ヤスの自分史7:子どもの疎開

ヤスの自分史7:子どもの疎開

参観日には必ず出席した。子供に夢をかけるより他ない自分だったから。おかげで美智子も勉強はまあまあやった。楽しみはそれ位しかなかったものだから、嬉しかった。

美智子が小学一年生の頃、空襲をさけて疎開先があるものは疎開する様にとの学校からの通達があった。

どうしても行く事の出来ない子供は集団疎開といって山地のお寺とか学校へ集団で疎開する。私は宇吹本家の納屋をかしてもらう事が出来た。子供二人を連れて、おばあさんと交替しながら生活した。

美智子は焼山の小学校へ通学させた。焼山の子等の中、シラミがいる子がいてそれがうつり困った。原始的な生活である。水は家の前を流れる小川の水を使う。洗い物、食べ物、洗濯物、何でも其の小川である。上流で何をしているか知れたものではないけれど(上流に家はなかった)他の家もそうしているのだから仕方がない。風呂は三、四日交替にわかす。木はいくらでもあるのに習慣なのだ。毎日入浴していた私達も便利が悪い等とは言っておられない。

家のまわりが草深いのでヘビがいくらでもいる。学校からの帰途何匹か数えきれない程いる。竹藪があるので、竹の子、フキ等食べきれない程ある。夏は蛍が飛び交う。蚊は多いから蚊帳は毎晩つる。

納屋の後ろの山へ、本家のおばさんと一緒に防空壕を掘った。当座の食物とか救急医薬品とか重要なものをその穴に入れておいたものだ。

 

ヤスの自分史6:闇値と宇品署への出頭

ヤスの自分史6:闇値と宇品署への出頭

次々統制になっていった。何もかも、物は不足しだした。商売の下駄も花緒も公定価格がきめられたけれど、其の値段では品物は無かった。いきおい闇値が生れる。経済警察というのがあって闇値に眼を光らす。

花緒を闇値で買って警察に呼び出された。宇品署に出頭すべしと。下駄屋は全部買っていたのだ。駅前に**、東本町に**、本町に**と家、みんなぞろぞろ恐る恐る出頭した。一人ずつ取り調べを受ける。私は一番後だった。巡査が私の顔をじろじろ見ながら、名前をきいた。宇吹です、答えると里は何処かとたずねる。矢野の**の娘ですと答える。矢野まで迷惑がかかるのかと心配していると「**さんの妹かね。**さん元気かね」。地獄で仏とはこの事かも知れぬ。**さんが好きだった巡査だった。呉地方には知った人はいないと思ったとの事。代書(始末書を書いてもらう為)で待っていると、良い具合に書いてやってくれといいにきてくれた。帰途早速矢野へ立ち寄り事情を話すと、挨拶に行って応召中両親と子供をかかえての商売の辛さをのべて罪にならぬ様頼んで置いた方がよかろうと、兄につきそわれて自宅を訪ねた。すると**(花緒を買った問屋)は今気が小さくなっているから、今たくさん品を買っておいてやれば良い、始末書だけで別に罪にはならないと教えられ、まずは一安心と胸を撫ぜた次第。

出征の人は誰でも見送りに出た。召集は珍しくなくなった。お宅もですか、――――、――――、みんなである。「**さん」応召がかかっても何処にいるか解らない為、結局兵役をのがれた。案外聖戦でないのを知っていて協力しなかったのかも知れぬ。酒さえ呑めば良い人だった。

金物は何でも供出する時代だった。仏壇の飾り、真鍮、下駄の裏金等も供出した。学校の校庭へ集められて放置されてあった様に思うが、ほんとうにそれが再生されたものかどうか。みんな国の為という名のもとに夢遊病者の様だった。ぜいたくは禁じられ、遊びも禁じられ、国民は軍国指導者の思うままに動くより仕方がなかった時代である。衣料も切符制になり何も買えなくなった。

金はあっても点数がない為何も買えない。古着を買う時代になった。何もない中からやりくりをして。妹きみちゃんは**へ嫁いだ。何を買ってもらってものか。私の時代は品はあるが金が無く、きみちゃんは金はあっても品がない破目だったのである。私も**の奥様の古着を買った。**のトシ子さんがゆずってもらっているのを見てから買ったのだ。山まゆのコート、めいせんの単衣、きんしやの浴衣。セルの着物、確か四枚である。仕入れ、学校、出歩く事は全部私だから忙しい。

ヤスの自分史5:夫・静男の出征

ヤスの自分史5:夫・静男の出征

結婚一年後美智子が生れた。二つ違いで哲夫が生れた。腹の空いた時はない。哲夫が生れた頃戦争が始まっていたけれども戦場が遠いので物が不足しはじめた程度で実感はない。其の中、兵隊は丙種だった静男さんも第二国民兵に編入された。始めは長男は召集はかからないそうだ等言っていたけれど戦局が急になって、そんな事は言っておられなくなったのだろう。召集令状がきた。国の為の御奉公が出来る事を名誉として育って教育を受けた者ばかりの世代である。涙する事は許されなかった。姉婿**の義兄もうちより早く召集されて一度戦場へ行った様に思う。其の時姉が取乱して里の矢野へ泣きついて行った時、父や母に叱られたそうである。お前だけでは無い、非常時でみんなだと。然し実の処私も心細かった。二人の子供を連れて両親とやっていけるかどうか。哲夫が二つだった。

第二国民兵の召集第二回目頃は、見送りも華やかだったものである。吉浦駅前で壮行会がある。隣組から回覧板があって見送りの人垣である。挨拶が苦労の種である。人前で挨拶等不得手の人だから、原稿を私が書いてそれを暗記するのが大変。自分が考えた言葉でないのだから途中でつまると後が続かない。聞いているのもはらはらさせられる。

二部隊、今の市民球場あたりだったと思う。部隊の動きは秘密である。何時、どこで行くか解らない。せめて広島に居る間だけでもと姑は広島通いに明け暮れる。「餅」「菓子」食べさせられる時を大切にとの親心である。二人の子供を連れて留守役も大変である。受付へ面会を申し入れると、呼び出してくれるのだそうだ。面会人が黒山にたまって肉親の出てくるのを待つ間の長い事。子供を連れて私も一度だけ面会に行った。

どれだけ広島にいたか、一度だけ会った。其の中、北支へ出征した。今度は慰問袋を送るのに忙しかった。手紙はすべて検関済の印が押されて届いた。手紙を書く事の嫌いな人で代筆である。辛い事等書けない手紙だから代筆でもよい。くればまだ命があると安心する程度。代筆をしてくれる人は広の方から出征された人だったのだけれど名を忘れた。子供と私の写真がほしいと葉書がきたので三人で写真を撮った。姑のは送っていた。その写真は大切に今アルバムに貼ってある。

 

ヤスの自分史4:結婚と出産

ヤスの自分史4:結婚と出産

二十四才の若後家、宇吹静男の後妻として嫁入とはどんな事かも知らぬ十八歳の私はみんなにすすめられ、女はどうしても他家へ嫁入するものだから先方がほしがっておられる、いそいでいるといって**家で、やっと仕事を覚えて少しは役に立つ様になった私にやめられたのでは困ると文句をつけられるのを無理矢理連れ帰られた次第。

**家では一流の看護婦に仕立てようと患者さんにも話しておられたそうで、鳶にアブラゲをさらわれた感じ。私が帰宅結婚後、軍医先生も応召があり野戦病院より絵葉書の便りをもらった事あり。今までに手がけた傷病兵○○名、先生は厳しい人だったけれども私は恩ある先生だった。

大体一年位通って試験を受ける段取だったのに、免状等どうでも良い、ゆきちゃんの死亡後の後妻に早くきて欲しいとの宇吹からの要望があって、家の方でも裸で其のままなら其の方が良かろうと話しを決めて、みんなで私をすすめあげ、ゆきちゃんが遺言して私を嫁にして呉れと頼んで死んだとか何とか死人に口なしで結婚等夢にも考えた事もないのに、無理矢理嫁がされたも同様、「物習いは家でさせます」、「着物はいくらでも着せます」等々良い条件ばかり並べ立て、結婚すれば直に子供が生まれる。

結婚、昔は嫁を貰うことを手間をもらうといって人手間に値していた。今の世代の様にレジャー時代ではない。下流階級の商売人、日曜日が休日に定まったのは大分過ぎての事で、おじいさんは朝暗い中から起きて働く人なので嫁の立場として、のんきに朝寝はしておれない。夜は夜なべ、洗濯物は夜するものと定っている。昼は店番に手をとられるので裏の仕事に手間はとれない。洗濯機が普及しはじめた頃でも決してそては買う事が許されない。 汚れていない処まで洗う機械は布地がいたむとの、おじいさんの言葉、何でも親は絶対で里へゆく事も、姑の許しがなければ行く事は出来ない。

若い母親は習い物どころの話しではない。美智子が二つ位の頃に哲夫が生まれる。ますます多忙になる。夜中通し乳幼児に乳をふふませ、安眠は出来ないままに夜は明ける。店は下と両方だから乳をのませては店に通う。

何の事は無い、勉強をして立派な看護婦になる夢は斯くもあえなく崩れ去ったのである。

 

ヤスの自分史3:看護婦見習時代

ヤスの自分史3:看護婦見習時代

この時代に学んだ事は大切な事ばかり。住み込んだ**家は軍医中尉か大尉で、とても厳しい家庭であった。其の為、看護婦が居つかず困っておられた矢先を、新聞広告を見て姉(兄嫁)と出掛けたのである。

妹を紹介するにあたりての仕様が**家には気に入らず、姉は第一印象は悪かった様である。それでも私は直に気に入られてみんなから可愛がられて良くしてもらっていた。セーラー服では重みがないというので、白衣を作ってもらった。これは月給後払いで三着注文をした。住み込んで五円位給料をもらったように覚える。朝食の支度―掃除、体裁の良い女中仕事である。

私は陰日向なくよく働いた。裏の仕事が済んでから薬局の方へ出向き、先輩の看護婦さんの見習をする。カルテの薬の調合を見て混合する仕事、これを薬包紙を拡げて同じ量ずつに分けて包む。今は皆カプセル入りで済んでいるが私の時代この仕事も多忙だった。薬を間違えたら大変である。慎重に計り慎重に混ぜたものである。注射器の消毒も大変な仕事である。注射液のアンプルを湯で温め、ヤスリで口を切り、注射器に移し、消毒した針をつけて準備を整える。静脈注射は必ず血液が注射器に残る。これを水洗いして煮沸消毒をする。

医薬代を点数でかいてあるので、点数計算をして薬代をもらう。これも間違いなくしなければならない。今迄に金の計算がピタッと合った例がないのだそうだ。私がやり出したら間違いがなくなった。前からいる人よりちゃんとするものだから、食事の支度をしていても先生が「**」と医局の方へ呼び出される。すると前からの人がねたむ。一日でも前に住み込んだ者の方が先輩だと威張る。気にしないで受け流す。

保険の金の請求書も書いて出す。仕事はいくらでもある。夜九時頃からが自分の時間である。読書をする。注射液はローマ字で名前が書いてあるが私には読めない。森島先生に手紙を書いた。独学方法を教えてくれと。

日ならずして先生よりローマ字の辞書が届いた。立派な日赤看護婦を目ざす私にとって読書は楽しかった。何も辛い事はなかった。働きさえすれば此処から学校へも行かせてもらえる。

**家令嬢は市女の学生である。気ままなお嬢様がうらやましかった。長男は**医大生、次男は*といってニ中、今の舟入高校生。奥様は日赤の婦長さんだったとか。二十年の違う**家の後妻にこられた人である。中流階級の家庭だったと思う。貧農の子女にとってこの家の生活は見新しい事ばかりである。

今はレジャー時代でみんなよく出掛けて遊ぶけれども、あの時代、家族ぐるみで食事に出歩いたり海水浴に出掛けたり、松茸狩りに出掛けたりはしなかった。

映画は洋画を見る。中島本町、平和公園のあたりに昭和シネマといって洋画専門の映画があった。女の子一人では外出はゆるされなかった。きびしい家庭だから、必ず私がお供をさせられた。

お盆と正月には必ず着物を一枚ずつ作ってもらった。縫う事も習った。奥様から楽しみながら習った。自分の着物は自分で縫うのである。着物の柄はすべて先生の見立てであったように思う。

**家勤務中に戒厳令が発令された時があり、広島にも暴徒がくるとの噂が流れた事があり、往診半ばニュースを聞きに帰宅しておられた事を記憶しているが、二二六事件だったのかな。時代は騒然となりつつある様に思えた。

二年位して看護婦学校へ通い始めた。今の八丁堀の裏通りあたりだったと思うが新天地の其の又裏に三川町という町があり其処に学校があった。働きながらの勉強である。昼食を早目に食べて出掛ける。横川から材木屋の並ぶ町並み、何という通りだったか、大田川と寺町との間の通り川筋を歩いて通学したものである。電車賃の節約の為である。相生橋まできたらほっとしたものである。

あの頃は川土手に見渡す限り桜並木があって相生橋から上流を望むと花か霞かまがう美しさがみられたものである。袴をはいての通学である。下駄は患者さんからよく頂いて事欠かなかった様だ。

大体一年位通って試験を受ける段取だったのに、免状等どうでも良い、ゆきちゃんの死亡後の後妻に早くきて欲しいとの宇吹からの要望があって、家の方でも裸で其のままなら其の方が良かろうと話しを決めて、みんなで私をすすめあげ、ゆきちゃんが遺言して私を嫁にして呉れと頼んで死んだとか何とか死人に口なしで結婚等夢にも考えた事もないのに、無理矢理嫁がされたも同様、「物習いは家でさせます」、「着物はいくらでも着せます」等々良い条件ばかり並べ立て、結婚すれば直に子供が生まれる。若い母親は習い物どころの話しではない。夜中通し乳幼児に乳をふふませ、安眠は出来ないままに夜は明ける。

美智子が二つ位の頃に哲夫が生まれる。ますます多忙になる。店は下と両方だから乳をのませては店に通う。

何の事は無い、勉強をして立派な看護婦になる夢は斯くもあえなく崩れ去ったのである。昔は親の云う事は絶対的で今なら私は自分の思う通り進路を変えなかったと思うが何せどうにもならない時代だったのだ。

斯く炎へし杳き日もあり山の端を今し離りゆく赤き満月

崩れ去った青春の追憶、大きい満月の炎ゆるにも似たものであった。

かえるなき夢果てもなし一瞬を翳りて照り増す月光に遭う

月蝕のあとの恍々たる月光を仰ぎみての感慨は斯くの如し。

 

ヤスの自分史2

ヤスの自分史2

私が五年生、妹きみちゃんが二年生の時、合同で学芸会をした写真が一枚残っている。「乞食と王子」。妹が「乞食」で私は陸軍大臣か何か大臣になって演じた。父は乞食の配役に文句を言っていた。妹は上手に演じた。ハワイ帰りの**さんが英語で歌をうたった。美しいベールをかぶりながら。今の学校の様に主役でもめる事はなく先生が適役を決められるので芸達者が主役で面白かった。

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**先生といって姉(千代)に求婚した先生がとてもほがらかで面白かった。姉はおっちょこちょいだと嫌った様だった。

六年生は昔予科組といって、受験する者のみを一組にして特別授業を受ける組が出来ていた。夜も勉強が学校であった。家庭事情の為、とても女学校等へ行けない状況だったのだけれども、勉強は好きで予科組へ入りたかった。

ゆきちゃんに森島先生に頼んでもらって予科組へ入れてもらうことが出来た。当時、山中、女子商は無試験で誰でも入れた。県女、市女等はクラスで上位にいないと入れなかった。ハワイ帰りの***という生徒がライバルだった。先方も私に敵意がある様に見えた。余り二人は遊ばなかった。***さんは裕福な家庭の様に思えていた。六年生の中から健康優良で学業成績の良い学生が一人選ばれて別府へ招待の催しが毎年あった。それを競ったのも***さんとだった。勉強のほうは五分五分だったが、運動神経の方が先方がまさっていた。走り競争、砲丸投げ、走り高跳び等々、二人だけのテストを校庭でさせられた。運動は全部***さんが勝った。私は残念だった。

男子生徒でよく勉強の出来た人は**(米屋の子)、**、**(先生の子)、**、等がいたけれど、以後をどう生きているか全然知らない。

もう一枚古い写真があった。修学旅行、大阪毎日新聞社の屋上にて撮ったもの。奈良方面への旅行楽しかった。着用のオーバーは千代ちゃんの借物である。

千代ちゃんが県女卒業後試験をうけて代用教員になって矢野小学校に勤めだした頃、兄嫁さんも矢野の小学校へ転勤がかなった(初めは緑井小学校)。二人とも**先生なので**豊乃先生、**千代先生と生徒は呼び分けていた。

私が四年生位ではなかったかと思う。級長は朝会の時、組の一番前に一歩離れて立ち整列の号令をかけていた。

当時の月給が豊乃先生五十五円、千代先生三十円、次郎先生五十五円だった様に記憶している。

兄はとても真面目で初任地は坂小学校だったと思うがとても父兄から頼りにされていた様だ。熱心に教育に取り組んだ。新聞にもその熱心さはみとめられて出た事もある。母は兄をとても大切にしていた。兄だけは食事の時も一品別のがついていた。母にしてみればお金をかせいでくれる金の卵だった。無理からぬ。兄は親思い、兄弟思いでとても優しかった。昔から兄を敬い今にしてにくんだ事は一度もない。何事も親身になってくれた優しい兄である。

私達が高等科二年の頃に、先生達が義務教育が九年になるのだと話しておられた。彼の時は六年までが義務教育で高等科はどちらでもよかったので六年で仕事に出る者もあった。

兄の子供が又次々と生まれ*郎、*子、*郎、*郎、多産系家庭の宿命である。教職を姉が続ける限り子供は母が育て役である。

書の休み時間を割いて乳を飲ませに行くのは母である。姉は乳の良く出る人ではった乳のこぼれで着物がくさる程だった。時代の相違で今頃は乳の出る人でも自分の容色が落ちるのを嫌ってミルクを飲ませる人もあるが、昔はそんな事はしなかった。はる乳を飲ます事が出来ず授業を続ける姉も大変だったと思うけれど、雨の日も風の日も時間を見計らっては幼児を連れて学校へ通う母も大変だった事としみじみと母の苦労を思うのである。

私達が学校から帰ってくるのを母は首を長くして待っていた。子守をさせられるのだ。子供を渡してそれからが夕食の支度にかかるのだ。大人数のご飯炊き、今のガスや電気ではない、野くどと言って外にくどがある。

ポンプになったのは大分後の事で井戸を使っていた。井戸水を風呂へ入れるのも大変な仕事だった。井戸水が又鉄分があるのか漉していた。井戸側の底へ木炭、少砂、朱呂の皮等、順序よく並べ井戸水を漉すのだ。

割木を山からとってきたり割るのは父の仕事である。その木をのこぎりで一定の長さに切りそろえ小さく割木をして軒下へ積み重ねる。一年間のを割るのである。暖は「あんか」。火の調節がなかなか良いようにゆかず、布団がよくこげて色が茶色になっていた。湯たんぽも使っていた。

学校の運動会も楽しかった。六年生が軍事演習をする。ハイノウを背負って煙幕をはって勇士だった。両軍から攻めあうのだ。雪が降れば雪合戦も学校でやる。

寒中には何時も校外を全校生徒が走る。交通が今の様になかったので走れたものだ。コースは忘れた。全校生徒長距離競争はいまの海田大正橋まで走って折り返す。四年生位だったと思うが、初めて一位になった。宮尾の橋の所で母が応援してくれた。

やはり其の頃メートル法が普及した。私達の教科書にも一尺と一貫匁とかを習っていた。その換算方法の計算等を勉強していた。其の時、メートル普及の標語の募集が校内であってみんな応募した。私が「メートルの威力は世界を征服し」。これが一位である。自慢のようだが実の話である。

学校行事として模擬戦もあった。今の海田大正橋の上流の河原であった。両軍に分かれて白と赤の球をつくり其の中に白い粉をいれて投げ合いをするのである。粉がついたら死ぬる。作戦の指揮者は誰だったのか覚えていない。

修身の時間には校長先生がよく授業をされた。この時間には歴代の天皇の名前をみんなで*読む。神武天皇から――――暗唱していたけれども忘れてしまった。本の始めにちゃんと書いてあった。終わりは今上天皇で終わる。この時、自分がどんな人になりたいかと校長先生に問われた。乃木大将の様な軍人になりたいと言った人もいた。私は「歴史に残る様な人物」になりたいと答えた。

 

ヤスの自分史1

ヤスの自分史1

おさなき日の断片的な追憶を記せとの暁の言葉なれど古き写真等もあまり見当たらず水呑み百姓の五女としての追憶あまりさだかではない。

母は決定的な正直者で、お人好しで誰にも好感を持たれていた様に思う。父は勝気で短気でおまけに勉強はきらいだった様子。父も小学校四年までは勉強したらしい。昔の小学校は検定試験が合格すれば上級へ上れたそうで弟の孫三郎(師範学校を出て豊橋高校の校長までなった人)に四年を追い越された時気分が悪くなって小学校をやめたと言う話を聞いたことがある。

母との結婚の時も自分は見合いに出席せず本家の兄亀三郎さんが代理で見合いしたそうで母は結婚の時まで父の顔を知らなかったそうである。昔の家長制度があらわれた一面であるとおもう。

父母にして見れば次々と二つ違い位で生まれてくる子供達の為に身を粉にして働かねばならぬ羽目になった筈である。今も昔も母と子の愛情には変る筈はないから。

今の自衛隊のあたりではなかったかと思う。夫婦川のほとりに大きな田が三町(まち)位、小作していたと思う。其の川にはしじみが多く水着のままに座りこんでしじみを採った記憶がある。メダカ、フナ、ドジョウ網(タモ)といっていた、それですくう遊びも楽しい。苗代の「ウンカ」の卵をとる仕事、にわとりが好んで食べるイナゴ採り、とりの餌にするカキガラの小さく砕けた粉(これが不足すると卵のやわらといって卵のからがないのが生れる)ひずり草(これもとりの餌)採り、子供に出来る仕事がいくらでもある。一人では出歩かない。そんな仕事を言いつかった者同志で出掛ける。

親の方としても仕事をしてくれれば助かる程度で無理強いはしないのだが、子供心に親がよう精出してくれて為になると喜んでくれるものだから自分も一生懸命に仕事として働いた様に思う。

母が子供を使うのが上手だった。もく(松葉)きんかんもくと言えば松葉ばかりこれが上等、どんぐりの葉等がたくさん交じったのが下等、上等は大人達が大風が吹いた後は早々出掛けて集めるので子供達には余りとれない。山中広く集め歩いて少々、これも友達、組をくんではみんなで山へ出掛ける。子供用の「メカゴ」がちゃんと作ってあった。

農業が生業の父、副業として母は鶏を飼っていた。一ますに50羽位ずつで、鶏の小屋が六つ位あったから300羽はいたのではないか?
餌の粉(フスマ)は共同で買い入れていた様に記憶する。魚の「あら」戸田(今の八作の前身)の採集も私の役目。石油かんに毎日一ぱいはある。子供の身としては、大分重かった。子供に相応の仕事の分担がある。今の子供は仕事分担が無くて良いのか悪いのか。

気性が父に似通っている為か私は父によく可愛がられた様に思う。散髪をする父にもついて行った。昔は床屋といっていたが、その床屋へも父とよく出掛けた。肩車をしてもらって行くのが嬉しいからだ。

「鳶の子」という畠、遠くでその山を越えれば奥海田が真下に見える所にある畠へついて行くのも私。てんびん棒の片方へ肥料、もう一方のかごへ乗せてもらうのだ。今にして思えば話とぎに子供が結構おれば楽しかったのではないか。
畠へ着けば作物の虫取りの仕事もあった。父は歌が上手だったのでかごに揺られながら歌を聞くのは楽しい思い出になっている。

畠には子供が好きそうなものは何でもあった。
みかん(これはたくさんあって売っていた)、
柿の木(これもシブを抜いて売っていた)、
はらんきょう(大きな木が三本あって、とてもよくなる)、
桑の木(これもよく実がなる)、登ってもぐのが楽しみ
紅梅(大きな良い梅がたくさんなっていた)、
いちご(げしにどのげしにも植えてあって食べきれない)、
だいだいもたくさんなってもみがらでかこっていた。
ぶどう(とりごやの所へ植えてあった)、
いちじく(売るまではないが食べるのに充分)、
びわの大きなのもよくなっていた。
この外、畠に「スイカ」「まつかうり」「南京豆」「大豆」「えんどう」。食べるものにはことかかなかった。

しかし金は何時もなかった。農作物のせり市へ作物を出して売る、卵を買う人が来て卵が金にかわるだけの収入では金がない筈である。

母は一生金には恵まれなかった。
それでも余り不平は言わない母だった。

昔私が子供の時分は、今の矢野橋を通り過ぎて川の下流あたりでよく泳いでいた。川中を泳ぎ抜けるのである。海の方は危ないので岸から岸へ泳ぎ渡るのである。安全を考えて、結構みんなそうしていた様に思う。川土手には、カヤの背より高いのが続いていたので、其のカヤの陰で水着を着かえたりぬいだ着物を友達同志まとめて置いてよく泳いだ。其の川土手に伝染病の隔離病舎(*病院)といっていたが、時々其の病室の窓があけられている時があった。入院の人があったのだろう。其の病院の近くにも畠があって、よくスイカがたくさん出来ていた。昔でも盗人がいてスイカを採るので、スイカが大分大きくなった頃よく兄と名前を書きにいった。墨を濃くすって筆で「矢野﨑出家」屋号をスイカに書きつける。こうしてあれば、消してまではとりにくいからではなかったのか。

父は野菜何でも上手だった。骨身をおしまずよく働いていたので肥料もよくかけていたのだろう。鶏糞もたくさんあるし、今、手のひら程の野菜作りに精出しても何一つとしてまともにとれない。野菜に手を焼く昨今である。

矢野橋から海田へかけて家が建ち並んでいるが、子供の頃は全部田んぼと「ブドウ畑」であった。其のブドウ棚へ直にブドウを買いに行くのも子供の仕事である。「ビク」をさげて友達を誘って出掛ける。二十銭買えばビクにいっぱいある。出荷用に箱詰をするのに粒がとれたばらばらのをたくさん只にしてもらう。田んぼには堀*の井戸の冷たい水が湧き出る所がある。其の場所はちゃんと知っていて、其処で只にしてもらった。ハス田もあって、ブドウを洗って、ハスの葉へ包んで食べ食べ歩く。

昔は楽しい事がたくさんあった。夕涼みもよくしたものだ。糊のかたくついた浴衣に着かえて、よく国道のほうまで、そぞろ歩きをしたものだ。星のキレイな夏の夜は、納屋のトタン屋根へハシゴをかけて屋根にゴザを敷き兄弟揃って屋根の上で夕涼みをする。たまにはブドウも持って登る。千代姉がよく星の話をしてくれた。三ツ星、北斗七星、等。今にして思えば、姉妹だけではない。従兄弟、本家の娘達とも仲がよかった。暇さえあれば一緒に遊んだ。とよちゃんとは、従姉妹似といって小さい時は姉妹と間違えられた。口が上手で大人顔負けのおしゃべり屋なとよちゃんだった。

本家(**)とはとても仲がよかった。分家の母、私共の母がとてもよくつとめていた様だ。何でも兄さん、姉さんとたてて、常に下手だった様に覚えている。風呂がわけば本家のおじさんを呼んで入ってもらう。何かよいものがあれば本家、とよくつとめていた。おばあさんは何時も本家で、私は仏花としてシラサキの枝ぶりの良いのを山へ行った帰りには折ってきておばあさんにあげた。これを喜んでくれていたから。

よく本家へ遊びに行った。丁度良い遊び友達がいた。二つ年上の「とよちゃん」、一つ年上の「一彦さん」。本家には大きな公孫樹《いちょう》が二本もあって何時もその黄葉が広い庭いっぱいに敷きつまっていて楽しい。それに椿の大きい木に花がいっぱい咲いて、その花の輪をつくるのも楽しい。落ちた椿のみずみずしさは今も同じ。ナツメもよく実っていた。カンナの大きい株があって咲きこぼれる。杳い杳い昔が昨日の様に甦る。

母は草花をよく植える人で家の庭にもよく花が咲いていた。「スモモの花」「梅」「びわ」「あじさい」「菊」「だりや」。とりわけ多いのはあの時花の名を知らず「赤花」と名づけて庭中咲かせていたサルビヤだった。いくらでも生えるので人にも惜しみなく苗を分けてあげていた。コスモスもたくさん咲いていた。けいとうの大きい花もあった。

父は実のなるものをたくさん植えていた。「ユスラウメ」「グイビ」等食べるのが楽しかった。
幼少時の記憶、小学一年位からは覚える様なので、一月十五日「おたんや」に私も母とお寺参りをしたので、孫孝君を連れて今年昭和五十年おたんやに詣でる。孝君の記憶にのこるかどうか楽しみである。

 

稲賀敬二

稲賀敬二

いなが・けいじ 19280320生20010411没 享年73歳 国文学者。平安文学。1947年広島高等学校文科甲類卒業。広島大学名誉教授。

資料年表:稲賀敬二<作業中

年月日
1928
0320 誕生
1983
0930 『青春回想録 廣高その永遠なるもの 廣島高等学校創立六十年記念』(廣島高等学校同窓会)
稲賀敬二(昭二十二文甲) 「昔《入学》・今《統合移転》」… 347
1993
1001 『落暉燃ゆ 廣島高等学校創立七十年記念誌』(廣島高等学校同窓会)
(昭和22年卒)
昭和十九~二十年日記抄……文甲 稲賀敬二…427
1997
0801 『ヒロシマと廣高 被爆五十二年・回顧と追悼』(廣島高等学校同窓有志の会)
「偶然」の重み 稲賀敬二(昭22文甲)62
2001
0411 没。享年73歳
 2003
0714 『けさや昔の夢のおもかげ 稲賀敬二回想集』(稲賀敬二著、稲賀久美子刊)
0714 『明日何方ぞ迷い猫 : 稲賀敬二遺文集』(稲賀敬二著、稲賀久美子刊)
2004
0331 広島大学文書館設立準備室『広島大学史紀要 第6号』pp.51-81
「記録 稲賀敬二名誉教授 聞取記録」
稲賀敬二名誉教授 聞取記録 – 広島大学 学術情報リポジトリ (hiroshima-u.ac.jp)

2023年7月(日録)

2023年7月(日録)

できごと
01 ヒロシマ遺文への投稿=ヒロシマ遺文への投稿=「稲賀敬二」、「ヤスの自分史1」。
02  ヒロシマ遺文への投稿=「ヤスの自分史2」、「ヤスの自分史3:看護婦見習時代」、「ヤスの自分史4:結婚と出産」。
03  ヒロシマ遺文への投稿=「ヤスの自分史5:夫・静男の出征」、「ヤスの自分史6:闇値と宇品署への出頭」、「ヤスの自分史7:子どもの疎開」、「ヤスの自分史8:配給と防空演習」、「ヤスの自分史9:空襲下の生活」、「ヤスの自分史10:原爆・終戦」。
04  ヒロシマ遺文への投稿=「山口仙二」、「115,500㎡の皮膚 被爆43年の自分史」、「灼かれてもなお 山口仙二聞書」
05  ヒロシマ遺文への投稿=「核時代 昨日・今日・明日 リレーインタビュー米の18人」「ヒロシマに、なぜ 海外よりのまなざし」、「朝永振一郎」。
06  ヒロシマ遺文への投稿=「長崎五郎を偲ぶ」、「田中好一」。
07  ヒロシマ遺文への投稿=「沼田鈴子」、「被爆アオギリと生きる 語り部・沼田鈴子の伝言」。
08  ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:小倉馨」、「末宗明登」、「東雲同窓会母校創立百年記念史」。
09  ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:山崎与三郎」、「資料年表:ロベルト・ユンク」、「沼田鈴子と白梅女子短大学教養科平賀ゼミ(近現代史)」
10  ヒロシマ遺文への投稿=ヒロシマ遺文への投稿=「田中隆荘」、「灰墟の光 甦えるヒロシマ」
11  ヒロシマ遺文への投稿=「竹前栄治」、「DDT革命」
12  ヒロシマ遺文への投稿=「坪田正夫」、「北西英子」、「宇吹メモの中のナガサキ(1985・86)」
13  ヒロシマ遺文への投稿=「林茂夫」、「資料年表:日野原重明」。
14  ヒロシマ遺文への投稿=「大木惇夫」。
15  ヒロシマ遺文への投稿=「岡本三夫」、「資料年表:志水清」
16  ヒロシマ遺文への投稿=「今中次麿 生涯と回想」
17 ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:増岡敏和」。
18  ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:山下義信」、「桧垣益人」。
19  ヒロシマ遺文への投稿=ヒロシマ遺文への投稿=「中国新聞報道に見るコロナ禍への原水禁大会の対応」
20  ヒロシマ遺文への投稿=「被爆75・76・78周年原水爆禁止世界大会
21  ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:小寺初世子
22  ヒロシマ遺文への投稿=「中国地方総監府誌-原爆被災記録」、「資料年表:大佐古一郎
23  ヒロシマ遺文への投稿=「阿川弘之」、「京都大学原子爆弾災害綜合研究調査班遭難 「記念碑建立・慰霊の集い」のあゆみ
24  ヒロシマ遺文への投稿=「李鍝
25  ヒロシマ遺文への投稿=「年表:韓国・朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑
26  ヒロシマ遺文への投稿=「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」、「資料年表:韓国人原爆犠牲者慰霊碑
27  ヒロシマ遺文への投稿=「田沼肇
28  ヒロシマ遺文への投稿=「忘れじのヒロシマわが悼みうた 栗原貞子詩集
29  ヒロシマ遺文への投稿=「増本量
30  ヒロシマ遺文への投稿=「岩波講座現代思想」、「2023年8月(日録)
31  ヒロシマ遺文への投稿=「清水幾太郎

資料年表:大原三八雄

資料年表:大原三八雄

 年月日  事項  備考
 1905
 0123  広島市生まれ
 1952
 1001  『日本印象記-ヒロシマの家』(フロイド・シュモー著 大原三八雄訳、広島ピース・センター刊)
 訳者「フロイド・シュモー博士の横顔」  1
1954
 1210  『原爆と広島 大学人会研究論集 第1集』(平和と学問を守る大学人の会編、広島県教職員組合事業部)
大原三八雄 「文芸作品に表れた原爆」序説 (65)
1955
 0806  『The Songs of Hiroshima-広島のうた』(大原三八雄 編・訳、YMCA刊)
 1956
0308 『われらのうた 第17号』
ハイネとシューマン 大原三八雄  15-17
以下、雑誌掲載分は未入力
1960
 0801  『黒い蝶-原爆前後の手記』(松岡鶴次著、季節社)
 序 浜井信三 5
跋 大原三八雄 221
 1964
 0215  『広島県詩集 第4集』(広島県詩集編集委員会編、広島県詩人協会刊)
 大原三八雄 シクラメンの花 16
 0801  『The Songs of Hiroshima 広島のうた』(大原三八雄訳、「広島のうた」編集委員会)
 第1部 「八月六日」
第2部 鎮魂歌
縛り首のヒロシマ 大原三八雄
第3部 原水爆禁止を
考える人 大原三八雄
第4部 未来に歌う
編集にあたって 英訳・編集 大原三八雄
 1967
 0610  『8月6日と文学』(広島女学院大学文芸部)
 4.大原三八雄 8
 0805  『原爆ドーム保存運動の中から 爆心地』(広島折鶴の会)
大原三八雄「八月六日の幻想 折鶴会へのメッセージ」 92
 1969
 0721  『さらば広島 = Goodbye to Hiroshima』(大原三八雄編、バーバラ・レイノルズ女史に感謝する会刊)
 0806  『濱井信三追想録』(濱井信三追想録編集委員会)
 座談会 その6  出席者 615
中村義男・相原和光・林寿彦・永田守男・村上安恵・高井正文・藤田一雄・大原三八雄・山本康夫・深川宗俊・田辺耕一郎・田淵実夫
1970
 0620  『日本原爆詩集』(大原三八雄・木下順二・堀田善衛編、太平出版社)
 1974
 0801  『世界原爆詩集』(大原三八雄編、角川書店)
1975
0101  『平和のあけぼの』(和泉たくみ作詞、大原三八雄訳、『平和のあけぼの』普及後援会本部刊)
 1124  『ヒロシマを持って帰りたい』(韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部編・刊)
いちばん欲しいこと 大原三八雄
 1977
 0725 『慟哭』(尾上和彦作曲、山田数子作詩、音楽之友社)
付属資料有り:「尾上和彦作品リサイタル」リーフレット(B4版三つ折1枚 広げると25×37cm)、プログラム(B5変形1枚 24×12cm)、英語版の歌詞「慟哭 Lamentation」(大原三八雄翻訳 B4版二つ折1枚 広げると26×37cm)
1978
1115 『副交叉路 詩集』(北畠隆著、ぷれるうど詩社)
ヒロシマ旅北畠隆 大原三八雄 119
1980
0523 『季刊・長崎の証言 7号』(鎌田定夫編、長崎の証言の会)
「ヒバクシャ」の負い目に生きる 大原三八雄 20
1982
0220 『ヒロシマ・ナガサキの証言’82冬 創刊号』(広島・長崎の証言の会)
評論:「原爆時」この一年 大原三八雄 80
0225 『平和への道 教皇ヨハネ・パウロⅡ世来広記念文集』(カトリック正義と平和広島協議会「平和を願う会」)
この人を見よ-ローマ法王を迎えて- 大原三八雄 20
0630 『原爆を読む 広島・長崎を語りつぐ全ブックリスト』(水田九八二郎、講談社)
62-『日本原爆詩集』大原三八雄・木下順二・堀田善衛編(昭和四十五年) 2
1983
0210 『ヒロシマ・ナガサキの証言’83冬 第5号』(広島・長崎の証言の会)
書評:「反核・反戦・平和」のヒロシマ  大原三八雄 116
1120 『広島県詩集 第14集』(広島県詩人協会)
大原三八雄 「地下街的思惟」 30
1985
0430 『河図洛書-渓水社十周年記念』(木村逸司編、溪水社)
「一九〇〇年」という年 大原三八雄 165
0806 『広島女子大国文  第2号』(広島女子大学国文学会)
特集 原爆と私 pp.84~113
大原三八雄・小井手桂子・松井淑・切明春子・岡本三和子・木下裕子・沢香苗・田辺怜子・平田雅子・佐藤真規子・和田知子・谷口さち・福田靖子・出原隆俊・西岡政治
1991
0720 『森瀧市郎先生の卒寿を記念して』(行安茂 編著刊)
4 同僚・後輩が語る森瀧市郎先生
(1)わがこころの聖域 大原三八雄 109
 1992
 0706  没。享年87歳。
1994
0331 『広島市公文書館所蔵資料目録 第18集』(広島市公文書館)
大原三八雄氏資料 6
0710 『ヒロシマの青春 私の中の峠三吉』(ひろしまミニコミセンター編、峠三吉記念事業委員会)
 峠三吉との不条理な出会い 大原三八雄 90
 2007
 0806  『原爆詩一八一人集 1945~2007年』(長津功三良、鈴木比佐雄、山本十四尾編、コールサック社)
 大原三八雄 茶わん 23

資料年表:木村功

木村功

きむら・いさお 19230622生19810704没 享年58歳 新劇俳優・映画俳優。広島市生まれ。広島二中卒。原爆でを失う。『功、手紙ありがとう』(木村梢、三笠書房、1985.6.22)。『広島県現代文学事典』(九内悠久水子・記)

資料年表:木村功<作業中

年月日
1923
0622 広島市千田町に生まれる。<「木村功年譜」(『功、手紙ありがとう』所収)>
1944
02 大竹海兵団に入団<「木村功年譜」>
1945
08 原爆により父死す<「木村功年譜」>
09 復員<「木村功年譜」>
1968
0501 『テアトロ 通巻第298号』(テアトロ刊)
宇佐見宜二「舞台に生きる27 木村功」…5
1981
0704 死亡。享年58歳。
1985
0622 『功、手紙ありがとう』(木村梢編著者、三笠書房)
2003
0730 『ヒロシマはどう記録されたか NHKと中国新聞の原爆報道』(NHK出版)
第15章 未来への伝言…333 俳優木村功の遺言/
2010
1220 『広島県現代文学事典』(岩崎文人編、勉誠出版)
「木村功」(九内悠水子・記)
2017
1230 『反戦映画からの声 あの時代に戻らないために』(矢野寛治著、弦書房)
Ⅲ 戦争の悲劇を演じた俳優たち……………145
戦争の無惨さを全身全霊で具現した(五十音順)
木村功 174
2020
0710 『俳優と戦争と活字と』(濵田研吾、筑摩書房)
門前に佇む母 鈴木瑞穂、渡辺美佐子、木村功 341

杉本春生

杉本春生

すぎもと・はるお 19260321生19900706没 享年 詩人、文芸評論家。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記)

資料年表:杉本春生<作業中

年月日 事項 備考
1926
0321
1956
0830 『詩学 1956.08 第11巻第9号』(詩学社)
詩都通信<岩国> 杉本春生 10
1965
0715 『広島詩集 1965 原爆投下20年号』(広島県詩人協会刊)
大原三八雄「編集後記」<本詩集のために各篇の解説を進んでお引きうけ下さった杉本春生氏に深甚の感謝>
 1966
0301 『ぷれるうど 26 1966.03』(ぷれるうど詩話会、1966/03/01)
岩国通信 杉本春生
1969
0101 『真樹  第40巻第1号 新年号』
「或る」という詩語の深さ 杉本春生 28
1001 『広島通信 No.17』(広島県詩人協会)
新刊紹介-杉本春生
1970
1201 『広島通信 No.24』(「広島通信」の会)
山田かん氏を囲んで-長崎と原爆詩の関わり- 杉本春生
 1973
0201 『広島通信 No.37』(「広島通信」の会)
平和という語 杉本春生
 1125  『広島不虚』(米田栄作著、湯川書房)
 解説 杉本春生 275
 1974
 0801  『世界原爆詩集』(大原三八雄編、角川書店)
 解説 杉本春生
1979
0401 『未来はここから始まる ヒロシマ詩集』(栗原貞子著、詩集刊行の会)
杉本春生 「未来への意味を問う」 76
1985
1101 『けんみん文化  1985年11月号第1巻第5号』(広島県民センター)
私の情報日記 杉本春生/金山桂子 7
1990
0706
 1996
0218 『夕空晴れて』(井野口慧子著、みもざ書房)
「杉本春生全集」刊行によせて 128
2010
1220 『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記)

古浦千穂子

古浦千穂子

こうら・ちほこ 1931**生20120703没 享年81歳 小説家、広島文学資料保全の会代表。『広島県現代文学事典』(執筆:梅原勝己)

資料年表:古浦千穂子<作業中

年月日
1931 広島県安芸郡海田町生まれ。
1945
0806 海田高等女学校2年生。翌日から1週間、町内の明顕で被災者を介護。
1972
 0720  『ひろしまの河 復刊1号 通巻16号』(原水爆禁止広島母の会)
一本の杭として 古浦千穂子 16
1973
0601 『広島通信 No.31』(「広島通信」の会)
ABCC特集
・・・・・・・・・・
ABCCとは… 古浦千穂子
 1975
 0806  『広島・長崎30年の証言(上)』(広島・長崎の証言の会、未来社)
古浦千穂子「 生きられなかった被爆者たち」  171
 1976
0801 『広島通信 No.53』(「広島通信」の会)
特集 平和と私との距離
個から始まる 古浦千穂子
 1977
 0625  『ピカッ子ちゃん』(正田篠枝 作・なかのひろたか絵、太平出版社)
  栗原貞子・古浦千穂子「正田篠枝さんについて 」 161
 1981
0101  『広島通信 No.63』(「広島通信」の会)
「弱」の論理で考えたい 古浦千穂子
 1982
 0530  『ヒロシマ・ナガサキの証言’82春 第2号』(広島・長崎の証言の会)
 小説・山を憶えている 古浦千穂子…117
 1983
0801  『日本の原爆文学 11 短編Ⅱ』(中山士朗ほか著、ほるぷ出版)
古浦千穂子「 風化の底」  49
 0801  『日本の原爆文学 13詩歌』(「核戦争の危機を訴える文学者の声明」署名者編、ほるぷ出版)
 古浦千穂子「死 人のリスト」 42
1030   『ヒロシマ・ナガサキの証言’83秋 第8号』(広島・長崎の証言の会)
 書評「原爆と人間」(石田忠)古浦千穂子 128
1984
0221  「核・貧困・抑圧 ’83アジア文学者ヒロシマ会議報告」(アジア文学者ヒロシマ会議実行委員会編、ほるぷ出版)
 感想-アジア文学者ヒロシマ会議に参加して 351
伊藤真理子/古浦千穂子/豊永恵三郎/藤本仁/松本寛/三浦精子/山田夏樹
  1985
 0820    『ヒロシマ・ナガサキの証言’85夏 第15号』(広島・長崎の証言の会)
 生き残るための証言に 古浦千穂子 34
  1991
  0815  『軍縮問題資料 No.129』(宇都宮軍縮研究室)
エッセイ 古浦千穂子…55
1993
  1201  『駆けぬけて 羽原好恵追悼集』(羽原好恵追悼集刊行委員会)
 無念の死 古浦千穂子 作家 45
 1995
1201 『いしゅたる No.16』(堀場清子、いしゅたる社)
被爆者だった私 古浦千穂子 8
 1996
  0806  『女がヒロシマを語る』(堀場清子ほか編、インパクト出版会)
 原爆歌人正田篠枝とわたし 古浦千穂子 64
2003
1020 『地平線 No.35』(広島KJ法研究会)
 コラム 人間の命への想像力 古浦千穂子 56
 2005
  0801  『原爆は文学にどう描かれてきたか』(黒古一夫、八朔社)
 風化・差別に抗して-亀沢深雪・古浦千穂子の仕事 104
 2006
  0701  『一度目はあやまちでも 栗原貞子を語る 広島に文学館を!市民の会ブックレット』(広島ミニコミセンター編、広島に文学館を!市民の会)
 栗原貞子の人と文学 古浦千穂子 37
2007
 0701  『夕凪の街から 大田洋子を語る 広島に文学館を!市民の会ブックレット Vol2』(池田正彦編、広島に文学館を!市民の会刊)
大田洋子をめぐって-原爆投下後に原爆作品を書いた人たち 古浦千穂子 63
2012
0703 没。享年81歳

広島・原爆災害の爪跡

『広島・原爆災害の爪跡』(中野清一編著、蒼林社出版、19820720)

内容

はじめに
現代と原爆(3)広島と私(6)本書の構成(21)
原爆の体験記録
はしがき 25
1 原子爆弾症の白痴のような傷害 35
--大田洋子『屍の街』(一九四八年)より
2  地上最悪の日 36
--蜂谷道彦『ヒロシマ日記』(一九五五年)より
昭和二十年八月六日(36)八月七日(40)
3 原爆投下直後のこと 51
--内田千寿子『一九四五年八月からの出発』(一九七七)より
4 あれから三〇年 62
--内田千寿子『一九四五年八月からの出発』(一九七七)より
原爆手帳交付(62)地域の連帯(65)
5 閃光は消えず 71
--松岡克昌『芦品部隊と警防団』(一九七五年)より
6 中沢家始末記抄 81
--中沢啓治・共同映画宣伝部『はだしのゲン』(一九七六年)より
戦争末期--飢えと恐怖の幼き日(81)原爆が投下された(83)地獄の中でみんな死んだ(85)無数の死に出会った(86)生きる闘かい(88)
7 八月六日のこと 90
--西川満子『原爆』(一九八一年)より
余録・ふたつのジレンマ-原水爆とマスコミ 94
--中野清一『あゆみの新聞』第十三号(一九六〇年)より
事実と誇張(97)記録の姿勢(100)われわれの要望(103)
原爆第一号の調査記録-初期資料(一九四五年から一九六〇年頃まで)の概要-
はしがき 107
1  原爆投下前後の諸状況 109
投下前後の気象(109)投下敵機の状況(109)
2  原爆第一号の威力と爆発状況 111
原子爆弾の威力(111)投下された原爆の爆発状況(113)
3  黒雨の驟雨 118
黒色の泥雨(118)原子核分裂による放射(120)
4 原爆第一号がもたらした諸災害 121
1 物的災害 121
概観(121)建物被害(122)特殊施設の被害(125)放射能による汚染状況(127)
2 人的被害(1)-一般市民の生死 129
概観(129)一般市民の死傷者数(131)死傷者数の推移(132)
3 人的被害(2)-一般市民の傷害 137
原子爆弾傷または原子爆弾症(137)後遺症と晩発障碍症(138)初発障碍の実態(140)慢性障害者(145)
4 人的被害(3)-特殊集団の場合 162
概観(162)生徒・学生・動員学徒の災害(163)国民義勇隊とくに地域国民義勇隊の災害(170)軍隊集団の災害(171)その他の特殊集団(173)
5 原爆がもたらした諸影響 173
概観(174)経済的影響(175)人口動態にみられる影響(185)産業別人口の推移(190)家族関係への影響(101)社会生活上の悪条件(204)
第3部 被爆者救済活動と原水禁運動-その初期(一九六〇年頃まで)の様相-
はしがき 209
1 被害対策の消長 211
1 応急措置 211
応急措置の背景(211)羅災対策協議会(212)食糧対策(213)遺骸収容(213)負傷者の救護(214)応急措置の限界(215)
2 長期対策の胎動 216
「原子爆弾の療養方針」の発表(216)長期対策の萌芽とその挫折(218)アメリカ連合委員会(219)原子爆弾災害調査特別委員会(日本)(220)調査中心への傾斜(221)A・B・C・C(223)治療活動への転換(223)
3 「原爆医療法」前後 224
組織的な治療活動の開始(224)市勢調査員組織による障害者の把握(225)広島市原爆障害者治療対策協議会(226)治療費国庫負担への要望台頭(227)「原爆医療法」の発布(228)原爆被害対策課の発足(229)被爆者健康手帳をめぐる諸状況(230)法外援護事業(234)加療上の問題点と「援護法」への前進要請(234)
4 救済活動と被害者団体の動き 237
内外の救援活動(238)「広島の家」と「憩いの家」(238)「友の家」(239)広島被爆者福祉センター(240)広島平和会館(240)被害者組織の動き(241)原爆の子友の会・原爆乙女の会・原爆被爆者の会(242)八・六友の会(243)広島子供を守る会(243)あゆみグループ(244)原爆被害者救援委員会と広島県原爆被害者団体連絡協議会(245)広島市原爆被害者連合会(245)広島県動員学徒犠牲者の会(246)「こけしの会」・「平和をきずく児童・生徒の会」(247)折鶴会(249)遺族会など(250)
2 ノーモーア・ヒロシマズ運動 251
発端(251)源流(252)世界平和デー(259)平和記念都市設への世界的関心(260)ワールド・ピース・センター(261)世界連邦運動(262)世界連邦アジア会議(263)
3 原水爆禁止世界大会前後 266
概観(266)地域青年の動き(268)民主団体の動き(269)少年少女の動き(270)学者・専門家たちの動き(277)広島婦人たちの動き(278)原水爆禁止世界大会開催への動き(282)第一回原水爆禁止世界大会(282)第二回原水爆禁止世界大会(287)八・六学生平和会議(288)第二回世界大会以後(288)第三回・第四回原水爆禁止世界大会(289)
あとがき 291

仲間とともに-中野清一教授広島大学御退官記念論集

『仲間とともに-中野清一教授広島大学御退官記念論集』(中野清一教授記念事業会、19651225)

まえがき
伊藤満
1部 新らたな灯をともさんとして
私の未来像-ヒロシマによせる期待- 3
(広島大学退官記念講演会速記録から・19650227)
日本社会学への反省 27
(林恵海教授還暦記念論文集・日本社会学の課題・1956年・有斐閣)
<補註>山手茂「社会学者としての中野清一先生」 32
2部 仲間とともに
原爆影響の社会学的調査 37
(原爆と広島・大学人会研究論集第1集・195411)
 ヒロシマの立場 58
(広島大学新聞(教養部)・19491025)
世紀のグループ 61
(広島子供を守る会青年部機関紙創刊号・19551025)
グループの表情 61
(あゆみ・第6号・19560601)
あゆみグループに期待する 63
(あゆみ・第7号・19570210)
生活ぐるみ平和運動 68
(あゆみ・第8号・19570920)
グループ通信 71
(あゆみ・第9号・19580115)
生活の基底に立った同志づくりを 73
(あゆみ・第11号・19580802)
グループ交流のために 75
(あゆみ・第12号・19590320)
ふたつのジレンマ-原水爆とマスコミ- 76
(あゆみ・第13号・19601120)
ヒロシマに甦った青春 94
(文芸春秋・196109)
話し合い諸条件 110
(広大教養・19610705)
沖原義明「<補註>中野清一先生とあゆみグループ」 113
3部 大地を這う
人間尊重の教育について 119
(宗教情報・第21号・195301・金光教宗教方法教育研究会刊)
グループ活動講座 170
/新しいグループ活動/グループ活動の諸段階/計画的なグループ活動/
(県婦協新聞・19550101~0501号)
家庭教育論179
/忘れられてる条件/勤労指導の諸条件/余暇指導の問題/「お小遣い」の問題/直接法と間接法/「家族会議」について/
(広島県PTA県連・195504~195602号)
PTA活動のいままでとこれから-問題点と解決のカギ- 202
(家庭教育・195712号・東方出版)
親と子の「すれ違い」 -どちらが正しい方向にいているのか- 210
(家庭教育・195605号・東方出版)
教育の無重力地帯 217
(家庭教育・195708号・東方出版)
コドモの危機 -社会的離乳期の門題- 226
(朝日新聞・19510312)
忘れられた人々 -社会保障の日本的盲点- 228
(朝日新聞・19510324)
バランス失調 -このごろの社会診断- 230
(朝日新聞・19510616)
ホボロの旅 -離婚世相に絡んで- 233
(中国新聞・19510828)
一つの系譜 -家、友人そして書物- 235
 (1965・9・1~29―広島東千田町と宇治南山とで)
付録
多喜二さんの執念 267
あとがき

中野清一

中野清一

なかの・せいいち 1905**生19930702没 享年88歳 広島大学名誉教授。元立命館大学教授。「あゆみグループ」を組織し、原爆孤児を支援。

資料年表:中野清一<作業中

年月日
1905
**** 誕生
1954
1210 『原爆と広島 大学人会研究論集 第1集』(平和と学問を守る大学人の会編、広島県教職員組合事業部)
 中野清一「原爆影響の社会学的調査」(29)
1958
0301 『新修広島市史第2巻 政治史編』
第5章第3節第2項
「平和記念都市建設事業」(執筆:中野清一)
1026 「広島子どもを守る会青年部」あゆみグループの4組、原爆慰霊碑前で青空結婚式。仲人は中野清一夫妻。 C
1227 『新修広島市史第4巻 文化風俗史編』
 第7章 市民生活の進展[執筆:中野清一]
第8章 新教育制度[執筆:中野清一]
第9章 原爆と新しい文化[執筆:中野清一]
 1959
0517 広島子どもを守る会青年部(代表:中野清一広島大教授)、「祖父母と孫の家庭」実態調査を決める。
0931 『新修広島市史第3巻 社会経済史編』
第8章 原爆後の社会経済問題[執筆:石井金一郎・中野清一]
1961
0601 『新修広島市史第1巻 総説編』
第4編 原爆と広島[執筆:中野清一]
0901 『文芸春秋 第39巻第9号』(文芸春秋新社)
ヒロシマに甦った青春 中野清一 236
0921 中野清一と谷本清広島流川教会牧師、アール・レイノルズのウラジオストクへのヨットでの核実験抗議航海を中止するよう説得。 C
1962
0822 広島平和科学研究所の発会式。中野清一広島大学政経学部長らが設立準備。
1215 『不死鳥 第4号』(広島大学職員レクレーションの会)
戸惑う季節 中野清一(政経学部)…6
1963
05 中野清一、世界各国・各層から平和問題についてのアンケートを取り、あゆみグループの被爆青少年の声とあわせて出版を計画。 C
1110 NHK教育テレビ、原爆孤児とともに歩みを続ける中野清一・千歳夫妻の人間像を描いた「原爆のこらとともに」を全国放送。
1965
1225 『仲間とともに-中野清一教授広島大学御退官記念論集』(中野清一教授記念事業会)
1968
1220 『学問の周辺』(末川博編、有信堂)
中野清一「社会学とともに」
nakano01
1982
0720 『広島・原爆災害の爪跡』(中野清一編著、蒼林社出版)
1993
0702 死亡。享年88歳
1997
0125 『山代巴と民話を生む女性たち』(神田三亀男編著、広島地域文化研究所)
第二の故郷広島と山代さん 中野清一 94
第一信 95
第二信 99
 2005
 0225  中野千歳(夫は中野清一)、死去。享年96歳
 2012
 0423 『私の師』  NPO法人「ANT-Hiroshima」代表 渡部朋子さん(聞き手:升田咲子)『中国新聞』   C
 2023
0403  【考 fromヒロシマ】原爆孤児を「守る会」70年 「ノーモア」願い支援の輪(小林加奈)  C

宇都宮徳馬

宇都宮徳馬

うつのみや・とくま 19060924生20000701没 享年93歳 政治家・実業家。1980年宇都宮軍縮研究室 (出版社)設立。月刊誌「軍縮問題資料」創刊。<宇都宮軍縮研究室の組織概要

宇吹所蔵資料より

 1981 0806
『中国新聞』全面広告
【意見広告 No More Hiroshima 被爆者の証言】「ヒロシマ・ナガサキの「情報」を世界に伝えよう」
宇都宮徳馬(宇都宮軍縮研究室)
 chugokusinbun19820806
 19850818
NTV系全国26局ネット「特別番組ニュージーランド’85・冬~南半球から平和を考える~」
 dc198508182
  1993 0815
 『軍縮問題資料 8月号 No.153』。
 特集 核時代に生きる   宇吹暁「原爆体験手記の系譜 」 42bk19930815-001

資料年表:加納竜一

資料年表:加納竜一<作成中

年月日
1904
**** 神戸市生まれ。
1968
0401 『世界 第269号』(岩波書店)
「原爆映画」の全巻を見る権利について 加納竜一 274
0601 『マスコミ市民 No.16』(日本マスコミ市民会議)
座談会 カメラを廻したのは私たちだ 加納竜一・山中真男・相原秀次・上田哲 6
広島を訪う 加納竜一 32
06 米返還原爆記録映画「広島・長崎における影響」制作スタッフ、原爆の学術記録写真集の出版を計画。 C
1969
0202 加納竜一、被爆の後広島を撮影した記録写真(スライド700枚)を広島で公開。 C
0301 『マスコミ市民 No.24』(日本マスコミ市民会議)
原爆白書としての映画(二) 加納竜一 56
1970
0511 原爆映画全面公開推進会議のメンバー(森滝市郎・相原和光・加納竜一)、坂田文部大臣に原爆記録映画「広島・長崎における原爆の影響」の全面公開を要請。
0710 『アサヒグラフ  第2428号 原爆の記録』(朝日新聞社)
文・記録の正確な位置づけを(加納竜一) 44
1972
0331 『広島県史 原爆資料編』(広島県編・刊)
「広島・長崎ロケ日記」〔加納竜一氏蔵〕pp.610-626
「資料解題 9原爆映画ロケ班の資料」pp.954-955
1988
0701 死亡。享年84歳。
1995
0709 「検証ヒロシマ1945~95<25>映画」(報道部・西本雅実)(『中国新聞』)
2000
0530 「広島・長崎における原子爆弾の影響」台本
資料詳細 – 広島平和記念資料館平和データベース (hpmm-db.jp)
原爆被災記録映画製作のプロデューサーを務めた故・加納竜一氏が持っていた資料。映画は、国策会社だった日本映画社の関係者や理化学研究所の仁科博士らの働きかけで「原子爆弾災害調査研究特別委員 会」の調査活動の一環として製作が認められ、9月下旬より撮影開始。映画製作にあ たっては、当初から被爆の実相を客観的に科学的に記録しようとする姿勢が貫かれた。途中、長崎でGHQに 撮影中止を命ぜられるが、米国側と交渉の結果、空襲の効果を調べる目的で来日し、調査活動を行っていた米国戦略爆撃調査団の委嘱を受ける 形で映画製作の継続が可能となり、その監督下で製作が行われた。1946年英語版 「広島・長崎における原子爆弾の影響」が完成し、米国に納品。さらに全ての資料の提出を命じられ、写真・フィルムも全て米 国に持ち帰られるが、一部関係者が何としても映画を残したいという思いから秘かにフィルムの一部分の複製をつくり、保存していた。1952年のサンフランシスコ平和条約発効後、秘かに保存されていたフィルムは、「朝日ニュー ス」363号で一般に公開され、ニュース映像や「原爆の長崎」、「生きていてよかっ た」などの映画に活用され始める。一 方、米国から作品が返還されたのは、1967年 のことだった。

資料年表:宇都宮徳馬

資料年表:宇都宮徳馬<作業中

年月日
1906
0924
1980
05 宇都宮軍縮研究室創設。
1001 『軍縮問題資料 No.1』(宇都宮軍縮研究室)創刊。
1981
0325 『軍縮問題資料 No.6』。
「軍縮」に具体的行動を 河野洋平 2頁
付、一、ローマ法王平和アピール 11頁
二、故アイゼンハワア米大統領の離任演説要旨 18頁
0513 国際軍縮促進議員連盟設立総会。東京・第2議員会館。宇都宮・大石武一両参議院議員らの呼びかけ。全党の104人が出席。 C
0525 『軍縮問題資料 5月号 No.8』。
一、差し迫った核戦争の危険/ロバート・C・オルドリッジ 3
二、軍縮と日本の使命/前田寿 29
三、軍縮のゲーム 31
四、国連軍縮特別総会の最終文書全文 35
五、包括的軍縮計画への提言 57
六、全面完全軍縮 60
七、国際軍縮促進議員連盟創設 61
0725 『軍縮問題資料 7・8月号 No.10』。
特集号 ヒロシマに想う
海洋の軍事力支配 ストックホルム国際平和問題研究所
オ-エン・ウイルクス 2
核兵器こそ本質的に悪
―アインシュタイン― 篠原正瑛 12
選択を考える 坂本義和 13
強いアメリカ、弱いアメリカ 米谷健一郎 30
第四回 科学者京都会議聲明 34
核兵器絶滅計画 ラルフ・K・坂本 36
核兵器と日本人 宇都宮徳馬 42
ヒロシマを考える 高橋昭博 46
先進国首脳者への要望 三宅善二郎 51
0925 『軍縮問題資料 7・8月号 No.10』。
軍縮のための国際平和秩序創出の急務 関寛治 2
ストックホルム国際平和研究所一九八一年版年鑑要旨 9
ノエル・ベーカー卿の核廃絶アピール 10
ラッセル・アインシュタイン宣言 15
軍縮 国連広報資料 19
戦争と名分 宇都宮徳馬 24
日本よ、大志を抱け 林卓男 26
アメリカの基地-破滅への踏石 ロバート・C・オルドリッジ 33
1025 『軍縮問題資料 11月号 No.13』。
軍縮こそ世界平和の基礎 2
-園田外相国連演説全文-
破滅の牙をとぐ核兵器 高良とみ 9
金日成主席との会談抄録 宇都宮徳馬 17
一枚岩ではないアメリカ(上) 國弘正雄 20
核時代の軍縮 ワルトハイム国連事務総長 27
平和・軍縮に関する世界へのアピ-ル アルヴァ・ミュルダン 30
緊張暖和へのソ連の呼びかけ 三宅善二郎 31
日本にある国連機関 国連広報資料 37
夕雲の「相抜け」剣法の精神で- 高山岩男 44
1125 『軍縮問題資料 12月号 No.14』。
一枚岩ではないアメリカ(下) 國弘正雄 2
アメリカとソ連 ジョ-ジ・ケナン 10
―人類を自滅の道連れに-
ゆさぶられる核抑止戦略 阪中友久 16
「非核三原則をめぐるシンポジウム」の報告 原爆問題 26
広島綜合研究室
「軍縮への提言」応募論文について 38
1225 『軍縮問題資料 1月号 No.15』。
 1981
0806 『中国新聞』全面広告
【意見広告 No More Hiroshima 被爆者の証言】「ヒロシマ・ナガサキの「情報」を世界に伝えよう」
宇都宮徳馬(宇都宮軍縮研究室)
1985
0818 NTV系全国26局ネット「特別番組ニュージーランド’85・冬~南半球から平和を考える~」
 1993
 0815  『軍縮問題資料 8月号 No.153』。
 特集 核時代に生きる   宇吹暁「原爆体験手記の系譜 」 42
2000
0701 没。享年93歳。
 0712  『朝日新聞』「惜別 政治家・宇都宮徳馬さん 生ある限り反核の叫び」(編集委員・小林暉昌)
2001
 1026  「宇都宮徳馬先生を偲ぶ会」鯨岡兵輔(発起人代表)会場:キャピトル東急ホテル。
宇吹宛案内状
 dc20011026

 

三一書房発行図書

三一書房発行図書

年月日 書名 著者 備考
1953/6/25 原爆に生きて 原爆被害者の手記 原爆手記編纂委員会
1955/10/30 ソヴェトの原子力 陸井三郎, 野中昌夫 編訳
1957/12/25 ソビエトの人工衛星・宇宙旅行 岸田純之助、金光不二夫、袋一平 編訳
1959/3/21 音高く流れぬ第四部 くだかれた春 村上信彦著
1959/7/21 原水爆時代 現代史の証言(上) 今堀誠二
1960/1/25 植民地主義と民族革命 戦後世界の政治と経済13 坂本徳松、中川信夫、西野照太郎
1960/5/6 国際情勢の見方 岡倉古志郎著
1960/8/6 原水爆時代 現代史の証言(下) 今堀誠二
1960/8/22 放射能 原子戦争の脅威 日本原水協科学委員会編
1961/8/5 世界平和運動史 木戸蓊、村上公敏、柳沢英二郎著
1962/1/20 現代の精神的労働 芝田進午著
1962/4/20 破滅の決定 世界を変えた“マンハッタン”計画 マイケル・アムライン著 野間寛二郎訳
1964/5/8 18歳の証言 若い世代と“戦争” 竹内達編
1965/2/16 戦争と人間 運命の序曲 第一部 五味川純平著
1965/10/15 遠い日のかげ 草部和子著
1966/11/24 青春の発見 長田弘著
1967/8/28 あしたの墓碑銘 戦争と人間 青春の記録1 安田武編
1967/11/1 第七艦隊 アメリカ極東戦略のシンボル 吉原公一郎著
1970/7/31 何を私たちは始めているのか 小田実著
1970/10/31 現代日本建築家全集10 丹下健三 栗田勇監修
1970/11/30 核戦争が起る MIRV時代の核戦略体制 坂井定雄著
19730331 過激派壊滅作戦 滝川洋 U
1973/6/30 徴兵準備はここまできている 林茂夫著
1975/11/30 妹尾義郎と「新興仏教青年同盟」 松根鷹編著
1976/1/31 天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦 金一勉著
1976/3/15 ヒロシマというとき 栗原貞子著
1978/7/15 夕凪の街と人と 大田洋子著
1978/7/15 核・天皇・被爆者 栗原貞子著
1979/3/10 在日朝鮮人運動史 8・15解放前 朴慶植 著
1979/8/31 核戦略体制と自衛隊 剣持一巳著
1981/12/31 闇に消される原発被曝者 樋口健二
1982/3/31 ある伝統美への反逆 焼きものの伝説訣別の美学 北一明著
1982/7/15 原爆文献を読む 長岡弘芳著
1982/7/31 大田洋子集 第一巻 屍の街 大田洋子著
1982/8/15 反核と戦争責任 「被害者」日本と「加害者」日本 岩松繁俊著
1982/8/15 核時代に生きる-ヒロシマ・死の中の生 栗原貞子著
1982/8/31 大田洋子集 第二巻 人間襤褸 大田洋子著
1982/9/30 大田洋子集 第三巻 夕凪の街と人と 大田洋子著
1982/10/31 大田洋子集 第四巻 流離の岸 大田洋子著
1982/12/15 在日朝鮮人と教育 内山一雄著
1982/12/31 韓国の運命と原点 米軍政・李承晩・朝鮮戦争 金一勉著
1983/4/30 戦争と文学者 現代文学の根底を問う 西田勝編
1983/7/15 原爆とことば 原民喜から林京子まで 黒古一夫著
1983/7/31 私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行 吉田清治著
1983/8/15 毒ガス島-樋口健二写真集 樋口健二 撮影
1983/9/15 民衆ジャーナリズムの歴史 自由民権から占領下沖縄まで 門奈直樹著
1984/4/15 戦争とジャーナリズム 茶本繁正著
1984/8/31 日本人の攻撃性 中野久夫、河田宏著
1985/7/15 水爆実験との遭遇 ビキニ事件と第五福竜丸 川井龍介、斗ヶ沢秀俊著
1986/7/31 沖縄戦アメリカ軍戦時記録 第10軍G2秘レポートより 上原正稔編訳
1987/12/15 原発被曝列島 樋口健二著
1988/3/15 ヨーロッパの核と平和 ジャン・トゥーラ著 戸口民也訳
1988/6/15 世界飢餓の構造 フランセス・ムア・ラッペ、ジョセフ・コリンズ著 鶴見宗之介訳
1988/10/15 戦争と聖書 津山千恵著
1989/1/15 戦争とジャーナリズム 続 茶本繁正著
1990/9/30 全国図書館案内 下 改訂新版 書誌研究懇話会
1991/11/15 戦後日本防衛問題資料集 第一巻 大獄秀夫編
1992/3/15 戦後日本防衛問題資料集 第二巻 大獄秀夫編
1992/6/30 問われるヒロシマ 栗原貞子著
1992/7/31 従軍慰安婦と戦後補償 日本の戦後責任 高木健著
1992/11/15 全国図書館案内 補遺 書誌研究懇話会
1992/12/15 在日朝鮮人・強制連行・民族問題 朴慶植著
1993/3/15 全国図書館案内 上 改訂新版 書誌研究懇話会
1993/8/31 プルトニウム=不良債権 鈴木真奈美著
1993/9/15 七三一部隊の犯罪 中国人民は告発する 韓暁著 山辺悠喜子訳
1993/9/30 戦後日本防衛問題資料集 第三巻 大獄秀夫編
1994/10/31 昭和教育史 天皇制と教育の史的展開 上 戦前・戦時下篇 久保義三著
1994/12/31 昭和教育史 天皇制と教育の史的展開 下 戦後篇 久保義三著
1995/7/10 原爆児童文学を読む 水田九八二郎著
1995/11/30 ハワイ日系二世の太平洋戦争 菊池由紀著
1998/5/15 国立国会図書館入門 国立国会図書館監修、NDL入門編集委員会編
1998/7/31 戦争責任と核廃絶 岩松繁俊 著
2001/9/25 実践的唯物論への道 人類生存の哲学を求めて 芝田進午著
2008/7/23 トルコ狂乱 オスマン帝国崩壊とアタテュルクの戦争 トゥルグット・オザクマン著 鈴木麻矢訳
2010/7/25 屍の街 大田洋子著
2014/4/30 被ばく者差別をこえて生きる 韓国原爆被害者2世金亨律(キム・ヒョンニュル)とともに 青柳純一編訳・著
2016/1/29 히로시마라고 말할 때 ヒロシマというとき(韓国語) 구리하라 사다코 지음, 이영화 옮김 ; 栗原貞子著
2019/5/20 検証「戦後民主主義」 わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか 田中利幸著