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平和集会・シンポジウム(平和式典の関連行事)

平和集会・シンポジウム(平和式典の関連行事)

戦後の平和記念日には、被爆の翌年から毎年、さまざまな行事が、繰り広げられてきた。その中には、平和記念公園内の供養塔で執行される慰霊祭や灯ろう流しなどのように、平和式典と連携して開催された行事のほかに、独自に、あるいは対抗して開催されたものもある。1949年(昭和24年)8月6日の平和式典終了後児童文化会館で広島平和婦人連盟主催の平和婦人大会が開催されているが、これは、式典に連携して開催された初めての平和集会であった。翌50年8月6日の式典は中止された。しかし、広島平和擁護委員会などは、独自に8・6反戦平和大会(非合法)を開催した。また、51年から毎年、労組や市民団体などによる平和集会が開催されるようになった。これらの集会の開催は、式典とは独立した、あるいは、対抗的な意図をもつものであった。しかし、54年以降、式典と連携した多様な原水爆禁止大会・集会が開かれるようになった。
1967年10月、広島市は、「ヒロシマの心を根底として、世界の平和を推進する機関」とするため、市の一局として広島平和文化センタ-を発足させる(1976年4月1日に財団法人に改組)とともに、平和に関するさまざまな行事を展開するようになった。68年8月5日に平和記念館講堂で開催された「平和を語る市民の集い」は、そうした行事の一つである。式典の前夜祭行事として企画されたこの集会には、市民300人が参加した。この集会のテーマは「ヒロシマはいかに平和を訴えるべきか」であった。69年8月2日には、第2回の集会が「被爆体験の継承と平和教育」をテーマとして、また、70年7月31日には、第3回集会が開催された。
1971年以後、式典に連携した平和集会の開催は、途絶えていたが、85年からふたたび平和集会が国際的な規模で開催されるようになった。
1970年代に入ってからの国連における核軍縮への関心の高まりは、78年・82年・88年の国連軍縮特別総会開催に結実した。82年の総会で発言の機会を得た荒木広島市長は、その演説や同年の平和宣言の中で諸外国の都市が連帯して、核兵器廃絶のため共に努力することを呼びかけ、翌83年1月20日には、本島等長崎市長と連名で、「核兵器廃絶のための都市連帯」を呼びかける書簡を世界各国の都市に送付した。最初に呼びかけたのは23か国の72都市であったが、その後、184都市が追加された。86年3月末までに、58か国256都市に呼びかけがおこなわれたが、そのうち、33か国131の都市が賛同の回答を寄せた。被爆40周年の85年8月5日から9日の5日間、この呼びかけに賛同する世界各国の都市の市長が、広島・長崎に集まり第1回世界平和連帯都市市長会議(基調テーマ=核廃絶をめざして-核時代における都市の役割)を開催し、22か国67都市の市長および国内の33自治体の首長が参加した。広島市での会議は、8月5日と6日の両日開催された。これは、広島市が平和記念日に開催した初めての国際会議であった。

この年以後、広島市は、毎年平和記念日に国際会議(シンポジウム)を開催するようにな った。86年以降のシンポジウムの概要は、つぎのようなものである。

1986年 平和サミット
テーマ=国際平和を求めて
海外からの参加者=ライナス・ポーリング(米)、ドロシー・ホッジキン(英)、デズモンド・ツツ(南アフリカ)、パウル・クルッツェン(西独)、明石康(国連)、フランク・ブラッカビー(英)、ラドミール・ボグダノフ(ソ連)

1987年 ジャーナリスト国際シンポジウム
テーマ=核・平和問題とジャーナリストの役割
海外からの参加者=ヴィクトル・G・アフェナシェフ(ソ連、プラウダ)、ティグビー・C・アンダーソン(英、ザ・タイムズ)、ジャン-マリー・デュポン(仏、ル・モンド)、セイモア・トッピング(米、ニューヨーク・タイムズ)、席林生(中国、人民日報)

1988年 青年国際平和シンポジウム
テーマ=核時代における青年の役割
海外からの参加者=アン・サウスウィック、シェリル・コハシ(米、ホノルル市)、コンスタンチン・シェプトゥーキン、ラリッサ・アントノバ(ソ連、ボルゴグラード市)、ハルトムート・ゼレ、ウルリケ・アンネッテ・シュナイダー(西独、ハノーバー市)、張臨台、丁素紅(中国、重慶市)

1989年 第2回世界平和連帯都市市長会議
テーマ=核兵器廃絶をめざして-核時代における都市の役割
参加者=海外26国81都市、国内38自治体

1990年 女性国際平和シンポジウム
テーマ=世界平和を考える-国際平和と核軍縮達成のために
海外からの参加者=ハンネロア・クンツェ(西独・来賓)、エレナー・コア(米)、カトリン・フックス(西独)、スヴェトナーナ・サビツカヤ(ソ連)、マイ・ブリット・テオリン(スウェーデン)、周士琴(中国)

1991年 第7回世界テレビ映像祭国際平和シンポジウム
テーマ=地球の時代・平和の創造
海外からの参加者=パベル・スティングル(チェコスロバキア)、ハインツ・ヘミング(独)

長崎市民平和憲章

長崎市民平和憲章

私たちのまち長崎は、古くから海外文化の窓口として発展し、諸外国との交流を通じて豊かな文化をはぐくんできました

第二次世界大戦の末期、昭和20年(1945年)8月9日、長崎は原子爆弾によって大きな被害を受けました。私たちは、過去の戦争を深く反省し、原爆被爆の悲惨さと今なお続く被爆者の苦しみを忘れることなく、長崎を最後の被爆地にしなければなりません。

世界の恒久平和は、人類共通の願いです。

私たち長崎市民は、日本国憲法に掲げられた平和希求の精神に基づき、民主主義と平和で安全な市民生活を守り、世界平和実現のために努力することを誓い、長崎市制施行100周年に当たりここに長崎市民平和憲章を定めます。

1。私たちは、お互いの人権を尊重し、差別のない思いやりにあふれた明るい社会づくりに努めます。

1。私たちは、次代を担う子供たちに、戦争の恐ろしさを原爆被爆の体験とともに語り伝え、平和に関する教育の充実に努めます。

1。私たちは、国際文化都市として世界の人々との交流を深めながら、国連並びに世界の各都市と連帯して人類の繁栄と福祉の向上に努めます。

1。私たちは、核兵器をつくらず、持たず、持ちこませずの非核三原則を守り、国に対してもこの原則の厳守を求め、世界の平和・軍縮の推進に努めます。

1。私たちは、原爆被爆都市の使命として、核兵器の脅威を世界に訴え、世界の人々と力を合わせて核兵器の廃絶に努めます。

私たち長崎市民は、この憲章の理念達成のため平和施策を実践することを決意し、これを国の内外に向けて宣言します,

平成元年3月27日 長崎市議会議決

平和式典にともなう規制と警備

式典にともなう規制と警備(『平和記念式典の歩み』1992年)

朝鮮戦争下の1950年(昭和25年)から57年にかけて、広島での平和集会は、厳しく規制された。しかし、この時期の規制は、1950年の平和祭の中止に見られるように平和式典そのものにも及んでいた。占領解除後、こうした規制は、無くなった。しかし、60年以降、平和式典をスムーズに開催するための規制が現れ、次第に強められていった。

原水爆禁止日本協議会(略称:日本原水協)は、1959年12月の全国理事会で、前回に引続き、60年の第6回原水爆禁止世界大会も広島で開催したい意向を表明していた。一方、翌年に入ると、新日本協議会が、60年8月6日を中心に3日間、広島で平和大会を開催することを計画し、旧軍人団体や宗教団体に働きかけを始めた。こうした動きに対し、1月22日、広島県・市両議会の正副議長は連名で、日本原水協と新日本協議会県支部につぎのような申し入れを行なった。

今年は原爆15周年になるので、全国的規模のもとに県・市共催の大慰霊  祭を厳粛、荘重に行ない、一切の雑念を払いたい。このためかりに第6回原  水禁世界大会が8月6日を避けても広島市で開かれれば、昨年の第5回大会の  実績からみて平和行進や大会準備などによって相当の影響をこうむること  は免れない。とくに新日協の大祭や大会が同時に開かれる場合は、激突の  おそれがあり、昨年以上の混乱が予想され、誠に遺憾にたえない。よって  両者の大会や大祭の広島市開催はいずれも遠慮されたい。
(「中国新聞」60年1月23日)

その後、第6回原水爆禁止世界大会は、東京で開催されることになり、また、新日本協議会の意図した大会は、平和記念日を外し、8月15日に平和記念公園で「平和祈念慰霊国民大祭」として開催された。一方、この年の式典には皇太子の参列があることになり、広島県警察本部は、8月6日と7日の両日、広島東、西、宇品の市内3署を始め周辺各署から警察官を延べ約1,000人を動員するという警備体制を敷いた。これは、広島県警としては1947年と51年の天皇行幸につぐ大規模なものであった(「中国新聞」60年8月2日)。

1963年の第9回原水爆禁止世界大会は、日本原水協の内部対立の激化や、右翼や全学連の集結(8月3日から6日にかけて、右翼50人、全学連1,260人が広島入り)などにより、開催前から混乱が予想された。浜井広島市長は、8月1日、「大会がもめるようであれば、このさい広島で開いてほしくない」と原水協に注意を促した。また、広島県警は、右翼と全学連の警備を中心的な目的として警備本部を設置し、県内の警察官の40%にあたる1,000人前後の警察官を動員した。動員人員は、5日の1,493人を最高に、3日から7日までの5日間で延べ6,600人に及んだ。式典の前夜の平和記念公園での世界大会は、社会党、総評などがボイコットし、原水禁運動の分裂は決定的なものになった。また、大会会場を占拠した全学連主流派の学生約180人が、主催者の要請で警察官600人により排除されるという事態が起こった。広島市は、踏み荒された式典会場の後始末を徹夜で行なうとともに、当日には、原爆死没者慰霊碑前の式典列席者の席の警備のためボーイスカウト広島県連盟、広島市消防局員など150人を動員した。
大会後の8月17日、広島県原爆被爆者援護対策協議会、県社会福祉協議会、県婦連(正式名称:広島県地域婦人団体連絡協議会)、広島市原爆被爆者協議会、広島市遺族会など11団体は、世界大会の批判会を開いた。その結果、原水協に「来年からは広島で大会を開かないでほしい」との申し入れを、また、広島県知事と広島市長に「来年からは8月6日を中心とした5日間、平和記念公園や市内の公共建て物を平和団体に貸す場合は、特に慎重であってほしい」との要望を行なうことを決めた。こうした市民の要望を受けて、広島市は、翌1964年6月5日、8月5、6、7日の3日間、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前広場を一般団体の集会に使わせない方針を決定した。

1967年4月、広島市長となった山田節男は、平和記念公園の聖域化構想を打ち出し、公園内での露天営業の許可取り消し(69年2月)、メーデーを除くデモや集会の不許可、芝生内への立ち入り禁止など、平和記念公園の利用に対する規制を進めた。

1969年には、「灯ろう流し」に支障があるという理由で、広島県公安委員会が、「8・6広島反戦集会実行委員会」から出されていた8月6日午後6時からのデモ行進の申請を「コース変更」の条件付きで許可した。県公安条例に基づくデモ申請でコース変更という条件付きで許可されたのは、67年11月15日の羽田不当弾圧反対闘争(広大教養部学友会主催)のデモについで2度目のことであった。
1971年8月4日、広島県警察本部は、「8・6平和祈念式典警備本部」を広島西署に設置し、8月5日と6日には広島県警の1,800人のほか、大阪・兵庫・京都の3府県、広島以外の中国4県から応援を求め、計2,700人を動員した。また、広島市自身も坂田助役を本部長とする警備本部を設置し、職員330人が公園内の整理にあたった。これらの措置は、内閣総理大臣を初めて式典に迎えるために取られものであった。この年以後、こうした警備が恒常的に行なわれるようになった。中曽根総理大臣と谷川防衛庁長官が参列した83年には、警察官の動員数は、2,500人におよんだ。一方、広島市の警備のための職員は、86年には815人であったが、87年以降は1,200人前後となっている。

マスコミによる空からの平和式典の取材は、当初は自由になされていた。しかし、式典の進行の妨げになるという理由から、自粛されるようになった。その時期は明確ではないが、新聞に掲載された写真から判断すれば、1950年代後半からと思われる。70年には、「8月6日を静かな祈りの日に」との目的で、式典前後に、一般車両の進入禁止など平和記念公園一帯の交通規制が行なわれた。8月6日当日の規制は、その後さらに強められ、75年には、式典前後の車両通行止めが100米道路(NHK前-西平和大橋)900メートルに拡大された。

平和式典実況中継1996年8月6日

平和式典実況中継1996年8月6日(宇吹メモより)<敬称略>

前日23:30 平和式典実況中継の原稿をやっと書き上げる。気が付いたら、NHK「被爆の言葉」が終わりかけていた。大牟田と大石芳野が対談していた。
06:20 年休をとる。5時に起きて原医研へ寄りNHKへ到着。*・*と一緒に平和公園へ行き、6時半、慰霊碑への石段下西側の記者席に着席。*(東京・NHKラジオセンター)がプロデューサー格で加わる。
06:21 リハーサルの時、*から総理挨拶批判について「あなたがそう思わないなら言わなくても良いが、もし思っているのなら」
07:00 平和式典会場の上空にヘリコプター2機。朝日とまともに向き合う席ではなはだ暑い。
07 平岡市長が近くに来て立っているので何ごとかと思ったら、橋本総理を出迎えるため。二人は挨拶を交わしていたが、こうした場合何を言い合うのか。
08:07 市長の宣言朗読直後、慈仙寺鼻方面で激しい爆竹の音。終了後の*の話では、橋本来広への抗議のため数人がやったとのこと。
08:50 開式前、金沢は短い現場中継、その後、式典の進行については簡単に打ち合わす。私は準備した原稿の趣旨の半分も話せず。一般参列者としては、随分長く感じたが、今回はあっと言う間に1時間が過ぎた。
09 終了後県立体育館に寄ったが成果無し。バスセンターで新聞各紙を購入して原医研に帰る。寝不足で仕事にならず、そのまま帰宅。昼食後、3時まで寝込む。
後日 私のラジオ出演への反響。盛岡の友人=車を運転中ラジオから君の声が聞こえた。石踊=今にも倒れそうな溜息(?)が聞こえ、聞くに堪えなかった。*(NHK広島)より電話。東京のラジオセンターでは実況中継の評判が良かった。

 

広島市平和記念式典での挨拶(広島県知事)2016~2023年

広島市平和記念式典での挨拶(広島県知事)2016~2023年

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2016年
【あいさつ】
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/28heiwakinensikitentijiaisatu.html

原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠(まこと)を捧げますとともに,今日(こんにち)なお,後遺症で苦しんでおられる被爆者や,ご遺族の方々に,心からお見舞い申し上げます。
1945年8月6日朝,原子爆弾がさく裂し,爆心地から約300メートルにあるこの場所は,3千度前後に熱せられ,約90シーベルトの放射線にさらされた上,1平方メートル当り25トンの爆風圧によって吹き飛ばされました。この原爆投下の結果,同年12月までに,約14万人が亡くなりました。
人類はその後,仮に核攻撃を受けても確実に反撃して相手を壊滅させる「相互確証破壊」という論理を構築し,それを「戦略」と呼んで核兵器を製造し続け,今でも1万5395発の核兵器を積み上げています。そして,このような「戦略」を支持する人々は,これで自国や人類は安全だ,と主張しています。
核抑止力を含む核戦略の信奉者の多くは,このような数字や,戦略と呼ばれる観念に基づいた議論をしてきました。
核兵器は,しかし,このような数字や観念で語られるものなのでしょうか。人類は本当にこれで安全なのでしょうか。
熱線を受けた赤ん坊は皮が丸むけの肉の塊となり,放射線を受けた女学生は体中の毛髪が抜けて紫色の斑点を浮かべ,爆風を受けた体からは内臓や目玉が飛び出し,そして死んでいった,と被爆者は証言します。その一人ひとりに,かけがえのない思い出や輝くべき未来がありましたが,それらは全て失われました。これが数字や観念ではない,核兵器使用の現実であります。
本年5月,米国オバマ大統領に広島を訪問いただきました。原爆投下の当事国であり,また現在も最大の核兵器国の最高責任者として,訪問を決断いただいた勇気と,核兵器廃絶に向けた固い決意に,心から敬意を表します。そして,大統領は,演説の中で,原爆投下時にも,一般市民の平穏な愛情あふれるごく普通の生活があったであろうことに触れ,被爆して亡くなっていった無辜(むこ)の人々に思いを寄せてくださいました。
今,世界の政治指導者に必要なものは,このような想像力,ではないでしょうか。
安全保障の分野では,核兵器を必要とする論者を現実主義者,廃絶を目指す論者を理想主義者と言います。しかし,本当は逆ではないでしょうか。廃絶を求めるのは,核兵器使用の凄惨な現実を直視しているからであります。核抑止論等はあくまでも観念論に過ぎません。
核抑止論は核が二度と使われないことを保証するものではありません。それを保証できるのは,廃絶の他ないのです。
被爆者は複雑な思いを抱えながらも「自分達の苦しみを他のいかなる人にも経験させたくない」という強い願い,まさに被爆の現実を知る体験から,核兵器廃絶を訴え,政治指導者の被爆地訪問を呼びかけて来られました。
今,改めて,世界の,特に核兵器保有国の政治指導者に,広島及び長崎訪問を呼びかけます。そして,核兵器使用の現実を直視してください。
広島県としても,「国際平和拠点ひろしま構想」に基づき,核兵器廃絶に向けた方策の議論を深めるとともに,核兵器のない平和な世界へ力強く道を切り拓いていける,国内外の次世代の育成などに取り組んでまいります。
結びに,すべての被爆者の方々に対する責務として,将来の世代に,核兵器を廃絶し,誰もが幸せで豊かに暮らすことができる平和な世界を残すことができるよう,世界の皆様と,共(とも)に行動していくとともに,高齢化が進む国内外の被爆者援護のさらなる充実に全力を尽くすことをここに誓い,平和へのメッセージといたします。

平成28年8月6日
広島県知事 湯崎英彦

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2017年
【あいさつ】
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/29heiwakinensikitentijiaisatu.html

原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠(まこと)を捧げますとともに,今なお,後遺症で苦しんでおられる被爆者や,ご遺族の方々に,心からお見舞い申し上げます。
今年も8月6日を迎えました。あの日以来,72回目の夏です。
「原爆という言葉を聞くのもいや,話すのもいや。原爆という言葉を聞くと,熱い鉄板を押し当てられたようなあの瞬間が甦(よみがえ)ってくる」
爆心地から1.4km離れた屋外で被爆し,夏服の皮膚が露出した部分は火傷を負い,苦しみで50日間は眠れなかったという女性が書かれた手記に残されています。
「原爆の日」は,多くの被爆者にいや応なく,「熱い鉄板を押し当てられたような」記憶を呼び起こし,それを72回も繰り返して今日を迎えています。
このような思いを抱えてこられた被爆者の方々が,近年,封印してきた記憶の証言を改めて始めておられます。
それは,年を取る中で,今誰かに伝えなければ伝える機会を失ってしまうという焦りと同時に,核兵器廃絶への道筋が,72年の歳月を経ても,未だに見えてこないという歯がゆさからきているように思われます。
思い出したくもない記憶を語ることで,被爆者自身が得をすることは何一つありません。それでもなお,被爆者を突き動かしているのは,「二度と,誰にもこのような思いをさせたくない」という気持ちです。
私たちは,被爆者の訴えが示す真実を,どこまで本当に認識できているでしょうか。
辛くても伝えなければならないとは,逆に言えば,被爆者をそう駆り立てるまでに原爆の地獄というものが凄(すさ)まじかったということに他なりません。地獄。人間の生の全体的破壊。「誰にもこのような思いをさせてはならない。」究極の非人道的兵器である核兵器をめぐる政策は,このような現実に立脚しなければなりません。
「究極の状況では,核兵器の使用も排除されない」というのは,核兵器使用の現実を知らない,誤った政策です。絶対に使わない,という前提に立つことが必要です。
昨年,オバマ大統領は,ここ広島で,未来において,広島と長崎が,核時代の始まった場所ではなく,人類が道徳的に目覚めた場所として記憶されなければならない,とスピーチされました。その後,私たちはどれだけ歩みを進められたでしょうか。
先月,被爆者の苦痛に言及する核兵器禁止条約が,122か国の賛成により採択されました。一方で,核兵器国の一部は,核の近代化を図るとともにその戦力強化を叫んでおり,条約には参加するどころか反発を強めています。また,北朝鮮は核兵器開発の手を止めようともしていません。
現状では,核兵器国と非核兵器国の分断が広がると同時に核兵器の拡散は進み,「覚醒」はむしろ遠のいていないでしょうか。
安全保障環境が厳しいと言われている今こそ,いかなる核兵器使用も地獄を作り出すだけである,という現実に立ち返り,絶対に使わないことを最終的に保証する唯一の手段である「廃絶」に向けて,人類の叡智を集めるときです。

日本政府には,この地獄の現実を潜(くぐ)り抜けた唯一の国として,そのリーダーとなっていただきたい。核兵器国と非核兵器国の分断を埋め,核兵器廃絶への道のりを全ての国の力で進んでいくために必要な,具体的な提案と行動を提示することをお願い申し上げます。

私たちはオバマ大統領が指摘したように,恐怖の論理,すなわち神話に過ぎない核抑止論から脱却し,「核兵器のない平和」というあるべき現実に転回しなければなりません。

広島県としても,国際平和拠点ひろしま構想に基づき,核兵器廃絶に向けて世界の知恵を集め,世界の指導者に被爆地訪問を呼びかけるなど,できる限りの行動を取ってまいります。
結びに,すべての被爆者に対する責務として,将来の世代に核兵器を廃絶し,誰もが幸せで豊かに暮らせる平和な世界を残すことができるよう,世界の皆様と行動していくとともに,高齢化が進む国内外の被爆者援護の更なる充実に全力を尽くすことを改めてここに誓い,平和へのメッセージといたします。

平成29年8月6日
広島県知事 湯崎英彦

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2018年
【あいさつ】
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/30heiwakinensikitentijiaisatu.html

原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠(まこと)を捧げますとともに,今なお,後遺症で苦しんでおられる被爆者や,ご遺族の方々に,心からお見舞い申し上げます。
草木も生えないと言われた被爆75年をあと二年後に控え,私たちは今大きな波にさらされています。
一筋の光明は,広島と長崎で我々が潜り抜けた筆舌に尽くし難い非人道的な経験が,本当は口にしたくもない被爆者の長年にわたる証言によって多くの国に共有され,核兵器の非人道性に軸足を置いた核兵器禁止条約が国際的に合意されたことです。
他方,世界では各地で国際的緊張が高まり,核兵器国は競って核兵器の更新や能力向上,さらには「使える核兵器」の開発にまで進もうとしています。これは,未だに核兵器国を中心とする国々が,核抑止力による力の均衡を信じているからです。
では,核抑止力の本質は何か。簡単に子供に説明するとすれば,このようなものではないでしょうか。
「いいかい,うちとお隣さんは仲が悪いけど,もし何かあれば,お隣のご一家全員を家ごと吹き飛ばす爆弾が仕掛けてあって,そのボタンはいつでも押せるようになってるし,お隣さんもうちを吹き飛ばす爆弾を仕掛けてある。一家全滅はお互い,いやだろ。だからお隣さんはうちに手を出すことはしないし,うちもお隣に失礼はしない。決して大喧嘩にはならないんだ。爆弾は多分誤作動しないし,誤ってボタンを押すこともないと思う。だからお前は安心して暮らしていればいいんだよ。」
一体どれだけの大人が本気で子供たちにこのような説明をできるというのでしょうか。
良き大人がするべきは,お隣が確実に吹き飛ぶよう爆弾に工夫をこらすことではなく,爆弾はなくてもお隣と大喧嘩しないようにするにはどうすればよいか考え,それを実行することではないでしょうか。
私たちは,二度も実際に一家を吹き飛ばされ,そして今なおそのために傷ついた多くの人々を抱える唯一の国民として,核抑止のくびきを乗り越え,新たな安全保障の在り方を構築するため,世界の叡智を集めていくべきです。NPT運用検討会議も開催される二年後の被爆75年に向けて,今こそ世界に向けて立ち上がり,行動するときです。
私たちの,そして世界中の子供たちに,本当の安心をもたらしてやるために全力を尽くすことが,我々日本の大人たちの道徳的責任だと確信いたします。
結びに,広島県としても,将来の世代のために核兵器を廃絶し,誰もが幸せで豊かに暮らせる平和な世界を残すことができるよう,世界の皆様と行動していくとともに,高齢化が進む国内外の被爆者援護の更なる充実に全力を尽くすことを改めてここに誓い,平和へのメッセージといたします。

平成30年8月6日
広島県知事 湯崎英彦

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2019年
【あいさつ】
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/01heiwakinensikitentijiaisatu.html

原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠(まこと)を捧げますとともに,今なお,後遺症で苦しんでおられる被爆者や,ご遺族の方々に,心からお見舞い申し上げます。
74年前,この地は原爆によりあらゆるものも人も破壊され尽くしました。
しかし,絶望的な廃墟の中,広島市民は直後から立ち上がりました。水道や電車をすぐに復旧し,焼け残りでバラックを建てて街の再建を始めたのです。市民の懸命の努力と内外の支援により,街は不死鳥のごとく甦ります。今,繁栄する広島には,国内外の多くのお客様で賑い,街の姿は,紛争後の廃墟から立ち上がろうとしている国々から訪れる若者に,復興への希望を与えています。

しかしながら,私たちは,このような復興の光の陰にあるものを見失わないようにしなければなりません。緑豊かなこの平和公園の下に,あるいはその川の中に,一瞬にして焼き尽くされた多くの無辜の人々の骨が,無念の魂が埋まっています。かろうじて生き残っても,父母兄弟を奪われた孤児となり,あるいは街の再生のため家を追われ,傷に塩を塗るような差別にあい,放射線被ばくによる病気を抱え今なおその影におびえる,原爆のためにせずともよかった,筆舌に尽くし難い苦難を抱えてきた人が数多くいらっしゃいます。被爆者にとって,74年経とうとも,原爆による被害は過去のものではないのです。
そのように思いを巡らせるとき,とても単純な疑問が心に浮かびます。
なぜ,74年経っても癒えることのない傷を残す核兵器を特別に保有し,かつ事あらば使用するぞと他(た)を脅(おど)すことが許される国があるのか。
それは,広島と長崎で起きた,赤子も女性も若者も,区別なくすべて命を奪うような惨劇を繰り返しても良い,ということですが,それは本当に許されることなのでしょうか。
核兵器の取扱いを巡る間違いは現実として数多くあり,保有自体危険だというのが,米国国防長官経験者の証言です。近年では核システムへのサイバー攻撃も脅威です。持ったもの勝ち,というのであれば,持ちたい人を押しとどめるのは難しいのではないでしょうか。
明らかな危険を目の前にして,「これが国際社会の現実だ」というのは,「現実」という言葉の持つ賢そうな響きに隠れ,実のところは「現実逃避」しているだけなのではないでしょうか。
核兵器不使用を絶対的に保証するのは,廃絶以外にありません。しかし変化を生むにはエネルギーが必要です。ましてや,大国による核兵器保有の現実を変えるため,具体的に責任ある行動を起こすことは,大いなる勇気が必要です。
唯一,戦争被爆の惨劇をくぐり抜けた我々日本人にこそ,そのエネルギーと勇気があると信じています。それは無念にも犠牲になった人々に対する責任でもあります。核兵器を廃絶し,将来世代の誰もが幸せで心豊かに暮らせるよう,我々責任ある現世代が行動していこうではありませんか。広島県としても,被爆75年に向けて,具体的行動を進めたいと思います。
結びに,今なお苦しみが続き,高齢化も進む国内外の被爆者への援護が更に充実するよう全力を尽くすことを改めてここに誓い,平和へのメッセージといたします。

令和元年8月6日
広島県知事 湯崎英彦
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2020年
【あいさつ】
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/02heiwakinensikitentijiaisatu.html 被爆75年の今日(きょう)ここで,我々は,人々の

予想と願いを裏切る大きな二つのことを目の当たりにしています。一つは,75年は草木も生えないという予言に抗い,広島がこのように誇るべき復興を遂げているということ。もう一つは,この日までには,と願い続けてきた核兵器廃絶が,残念ながら未だ遠い現実であるということです。
本日,被爆75年を迎えるにあたり,原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠(まこと)を捧げるとともに,未だ後遺症で苦しんでおられる被爆者や,犠牲となった皆様に核兵器廃絶の報告もままならぬご遺族の方々に,改めて,心からのお見舞いを申し上げます。
我々の切なる願いに反し,昨今の核兵器廃絶を巡る情勢は,極めて厳しい状況です。改めて,核兵器国を中心とする各国に,核兵器不拡散条約の遵守,核兵器禁止条約の批准,核軍備管理・軍縮にかかる枠組みの堅持,核実験自粛堅持と包括的核実験禁止条約の早期発効,そして核兵器の永久放棄を強く求めます。
なぜ,我々広島・長崎の核兵器廃絶に対する思いはこうも長い間裏切られ続けるのでしょうか。それは,核による抑止力を信じ,依存している人々と国々があるからです。しかしながら,絶対破壊の恐怖が敵攻撃を抑止するという核抑止論は,あくまでも人々が共同で信じている「考え」であって,すなわち「虚構」に過ぎません。万有引力の法則や原子の周期表といった宇宙の真理とは全く異なるものです。それどころか,今や多くの事実がその有効性を否定しています。
一方で,核兵器の破壊力は,アインシュタインの理論どおりまさに宇宙の真理であり,ひとたび爆発すればそのエネルギーから逃れられる存在は何一つありません。したがって,そこから逃れるためには,決して爆発しないよう,つまり,物理的に廃絶するしかないのです。
幸いなことに,核抑止は人間の作った虚構であるが故に,皆が信じなくなれば意味がなくなります。つまり,人間の手で変えることができるのです。
支配者であった武士階級が明治維新で廃止されたように,かつて最も敵対した国同士が今は最も親密であるように,どのようなものでもそれが人々の「考え」である限り転換は可能であり,我々は安全保障の在り方も変えることができるはずです。
いや,我々は,核兵器の破壊力という物理的現実の前にひれ伏し,人類の長期的な存続を保障するため,「考え」を変えなければならないのです。
もちろん,凝り固まった核抑止という信心を変えることは簡単ではありません。新しい安全保障の考え方も構築が必要です。核抑止から人類が脱却するためには,ローマ教皇がこの地で示唆されたように,世界の叡知を集め,すべての国々,すべての人々が行動しなければなりません。
草木も生えないと言われた75年には残念ながら間に合いませんでした。このことについて,我々はすべての原爆犠牲者と被爆者に頭(こうべ)を垂れねばなりません。そして,改めて,被爆者がまだ存命の間,一刻でも早い時期に核兵器を廃絶することを,全ての国連加盟国が一致し,新たな目標として設定することをここに提案します。
皆さん,今こそ叡知を集めて行動しようではありませんか。後世の人々に,その無責任を非難される前に。

令和2年8月6日
広島県知事 湯崎 英彦

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2021年
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式における知事あいさつについて
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/03heiwakinensikitentijiaisatu.html

【あ い さ つ】
本日,被爆76年を迎えるにあたり,原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠を捧げます。そして,今なお,後遺症で苦しんでおられる被爆者や,ご遺族の皆様に,心からお見舞い申し上げます。
我々は,被爆者の証言,平和記念資料館に展示された原爆の記憶などから,この地で,多くの無辜の市民が,苦しみながら,水を求め,亡くなったことを知っています。これは,思い出すことすら耐えがたい当時の記憶を呼び覚まし,現実に基づいて証言を続けてきた被爆者の方々の存在があるからです。
今年1月に発効した核兵器禁止条約は,被爆者の証言が大きな原動力になったと言われています。しかし,次世代に連綿と記憶をつないできた証言者は高齢化し,私たちの想像や関心をつなぎとめ,時に世界のリーダーを突き動かす記憶の伝承が危機に瀕しています。今こそ,一刻を争う事態として,核兵器と向き合う必要があります。
一人ひとりの行動は小さなものでも,予想もできないような連帯をつくり出し,世界の時流を変える力となる例もあります。
地球環境問題では,北欧の15歳の少女が,国会前で学校ストライキを始めたことに端を発し,世界中の若者を巻き込みながら,ついには各国の大臣や国連事務総長まで動かす力となり,地球環境問題の進展に大きな影響を与えました。重要なことは,このグレタ・トゥンベリさんの第一歩のみならず,若者の一人ひとりがそれを他人事とせず,声をあげていったことです。人々の関心が呼応すると,様々な社会活動を通じ,論争も巻き起こしながら,より良い社会を共に築いていく原動力が生まれます。気候変動や教育,ジェンダー平等への関心の高まりは,一国一国のリーダーの考え方を改めさせ,SDGsとして世界の共通言語となり,大きな潮流となっています。
力がないと思われるかもしれない一人ひとりが関心を高め,小さな行動を始めることで,叡智が集まり,共感を広げ,国のリーダーの行動を促し,世界の枠組みをも変えていきます。
世界はこの一年半,新型コロナウイルス感染症と闘ってきました。このようなパンデミックは,専門家が警鐘を鳴らしていたにも関わらず,我々は十分な注意を向けていたとは言い難く,準備はできていませんでした。その結果,これまでに世界で約2億人がこの感染症にかかり,400万人を超える人々が命を落としています。
核兵器も,その運用の責任を負っていた核兵器国の大臣や軍人を含め,多くの専門家が,人類と地球全体に存亡の危機をもたらす,今,そこにある現実的危機だと警鐘を鳴らしています。我々は,核兵器についても,パンデミックと同様にその危険性を見過ごし,いずれその報いを,人類と地球の破滅という形で受けるのでしょうか。
人類存続への道を啓くためには,一人ひとりが関心を持ち,核兵器存続という愚行へ対峙するほかありません。広島からも,新たな行動を始めます。核兵器廃絶が,国連における一致した目標となるよう,働きかけを強めていきます。このパンデミックで苦しんでいる今こそ,一人ひとりが立ち上がり,力を合わせ,人類存続の危機に立ち向かっていきましょう。

令和3年8月6日
広島県知事 湯崎 英彦
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2022年
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式における知事あいさつについて
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式(令和4年)における知事あいさつについて | 広島県 (hiroshima.lg.jp)

【あ い さ つ】

本日,被爆77年を迎えるに当たり,原爆犠牲者の御霊(みたま)に,広島県民を代表して,謹んで哀悼の誠を捧げます。
そして,今なお,後遺症で苦しんでおられる被爆者や,御遺族の皆様に,心からお見舞いを申し上げます。

あの時,川土手で,真っ赤に燃え盛る空の下,中学生らしい黒い人形の様な人達がたくさんころがっていた。「お母さん」。その声もだんだん小さくなり,やがて息絶えていった。
生き延びても,孤児となった子どもは,転々と身を寄せた家に居場所もなく,廊下に風呂敷を置いて着替え場所とし,被爆者の病気はうつるなど,差別に苦しんだ。
被爆者が,人生をかけてまで核兵器の廃絶を訴え続けるのは,人間らしく死ぬことも,人間らしく生きることも許さない,この原爆の,核兵器使用の現実を心と体に刻みつけているからです。
その思いが原動力となり,今年6月,核兵器禁止条約第1回締約国会議が開催されました。被爆者の切実な思いが,世界をもう一歩前に進めた瞬間でした。

他方で,東欧では侵略戦争が勃発し,あまつさえその侵略国は,核兵器の使用も辞さないとあからさまな脅しを世界にかけるばかりか,当事者でない国の人々さえ,身を守るためには核兵器が必要だ,と言い始めています。

我々の多くが,侵略者の脅しが単なる虚勢ではなく,実際に核兵器が使用される危険として認識したのではないでしょうか。
つまり,核兵器は,現実の,今そこにある危機なのです。

ウクライナ侵略で世界が突然変わった訳ではありません。世界の長い歴史の中で,理不尽で大量の死を招く暴力は,悪により,しかし,時に正義の衣をかぶりながら,連綿と繰り返されてきました。現在の民主国家と言われる国でさえ完全に無縁とは言いにくいかもしれません。

人間の合理性には限界があるという保守的な見方をすれば,この歴史の事実を直視し,これからもこの人間の性(さが)から逃れられないことを前提としなければなりません。

しかしながら,力には力で対抗するしかない,という現実主義者は,なぜか核兵器について,肝心なところは,指導者は合理的な判断のもと「使わないだろう」というフィクションたる抑止論に依拠しています。本当は,核兵器が存在する限り,人類を滅亡させる力を使ってしまう指導者が出てきかねないという現実を直視すべきです。

今後,再度,誰かがこの人間の逃れられない性(さが)に根差す行動を取ろうとするとき,人類全体,さらには地球全体を破滅へと追いやる手段を手放しておくことこそが,現実を直視した上で求められる知恵と行動ではないでしょうか。
実際,ウクライナはいわばこの核抑止論の犠牲者です。今後繰り返されうる対立の中で,核抑止そのものが破られる前に手を打たなければなりません。

地球温暖化は200年,パンデミックは2年超かけて,人類の持続可能性に疑義を突き付けました。核兵器は,誰かがボタンを押せば,人類の持続可能性は30分かもしれません。

核兵器廃絶は,人類の持続可能性のために最も喫緊の課題であることを認識し,最後の核弾頭が解体・破壊され,この地球上から核兵器が完全になくなるまで休むことなく全力を尽くすことを改めてここに誓い,平和へのメッセージといたします。

令和4年8月6日

広島県知事 湯 崎 英 彦

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広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式(令和5年)における知事あいさつについて

【あ  い  さ  つ】

本日、被爆78年を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊(みたま)に、広島県民を代表して謹んで哀悼の誠(まこと)を捧げます。そして、今なお後遺症で苦しんでおられる被爆者や、御遺族の皆様に、心からお見舞いを申し上げます。

今、世界では、ロシアによる非道なウクライナ侵攻と核兵器による脅しが続き、北朝鮮は核及びミサイル開発を進め、一部の核保有国が核戦力の大幅な増強を図るなど、核兵器を巡る安全保障環境は厳しくなっています。日本においても、また世界においても、核戦力やその運用の強化を図るべしとの論が声高に叫ばれています。
そうした中、今年5月、ここ平和記念公園に、核兵器国3か国を含むG7首脳が集まり、資料館を訪問し、被爆者の声に耳を傾け、慰霊碑に献花して犠牲者に哀悼の誠を捧げました。
被爆の実相に触れたG7首脳は、世界が、核戦力の強化か、あるいは核軍縮と最終的な廃絶かという二つの分かれ道に直面する中で、核軍縮と廃絶の道を選び、広島ビジョンとして力強く宣言し、芳名録に個人的な決意を記しました。G7の、また、同様に招待国の首脳たちの示した決意は、極めて歴史的であり、極めて重いものがあります。

しかしながら、なお世界には、核兵器こそが平和の維持に不可欠であるという、積極的核抑止論の信奉者が存在し、首脳たちの示す目標に向けた意志にかかわらず、核軍縮の歩みを遅らせています。
私は、そのような核抑止論者に問いたい。あなたは、今この瞬間も命を落としている無辜(むこ)のウクライナの市民に対し、責任を負えるのですか。ウクライナが核兵器を放棄したから侵略を受けているのではありません。ロシアが核兵器を持っているから侵略を止められないのです。核兵器国による非核兵器国への侵略を止められないという現在の状況は、「安定・不安定パラドックス」として、核抑止論から予想されてきたことではないですか。
また、あなたは、万が一核抑止が破綻した場合、全人類の命、場合によっては地球上の全ての生命に対し、責任を負えるのですか。あなたは、世界で核戦争が起こったら、こんなことが起こるとは思わなかった、と肩をすくめるだけなのでしょうか。
核兵器は、存在する限り人類滅亡の可能性をはらんでいる、というのがまぎれもない現実です。その可能性をゼロにするためには、廃絶の他ない、というのも現実なのです。
今、核抑止論者がすべきことは、この現実を直視し、そのような責任はとりきれないことを認め、どんなに厳しい安全保障環境にあろうとも、どうしたら核軍縮を進め、最終的には核廃絶を実現できるか、そのための知恵の結集と行動に参画することです。

私たちには、次の世代に真の意味で持続可能な未来を残す責任があります。そのためには、全ての核保有国が核兵器を手放すことができるよう、従来の安全保障のあり方を見直すとともに、持続可能性の観点から、国際社会の一致した目標として核兵器廃絶を目指さなければなりません。

広島県は、日本政府をはじめ、外国政府や国連、市民社会と連携して、そのための取組を進めてまいります。

終わりに、核兵器廃絶を目指して不断の取組を続けてこられた被爆者の皆様に改めて深く敬意を表するとともに、一日も早い核兵器廃絶の実現を誓い、平和のメッセージといたします。

令和5年8月6日

広島県知事 湯崎 英彦

 

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2010年8月6日
広島市平和記念式典での挨拶(抄録)
核兵器による破壊は、人間の死や建造物の物理的な破壊を超えて、人々から暮らしていた地域の歴史や、そこに住んでいた家族の記憶などを文字通り丸ごと消し去ってしまいます。社会や生命とともに存在の記憶、あるいはこれらの手がかりすらも消し去っていく―-すなわち、核兵器は、「人間的生の全体的破壊」をもたらすのです。これは、広島大学の研究者として被爆の社会学的実態を調査していた私の父が、爆心復元のために何十、何百という被爆者を訪れてお話を聞いた結果、実感することとなった核兵器による破壊の現実です。
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広島市平和式典広島県知事、県・市議会議長の式辞(1953年)

広島県知事、県・市議会議長の式辞
1953(昭和28).8.6

広島県知事のメッセージ
メッセージ

世に数ある記念日のうちで,この八月六日の戦災記念目ほど私どもの心を打つものはありません。いまここ緑の芝生に包まれた慰霊碑の前に立って静かに冥目すれば,八年前のあの凄惨な広島市の姿が,まざまざと思い浮ぶのであります。

「惨劇を二度と繰り返すまい」これは広島市民の固い決意であるとともに,また全人類の悲願でもあります。世界の現実は必ずしもこの平和への聖なる祈りの通りには動いておりませんが,広島から打鳴らされる平和の鐘の音は,世界の人々の良識を最も強く喚びさますものであることを信じて疑わないのであります。私はけうのこの意義ある式典に列して謹んで死没者諸霊の冥福を祈り,御遺族近親の方々の御多幸を念してやみません。

昭和二十八年八月六日

広島県知事大原博夫

 

広島県議会議長の式辞

あれからもう,九年になります。

あの日の惨状を忘れたかのように,復興への歩みが,黙々と続けられ,ゆるぎない,平和都市へ向っての建設が,なされつつあることは,お互いにうれしい思いがするのであります。

しかしそこには,永い虚脱から立ち直った,激しい苦闘があり,一鍬一鍬が悲憤の涙を以って,打込まれたことであり,真の平和への市民の悲願が,刻みこまれたことを思いますと,まことに,敬虔な念にうたれるのであります。

今思い出も新たに八周年を迎えまして,あの日,あの時を追憶しあの日の惨めな姿が,まざまざよみがえって来るのであります。

この残虐極まりない暴挙に対し,吾々は,東洋的習性によって運命的に片づけてはおりますが,原爆の投下を肯定し,之を平和のための使用たとする考え方は,まことに非人道的であり,断じて許さるべきことではないのであります。

謹んで,地下に眠る人々の冥福を祈りつつ,もう一度「広島は繰返すな」をさけぶものであります。

昭和二十八年八月六日

広島県議会議長 桧山袖四郎

 

広島市議会議長の式辞
式辞

皆さん。世界の皆さん。また思い出の日が来ました。

くる年も,また今年も,父を還せ,子供を還せ,或は私につながる人間を還せといい,市民の皆さんは,今尚平和の広島を還せと叫びつづけている時であります。この平和となぐさめにつながる,この市民の祭の今日も,遠く世界の果に,或は人類のすべてのものの仲に,この平和の声は,あの沢山の市民を犠牲にしたものに対し,平和の世界をかえせと新しい挨拶を迭るのであります。

我々はここに進歩の歯車を押し,そして広島の文化とか芸術とか,スポーツとか,そしてすべての世界の人間の新らしい歩みを,この広島から創るのであります。されば今,私はこの我々の肉親の眠っているこの砂の上に立って,日本の国民の先頭に立った,平和の戦士が出る。日本の為,世界の人の為になる立派な広島人をつくらねばならぬことを,今ここから世界に向って告げるものであります。と同時私はこれを,広島市民の名に於て,或は全人類の平和とか,自由とかいう名に於て,ここにあらゆる世界の人の良心に向っての市民の挨拶とするものであります。

昭和二十八年八月六日

広島市議会議長 池永清真

〔広島市役所蔵〕

 

広島市平和式典広島県知事、県・市議会議長の式辞(1952年)

広島県知事、県・市議会議長の式辞

広島県知事の式辞 昭和27.8.6

講和発効後はじめての原爆死没者慰霊ならびに平和記念式典の挙行せられるに当り,謹んで犠牲者諸霊の冥福を祈り,平和の基礎いよいよ強固ならんことを念ずるものであります。

われわれは今日国家として一応の平和と独立をかち得ましたが真に平和と独立の名に価する新しい日本をうち建てるためにまた平和都市広島の建設に,原爆犠牲者諸霊の加護いよいよ厚からんことを願うものであります。

昭和二十七年八月六日

広島県知事 大原博夫
広島県議会議長の式辞 昭和27.8.6

ギリシヤ神話のプロメシウスの火を第一の火とするならば,原子爆弾こそは第二の火と言へませう。

この第二の火神に犠牲として捧げられた広島県市民はこの土地が平和の発祥地として全世界の聖地となるの日まで,不断の祈りと絶ゆまざる勤行をつづけなければならぬと信じるのであります。

昭和二十七年八月六日

広島県議会議長 桧山袖四郎
広島市議会議長の式辞 昭和27.8.6

茲に慰霊式並びに平和記念式典を挙げるに当り,全日本並に世界全人類から寄せられたる厚き友情に対し,広島市民を代表し,謹みて深き感謝を棒げる次第であります。

一瞬にして二十万の生命を消し去った,あの八月六日の体験を反省する時,我々が今創るこの平和精神こそ,文明の悲劇に対する市民の愛情に外ならぬのであります。

平和を唱え,理想を説きつつも帰らざる二十万の魂に応える広島の倫理は,茲に納める五七,九○二柱の過去帳に記録され,この慰霊碑の空遠く,人類の祈りに繋がってゆくのであります。

我々は,茲に産業を興し,子孫を育て,都市を創らんものと今三十万市民の健康と文化は,押し進められつつあるのであります。

今は呼べど答えず,叫べど帰らず,淋しくも二十万の遺骨は今尚我が足下に眠っているのである。されど,その生命は,同胞が死と共に完成せんとした平和への肉体であったのであります。

今や新らしき世界平和の苦悩と,規律の中に広島市民の素朴と真理の歴史は厳粛に甦生したのであります。さればこれを,全人類の愛と正義に訴え願くはこの平和の鐘に,市民の栄光と,正しき希望の永遠ならんことをこひ願ふものであります。

昭和二十七年八月六日

広島市議会議長 永田百太郎

〔広島市役所蔵〕

広島市平和式典総理大臣など式辞(1952年)

広島市平和式典総理大臣式辞(1952年)

(内閣総理大臣吉田茂)

八月六日を迎えるに当り,遙かに想いをはせて,戦災犠牲者の冥福を祈ると共に、苦難に充ちた過去の陰影を払拭して着々と,平和郡市建設の理想を実現せられつつある広島市民諸君の努力に対し,心から深甚なる敬意を表するものであります。

世界の平和を目指して,民主々義に基く,文化国家を建設することは,わが国憲法の理想とするところであり,われわれ国民の進むべき目標であります。新しい広島市の建設も,この意味においてわが国の理想を世界に闡明せんとするものであり,広島市の生成は,平和的文化的なる日本国家の成長を表徴するものであります。身を以て尊い平和の礎となられた地下の霊も民主日本の成長発展をのぞみ見らるるものと信じてうたがいません。この式典に当り,私は謹んで原爆死没者各位の冥福を祈ると共に,市民諸君が更に決意を新たにし,理想達成への途に邁進せられんことを切望して已みません。

 

(衆議院副議長岩本信行)

本日原爆死没者慰霊並びに平和記念式典を挙行するに際し、一言御挨拶を申し上げます。

思うに戦争ほど人類を不幸におとし入れるものはありません。もし,第三次世界大戦が勃発するようなことがあれば折角今日まで人類が築き上げてきたすべての文化を破壊し,人類そのものをも滅亡にみちびくであろうことは疑う余地がありません。恐るべきは将来の原子戦争であります。

当市は,さきに平和宣言を発して広島の悲劇を再び繰返すことのないよう世界に呼ぴかけてくれたのでありますが,人類史上最初の原子爆弾の犠牲となった当市としては,洵に当然の措置であったと存じます。

どうか広島市民におかれましては,原爆の凄惨な体験を想い起され,この地上から永久に原子戦争の恐怖と罪悪を抹殺するよう世界平和の勇敢な使徒として起ち上っていただきたいと存じます。そして真に平和な日本の建設と世界の恒久平和に貢献することこそ原爆によって散華した方々の霊にお報いする所以であると存じます。

本日の式典に際し謹みて死没者の霊に哀悼の誠を捧げると共にその御冥福を祈念いたしまして,私の御挨拶といたします。

昭和二十七年八月六日

衆議院副議長 岩本信行

 

(参議院議長佐藤尚武)

原子爆弾第一号の洗礼を受けました広島市民が,あの悲境にも,屈せず起ち上りますとともに恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴,広島平和都市の建設を目ざして奮闘せられ,いま,その逞しい復興の姿をまのあたりに致しまして,私ども,各位の勇気とご努力に対し,心から敬意を表します。

あれから七ケ年,日本国独立後最初の記念日であります本日,竣工した「慰霊碑」を前に,原爆死没者の霊を慰めますことは,その尊い犠牲を再認識いたしまして,在天の霊のご加護のもとに,平和都市広島の完成と,さらには新鮮な未来の創造へ躍進する決意を新たにするものと致しまして,まさに大きな意義があると存じます。

私どもは,ここに改めまして,平和日本国建設の先駆者としての広島市民のご自重と,被爆犠牲者ご遺族近親の御健祥を切に念願いたしてやみません。

〔広島市役所蔵〕