『ひろしま今昔-’80広島市政指定都市記念』(広島市公文書館編、広島市、19800904)
目次
| 章 |
項目 |
備考 |
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ごあいさつ(荒木武) |
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| ポスター・公文書・写真にみる広島90年 |
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| 1 |
明治の広島と市制誕生 |
|
| 2 |
軍都のはじまり |
|
| 3 |
都市の発達 |
|
| 4 |
教育の発展 |
|
| 5 |
不況の波と大戦の足音 |
|
| 6 |
戦時体制の進展 |
|
| 7 |
国民精神総動員 |
|
| 8 |
大戦の勃発 |
|
| 9 |
敗戦への道 |
|
| 10 |
広島の昭和20年 |
|
| 11 |
被爆後の市民生活 |
|
| 12 |
ヒロシマの声 |
|
| 13 |
復興にむかって |
|
| 14 |
建設のひびき |
|
| 15 |
広島の発展 |
|
| 市民による広島市の新しい美の発見 |
|
|
選者評 |
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|
広島のあゆみ(年表) |
|
|
広島市の行政区画 |
|
| 160 |
あとがき(小堺吉光) |
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『ひろしま 市制90周年記念』(広島市長室広報課、1979/04/01)
目次
| 頁 |
項目 |
備考 |
| 03 |
市制90年を迎えて |
荒木武(広島市長) |
| 04 |
平和のあゆみ |
|
| 06 |
座談会-あすの広島を考える |
荒木武・今堀誠二・大牟田稔 |
| 10 |
市民50人の提言 |
|
| 14 |
市制90周年・広島のあゆみ |
|
| 21 |
間近にせまる政令指定都市広島 |
|
| 23 |
広島の都市像-国際平和文化都市 |
|
| 24 |
計画の基本的な考え方 人口・市民所得 |
|
| 25 |
土地利用構想 施策体系 |
|
| 26 |
世界平和をめざすまちづくり |
|
|
自然を守り、生かすまちづくり 27
安全で、快適なまちづくり 28
健康で、幸せに暮らせるまちづくり 33 |
|
| 36 |
広島案内図 |
|
|
豊かな人間性をはぐくむまちづくり 38
安定した生活のできるまちづくり 43
市民の連帯感と強度愛にささえられたまちづくり 47 |
|
| 48 |
平和・姉妹都市 |
|
|
育て広島っ子たち 50
広島とスポーツ 52
スポーツ施設 53
広島の祭りと行事 54
広島の文化財・工芸品 55
広島の特産・味 56
広島の伝承-広島の民話 57
広島人気質・広島の民族 59 |
|
| 60 |
対談-広島人とは |
松元寛・小久保均 |
|
広島の方言 62
広島のおもな観光地 64 |
|
| 66 |
【資料】市の木=クスノキ、市の花=キョウチクトウ |
|
| 67 |
【資料】広島市歌、ひろしま平和の歌 |
|
|
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『街と暮らしの50年-被爆50周年 図説戦後広島市史』(高橋衛監修 被爆50年記念史編修研究会、広島市総務局公文書館、19960331 )
| 頁 |
|
執筆等 |
|
刊行によせて |
(高橋衛) |
| 第1部 写真でみる50年 |
|
| 003 |
1995年 平和宣言 |
(平岡敬) |
| 006 |
広島の戦後は8月6日に始まった |
|
| 017 |
被災調査と放射線障害 |
|
| 019 |
占領軍と広島 |
|
| 027 |
お母さん僕はここに立っています |
|
| 029 |
槌音が響き、街はよみがえる |
|
| 033 |
家が建ち、笑顔がもどる |
|
| 035 |
活気みなぎる駅前ヤミ市 |
|
| 041 |
空から見た復興、昭和22年 |
|
| 043 |
広島 2年目の夏 |
|
| 048 |
街並みがよみがえる |
|
| 051 |
街を考える |
|
| 053 |
街並みを変える |
|
| 059 |
一人もれなく投票だ |
|
| 061 |
平和をデザインする |
|
| 065 |
太田川改修工事 |
|
| 069 |
市民の暮らしと住宅の戦後史 |
|
| 073 |
復興した街 |
|
| 075 |
郊外の都市化 |
|
| 077 |
変わり行く都市空間 |
|
| 079 |
新しい住・商空間 |
|
| 081 |
戦後史のなかのランドマーク建築 |
|
| 083 |
市民の台所をささえる |
|
| 085 |
届かなかったはしご車 |
|
| 089 |
都市圏の拡大と水道事業 |
|
| 091 |
ごみ非常事態宣言をこえて |
|
| 095 |
市財政やりくりの記録 |
|
| 097 |
政令指定都市への移行 |
|
| 099 |
産業の復興 |
|
| 101 |
朝鮮戦争特需から造船ブームへ |
|
| 103 |
復興を実感した広島博 |
|
| 105 |
自動車工業の戦後 |
|
| 107 |
あこがれのマイカー |
|
| 109 |
高速経済成長と特産工業 |
|
| 111 |
造船不況から航空機生産へ |
|
| 113 |
統計でみる生活の一面 |
|
| 115 |
農村のくらし |
|
| 119 |
海辺のくらし |
|
| 121 |
まちのくらし |
|
| 139 |
原爆ドームのある風景 |
|
| 141 |
祭りと市民 |
|
| 145 |
子どもの笑顔に未来が見えた |
|
| 157 |
狭められた子どもの空間 |
|
| 159 |
ぼくらのまいにち |
|
| 165 |
戦後スポーツのスタート |
|
| 167 |
たのしい運動会 |
|
| 169 |
東京五輪から市民スポーツへ |
|
| 171 |
輝かしき学校運動部 |
|
| 173 |
カープを見つめるひとびと |
|
| 177 |
広島アジ競技大会 |
|
| 181 |
原爆を描く |
|
| 183 |
美術館 |
|
| 185 |
美術展と美術賞 |
|
| 187 |
原子雲の下の文学 |
|
| 191 |
演劇半世紀のドラマ |
|
| 195 |
市民と音楽 |
|
| 199 |
チケット50年 |
|
| 203 |
地域のなかの公民館 |
|
| 205 |
映像のなかの広島 |
|
| 207 |
姉妹都市の歴史 |
|
| 209 |
カメラ少年の8・6 |
|
| 211 |
原爆犠牲者の追悼 |
|
| 213 |
被爆者援護 |
|
| 217 |
もえあがる反核運動 |
|
| 219 |
広がる反核の波 |
|
| 221 |
広島を訪れた外国人 |
|
| 223 |
被爆体験を知らせる |
|
| 225 |
体験を伝える |
|
| 227 |
継承運動が広がる |
|
| 229 |
被爆建物さまざまなその後 |
|
| 231 |
新聞社会面のヒロシマ |
|
| 233 |
切手の中の原爆 |
|
| 235 |
町の中の「平和」 |
|
| 239 |
平和記念式典のあゆみ |
|
| 241 |
50年目の8月6日 |
|
|
|
|
| 第2部 50年おもなできごと |
247~ |
|
|
|
| 1945 |
8月6日のカメラマンたち/戦禍につづく冷風禍一枕崎台風/被爆直後の新聞報道 <残っていた戦時中の防火水槽 > |
| 1946 |
復興審議会の設立と役割/本通商店街のあのころ一中山良一の遺稿から/食糧メーデー <雑草を食べて飢えをしのぐ > |
| 1947 |
町内会・部落会・隣組の廃止一政令15号と市民生活一/初の公選市長・浜井市政の発足/「原爆十景」の選定 < 机がほしい、窓ガラスがほしい! > |
| 1948 |
児童文化会館の建設/サマータイム/広島で生まれたエスキーテニス <戦後初のプロ野球試合 > |
| 1949 |
フロイド・シュモーと「ヒロシマ・ハウス」の建設/ノーマン・カズンズと国際精神 養子連動/海外布住者からの復興援助 <市民を悩ませた衛生害虫 > |
| 1950 |
天気図がはじめて新聞に掲載される/開かれなかった平和祭/評判が悪かった平和祭/原爆ドームの史跡指定決議 <紙しばいが免許制になる > |
| 1951 |
文化行事が盛んになる/第6回国民体育大会の開催 < 盗まれた平和の鐘> |
| 1952 |
原爆死没者慰霊碑と碑文/戦後広島の演劇と広島民衆劇場 <バタンコの登場 > |
| 1953 |
原爆文学論争 <ラ・パンセ像の出現> |
| 1954 |
ビキニ事件と原水爆禁止運動/被爆体験記の刊行が活発化 <中国大動物園の盛況> |
| 1955 |
文化施設の落成/戸坂・中由・井口3村の編入合併 <本通りのオーニング倒壊> |
| 1956 |
「原爆の子の像」の建立/原爆乙女の渡米治療 <テレビ劇場の登場> |
| 1957 |
百メートル道路と供木運動/交通事故の激増とノークラクション運動/バスセンターの開業 <第1回春季赤ちゃんコンテスト > |
| 1958 |
広島復興大博覧会の開催 <平和公園でホタル狩り > |
| 1959 |
ごみ焼却場の建設が始まる/ホノルル市との姉妹都市縁組 < 放水路工事で魚ピチピチ > |
| 1960 |
原爆ドームの存廃論議/フェニックス号、広島に帰る <ユースホステルの開所 > |
| 1961 |
広島空港の開港/「20歳の直言」募集始まる/戦後最大規模のメーデー <レジャーブーム到来> |
| 1962 |
「交通地獄から「交通戦争」へ/「二都物語」の波紋 <広島市の動物園 > |
| 1963 |
38年豪雪と過疎化の波/失業対策事業の45年 <ヘルスセンターの隆盛 > |
| 1964 |
山陽本線の電化/原水禁運動の分裂と新しい展開 <東京オリンピックの聖火リレー> |
| 1965 |
-66 三篠川の氾濫/陸上自衛隊の観閲行進/広島民衆駅の落成と開業/的場町河岸の強制立ち退き執行 <しぐさの社会史> |
| 1967 |
-68 「原爆スラム」の火災と再開発/原爆ドームの保存工事完成/「原爆白書」運動と原爆被災資料広島研究会 <ミニスカートの大流行> |
| 1969 |
-70 大学紛争と広大統合移転/原爆記録映画を市民の手で <大阪万博の大盛況 > |
| 1971 |
-72 昭和40年代の広島市の公害/安佐動物公園の開園 <ポケベルの登場> |
| 1973 |
-74 広域合併の推進/米国からの被爆資料の返還 <歩行者天国} |
| 1975 |
-76 ごみ非常事態宣言/広島市植物公園の開園 <マンガブーム再び> |
| 1977 |
-78 ひろしまフラワーフェスティバル/広島市西部開発事業の展開 <市民菜園が大人気 > |
| 1979 |
文化行政の展開 <アメリカの「船上デパート」寄港> |
| 1980 |
-81 政令指定都市広島の区名の決定/反核運動の新しい波10フィート連動/被爆瓦の発掘と「ヒロシマの碑」建立運動 <ドルトムント路面電車が広島に > |
| 1982 |
-83 反核20万人集会/相生橋の架けかえ工事/段原再開発の工事が始まる <週休2日制始まる> |
| 1984 |
-85 原爆死没者慰霊碑の改築/第1回ワールドカップ・マラソン広島大会/第1回国際アニメーションフェスティバル広島大会 <ハレー彗星を観る> |
| 1986 |
-87 旧国鉄宇品線の廃止/アストラムラインの建設 < 平和記念ポストが平和記念公園に> |
| 1988 |
-89 築城400年を迎えた広島城/海と島の博覧会開幕 <広島市現代美術館の開館 > |
| 1990 |
-91 アニメと反核/台風19号の襲来 <「カラオケ花見」の自粛を > |
| 1992 |
-93 米スミソニアン原爆展問題/新広島空港の開港毎 <サメ騒動 > |
| 1994 |
広島アジア競技大会の開催/広島市立大学の開学 <カラカラ天気に泣く> |
| 1995 |
広島市の被爆50周年記念事業 <ヒロシマエバヤマザクラ> |
|
|
|
| 特論 |
|
| 323 |
1.占領下の広島 |
中川剛 |
| 325 |
2.プレス・コードとヒロシマ |
好村富士彦 |
| 327 |
3.講和条約と広島 |
宇吹暁 |
| 329 |
4.広島の復興をどうみるか |
石丸紀興 |
| 331 |
5.60年安保と広島 |
宇吹暁 |
| 333 |
6.戦後建築の変遷過程 |
杉本俊多 |
| 335 |
7.生活者からの都市づくり 阪神大震災から被爆後50年を考える |
船場正富 |
| 337 |
8.戦後市政の特質 |
中川剛 |
| 339 |
9.高度経済成長と市民生活 |
高橋衛 |
| 341 |
10.広島の美術50年 |
金田晋 |
| 343 |
11.広島と音楽 |
広島と音楽 |
| 345 |
12.市民の活動にみる 広島のアイデンティティ |
嶋陸奥彦 |
| 347 |
13.教室不足のなかの戦後教育 |
菅井直也 |
| 349 |
14.戦後の社会教育 |
新見豊 |
| 351 |
15.レジャーとスポーツの現在 |
新井貞光 |
| 353 |
16.被爆者援護とこの50年 |
宇吹暁 |
| 355 |
17.次の半世紀へ継承を考える |
石田信夫 |
|
|
|
| 357 |
グラビア・50年目の広島 |
|
| 379 |
写真図版リスト |
|
| 382 |
あとがき |
(松林俊一) |
|
|
|
|
再版(20010731) |
ヒロシマの音楽「一本の鉛筆があれば…」CD付 |
『図説広島市史』(広島市、19890401)
目次
| 頁 |
|
|
| 003 |
序(荒木武・広島市長) |
|
| 004 |
グラビア |
|
|
|
|
| 012 |
第五師団の本営広島城 |
|
| 013 |
昭和10年の広島市街 小町から紙屋町 |
|
| 014 |
広島上空の原子雲 |
|
| 015 |
広島市中心街 1989年 |
|
| 図説編 |
|
| 019 |
広島の自然 |
|
|
|
|
| 029 |
第1部 原始から広島築城まで |
|
|
原始・古代
比治山貝塚と中小田古墳 30
国府と郡郷 38 |
|
|
中世の推移と広島築城 |
|
|
中世の動乱と安芸国 44
荘園・公領と地頭 46
産業と交通 48
文化と信仰 50
毛利氏の発展と広島築城 54 |
|
| 061 |
第2部 城下町広島 |
|
|
福島・浅野の城下 |
|
|
福島正則の20年 62
浅野氏250年 藩政の確立 64
藩政の動揺 66
城下町の構造
広島の町割り 68
城郭 70
武家町 72
町人町 74
寺社 78 |
|
|
領国と城下町
水運(海運・船運)80
街道 84
耕地の拡大(新開)86
領国の産業 88 |
|
|
江戸時代の文化 |
|
|
学問と教育 92
文芸・美術・工芸 94
広島景観 97
祭礼・芸能・娯楽 102
広島と宮島 106 |
|
| 109 |
第3部 近代都市広島 |
|
|
軍都の形成 |
|
|
幕末期の動乱 110
明治維新と広島湾 112
文明開化と都市の発展 114
市制と町村制の施行 116
日清戦争と軍隊 118
大正デモクラシーと社会事業 120 |
|
|
近代都市への変ぼう |
|
|
宇品築港と山陽鉄道の開通 122
都市施設の整備と拡充 124
合併と都市計画 126
広島の景観と風景 128
太田川改修と広島工業港建設 134
近郊の町と村 136 |
|
|
くらしと文化 |
|
|
出稼ぎと移民 138
商業 140
工業 142
農村・水産業 144
教育 146
体育・スポーツ 148
芸術と文化施設 150
娯楽と盛り場 152
衣・食・住 155 |
|
|
軍都の崩壊 |
|
| 158 |
15年戦争 |
|
| 160 |
原爆被災 |
|
|
|
|
| 163 |
第4部 平和都市広島 |
|
| 164 |
平和都市への復興 |
|
| 170 |
政令指定都市への道 |
|
| 172 |
国際平和文化都市を目指して |
|
|
|
|
| 概説編 |
|
| 176 |
広島のあゆみ |
|
| 234 |
広島城の400年 |
|
|
|
|
| 258 |
年表 |
|
|
|
|
| 図説広島市史 付図 |
|
|
広島城下町絵図(江戸中期) |
|
|
広島町新開絵図(享保13 1728年) |
|
|
広島市街明細地図(明治20 1887年) |
|
『平和を創る』(YMCA国際平和研究所編 、勁草書房 、19851030)
目次
|
|
|
|
|
|
まえがき |
|
| Ⅰ |
核兵器と人類 |
|
|
栗野鳳 |
核軍縮への人類の努力 |
|
|
|
はじめに 2
核軍縮の必要性 4
国連による取組み 5
米ソ「包括的軍縮交渉」 10
軍縮の定義 13
人類社会 14 |
|
|
川田侃 |
第三世界と共に生きる道 |
|
|
|
南と北の格差と貧困 22
「新国際経済秩序」のシナリオ 25
「緑」の消滅-森林の減少 28
進行する生活基盤の破壊 32
第三世界を巻き込む軍拡の波 36
第三世界と日本、そして私たち 40 |
|
| Ⅱ |
平和を創り出す努力(1)平和運動 |
|
|
今堀誠二 |
原水爆禁止運動の役割と展望 |
|
|
|
原爆災害と終戦と平和憲法 49
日本の安全保障と核抑止論 51
核抑止論と限定核戦争 57
核廃絶に対する日本国民の責任 61
反核国民運動の発展と挫析 65
核廃絶国民運動の再建 66 |
|
|
岩倉務 |
市民の創る平和運動 |
|
| Ⅲ |
平和を創り出す努力(2)平和教育 |
|
|
空辰男 |
広島から創造する平和教育 |
|
|
|
組織的にとりあげた平和教育 110
広島平和教育研究所設立 121
とりたてた平和教育とカリキュラム 131 |
|
|
宗藤尚三 |
幼児と母親のための平和教育 |
|
|
|
平和を創り出す2つの課題 141
人間形成の課題としての平和教育 143
幼児期の平和教育の課題 146
両親の平和教育 155 |
|
|
片山美代子 |
平和学習の実践と国際化への道 |
|
|
|
はじめに 158
本校における平和教育の態勢 159
1984年度、平和学習の展開 165
生徒の活動 168
国際平和と国際理解の教育を目指して 173
生徒の感想文より 177 |
|
| Ⅳ |
国際平和年を経て21世紀に生きるために |
|
|
福田垂穂 |
国際化社会と世界平和 |
|
|
|
青年たちと平和問題 188
国際化社会とは 191
新しい世界観の確立 194
世界の流れの認識を 196
軍備拡張は戦争抑止たり得るか 198 |
|
|
平和に対する私の意見 |
|
|
(山本和子) |
私の傾倒する平和の倫理 |
|
|
(垣内純子) |
家庭と学校での平和教育を |
|
|
(天野賢次) |
イラン・イラク戦争終結へ広島市民の働きかけを |
|
|
(沢田直二) |
日本の政冶を憂う |
|
|
(オーランド・ゲーリング) |
広島を世界につなぐ |
|
|
(立花志瑞雄) |
平和のためのボランティア通訳として |
|
| 資料篇 |
|
|
|
永井秀明 |
核戦争か希望か |
|
|
|
39年目のヒロシマと世界の核状況 228
世界核戦争の結末 234
世界的規模の平和・反核運動 237
平和・軍縮教育の発展 242
非核宣言自治体の役割 247 |
|
|
〔資料1〕 |
第1回国際連合軍縮特別総会における最終文書(抜粋) |
|
|
〔資料2〕 |
国際連合「新国際経済秩序の樹立に関する宣言」 |
|
|
〔資料3〕 |
国際連合「人間環境宣言」 |
|
|
|
〔資料4〕ユネスコ「軍縮教育世界会議」最終文書 |
|
|
あとがき |
|
|
|
|
|
『ヒロシマ HIROSHIMA 』(広島平和文化センター編・刊、19750718)
目次
|
<表紙説明>原爆慰霊碑 |
|
|
碑文は、広島大学教授雑賀忠義氏の筆によるもので、碑文の意味は、世界恒久平和を希求するヒロシマの心であり、人類としてあの過ちを再び繰り返してはならない、という反省と平和への誓いが込められている。 |
| 1 |
まえがき |
荒木武(広島市長) |
| 2 |
原爆被災の記録<写真> |
|
|
爆心地上空から |
|
|
市中心部を上空から |
|
|
御幸橋の上で |
|
|
御幸橋の上で |
|
|
専売局電停角 |
|
|
焼け野原 |
|
|
原爆ドーム |
|
|
萬代橋の人影と荷車の影 |
|
|
元安橋 |
|
|
日赤広島支部ビル |
|
|
本通りの時計台 |
|
|
旧護国神社の石灯ろう |
|
|
横河駅前付近 |
|
|
自動車の残がい |
|
|
丸焼けの市内電車 |
|
|
皆実町のガスタンク |
|
|
ダイダイ |
|
|
明治橋のヤツデ |
|
|
被爆者の伝言板 |
|
|
第2陸軍病院 |
|
|
大芝国民学校救護所 |
|
|
救援トラックの上で |
|
|
広島逓信病院 |
|
|
広島赤十字病院 |
|
|
目の治療 |
|
|
広島赤十字病院の治療 |
|
|
脱毛した婦人 |
|
|
死亡前の被爆兵士 |
|
|
焼きついた着物の柄 |
|
|
帽子の跡 |
|
|
心外景 |
|
|
頸部 |
|
|
竹 |
|
|
平瓦 |
|
|
人骨と瓦礫 |
|
|
|
|
| 3 |
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式 |
|
|
|
|
『写真記録 原爆棄民 韓国・朝鮮人被爆者の証言 』(伊藤孝司、ほるぷ出版、19871015 )
目次
| 頁 |
|
|
| 001 |
植民地・強制連行 |
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朴昌煥 郡役所まで三菱が迎えに来ました 4
朴守龍 「朝鮮人が放火した」、ひどい大震災の流言 6
陳祐生 閃光がしてゴォーと爆風が来ました 8
李福南 9
裵又星 百姓しとるのに米の飯も食えんので下関へ渡ったとです 13
金判根 リヤカーを引いて古物商をしていました 14
梁基成 徴用令を受けて広島へ、日本人が恐ろしかったです 15
李哲鎬 三菱からは1か月分の給料だけしかもらっていない 15
鄭基障 日本の無条件降伏にみんなで泣きました 16
李永憲 行き先も知らされず、警察に連行されて日本へ 16
金應善 兵隊よりも、徴用で広島に行くほうを選んだのです 17
鄭永寿 19
尹永寿 だまされてパンパン屋に売られたんですよ 20
張泰熙 新聞でヒットラーの記事を見たとたん、ピカッと 26
朴?奎 教育勅語を暗記できないとバケツを下げて立たされました 27
呉鳳寿 土地も、言葉も取り上げた総督府 28
朱碩 日本人は酒を飲んでは放歌高吟し、女の人は外へ出るのもはばかられるほどでした 30
成洙南 挺身隊へ行くのをさけるため16歳で結婚させられました 32
金福連 主人も、娘も死んでしまいました 33
徐正雨 軍艦島では何度も自殺しようと思ったかわからんとです 34
金順相 雪が降ってもパンツ、腰巻きひとつで働かせられたとです 36
韓基俊 36
朴永分 「ひとりじゃ逃げる」言うて家族も呼ばれたんじゃ 39
崔月光 被爆のことはそりゃ口じゃ言わりゃせん 39
黄應八 船で日本に密航し、各地を転々としながら 40
金連順 勤労動員で野球の張本さんのお姉さんたちと作業していて 42
車基淳 42
李寿東 炭坑と戦争と原爆、3つの地獄を 45
鄭元達 みんなから「朝鮮人の刑事が来た」と言われました 47
尹参鉱 「朝鮮豚」とか言われながらも日本人と一緒に遊びました 47
金仁祚 二女、三女、そして長女、次々に死に、口の所にハエがたかり 48
金鍾具 飯場では豆粕やコーリャン、きびの飯で腹がへって 48
金敏経 徴用令が来て、目の前がまっ暗になりました 49
金在甲 浦上天主堂の坂で軍馬もろとも 50
張世澤 浦上刑務所で爆死した親方兄弟を捜して 53
白昌基 首に縄をくくられ、牛に引きずり回された朝鮮青年達の光景が脳裏に焼きついて 55
辛福守 わが子が燃えるのを、ただ見ているだけの地獄でした 55
李一守 建物疎開の勤労奉仕に出て原爆にあいました 58
甲喜植 一週間、防空壕に寝たきりで 59
金容福 韓国人ばかり働かせ、バカにするのです 63 |
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| 065 |
被爆 |
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玉牙伊 足も指がちぎれ、頭もおかしゅうなっとったけん、痛うもなか 69
崔英順 工場が崩れて2階にいたのに1階になってしまいました 71
李守龍 背中にいっぱいウジ虫がわき、火傷の痛みもひどかった 71
林玉仙 10歳で被爆、手足がしだいに萎縮して 72
金南出 もう死んだと思うたが、手足が動くので目をあけてみると 73
朴化玉 長崎港の船の上で閃光を 74
安永千 1か月ほど死体の臭いがしみついていました 76
金命今 魚の皮はいで地面に投げたような姿で兄弟は「自分の子がわからんかね」言うんです 78
鄭登明 顔と手に大火傷を負い、40年間ケロイドで苦しむ 81
裵玉連 息子を抱いて3階から飛び降りました 82
朴海鐘 ドーンという音でびっくりして飛び出すと、浦上の方が一面火を吹いていました 83
権億相 気を失って気がついたら24時間すぎていました 86
蘇閏生 原爆はすべてを変えてしまいました 88
姜和順 右腕をこれ以上悪くならないようにと切断しました 89
宗錞敏 ボンネットをのぞき込んでいると突然ピカッと 90
許南根 爆風のため転んで釘が右足に 90
朴水煥 高島炭坑と住吉トンネル工場で 91
金在鉉 天皇陛下のためと言われて徴用されて 92
金正玉 閃光を見た瞬間、目がくらんで気絶、火ぶくれに 92
安珉 飛行機が飛んできてシャツに黒いシミが 92
朴孟蓮 電車は満員だったのに、閃光を見たのです 93
宋年順 なかなか死ねずに、8月末まで畑に野ざらしでした 95
金基錫 お母さん、よく原爆の痛みに耐えて、生きていました 96
金判煕 宇品港から500人乗りぐらいの船で帰国しました 98
張乙生 「助けてぇ、助けてぇ」と言いながら、妻は息をひきとりました 100
姜岳只 原爆で5人の子どものうちふたり死んだ 101
金貞賢 身体はペラペラして真っ白い肉だけが見えました 102
崔乙龍どうもがまんができず、自分の小便を受けて飲んだんです 103
姜寿元 独立運動で投獄、広島刑務所で原爆に 104
金貞順 私は片目が飛び出し、従妹は行方知れずに 06
辛泳洙 自分の顔に手を当ててみると、目も鼻も口もとけて 109
朴泳[ユン] 兄貴の嫁ごは火葬して、骨は川の中に流したと 111
卞明奎 長女はどこかで生きていると思っています 112
車貞述 3回も戦争に巻きこまれて 114
姜小龍 9人兄弟のうち、3人だけが生き残って 114
鄭翼俊 死んだ息子を一日中背負っていました 115
黄在明 兵隊さんがおぶってくれて川にとびこみ助かった 116
朴且点 人間なのか、お化けなのか、とても口では言い表せません 117
金正子 「水ばください」「水ば飲まして」と着物の袖を 119
金宗丸 首とか手とかバラバラになって、内蔵がベラッと出とるんです 120
千今絡 「あんた、生きとったね」が、みんなのあいさつでした 123
金沢文子 魚を一匹分けてくれと言っても、絶対にくれなんだ 124
朴基煕 真っ黒焦げの骨があるだけで、誰が誰だか全然わからん 125
崔李澈 大腿骨無腐性壊死…たえず激痛が襲ってくる 126
徐允心 身体中にガラスがいっぱい刺さって、3日間何も食べずに 127
金相根 火傷し、頭が3倍くらい膨れていました 128
金達莫 息子は、まるで焼き魚のように…10日後に死にました 129
劉世銀 焼けていなかったのは手の平だけだった父 131
鄭翼判 「朝鮮人は早く朝鮮へ帰れ、帰れ」と言われ 132 |
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| 135 |
帰国・在日 |
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李順伊 小さな船で死ぬ思いをして釜山に帰って来たんです 137
李允載 娘たちが腰痛を訴えるのでかわいそうです。親が原爆を受けたことが原因ではないかと 138
李陽善 徴用で働いた報酬も受け取っていません。日本政府と三菱は早く補償すべきです 139
卞今順 原爆病院に入院してもう16年になります 141
韓明丁 もし今後、治療できなければ早く死にたいです 142
柳沢蓮 朝鮮語はわからず、友達にいじめられ「日本に帰ろう」と泣いた 142
鄭斗鎮 妻も死に、やぶれかぶれの気持ちで帰国しました 145
蘆長寿 弟は、帰国船が台風で沈没し、弟は行方不明になりました 146
李実根 反戦ビラまき、非合法生活、そして朝鮮人被爆者運動に奔走しています 149
朴玉順 差別や抑圧に屈せずに 150
李必伊 日本で治療したい、生活は苦しい 152
白敬伊 いちばん望んでいるのは息子を日本で治療させることです 152
李貞秀 胃を手術して取り、楽じゃないです。ほんとに働きずくめの一生ですよ 156
李順出 姉は1960年に、兄は61年に、そして父は63年に死にました。みんな同じ病気でした 157
全相鶴 渡日治療で6か月いたら、政府の約束だとむりやり出されました 158
姜文煕 肉親の眠る広島を去ることができず 159
金判伊 広島と韓国で2回も爆撃を受け、もう戦争はこりごり 160
李大奎 ヤミ市、密造酒、とばく…とにかく生きるためには何でもやった 161
鄭長寿 私は病気の袋みたいで、いっそ死んでしまったら痛みもなくなるのではと思います 164
尹桂花 日本人であれ、韓国人であれ、心の痛みは同じです 164
李種善 願うことは、私と子どもの病気が治ること 164
尹成相 家内と赤ん坊、弟の骨が大橋の道路の下に 166
李壽英 身体がかゆく変になれそうで、こすると水のようなものが出ます 167
金永宅 2度と戦争の起こらぬよう願いたい 167
郭貴勳 日本人の医者が「韓国人のために負けた」と言うのです 167
金分順 帰国しても働けず、義母に追い出される始末です 168
金義祚 原爆の被害者は世界平和の人柱です 169
姜桂浩 娘、息子と死に、妻は気がおかしくなり 170
尹貞順 夫は日本での生活を一切口にしないまま死んだ 171
金永根 故郷についても物乞いをし、ごはんをもらって歩きました 172
厳粉連 被爆者を放置して、どんな世界平和があるのでしょうか 175
李三守 日本人の被爆者と同じ扱いをしてほしい 178
崔貿先 夫と離ればなれになり、母子3人で帰国 179
朴海潤 農繁期がきても軽い仕事しかできません 180
鄭翼俊 死んだ子供を一日中、背負って 180
李貞守 日本が戦争をしなかったら、こんなにならなくてすんだんのです 180
李奇相 這うて便所へ行くと「アイゴー、アイゴー」という声が 182
車小道 母は隣家の下敷きになり死んでしまいました 184
朴守福 こんな重たい十字架を負っているより、いっそ死の道をと 184
金伊述 私はこの地獄が恐ろしうて 186
林福順 韓国の被爆者は、あの日のヒロシマを背負っているのです 188
金玉連 足の痛みがひどく、右大腿部より切断しました 190
鄭正玉 娘が生まれ喜んだのもつかのま、精神がおかしいのです 190
李舜伊 韓国に帰りましたが治療もできず、火傷に味噌をつけたりして 191
金漢相 農業、運転手、そして警備員 191
韓鳳愚 ヤミ舟を雇って帰国、両親はもう死んだと思っていたので涙流して喜びました 192
金福姫 夫は私のケロイドのことは知らずに結婚し「だまされた、だまされた」と口ぐせのように言っていました 194
白麟基 韓国に原爆病院を建設して下さい 195
白鳳鶴 うちゃ、生きとってもええことはひとつもないよ。生きとるのいやじゃ 197 |
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安永根 204呉玉振 204姜錫作 204林[イ]生
205朴南淳 205姜貞順 205尹基先 205黄徳禮 205李碩圖 205金喆基 205姜基達 205姜五龍 205
金九鳳 206李賓? 206申徳培 206趙判石 206李宝鉉 2O6安永宣 206申基殖 206金甲順 206
朴鐘来 207李炳[ ] 207朴甲述 207李点柱 207李勝子 207曺澄子 207
姜点龍 208都宗義 208郭順[ヨン] 208尹永益 208金根秀 208呉尚粉 208
李宗仙 209鄭好任 209韓基淑 209宗栄彬 209沈快興 209
尹春鉱 210黄秋子 210李寿元 210朴連順 210朴奉変 210 |
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| 213 |
韓国・朝鮮人被爆者―その歴史と存在の意味(鎌田定夫) |
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| 231 |
原爆棄民・関係年表 |
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| 235 |
作詩●追悼(鎌田定夫) |
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理論物理学研究所の歴史(年表)
| 年月日 |
事項 |
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| 19440824 |
理論物理学研究所設置に関する勅令公布。広島文理大学の附属機関。目的=「物理学の基礎理論に関する総合的研究」。 |
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設立時の専任職員定員 教授1名、 助教授1名、 助手3名
初代所長 三村剛昂(教授)
設立場所 広島文理科大学旧教育博物館 |
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| 19450806 |
広島に投下された原子爆弾により研究所関係の2教授(岩付寅之助、細川藤右衛門)は殉職、三村所長以下所員の大半も負傷し庁舎も崩壊した後、類焼により完全に灰塵に帰した。やむなく尾道市外 向島にある広島文理科大学付属臨界実験所の一部を借り受け、仮庁舎とした. |
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| 1947 |
三村所長の出身地、竹原町(現竹原市)に研究所を誘致する話が持ち上がり、地元有志の熱心な努力により、現在地に面積400平米の木造平屋建新築庁舎と敷地約4000平米を竹原町より寄付を受ける。 |
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| 194803 |
新庁舎で開所式。 |
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人事に関しては、竹野兵一郎が専任助教授となり、原田雅登、高久(旧姓熊川)浩俊,佐伯敬一の3人が助手として就任していたが、開所式の前後にそれぞれ他大学に転出し、代わって、池田峰夫、木村利栄および宮地良彦の3名が前後して着任。 |
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| 1948 |
文部省学術研究会議の最後の研究集会、理論物理学研究所で開催。 |
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| 194905 |
学制改革により、新制広島大学が設立されると同時に、理論物理学研究所は文理科大学付属からはなれ、広島大学付属となる。 |
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| 1949 |
京都大学の湯川秀樹教授がノーベル賞を受賞し状況は変わった.すなわち、理論物理学研究所を拡張するよりは、ノーベル賞受賞を記念して、京都大学に全国共同利用の研究所を設置した方が良いと言うことになり、昭和28年(1953)京都大学に基礎物理学研究所が創設された.理論物理学研究所と京都大学基礎物理学研究所との合併問題の萌芽は既にこの時に発生していたといえる. |
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| 195104 |
助手1名の定員増。竹野兵一郎が教授、上野義夫が助教授、庄野直美が講師、中井浩が助手にそれぞれ就任。 |
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| 1953 |
庄野および中井が転出、あらたに脇田仁、成相秀一が助手に就任。 |
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| 195705 |
三村所長、文部省学術課長より理論物理学研究所を京都大学基礎物理学研究所に合併させることを条件に、広島大学に研究施設を作る概算要求が広島大学から提出されている旨を伝えられる。 |
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| 19571115 |
三村所長、京都大学との合併の話を京都大学基礎物理学研究所研究部員会、運営委員会で非公式に報告。議論の後、素粒子論グループの意見を聞くこととなる。 |
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| 195801 |
関西素粒子論のグループ懇談会では「合併は好ましくない」との結論。 |
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| 196504 |
「時間空間理論部門」の増設が認められ、教授1名、助教授1名、助手2名が増員。これに伴って従来の部門名は「重力理論部門」、「場の理論部門」と改称することになり、これら3部門の研究所となる。 脇田が岐阜大学に転出し、 田地隆夫、横山寛一、永井秀明、久保礼次郎および寺崎(旧姓岡田〉邦彦が相ついで 着任。 |
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| 19890627 |
広島大学部局長連絡会議、評議会において理論物理学研究所の京都大学基礎物理学研究所への合併を承認 |
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『科学者と平和 三村剛昻先生遺稿集』(三村剛昻先生遺稿収録委員会、196710)
内容
| No. |
タイトル |
出典 |
年月日 |
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まえがき 196710 三周忌を目前にして |
遺稿収録委員会 |
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| 01 |
原子力への夢 平和利用で理想郷 ”戦争などなくなるよ” |
夕刊朝日 |
195001 |
| 02 |
「新春放談:原子力時代」 共産社会はだしの天国 つらいかな経済も科学もしばる |
夕刊朝日 |
19500103 |
| 03 |
放談リレー 科学の巻 「足らぬ利力の結集 科学活動を無制限にやれ」(小島丈児との) |
中国 |
19500521 |
| 04 |
秋の角度・天体 「理論創造の時期」 |
夕刊朝日 |
19510929 |
| 05 |
あれから8年 原爆の日と科学者 |
毎日 |
19530806 |
| 06 |
学芸 平和への道 |
朝日 |
19530807 |
| 07 |
サクレツ高度と被害を予言 洗礼受けた原子学者三村博士語る |
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|
| 08 |
ビキニの灰と広島の灰 |
毎日 |
19540602 |
| 09 |
読者の会議室「原水爆と日本人」 |
毎日 |
19540724 |
| 10 |
平和をめぐる論争 体験者だけにわかる原爆の恐怖 ユネスコばりの発言(森戸広大学長)に批判 |
毎日 |
19540801 |
| 11 |
いろいろの原子炉 |
毎日 |
19550627 |
| 12 |
一分間講座:酔生夢死の徒 |
|
(?19560313) |
| 13 |
こたつ談議「社会改造」?(竹原書院図書館長・三村剛昻) |
|
19601204 |
| 14 |
第2回科学者京都会議開く 広島県竹原で キューバ以後の情勢など 三テーマを柱に討論 |
読売 |
19630508 |
| 15 |
私のいいたいこと 科学者京都会議に寄せて |
? |
|
| 16 |
ヒロシマに被爆して18年 ちょっぴり希望がもててきた人類の滅亡からの救い |
毎日 |
19630806 |
| 17 |
わたしの散歩道 竹原・広大研究所の庭 雨によく風また楽し |
朝日 |
19641129 |
| 18 |
科学の発達と人類の幸福 |
学校教育臨時増刊号 |
1954 |
| 19 |
原・水爆と原子炉 |
学校教育8月号 |
1955 |
| 20 |
特別寄稿:科学技術の現状と将来 |
廿日市高校研究論集第2号 |
1956 |
| 21 |
ブックレビュー「死者の声」 |
自然 |
195403 |
| 22 |
通信 |
ヒロシマ医学第9号 |
1956 |
| 23 |
原子力発電の今後の動向 |
火力発電12月号 |
1959 |
| 24 |
原子力問題に関する討論ー学術会議第13回総会における |
自然1月号 |
1953 |
平和のための広島の戦争展
資料
| 年月日 |
資料名 |
メモ |
| 1995 |
「95年平和のための広島の戦争展」開催要項(案) |
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| 199503 |
宇吹宛村上経行書簡 |
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| 19950307 |
広島県平和委員会「「95年平和のための広島の戦争展」開催のための実行委員会結成の呼びかけ人会議について」 |
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| 19950626 |
赤旗記事切り抜き「話題この人」上田博則さん |
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|
終戦50周年の夏に開く「95年平和のための広島の戦争展」の実行委員会事務局長 |
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| 19960821 |
「96年平和のための広島の戦争展」案内ビラ |
紙1枚 |
| 19960919 |
「96年平和のための広島の戦争展」ニュースNo. 4 |
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| 1997 |
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| 1998 |
「96年平和のための広島の戦争展」案内ビラ |
紙1枚 |
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| 19990915 |
「広島県労連 No.116」 |
4頁 |
|
記事「第3回沖縄・広島青年交流集会」 |
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|
記事 「99 第5回平和のための広島の戦争展 開かれる 第5回」 |
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| 2007 |
「96年平和のための広島の戦争展」案内ビラ |
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| 2013 |
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| 2014 |
戦後74年第25回平和のための戦争展 |
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| 2015 |
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| 2016 |
新聞切り抜き「赤旗」(20160827、20160831) |
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| 2018 |
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| 2019 |
<別記> |
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| 2020 |
休み |
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| 2021 |
休み |
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| 2022 |
松井久治「ウクライナに平和を『平和のための広島の戦争展』」(『ヒロシマの子育て・教育』第354号、2022年9月) |
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ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。