ubuki のすべての投稿

原爆報道2018

報じられたヒバクシャ

タイトル  掲載紙  掲載日
被爆体験者も公募対象 中国新聞 20180131
[概要]長崎市は平和祈念式典で「平和への誓い」を読む被爆者代表の応募資格から「被爆者手帳を持っていること」との要件をなくす。

連載

タイトル  掲載紙  掲載期間  回数 備考
 生きて 大内塗職人 小笠原貞雄さん(1926年~)  中国  1~
 [概要] [記事見出し]

 

 

書誌2018

本・パンフレット

書名・雑誌名 著者 発行所 発行年月日
呉海軍工廠の形成 千田武志 錦正社 20180210
荒勝文策と原子物理学の黎明 政池明 京都大学学術出版会 20180331
<第3編補論>久保田明子「『キツネの足跡』を追いかける―京都大学所蔵荒勝文策関連資料について」
平成29年度第1回広島大学平和科学研究センター主催国際シンポジウム「原爆体験・戦争の記憶の継承~託す平和遺産」 No.33 Editor: Institute for Peace Science, Hiroshima University  201804
 開催日時:2017年8月2日、会場: 広島大学東千田キャンパス。
沖縄からの本土爆撃 林博史  吉川弘文館  20180601
戦後ヒロシマの記録と記憶 小倉馨のR. ユンク宛書簡(上巻・下巻) 若尾祐司・小倉桂子 編 名古屋大学出版会 20180710
訳者:川口悠子、西井麻里奈、 菊楽忍、横山雄一、 菊楽肇、若尾祐司、 竹本真希子
 広島市被爆70年史  あの日まで そして、あの日から 1945年8月6日  被爆70年史編修研究会編  広島市刊  20180728
生命もてここに証す 東友会60年のあゆみ 東友会 東友会 20181116
被爆者の人生を支えたもの―臨床心理士によるインタビューから― 被爆者の心の調査プロジェクト編 渓水社 20181128
プロジェクトメンバー=一丸藤太郎、大澤多美子、倉永恭子、財満義輝、中嶋みどり、森田裕司
戦後社会運動史論③軍事大国化と新自由主義の時代の社会運動 広川禎秀・山田敬男編 大月書店 20181214
執筆者:広川、山田、上野輝将、三輪泰史、大森実、石月静恵、西尾康広、櫻澤誠、森下徹

雑誌論文

著者 タイトル 雑誌名(発行者) 発行月日
大亀信行 原爆瓦<20倍の世界> ヒロシマの子育て・教育  第303号(広島教育研究所) 01
著者=広島高校生平和ゼミナール世話人
藤本純子 ヒロシマ 岩国の隣 ヒロシマの子育て・教育  第304号(広島教育研究所) 02
平野裕次 被爆した南方特別留学生と戦後の日本社会―1950年代半ばから1960年代半ばまでの時期を中心として 史学研究 第299号 0301
木本安彦 自閉症・情緒障害児学級生徒が調べた被爆樹木 ヒロシマの子育て・教育  第306号(広島教育研究所) 04
ならコープ組織部 ならコープ「ヒロシマの旅」 ヒバクシャ―ともに生きる― 第35号 0806
志村  家族3人が原爆で奪われた 戦争起こすなの願い 年金裁判 陳述書に書いた志村さん  年金者しんぶん 第344号(全日本年金者組合中央本部)  0815

 

国連軍縮フェローズの受入れ

出典:http://www.mofa.go.jp/mofaj/dns/ac_d/page3_001846.html

国連軍縮フェローシップ事業概要

(1)国連軍縮フェローシップは,特に開発途上国における軍縮専門家を育成するために,1978年の第1回国連軍縮特別総会において実施が決定されました。主に各国の若手外交官や国防関係者等を対象とし,国連及びジュネーブ軍縮会議における研修や関係国への訪問等をプログラムとして,1979年以降毎年実施。
(2)日本は,1982年の第2回国連軍縮特別総会における鈴木善幸総理演説において本計画参加者の広島及び長崎招待の提案い,翌83年以来毎年約30名の各国若手外交官等の訪日を実現。2016年は34年目に当たり,本年を含めこれまでに883名の参加者が我が国政府の経費負担により日本を訪問。
(3)訪日プログラムは,例年広島での原爆ドームや平和記念資料館等の視察,長崎での原爆中心地や原爆資料館等の訪問,被爆者による被爆体験講話等を通じ,被爆の実相について理解を深める。

2016年度国連軍縮フェローシップ(結果)
平成28年10月2日から8日まで,「国連軍縮フェローシップ・プログラム」により,コラロフ国連軍縮部ジュネーブ事務所顧問他25か国25名の外交官等が訪日。概要は以下のとおり。
(1)10月3日,長崎において,原爆資料館及び原爆死没者追悼記念館を視察した後,被爆者による被爆体験講話を聴講。また,原爆投下中心地碑において献花を行い,平和公園を視察。その後,被爆者や若者との懇談や,長崎大学核兵器廃絶研究センターにおける有識者との意見交換を行ったほか,永井隆記念館を視察。
(2)10月4日,広島において,広島平和文化センター主催の歓迎レセプションに参加。翌5日は,広島平和記念資料館や国立広島原爆死没者追悼平和祈念館,原爆ドーム等を視察し,広島平和都市記念碑において献花。その後,ドキュメンタリー「母たちの祈り」の鑑賞や,被爆者による被爆体験講話,広島平和文化センター理事長講話の聴講を通じて被爆の実相に対する理解を深める。翌6日午前には,放射線影響研究所での講義を聴講。
(3)10月6日夜には,東京において,外務省主催のレセプションに参加,外務省職員や国内有識者,ユース非核特使経験者等と交流を深める。翌7日には,軍縮・不拡散促進センターを訪問し,包括的核実験禁止条約(CTBT)の国内運用体制についての講義を聴講。その後,外務省において,中国における遺棄化学兵器処理プロジェクト及び日本の核軍縮・不拡散政策に関する説明を受ける。

 

 

竹内釼

 

没年 名前 よみ 享年 備考
01 1974 竹内釼 たけうち・けん 1890年1月6日、福岡県生。

略歴

年月日 事項
1980.1.6 福岡県に生まれる。
1915. 旧制第5高等学校(熊本)を経て、東京帝国大学医科大学医学部卒業。
1916. 陸軍軍医中尉に任官。近衛師団に配属。
1919. 陸軍軍医学校外科主任教官となる。
1926. ドイツ留学(2か年)。帰途渡米視察。
1940. 中国派遣(約1年)
1939. 広島日本赤十字病院新設のため責任者となり、設立と共に初代院長となる。
1945.8.6 院長室にて執務中被爆、二昼夜人事不省、6ケ所骨折の重傷。
1947 昭和天皇御訪広に際し、広島被爆の状況について御前講演。
1948 広島日本赤十字病院再建復興なり、辞職。
1974.8.1 逝去。
出典:『竹内釼画集』(竹内辰五郎、2005年3月)

<宇吹メモ>「廃墟に立てば去りがたし」(『月刊中国 8月号』中国新聞社、1946年8月)に被爆時の体験を記す。

08月忌(一覧)

 8月に亡くなった人々
没年 名前 よみ 享年 備考
01 1974 竹内釼 たけうち・けん 1890年1月6日、福岡県生。1939年広島日本赤十字病院新設のための責任者、設立と共に初代院長。1945年8月6日、院長室にて執務中被爆、二昼夜人事不省、6ケ所骨折の重傷。<竹内釼
02 1989 鈴木喜代治 すずき・きよじ 88 日本映画社の原爆被災記録映画作り(生物植物調査班)に参加。
02 2017 磯野恭子 いそのきょうこ 83 34年ラジオ山口(現山口放送)にアナウンサーとして入社。のちディレクターとして,「聞こえるよ,母さんの声が…原爆の子,百合子」「祖国へのはるかな旅―ある中国残留婦人の帰国」など,戦争と平和をテーマにしたドキュメンタリーを制作。63年民放局初の女性取締役に就任。広島県出身。広島大卒。<ヒロシマの女たち・続
03 2015 阿川弘之 あがわ・ひろゆき 94 日本の小説家、評論家。広島県名誉県民。日本芸術院会員。日本李登輝友の会名誉会長。文化勲章受章。『広島県現代文学事典』(高木伸幸・記)<資料年表:阿川弘之
05 1990 桧垣益人 ひがきますと 94 元日本被団協代表委員(1970-81年)。広島駅地下道で被爆。1961-84年、広島県被団協事務局長。<資料年表:桧垣益人
06 1948 大塚惟精  おおつか・いせい  62  原爆被爆時の中国地方総監。『中国地方総監府誌 原爆被災記録』(刊行委員会、19720806)
 06  1945 粟屋仙吉  あわや・せんきち  48  被爆時の広島市長。津上毅一『粟屋仙吉の人と信仰:原爆にたおれた広島市長』待晨堂、1966年。
06 1945 森喬以 もり・たかもち 広島市立造船工業教諭として生徒を引率中、被爆死。
07 1945 李鍝 い・う 韓国人犠牲者慰霊碑(1970年4月10日除幕)の碑文。『すぎた歳月』(李方子、1973年)。『資料・韓国人犠牲者慰霊碑』(ピカ資料研究所など編、碑の会刊、1989.8.5)、『昭和天皇実録』。<資料年表:李鍝
09 1973 大月洋 おおつきひろし 67 民衆劇場。お宅で面談、資料閲覧
09 2000 田沼肇 たぬまはじめ 74 1950年、法政大学大原社会問題研究所に就職。64年同大学教授。93年退職し名誉教授に。日本原水協代表理事。<資料年表:田沼肇
10 1945 高木敏子 たかぎ・としこ 34 広島地方裁判所検事の妻。市内雑魚場町の家屋強制疎開後の跡片付づけにとりかかる前に被爆。『広島原爆犠牲者高木敏子追想録』(高木尊之編集発行、19730810)
10 1988 清水幾太郎 しみず・いくたろう 81 社会学者。原爆孤児精神養子運動に協力。<資料年表:清水幾太郎
12 1987 増本量 ますもと・はかる 金属物理学者。東北大学名誉教授。日本金属学会会長。広島県安芸郡矢賀村(現:広島市東区矢賀)出身。『増本量伝』
12 2006 小林文男 こばやし ・ふみお 72 中国研究者。アジア経済研究所主任調査研究員、広島大学名誉教授。<資料年表:小林文男
12 2015 明田弘司 あけだ・こうし 92 写真家。「戦争から復員後の48年、広島市内で写真展を開業。仲間とヒロシマ・フォト・クラブを結成。写真家の名取洋之助から広島の復興を記録するよう助言され、市民生活や街の活気を撮り続けた」(『中国新聞』2015.8.13)。<資料年表:明田弘司
14 1989 長岡弘芳 ながおかひろよし 57 本名:奥村弘芳。原爆文献研究家。『広島県現代文学事典』(大西昭・記)
15 1989 源田実 げんだみのる 84 広島県加計町出身。1941年第1航空艦隊参謀、真珠湾攻撃を立案、指導。1954年航空自衛隊に、1959年空将で航空幕僚長。1962年退官、参議院全国区で当選、以後4期、自民党国防部会長などを歴任。
15 1996 丸山 真男  まるやま・ まさお  82  政治学者、思想史家。東京大学 名誉教授 、 日本学士院 会員。<資料年表:丸山 真男
16 1945 丸山定夫 まるやま・さだお 44 俳優。日本移動演劇連盟桜隊を引率して慰問巡回中、広島で被爆。『俳優・丸山定夫の世界』(菅井幸雄編、未来社、19890806)
16 1945 手島守之輔 てしま・もりのすけ 31 竹原生まれ。県立第二中学校卒、東京美術学校油画科。8月1日臨時召集先の広島連隊で被爆、死亡。
16 2004 沖原豊 おきはら・ゆたか 79 広島大学長(第7代、1985年5月21日~)。教育学者。『解題:沖原豊関係文書目録』(執筆:酒井真)。
16 2023 中西巌 なかにし・いわお 93 旧被服支廠の保全を願う懇談会会長(初代)。『赤レンガ倉庫は語り継ぐ 旧広島陸軍被服支廠被爆証言集』(旧被服支廠の保全を願う懇談会、2020/03/01)
17 1991 田辺耕一郎 たなべこういちろう 87 「広島憩いの家」事務局長。1957年に開設された被爆者のための「憩いの家」を管理運営。『広島県現代文学事典』(岩崎清一郎・記)。憩いの家で面談、資料閲覧。資料年表:田辺耕一郎
18 1958 熊田秀雄 くまだ・ひでお 54 金光教御幸教会初代教会長。『御幸教会五十年史 改りのあゆみ五十年―第一部―初代熊田秀雄の求道と布教』(熊田信道、金光教御幸教会、1986.5.9)〈内容
18 1974 奥 久登 おく ひさと 93 広島県内の小学校長,県商工水産課長,広島市助役,県信用購買販売組合連合会長などを歴任。昭和17年衆議院議員(日本進歩党)。戦後,広島信用金庫理事長,県教育委員長。『奥久登先生 思い出の記』(佐々木勲編、広島信用金庫・広島大学東雲同窓会・広島県農業協同組合連合会関係諸団体・広島県安芸郡坂小学校同窓会刊、19640505)
21 1945 園井恵子 そのい・けいこ 33 『園井恵子・資料集 原爆が奪った未完の大女優』(岩手県松尾村、1991.3.31)
21 1986 四竈一郎 しかまいちろう 広島市基督教連盟委員長[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会](日本キリスト教団広島協会牧師)。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。元広島県原水協代表理事( 被爆者)。
21 2002 近藤幸四郎 こんどうこうしろう 69 広島県被団協事務局次長、広島被爆者団体連絡会議事務局長、元日本被団協代表理事などを歴任。<資料年表:近藤幸四郎
24 1945 仲みどり なか・みどり 36 東大病院で死亡(毎日新聞)。移動演劇 桜隊 に所属。公演先の広島市で被爆。<資料年表:仲みどり>
25 19450825 岡田二郎 おかだ・じろう 40 広島県立第二高等女学校の音楽教師。広島市南観音町で被爆。「岡田二郎に70年ぶり光 原爆に散ったバイオリニスト あす広響演奏会で紹介」(『中国新聞(富沢佐一・客員編集委員記)20150804』
25 1991 松前重義 まつまえしげよし 90 東海大学総長。広島調査団長として被爆直後に入市。<資料年表:松前重義
25 1995 御園生圭輔 みそのおけいすけ 82 終戦時、陸軍軍医学校教官として広島原爆の被害調査に当たる。<資料年表:御園生圭輔
26 2014 孫振斗 そん・じんどぅ 87 韓国人被爆者訴訟の原告の草分け<資料年表:孫振斗>
28 1983 山内敕靖 やまうち・ただやす 65 広島ガス社長。期間:19710226-19820628。<資料年表:山内敕靖
28 2017 羽田孜 はた・つとむ 82 内閣総理大臣(1994年4月28日~6月30日)
29 2010 森田俊男 もりた・としお 89 教育研究者。平和・国際教育研究会代表。<資料年表:森田俊男
30 1995 上栗頼登 かみくり・よりと 76 東広島市の児童養護施設「広島新生学園」元園長。<資料年表:上栗頼登
30 2017 谷口稜曄 たにぐち・すみてる 88 長崎被爆者。
 31  1945 中島光風  なかじま・こうふう 国文学者・歌人。広島高等学校教授。広島市上流川町の自宅で被爆。 『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)
 31  2005  ジョセフ・ロートブラット ろーとぶらっと  96  ポーランド 生まれの イギリス の 物理学者 、 平和活動家 。

 

宇吹寄稿文「蔵書あれこれ」

『河図洛書―渓水社10周年記念』(渓水社、1985年4月1日)pp.140-143

河図洛書140

 

河図洛書141

河図洛書143

原爆問題についての私の師の一人であるT(田原)氏との出会いは、広島市内のあるガレージであった。そこには、T氏の管理する原爆関係の本が持ち込まれていた。私は学生時代から平和、
原爆問題に関心を持っていた。広島県の歴史の中でも重要なテーマと思い、その関連の本について、卒業後も気をつけていた。しかし、T氏の本の大半は、初めて目にするものであった。その後、T氏は、しばしば「蔵書を前の議論」の機会をつくってくれた。それは、私が、学生時代以来、久しく忘れていたものであった。私の原爆文献漁りが、T氏との出会いを契機に始まった。

河図洛書142

 

 

 

ローマ法王平和アピール碑

ローマ法王平和アピール碑 1983年2月25日 場所:広島市(広島平和記念公園・広島平和記念館)

資料

「ライオンズを探せ!@広島県・広島 村上薫元国際会長のテーマを伝えるピープル・アット・ピースの碑」(『LION 日本語版 2015年10月号』https://www.thelion-mag.jp/emag/201510/index_h5.html)

文献

 

 

広島平和都市記念碑(原爆慰霊碑)小史

広島平和都市記念碑(原爆慰霊碑)

建立年月日 場所 備考
19520806 平和公園(広島市中区中島町)

広島平和都市記念碑(原爆慰霊碑)

平和記念公園には、戦前、中島本町、天神町、材木町、元柳町が存在し、店舗や住宅約700軒が密集していた。この地域は、原爆爆心地からほぼ500メートル圏内に位置しており、原爆攻撃により壊滅した。戦後、広島市は、この場所を、公園(中島公園)とすることを計画した。広島市は、1949年4月20日、この公園を平和記念公園として建設することとし、設計図を全国に公募した。7月18日に募集を締め切ったが、応募作品は145点におよんだ。この中から選ばれたのは、丹下健三ら4人の共同作品であった。
この公園は、広島平和記念都市建設法の公布(1949年8月6日)にともない、その裏づけのもとに建設されることとなった。49年10月3日、東京で平和文化都市建設協議会の第1回会合が開催されたが、そこでは平和の理想を象徴する平和記念施設として、①記念公園(平和公園)、②記念館、③記念街路(平和緑道)が建設されることとなった。
①は、本川と元安川に抱かれた三角州の頂点に位置する中島公園(=平和広場、3万2、200坪)とその東側対岸の4、800坪(旧広島県産業奨励館敷地)と、その東北に接続する旧広島城跡を中心とする中央公園(=市民広場、22万坪)を総合した公園とされた(その後、中央公園部分は平和公園から外される)。③は、中島公園南端を基点として、東西に伸びる延長約4、000メートル、幅員100メートルの街路であった(後に「平和大通り(百メートル道路)」と呼ばれる)。また、②は、中島公園およびその東側対岸に設置するものとし、その内容としては、つぎのようなものが考えられていた。
(a)平和会館 2、500人収容の会議室及び事務室、原爆関係資料陳列室等。
(b)平和アーチ 張間120メートル、高60メートル、頂点に五つの鐘を吊す。
(c)慰霊堂 原爆犠牲者の遺骨並びに銘を納める。
(d)原爆遺跡 原爆により破壊された旧産業奨励館の建物を補強し保存する。
(大島六七男「復興の足どり」)
1951年2月21日、東京で第4回広島平和記念都市建設専門委員会が開催された。この席上、浜井広島市長は、「今夏で7回忌を迎える原爆都市の慰霊塔関係の設立を急ぎたい」との意向を述べた。しかし、建設省は、広島市の納骨堂を含む「慰霊塔」案は、墓地であり、公園法の建前から認められないと、難色を示した。そこで広島市は、遺骨の代わりに名簿を奉納することとし、8月6日までの式典に間に合うように碑を建立することを決定した(「中国新聞」51年2月22日)。しかし、碑は、51年の8月6日には間に合わず、52年3月末着工した。
碑の設計者は、丹下健三であった。コンクリート素打の工法で埴輪をデフォルメした設計で、当初案の巨大な「平和アーチ」は、正面から見た底辺4.7メートル、高さ3.67メートル、横から見た上辺8.29メートル、下辺5.26メートルのはにわ型に縮小・変更された。原爆死没者名簿を奉納するため、碑の中央に黒い御影石製の矩形の箱が配置された。そして、この箱の正面には、雑賀忠義が作成した碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(雑賀の英訳:Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil.)が、刻み込まれた。この碑は、建立当時から「原爆慰霊碑(原爆死没者慰霊碑)」と呼ばれたが、碑の正式名称は、「広島平和都市記念碑」である。工費は、300万円であった。
広島市は、1984年1月、碑改築の方針を発表した。その理由として、コンクリートの石灰分が表面に吹き出して中の鉄筋の腐食が進み、碑にひびが入ることが明らかになったこと、原爆死没者名簿が32冊入っているが、あと数冊の余裕しか残っていないことの二つがあげられた。改築工事は、同年7月23日から始められ、翌85年3月26日、新慰霊碑(旧慰霊碑と同型で材質はコンクリートからみかげ石に変更)の除幕式が行なわれた。