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編年資料:ヒロシマ-1946年

編年資料:ヒロシマ-1946年

月日 資料名
0402 1946年1月26日付終戦連絡中央事務局報告書第408号(1ノ3)ニ関スル提報方ノ件
(警保局公安発乙第20号)
0626 マンハッタン調査団「広島・長崎への原爆攻撃」[抄]
0801 広島市の原子爆弾被害状況調査依頼
0807 広島市の平和復興祭
0823 平和運動促進に関する建議
0823 広島市に世界平和塔建設の請願
0823 広島市並に長崎市の復興促進の請願
08 羅府新報(米ロスアンゼルスの邦字新聞)記事目録(原爆被害関係)1946.1-8
10 本土作戦記録・第二総軍[抄](第一復員局)
1118 被爆者の長期研究に関する大統領指令
マンハッタン・プロジェクトのプレス・リリーズ(PRESS RELEASE)一覧(1945-46)

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広島市の原子爆弾被害状況調査依頼 1946.8.1

広島市の原子爆弾被害状況調査依頼 1946.8.1

昭和21年8月1日

広島市長 木原七郎

******長殿

原子爆弾による被害状況調査に関すること

昨年8月6日原子爆弾の犠牲となりました本市は当時とりあへず其の被害状況の大略を調査致しましたが地域的被害並に爾後の推移状況等移動性の調査は更に統計的に調査し殊に被爆による人的被害の状況其の後の推移及び之が子孫に及ぼす影響如何等を医学的見地より調査研究して世界最初の原子爆弾記録を調整したいと思ひますので何卒御協力をお願い致します。就きましては誠にお迷惑ですが左記に依り貴(町村)該当者に付き同封調査票により御調査の上お取纏め御回送下さる様御願申上げます。

1.調査期日 昭和21年8月10日
2.調査の対象 貴(町村)現住者中昨年8月6日被爆当時広島市内に世帯を有し当時市内に現在せし者(傷害の有無に拘らず全員)
3.調査事項 別紙調査票の通り
4.御提出期限 昭和21年8月25日
5.御提出先  広島市国泰寺町39 広島市役所調査課

峠三吉

 峠三吉
とうげ・さんきち 19170219生19530310没 享年36

資料

追悼集
19540215 『風のように炎のように-峠三吉追悼集』(峠三吉追悼集出版委員会・われらの詩の会(編・刊)
出版委員会:平和問題連絡協議会、平和問題懇談会、原爆の子友の会、原爆被害者の会、ムシカ、新日本文学会、人民文学広島友の会、広島葦会、われらの詩の会。
論文・記事
19560701 今堀誠二「峠三吉 原爆戦争に抗して」(『芸備地方史研究』17・18号、1956.7.1)
651201 『現代の眼 12月号』(現代評論社)
峠三吉「ユートピア・ヒロシマー詩人の夢のなかで原爆の廃墟は美しく甦った」pp.168-172
660530 服部仁「原水爆とたたかう文学—峠三吉はその原点だ-その1」<『こぶし No.2』(日本民主主義文学同盟静岡支部、文芸サークルこぶしの会)>
19821025 大原三八雄「峠三吉」(中国新聞社『広島県大百科事典』1982.10.25)
20021222  「原爆詩人・峠三吉の遺品80点 日本共産党に寄贈」(『しんぶん赤旗』2002.12.22)
 20030112  増岡敏和「峠三吉資料のこと 劇的に発展させた詩人の人生を反映」(『しんぶん赤旗』)
 20030304  御庄博実「文化・学問 発禁覚悟で『原爆詩集』 戦争の足音響く今 峠三吉文学の新しさ ~没後50周年に寄せて~」(『しんぶん赤旗』)
 20030306  「つなぐ詩魂 峠三吉没後50年(上) 読み解く 平和の訴え色褪せず 批評・研究の機運高まる」(『中国新聞』岡部哲博・記)
 20030306  「つなぐ詩魂 峠三吉没後50年(下) 引き継ぐ ゆかりの資料未来へ 保存・公開に文学館を熱望」(『中国新聞』)
 20030323  増岡敏和「原爆詩人・峠三吉没後50年に いまに生きる絶唱「にんげんをかえせ」」(『しんぶん赤旗』日曜版)
20030417 「峠三吉戦禍の今こそ 広島で没後50年文学資料展 自筆原稿など初公開 朝鮮戦争での原爆資料懸念」(『中国新聞』岡部哲博・記)
 20030710  「終えんの地峠三吉展 東広島の画廊来月3日から 没後50年自筆原稿や詩誌」(『中国新聞』)
20130730 「記憶伝えた『原爆作品』④ 逮捕覚悟の自費出版 峠三吉「原爆詩集」」(『毎日新聞』)
 20140109  「執筆は峠三吉だった 広島の復興案1等入選論文 1946年に公募」
20161122 秋村宏「文化・学問 峠三吉と『原爆詩集』 人間の生き方現代に問う」(『しんぶん赤旗』)

関連本

書名 著者 発行所 発行年月日
原子雲の下より 峠三吉、山代巴編 青木書店
原爆詩集 峠三吉 青木書店
人間のよのあるかぎり くずれぬ平和を 平和のための広島県文化会議峠三吉詩碑建設委員会 広島県文化会議峠三吉詩碑建設委員会 1963/10/20
八月の詩人 原爆詩人・峠三吉の詩と生涯 増岡敏和 東邦出版社 1970/08/31
現代に反核を問う―峠三吉の生涯とその文学 峠集会実行委員会(ヒロシマ反核テーブル) 1982/7/25
原爆詩集 : われらの詩8号・反戦詩歌集2集 (復刻版 峠三吉没後30年記念事業委員会 峠三吉没後30年記念事業委員会 1983/01/31
峠三吉文学資料目録 広島市企画調整局文化課編 広島都市生活研究会 1988/08/01
風のように炎のように-峠三吉没後40年企画 岩崎健二(作画) 三吉記念事業委員会 1993/06/20
ヒロシマの青春 私の中の峠三吉 ひろしまミニコミセンター編 峠三吉記念事業委員会 1994/07/10
峠三吉の生き方からひきつぐもの 村中好穂 ひろしま青年連絡会(広島県労働者学習協議会内) 1994/6/1

 

 

原水爆禁止広島母の会

原水爆禁止広島母の会 1959年9月1日第1回準備会

第5回世界大会に参加した婦人たちの中には,大会の中で明らかにされた安保条約改定の危険性に触発され,日常的な学習や活動を通じて大会の決議やアピールを実践する恒常組織をつくろうという気運が生まれた。1959(昭和34)年9月1日に広島市平和記念館で開かれた国際一斉行動広島中央集会を機に第1回準備会を持ったが,この時は労組の婦人部代表も参加しており,組織の上でむずかしい論議が出てまとまらなかった。その後,数度の会合の結果,個々の婦人の自発的組織として原水爆禁止母の会が発足した。
母の会は,1960(昭和35)年6月2日,広島県母親連絡協議会など七つの婦人団体とともに,広島県・市当局および県・市議会に安保批准阻止・国会解散を要求した声明書を提出するとともに,広島市内でビラを配布した。また,同年8月8日には,広島地区働く婦人連絡協議会・広島子供を守る会などとともに広島市ではじめての母親大会を開催した。「生命を生みだす母親は生命を育て生命を守ることをのぞみます」との横断幕を掲げた会場(国鉄職員会館)には,150人が参加,(1)子どもと教育,(2)暮らしについて,(3)平和問題,(4)地域婦人と働く婦人の結びつき,の4分科会に分れて討論を行った(「中国新聞」1960年8月8日)。
1961(昭和36)年6月14日の平和行進の広島出発にあたっては,「しろがねもこがねも玉も何せんにこの子の上に原爆を落すな」との歌を幼児の絵と一緒に書いたプラカードをみどり色のリボンで首からつるして参加した。こうした街頭活動の一方で,1961(昭和36)年4月には機関誌の発行を申し合わせ,6月14日の平和行進の日に『ひろしまの河』を創刊した(前田とみ子「原水爆禁止広島母の会の活動について」)。
母の会の会員のほとんどは,原爆でても,原爆によって象徴される徹底した非人間性こそすべての悪の根源であリ,人間性を大切にすることが平和と愛の始めであるという点で一致していた。機聞紙『ひろしまの河』は,創刊号(発行日は6月15日となっている)で,原爆孤老(山口勇子)・原爆未亡人(正田篠枝)を取りあげたのをはじめ,次表のように,原爆被害をめぐる諸問題をさまざまな角度から提起した。

『ひろしまの河』は,持続的な原爆手記発表の場でもあった。上田篠枝は,第1号に「私の苦悩と寂寞」と題して,自らの被爆記を寄せるとともに,第4号には,夫の兄弟の消息を伝えた手記「被爆の系譜」を寄稿した。第5号の手記特集以後,毎号数人の被爆手記の掲載をつづけ,第15号(1967年8月1日)までに掲載手記数は37点にのぼった。

ひろしまの河 NO.1(1961年6月15日発行)

タイトル 著者
原爆孤老 山口勇子
歌集「小さき旗」から 南雅子
私の苦悩と寂寞 正田 篠枝
歌集「さんげ」から 正田篠枝
16年後の2人の娘からの手紙 升川貴志栄
未だ癒えず 油井善子
9回の手術を受けて 小玉満子
広島・現代の救済 栗原貞子
原爆慰霊碑めぐり
(1)石田学園の巻、(2)市立女学校の巻
小西信子
(原水協通信)より
=殖える核保有国今年こそ実験停止を
(原水協通信)より
=盛んなイギリスの平和大行進
詩・平和公園にて 八島藤子
老人に腰かけを
原爆17回忌
広島と死神
あとがき

 

各号発行年月日

発行年月日 発行年月日 発行年月日 発行年月日
19610615 19621201 11 19650101 16 19720720
19610801 19630501 12 19650801 17 19730725
19611001 19630806 13 19660301 18 19740725
19611201 19631220 14 19660801 19 19750725
19620801 10 19640425 15 19670801

 

『ひろしまの河』の主要掲載記事

号数 発行年月日 記事
1 19610615 原爆十七回忌に捧ぐ
2 19610801 座談会「被爆体験と今日の私たち」出席者=永瀬清子・林田みや子・西隅幸枝・日詰しのぶ・斉藤冨美江・森滝市郎・山口勇子・小西信子・升川貴志栄・藤井ゆり
座談会「原水爆時代の文学をめぐって」出席者=中川国雄・荏原肆失・小久保均・大原美耶雄・増原正・浜野千穂子・深川宗俊・小西信子・栗原貞子
3 19611001 米・ソ核実験抗議特集号
4 19611201 特集:被爆地の原水禁運動はどうあるべきか
5 19620801 被爆十七年の市民感情の方向-ABCCを中心に、 今なおつづく広島:手記八編
6 19621201 岩国基地:わたしたちのまわりは米軍基地にとりまかれている
7 19630501 原爆孤児あゆみグループのこと
8 19630806 八月特集号
9 19631220 特集:故峠三吉詩碑建設記念
10  19640425
11  19650101
12  19650801
13  19660301
14  19660801
15  19670801
16  19720720  復刊一号<原爆体験の今日的課題>
17  19730725  原爆体験特集号
18  19740725  援護法制定の悲願をこめて
19 19750725  思出の疎開児童紙芝居

 

全日本学生新聞連盟

全日本学生新聞連盟  1949年に結成

連盟通信(全日本学生新聞連盟発行)記事目録

No,56 発行年月日 見出し(平和、反原爆関連)
56 19500501 03 ストックホルム平和決議を支持
66 19500802 4-7 反戦平和特集
18 慶応高校で平和投票禁止
67 19500818 06 ”Sアピール特集” 広島原爆記念日にS署名聖火発表 各国でも大々的に記念
10

 

弾圧下行われた反戦平和大会=広島
68 19500902 14 ”こんなにうれしい、こんなかなしいことはありません” 涙で語れぬ赤松さん 原爆三部作完成記念
16 「原爆展」終る、9万の観客に深い感銘
<未入力>
206 19550830 1~63 原水爆禁止世界大会特集にあたって

所蔵機関:法政大学大原社会問題研究所

 

広島市原爆障害者治療対策協議会

広島市原爆障害者治療対策協議会 1953年1月13日発足

「原爆乙女」の治療問題が社会問題化と地元医療関係者の対応

1952年

1952年
05.20 広島で文芸春秋新社主催文芸講演会。講師:芹沢光治良、真杉静枝
0 6. 09 原爆乙女9人が上京。東京大学小石川分院で診断と治療
12. 08 原爆乙女12人が大阪市立大学・大阪大学の病院で受診
地元の動向
1952年
1.20-2.5 広島市社会課の全市個々面接調査。4038人の障害者の存在を把握。
07 広島の外科医を中心に診断と治療。
受診者総数 864人 (男 339人、 女 525人)
A治療により著しく効果ありと思われるもの 66人
B治療により比較的効果ありと思われるもの 374人
C再診を要するものまたは治療効果疑問と思われるもの 424人
12.27 広島県立医大、広島市に原爆症患者の無料入院を申し出る。
「治療だけならわざわざ大阪や東京などに沢山の費用をかけてゆかなくても大阪東京でできることはもちろん広島でもできる」(附属病院長談)
1953年
1.13 広島市原爆障害者治療対策協議会発足。会長:広島市長、副会長:県医師会長
規約第4条「本会は原爆障害の研究、治療の対策を審議し、並にその推進を図ることを目的とする」(5月14日、長崎市原対協発足)
1.18 広島市民病院で同病院と広島医科大学の医師が中心となって初の診察。75名受診。
 6. 広島市原対協、治療対象者を内科・眼科関係傷害者にまで拡大することを決定。
11. 広島市原対協、治療科目を増設(産婦人科・精神科)
【参考資料】広島市原爆障害者治療対策協議会『原爆障害者治療対策の概要』1955年
【参考資料】長崎原爆傷害者治療対策協議会結成準備打合会 1953.2.18(『長崎日日新聞』 1953.2.19)
1955年
07.08 員総会で財団法人にすることを決議。財団法人広島原爆障害対策協議会

文献

61080601 広島原爆医療史 構成:1.広島市防空救護対策の概要、2.原子爆弾投下と救急救護、3.地元における救護活動の実相、4.占領下原爆障害の医療と調査研究、5.占領解除後の原爆後障害対策、6.原爆医療法の施行と原対協の事業、他略.
69080612 被爆者とともに-続広島原爆医療史 [目次]1.原子爆弾投下、2.被爆による負傷者の救急救護、3.災害の調査研究、4.占領行政と被爆障害者、5.原対協の結成とその活動、6.原爆被爆による後障害とその医療機関、7.原爆裁判と被爆者援護の諸問題、8.厚生省の実態調査と被爆者特別措置法、ほか。
91033102 被爆者・市民とともに「原対協30年のあゆみ」

 

広島歴史教育者協議会

1962年10月?日設立

資料「広島歴史教育者協議会機関紙 歴史と教育」総目録

タイトル 発行年月日など
歴史と教育(機関紙) (No.1)196210~(No.14)19671001
広島歴教協月例会報 (No.1)196402
ひろしま歴教協通信 (No.1)19670501~(No.19)19701216
広島県歴教協広島支部ニュース(再刊) (No.1)19720910~(No.9)19730613
歴史と教育(機関紙) (No.15)19750203~(No.14)19671001
歴教協広島支部ニュース (No.4)19750224~

 

 

 

『広島県史』を読んで、おしゃべりをする会

1978年5月31日 初会合

開催年月日 開催場所 テーマ 参加者
19780531 県史編さん室 文明開化など 松田、川島、中村、井下、今中、内田、天野、児玉、安藤
19780629 県史編さん室 教育問題・移民問題 今中、川島、井下、松田、山口、天野、藤原
19780907 喫茶グリーン 婦人会、社会団体と軍国主義、米騒動ほか 松田、川島、中村、井下、天野
19790917 県史編さん室 276~355 不明

注:(文責・川島)として。会の記録がNO.3までと次回の案内1枚が残存。

文部省学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会

文部省学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会

1945年9月14日設置(文部大臣名の発令は10月24日)

委員長:林春雄(学術研究会議会長、東京帝国大学名誉教授)

    9科会(科会長はすべて東大教授)

科会名 科会長
1.物理学化学地学 西川正治
2.生物学 岡田要
3.機械金属学 真島正市
4.電力通信 瀬藤象二
5.土木・建築 田中豊
6.医学 都築正男
7.農学水産学 雨宮育作
8.林学 三浦伊八郎
9.獣医学畜産学 増井清

第1回報告会。

1945年11月30日、於東京帝国大学。

山崎匡輔科学教育局長挨拶「今回原子爆弾の災害調査につきまして、各般の権威の有る方々に御調査をお願い致すことを決定致しましたところが、学研の方でこの問題を喜んでお取上げ下さいました。いま少し小規模な御研究を願いたいと思いましたのでございますが、皆様の非常な御熱誠の結果非常に完璧な研究団ができまして、私ども非常に衷心より感謝致している次第であります。」

第2回報告会。

1946年2月28日、於東京帝国大学。

「昭和22年度末まで3カ年にわたって作業を継続したが、主要な調査研究は昭和20年度(昭和21年3月まで)に行われた。」

日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告書』

        (日本学術振興会、1953年5月5日)

理工学編 38編
生物学編 6編
医学編 130編

「医学科会は特別委員会中最大の科会であり、約30名の委員、150名の研究員、1,000名の助手から成り、日本の全ての主要な医学部、研究所及び病院を代表している。」

都築正男メモ

医学科会への最初の協力者

都築正男(科会長)、中泉正徳(東京大学)、菊池武彦(京都大学)、大野省三(九州大学)、井深健次(日本陸軍軍医総監)、福井信立、石黒茂夫、横倉誠次郎、金井泉(海軍軍医)、勝俣稔、古屋芳雄(厚生省公衆衛生官)、高折茂(鉄道医官)

1945年10月任命

田宮猛雄、都築正男、佐々貫之、中泉正徳、三宅仁(東京大学)、木村廉、船岡省吾、真下俊一、菊池武彦、森茂樹(京都大学)、高木耕三、木下良順、布施信義、福島寛四(大阪大学)神中正一、中島良貞、小野興作、沢田藤一郎(九州大学)、林道倫(岡山医大)、古屋野宏平(長崎医大)、井深健次、平井正民(陸軍軍医)、横倉誠次郎、金井泉(海軍軍医)、勝俣稔、古屋芳雄(厚生省公衆衛生官)、高折茂(鉄道医官)

主たる参加機関

東京帝国大学医学部、京都帝国大学医学部、大阪帝国大学医学部、九州帝国大学医学部、長崎医科大学、岡山医科大学、熊本医科大学、金沢医科大学、京都府立医科大学、山口医学専門学校、陸軍軍医学校、海軍軍医学校、広島陸軍病院、大野陸軍病院、呉海軍病院、岩国海軍病院、佐世保海軍病院、大村海軍病院、東京帝国大学伝染病研究所、厚生研究所。

1945年の調査対象

1.被害の統計学的調査、2.有害エネルギーの医学的調査

3.被災者の臨床的調査、4.人体に及ぼす残存エネルギーの影響調査

1946年度の調査の主要テーマ

1.死傷者の統計的調査、2.被災者の臨床的調査、3.病理解剖的調査

4.残存放射能の影響調査、5.人間の遺伝調査

合同調査団の設置と日本側の研究調査の成果の吸収

都築の公職追放

1946年8月15日、公職追放(理由:6年間海軍軍医であったこと)

1947年3月24日、半年間の公職追放規定の免除の覚書(ウィットニィ軍政局長)

1947年7月16日、3月24日の覚書の取り消しの覚書(ウィットニィ軍政局長)

    ***1957年まで日本側の原爆症研究は中断

1947年4月、第12回日本医学会総会演説

菊池武彦(京都帝国大学教授)・木本誠二(東京帝国大学助教授)「原子爆弾症の臨床」

参考文献

日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告書』(日本学術振興会、1953年5月5日) B5版 1642頁

広島市役所編『広島原爆戦災誌 第5巻 資料編』(1971年)

広島県編『広島県史 原爆資料編』(1972年)

仁科記念財団編『原子爆弾-広島・長崎の写真と記録』(光風社書店、1973年)

広島市編『広島新史 資料編1 都築資料編』(1981年)

核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会編『医師たちのヒロシマ-原爆災害調査の記録』(機関紙共同出版、1991年)

平和のための広島県文化会議

平和のための広島県文化会議  結成日:1962年8月5日

広島県文化会議・第二回定期総会議案書 1963年10月20日
一年間のあゆみとまとめ

1、一年間のあゆみ
一九六二年八月五日、私たちは広島県内在住の芸術創造にたずさわる人びとによって、「平和のための広島県文化会議」を結成しました。文化会議の性格を「平和のための」と意味づけたのは、文化そのものは本来平和そのものの成果であるにもかかわらず、なお「平和のための」といわざるをえなかったなど、世界の平和の状況が必ずしも平和でなかったからです。
そのかんの事情についての詳細は、結成総会アピールにあきらかにされているとおりですが、私たちはあらゆる人びとの平和への願いをもとにし、人類社会から戦争をなくすることを、芸術創造活動をとおしておし進めたいと考えました。
私たちは幹事会に提出された六項目の議案、すなわち、一、機関紙、誌の発行。二、秋の文化祭。三、峠三吉詩碑の建設。四、広島平和文化賞の設定。五、県内巡回講演などの計画。六、広島県戦後文化史の編さん。以上について、文学、美術、演劇の各専門部会で話あわれた内容を基にして、第三回幹事会は、八月六日へ向けて綜合文化祭を企画する。峠三吉詩碑の建設。広島県戦後文化史の編さん。の三つの主な創造のための作業を決議しました。この幹事会決定は、十一月十一日の臨時総会に提案され、年間の活動方針として決定されました。私たちはこの三つの作業を、たんなる行事というふうには考えませんでした。綜合文化祭、峠三吉詩碑、県戦後文化史の編さんの作業は、私たちの芸術創造の仕事と深くかかわりをもつと同時に、平和の問題と離れがたく結びついていると考えたのです。
一九六三年二月七日、私たちは文化会議会員によって「峠三吉詩碑建設委員会」を設置し、この日から具体的な活動に入りました。
この活動のこまかを点については、別誌「人間の世のあるかぎりくずれぬ平和を」において報告しておりますから略します
八月六日へ向けての綜合文化祭は、文化会議内に実行委員会を設置し、いろいろと話しあいの結果、県文化会議、広島職場演劇サークル協議会、広島勤労者演劇協議会の三団体共催にすることとし、後援および協賛団体として、原水爆禁止広島県協議会、広島県原爆被害者団体協議会、広島県労働組合会議、広島県青年連合会、日本民主青年同盟広島県委員会、日本社会主主義青年同盟広島地区本部、広島県教職員組合広島支部、広島県平和委員会、広島民主商工会、第三回西日本うたごえ実行委員会の協力を得ました。公演は八月三日昼夜二回行われ観客一千八一二人の入りで、一応実質的に成功させることができました。
そのほか、無名戦士の碑文の決定。原潜寄港反対のアピール、二回にわたるソ連作家を囲む懇談会をひらきました。
2、まとめ
その成果と問題点
これらの運動の中で、文学部会は峠三吉詩碑に刻む作品の選こうについて、美術部会は詩碑のデザイン、設計、あるいは第九回平和美術展について、音楽部会は「西日本のうだごえ」の成功のために、演劇部会はシナリオ「河」の作成から公演に向けて、その大きい流れの中にあって、それぞれのジャンルで創造活動が熱っぽく話しあわれ、実を結んでゆきました。
この実践の中で、私たちは八月三日「河」の合同公演、八月二日より七日間広島平和美術展、八月四日西日本のうたごえ、八月六日詩碑除幕式、第九回原水禁世界大会へ代表派遣という具体的な成果をあげると同時に、対外的には一定の基礎をつくることができました。これら諸運動に参加した人びとは二万人以上をがぞえ、九月末現在、詩碑建設と、「河」公演によせられたカンパ額は五三五、八二○円に達しました。このことは私たちの方針の正しさを実証するものといえましょう。
しかし、これら成果の反面、文化会議内部における日常活動の不足、事務局体制の弱体からくる財政の不備、内面的な活動の遅退は、会員個々の活動があったにもかがわらず、いちぢるしく後退するという現しょうを見たことは、特に重要な問題として残されております。
このことは文化会議の動脈ともいうぺき機関紙が速報をあわせて二回発行にとどまった事実にもうかがえます。会員はそれぞれの創造活動をとおして、多くの出版物を刊行し、あるいは執筆し、おうやけにしました。たとえぱ三原の「地方」、広島の「青史」「われらのうた」、土屋清のシナリオ「河」(テアトロ)、南雅子共著童話「つるのとぶ日」(東都書房)、加川次男歌集「標的」(白樺社)、原爆症患者の手記「かえらぬつる」再版、絵画グループ展の開催、職場演劇、職場美術展等を他にも多くあげるこどができます。
だがこのように見るべきものががず多くあつたにもかかわらず、内部において集約されず、したがって独自の評価もあたえられず放置されたのであります。もっとも大切にしなくてはならない会員個々の創造活動が会の中で充分生かされなかつたことの事実の解明は、今後の大きな課題として私たちの前にあります。書くことがあとまわしになったという問い、行動に参加し、ひとりびとりがどう高まり、どうひろげたか、芸術創造と政治的実践のむすびつきを考えるぺきだという問い、それら困難でしかも重要な課題を私たち一年のあゆみは提出しました。
これは私たちの実践の中からひきだされた具体的な課題であるだけに、一年のあゆみは必ずしも一方的に否定されるべきでなく、このあゆみの中から、新しい方針が創造されてゆくべきでありましょう。その萌芽が私たちのひとつの成果としてここに提出されているのであります。
[以下略]