新修広島市史(第1~4巻)広島市役所編・刊
| 新修広島市史 第1巻-総説編 | 1961/02/28 | |
| 新修広島市史 第2巻-政治史編 | 1958/03/01 | |
| 新修広島市史 第3巻-社会経済史編 | 1959/08/31 | |
| 新修広島市史 第4巻-文化風俗史編 | 1958/12/27 | |
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。
新修広島市史(第1~4巻)広島市役所編・刊
| 新修広島市史 第1巻-総説編 | 1961/02/28 | |
| 新修広島市史 第2巻-政治史編 | 1958/03/01 | |
| 新修広島市史 第3巻-社会経済史編 | 1959/08/31 | |
| 新修広島市史 第4巻-文化風俗史編 | 1958/12/27 | |
ローマ法王平和アピール碑 1983年2月25日 場所:広島市(広島平和記念公園・広島平和記念館)
資料
| 「ライオンズを探せ!@広島県・広島 村上薫元国際会長のテーマを伝えるピープル・アット・ピースの碑」(『LION 日本語版 2015年10月号』https://www.thelion-mag.jp/emag/201510/index_h5.html) | |
文献
広島平和都市記念碑(原爆慰霊碑)
| 建立年月日 | 場所 | 備考 | |
| 19520806 | 平和公園(広島市中区中島町) |
広島平和都市記念碑(原爆慰霊碑)
| 平和記念公園には、戦前、中島本町、天神町、材木町、元柳町が存在し、店舗や住宅約700軒が密集していた。この地域は、原爆爆心地からほぼ500メートル圏内に位置しており、原爆攻撃により壊滅した。戦後、広島市は、この場所を、公園(中島公園)とすることを計画した。広島市は、1949年4月20日、この公園を平和記念公園として建設することとし、設計図を全国に公募した。7月18日に募集を締め切ったが、応募作品は145点におよんだ。この中から選ばれたのは、丹下健三ら4人の共同作品であった。 この公園は、広島平和記念都市建設法の公布(1949年8月6日)にともない、その裏づけのもとに建設されることとなった。49年10月3日、東京で平和文化都市建設協議会の第1回会合が開催されたが、そこでは平和の理想を象徴する平和記念施設として、①記念公園(平和公園)、②記念館、③記念街路(平和緑道)が建設されることとなった。 ①は、本川と元安川に抱かれた三角州の頂点に位置する中島公園(=平和広場、3万2、200坪)とその東側対岸の4、800坪(旧広島県産業奨励館敷地)と、その東北に接続する旧広島城跡を中心とする中央公園(=市民広場、22万坪)を総合した公園とされた(その後、中央公園部分は平和公園から外される)。③は、中島公園南端を基点として、東西に伸びる延長約4、000メートル、幅員100メートルの街路であった(後に「平和大通り(百メートル道路)」と呼ばれる)。また、②は、中島公園およびその東側対岸に設置するものとし、その内容としては、つぎのようなものが考えられていた。 (a)平和会館 2、500人収容の会議室及び事務室、原爆関係資料陳列室等。 (b)平和アーチ 張間120メートル、高60メートル、頂点に五つの鐘を吊す。 (c)慰霊堂 原爆犠牲者の遺骨並びに銘を納める。 (d)原爆遺跡 原爆により破壊された旧産業奨励館の建物を補強し保存する。 (大島六七男「復興の足どり」) 1951年2月21日、東京で第4回広島平和記念都市建設専門委員会が開催された。この席上、浜井広島市長は、「今夏で7回忌を迎える原爆都市の慰霊塔関係の設立を急ぎたい」との意向を述べた。しかし、建設省は、広島市の納骨堂を含む「慰霊塔」案は、墓地であり、公園法の建前から認められないと、難色を示した。そこで広島市は、遺骨の代わりに名簿を奉納することとし、8月6日までの式典に間に合うように碑を建立することを決定した(「中国新聞」51年2月22日)。しかし、碑は、51年の8月6日には間に合わず、52年3月末着工した。 碑の設計者は、丹下健三であった。コンクリート素打の工法で埴輪をデフォルメした設計で、当初案の巨大な「平和アーチ」は、正面から見た底辺4.7メートル、高さ3.67メートル、横から見た上辺8.29メートル、下辺5.26メートルのはにわ型に縮小・変更された。原爆死没者名簿を奉納するため、碑の中央に黒い御影石製の矩形の箱が配置された。そして、この箱の正面には、雑賀忠義が作成した碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(雑賀の英訳:Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil.)が、刻み込まれた。この碑は、建立当時から「原爆慰霊碑(原爆死没者慰霊碑)」と呼ばれたが、碑の正式名称は、「広島平和都市記念碑」である。工費は、300万円であった。 広島市は、1984年1月、碑改築の方針を発表した。その理由として、コンクリートの石灰分が表面に吹き出して中の鉄筋の腐食が進み、碑にひびが入ることが明らかになったこと、原爆死没者名簿が32冊入っているが、あと数冊の余裕しか残っていないことの二つがあげられた。改築工事は、同年7月23日から始められ、翌85年3月26日、新慰霊碑(旧慰霊碑と同型で材質はコンクリートからみかげ石に変更)の除幕式が行なわれた。 |
戸坂町供養塔

| 建立年月日 | 場所 | 備考 | |
| 1945.10 | 広島市(戸坂桜上町・桜ケ丘墓地) | ||
| 地図:広島原爆爆心地(平和公園とその周辺) | |||
![]() |
|||
| No. | 遺跡・モニュメントの名称 | 建設・建立年月日 | メモ(注:「##」に挟まれた数字は、その碑の追悼対象者数を示す。) |
| 1 | 鈴木三重吉文学碑 | 1964.6.27 | 小説家。児童文学者。1882(明治15)-1936(昭和11)。広島市猿楽町生まれ。制作:円鍔勝三。 |
| 2 | 旧相生橋碑 | 1940. | Y字形の旧橋の記念碑。1942.広島県がこの橋を壊し、新たに相生橋を建設。翌43.市道橋が完成、T字形の橋となる。この橋が、エノラゲイの原爆投下目標。83.11架け替えた現在の橋が完成。 |
| 3 | 内務省中国四国土木出張所歌碑 | 1954.8.6 | 原爆のいけにへとなりし人ひとは なごみゆく世のいしすゑに志て 阿部一郎 市公園管理事務所から墓碑の許可が下りないので歌碑として建立。 |
| 3 | 内務省中国四国土木出張所殉職碑 | 1955. | ##52名##。被爆当時、中国四国土木出張所は、産業奨励館(原爆ドーム)の3階全部と1階の一部にあった。 |
| 4 | 原爆ドーム | 爆心地から [160メートル] |
1915(大正4)竣工。広島県物産陳列館。21.広島県商品陳列所と改称。33(昭和8)広島県産業奨励館と改称。44.広島県土木事務所(1階)、内務省(現在の建設省)中国・四国土木出張所(1~3階)、広島県地方木材株式会社(1階)、関西石油合資会社(1階)が使用。 53.広島県、原爆ドームを広島市に譲与。67.8.5、第1回目の保存工事完了(募金総額6600万円)。90.3.30、第2回目の保存工事完了(募金総額3億9500万円)。 96.12.7、世界遺産に登録される。 |
| 5 | 広島県地方木材株式会社 慰霊碑 |
1967.8.6 | ##100余名## |
| 6 | 原民喜詩碑 | 1967.7.29 | 碑銘「原民喜 遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻」。1951.7.15(誕生日)、広島城祉で除幕されたが、破損のため、現在地に修復再建。原民喜=1905(明治38)-51(昭和26).3.13、東京の中央線の鉄路で自殺。 |
| 7 | 広島県動員学徒犠牲者の会 動員学徒慰霊塔 |
1967.5 | ##約1万人、内6000余人が原爆犠牲者##。1962年、敷地の決定認可。彫刻:円鍔勝三。「高さ15米の五重の塔の逆三角形の塔とし、中心柱の先端を折れた形にした。これは青春学徒が勉学半ばで犠牲となったこと、伸びんとするものが挫折した意味を表現して見た。又下部の御本尊は、多くの犠牲者の中には色々の宗旨の方もあるので、観音様と、マリアのお姿とがよく調和したご本尊にすべく、ご面相は観音様に、頭部に宝冠、背にはエンゼルの小さい羽、手には蓮華ならぬ英霊の花を持ち、水々しい慈愛に満ちたお姿を表した。塔の左右両後部に食糧増産、縫製作業、塔の由来と灯籠流し、鉄工作業と高さ1.5米巾2米角の4枚レリーフに学徒が熱心に作業に従事している情景を表現した。」 |
| 8 | 花時計 | 1973.6.1 | シチズン時計KK寄贈。もと、公会堂(現・広島国際会議場)南側にあったが、..、現在地に移設? |
| 9 | 島外科 | [爆心地] | 原子爆弾は、この敷地上空580メートルで爆発。 |
10 |
元安橋 | [130M] | 広島市道路[里程]元標の所在地。東京日本橋から234里(約920km)。1992.11.架け替え。 |
11 |
広島市レストハウス | [170M] | 1929(昭和4)、元大正屋呉服店として竣工。設計:増田清。地下室で1名(野村英三)生存。44年から広島県燃料配給統制組合が買収し、燃料会館と呼ばれる。57年、広島市が買収し東部復興事務所としてしよう。82年9月、平和公園レストハウスとして整備。広島市が撤去方針を打ち出したことから、保存運動がすすめられている。 |
12 |
広島平和をきずく児童生徒の会 原爆の子の像 |
1958.5.5 | これは ぼくらの叫びです これは 私たちの祈りです 世界に平和を きずくための(裏面)「原爆で亡くなった兄姉の霊をなぐさめ世界に平和を呼びかけるために広島市小・中高校の子供が結集し全国の友達の支援のもとにこれをつくる」。広島平和をきずく児童生徒の会制作:菊池一雄。佐々木禎子(2歳で被爆、1955年10月25日、白血病で死亡)の級友の始めた建設運動の成果。アメリカ・ロスアラモス近郊の子どもたちが、被爆50周年を記念してこの像の姉妹像を建設。 |
13 |
広島青年会議所 平和の礎石 |
1972.8.2 | イギリス最高峰ベン・ネビス山から切り出した石。広島青年会議所が「ヒロシマの悲劇を世界平和のいしずえに」という銘板を贈ったことへの返礼として、イギリスの青年から贈られた。 |
14 |
広島鯉城ライオンズクラブ 平和の時計塔 |
1967.10.28 | チャーター[支部設立許可状]伝達10周年記念 |
15 |
本川小学校平和資料館 | [410M] | 1988.4.旧校舎の一部を利用して開館。 |
16 |
本川小学校原爆慰霊碑 | 1995.11.3 | ##410?名の児童教職員と数千人の地区民## |
17 |
原爆遭難横死者慰霊供養塔 | 1957.9 | 県下真言宗徒による建立。 |
18 |
原爆死没諸霊位供養塔 | ||
19 |
広島戦災供養会 原爆供養塔 |
1955.8.6 | ##約7万人の無縁仏##。1985年から毎年「原爆供養塔納骨名簿」が全国公開されている。98年7月7日、851名の名簿が広島市から発送され、同月15日に全国一斉に公開された。 |
20 |
平和の石燈 | 1955.8.6 | 裏千家淡交会広島支部の建設。毎年8月6日、この前で供茶の会。 |
21 |
広島悲願の会 平和の鐘 |
1964.9.20 | 制作:香取正彦。鐘には、「世界はひとつ」を象徴する国境のない世界地図が浮彫にされている。鐘楼は、宇宙を表現したドーム型の屋根を持つ。 |
22 |
平和の泉 | 190.99.1 | 広島青年会議所創立10周年記念 |
23 |
被爆した墓石 | [200M] | 慈仙寺墓石。周辺の窪地は、被爆前の地面を示す。 |
24 |
中島平和観音会 平和乃観音像 |
1956.8.6 | ##403名##。元中島本町の生存者がちが、町有財産と生存者の寄付で建立。 |
25 |
中島本町復元地図 | 1970.8.6 | 平和観音会が、犠牲者名簿作成のための調査結果として完成 |
26 |
在日大韓民国居留民団 広島地方本部 韓国人原爆犠牲者慰霊碑 |
1970.4.10 | ##2万余名## 1967年春、浜井広島市長に「碑」建立計画を申し入れ。公園内には、認められず。69年10月、現在地に許可。 広島市平和記念施設運営協議会答申「平和公園内に記念碑、慰霊碑等が多くなったため、この時計塔を最後として平和公園内には一切工作物を許可しないことを申し合わせた」。 |
26 |
在日韓国青年商工人連合会など [韓国人原爆犠牲者]慰霊碑由来碑 |
1986.8.5 | 「第二次世界大戦の終り頃、広島には約十万人の韓国人が、軍人、軍属、徴用工、動員学徒、一般市民として在住していた。1945年8月6日の原爆投下により、2万余名の韓国人が一瞬にしてその尊い人命を奪われた。広島市民20万犠牲者の1割に及ぶ韓国人死没者は決して黙過できる数字ではない。爆死したこれた犠牲者は誰からも供養を受けることなく、その魂はさまよい続けていたが、1970年4月10日、在日本大韓民国居留民団広島県本部によって悲惨を強いられた同胞の霊を安らげ 原爆の惨事を二度と くり返さないことを希求しつつ平和の一隅に この碑が建立された。望郷の念にかられつつ異国の地で爆死した霊を慰めることはもとより 今もなお理解されていない韓国人被爆者の現状に対しての関心を喚起し一日も早い良識ある支援が実現されることを念じる。」 |
27 |
常夜燈 | ||
28 |
川内・温井義勇隊の碑 | 1964.8.6 | ##174名##。安佐郡佐東町 |
29 |
県立第二中学校歌碑 | 1953.8.6 | ##343名##。元広島二中校長・古田兵衛の短歌「なくさめの 言葉なけれは たた泣かむ 汝かおもかけと いさをしのひて」。碑の位置から西平和大橋にかけての川土手で家屋疎開作業中被爆。12歳の少年たち。 |
29 |
県立第二中学校慰霊碑 | 1961.8.6 | ##352名## |
30 |
広島国際会議場 | 1989.7.1 | 設計:丹下健三事務所。公会堂(55.3.1開館)を取り壊した跡に建設。 |
31 |
市立商業・造船学校慰霊碑 | 1963.8.6 | ##273名##。碑の位置より2-300メートル南方で建物疎開作業中被爆。 |
32 |
西平和大橋(新大橋) | 1952.6.3 | 爆心地から620メートル。設計:イサム・ノグチ。「日の入り」を表現。 |
33 |
慈母の像 | 1961.8.6 | 「慈母の像 平和の鳩を 放ち給ふ」 自得 原爆で夫と長男を失った高ノブ(マルタカ子供百貨店店主)が建立。 |
34 |
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑 | 1971.8.4 | ##推定児童2000名、教師約200名##。篠枝「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」。制作:芥川永。 |
35 |
広島ロータリークラブ 平和の像「若葉」 |
1966.5.10 | 創立10周年記念。湯川秀樹歌碑「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは 湯川秀樹」、彫刻:円鍔勝三 |
36 |
友愛碑 | 1965.8.6 | ##89名##。日本損害保険協会広島地方委員会が建立。制作:辻晋堂。 |
37 |
旧天神町南組町内会慰霊碑 | 73.7.15 | ##115名[および戦死者11名、一般物故者52名]## |
38 |
市立高等女学校平和塔 | 1957.6 | 母校奉安伝殿跡に建立(48.8.6)されていたものを現在地に移設。 「友垣に まもられなから やすらかに ねむれみたまよ このくさ山に 昭和廿三年八月六日 宮川雅臣」 |
38 |
市立高等女学校慰霊銘碑 | 1985.8.6 | ##676名## |
39 |
マルセル・ジュノー博士像 | 1979.8.8 | [銘文]「1945年8月9日 赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日 広島の原爆被災の惨状を聞くや直ちに占領軍総司令部へ行きヒロシマ救援を強く要請 9月8日調達した大量15屯の医薬品と共に廃墟の市街へ入り惨禍の実情を踏査 自らも被爆市民の治療にあたる 博士の人力でもたらされた医薬品は市内各救護所へ配布 数知れぬ被爆者を救う 博士の人道的行為に感謝し 国際赤十字のヒューマニズムを讃え永く記念してこれを建てる」。広島県医師会が中心となって建立。 |
40 |
朝鮮民主主義人民共和国帰国記念時計 | 1959.12.14 | [三次・尾関山公園にも1959年の帰国者の建立した碑があるとのこと。] |
41 |
平和記念ポスト | 1987.5. | 52.8.6、広島駅西の東郵便局前に設置。現在地に移転。彫刻:円鍔勝三。 |
42 |
世界連邦広島県・広島市宣言記念平和の塔 | 1974.10.30 | 広島市は54.10.30、県は59.3.18に宣言。市の宣言から20年になるのを記念して建設。設計:川村臥美。 |
43 |
広島市婦人連合会 嵐の中の母子像 |
60.8.5 | 彫刻原型:本郷新制作。 原水爆禁止日本協議会が、1959年8月に広島で開催された第5回原水爆禁止世界大会を記念して、「わだつみの像」の作者本郷新が制作した石膏像を寄贈。広島市婦人連合会は、1960年7月、この原型をブロンズに鋳造して建立することを決め、150万円の募金をおこない、翌61年8月に建立した。 |
44 |
祈りの泉 | 1964.11 | 広島銀行が建設して市に寄贈。 |
45 |
平和記念資料館 | 1955.8.24 | 通称:広島原爆資料館(西館)。設計:丹下健三。 |
46 |
平和記念資料館(東館) | 1994.6.1 | 広島平和記念館(55.6.1開館)を取り壊した跡に建設。設計:丹下健三 |
47 |
被爆したアオギリ | 1973.4. | 広島逓信局中庭で被爆した木を移植。 |
48 |
全日本損害保険労働組合 被爆20周年記念碑 |
1990.7 | **89名**。1965年8月6日、広島平和記念館南側に建立。89年7月29日、消失。8月1日、吉島の空き地で発見。まもなく、右翼団体のメンバーのしわざと判明。8月29日、元の位置にもどる。90年7月、平和記念館建て替えのため、現在地に移設。碑文「なぜ あの日は あった なぜ いまもつづく わすれまい あのにくしみを この誓いを」 |
49 |
平和のための広島県文化会議 峠三吉詩碑 |
1963.8.6 | ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ 峠 三吉 |
50 |
材木町跡碑 | 1957.8.6 | 旧町民が公園に変わった旧町を惜しむとともに犠牲者の冥福を祈って建立。 |
51 |
原爆死没者慰霊碑[広島平和都市記念碑] | 1985.3.26 | ##20万6501名(1998年6月18日現在)##。 設計:丹下健三。碑文の文案・執筆・雑賀忠義。「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」。52.8.6に建立した慰霊碑を改築。 |
52 |
平和祈念像 | 1977.8.2 | 彫刻:円鍔勝三。1957年に建設会が発足。全国の児童・生徒に呼びかけて寄付を集め、建設に取りかかったものの、柳原義達のデザインに批判があり、取りやめとなる。 |
52 |
草野心平詩碑 | 1978.7.30 | 平和祈念像に付設。「平和祈念像に寄せて」。 |
53 |
菩提樹の碑 | ||
54 |
国旗掲揚台 | 1963.4.29 | 新日本協議会広島県本部・広島県日の丸会本部が寄贈。 |
55 |
平和の灯 | 1964.8.1 | 設計:丹下健三。核兵器禁止日本国民会議が中心となって建設。この火は、伊勢神宮・東西両本願寺など全国12宗派から寄せられた「宗教の火」と溶鉱炉など全国の工業地帯から集められた「産業の火」を合わせて点火されたもの。 |
56 |
平和祈念慰霊国民大祭記念 祈りの像 |
1960.8.15 | 制作:横江嘉純。大木惇夫詩碑。「慰霊対象 被爆者 軍人軍属 官公吏 警察官 警防団員 動員教師 動員学徒 派遣看護婦 助産婦 抑留同胞死没者 戦犯処刑者 殉死者 自決者 在外同胞非業死没者 其他一般犠牲者」 |
57 |
日本青年会議所 平和の池 |
1957.8.3 | 第5回日本青年会議所会員大会記念 |
58 |
北天神町原爆犠牲者の碑 | 1973.2. | ##266名## |
59 |
広島郵便局職員殉職の碑 | 1976.3.26 | ##288名## |
60 |
平和祈念碑 | 1984.6.24 | 83年3月に姉妹縁組した広島西ライオンズクラブと長崎西ライオンズクラブが、同じ記念碑を両市に建立。 |
61 |
原爆犠牲建設労働者・職人之碑 | 1988.8.5 | ##??##。全国建設労働組合総連合が広島・長崎両市に建立。 |
62 |
広島双葉ライオンズクラブ 中曽根康弘句碑 |
1987.11.12 | 「悲しみの なつぐもへむけ 鳩放つ」。87.10.14、広島市が建設許可。以後、さまざまな団体が許可取り消しを求める運動。建設後も、撤去をもとめる運動。 |
63 |
原爆犠牲ヒロシマの碑 | 1982.8.5 | 81年、広島市が元安川の美化工事に乗り出したことを契機に、広島の高校生たちが中心となって始めた原爆がわら発掘運動の成果。「原爆瓦で平和の記念碑をつくろう」とのよびかけに3500万円を超える募金が寄せられた。制作:芥川永。 |
64 |
広島瓦斯株式会社 原爆犠牲者追悼碑 |
1967.8.6 | ##69名##。当日疎開作業のため34人が水主町・天神町方面に出動。 |
65 |
石炭関係会社 原爆殉難者慰霊の像 |
1957.8.6 | ##76名## |
66 |
広島県農業会原爆物故者慰霊碑 | 1971.7.31 | ##82名## |
66 |
広島理容師会毛髪碑 | 1960.3 | 原爆被害と関係なし。 |
67 |
動員学徒死没者の慈母観音像 | 1966.7.31 | ##約4000名##。遺族ら約2000人が参列して除幕。世話人代表:秋田正之。 |
68 |
平和大橋(新橋) | 1952.6.3 | 爆心地から490メートル。設計:イサム・ノグチ。「日の出」を表現。 |
賢人グループ会合に引き続き、8月26日(水)から28日(金)にかけて「第25回国連軍縮会議in広島」が開催され、23か国・5国際機関から83人が会議に参加しました。
国連軍縮会議は、アジア・太平洋地域において軍縮問題に対する意識を高め、軍縮・安全保障に関する対話を行うことを目的として、国連が平成元年(1989年)から開催しており、広島市では19年ぶり4回目の開催となりました。
今回の会議では、広島市からの提案により、被爆の実相を伝えるプログラムや、賢人グループ会合のメンバーが参加するオープニングハイレベルセッション、国内外の若者が平和について発表し合う世界学生平和会議が会議プログラムに組み込まれました。出典:「平和文化」NO.190
広島市と長崎市が設置した「ヒロシマ・ナガサキ平和アピール推進委員会」からの受託事業
1 国内原爆写真展用資料の貸出し………………139
2 海外でのヒロシマ・ナガサキ原爆展の開催………139
(1)米国・セントポール市……………………………139
(2)フランス・パリ市……………………………140
3 国外原爆写真展用資料の提供…………………141
4 世界平和都市連帯の推進………………………142
○地域別平和市長会議加盟都市数…………142
○平和市長会議国・地域別加盟都市数…………143
5「広島・長崎講座」設置協力プログラム……………145
6 核兵器廃絶のための緊急行動の展開………………145
◎第3回長崎原爆犠牲者慰霊の会…………………146
開館年月日:2002年8月1日
厚生労働省からの受託事業
1 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の管理運営…………133
①施設の紹介…………………………133
②被爆体験記等の収集・整理状況…………134
③原爆死没者氏名・遺影の収集状況………134
④企画展の実施………………………………134
⑤被爆者証言ビデオの制作・公開…………135
⑥遺影・体験記収集の全国展開……………135
⑦広島・長崎特別共同企画展………………136
⑧被爆体験記を読み語るプロジェクト……136
○被爆体験記朗読セットの貸出し………137
⑨遺族以外(学校の同窓全等)による氏名・遺影の登録……137
⑩来館者増加対策……………………………138
受託事業(広島市からの受託事業)
1「ヒロシマ・ピースフォーラム」の開催…………92
2 広島平和記念資料館の企画展の実施……………95
(1)企画展……………………95
①「廃嘘の中に立ち上がる―平和記念資料館とヒロシマの歩み―」………96
◎歴代館長の座談会……………96
②「宮武甫・松本榮一写真展―被爆直後のヒロシマを撮る」………96
(2)被爆資料の複製(レプリカ)の製作と保存処理の実施……97
3 原爆展・平和学習用資料の充実………………98
4 第6回「ヒロシマ・ガイド」の開催……………99
5「中・高校生ピースクラブ」の開催……………99
6 被爆資料等収集の全国展開及び海外被爆資料の所在調査……101
7 図録『原爆の絵』の発行………………………101
8 平和・戦争に関する博物館等とのネットワーク…………102
9 展示・収蔵資料等の調査・研究………………102
10 平和記念資料館更新計画の策定………………104
11 市民の平和活動の資料等データベース整備………104
12 アクション21「核兵器保有国への平和メッセージの伝達」…………104
13「広島・長崎講座」の開設………………105
14 第6回平和市長会議被爆60周年記念総会の開催…………106
15 核兵器廃絶のための緊急行動(イタリアなどでの要請活動)………112
16 資機材の供与……………………112
17「姉妹・友好都市の日」の開催及び化ロシマ・メッセンジャー」の運営
(1)「姉妹・友好都市の日」記念催事の開催……………113
(2)ヒロシマ・メッセンジャーの選考等…………………115
18 施設の管理運営等…………………………………116
(1)広島平和記念資料館の管理運営…………………116
①施設の紹介………………116
②メモリアルホールの利用方法………………118
③入館者状況……………………………………120
④観覧料の収納…………………………………121
(2)広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)の維持管理……121
(3)広島国際会議場の管理運営……………………122
①施設の紹介…………122
②利用方法……………124
③利用状況……………125
(4)国際交流ラウンジの運営……………………126
(5)広島市留学生会館の管理運営………………127
①施設の紹介…………127
②利用方法……………128
③交流施設の利用状況………………131
④居住施設の入居状況………………132
国際平和推進事業
| 開始年 | 事業名 | 備考 |
| 1968 | 核実験に対する抗議書簡・抗議電報 | |
| 1979 | 国連軍縮フェローズの受入れ | |
| 1982 | 世界平和都市連帯の推進 | |
| 1988 | 中国人民平和軍縮協会との交流 | |
| 1995 | 国際平和シンポジウムへの出席 | |
| 2003 | 長崎原爆犠牲者慰霊の会 | |
平和意識高揚事業
被爆体験継承普及事業
開始年 事業名 備考 1968 原爆罹災者名簿の公開 1978 修学旅行生への被爆証言講話等 1978 国内原爆写真展用資料の普及・活用 1980 原爆被災説明板及び被爆建物表示板の設置 1982 原爆展・平和学習用資料の普及・活用 1986 被爆者証言ビデオテープの制作 1987 被爆体験証言者交流の集いの運営 1993 被爆建物等保存・継承事業 1994 平和記念資料館の企画展等の実施 1998 広島平和記念資料館資料調査研究会発表会の開催 1999 ヒロシマピースボランティア事業 2001 被爆樹木の樹勢回復措置 2002 中・高校生ピースクラブの開催 2002 ヒロシマ・ピースフォーラム 2003 平和文化センターインターンシップ事業 2004 次世代と描く「原爆の絵」…………… 2012 平和記念資料館再整備事業 2012 被爆体験伝承者の養成 2012 折り鶴に託された思いを昇華させるための取組の推進 2016 被ばく樹木のモニタリング 国内原爆展雄開催 英語で伝えようヒロシマセミナー 被爆関連映像資料のアーカイブ化 旧日本銀行広島支店での平和記念資料館収蔵品の展示 「新着資料展」の開催 「収蔵資料の紹介」コーナーの展示 被爆体験伝承者による伝承講話の定時開始 折り鶴データベースの記録保存 被爆体験講話会の定時開催 平和・戦争に関する博物館等とのネットワーク 2016 平和記念資資料館収蔵資料の保存措置の強化 新規 2016 被爆資料の収集の強化 新規 2016 平和首長会議国内加盟都市会議に合わせた原爆展の開催 新規 2016 三重県における原爆展の開催 新規 2016 平和記念資料館ボランティアスタッフ活動支援事業 新規 http://www.pcf.city.hiroshima.jp/hpcf/jigyo/pdf/2017/04.pdf
1 修学旅行生への被爆証言講話等………14
(1)実施状況………………………………14
(2)申し込み方法…………………………15
(3)被爆体験証言者(本財団所属)名簿…………16
2 ヒロシマピースボランティア事業……………17
3 国内原爆展の開催………………………………18
4 原爆展・平和学習用資料の貸出し……………21
(1)貸出件数………………21
(2)資料一覧………………21
(3)貸出方法………………24
☆原爆被災写真の貸出し…………25
5 被爆者証言ビデオテープの制作………………25
6 被爆体験証言者交流の集いの運営……………26
(1)全体会の実施………………26
(2)研修会の実施………………26
(3)構成団体一覧表……………27
(4)団体別被爆体験証言実施状況………28
7 次世代と描く「原爆の絵」……………29
◇被爆建物等保存・継承事業………………30
◇原爆被災説明板の設置……………………31
◇被爆樹木の樹勢回復措置…………………31
◇原爆罹災者名簿の公開……………………33
◇折り鶴データベースの記録保存…………34
◇折り鶴の保存・展示を実施………………34
◇平和記念施設保存・整備方針の策定………35
| 月 | 日 | 記事 |
|---|---|---|
| 02 | 28? | 広島市、西独・ハノーバーで開催予定(7月から約1月)のドイツ復興博に原爆被害写真や復興状況の統計を送ることを決める。 |
| 03 | 28 | 西独ハノーバー市で開催予定(5月)の都市計画博覧会に出品される東京・広島・長崎のパノラマ、東京日本橋・三越で展示。 |
| 05 | 01 | 京都大学で春季文化祭「わだつみの声にこたえる全学文化祭」を開催。-20日。この中で同学会主催の原爆展が開催される。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
| 05 | 19 | 京都大学で「原爆に関する講演会」(木村毅一・天野重安・大田洋子の講演)。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
| 06 | この月初め、京都大学文学部学友会の呼びかけにより「原爆体験記編集委員会」を作り、宮川裕行を中心に編集にとりかかることを決定。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) | |
| 06 | 09 | 京都大学の学生、丸木夫妻から総合原爆展への「原爆の図」出展の了解を得て東京から帰任。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
| 06 | 10 | 京都大学の学生、広島より総合原爆展用の大量の原爆資料を持って京都に帰任。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
| 06 | 13 | 同志社大学「平和に生きる会」、原爆展を開催。-18日。3500人が参観。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号収録の「都新聞」) |
| 06 | 13B | 京大=原爆展を中心に全京都的な青年文化祭を行う。(「連盟通信」第101号) |
| 06 | 15 | 京都大学同学会、ビラ「京大原爆展を成功させるために」を発行。(「資料戦後学生運動3」) |
| 06 | 15 | 東京大学五月祭で展示された原爆資料が京都に到着。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
| 06 | 上 | 京都大学の学生、「原爆展」の準備のため広島で吉川清を訪問。吉川、上洛の意向を学生に表明。(京大同学会「京大原爆展を成功させるために」) |
| 07 | 10 | 京都大学同学会、原爆展を丸物百貨店で開催。10日間。 |
| 07 | 14 | 京都大学同学会、丸物で総合原爆展を開催。-24日。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号収録「都新聞」7月21日付) |
| 07 | 22? | 宮川裕行(京都大学文学部学生)、広島で原爆体験の手記募集活動を行う。県庁職組、市庁職組・千田書房などを回る。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
| 08 | 06 | 丸木・赤松夫妻の「原爆の図」第4部「虹」、第5部「少年少女」が完成し、東京・日本橋丸善画廊で展覧会。-11日。(「連盟通信」第105号) |
| 08 | 17 | 高槻市・京都大学同学会、市会会議室で原爆展を開催。-19日。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
| 08 | 20 | 「東京平和会議ニュース」第4号、広告「原爆写真展を御利用下さい!!」を掲載。写真内容=原爆の図(16枚)、広島被害写真(5枚)、赤松丸木絵ピカドン(台紙4枚張17枚)の計38枚。 |
| 08 | 23 | 川崎駅前の百貨店で赤松俊子の「原爆三部作展」開催(長崎民友)。 |
| 08 | 23 | 赤松俊子・丸木位理共同製作「広島原爆図展」、川崎駅前・小美屋で開催。-30日。(「進む車両」1951年8月20日) |
| 08 | 25 | 民主主義科学者協会・新日本建築家集団・新日本医師協会・京都大学同学会、「戦争・平和をめぐる科学技術展」開催準備のため展示物の一部を占める京都大学同学会の「原爆展」を東京都港区の全銀連会館で関係者に公開。-27日。(大原社研資料) |
| 08 | 30? | 民科・新日本建築集団・新日本医師協会・東大職員組合、9月10日-20日の間、浅草の松屋、渋谷の東横で「戦争と平和の科学技術展」の開催を計画。(「連盟通信」第106号) |
| 09 | 01 | 横浜市従業員労働組合、神奈川体育館で「第1回市従平和文化祭」を開催。-5日。行事の一つに原爆絵画展(赤松・丸木協作原爆の図第1部-第5部)。(大原社研資料) |
| 09 | 22 | 第38回日本エスペランチスト大会。京都大学エスペランチスト会、名古屋市の区役所廊下で原爆スチールを展示。(「原爆展」掘り起こしニュース) |
| 11 | 01 | 大阪大学の体育文化祭で「原子力展」を開催。(「原爆の子に応えよう」520227) |
| 11 | 08 | 岐阜大学農学部で文化祭。-11日。自治会主催の原爆展が開催される。(「連盟通信」第116号) |
| 11 | 20 | 北海道・札幌市の丸井デパートで「原爆の図展」を開催。-21日。(「原爆展」掘り起こしニュース第5号、「女絵かきの誕生」) |
| 11 | 22 | 静岡大学の文化祭で「原爆展」を開催。-25日。(「原爆展」掘り起こしニュース第5号) |
| 11 | 24 | 札幌市警、北海道大学の原爆展会場に展示されていたパネル3枚(広島・長崎に落ちた原爆についての市民の声)を占領目的阻害行為処罰令被疑として押収。(「連盟通信」第117号、「女絵かき誕生」) |
| 11 | 33 | 「原爆の図」展、1950年2月から51年11月までの期間に、日本全国51か所で延べ223日間開催され、約65万人が入場。(「原爆の図」19520410) |
| 年 | 月 | 日 | 記事 |
|---|---|---|---|
| 48 | 08 | ? | 夏、丸木位里・赤松俊子、「原爆の図」の製作に着手。 |
| 48 | 08 | 05 | 長崎市、市立博物館で原子爆弾史料展示会、開催。(~11日) |
| 48 | 08 | 06 | アトム・ヒロシマ写真・画展、広島市内の茶房で開催(~8日)。中国新聞社写真部松重ら5氏の写真や福井芳郎のスケッチを出品。 |
| 49 | 04 | 21 | 広島県観光と物産展、東京日本橋・三越本店で開幕。-28日。「平和の鐘」を展示。 |
| 49 | 08 | 03 | 広島市平和協会主催「浮世絵展」、福屋百貨店で開幕。-14日。 |
| 49 | 10 | 14 | 広島市中央公民館、全国民生・児童委員大会の協賛行事として原爆写真展を開催(~18日)。 |
| 50 | 02 | 08 | 日本美術協会主催第3回アンデパンダン展(東京上野・美術館)。11日間。丸木位里・赤松俊子、「八月六日」(「原爆の図」第1部幽霊)を出品。(「原爆の図」19520410、「三田文学」1950年6月、「女絵かきの誕生」19770820) |
| 50 | 02 | 11 | 広島市中央公民館で、原爆と平和展(広島平和協会主催)、開催(3月12日まで)。原爆関係資料展示。3月8日までの入場者数大人4273人、小人1611人。入場者収入32万2290円。 |
| 50 | 02 | 21 | 長崎市、日本産業博覧会(3月15日から、於神戸市)に長崎館を設置し、原爆資料など展示することを決定。 |
| 50 | 03 | 末 | 桃李会主催「原爆の図」展、丸善で開催。(「三田文学」1950年6月) |
| 50 | 06 | 01 | 共産党東京都委員会、池袋駅前で「原子爆弾写真展」を開催し、平和投票を集める。 |
| 50 | 06 | 21 | アカハタ、東京で戦争反対、原子爆弾の使用禁止の宣伝のため原爆による被害を示した数枚のポスターを紙上で紹介。 |
| 50 | 08 | 月刊誌「働く婦人」、グラビアで赤松俊子夫妻の「原爆の図」を紹介。峠三吉の詩「呼びかけ」、記者常見一の広島ルポ「原子沙漠に草萌えて」を掲載。 | |
| 50 | 08 | ? | 全商工本省支部が省内で開催した原爆写真展の写真が巡視により没収される。(千代田区平和を守る会「平和ニュース」第2号、1950年8月12日) |
| 50 | 08 | 07 | 丸木・赤松の「原爆3部作展」東京・日本橋の丸善画廊で開催。-12日。15-20日には銀座・三越で開催。合わせて9万人が参観。(「連盟通信」第68号、「日本評論」1950年10月) |
| 50 | 08 | 18A | 日本美術会・婦人民主クラブ・女子勤労連盟・平和を守る会、東京有楽町交通協会で、原爆3部作完成記念の懇談会を開催。本郷新(司会)、八田元夫(丸山定夫の思い出話)、淡徳三郎、武谷三男、大田洋子の話に続き、赤松・丸木夫妻の挨拶。 |
| 50 | 10 | ? | 民科米子支部、「原爆の図」展を開催。3500人が観覧、2500票のSアピールを集める。(「歴史評論」1951年9月) |
| 50 | 10 | 05 | 広島市内五流荘で原爆の図三部作展覧会始まる。5日間でストックホルムアピール署名186票。(「民族の星」1950年10月16日、10月21日) |
| 50 | 10 | 07 | 「われらの詩の会」、峠三吉のアパートで壷井繁治・丸木位里・赤松俊子を囲む集まりをもつ(「われらの詩」1950年12月15日) |
| 50 | 10 | 08 | 広島市・五流荘で「壷井・丸木・赤松諸氏を囲む座談会」が開かれる。(「われらの詩」1950年12月15日) |
| 50 | 10 | 20 | 広島県・上下高校の記念祭で「平和展」.会場で原爆写真などを紹介(25日まで)。 |
| 作家名 | 遭遇年月日 | 遭遇場所 |
| 高橋和巳 | 1969年? | 京都大学本部構内(京都) |
| 三島由紀夫 | 1970年11月25日 | 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(東京) |
| 大江健三郎 | 1987年7月30日 | 広島ターミナルホテル(広島) |
高橋 和巳
たかはし かずみ 19310831生
19710503没 作家。歳。
高橋和巳=「私たちはしばしば、一つの時代を、その繁栄の中心において記述しがちであるが、一つの時代は先端的な繁栄の場をもつと同時にその時代の矛盾と悲惨の集約の場をももつ。そして文化というものは、社会の先端を切る人々にのみ担われるのではなく、矛盾と悲惨の場に耐えた人々によっても担われる。その不運の場に居あわさねばならなかった人々の苦しみのうちに築かれてゆく価値を無視してしまっては、その時代、その民族の精神は十全ではありえないのである。」
(「滅びざる民」、『読書人』1966年8月1日号掲載)
三島 由紀夫
広島に”新型爆弾”が投下されたとき、私は東大法学部の学生であった。(中略)
それが原爆だと知ったのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだった。世界の終わりだ、と思った。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。もっとも、原爆によって突然発生したというより、私自身の中に初めから潜在したものであろうが・・・。 ヒロシマ。ナチのユダヤ人虐殺。まぎれもなくそれは史上、二大虐殺行為である。だが、日本人は「過ちは二度とくりかえしません」といった。原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は、終戦の詔勅の「五内為ニ裂ク」という一節以外に、私は知らない。(中略)
核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさえながら核を作っている。彼らは言いわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被爆国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもって対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思い起こすべきではないのか。
(三島由紀夫の発言、「私の中のヒロシマ」、『週刊朝日』1967年8月11日号
大江 健三郎
1958年「飼育」で芥川賞受賞。
「ヒロシマ1960」(『中国新聞』1960年8月7日)
***私はきょう広島を訪れて原爆記念祭に出席した。それは私にとって貴重な体験である。***日本人はその生涯に、すくなくとも一度は広島を訪れるべきである。
***私は広島で、原爆と戦いつづけながら日常生活をきずいている、勇気にみちた人たちを見た。それは土門拳の「ヒロシマ」で私が発見し、深い敬意をはらっていた人たちを、現実に見ることであった。そしてまた私は、納骨塔の前で会った母親のように、深く暗い海のような悲しみと嘆きをもつ人たちをも見たのである。
***この二つの人間像が広島の人たちを代表するものであろう。私はこの勇気ある人たち、しかも深い悲嘆を心にいだきつづける優しさをもった人たちを、おなじ日本人としてもつことに誇りを感じる。
「ヒロシマ・ノート」(『世界』1965年3月号)
***広島こそが、僕のいちばん基本的な、いちばん硬いヤスリなのだ。広島を、そのような根本的な思想の表現とみなすことにおいて、僕は自分が日本人の小説家であることを確認したいのである。
「ヒロシマからの新しい光-人類再生のシンボルに」(『中国新聞』1992年1月1日)
***これまで広島は第二次世界大戦で始まった核兵器体制の黒い巨大なシンボルでした。いま核軍縮の方向性があきらかとなって-逆行がありうるのであれ-、広島は核の被害から人間がどのように再生したかを示す光のシンボルともなりうるはずです。チェルノブイリの被災者の広島における治療は、すでに具体的にそれをあらわしていると思います。
1994年10月13日、ノーベル文学賞受賞決定。
「世界文学は日本文学たりうるか?」
(ノーベル賞受賞後初の講演。『あいまいな日本の私』(岩波新書、1995年)所収)
***私どもは、広島と長崎の経験を持っていますが、はたして日本人はそれを本当に思想化したか、日本文明の問題として考えてきたか?あるいは、日本人の文化の問題として捉えてきたかというと、私はそうではないのではないかと考えています。
***広島と長崎の課題を日本人が経験した20世紀最大の出来事として把えなおすならば、そのとき初めて日本人は、この世紀末から次の世紀に橋渡しすべき思想を、あるいは文明をかちとりうるのではないでしょうか。
***われわれは、ゆがんだ貧しい近代をつくってしまった。そして大きい戦争を惹き起こして、悲惨な経験をした。その頂点に広島と長崎があります。そのことをわれわれは、自分たちの文化の問題として、文明の問題としてあらためて徹底的に考えるべきではないか?それが私たちにとって、ついに世界言語を構想することにもつながる仕方で世界の文学に参加するための出発点ともなるのではないか?
***広島、長崎のあの大きな犠牲は、償わなければならないと思います。償うのは私たちです。また、広島、長崎にいたった、そしてそれ以後も決して完全に治っているとはいえない国家の疾患から、私たちは恢復しなければならない。
ノーベル賞受賞記念講演「あいまいな日本の私」
(1994年12月7日『あいまいな日本の私』(岩波新書、1995年)所収)
***日本と日本人は、ほぼ50年前の敗戦を機に***大きい悲惨と苦しみのなかから再出発しました。新生に向かう日本人をささえていたのは、民主主義と不戦の誓いであって、それが新しい日本人の根本のモラルでありました。しかもそのモラルを内包する個人と社会は、イノセントな、無傷のものではなく、アジアへの侵略者としての経験にしみをつけられていたのでした。また広島、長崎の、人類がこうむった最初の核攻撃の死者たち、放射能障害を背負う生存者と二世たちが--それは日本人にとどまらず、朝鮮語を母国語とする多くの人びとをふくんでいますが--、われわれのモラルを問いかけているのでもありました。
「『ヒロシマの心』と想像力」(『核と人間2』(岩波書店、1999年)所収)
***核兵器に対する日本人の国民感情という政府の声明の常套句も、広島、長崎から発せられる実際には内容のぎっしりつまった「ヒロシマの心」という言葉も、ともに、海外では本気で受けとられなくなっている現状がある、とあえて私はいいたいと思います。
***被爆者たちの反核の感情に、すくなくともいまナショナルなものは大きくない、と私はこれまで幾らかなりとその傍に立って運動に参加したり、観察したりしてきた者としていうことができます。被爆者はあきらかに被害者ですが、そして被爆直後反核の運動の開始、そしてある時期まで、深い被害者意識があったことは当然だと思いますが、しだいにそれを克服して、その核兵器の投下をもたらすものとなった--だからといって、それが必然的に核兵器を広島に、またとくに長崎にまで投下させるものだった、とはいえませんが--太平洋戦争、それに先だつ日中戦争での、加害者としての日本人という意識を、被爆者援護法の運動は実際に取り込んできました。また植民地化された朝鮮半島の人々への加害者意識を、具体的に生活感覚のなかに生かしもしました。私は戦後の日本人の思想史において、広島、長崎の被爆者たちの、援護法に焦点をおいた、そしてさらに今日まで続く核廃絶の運動のなかでの、その経験の普遍化の道程は特別な重みを持つものだと考えています。
平和と学問を守る大学人の会
会の結成
1953(昭和28)年2月21日,広島県内の大学に教職を持つ有志約50人は,平和と学問を守る大学人の会(略称・大学人会)を結成した。結成の背景について同会会報創刊号(1953年6月1日)は次のように述べている。
昨年の破防法問題の時には,広島の大学人は結局これを見送ったのであったが,見送りながらも刻々民主々義の基盤が侵蝕され,平和が危機に曝されて行く事実を見逃すことはでぎなかったのである。さらに昨年末から本年にかけて問題となった科学技術庁案は,侵略の魔手が直接研究の現場にまで迫ってきていることを気づかせたのである。そして,このことはかって支那事変から太平洋戦争の時代にかけて,軍事科学の偏重のために人文・社会の研究は勿論,自然科学といえども,基礎的研究は経済的に圧迫されて事実上閉塞し,さらに軍国主義思想が学問の自由を破壊したという,まだ去って間もない過去の苦しい経験を,まざまざと思い起させたのである。この反省が,今度こそはわれわれ自身の手によって学問の自由を確保し,平和を擁護しなければならないという自覚を促し,その自覚がわれわれを,今,ここに結集させているのである。春秋の筆法を以てすれば,破防法に始まる悪法が--さらに遡ってサンフランシスコ条約以来の反平和的情勢が,われわれ広島の大学人会を結成させたものである。
大学人会の目的は,「平和を擁護し良心と学問自由を守ること」(規約第2条)とし,事業として,1.共同研究会の開催,2.公開講演会・公開討論会・座談会等の開催,3.本会と目的を同じくする諸団体との連絡提携などが定められた(規約第3条)。発足以後,3月末には会員数は90入に達し,5月末現在では100人を超した。
大学人会の発足当初の活動は,地味なものであったが,この会は,のちの広島の社会運動,とりわけ原水爆禁止運動・安保闘争の中で重要な役割を果すこととなる。
大学人の会の研究活動
平和と学問を守る大学人の会は,同会研究論集として『原爆と広島』(1954年12月10日),『広島の農村』(1955年7月20日)を発行し,高い評価を受けていたが,これらは同会の共同研究の成果というよりも,個人的労作を編集したものであった。1956(昭和31)年には会の共同研究を推進することを決め,石井金一郎を中心に検討がなされた。その結果,次のような計画がまとめられ,6月12日の常任委員会で承認された。
1.広島の平和運動の過去と現状及び将来の展望(世話役=今中次麿・石井)-運動実践家を囲んで運動の実態を聞く会と,研究参加会員によるその運動の評価の研究会とを交互にもって,研究をすすめる。平和運動としては原水爆禁止運動・平和憲法擁護運動・平和文学の運動等々を含めた広い運動を対象とする。
2.原子力問題(伊藤満・庄野博允)=肩のこらない軽い気持で参加できる研究会にする。原子力をめぐる各方両の問題を一つづつとりあげて懇談を行うことから出発する。自然科学部門の人と社会科学部門の人との共同研究の場にしたい。
3.日本における学問の自由=欧州の学問の自由の歴史・日本の学問の自由の歴史・大学自治の問題,現在われわれが直面している問題等々を問題としたい。
(「広島大学人会会報」NO.16)
このほか,平和文学(または国民文学)の問題を取りあげることも検討されたが,結局見送ることになった。
平和運動の研究班は,8月17日に大原亨(広島県労議長)・松江澄(平和擁護委)・棗田金治(広大自治会)から労組・学生団体の平和運動について,同月20日に円辺耕一郎・藤居平一(広島県原水協)・山口勇子(広島子供を守る会)・松江澄から原水爆禁止運動について,また,23日には米田栄作・望月久・島陽二(詩人)・佐々木豊・志木寥波(歌人)・小林健三・土谷厳郎(平和問題談話会)・桑原英昭(人類愛善会)・河本一郎(FOR友和会)・金井利博(中国新聞社記者)から宗教・文化関係の話を聞く会を開いた。この3回の懇談会の記録は,同年12月に石井金一郎により『広島の平和運動(平和運動研究班(中間報告)」としてまとめられた。同書は,「広島の平和運動研究資料一」と銘打たれていたが,1957(昭和32)年中に「同二」として『原爆被害者の歩み』(庄野博允執筆)が、また「同三」として『原爆被害者救援の動き』(佐久間澄執筆)がそれぞれ発行された。
なお,原子力の班は,討議の資料として原子力に関する自然科学・社会科学各方面にわたる国内文献目録の作成と原子力問題についての歴史年表の作成を計画,前者については,1957(昭和32)年3月に「原子力問題研究資料1原子力関係文献目録』(佐久間澄編)として発行している。
| 国・地域 | アメリカ、 イギリス、 旧ソ連、 フランス、 中国、 インド、 パキスタン、 日本、 |
| マスコミ | マスコミのキャンペーン |
| 被害者組織 | 全米原爆復員兵協会(1979年8月)、 全米放射線被害者協会(1984年10月12日) |
| 救援・連帯 | 市民団体による調査・救援活動 |
| 世界大会へ参加した海外のヒバクシャ、 ミクロネシア・マーシャル諸島の米核実験被曝者の参加状況 | |
| 世界のヒバクシャの連帯 | |
| 調査・研究 | 放射線影響研究所、広島大学、長崎大学、原爆後障害研究会 |
| 国際協力 | 笹川財団、 放射線被曝者医療国際協力推進協議会 、長崎・ヒバクシャ医療国際協力会 |
| 文献 | 世界のヒバクシャ全般、 |
| 地図 | 世界の被曝地域、 |
| 年表 | 1969~76年、1977~79年、1980~82年、1983~85年、1986~87年、1988年、1989年、1990年、1991年、1992年、1993年、1994年、1995年、1996年、1997年、1998年 |
原爆後障害研究会で取り上げられた海外のヒバクシャ
| 年 | 回 | 報告者 | タイトル |
|---|---|---|---|
| 64 | 6 | 熊取敏之 | ロンゲラップ島被曝住民の調査報告(特別報告) |
| 78 | 19 | 石田定ほか | 韓国在住被爆者の健康状況(第1報)-韓国被爆者検診報告 |
| 鄭基璋ほか | 韓国陜川郡における被爆者の実態(基礎的調査の報告) | ||
| 79 | 20 | 石田定ほか | 韓国在住被爆者の健康状況(第2報)-陜川郡在住被爆者の急性障害 |
| 80 | 21 | 石田定ほか | 韓国在住被爆者の健康状況(第3報)-陜川郡在住被爆者の疾病傾向 |
| 82 | 23 | 伊藤千賀子ほか | 在米被爆者の実態 |
| 84 | 25 | 伊藤千賀子ほか | 在米被爆者の実態(第2報)-第4回在米被爆者検診成績 |
| 86 | 27 | 鎌田定夫 | 在韓被爆者の現状と渡日治療問題 |
| 87 | 28 | 蔵本淳 | チェルノブイリ原発事故における医療の実態 |
| 89 | 30 | 蔵本淳 | チェルノブイリ原発事故における医療の実態(第2報)-骨髄移植の適応と再評価 |
| 91 | 32 | 佐々木英夫ほか | IAEA国際チェルノブイリ計画検診報告 |
| パネルディスカッション:放射線被曝者医療の国際協力 | |||
| 平田克己 | 放射線被曝者医療の国際協力:広島県医師会の立場から | ||
| 迎英明 | 過去の経験をふまえての被曝者への海外協力の問題点 | ||
| 石野誠 | 放射線被曝者医療の国際協力:長崎における国際協力 | ||
| 蔵本淳 | 放射線被曝者医療の国際協力:チェルノブイリの場合(医療サイドから) | ||
| 河合護郎 | 医療推進事業への願いと提言 | ||
| 矢野周作 | 放射線被曝者医療の国際協力:行政としての立場から | ||
| 本間泉 | 放射線被曝と国際協力 | ||
| 寺崎昌幸ほか | 腫瘍登録による国際協力-長崎市医師会腫瘍統計・組織登録 | ||
| 93 | 34 | 竹岡清二ほか | ヒューマンカウンターによるチェルノブイリ周辺地域から来日した子供の137Cs体内放射能測定 |
| 難波裕幸ほか | チェルノブイリ周辺地域住民の尿中ヨード測定 | ||
| 武市宣雄ほか | チェルノブイリ原発事故と小児甲状腺癌-広島の原爆被爆者例と比べて | ||
| 武市宣雄ほか | 広島の胎内原爆被爆者にみられた甲状腺癌の経験、チェルノブイリ原発事故の胎内被爆症例も含めて | ||
| 佐藤幸男ほか | WHOのInternational Program on the Health Effects of the Chernobyl Accident (IPHECA) のプロジェクト “Brain Damage in Utero” 紹介 | ||
| 94 | 35 | 久住静代ほか | チェルノブイリ原発事故による広域放射能被曝の心理的影響(国際シンポジウム報告) |
| 島崎達也ほか | チェルノブイリ原発周辺住民の内部被曝線量の測定 | ||
| 伊東正博ほか | チェルノブイリ原発周辺地域における小児甲状腺疾患の形態学的検討 | ||
| 瀬山敏雄ほか | チェルノブイリ事故汚染地域における小児甲状腺癌の遺伝子変化 | ||
| 高木昌彦 | セミパラチンスク医科大学における第1回国際会議(環境・放射線・健康)の報告 | ||
| 95 | 36 | Raphail Rozensonほか | セミパラチンスク住民における電離放射線被曝の発癌におよぼす影響 |
| 伊東正博ほか | チェルノブイリ周辺地域における小児甲状腺疾患の組織学的検討 | ||
| 武市宣雄ほか | セミパラチンスク核実験と甲状腺癌、1994年の調査結果 | ||
| 芹沢潔人ほか | チェルノブイリ原発事故後の周辺地区における小児甲状腺疾患と137Cs体内被曝線量 | ||
| 高木静子ほか | HIBAKUSHAの医療と福祉 | ||
| 96 | 37 | 伊東正博ほか | 穿刺吸引細胞診からみたチェルノブイリ原発周辺地域での小児甲状腺疾患の特徴 |
| 芹沢潔人ほか | 小児甲状腺癌:チェルノブイリ原発周辺地区と本邦症例との比較 | ||
| 97 | 38 | 藤田委由ほか | National Death Index (NDI) による在米被爆者の追跡調査 |
| 伊藤千賀子ほか | 在米被爆者検診内容に関する検討-原死因・死亡時年齢の分析 | ||
| 芹沢潔人ほか | チェルノブイリ周辺地区における小児甲状腺疾患:スクリーニング5年間のまとめ |