22-30日にスイスの国連応酬本部などに派遣する高校生平和大使の2人を決定し公表。
00 08 06 中国新聞「この人:宮原司優子さん-「高校生平和大使」に選ばれた長崎県立大村城南高校2年」
00 08 17 今月末、スイス・ジュネーブの国連欧州本部などを訪問し、平和のメッセージを伝える高校生平和大使の結団式、長崎市の県教育文化会館で開催。

 

NPT再検討会議(2000年)

4月から5月、核兵器不拡散条約(NPT)の無期限延長決定後初めてとなるNPT運用検討会議が、ニュー・ヨークで開催された。この会議は、包括的核実験禁止条約(CTBT)の早期発効、カットオフ条約交渉の即時開始とその5年以内の終了等を始めとする、今後国際社会が取り組むべき核軍縮・不拡散のための「現実的措置」を含む最終文書を全会一致で採択することに成功した。最終文書では、全面的核廃絶に対する核兵器国の「明確な約束」が明記されるなど、目標としての核廃絶はより現実的なものとなっており、今後、国際社会は、これらの「現実的措置」の実施のため、真摯に議論し実行することが要請される。

なお、この会議に際して、日本は、核軍縮・不拡散のための将来に向けた現実的措置に関する8項目提案を行って各国の合意形成のための基盤を提供する等、会議成功のために積極的な貢献を行った。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/01/1st/bk01_21.html#21-2-3

略年表:NPT(2000年)

M D NEWS1
02 12 読売新聞「解説と提言:NPT再検討会議4月開催へ-実効的核軍縮へ日本の努力重要」
02 18? 連合・原水禁国民会議・核禁会議、4月下旬から米ニューヨークで開かれる核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせ、原爆展の開催を計画。
02 26 読売新聞「シンポジウム「核不拡散体制-核軍備競争再来の可能性に直面して」-核軍縮、危機の国際情勢-4月にNPT再検討会議」
03 04 中国新聞「中国論壇:核軍縮か核抑止か-NPTで問われる日本」(ハンズ・クリステンセン)
03 12 4月下旬から米ニューヨークで開催される核拡散防止条約(NPT)再検討会議で議長を務めるアブダラ・バーリ、外務省の招きで広島市を訪問、原爆資料館を見学。
03 14 中国新聞「核軍縮進展に希望-NPT再検討会議前に広島訪問-バーリ議長<アルジェリア国連大使>に聞く」
03 23 伊藤長崎市長、国連で開催される核拡散防止条約(NPT)で5月3日にスピーチを行うことを明らかにする。
03 33 広島市、4月下旬から米ニューヨークで開かれる核拡散防止条約(NPT)再検討会議に提出するため、世界平和連帯都市市長会議に加わっている486都市の市長に平和メッセージを依頼。
04 05 核拡散防止条約の再検討会議-核軍縮へ具体的前進を-印パの核実験でNPTの危機-梅林宏道さんに聞く」
04 10 秋葉忠利広島市長、今月下旬から米国ニューヨ ークの国連本部で始まる核拡散防止条約(NPT)の再検討会議には、ひろしまフラワーフェスティバル(FF)への参加を理由に出席しない考えを明らかにする。
04 11 朝日新聞「論壇:NPT再検討会議に望む」(神谷昌道)
04 13 広島県原水禁・連合広島などのNPT派遣団の結団式、広島市内で開催。約70人が訪米の予定。
04 14 広島市、米国ニューヨークの国連本部での核拡散防止条約(NPT)再検討会議開幕を控え、日本政府が会議で「核兵器廃絶」の姿勢を明確にするよう外務省に要請書を提出。
04 14 秋葉忠利広島市長と伊藤一長長崎市長、連名で、核拡散防止条約(NPT)再検討会議において核兵器廃絶に向けた積極的外交を展開するよう求めた要請文を森首相と河野外相に送付。
04 16? 日本政府、核拡散防止条約(NPT)再検討会議で、2003年までの兵器用核分裂物質生産禁止(カットオフ)条約交渉の合意達成など、核軍縮・核拡散防止での包括提案を行う方針を固める。
04 17 伊藤長崎市長、核拡散防止条約(NPT)再検討会議での演説の骨子を発表。核兵器の違法性を指摘。
04 17 中国新聞連載「NPT会議の行方」(-19日、3回)
04 17 「プルトニウム・アクション・ヒロシマ」、米ニューヨークの国連本部で開かれる核拡散防止条約(NPT)再検討会議で日本政府が核廃絶に向けて努力するよう求める要望書を河野外相宛に送付。
04 19 広島県原水禁・連合広島・核禁県民会議の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向けての訪問団一行10人、広島を出発。
04 19 原水禁・連合・核禁会議の核拡散防止条約(NPT)再検討会議派遣団一行約70人、成田空港を出発。
04 21 朝日新聞「論壇:NPT前進に積極的役割を」(黒沢満)
04 21 原水禁などの「NPT再検討会議派遣団」、ネバダ核実験場を訪問。実験場ゲート前で座り込み。
04 22 原水禁などの「NPT再検討会議派遣団」、米ニューヨークに到着。23日、非政府組織のメンバーを招き学習会を開く。
04 22 長崎新聞「24日からNPT再検討会議-無期限延長後初めて-21世紀の核不拡散を左右」
04 22 長崎新聞連載「核軍縮は進むか-NPT再検討会議を前に」(-24日、3回)
04 22 毎日新聞社説「NPT会議-核廃絶の歩みを止めるな」
04 22 毎日新聞「深層:NPT再検討会議-ほんろうされる核軍縮努力-被爆者らの訴えどこまで」
04 23 長崎新聞社説「NPT会議-「核の傘」を考えてみよう」
04 23 中国新聞社説「「非核の世紀」-NPT再検討会議-核廃絶への道筋を描け」
04 23 読売新聞「NPT体制維持の道探る-再検討会議あす開幕」
04 24 朝日新聞社説「NPT会議-世論こそ核軍縮の推力」
04 24 核拡散防止条約(NPT)再検討会議、米ニューヨークの国連本部で開催。-5月19日。アナン国連事務総長が冒頭の演説で米本土ミサイル防衛(NMD) 構想に触れ、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約を危機にさら し、新たな軍拡競争を促す可能性があると指摘、米国を批判。
04 24 朝日新聞「核の行方、波瀾含み-NPT再検討会議」
04 25 反核ネットワーク「アボリション2000」、核不拡散条約(NPT)再検討会議が開かれている米ニューヨークの国連本部前で集会「TIME IS UP」を開催。約300人が参加。
04 27 原水禁・連合・核禁会議の「NPT再検討会議派遣団」、米ニューヨーク国連本部の日本代表部を訪れ、核兵器廃絶へ向けたリーダーシップを発揮するよう要請。
04 27 朝日新聞「NPT再検討会議で批判の的-米NMD予算膨らむばかり-総見積もり594億ドル」
04 27 読売新聞「解説と提言:NPT再検討会議、米への批判強まる-「核」改良続行に懸念」
04 27 広島市が世界平和連帯都市市長会議のメンバーから募った核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向けたメッセージの冊子が完成。森元広島市助役が核兵器保有国や国連関係者に配布する予定。
04 28 伊藤一長長崎市長、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に出席のため出発。
04 29 読売新聞「NPT再検討会議前米代表トマス・グレアム氏に聞く」
04 29 中国新聞「NPT会議第1週終了-登・軍縮大使に聞く-各国、合意へ強い意志-日本提案には高い評価」
04 30 伊藤一長長崎市長、森元広島市助役、米・ニューヨーク入り。5月1日、ダナパラ国連軍縮局長、バーリNPT再検討会議議長を表敬訪問。
04 30 読売新聞「核保有国に「廃絶」圧力-新アジェンダ連合、厳しい要求-NPT再検討会議-非同盟諸国にも共感」
05 01 フランスの代表、米・ロ・仏・英・中国の核保有5カ国、NPT再検討会議で、核廃絶を目指した「明確な誓約」などをうたった共同宣言を発表。
05 02 広島県原水禁などの核拡散防止条約(NPT)再検討会議派遣団の一行5人、広島市役所で帰国報告。
05 03 核拡散防止条約(NPT)再検討会議で非政府組織代表の演説。公式会合としては初。伊藤一長長崎市長、世界平和連帯都市市長会議の副会長として演説。
05 03 読売新聞「全米ミサイル防衛網計画-核軍縮後退、世界が懸念-米にNPT不信」
05 04 毎日新聞「NPT・核保有国「廃絶」共同声明-中露合意で「照準解除」-拒否一転、緊張緩和に期待」
05 06 中国新聞社説「「非核の世紀」-NPT再検討会議-抽象論では許されない」
05 06 中国新聞「NPTの行方:NGOと連携手ごたえ-”被爆地ロビー外交”終了」
05 08 伊藤一長長崎市長、帰国の記者会見。ニューヨークで開催中の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で、被爆地を代表して演説した様子を語る。
05 08 森元弘志広島市助役、米・ニューヨークの国連本部で開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議から帰任し、記者会見。
05 08 核拡散防止条約(NPT)再検討会議、論議を再開。ニュージーランドのピアソン議長が示した早急な核廃絶を求める提案に核保有5カ国が猛反発。
05 09 長崎県平和・労働センターなど、「反核9の日座り込み」を平和公園で実施。県原水禁から核拡散防止条約(NPT)再検討会議に派遣された西首延子が参加報告。
05 11 (日本時間12日)国連本部で開か れている核拡散防止条約(NPT)再検討会議、核軍縮を議論する第1主要委員会の最終会合を開く。核兵器廃 絶への姿勢をめぐる核保有国と非保有国との意見の溝は埋まらず、「合意なし」のまま12日の本会議に報告することを決定。
05 15 新アジェンダ連合、核拡散防止条約(NPT)再検討会議、論議を再開で、核保有5カ国の主張に大幅に譲歩する妥協案に対し反発。結論を16日以降に持ち越す。
05 20 中国新聞「NPT会議制約合意-非核保有国の粘り強さ奏功-思惑絡み玉虫色の決着」
05 20 朝日新聞「時時刻刻:核廃絶の道筋、地図なき交渉-NPT再検討会議大詰め-「主役」中国、軟化カギ-187カ国思惑バラバラ-進む核開発にいらだち」
05 20 (日本時間21日)核拡散防止条約(NPT)再検討会議、初めて保有国も一致して、核兵器完全廃絶の「疑いのない約束」をうたった最終文書を採択し閉幕。
05 21 中国新聞社説「「非核の世紀」-NPT会議-「核廃絶の約束」は成果」
05 21 毎日新聞「ニュースキー2000:NPT会議、土壇場で紛糾-ガード堅い核保有国-政治的駆け引きに終始」
05 21 毎日新聞「NPT会議空転-米の妥協に限界-合意の弱さ露呈」
05 21 米主要メディア、前日まで開催された核拡散防止条約(NPT)再検討会議をほとんどが無視。
05 22 長崎新聞「決裂の危機辛うじて回避-日本代表ら必死の説得-核保有国が廃絶確約-NPT体制維持へ仏など折れる」
05 22 長崎新聞「NPT最終文書採択-薄れゆく核の惨禍-保有国の無関心、浮き彫り」
05 22 朝日新聞社説「NPT会議-合意を結実させよう」
05 22 中国新聞「表層深層:NPT最終文書採択-日本の説得、決裂救う-登大使が大演説、各国に妥協訴え」
05 22 読売新聞「再検討会議閉幕-軍縮停滞、揺らぐNPT体制」
05 22 朝日新聞「NPT最終文書採択-核軍縮の道なお不透明-具体策は決まらず-米の指導力低下」
05 22 毎日新聞連載「核廃絶は可能か-NPT再検討会議」(-24日、3回)
05 23 読売新聞社説「NPT最終文書の有言実行を」
05 23 毎日新聞社説「NPT会議閉幕-核廃絶誓約を実現させよ」
05 23 長崎新聞社説「NPT会議-被爆地長崎の役割大きい」
05 24 赤旗「NPT再検討会議、核廃絶訴えたNGOの2代表に聞く」
05 26 中国新聞連載「核廃絶の誓約-NPT会議を終えて」(-28日、3回)
05 28 朝日新聞「世界の論調:ガーディアン(英国)-NPT合意の核軍縮実行を」
05 29 赤旗「NPT2000年再検討会議-国際世論の高まりを反映」
05 30 中国新聞「本社記事審査担当から-NPT再検討会議-核廃絶運動の試練続く」
06 05 伊藤長崎市長、NPT再検討会議への参加について定例市議会の冒頭で報告。
06 08 朝日新聞「オピニオン:核不拡散条約(NPT)再検討会議-「核廃絶の約束」実現へ-NGOと被爆地連携を」
07 06? プーチン・ロシア大統領、秋葉忠利・長崎の伊藤一長両市長にそれぞれ書簡を送り、米国との第三次戦略兵器削減条約(START3)で核弾頭を1500個まで削減する用意があるとあらためて表明。書簡は、ニューヨークで今春開催された核拡散防止条約(NPT)再検討会議の際に両市長がプーチンにあてた核兵器削減の要望書への返書。
07 23 沖縄サミット、終了。共同宣言「沖縄2000」で、「核兵器廃絶への明確な誓約」を合意した今年五月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議について、「その成功を歓迎する」とさらりと触れただけで論議は皆無。
07 24 広島市、今年の平和式典の概要を発表。遺族・子ども代表ら決まる。森首相・津島厚相・衆参両院議長のほかアブダラ・バーリNPT再検討会議議長などが参列予定。
08 01 中国新聞「あすからNPT合意実行どう迫る-原子力平和利用も柱に」
08 03 4月から1カ月米国ニューヨークの国連本部であった核拡散防止条約(NPT)再検討会議で議長を務めたアルジェリア国連大使、アブダラ・バーリ、秋葉広島市長を訪問。
08 05 アブダラ・バーリ核不拡散条約(NPT)再検討会議議長、広島市内での記者会見で、広島市民に「原爆の恐ろしさを世界に訴えて欲しい」と語る。
08 06 アブダラ・バーリ核拡散防止条約(NPT)再検討会議元議長、広島市の平和式典に参列。

沖縄サミットと原爆展 (2007年)

 

M D NEWS1
02 07 広島・長崎両市、サミット期間中、沖縄で原爆展の開催を計画。
02 12 鳩山由紀夫・民主党代表、沖縄サミットに合わせて広島市が計画中の原爆展に賛意を表明し、政府に協力を働きかける考えを示す。
02 14 稲嶺沖縄県知事、広島・長崎両市が沖縄サミットに合わせて計画している原爆展に協力する意向を表明。
02 22 長崎新聞社説「サミット原爆展-長崎の願い伝える好機だ」
02 22? 沖縄県、広島・長崎両市の原爆展の会場として糸満市の県平和祈念資料館の使用を承諾。
02 29 朝日新聞「列島2000:秋葉・広島市政1年-「沖縄原爆展」久々のヒットだが」-平和・経済の両立に腐心」
05 24 広島・長崎両市、両市が沖縄サミットに合わせて沖縄県で開催する原爆展に、核保有5カ国首脳に視察してもらうよう、各国大使館に要請。-25日。
06 12 秋葉忠利広島市長、主要国首脳会議(沖縄サミット)に合わせて広島、長崎両市が沖縄県で開く「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」の概要を記者会見で発表。
06 12 伊藤長崎市長、主要国首脳会議(沖縄サミット)に合わせて広島、長崎両市が沖縄県で開く「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」の概要を記者会見で発表。
06 14? 主要国首脳会議(沖縄サミット)期間中、広島市と長崎市が沖縄県糸満市で開催する原爆展について中国新聞社が在日大使館などを通じて尋ねた結果、サミット参加の海外7カ国首脳と欧州連合(EU)委員長の見学予定は無し。
06 17 広島・長崎両市、沖縄サミットに合わせて開催する原爆展を、首脳に同行して来日する夫人に見学してくれるよう招請状を、7カ国の在日大使館などに届ける。
06 20? 広島・長崎両市が沖縄サミットに合わせて開催する原爆展で、沖縄在住の被爆者が証言することが決まる。
06 23 朝日新聞「沖縄戦継承へ課題-終結から55年きょう慰霊の日-原爆展も計画」
06 23 広島・長崎両市、沖縄サミットに合わせて開催する原爆展をクリントン大統領が視察するよう求める書簡を在日米大使館に提出。
07 06 広島原爆資料館、先進国首脳会議(沖縄サミット)に合わせて沖縄県で開く原爆展の展示資料を発送。長崎原爆資料館も。
07 11 朝日新聞(広島版)「広島ひと模様:反核、沖縄から発信-原爆展で実相訴え」
07 14 広島・長崎両市、原爆展の開会式を沖縄県糸満市・県平和祈念資料館で開催。両市長など100人が参列。-26日。期間中6000人が参列。
07 20 秋葉忠利広島市長、沖縄県入り。クリン トン米国大統領が21日、糸満市の県平和祈念資料館そばの「平和の礎(いしじ)」前で演説する計画があるため、資料館で開催中の 「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」の会場で、大統領の見学に備え待機。伊藤長崎市長も。
07 21 クリントン米大統領が演説した沖縄県糸満市の平和祈念公園を訪れていた米軍基地の子供たち約40人、大統領の演説後、同公園内の同県平和祈念資料館で開かれている「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」を見学。大統領は見学せず。
07 23 金城文栄・山岡ミチコ・比嘉幸子、沖縄県糸満市で開催中の原爆展会場で被爆体験を証言。約300人が参加。
07 26 長崎新聞「訴えは届いたか-沖縄の原爆展から」(-27日、2回)
07 31 朝日新聞(広島版)「沖縄の「原爆展」6000人見学-反核のメッセージ心に刻み-核廃絶への行動、ますます重要に」

ヒロシマ平和巡礼 1962年

ヒロシマ平和巡礼 1962年

事項
01 22 レイノルズ夫妻、「ヒロシマ平和巡礼計画」を発表。
02 04 ヒロシマ平和巡礼代表に松原美代子、英宏昌決まる。
03 10 「ヒロシマ平和巡礼」のバーバラ・レイノルズ、松原美代子、英宏昌、広島を出発。13日、羽田を出発。
03 19 「ヒロシマ平和巡礼」のバーバラ・レイノルズ、松原美代子、英宏昌、米サンフランシスコに到着し、記者会見。
04 11 ヒロシマ平和巡礼、国連本部で米ソ代表に核兵器禁止を訴える。
04 11 「ヒロシマ平和巡礼」の松原美代子、英宏昌、米ニューヨークの国連本部を訪れ、バンチ事務次官らに核実験禁止への努力を要請。
04 23 英核兵器廃止運動主催の大行進、ロンドンに到着。野外大会で、「ヒロシマ平和巡礼」の松原美代子、英宏昌が挨拶。
04 30 「ヒロシマ平和巡礼」の松原美代子、英宏昌、ジュネーブに到着。
05 01 平和巡礼の広島原爆被災者松原美代子・英宏昌, 18カ国軍縮会議開催中のジュネーブでゾーリン・ソ連代表と会見. 広島平和行進委員会のメッセージを手渡す.
05 02 平和巡礼、米代表にも核実験停止を訴える。11日のタス通信, メッセージが軍縮委の公式文書として配布されることになったと報道.
05 26 広島平和巡礼委員会、タイム誌に抗議電報。
06 19 「ヒロシマ平和巡礼」のバーバラ・レイノルズ、松原美代子、英宏昌、共産圏諸国に向けストックホルムを出発。
07 09 全面軍縮と平和のための世界大会、モスクワで開催。-14日。各国代表2200人参加。13日、斉藤義雄日本被団協代表理事、演説(「岩手の被爆者は願う」)。広島の山田浩広島大学助教授が参加。
07 27 「ヒロシマ平和巡礼」の松原美代子、英宏昌、広島に帰る。
07 29 ヒロシマ平和巡礼、広島に帰る。ソなど14カ国訪問。
08 03 ヒロシマ平和巡礼報告会、広島市・平和記念館で。
04 24 19630424 レナ・エッケルト(シュバイツァー博土のひとり娘)広島を訪問。「広島は全世界の人間性を象徴する意味をもつ都市です。広島を見てたとえようのない感銘を受けました。広島こそ巡礼地にいる気持ちをいだかせるところです。非人間性は破壊されねぱ

 

書名コード 書名 編著者 出典
6201 「被爆者平和巡礼」の提議
620124 [ヒロシマ平和巡礼者推薦のお願い] レイノルズ一家 (L)-25
620201 各団体・個人の皆様へ バーバラ・レイノルズ(平和巡礼広島本部) (L)-61
620204 ヒロシマ平和巡礼メンバー選考会 (L)-31
620206 広島の皆様へ フェニックス・オブ・ヒロシマ号、ヒロシマ平和巡礼本部 (L)-26
620224 [平和巡礼広島委員会委員就任の]おねがい 相原和光(平和巡礼広島委員会準備事務局長) (L)-44
620301 国連総会に対する広島市民の訴え ヒロシマ平和巡礼委員会 (L)-63
620301 18カ国軍縮会議に対する広島市民の訴え ヒロシマ平和巡礼委員会 (L)-64
620309 [平和巡礼壮行会出席依頼] 平和巡礼広島委員会・代表委員・河村政任、事務局長・相原和光 (L)-62
620801 ヒロシマの願いを訴えて 平和巡礼の座談会 『中国新聞(2回連載)』~8月2日
620803 [平和巡礼一般報告会案内ビラ] 広島平和巡礼委員会 (L)-179

 

国連軍縮会議

 

国連軍縮会議は、アジア・太平洋地域において、軍縮問題に対する意識を高め、また、軍縮・安全保障に関する対話を行う場を提供するという観点から、1988年に設置された国連アジア太平洋平和軍縮センター(当初はアジア平和軍縮センター)の主催により開催されている。この会議では、国連総会やジュネーブ軍縮会議など、各国政府代表で構成される通常の軍縮会議のように条約交渉や決議、アピールを行うのではなく、世界各国の政府高官や軍縮問題の専門家などが、個人の資格で参加し、毎回のテーマに沿った討議を行っている。
国連軍縮会議は、1988年の第3回国連軍縮特別総会において、竹下内閣総理大臣(当時)より、国連主催の軍縮会議を日本で開催する用意があると表明したことを受けて、1989年以来毎年、日本政府の協力の下で、日本国内の地方都市で開催されている。これは、日本の軍縮に対する積極的な姿勢を国内外にアピールする良い機会となるとともに、この種の会議を全国の様々な都市で開催することにより、軍縮問題に対する日本国民の関心を高めることに貢献している。これまで、広島、長崎をはじめとして、京都、仙台、札幌、秋田、金沢、大阪、横浜,さいたま,新潟で開催。出典:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/un_cd/gun_un/gaiyo.html

開催年月日 開催地 備考
01 1989年4月19ー22日 京都
1991年5月 京都 05 31 FRI 14:10 S 国連京都会議一行への講演。14時10分より15分間。後、秋葉(放影研)・阿部静子・高橋昭博。
05 31 FRI 18:30 S 国連軍縮専門家一行歓迎レセプション(県知事・市長主催)。於グランドホテル。
06 01 SAT 10:00 S 「国連と軍縮」シンポジウム。於広島国際会議場。-12時。こういう啓蒙活動は、もういいのではないか。だれを対象としているのか、日本政府のため?明石次長の「北鮮」発言、気になっていたら、会場からもその後にも問題になった。
1992年6月15-18 広島
 03 1993年4月 京都 93 04 17 SAT 13:30 S 第3回国連軍縮京都会議参加者一行への「原爆被害の概況説明」。宇吹・長谷川・渡辺美代子・高橋。
1995年6月12-16日 長崎
08 1996年7月17-20日 広島
10 1998年11月24-27 長崎 基調テーマ「核兵器のない世界に向けて」
25 2015年8月26-28日 広島 参加者:23か国・5国際機関から83人。
27 2017年11月29-30日 広島

年表:国連軍縮会議(1989~2000年)

Y M D NEWS1
89 03 04? 長崎・広島両市長に、「国連軍縮京都会議」(4月19日-)への招待状が届く(オブザーバーとして出席)。
89 03 16 国連軍縮局、4月に京都で開催する「軍縮問題に関する国連京都会議」の概要を発表。それによると、31カ国約100人が参加。テーマは「軍縮と安全保障」など。同会閉会後は広島に移動し、原爆資料館など見学。
89 04 16 京都の市民グループ、国連軍縮京都会議へのアピール文を掲げ、反核デモ(約30人参加)。
89 04 17 「国連軍縮京都会議」(19ー22日)出席者のうち広島を訪問するメンバー・スケジュールなど決定。
89 04 19 「国連軍縮京都会議」(国連主催)、京都市で開催(31ヵ国から90人参加、22日まで)。テーマ「核実験禁止と検証」。被爆国日本での初の世界的な軍縮会議。外相、開会式に出席。広島・長崎両市長、オブザーバーとして出席。
89 04 19 「国連軍縮京都会議」の主催者、広島市の被爆者の作った「反核人形」の配布を、「人手がない」と断わる。
89 04 19? 京都の市民グループ「国際市民アクセスセンター」、各国の市民の「国連軍縮京都会議」へのメッセージをパソコン通信で収集、冊子にまとめ同会議参加者に配布。
89 04 20 「核軍縮を求める二十二人委員会」、「国連軍縮京都会議」で、非核三原則の法制化を検討していることを公表。
89 04 20 京都の市民グループ、「国連軍縮京都会議」の会場周辺で、プラカードを掲げて同会議参加者へ核兵器廃絶などを訴え。京都府警からデモ行進を阻止され、中止。
89 04 23 「国連軍縮京都会議」に出席したベネゼエラ・ソ連代表、原爆ドーム募金に寄金。(海外からの第1号。)
89 04 23 「国連軍縮京都会議」への参加者(25ヵ国53人)、来広し、原爆資料館など見学。原医研・放影研職員より被爆の社会・医学的影響の説明を受け、被爆者より被爆体験を聴取。
89 04 24 「国連軍縮京都会議」に参加したカナダ代表、来広し、原爆ドーム保存募金に寄金。
89 04 24 「『国連と軍縮』広島講演会」(広島市など主催)、広島市で開催(聴衆約400人)。「国連軍縮京都会議」参加者(日・米・ソ・カナダ代表)による講演。テーマ「いま、世界は」。
90 04 16 広島平和文化センター河合護郎理事長ら、国連軍縮仙台会議にオブザーバー参加。
90 11 15 広島市長、即位の礼出席のため来日したデクエヤル国連事務総長と東京で会見。同市長、1991年の国連軍縮京都会議参加者の広島訪問と1992年の国連軍縮会議の広島開催を要請。事務総長、前向きに取り組む姿勢を表明。
91 04 09 中山外相、参院外務委で、広島市が同市で開催を希望している国連軍縮会議について、政府としても実現に協力する考えのあることを表明。
91 04 10 国連筋、5月末の「国連軍縮京都会議」には海部首相らが参加し、これまでより注目度の高いものになるとの見方を表明。海外からの会議参加者の大半が、会議後に来広。
91 05 14 第2回国連軍縮京都会議の参加者を広島に招いて開催する「国連と軍縮シンポジウム」の内容、決定。テーマは「冷戦後の国際システム構築への課題」。
91 05 27 第2回国連軍縮京都会議、京都市で開催。30日まで。広島・長崎両市長、オブザーバー参加。広島市長ら、軍縮会議の広島開催を関係者にアピール。
91 05 28 本島長崎市長、国連軍縮京都会議に出席中に、広島市と合同で在韓・北朝鮮の被爆者の調査を国に要望したい意向を表明。
91 05 30? 国連軍縮京都会議に出席した仏のソラニュ・フェルネクス(「欧州議会」議員・「平和のための婦人グループ」メンバー)、同会議について「抽象論議をやめて具体的に行動を」とコメント。同グループは、毎年パリ郊外で広島・長崎記念行事を開催。
91 05 31 国連軍縮京都会議参加者一行45人、来広し、原爆資料館など見学。原爆映画を鑑賞し、被爆体験を聴取。
91 06 01 「国連と軍縮シンポジウム」、広島市で開催(広島県・市など主催、約500人参加)。「冷戦後の国際システム構築への課題」をテーマに、国連軍縮京都会議参加者らがパネリストとして参加。
91 10 26 広島市長、帰広。1992年の国連軍縮会議の広島市での開催について、前向きの感触を得たこと・1993年の第3回世界平和連帯都市市長会議が広島・長崎両市で開催されることなどを報告。
91 11 12 宮沢首相、広島市が1992年に開催を要望している国連軍縮広島会議について、開催が決定すれば政府は積極的に協力していきたいとの見解を表明。
92 01 21 広島市議会国際交流推進特別委員会で、6月ごろ広島市で国連軍縮会議が開催されることが明らかにされる。
92 02 01 広島市、同市で初めて開催される国連軍縮会議の日程などを発表。6月15日-18日に60人参加。国内での開催は4回目。
92 02 06? 宮沢首相、広島市で開催される国連軍縮会議に出席の意向を示す。
92 02 18 平岡広島市長、首相官邸で宮沢首相に6月の国連軍縮広島会議への出席を要請。首相、日程が許せば出席したいとの意向を表明。
92 02 19 非核の呉港を求める会、呉市・同市議会に国連軍縮広島会議が核兵器廃絶をテーマとするよう請願。
92 03 12 広島県平和委員会、6月の国連軍縮広島会議の議題を「核兵器廃絶」とするよう、広島市長と市議会議長に文書で申し入れる。
92 03 19 「核兵器全面禁止・廃絶のためにヒロシマ・ナガサキからのアピール広島市署名推進委員会、国連軍縮広島会議で核兵器の緊急廃絶を議題とするよう国連に求めることを、広島市と市議会に要請。
92 03 27 田中義具ジュネーブ軍縮会議日本政府代表部大使、平岡広島市長と広島市内で会談。国連軍縮広島会議について意見を交換。
92 05 13 広島県被団協(市岡正憲理事長代行)、米国の国連本部軍縮室に国連軍縮広島会議の主要テーマを「核兵器廃絶」とするよう要請書を送付。
92 05 13? 高橋昭博ら2人の被爆者が国連軍縮広島会議終了後の6月18日、各国代表に被爆体験を証言することが決定。
92 05 15 堂ノ脇光朗前軍縮大使、国連軍縮広島会議の会場視察のため広島市を訪問。
92 06 03 広島県被団協(市岡正憲理事長代行)、広島平和文化センタ-に、国連軍縮会議代表に核兵器廃絶を要請できるよう取り計らって欲しいと申し入れ。
92 06 03 広島平和文化センタ-、国連軍縮局から明石国連事務総長特別代表が国連軍縮広島会議に出席できないとの連絡を受ける。
92 06 09 宮沢首相、国連軍縮広島会議への出席を断念。
92 06 10 国連軍縮広島会議の参加者が決定。海外22か国31人と国内38人計69人。
92 06 12 広島県被団協(市岡正憲理事長代行)、核兵器廃絶を国連軍縮広島会議の主要テーマにするよう求めた英文の申入書を広島平和文化センタ-に提出。
92 06 12 プロブスラブ・ダビニッチ国連軍縮室長、軍縮会議出席のため広島入り。
92 06 15 長崎市議会総務委員会で、国連軍縮広島会議に長崎市が関与していないことに関連し、市の平和行政へのとりくみに対する批判が出る。
92 06 15 国連軍縮広島会議開幕。19か国56人が出席。-18日。
92 06 15 国連軍縮広島会議の参加者、原爆資料館を見学し原爆慰霊碑に献花。
92 06 16 国連軍縮広島会議2日目。「アジア・太平洋地域における対話の開始及び信頼醸成の現状」をテーマに討議。
92 06 16 フィリップ・ゼリコー米ハーバード大学教授、国連軍縮広島会議で「原爆投下は正当」と発言。
92 06 16 国連軍縮広島会議で原爆投下容認発言を行ったゼリコー米大教授、姿を消し会議を欠席。
92 06 17 広島県原水爆被害者団体協議会と広島県原水禁のメンバー約30人、国連軍縮広島会議での米教授の原爆投下容認発言に抗議して原爆慰霊碑前で座り込み。
92 06 17 「平和を願う友の会」(竹内千代ら)、国連軍縮広島会議の参加者全員に手作りの折り紙人形を渡し終える。
92 06 17 大阪府高槻市立庄所小学校の修学旅行生52人、広島国際会議場を訪れ、国連軍縮室のスタッフに折り鶴を手渡す。
92 06 17 国連軍縮広島会議3日目。「大量破壊兵器とその運搬手段の不拡散」・「アジア・太平洋地域における信頼醸成措置」の2つの作業部会に分かれて討議を続行。
92 06 17? 国連軍縮広島会議の参加者、全員が毎日新聞社のアンケートに「核兵器廃絶は可能」と回答。
92 06 18 国連軍縮広島会議、全体会議を開催し閉幕。
92 06 18 国連軍縮広島会議の海外からの参加者約20人、原爆映画「ヒロシマ・母の祈り」を鑑賞後、被爆者2人の証言を聞く。
92 06 19 広島修道大学、国連軍縮広島会議に参加した米国務省科学部門科学専門調査顧問を招いて国際交流講演会を開催。約150人が聴講。
92 07 25 広島県原水禁、国連軍縮広島会議で原爆投下肯定発言をおこなったゼリコーハーバード大助教授を広島に改めて招待し対話することを計画。
92 08 28 広島県原水禁、6月の国連軍縮広島会議で原爆投下を正当する発言をしたゼリコー米ハーバード大講師に反論文を送付。
92 10 05 広島県原水禁、6月の国連軍縮広島会議で原爆投下正当化発言をしたゼリコー米ハーバード大講師から返書を受け取る。
92 11 09 国連軍縮室、1993年に京都市で国連主催の軍縮会議を開催することを明らかにする。
93 01 12 本島長崎市長、国連軍縮会議を被爆50周年に長崎で開催したい意向を表明。
93 01 13 渡辺外相、パリの化学兵器禁止条約調印式で4月に京都で国連軍縮会議(4月13日~16日)を開催することを明らかにする。
93 02 09 国連アジア太平洋平和軍縮センタ-、国連軍縮局と共催で4月13日から4日間、「第3回国連軍縮京都会議」を開催すると発表。
93 03 20 国連軍縮室・国連アジア太平洋軍縮センタ-、第3回国連軍縮京都会議の細目と主な参加者を発表。
93 04 09? 長崎県・市でつくる国連軍縮会議長崎シンポジウム協議会が開催するシンポジウムの概要が決定。
93 04 13 本島・平岡の広島・長崎両市長、国連軍縮京都会議に出席し、参加者や国連関係者と懇談。本島市長、被爆50周年に国連軍縮長崎会議を開催したい意向を伝える。
93 04 13 国連軍縮京都会議開催。-16日。メインテーマ「相互依存世界における軍縮と国家安全保障」。約80人が参加。
93 04 16 国連軍縮京都会議の出席者のうち17か国22人、広島入り。
93 04 17 長崎県・市、ダビニッチ国連軍縮室長らを招き「国連軍縮会議長崎シンポジウム」を長崎市で開催。約420人が参加。
93 04 17 第3回国連軍縮京都会議参加者のうち17か国の22人、広島の原爆資料館などを見学し、被爆者らの話を聞く。
93 04 18 国連軍縮京都会議の参加者によるシンポジウム「アジア太平洋地域における対話構築と共通安全保障の探求」、広島国際会議場で開催。約500人が参加。
93 06 03? 国連軍縮室と国連アジア太平洋軍縮センター、被爆50周年の1995年に長崎市で国連軍縮会議を開催する方向で検討を開始。
93 09 20 本島長崎市長、中田勝郎市議会議長、2年後の被爆50周年の記念行事として国連軍縮会議の長崎開催を、細川首相に要望。首相、理解を示す。
94 02 08 本島長崎市長、記者会見で第6回国連アジア太平洋地域軍縮会議に参加した感想を述べる。被爆50周年に国連軍縮会議を長崎市で開催するよう要請。
94 02 08 石栗勉国連アジア太平洋平和軍縮センター所長、広島入りし、5月に国連軍縮会議を広島市内で開催する方向で準備していることを明らかにする。
94 02 15 広島市、平成6年度当初予算案を発表。6月の国連軍縮広島会議、7月の平和・戦争に関する博物館会議の開催に向けた費用などを盛り込む。
94 05 19 石栗勉国連アジア太平洋平和軍縮センター所長、24日から開催の国連軍縮広島会議に中国・北朝鮮は参加しないことを明らかにする。
94 05 23 ダビノビッチ国連軍縮センター所長、第2回国連軍縮広島会議について「アジア太平洋地域の軍縮と信頼醸成を図る」と記者会見で語る。また、被爆50周年にあたる1995年の国連軍縮会議の開催地として長崎が内定していることを公表。
94 05 24 「ピース・リンク広島・呉・岩国」、国連軍縮広島会議を主催する国連軍縮センターと国連アジア太平洋平和軍縮センターあてに、核兵器廃絶などの取り組み強化を求める要請書を提出。
94 05 24 第2回国連軍縮広島会議開会式・全体会議、広島国際会議場で開催。テーマ「軍備の透明性、地域対話及び軍縮」。-27日。19か国から61人が参加。核拡散防止条約(NPT)の延長問題に議論が集中。
94 05 24 河野洋平自民党総裁、国連軍縮広島会議で、来年広島で核兵器保有国会議を開催するよう提案。
94 05 24 平岡広島市長、国連軍縮広島会議の全体会議で、核保有5か国の首脳会議の開催など、核兵器廃絶やヒバクシャ救援を目的とした提案をおこなう。
94 05 24 本島等長崎市長、国連軍縮広島会議で被爆50周年に国連軍縮会議を長崎で開催したい意向を表明。
94 05 24 日本政府代表、国連軍縮広島会議の発言で、来年の軍縮会議の長崎開催支持を表明。
94 05 24 第2回国連軍縮広島会議の参加者、原爆資料館を見学。
94 05 25 「被爆体験者証言の集い」、国連軍縮広島会議に参加している伊東壮日本被団協代表委員を囲み被爆者援護法の展望について話し合い。13人が参加。
94 05 25 米国の反核市民団体「ネバダ砂漠の体験」代表パメラ・マイデル、国連軍縮広島会議の出席者に、全面核廃絶を求める要請書を提出。
94 05 25 第2回国連軍縮広島会議、第2日目。「地域安全保障と軍縮推進への努力」をテーマに全体会議。
94 05 26 第2回国連軍縮広島会議、非公開の作業部会。
94 05 26 国連軍縮広島会議に出席中のシャー・インド駐日大使、平岡広島市長を表敬訪問。
94 05 27 ダビニッチ国連軍縮センター所長、来年の国連軍縮長崎会議には中国・北朝鮮が参加する公算が大きいことを明らかにする。
94 05 27 広島県・市など、公開シンポジウム「核軍縮と今日の安全保障対話」を、広島国際会議場で開催。ダビニッチ国連軍縮センター所長をコーディネーターに軍縮会議に参加した5カ国の5人が参加。市民約750人が聴取。
94 05 27 国連軍縮広島会議、締めくくりの全体会議。
94 05 27 国連軍縮広島会議の参加者ら約40人、原爆記録映画「ヒロシマ・母たちの祈り」を鑑賞後、高蔵信子と高橋昭博の被爆体験を聴取。
94 07 04 長崎県、被爆50周年に国連軍縮会議を長崎市に誘致するため高田知事らが10月か11月にニューヨークの国連本部を訪問し要請する予定であることを発表。
94 07 26 長崎県の戦後50周年記念事業懇話会、第1回会合を開催。県が提示した国連軍縮会議の開催などの事業計画案について話し合う。
94 10 12 高田長崎県知事と本島長崎市長、米ニューヨークの国連本部を訪れ、来年の被爆50周年に国連軍縮会議を長崎市で開催することを正式に要請。-13日。
94 10 13? グールディング国連事務次長、国連軍縮会議を1995年6月12日から長崎市で開催することを高田長崎県知事・本島長崎市長ら訪問団に正式回答。
94 10 18 高田長崎県知事・本島市長、国連軍縮長崎会議開催を要請するためのニューヨーク国連本部訪問を終え、県庁で記者会見。長崎開催の正式決定と「核廃絶」が主要議題になったことを明らかにする。
95 02 16? 長崎市で6月15日から5日間の日程で開催予定の国連軍縮長崎会議のテーマがまとまる。「半世紀の軍縮努力と展望」。
95 02 24 石栗勉国連アジア太平洋平和軍縮センター所長、6月の国連軍縮会議の打ち合わせのため高田長崎県知事・本島長崎市長を訪問。
95 05 11 村山首相、6月12日から長崎市で開催される国連軍縮長崎会議に出席の意向を表明。
95 05 17 村山首相が6月から長崎市で開催される国連軍縮長崎会議で演説することが決まる。
95 06 06 共産党長崎市議団、伊藤長崎市長に対し、国連軍縮長崎会議で核兵器全面禁止などを各国代表や国連に強く働きかけるよう申し入れ。
95 06 08 原水爆禁止長崎県協議会、国連軍縮長崎会議で核兵器廃絶を求める県民の願いを強く主張するよう高田県知事に申し入れ。
95 06 08 国連軍縮長崎会議を主催する国連の現地事務所が長崎市内のホテルに開設される。
95 06 09 長崎県原水禁、長崎市平和公園で「反核9の日座り込み」で、国連軍縮長崎会議で核兵器廃絶を真剣に討議するよう求めるアピールを採択。高田県知事・伊藤市長に提出。
95 06 09 村山首相、国連軍縮長崎会議への出席取りやめを決める。
95 06 11 NGO「ワールド・ピース・プレイヤー・ソサエティー」、国連軍縮長崎会議の開催に合わせて「世界各国の平和を祈る長崎の集い」を長崎市内で開催。約130人が参加。
95 06 12 徐冒植北朝鮮外交部軍縮課長、国連軍縮長崎会議に参加した長崎市で記者会見し、同国内の被爆者の実態調査を開始していることを明らかにする。
95 06 12 村山首相、国連軍縮長崎会議の演説(園田官房副長官代読)で、来年に「核軍縮セミナー」を日本で開くことを提案。
95 06 12 長崎の被爆者と若者代表、国連軍縮長崎会議の開会式で被爆体験や平和への願いを訴える。会議の場でのこうした訴えは初めて。
95 06 12 国連軍縮長崎会議、開会式を長崎市内のホテルで開催。36か国91人が参加。平岡広島市長、10月に採択される国連50周年記念特別宣言に核兵器廃絶促進を盛り込むよう提案。
95 06 12 国連軍縮長崎会議、「過去半世紀における軍縮努力と将来への展望」をテーマに開幕。-16日。国連軍縮会議としては初めて「核兵器廃絶」をテーマに掲げる。
95 06 12 国連軍縮長崎会議の参加者やオブザーバー約80人、長崎市の平和祈念像に献花、原爆資料館を見学し、原爆養護ホームを慰問。
95 06 14 国連軍縮長崎会議(全体会議)。伊藤長崎市長、再度の長崎開催を提案。
95 06 15 国連軍縮長崎会議。非公開の作業部会。核兵器廃絶が討論されず、究極の目標確認に終わる。
95 06 15? 共同通信社、国連軍縮長崎会議参加者を対象としたアンケート結果をまとめる。「原爆投下は正しくなかった」とする回答が6割を占める。
95 06 16 国連軍縮長崎会議、最終全体会議を開催。ダビニッチ国連軍縮センター所長が総括報告。「究極的な核廃絶」を確認。
95 06 16 国連軍縮長崎会議の一環として長崎市内で軍縮シンポジウムが開催される。
95 06 18 広島県・市・平和文化センター、国連軍縮長崎会議の参加者を招きシンポジウム「核軍縮の促進と核兵器廃絶」を広島国際会議場で開催。約500人の市民が参加。
96 01 26? 第8回国連軍縮会議(5月開催予定)の開催地が広島市に決定。
96 03 21 国連、5月に開催予定だった国連軍縮広島会議を7月頃に延期すると広島市に連絡。
96 06 06 広島県、7月に広島市で開催される第3回国連軍縮広島会議の概要を発表。テーマは「より安全な、また核兵器のない世界に向けての共通の努力」。
96 07 17 第3回国連軍縮広島会議の開会式、広島国際会議場で開催。22か国の政府関係者や学者62人が参加。
96 07 17 第8回国連軍縮会議、広島市で開催。-20日。
96 07 17 第3回国連軍縮広島会議の各国の参加者、広島市平和公園の原爆慰霊碑に参拝後、原爆資料館を見学。
96 07 18 第3回国連軍縮広島会議(第2日)。全体会議「通常兵器・新たな問題」、作業部会「核軍縮促進のための今後の措置」、「信頼醸成措置と地域の安全」を開催。
96 07 19 第3回国連軍縮広島会議「広島県民・市民との対話」、広島国際会議場で開催。海外参加者と被爆地代表9人が意見交換。
96 07 19 第3回国連軍縮広島会議の海外参加者ら約60人、渡辺美代子の被爆の証言を聴取。
96 07 20 第3回国連軍縮広島会議、総括の全体会議を開き閉幕。
96 10 08 桂信雄札幌市長、来年7月22日-25日に、札幌市で国連軍縮会議を開催すると発表。
97 03 26 伊藤長崎市長、国連軍縮長崎会議の来年開催を国連側に要請する考えを国連側に要請する考えを明らかにする。
97 06 21 伊藤長崎市長、来年の第10回国連軍縮会議が長崎で開催される見通してあることを明らかにする。
97 07 22 国連軍縮札幌会議、開催。32か国からオブザーバーを含む101人が参加。-25日。
97 07 27 長崎県・長崎市、国連軍縮札幌会議の海外参加者を招いて「国連と軍縮シンポジウム」を長崎原爆資料館で開催。約300人が参加。
97 08 28 伊藤長崎市長・高田県知事、国連本部を訪問。-29日。2日、帰国の記者会見。来年秋の国連軍縮会議の長崎開催が実現しそうだと語る。
97 11 26? 国連軍縮会議の第10回会議が来年11月に長崎市で開催されることが内定。
98 02 10 伊藤長崎市長、国連に対し県とともに要請していた国連軍縮会議の同市開催が決定した、と発表。同会議は今年で10回目、長崎開催は2回目。
98 02 24 長崎市、新年度予算案を発表。新規予算として国連軍縮長崎会議開催費負担金2000万円など。
98 09 25 平岡広島市長、長崎市で11月に開かれる国連軍縮会議でのあいさつの中に、米国の臨界前核実験への抗議を盛り込む考えを、市議会本会議の一般質問の中で明らかにする。
98 11 13 長崎市の「平和推進専門会議」の初会合、東京で開催。「国連軍縮長崎会議」への対応などを協議。
98 11 15 朝日新聞「国連軍縮会議、24日から長崎で-議題はひとつ、核廃絶」
98 11 17 長崎平和研究所・長崎総科大学平和文化研究所、国連軍縮長崎会議に向け緊急シンポジウム「核不拡散・廃絶への道を探る」を長崎原爆資料館で開催。
98 11 19 中国新聞連載「核なき世界へ-10回目の国連軍縮会議」(-24日、6回)。
98 11 22 長崎新聞「長崎で再び国連軍縮会議-「核不拡散・核軍縮」に絞り論議」
98 11 24 武見敬三外務政務次官、日本政府が来年4月か5月にカザフスタン共和国・セミパラチンスク旧核実験場周辺の被曝者を救済する技術・医療協力を推進するための国際セミナーを日本で開催する方針を、国連軍縮長崎会議の挨拶の中で明らかにする。
98 11 24 国連軍縮長崎会議。基調テーマ「核兵器のない世界に向けて」。-27日。10回目。
98 11 24 国連軍縮局など、国連軍縮長崎会議を長崎ブリックホールで開催。海外23か国の29人と国内42人の計71人が参加。広島・長崎両市長や山口仙二が開会式で挨拶。市民約1000人が傍聴。
98 11 24 長崎市内の中学・高校計30校の生徒約420人、国連軍縮長崎会議の開会式を傍聴。主催者が招待。
98 11 24 国連軍縮長崎会議(第1日)。明石康広島平和研究所長が基調講演「核不拡散・軍縮を阻害する新たな課題」。「核不拡散および軍縮を阻害する新たな課題」をテーマにした全体会議。
98 11 24 国連軍縮長崎会議の参加者、会議を前に長崎原爆資料館を訪問。
98 11 25 長崎新聞「国連軍縮会議要旨」
98 11 25 国連軍縮長崎会議に参加したインド・パキスタン・米国・中国などからの6人、谷口長崎被災協会長代行、杉本県被爆二世の会会長ら6人と懇談。
98 11 25 国連軍縮長崎会議(第2日)。「当面の課題・核兵器開発能力の拡散をいかに防ぐか」をテーマに全体会議。
98 11 25 国連軍縮長崎会議に参加したインド・米国・パキスタン・インドネシア・中国の代表5人、長崎の高校生・大学生34人との意見交換会に出席。
98 11 26 長崎新聞「国連軍縮長崎会議・2日目要旨」
98 11 26 朝日新聞「時時刻刻:「核拡散」危機直面で緊迫 国連軍縮長崎会議」
98 11 26 国連軍縮長崎会議(第3日)、「核軍縮への現実的手段」と「核不拡散および軍縮への好ましい環境づくり」をテーマとする全体会。核兵器廃絶への取り組みと長崎を最後の被爆地とする決意を盛り込んだ決議を採択。軍縮会議での決議は初めて。
98 11 27 長崎新聞「国連軍縮長崎会議・3日目要旨」
98 11 27 国連軍縮長崎会議。最後の全体会を開催。
98 11 28 長崎新聞「国連軍縮会議閉幕、成果と課題」
98 12 02 伊藤長崎市長、国連軍縮長崎会議を、核兵器廃絶への大きな一歩と、市議会本会議で評価。
98 12 02 朝日新聞「国連軍縮長崎会議:核の惨禍、繰り返さぬ、被爆地からの決意の一歩」
98 12 07 広島県立庄原格致高校高野山分校、「教育に新聞を」(NIH=Newspaper In Education)の公開授業を実施。「国連軍縮長崎会議」・「被爆」などを取り上げる。
98 12 08 毎日新聞「記者の目:国連軍縮長崎会議-「核廃絶の意志」連携を」(綿貫洋・長崎支局)
98 12 08 長崎新聞「わがまち回顧(1)本社(上)-「長崎を最後の被爆地に」-国連軍縮会議で決議」
98 12 15 平岡広島市長、明石広島平和研究所長の「普遍的核の傘」発言(国連軍縮長崎会議の基調講演で)について慎重論を、市議会一般質問の中で述べる。
98 12 22 中国新聞「中国新聞を読んで:国連軍縮会議-市民とのかかわり焦点」(吉田修)
99 07 27 国連軍縮局・国連アジア太平洋平和センター、国連軍縮京都会議を国立京都国際会館で開催。24か国60人の政府高官・軍縮専門家らが参加し、「今後10年間の安全保障上の懸念と軍事戦略」をメーンテーマに意見交換。-30日。
99 07 27 明石康・前広島平和研究所長、国連軍縮京都会議で基調講演。東京フォーラムの内容を紹介。
99 07 27 武見敬三外務省政務次官、カザフスタンなど5か国による中央アジア非核地帯設置に向けた取り組みを財政支援することを、国連軍縮京都会議の開会式で明らかにする。
99 07 28 国連軍縮京都会議(第2日目)。東京フォーラムの報告書について意見交換。「北東アジアにおける安定と協力」について集中討議。
99 07 29 毎日新聞「「平和」に不況の影-次回開催地決まらず-自治体負担4000万円[国連軍縮会議]」
99 07 29 国連軍縮京都会議(第3日目)。「核兵器とミサイル」・「通常兵器軍縮の再検討」の二つの全体会議を開催。
99 07 30 朝日新聞「時時刻刻:国連軍縮京都会議 24カ国が参加-軍拡阻め10年の計」
99 07 30 国連軍縮京都会議(第4日目)。閉会式。5つの全体会のごとに討議内容を報告。
99 08 02 長崎新聞「報道スペシャル:国連軍縮京都会議を終えて」
99 08 11 毎日新聞「深層:国連軍縮京都会議を振り返って-北朝鮮不参加にいら立ち」
99 10 28? 広島市など自治体が財政難を理由に、開催引き受けに伴う約4000万 円の費用負担を渋っているため、国連軍縮会議の2000年の開催が危ぶまれる。
00 08 22 国連軍縮局・国連アジア太平洋平和軍縮センター、国連軍縮秋田会議、秋田市で開催。明石康前国連事務次長(広島平和研究所前所長)が「国連の役割」と題して問題提起。-25日。主テーマ:21世紀の軍縮と国連-その戦略と行動。広島・長崎両市長が出席。

ハーグ平和市民会議

 1899年にハーグで開催された平和会議の100周年を記念し、1999年5月12日~15日、オランダのハーグで開催。「国際反核法律家協会」・「核戦争防止国際医師会議」・「国際平和ビューロー」・「世界連邦運動」の4団体が、国際社会から戦争と軍備(とりわけ核兵器)をなくすための討論と運動を、世界に呼びかけた。

文献

 

年月日 書名 編著者
2000806 戦争のない世界の実現を-公正な世界秩序のための基本10原則 日本ハーグ平和アピール運動

 

年表

Y M D NEWS1
99 01 30 原水爆禁止日本協議会、全国理事会を東京都内で開催。-31日。1999年度の運動方針としてガイドライン関連法案反対運動を推進すること、5月にハーグで開催される国際平和市民会議に代表団を派遣するこなどを決定。
99 03 02 長崎市、オランダ・ハーグで5月に開かれるNGO(非政府組織)主導の国際市民平和会議「ハーグ平和アピール1999」に幹部職員ら数人を代表として派遣する方針を明らかにする。
99 03 18 広島県原水禁、常任理事会を開催。5月にオランダのハーグで開催されるハーグ国際市民平和会議に7人の派遣団を送ることを決める。
99 04 27 ピースボート(本部:東京)、ハーグで開催される世界市民平和会議に北朝鮮の代表を招き、北東アジア非核化などについて討議する計画を明らかにする。
99 04 27 日本被団協・日本生協連などでつくる「つたえようヒロシマ・ナガサキ」、ハーグで開かれる世界市民平和会議に総勢79人の共同代表団を派遣することを明らかにする。広島県からは、両被団協の代表ら5人が参加。
99 05 06 中国新聞連載「築け非核市民ネット-印パ衝撃から1年-ハーグNGO平和会議を前に」(-8日、3回)
99 05 07 伊藤長崎市長、記者会見でハーグ市民平和会議に出席することを明らかにする。
99 05 09 「第9条の会ヒロシマ」の世話人・藤井順子、ハーグ平和会議に出席するため出発。
99 05 10 朝日新聞「ハーグ平和会議 期待と役割-県内から惨禍の4人に聞く」
99 05 10 広島からハーグ平和会議に出席する金子一士・坪井直・石川俊義の出発式、JR広島駅で実施。約30人が見送る。
99 05 10 秋葉広島市長、ハーグ平和会議に出席するため広島を出発。-16日。
99 05 11 長崎原爆松谷訴訟の原告・松谷英子、ハーグの市民平和会議に出席するため日本を出発。
99 05 11? 「核兵器廃絶を求める広島・長崎市民集会」実行委員会、「ハーグ平和アピール1999」で、NATO軍によるユーゴスラビア空爆の中止や今世紀中に国連軍縮特別総会を開き核兵器廃絶宣言をすることなど7項目を提言することを計画。
99 05 11? ハーグ市民平和会議で採択される提言「21世紀の平和と正義への課題(ハーグ・アジェンダ)」の草案が明らかになる。1.市民(団体)の重要性、2.軍備に頼らない人間の安全保障と人権の尊重、3.力の支配から法の支配への転換、など。
99 05 12 世界市民平和会議「ハーグ平和アピール1999」、オランダのハーグ市国際会議場で開催。-15日。100か国から日本の400人を含む約8000人が参加。
99 05 12 日本被団協などの「つたえようヒロシマ・ナガサキ共同代表団」、オランダ・ハーグ市内で被爆者の証言集会を開催。約60人が入れる会議室は満員。
99 05 13 秋葉広島市長、「ハーグ平和アピール1999」の中の「軍縮と人間の安全保障」全体会で冒頭発言。核抑止論の打破を訴える。
99 05 13 秋葉広島市長・伊藤長崎市長、「ハーグ平和アピール1999」の「ジャパン・デー」で講演。被爆体験の継承を訴える。
99 05 13 ハーグ世界市民平和会議、広島・長崎の被爆者や世界の核実験被害者が被爆の実相を語る討論集会を開催。200人以上が参加。
99 05 14 世界平和連帯都市市長会議と「ピースメッセンジャー都市国際協会」、オランダ・ハーグで会合を開く。20都市の約90人が参加。秋葉広島市長、ネットワークの強化を呼びかける。
99 05 14 日本のNGOピースボートが「ハーグ平和アピール1999」で企画した東アジアの非核地帯化を目指す会合、予定していた北朝鮮のパネリストが欠席のまま開催。
99 05 14? 森下一徹・伊藤孝司・桐生広人・豊崎博光・本橋成一の5人、「ハーグ平和市民会議」の会場で世界の「ヒバクシャ」をテーマとした写真展を開催。
99 05 15 朝日新聞「時時刻刻:ハーグ市民会議-空爆・・・すくむ平和の理念」
99 05 15 世界市民平和会議「ハーグ平和アピール1999」、核兵器禁止条約の交渉完結などを求める「21世紀の平和と正義に向けたハーグ・アジェンダ(提言)」を採択して閉幕。
99 05 16 朝日新聞社説「ハーグ会議-したたかに、しなやかに」
99 05 16 オランダ・ハーグからNATO本部のあるベルギー・ブリュッセルまで歩く「核廃絶2000ウオーク」、ハーグを出発。平和市民会議の出席者ら約500人が参加。出発集会で日本の被爆者4人が挨拶。
99 05 16 秋葉広島市長、ハーグでの世界市民平和会議から帰国し、記者会見。
99 05 17 伊藤長崎市長、ハーグの国際市民平和会議から帰国し、記者会見。
99 05 18 中国新聞連載「ハーグ発平和-検証世界NGO会議」(-19日、2回)
99 05 19 朝日新聞「主張・解説:ハーグ平和市民会議-NGO、収穫と課題と-国際舞台で軍縮けん引、日本の指導性に期待も」(山本敦子・深津弘・斎賀孝治)
99 05 19 朝日新聞「ハーグ市民会議-「戦争」被害手つなぎ発信-広島・長崎の被爆者-核実験場の犠牲者らと証言」
99 05 25 朝日新聞(広島版)「風・取材ノートから-ハーグ会議で知った「市民」の様々な主張」
99 05 25 大庭里美「プルトニウム・アクション・ヒロシマ」代表、広島市役所で世界市民会議「ハーグアピール1999」の帰国報告。
99 05 28 長崎新聞連載「ハーグの報告-平和会議に参加して」(-6月4日、7回)
99 05 28 坪井直・金子一士ら、オランダ・ハーグで開かれた世界市民会議に参加した5人、広島市役所で共同の記者会見。
99 06 05 中国新聞「中国論壇:ハーグ精神とNATO空爆-国連軸に平和の世紀に」(神谷昌道)
99 06 08 中国新聞「中国新聞を読んで:ハーグ平和会議-「核」追跡継続を熱望」(三上瞻)
99 06 09 朝日新聞(広島版)連載「ハーグからヒロシマへ」(-11日、3回)
99 06 26 毎日新聞「ウイークエンド・リポート:NGOから世界へ発信-ハーグ平和アピール1999-100か国超、8000人が参加」
99 07 23 「被爆体験証言者交流の集い」、広島原爆資料館で開催。坪井直広島県被団協事務局長と石川俊義自治労連委員長がハーグ会議への出席報告。約20人が参加。
99 07 23 広島原爆資料館、講演会「ハーグ平和アピール1999に参加して」を同館で開催。講師:金子一士、坪井直。(「ひろしま市民と市政」)

広島市勢要覧にみる「観光都市広島」

広島市勢要覧にみる「観光都市広島」

1947(昭和22)年版

観光

広島市は日本三景の一つである厳島を控へ、国立公園随一、詩の瀬戸内海に面し、デルタ上を六つの清流が貫き、山紫水明で、而も海陸交通の便極めてよく、北に行っては桜と鵜飼の三次、つつじと、スキーの道後山、及び芸北の仙境三段峡等があり、又泉都別府、道後に船の旅を楽しむもよく、而も原子爆弾により、国際的に有名化し、世界に冠絶した観光都市として内外人の訪客を受けようとしつつある。殊に終戦後は、軍国の黒衣に包まれていた瀬戸内海島の要塞地帯の景勝地を、あます所なく開放し、更に貿易港としての指定を受けることになれば、観光上喜びにたえないところである。

市に於ても本年1月商工会議所に観光協会を設立し、地方産業、経済並びに文化の向上に寄集すると共に国際親善を期しつつあり、其の最初の事業として市の緑化を企図し、4月に植樹祭及び緑の週間を実施した。次いで8月15日の貿易再開を機にバイヤーの誘致につとめ「かき」、「のり」、「缶詰」、「縫針」等広島の特産品を通じ外貨獲得による日本経済再建をもはかりつつある。

史蹟、名勝等

本市には大本営跡、旧御便殿、広島行在所跡、第7回帝国議会仮議場跡、頼山陽旧居、国宝広島城、縮景園、広島護国神社、饒津神社、国泰寺等由緒深ひ史蹟等があったが、これらも昭和20年8月6日の戦災により潰滅して漸くにして戦禍を免れ又は其の面影を残しているものは次の通りである。

千田廟と千田男爵銅像

往年日本の大玄関として名声のあった宇品港は、明治17年時の県令千田貞暁によって起工せられ、工費30余万円5カ年の歳月を経て完成を見た。

其の後4年日清戦役勃発するやこの宇品港は一躍重要基地として国運の進展に寄与し、次々の事変戦役にも重要役割を果たしてきた。

市民は千田県令の偉大なる事業を偲び大正4年宇品町御幸通りの中央に高く広島湾の海波を望んで銅像を建立し、後更に千田廟を祀り毎年4月盛大なる千田祭を執行して来ったのである。

不動院(牛田町)

天正2年僧行基の開基と伝へられ、当時は行基自ら観音像を彫刻し、七堂伽藍を創建して新日山蓮華王寺と称し、方7町12の末寺を備へていたと云う。その後大永年間兵火にかかって荒廃したが、安国寺恵瓊豊太閤に請うて再建し不動院と称し、豊太閤、朝鮮征伐の途次当院に滞陣した。背後の丘には、豊太閤及び福島正則の遺髪の塔がある。

不動院は、現に古義真言宗仁和寺の末寺、金堂は天文年間の建立、天井画龍の落款に「天文庚子冬十月日僧永怡筆」とあり純乎たる唐様禅宗建築堂層入母屋造で、一見鎌倉円覚寺舎利殿を大きくした様なもので、室町時代禅宗建築の傑作の一に数えられている。尚当院には豊臣時代の古文書多数所蔵されて居り、豊太閤と縁故の深い事を物語っている。

頼家の墓(比治山本町)

頼家一門の門主たる人々の墓は、比治山公園多聞院付近にある。春水、梅颶、聿庵、杏坪等20数基に上るが、山陽三樹三郎の墓はここにない。春水は竹原(賀茂郡)の人、山陽の父で山陽3歳の時招かれて藩儒となり、大阪より移って7代重晟、8代斎賢藩主に仕へた朱子学者である。

杏坪は山陽の叔父、春水と同じく朱子学者で、始め広島藩に仕へ後自ら願出で三次奉行となって令名高く、芸藩通誌の著者として著名である。

梅颶は山陽を生み、山陽を育しみ、山陽を大成せしめた賢夫人、人の子の真の母親として亀鑑又立派な学者であった。聿庵は山陽の長子で春水の跡を継ぎ、広島藩に仕へた。

1948(昭和23)年版

観光

本市は中国地方及び瀬戸内海の海陸通運の中心基地であって本市を囲繞する主要観光地への連結路線の基点である。
即ち海上15粁を距てる宮島と表裏一体をなし、西に岩国、北に仙境三段峡、帝釈峡及び桜と鵜飼の名勝である三次とは、芸備線で更に山陰の出雲、松江とは「広浜急行バス」で直結し東に新生呉港、南に国立公園瀬戸内海の島々及び四国の道後、松山次いで遠く九州の泉都別府とは定期船で広島港に継がっている。

本市は原爆のため観光資源も観光施設も壊滅したのであるが廃墟の中から吾々の新しい観光資源が取り上げられた。即ち原爆記念保存物である。爆心地、元安橋、産業奨励館、相生橋、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、芸備銀行、大阪銀行、山陽記念館、国泰寺の石塔、県庁跡、御幸橋ガスタンクがそれである。今後日本に来遊する国際観光客の殆ど全部は、広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールの主要部分とするであろう。

観光ホテル

本市には外人客の宿泊設備が無いために外客専用の観光ホテルの設置が強く要望せられていたが、昭和23年11月2日観光審議会に於ては本市に近代施設を完備した国営の観光ホテルを建設することに決定した。

右は国庫支出に係る5カ年計画事業で床敷100床を設備するものである。その場所は全市を俯瞰する比治山か或は瀬戸内海を眺望する向宇品かの何れかに選定する可く考究中である。

平和記念館

原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して、8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室や平和塔を有する記念館を建設して平和広島の「シンボル」とする計画である。

この資金は全世界に呼びかけて広く平和愛好者の浄財を募る計画である。これが第一着手として戦災直後の状景を有りのままに現出した縮尺50分の1の模型13景を作成することとなり、その数個は既に出来上っている。

史蹟、名勝

本市には大本営跡、広島城跡、旧比治山旧御便殿、御即位大典記念館、縮景園、饒津神社、国泰寺等由緒深い史蹟があったが、何も戦災により壊滅したが、戦禍を免れその面影を残しているものは次の通りである。

東照宮

市内尾長町の中腹に在り天保年間藩主浅野光行の創建に係り徳川家康の霊を祀っている、境域5300平方米、社殿は南面し石階51殿である。往時は社殿壮麗を極め祭礼儀頗る盛大であったとゆわれている。

不動院[略]

頼山陽文徳殿

比治山公園の山腹に在り、頼山陽の百年祭を記念するために広島市単独の事業として計画し山陽文徳殿建設翼賛会の努力により完成、昭和9年10月15日の竣工である。

頼家の墓 頼山陽の父春水を初め頼家一門の墓は比治山公園多聞院付近にある。

千田廟と千田男爵銅像[略]

1949(昭和24)年版

観光

本市は中国地方及び瀬戸内海の海陸通運の中心基地であって本市を囲繞する主要観光地への連結路線の基点である。
即ち海上15粁を距てる宮島と表裏一体をなし西に岩国北に仙境三段峡、帝釈峡及び桜と鵜飼の名勝である三次とは芸備線で、更に山陰の出雲、松江とは「広浜急行バス」で直結し東に新生呉港、南に国立公園、瀬戸内海の島々及び四国の道後松山、次いで遠く九州の泉都別府とは1000噸級優秀定期船で広島港に継がっている。

市内は原爆のため観光資源も観光施設も壊滅したのであるが廃墟の中から新しい観光資源が取り上げられた。即ち原爆記念保存物である。爆心地、産業奨励館、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、大阪銀行、国泰寺の石塔、御幸橋、ガスタンク等がそれである。日本に来遊する国際観光客の殆んどが広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールに組入れて居る。そして更に今後建設されてゆく広島平和記念都市そのものが人々のこよなき観光対象となってゆくであろう。

観光ホテル

本市は外人客の宿泊設備が無いために外客専用の観光ホテルの設置が強く要望せられているが、泉邸を利用して総工費4500万円で和洋折衷の高級ホテルが計画され第一期工事は昭和25年3月15日に着手することとなっている。

又洋式ホテル並にレストランを目的として児童文化会館付近に建坪210坪総工費1億1千万円を以て広島国際観光文化会館が計画されている。

平和記念館

原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室、平和塔等を有する記念館を建設して平和広島の「シンボル」とする計画である。

この資金は全世界に呼びかけて広く平和愛好者の浄財を募る計画である。これが第一着手として戦災直後の状景を有りのままに現出した縮尺1/50の模型13景を作成することとなりその数個は既に出来上っている。

史蹟名勝

本市には大本営跡、広島城跡、旧比治山旧御便殿、御即位大典記念館、縮景園、饒津神社、国泰寺等由緒深い史蹟があったが何も戦災により壊滅したが戦禍を免れその面影を残しているものは次の通りである。

東照宮[略]

不動院[略]

頼山陽文徳殿[略]

千田廟と千田男爵銅像[略]

1950(昭和25)年版

観光

広島市は今日に於ては世界隈なくその名を知られ、全世界の人々から異常か関心を以て注目せられて居る都市であり、当市に杖を曳く世界の人々は夥しい数に上っている。古来山紫水明、温和な気候風土の地として観光面に優秀な素質を有していた広島市は戦災で殆ど凡ゆるものを失ったけれども新たに世界著名観光地の序列の中に加って、その保有する素晴しい観光資源の力を大いに発揮せしめると共に海外一流観光都市の夫々の部面が持つエッセンスを巧みに取入れて一大観光理想郷たらしめようとしている。

勿論広島は360年の歴史の上に立って落ち着きのある風格を有する都市であり、広島市の新しさはこの性格の上に立つものである。そしてこの新しい広島平和記念都市が今後保有するであろう観光資源は次のようなものであろう。

1.都市自体が有する平和の雰囲気、(精神的面の資源で今後の完成に期待される。)

2.模範的に建設された都市形態美、(人工的面の資源で着々建設されつつある。)

3.市内並びに周辺の天然の美、(自然的面の資源で今後一層磨きをかけられてゆくのもである。)

山容、河川、海沿いの美しさ

4.その他一般的観光資源

原爆の遺跡、教養、文化、歓楽施設、市に近接する著名観光地

現存する観光対象物として次のものが挙げられる。

原爆資料館

市内基町中央公民館傍にあり、原子爆弾による本市災害に関する種々の資料を一堂に蒐集して一般の縦覧に供している。世界各地からの参観者は本館を見て8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念する。

東照宮[略]

不動院[略]

三滝観音道場

市内三滝町の山林中にあり1000年の昔、弘法大師唐国より帰朝の砌当地に巡錫、聖観音菩薩の種字を天然石に刻し岩窟に安置した。爾来其の霊験の著しいことと四季山水の風致幽邃雅趣の深さにより一般信徒の杖引く者絶えず、現在は水害、原爆の被害により道場の荒廃甚だしくこれが修築工事中である。

千田廟と千田男爵銅像[略]

1951(昭和26)年版

観光

 『ひろしま』・・・・・

本市は、古来山紫水明温和な気候風土に恵まれ、観光面には幾多の優秀な素質を有していた。

特に市街を流れる七つの川は、山容を影し家々を写して、その壮麗さは水都の代表的存在であった。しかるに、原爆の一せんは市内の由緒ある社寺仏閣、伝統を誇った名勝旧蹟を壊滅し去ったのである。そして、これに代って新たに原子力時代を告げるには、余りにも痛ましい犠牲を宿す原爆遺跡と、10数万犠牲者の無言の警告が残された。

この遺跡と、警告により世界の恒久平和を念願して立上がった市民の真剣な復興意欲は、理想的都市の建設を早めている。最近、躍進するその後の本市をわざわざ視察するため訪問する内外人は、おびただしい数に上っている。特に、訪日観光団等は必ずそのスケジュールに本市訪問を組み、母国への土産話としている。なお、本市近郊には東に旧軍港呉市、西には日本三景の一つである厳島、その他湯来温泉等があり、南は瀬戸内海に面し海陸交通の便は極めてよく、別府及び道後温泉への快適な船旅が出来る。更に、北には桜と、う飼の三次、つつじとスキーの道後山、帝釈峡及び芸北の幽境三段峡等がある。

次に本市の観光行政に協力するため、昭和22年4月広島市観光協会が発足し、市内観光ルート、ミス広島の選定及び観光客の案内等を行っている。

主なる市内の観光対象物を挙げると・・・・・

平和記念館

本館は、平和運動を推進する中枢機能となるにふさわしい施設の一部である。

平和大通り(幅員100米)に近く、横に長い壮麗な建物で、完成後は全長250米、最高20米、幅40米となる。現在建築されているのは原爆資料陳列館で、将来はこの建物の左側に2500人を収容出来る大集会場を、右側に平和文化運動の事務室、研究討論会用の小会議室、美術展覧会場等に使用できる会館が建築される。目下建築中の陳列館の階下は平和大通りの公園に入る玄関として通り抜け出来るように、柱ばかりの廊下になっている。なお南側には米国の有名な彫刻家イサム・野口氏の設計による平和大橋及び西平和大橋が、美麗な姿を清流に映している。

原爆資料館

基町、中央公民館の傍にあり、原爆に関する種々の資料を一堂に集め、一般の観覧に供している。本館の資料は、将来平和記念館内に移される予定である。

産業奨励館

爆心地にあり、アトム広島の代表的記念物として、内外人の訪れは数知れず、その廃きょは当時の惨禍を如実に物語っている。

死の影像

紙屋町電停の南側大阪銀行支店の玄関敷石の上には、あのピカの瞬間、開店をまっていたであろう人の姿が、強烈な光線で焼きつけられている。原爆10景の一つである。

商工会議所

旧産業奨励館と電車道を隔てた所にあり、鉄筋コンクリート建築物で、強烈な爆風によりゆがめられた壁やバルコニー等が、原爆の威力を表示している。

元護国神社跡

商工会議所裏にあり、鳥居、唐しし、その他散在する御影石の表面が、数千度の原爆熱でザラザラに焼けただれている。

不動院[略]

東照宮[略]

三滝観音道場[略]

千田廟と千田男爵銅像[略]

向宇品[略]

似島

宇品港より約30分、市の南端瀬戸内海国立公園内にあり、安芸の小富士と呼ばれ、戦時中は東洋一の陸軍検疫所があった。現在戦災孤児収容所の似島学園がある。

広島城跡

西国の雄毛利輝元が、京都聚楽第の模制をこの地に移し、2年の歳月を経て築城した広島城(在間城、鯉城、当磨城、石黒城の別名あり)5層の天主閣は、原爆により焼失した。

明治27年日清戦争の時大本営が設置され、続いて終戦まで師団司令部がここにあった。

国泰寺墓地

国泰寺墓地の墓標は、爆風の方向に或いは反対の方向に倒れたが、電車道に面した墓標で、爆風にあふれた瞬間、レンガの破片を食わえ込んだ塔石の珍しい風景である。

比治山公園

市の東部にあり、山容が虎に似ているので臥虎山の別称がある。面積16町余四季の眺めをほしいままにした昔の面影は留めないが、市内の展望には絶好の場所で市民散策の好適地である。南側にはABCCがあり、西側山腹には山陽文徳殿及び多聞院がある。

頼家の墓[略]

縮景園[略]

長寿園

市の北端、太田川の清流に沿う約300米の堤で、桜樹多く市民の散策地として有名である。

1952(昭和27)年版

観光

概要

本市は、清流太田川の河口三角州に位置し、古来より山紫水明、温和な気候に恵まれており、広島につえ引くものの遊覧コースには必ず広島城跡、大本営跡、旧北治山御便殿、浅野泉邸等々が組まれ観光遊覧地として好適であった。しかしこれらの名所、旧跡のほとんどは、戦禍に消えうせ、終戦後の数年間は本市を訪れる観光客の観光対象となったものは原爆による荒廃であった。従って一時は顕著な原爆被害記録物とそれに伴う記念物の羅列になっていた。しかし本来の観光資源も年とともに整備され、真に楽しめるものが復活して来ており、また世界的に注視を集めている平和記念都市が着々と建設されているので、都市自体が観光の意義をもつようになり、世界平和のメッカとして平和を愛好する内外の人々の来訪が著増しつつあるのも本市観光の特色である。特に訪日観光団はそのほとんどが本市訪問をそのスケジュールに組んで母国への土産話にしている。

市街を貫く七つの川は、その水清く山海を映し河畔の民家を写し夜のネオンを流して市街を一層麗しくし、相生橋をはじめ30有余の橋りょうとともに水都広島の美観一入である。この水の注ぐ波静かな瀬戸内海国立公園は大小様々な島々を浮べその風光の美をたたえられている。東に進めば平清盛が開いた音戸の瀬戸があり、旧軍港呉市、野呂山高原がある。西に下れば手の届くところに日本三景の一つ安芸の宮島がある。更に北方には桜と、う飼の三次、つつじとスキーでにぎわう道後山公園、帝釈峡及び芸北の幽境三段峡がある。これらはいずれも本市からの交通も至便であるので、四季の移り変りに遊ぶ人歩多く、本市の観光を中心とする広範囲な観光ルート圏を形成している。

本市の観光行政に協力するため、昭和22年4月広島市観光協会が発足し市内観光ルート、ミス広島の選定及び観光客の案内等を行っている。

市内の観光対象物の主なるものは次のようなものである。

観光施設

平和記念館

幅員100米の平和大通りと爆心地との中間に建設中の本館は、東西に長い壮麗な鉄筋コンクリート建造物で、平和運動を推進する中枢機能となるにふさわしい施設である。完成後は全長250米、最高20米、幅40米となる。現在建築されているのは原爆資料陳列館で、将来はこの建物の西側に2500人を収容出来る大集会場を、東側に平和文化運動事務室、研究討論会用の小会議室、美術展覧会場等に使用できる会館が建築される。これをつなぐ陳列館の階下は平和大通りから公園に入る玄関として巨大な柱の間を通り抜けられるようになっている。

原爆資料館

基町、中央公民館の北隣にあり、原爆被害に関する種々の資料を一堂に集め、一般の観覧に供している。本館の資料は、将来平和記念館内に移される予定である。

産業奨励館

爆心地にあり、アトム広島の代表的記念物として、内外人の訪れは数知れず、その廃きょと化した容姿は当時の恐るべき破壊力と惨禍を今日も如実に物語っている。

死の影像

紙屋町電停の南側住友銀行広島支店の玄関敷石の上には、あの原爆さく裂の瞬間、開店をまって石段に腰かけていたであろう人の姿が、強烈な光線で焼きつけられた石面に残っている。原爆10景の一つである。

元護国神社跡

商工会議所裏にあり、鳥居、唐しし、その他散在する御影石の表面が、数千度の原爆熱でざらざらに焼けただれている。

似島

宇品港より船で約30分、瀬戸内海国立公園内にある市内南端の島で、その山容美しく安芸の小富士と呼ばれている。戦時中は東洋一の陸軍検疫所があったが、現在戦災孤児育成所の似島学園がある。

国泰寺墓地

国泰寺墓地の墓標は爆風の方向にあるいは反対の方向に倒れたものが多かったが、電車道に面した墓標で、爆風にあふれた瞬間、飛散してきたレンガの破片をくわえ込んだ塔石の珍しい風景がある。

不動院[略]

東照宮[略]

三滝観音道場[略]

千田廟と千田男爵銅像[略]

向宇品[略]

広島城跡

広島城は西国の雄毛利輝元が、京都聚楽第の模してこの地に天正19年2カ年の歳月を費して築造したもので鯉城、在間城、当磨城、石黒城等の別称があった。明治27年日清戦争の時大本営が城内に設置され、続いて師団司令部があったが、5層の天主閣をはじめすべての建物は原爆により焼失して、今では壕と築石が昔をしのばせている。

比治山公園

市の東部にあり、山容が虎のふした形に似ているので臥虎山の別称がある。面積16町余四季の眺めを楽しめる丘陵公園であり、山頂より南面すれば広島湾の風光を、西面すれば市街の8割を展望出来る絶好の場所で市民散策の好適地である。

西側山腹には山陽文徳殿、頼家の墓及び多聞院があり、南側山頂にはABCC(原爆傷害調査委員会)がある。

山陽文徳殿[略]

頼家の墓[略]

縮景園[略]

長寿園[略]

広島遊園地

仁保町本浦にあり、つつじ、藤の名所として有名である。

慰霊碑

爆心地に近い中島の平和記念公園内にあり、昭和27年8月6日の式典において除幕式を行い昭和20年8月6日の原子爆弾にたおれた死没者の氏名を全国にわたって調査して謹記された過去帳がこの慰霊碑内の石函の中に安置奉納された。この石函の正面には「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」と刻み込まれている。毎年8月6日にはこの地点で盛大な平和式典がとり行われる。

平和大橋

百米道路が貫く中島の東側の元安川にかかる平和大橋と、西側の本川にかかる西平和大橋の欄干はともにイサム野口氏の設計によるもので、その新たなる感覚によるデザインは平和都市にふさわしい逸作である。

来広観光客数及び推定消費金額

(昭和27年中、推定総数)(国鉄、汽船、郊外電車、バス調)

 

外来客区分 人 員 1人平均
消費金額(円)
金額(円)
総数 1157420 1243821640
県内客 866757 1000 866757000
県外客 289013 1280 369936640
ハワイ等観光客(39団体) 672 4000 2688000
国外観光団(4団体) 450 4000 1800000
国外個人観光団 528 5000 2640000

 

広島名産

縫針 ミシン針 ゴム製品 かん詰 除虫菊製品 製線 和かさ 仏壇木製品 機械工具 かき羊かん 桜羊かん くり羊かん 味付のり のしかき 川魚料理 生かき 広島菜 かきめし かき船料理 清酒

1953(昭和28)年版

観光

概要

本市は清流太田川の河口三角州に発展し、古来より山紫水明、温和な気候に恵まれ、優美な風景の土地として知られてきた。かつて天正17年毛利輝元がこの地に移り広島と命名してから、すでに364年を経過したが、この間封建時代の城下町としてあるいは諸戦役・事変の軍事基地として幾多の変遷をとげ、多くの遺跡を残し広島に遊ぶ人の目を楽しませてきた。しかし、これら多くの遺跡は戦禍によりほとんど消え失せ、代って原爆の戦火を経た新しい国際的観光都市となり、観光対象物は原爆の破壊力を示す若干の被害記録物とこれを乗り超えて進む生存者の建設譜であり、徹底的な破壊に打ち勝って建設されつつある平和記念都市の姿である。本市は高度の技術を結集した平和記念施設たる中島の平和記念公園をはじめ大小の公園緑地、川を生かした河岸緑地、交通量に留意した街路網等を有する理想的平和記念都市建設を推進しているので、将来はこの近代的都市自体が観光対象となり、広島を世界恒久平和の発祥地たらしめること望む平和愛好者及び諸団体の来訪が予想され、すでに世界連邦アジア会議や世界連邦アジア会議が進んで広島の地で開催されている。このように内外を問わず来訪客 の著しいのも本市の平和都市の性格に立脚した観光都市の特色である。

市街を合流する七つの川は、その水清く山緑を影し民家を写し夜のネオンを浮べて市街の美観を一入増し、相生矯をはじめ30有余の橋りようを縫ってゆるやかに瀬戸内海に注いでいる。おだやかな瀬戸内海は市の前面に大小様々な島を浮ベ、その風光の美は遊覧客を陶酔させるに充分である。夏は至る所にキャンプ村や海水浴場が設けられ、レクリエーションを楽しむ人々でにぎわう。東方には呉港や、瀬戸内海の風光を一望できる野呂山高原がある。西に下れば手の届くところに子供の別天地楽々園、日本三景の一つ安芸の宮島、再建された岩国の錦帯橋、湯来温泉がある。さら北方背後地には桜と鵜飼の三次、つつじとスキーでにぎわう道後山公園、冠山高原、芸北の幽境三段峡及び帝釈峡、西日本の軽井沢と言われる八幡高原等将来性のある県立公園がある。別府温泉や道後温泉は海路至便の距離にあつて広島市の観光lこ気軽く接続できる。これらはいずれも本市観光とタイアップされた広範囲な観光ルート圏を形成しており、四季を通じてこれら各地を巡遊する人がすこぶる多い。

本市の観光行政に協力するため、広島市観光協会が設けられ、観光誘致宣伝、市内観光ルート・ミス広島の選定及び観光客の案内等活発に活動している。

なお、本年4月より中国観光バス(株)が誕生して観光客の遊覧案内の業務を開始した。

観光施設

[平和記念館、旧産業奨励館、慰霊碑、原爆資料館、似島、不動院、東照宮、三滝観音道場、向宇品、千田廟と千田男爵銅像、広島城跡、比治山公園、山陽文徳殿、頼家の墓、縮景園、広島遊園地、長寿園、東亜殉道無名士女之碑、平和大橋の写真入り紹介-略]

東亜殉道無名士女之碑

本市新川場町の本照寺境内に満蒙同胞援護会広島県支部(支部長 本照寺住職 筧義章氏)によって昭和28年3月31日建立・除幕式を行い、同時に碑の内部に大東亜戦争並びに原爆による行方不明者の氏名を謹記した小石を納入、入魂式を挙行。その碑には極東軍事裁判にインド代表として出席し、唯一人日本無罪論を主張したダバビノール・パール博士によってベンガル語碑文が刻み込まれている。

1954(昭和29)年版は発行せず

1955(昭和30)年版~1958(昭和34)年版

[市内観光地の簡単な紹介]

1959(昭和34)年版

平和記念施設

1960(昭和35)年版

世界最初の原爆罹災都市として、本市の観光は大きく姿を変えた。戦後の主な観光対象は、大なり小なり原爆に関係又は起因するものによって占められている。然し都市の復興に連れて、名勝・旧蹟も復旧され、古い行事等も往昔の繁盛を偲ばせる迄に回復した。

市内観光

[平和記念公園、原爆ドーム、慰霊碑、平和記念資料館、花時計、原爆の子の像、平和大橋、西平和大橋、広島城、三滝寺と多宝塔、長寿園、縮景園、比治山公園、元宇品公園、黄金山、不動院、竜泉寺の滝、広島遊園地、広島ユースホステルの簡単な紹介]

0-01月忌(一覧)

  1月に亡くなった人々
没年 名前 よみ 享年 備考
02 1994 日詰忍 ひづめ・しのぶ 91 広島県被団協理事。1955年皆実原爆被害者の会会長。原水爆禁止広島母の会の活動、機関紙「ひろしまの河」。<別記
02 2011 林幸子 はやし・さちこ 81 原爆詩「ヒロシマの空」の作者。「林幸子さん遺影登録 広島祈念館」(『中国新聞』2018.6.7 西本雅実の紹介記事)
03 2000 山口勇子 やまぐち・ ゆう 83 児童文学者。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆)。1982年3月25日、平和親善センターで面会。三宅・網岡両氏、同席。別記
04 1969 高野源進 たかの・げんしん 73 広島原爆被爆時の広島県知事。広島原爆被爆時の広島県知事。参考文献:安藤福平「原爆被災と行政」(国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会(広島県・広島市)編『広島の復興経験を生かすために 廃墟からの再生 第3巻 ひろしま復興・平和構築研究事業報告書』2017年)
04 2010 山口彊 やまぐち・つとむ 93 三菱重工業長崎造船所設計技師。広島と長崎で被爆。
04 2015 金子一士 かねこ・かずし 89 船舶会社に勤めていた19歳の時入市被爆。広島県被団協理事長。「本川小学校平和資料館」(1988年5月開設)の開設前に面談。「金子一士さんを偲び意志をつぐ会」(2015年5月16日、広島国際会議場)に参列。<金子一士さんを偲び遺志をつぐ会
04 2016 ヨシダ・ヨシエ よしだ・ 86 本名:吉田早苗。出典:岡村幸宣「ヨシダ・ヨシエさんを悼む 「原爆の図に新たな命」」(『中国新聞』20160119)。本名=吉田早苗=よしだ・さなえ、美術評論家。『戦後前衛所縁荒事十八番』(ニトリア書房、19720805)
05 2000 伊藤サカエ いとう・さかえ 88 日本原水爆被害者団体協議会代表委員。広島県被団協理事長。広島県呉市生まれ。広島市鶴見橋で建物疎開作業の勤労動員中に被爆。矢野町議会議員、同町婦人会長などを歴任。「伊藤サカエさんを語る会」(広島市原爆被害者の会主催、2013年4月16日。4回目の「先人を語る会」)
05 2012 林光 はやし・ひかる 80 作曲家。1971年合唱曲「原爆小景」。「反核・日本の音楽家たち」の呼びかけ人」。
06 1998 安江良介 やすえ・りょうすけ 62 岩波書店社長。大江健三郎の広島取材を編集者として支える。1998年8月15日、日本ジャーナリスト会議広島支部「8・15不戦の夕べ」で講演「戦後民主主義とヒロシマ」。
07 1989 裕仁 ひろひと 87 追号:昭和天皇。宮内庁ホームページhttp://www.kunaicho.go.jp/
07 1996 岡本 太郎 おかもと ・たろう 84 芸術家。メキシコで制作した壁画「核の神話」の広島市への誘致運動が起こる。
08 1975 山田節男 やまだ・せつお 76 広島市長。1969年ハマーショルド記念国際平和賞受賞。[70ヒロシマ会議]。『山田節男追想録』。<別記>
08 1994 サマヴィル、ジョン・M・ 88 米国の哲学者。『平和のための革命』(ジョン・サマヴィル、芝田進午訳、岩波書店、19741216)
09 1978 久保良敏 くぼ・よしとし 64 [51広島大学平和問題研究会理事(皆)]。広島大学名誉教授。産業社会心理学専攻。被爆直後の人間の心理を初めて学問的に分析。遺された資料を一時預かる。
09 1885 藤井日達 ふじい・にちだつ 99 日本山妙法寺の山主。1982年の国連軍縮特別総会に参加するなど平和運動に貢献。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。『毒鼓(どっく)』(藤井日達、わせだ書房、1961.5.10)。『写真集 撃鼓宣令』 (柏樹社、19850528) http://nipponzanmyohoji.net/
09 2005 小川修三 おがわ・しゅうぞう 81 『小川修三博士を偲んで』(小川修三先生追悼文集発行呼びかけ人、200606)
10

 

1951

 

仁科芳雄 にしな・よしお 61

 

物理学者。岡山県生まれ。理化学研究所で1943年に原爆開発のための「二号研究」を発足させる。被爆直後の広島・長崎で調査。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<別記予定>。『広島県史 原爆資料編』に関連資料を収録。
10 1967 パールRadhabinod Pal 71 インド人法律家。東京裁判でインド代表判事を務める。彼の原爆慰霊碑の碑文についての発言をめぐり論争が起こる。『日本無罪論』、『平和の宣言』。
10 2025 堀場 清子 ほりば ・きよこ 94 詩人 、 女性史 研究者。戦争と平和を考える詩の会会員。
11 1966 大原博夫 おおはら・ひろお  71 衆議院議員。広島県会議員、同議長。広島県知事。広島県医師会長。『大原博夫伝』(大原博夫追想録編集委員会、1971.3.20)
11 1998 レイノルズ、アール れいのるず 87 広島の反核運動の先駆者で米国の人類学者。1960年、広島女学院客員教授。参考サイト=「バーバラ・レイノルズ」、「年表 レイノルズ夫妻」、「広島平和科学研究所
11 2015 カートライト、T 90 米軍B24爆撃機の元機長。広島で捕虜となった同僚を原爆で失う。出典:『中国新聞』20150116(金崎由美・記)
11 2020 八杉康夫 やすぎ・やすお 92 戦艦大和の元乗組員で生還者。広島の救援活動で入市被爆。著書『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』(八杉康夫著、栗野仁雄<構成>、ワック、20021208)
12 2021 半藤一利 はんどう・かずとし 90 作家。日本近現代史を対象とした。
12 2019 市原悦子 いちはら・えつこ 82 俳優。映画「黒い雨」(今村昌平監督)に出演。
13 2000 赤松俊子 あかまつ・としこ 87 →丸木俊。『広島県現代文学事典』
13 2000 丸木俊 まるき・とし 87 画家。疎開先の浦和市から広島に入市し被爆。夫・位里と『原爆の図』全15部を制作。世界平和文化賞(1953年)、国際童画ビエンナーレのゴールデンアップル賞(1971年)、朝日賞(1995年)などを受賞。
13 2016 広瀬方人 ひろせ・まさひと 85 長崎被爆者。
14 1992 於保源作 おぼ・げんさく 87 広島市医師会副会長。被爆者の癌の疫学的研究の草分け。広島原爆障害研究会。『面影 原爆ガンと取組んだ町医者 於保源作』(小川加弥太・於保信義編、渓水社、1993.1.14)
15 1983 大西良慶 おおにし・りょうけい 107 京都、清水寺貫首[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]1981年、7月、京都の宗教家らと「核兵器廃絶アピール」発表。[82推進連絡会議呼びかけ人]
15 1984 中津泰人 なかつ 『慟哭・川柳句集』(中津泰人、19740725)。串かつ川柳会主宰。1973年に呉原爆被爆者友の会結成、同会会長。
15 1988 マクブライド、ショーン 83 アイルランドの政治家。1974年ノーベル平和賞、77年レーニン平和賞受賞。1977年広島市でのNGO主催の被爆問題国際シンポジウムに参加。
15 2005 松江澄 まつえ・きよし 85 1959年に日本共産党初めての県議。元広島県原水禁常任理事、元統一労働者党議長。
16 2002 いぬいとみこ いぬい・とみこ 77 本名乾富子。児童文学者。「いぬいとみこさんとヒロシマ 「体験」の壁執念の取材」(『中国新聞』2002.1.22 石井伸司記)。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆)
17 2025 黒瀬真一郎 くろせ・しんいちろう 83 学校法人広島女学院理事長など歴任。<資料年表:黒瀬真一郎>
17 2023 土井作治 どい・さくじ 92
18 2015 御庄博実 89 →丸屋博
18 2015 丸屋博 まるや・ひろし 89 1945年8月8日、広島入市。詩人(御庄博実)。広島共立病院名誉院長。
18 2015 丸屋博 ピカに灼かれて―被爆体験記(広島医療生活協同組合原爆被害者の会) | ヒロシマ遺文 (hiroshima-ibun.com)
ピカに灼かれて 第28集 終刊号 2005年7月15日
丸屋博『ヒロシマ随想 医師として被爆者として』
20 1974 ブランデン、エドモンド・ 77 英国の詩人。1948年広島訪問。広島市立中央図書館前に詩碑(1975年8月3日建立)。『広島県現代文学事典』(植木研介執筆)。
20 1990 田淵昭 たぶち・あきら 83 元広大医学部付属病院長。胎内被爆小頭症の調査に尽力。
20 2019 北西允 きたにし・まこと 93 「生きて 政治学者 北西允さん」(『中国新聞』2013年4月9日~27日、15回連載、担当:編集委員・西本雅実)。<別記
21 2008 浜本万三  はまもと・まんそう 87 広島県選出の元社会党参院議員。1974年に初当選し、通算3期。『花は想う人の側に咲く 浜本万三回顧録』(浜本万三、広島大学文書館(編)・現代史料出版・東出版(出版)2009.1)<別記
22 1994 灘尾弘吉 なだお・こうきち 94 江田島市出身。元衆議院議長。『灘尾弘吉先生追悼集』(中国新聞社メディア開発局出版部/編集協力、1996.12)
22 2018 河内光子 こうち・みつこ 86 広島女子商業学校2年の時、学徒動員先の広島貯金支局で被爆。御幸橋の救護所ので様子が松重美人撮影の写真に残る。出典:『読売新聞』20120805、『中国新聞』20180209、『朝日新聞』20180210(宮崎園子・記)
23 2008 相原秀次 あいはら・ひでつぐ 98 日本映画社の企画部員として広島・長崎への原爆投下直後から記録映画の製作に従事。
久保田明子「広島における原爆被災の映像と相原秀二資料について」
23 2011 喜味こいし きみ・こいし 83 漫才師。「喜味こいしさんを悼む 上方漫才の正道歩む」(権藤芳一記)「戦争やったらあかん 被爆体験とつとつと」(岩崎秀史記)(『中国新聞』2011.1.26)
23 2012 栗原真理子 くりはら・まりこ 76 被爆詩人・栗原貞子の長女。広島女学院大学の栗原貞子記念文庫開設に尽力(『朝日新聞』20120125)
24 2018 香川龍介 かがわ・りゅうすけ 85 画家。(『中国新聞』20180210)
25 1986 吉川清 きっかわ・きよし 74 「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。<別記
25 1994 森滝市郎 もりたき・いちろう 101 京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。広島大学。自宅で面識、資料閲覧。<別記
25 2011 石田忠 いしだ・ただし 94 一橋大名誉教授・社会学、元日本原水爆被害者団体協議会専門委員)。<別記
25 2023 林紀子 はやし・としこ  81 元アナウンサー。元参議院議員(2期)。日本共産党。宇吹メモ=1990年5月15日午後2時、 共産党国会調査団来所(=広島大学原爆放射能医学研究所)。林紀子、児玉健次など12人。宇吹助手が応対。
26 2019 葉佐井博巳 はさい・ひろみ 87 広島大名誉教授。広島の原爆被爆時、広島一中2年生。学徒動員先の兵器製作所(現廿日市市)できのこ雲を目撃。翌日に入市被爆。被曝線量推定方式を見直す日米合同研究グループの日本側座長。2002年、新しい推定方式「DS02」をまとめる。<別記「被爆建物等継承方策検討委員会」(広島市が1991年7月24日に設置)で同席。
27 2003 川村智治郎 かわむら・としじろう 96 明39(1906)年滋賀県生まれ。広島高等師範学校・広島文理科大学卒業。京都帝国大学理学部講師、広島文理科大学助教授等、広島大学理学部教授、同理学部長を経て、昭和41(1966)年、広島大学第3代学長。広島大学長に就任。両生類研究者、カエルの染色体の分析研究。広島大学附属両生類研究所所長。第52回日本学士院賞受賞。元広島文理科大学(旧広島大学理学部1号館)の保存を考える会(設立:1995年1月7日)会長<別記
27 2005 竹内武 たけうち・たけし 77 広島平和会館。
29 1986 鈴木直吉 すずき・なおきち 90 1948年広島県立医科大学教授。広島大学医学部教授。「鈴木直吉先生の御逝去を悼む」(片岡勝子記、『(広島大学)学内通信』1985.3.25)<別記
29 2013 熊田重邦 くまだ・しげくに 92 広島女子大学教授、広島県史編さん室室長、広島県立文書館館長<別記
30 2016 亀本和彦 かめもと・かずひこ 69 小学校・高校の同級生。「祖母も伯母もその日路面電車に乗っていて被爆し、また、父も翌日軍務で広島市街地に入って被爆」(彼のブログより)
31 2018 吉田治平 よしだ・じへい 95 845年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定>
31 2023 久留島恵一 くるしま・けいいち 94

 

音戸高校時代に指導を受けた先輩教員。「呉を中心とした軍事基地の現状」(ビラ「米軍・自衛隊 基地調査告発全国交流呉集会の集まろう!!」(1975年)

12月忌(一覧)

12月忌(一覧)

没年 名前 よみ 享年 備考
02 2009 平山郁夫 ひらやま・いくお  79 『広島県現代文学事典』(西原大輔pp.415-417)。画家。平山郁夫美術館。資料年表:平山郁夫
03 1976 澤崎嘉衛 さわさき・よしえ 72 『組織活動ひとすじに~澤崎嘉衛先生を偲ぶ~』(社団法人広島県地区衛生組織連合会、1977.12.4)
03 2013 山口氏康 やまぐち・うじやす 91 『ヒロシマもう一つの顔』(山口氏康、青弓社、1986.4.9)。1971年広島市議。以後3期。
04 1980 アメラシンゲ、  あめらしんげ 67 アメラシンゲ、ハミルトン・シャーリー
1977年広島・長崎の平和式典に参加した元国連総合議長、死去。スリランカ出身。
05 1975 田辺勝 たなべ・まさる 69 広島県被団協(原水協系)理事長。広島県立工業学校の教師の時、動員学徒指導中の安芸郡海田町の工場から救援にかけつけ被爆。『読売新聞』・『中国新聞』1975.12.6~8  田辺勝
05 1999 葉室潔 はむろ・きよし 81 本名:谷原多郎。米モンタナ州生まれ。1968年広島市バレエ協会会長。「原爆主題に創作バレエ」(『中国新聞』1999.12.7)
05 2008 加藤周一 かとう・しゅういち 89 評論家。日米原子爆弾影響合同調査団の一員として広島入り。立命館大学国際平和ミュージアム(1992.5.19設立)初代館長。加藤周一
09 2009 村中好穂 むらなか・よしほ 84 日本共産党広島県委員会名誉県委員。2010年3月13日、「村中好穂さんをしのぶ会」(『赤旗』2010.3.14)資料年表:村中好穂
09 2022 北川建次 きたがわ・けんじ 87 1935年生。広島大学教育学部教授、附属東雲中学校長。資料年表:北川建次。
10 1963 大田洋子 おおた・ようこ 60 [原爆被害者の会東京協力会世話人]。第4回女流文学賞(1952年)、文化人会議昭和29年度平和文化賞。『広島県現代文学事典』(岩崎文人執筆。pp.233-234)資料年表:大田洋子
10 1963 高田 静雄 たかだ・ しずお 54 砲丸投げのオリンピック(1936年ベルリン)選手。中国配電本店(勤務先)で被爆。長女千鶴子(広島女学院高女2年)は動員先で被爆し死亡。資料:西本雅実「被爆オリンピアンの視点」(『中国新聞』20180716)。19090305生
10 2001 江戸屋猫八 えどや・ねこはち 80 本名:岡田八郎。「江戸屋猫八さん死去 物まね名手 広島で被爆 後遺症・‥高座で体験語る」(『中国新聞』2001.12.11)江戸屋猫八(3代目)
11 1988 任都栗司 にとぐりつかさ 91 『任都栗司資料目録(原爆被爆者援護関係)』(広島市公文書館、19880630)。元広島市議会議長。任都栗司
13 2003 清水栄 しみず・さかえ 88 京都大学名誉教授。「清水栄日記 昭和20・8・6~12・7」(『広島県史 原爆資料編』pp.521-551)。清水栄
14 2014 松尾尊兊 まつお・たかよし 85 日本近現代史研究者。
15 1997 関寛治 せき・ひろはる 70 元広島大学平和科学研究センター長。関寛治
15 2001 島原帆山 しまばら・はんざん 100 山流尺八演奏家。重要無形文化財保持者(人間国宝)。広島市名誉市民。広島被爆者。原爆投下翌日、衛兵をしていた八本松町(現東広島市)の海軍弾薬庫からトラックで広島市内へ。『中国新聞』2001年8月3日付。『竹韻一路 人間国宝島原帆山』(島原帆山、新芸術社、1990.5.8)。佐伯好郎墓前で島原帆山の尺八演奏。 島原帆山
15 2007 山瀬明 やませ・あきら 81 『山瀬明さんを偲んで』(2008.2.2)=「故山瀬明さんを偲ぶ会 於.光徳会館」での配布資料。山瀬明
16 1988 小磯良平 こいそ・りょうへい  85 洋画家。19030725生。1950年8月予定の広島市平和祭(直前に中止)のポスター原画を制作。小磯良平
16 2008 竹下虎之助 たけした・とらのすけ 84 広島県知事(1981-1993年)。「評伝竹下前広島知事」(『中国新聞』20081217、桝田勲・記) 竹下虎之助
16 2017 早坂暁 はやさか・あきら 88 海軍兵学校在学中に終戦。被爆直後の広島の惨状を目撃。脚本家・作家。「夢千代日記」シリーズなど。「市民が描いた原爆の絵」 を陶板画の碑にして広島市内に建立する運動を提唱(『中国新聞』2002.2.22)。『広島県現代文学事典』(森本穫執筆。Pp.404-405) 早坂暁
17 1992 アンデルス・ギュンター あんでるす 90 『橋の上の男 広島と長崎の日記』(ギュンター・アンデルス、篠原正瑛訳、朝日新聞社、 1960.8.1)。『ヒロシマわが罪と罰 原爆パイロットの苦悩の手紙』(クロード・イーザリー、ギュンター・アンデルス、篠原正瑛訳、筑摩書房)。
18 2015 藤田雄山 ふじた・ゆうざん 66 広島県知事。1993年11月~2009年11月。 藤田雄山
19 1979 丸山益輝 まるやま・ますてる 60 1966年広島大工学部教授。同大平和科学研究センターの設置・運営に尽力。1979年12月19日中国・南京で死去。広島大学大学教育研究センター長。
19 2012 中沢啓治  なかざわ・けいじ 73  漫画家。『「ヒロシマ」の空白 シリーズ 昭和とはなんであったか』(中沢啓治、日本図書センター、1987.8.25)。『広島県現代文学事典』(小西清美pp.384-385) 中沢啓治
20 1983 武見 太郎 たけみ ・たろう 79 日本医師会会長や世界医師会会長を歴任。『戦前戦中戦後』(武見 太郎、講談社、19820310)
20 1983 渡辺鼎 わたなべ・かなえ 93 広島大学文学部長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起)]。原水禁世界大会(1955年)開催に貢献。 渡辺鼎
20 2023 植木 研介

うえき・けんすけ

79 広島大学名誉教授。1990年代に広島市平和公園のレストハウスの保存を訴える。資料年表:植木 研介。
21 1997 片岡脩 かたおか・おさむ 65 グラフィック・デザイナー。旧制広島一中1年生の時、原爆に被爆。「被爆者デザイナー故片岡脩さん制作平和ポスター託す 広島市立大に106枚(田原直樹記者)」(『中国新聞』2008.7.26) 片岡脩
21 2004 今西祐行 いまにし・すけゆき 81 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(山元隆春執筆。Pp.212-214) 今西祐行
22 1994 乙羽信子 おとわ・のぶこ 70 女優。映画「原爆の子」に出演。1978年1月新藤兼人と結婚。 乙羽信子
22 2000 千田夏光 せんだ・かこう 76 作家。『赤旗』に小説「終焉の姉妹」を連載。 千田夏光
22 2004 山本良雄 やまもと・よしお 87 『ヒロシマを生きる』(山本良雄、19980920)大津市被爆者友の会 277
23 1985 三村明 みむら・あきら 84 映画撮影監督。被爆直後、米戦略爆撃調査団の映画班に加わる。『聖林からヒロシマへ 映画カメラマン・ハリー三村の人生』(工藤美代子、晶文社、1985.2.22) 三村明
23 2008 平田嘉三 ひらた・かぞう 83  文部省初等中等教育局教科書調査官。広島大学教育学部教授。1980年12月15日、家永教科書裁判第一次訴訟第二審で国側証人として出廷(東京高裁)。「洗礼という言葉には、人を祝福するニュアンスがあり、原爆という悲惨な事実を示すにはなじまない。教科書では主観的・比喩的表現は避けた方がいい」。(浪本勝年「第1次教科書訴訟控訴審の審理過程」)。 平田嘉三
23 2018 大田堯 おおた・たかい 100 元日本教育学会会長。「平和・軍縮教育-3つの視点- 大田堯 121」(『世界の平和・軍縮教育 1982年国際シンポジウム報告書』WCOTP、日教組報告書編集委員会編、勁草書房)大田堯 
24 1951 木原一郎 きはら・いちろう 67 戦後初の広島市長。 木原一郎
24 1986 松下正寿 まつした・まさとし 85 元立教大学総長、元参議院議員。核禁会議議長。1957年に特使として渡英、英に核実験中止を訴え。 松下正寿
25 2007 井内慶次郎 いない・けいじろう 83 旧制広島高、東京大法学部を卒業。1947年に文部省(現文部科学省)に入り、大学局長などを経て、78年から80年まで事務次官。藤居平一追悼集に寄稿。
26 1925 レツル、ヤン れつる 45

 

産業奨励館(原爆ドーム)を設計したチェコ人建築家。「ヤン・レツルの年表」pp.218-220(『レツルの黙示録』オルガ・ストルスコバ、佐々木昭一郎監訳、NHK出版、1995.7.20) レツルの黙示録
26 1972 トルーマン、ハリー・S・ とるーまんHarry S.Truman 88 アメリカ合衆国第33代大統領(1945~1953)。民主党出身。原爆投下を指令。 トルーマン
26 1978 畠中敬恵 はたなかよしえ 58 きのこ会会長。山代巴の紹介で面会。
27 2007 川島孝郎 かわしま・たかお 1937年大連生まれ。広島大学教育学部卒。共著『岩波DVDブック Pesce Archives 平和ミュージアム』
28 1957 浦廉一 うら・れんいち 62 『浦廉一博士を偲びて―その小伝』(故浦廉一先生追悼事業会、1958.12.28)。広島高等師範学校教授(東洋史)の時被爆。
28 2013 吉川生美 きっかわいきみ 92 三次市出身。爆心地から約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆。夫は、「原爆1号」と呼ばれた吉川清。資料年表:吉川生美
29 1968 久富達夫 ひさとみ・たつお 情報局次長(1945.4~8.22)。<松前重義「終戦に導いた原爆の報告」(『久富達夫』(久富達夫追想録編集委員会<出版共同社内>、同刊行会、1969.12.15、pp.288-290>)
30 1975 稲富 栄次郎 いなとみ・えいじろう 78 広島文理科大学助教授の時被爆。教育哲学会会長。『世紀の閃光』(稲富 栄次郎著、銀のの鈴広島図書発行、19491220)。『広島原爆記 未来への遺書』(稲富 栄次郎著、講談社、19730801)。稲富栄次郎
30 1983 矢吹憲道 やぶき・ 80
30 1988 ノグチ・イサム のぐち 84 日系米国人の彫刻家。広島市の平和大橋などを設計。イサム・ノグチ
30 2014 ドレイゴ、カレリア どれいごかれりあ 93 白系ロシア人。父が広島女学院の音楽教師。牛田の自宅で被爆。
31 2022 郭貴勲  くぁく・くぃふん 98 韓国原爆被害者協会名誉会長。

松本卓夫

 松本卓夫

まつもとたくお 19生
19861128没
原爆被爆時の広島女学院院長。1948年9月~50年1月、渡米。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。1964年に広島・長崎世界平和巡礼団団長として各国を歴訪。

 

参考資料 平和巡礼
文献 原爆体験と世界平和
(『その日の広島-キリスト者の原爆体験』所収)
『関西学院史紀要』第9号(2003年3月24日発行 A5版244頁)
[シリーズ・関西学院の人びと] 神田 健次5.松本卓夫6.谷本 清
年表

 

 

1947/8/– 米でも8月6日に「広島デー」。松本卓夫広島女学院長に友人の米人宗教家から連絡
1948/1/– 米教育界から広島女学院に留学の招請状。松本卓夫院長にも被爆状況の講演依頼 出 典(新聞掲載日など):
1950/1/8 1948年9月以来、渡米し平和講演などしていた広島女学院の松本卓夫院長が広島帰着 出 典(新聞掲載日など):
1964/1/17 広島・長崎世界平和巡礼団の広島関係メンバー決まる。松本卓夫元広島女学院長、志水清広島大原医研教授ら15人 出 典(新聞掲載日など):
1964/4/16 第2回広島・長崎世界平和巡礼団が広島出発。広島市平和記念館で結団壮行式。団員40人が2カ月をかけ欧米、ソ連など8カ国を回る。松本卓夫団長(元広島女学院長)が「原爆という共通の苦悩を背負っ
1964/7/4 1964/7/6 市民 広島・長崎世界平和巡礼団が広島市の平和記念館で市民への帰国報告集会。松本卓夫団長が「巡礼団は世界平和のためのタネまきだった。今後はその成長と収穫を繰り広げなければならないと痛切に感
1964/7/6 広島・長崎世界平和巡礼団が広島市の平和記念館で市民への帰国報告集会。松本卓夫団長が「巡礼団は世界平和のためのタネまきだった。今後はその成長と収穫を繰り広げなければならないと痛切に感
1970/6/22 米市民に核兵器の廃絶と世界平和を訴える「広島・長崎平和使節団」(団長、松本卓夫広島ワールド・フレンドシップ・センター館長、6人)が羽田を出発 出 典(新聞掲載日など):06・23
1970/8/2 訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)がミネソタ州セントポールの教会で原爆慰霊式 出 典(新聞掲載日など):08・3夕
1970/8/3 訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長、6人)が国連で記者会見。松本団長「原爆の無差別殺害は正当化できない犯罪である」。会見に先立ち、リーゼン・ニューヨーク市長らと懇談 出 典(新聞
1970/8/22 全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)の6人が帰国。6月22日に日本を出発し、米の50余りの都市を訪問 出 典(新聞掲載日など):08・22夕
1970/8/30 全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団が広島市の平和記念館で報告会。松本卓夫団長「今回の使節団は個別に行動し、小さな集会に主眼を置き平和を訴えた。25周年というこ
1971/7/17 1964年、広島・長崎平和巡礼団の一員としてトルーマン米大統領に会見した松本卓夫団長が、中国新聞のインタビューで「原爆投下を命じた責任者の口からは、通りいっぺんの返事しかなかった。

出典:その日の広島-キリスト者の原爆体験(新教出版社編集部編、新教出版社、1965年7月31日)
翌年の二月には、牛田山の校地にバラックの校舎と講堂とを建てて、はじめて学院自体の設備で授業を行ない、二年後には、上流川町の校庭に、やや校舎らしい建築をし、大講堂を加えた。市内の諸学校の中で、このように復興し得たのは広島女学院が最初であった。当時の文部大臣森戸辰男氏はわざわざ東京から来て、鄭重な祝辞を述べて下さった。
この建設が一応完成したころ、わたしの容体がまた悪化し出したので、米国メソジスト教会世界伝道局の招きにより渡米療養をすることになった。わたしは、被爆者にして渡米した最初の日本人であったため、かなり好奇の的になり入院中はモルモット扱いされて、いろいろの治療を実験的に試みられた。しかし、どうやら一カ月余にわたる治療のおかげで健康を回復しえたのであるが、その後一カ年半の長きにわたって、ほとんど米国全土を旅行し、諸教会、諸学校、またいろいろの文化団体の招きを受けて、原爆の経験を語り、平和を訴えて回った。
このような非人道的な戦争や手段を今後絶対に防止し、真の世界平和を実現しなくてはならないことを痛感し、平和運動を促進している人々や団体が数多くあることは、周知のとおりである。
とくに、広島および長崎の被爆者たちは、彼らの悲惨な体験から、ノー・モア・ヒロシマを訴える使命を痛感し、昨春、世界平和巡礼団を組織し、北米、カナダ、英国、フランス、東西ドイツ、およびソヴィエト・ロシアの諸国をニカ月半にわたって歴訪し、講演、座談、論議、合同研究を試みた。総勢四○名(通訳者として同伴した一二名の学生を含めて)であったが、抽象的な一般論でなくて痛切な被爆の体験に基づいて訴えたので、聴く人々に非常な感銘を与えた。また、社会の各層を代表する多種多様の者たちを網羅した巡礼団であったことも、特色があり有意義であったと思う。農家の主婦あり、保育院の保母あり、労組の主事、文筆家、新聞記者、学校長、教員、仏僧、医者、科学者といった顔ぶれであり、したがって諸外国のそれぞれのグルーブと懇談し意見の交換をする便宜を得た。
事実、この巡礼団の目的は、あわれなお涙ちょうだい式の泣きごとを述べ歩くことではなく、諸外国の人々と研究的に語りあい、どうしたら戦争を防止し平和を促進しうるかについて意見を交換することにあったのである。したがつて、われらの同志科学者は、しばしば、フランスやアメリカの知名な物理学者たちと個別的に対談したし、わたしはたびたぴキリスト教指導者たちとの会合に臨んだし、医者たちは先方の医師会の人々と医学的方面からの合同論議に参加するという方法をとった。もとより、大きな講演会を催して大衆に訴えることもした。ニューヨーク市力-ネギー・ホールに約三千人を集めての講演会、パリの公会堂における盛大な平和強調の会、モスクワのゴリキー記念公園内で数千の聴衆を迎えての大会など、その著しい例であった。知名の士との面接も有意義であった。米国元大統領トルーマン、カナダ外相バウル・マーティン、国連事務総長ウ・タント、ベルギー王バウドワンのかたがたとの面談は、単に儀礼的なものではなかったと思う。ワシントンの国会議事堂内で、上院下院議員がたとかなりつっこんだ論議を試みたが、これまた効果的であったと信じる。諸大学での率直な議論は痛快でもあった。巡礼旅行の全行程中で行なった会合は約五百回にのぼった。ラジオ、テレビなどには数十回もひっぱり出されたが、これらのマス・コミをとおして、わたしたちは数百万の人々に語りかけることができたと言えよう。

1942年 4月 松本卓夫が、院長兼専門学校長、高等女学部長として就任。
1943年 4月 高等女学部は高等女学校令による「広島女学院高等女学校」として、文部省によって認可を受け、松本院長が校長を兼ねた。
1945年 8月 6日午前8時15分、広島に原爆投下。生徒・教職員330余名の犠牲者を出し、校舎、施設のいっさいを失った。
1945年10月 牛田国民学校の一部を借用して授業を再開。
1946年 2月 牛田山の校地にバラック校舎を建築、授業を継続。
1947年 4月
新制中学校発足。高等女学校は中学校3年と高等学校3年に改編されることとなり、当時の高女1年生は、そのまま「広島女学院中学校1年生となった。
1947年 8月 上流川校地(現上職町)に仮校舎と講堂、寄宿舎を建てて、牛田の校地より復帰。
1948年 4月 新制高等学校発足(普通科科、英語科、家庭科)。
1948年 8月 高等学校木造校舎、東校地の西南側に建築。
1949年 4月 新制大学発足。牛田校地に大学英文学部英文学科開学。
1950年 4月 牛田校地に短期大学部家政科開学。

 

石井金一郎

石井金一郎

いしい・きんいちろう 19220402生19670621没 享年45 [52広島平和問題談話会](広島女子短期大学助教授)。[54世界平和集会世話人(発起)]。元広島大学教授。日本原水協専門委員。

資料年表:石井金一郎<作業中

年月日
1922
0402 誕生
1960
0825 『戦後日本の国家権力』(現代史研究会、三一書房)
1965
 0520 『 現代憲法読本』(法律文化社)
1967
0621

 

川手健

川手健

かわて・たけし 19310213生
19600428没
広島市大手町生まれ。県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。東京都内で自殺。29歳。

資料

文献
19521101 川手健「七年後の廣島」(『新日本文学』)
19530625 『原爆に生きて 原爆被害者の手記』(原爆手記編纂委員会、三一書房)
19540215 『風のように炎のように-峠三吉追悼集』
19550109 川手健「原爆被害者の青年クラブのこと」(『われらのうたの会』第3号)
19950806 『川手健を語る』(川手健を語る会編、ウイウド・岡本智恵子)

資料

川手健=「原爆被害者自身の口から全世界に向って原爆の惨禍と平和の必要を訴えるその意義は大きい。原爆の投下が世界史的な大事件であるなら、その被害者が立上がって原爆の反対を叫ぶこともまさに世界史的な出来事である。このことの重要性についてはまだまだ本当に考えている人は少ない様に思う。」
(「半年の足跡」、『原爆に生きて』、三一書房、1953年、所収)